「月陰」
天窓から明かりがこぼれ落ちていた。
部屋にはロフトが付いており、天井にある斜めの窓は月明かりをよく誘い込む。
彼が端末のキィを叩く、微かな音だけが響いている。
月光というよりは、その明かりが作り出す陰りのほうが、より似合う人だ。
ベッドの中から彼女が横顔を見つめていても、こちらを振り向こうとはしない。あき
らめを知らない視線に、彼が呆れるのを待っていたのだが。……鋭いまなざしが、仕方
なくデスクを離れる瞬間を。
だがこの程度の誘いに動じてくれる男ではなかった、そういえば。
(長期戦だわ。ヒイロの相手は、いつも)
長期戦。あるいは一瞬で息の根を止められるかだ。
リリーナは、暖かいブランケットに素肌を包まれながら、月明かりを映す瞳をようやく
閉じた。二人きりの室内は、とても気持ちが良かった。
戦いが長引くだけなら、彼女は一向にかまわないのだ。
ちょうど、自分の命を彼に左右されても、全くかまわないように。
ヒイロに一瞬で殺されようと、永遠に守られようと。――どちらもその瞬間、彼女自身が
望んでやまないことには違いない。
「……バスルームを借ります」
ささやきで告げて、ブランケットの上にあるシーツを、白い胸にたぐり寄せた。
一時撤退だ。
ヒイロは反応しない。承知した、ということだろう。
月陰とパネルの電子的なライトに浮き沈む、元ガンダムパイロットの端正な横顔は、
彫刻のような唇でどこか意図的な沈黙を保ったままだった。
リリーナは吐息を飲み込んだ。
静かにベッドから降りると、素足のままバスルームへ向かい、扉を後ろ手に閉じた。
……実は彼女も悪いのだ。
甘えるタイミングを、今夜は何度も逃がしてしまっていた。
「……素直にかまってもらえば良かったでしょう、リリーナ・ドーリアン」
熱いシャワーのコックをひねり、身体を抱きしめながら、ようやく本音をつぶやいた。
湯気にかすむ瞳は寂しげではなく。
明らかに、美しく怒っていた。
ヒイロ・ユイは、椅子をきしませた。
彼女がバスルームに消えた時間が何時何分だったか、正確に記憶している。
40分が経過したが、壁際のベッドはカラのままだ。
眉をひそめ、端末の電源を切った。部屋の中が、薄青い月明かりだけになる。
――リリーナの視線には、無論ずっと気づいていた。本人は決して信じないだろうが、
逆らう義務がある男にとっては、ときに残酷なほど効果的な誘惑だ。
ヒイロは、溜め息を殺した。
感情の制御をしくじることはない。いま終えたのは今夜中に片づけておくべき仕事だった。
多忙すぎる外務次官を、明日一日はここへとどめておくために。……自分がその目的を
自然に遂行している事が、彼をひそかに戸惑わせていた。
沈黙を貫いたのは、そのためだ。
(……リリーナ)
遠くから彼女を守る。他には何も望まない――。
そんな型どおりの戒めは、相手の眩しい意志の前に、とうに通用しなくなって久しい。
「………」
ヒイロは月陰を映す瞳を、手の平へと伏せた。
二人とも、すでに子供ではない。かつて自ら戒めを破り、彼女を腕に抱いた。
それから幾晩も。
そして、今夜も。
認めないわけにはいかない。……その充足は、彼にどうしても必要なものだ。
ダークブラウンの髪を傾け、立ち上がろうとしかけたとき、バスルームの扉が開いた。
淡い闇の中に、ヒイロが座っていた。
今にも立ち上がりそうな姿勢でこちらを向いていたので、リリーナは驚いた。相手も
無言で驚いている。背後のパネルにはライトが灯っていない。
もう終わったのかしら……?
そう疑問に思ったが、口には出さなかった。かわりに濡れた裸にバスタオルを巻きつ
けただけの格好で、彼の膝元へ歩いていった。
そんな真似はしたことがない。見苦しいという危惧もあるからだ。
ヒイロも普段なら、表情を変えず目をそらすような場面だった。
だが今夜は二人とも違っていた。
彼女が膝に寄りかかると、ちょうど月と地球が引かれ合うように、唇を重ね合わせた。
顔を傾けて、どちらからともなく熱い舌を割り込ませる。
思わず喉の奥で、快楽のかすかな呻きが響いた。
リリーナは腰を抱かれて逃げられない。そのヒイロの腕に、湿ったバスタオルが落ちた。
彼女の身体の前面が、彼の目の前にさらされる。
やわらかな両胸と、その下の曲線が。
やがてわずかに唇が離れ、至近から相手の瞳を見つめ合った。
「……あなたも一緒に入れば良かったのに」
リリーナが、生真面目な声でささやいた。
月明かりを映して、その瞳はいつもより更に深く、真っ直ぐで蒼い。
ヒイロは黙ったまま、彼女のまぶたの上に唇を落とした。
吐息のように静かに。……続いてこめかみの生え際にも。
リリーナはくすぐったくて笑った。そうして不意に挑むように、からかうように彼を見た。
「わたくし、とても怒っていたのよ、ヒイロ?」
「……知っている」
彼が、ようやく声を発した。リリーナは首を振った。
「いいえ……わたくし自身に怒っていたのです。素直に、あなたの邪魔をすれば良かったわ」
ヒイロは一瞬沈黙した後、群青の眼を伏せた。
わからないほど微かに、彼が笑ったことに、リリーナは気づいていた。
彼はつぶやいた。
「明日の仕事は終わらせておくべきだった。……カトルたちに迷惑がかかる」
「でも、黙っていたのはそれが理由ではないのでしょう?」
リリーナは首をかしげた。濡れたライトブラウンの髪が、優雅に肩を流れた。
「この部屋へ着いてすぐは、……とても優しかったのに」
つぶやきで付け足しながら、たわむれのように唇を重ねる。
数時間前に彼に抱かれた記憶が蘇り、洗いたての頬が赤らんでいた。
彼女の腰に回されたヒイロの腕にも、無意識らしい力がこもる。
――おそらく、またすぐにベッドへもつれ込むことになるだろう。
だがその前に、リリーナはこの月陰のような男を、自分から抱きしめたかった。
「ヒイロ……」
裸のまま、彼の耳に唇を寄せてささやく。
それから告げられた言葉は、ただ一人しか知り得ない。……永遠に。
END