【東大】富野由悠季講演会【五月祭】

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121通常の名無しさんの3倍
パンフのみのインタビュー部分で面白かったとこ抜粋。

セックスをすることのよって手に入れられる快感、オーガズムっていうのがあるという話についても、
ずっと考えてきました。60という年齢を過ぎたのに、つくづく思うことがあります。セックスをするということを
安全無害な環境の中でやっているときの快感と、明日この人は死ぬかもしれない、私は死ぬかもしれないという切迫感の中での
セックスの快感はまったく違うということです。どうも人が死ぬことを想定している性交渉でオーガズムを手に入れてるのではないか、
という気がすごくしてきました。いつでもデキるぞ、っていうプレイボーイが結局50人、100人、1000人のオンナに手を出すっていうのは、
セックスという行為によって充足しないから相手を変えるのではないか。

そのことを本当に考えるヒントになったのはこういうことです。戦争未亡人というのが、僕らの上の世代にはいました。つまり明日、戦争に行っちゃうから
結婚して、今夜だけ、一回だけの掛け値なしの初夜があって、というご婦人です。そういう婦人が子供を育てて死ぬまで寡婦であることを苦痛にしない、
というケースを見たときに、何でこの人が一回だけのセックスで気が済んでいるんだろうかっていうことも、かなり考えました。
処女反応の過剰な快感なのかもしれない、だけどもその快感ていうものを間違いなく身体で受け止めたために、この人は50年間を独りで暮らせた、
子供まで育てられた、それでいてみじめな婦人ではなかったのではないか。むしろ男漁りをしてきた女、女漁りをした男のほうが綺麗に生き長らえたかっていうと、
そうではないような気がする。どうもそれは性的快感とも関連しているような気がしている気がしました。
そして「死」を想像、認識、体感することができる関係性を持ったオーガズムとかエクスタシーというのは、
実を言うと普通の人が感受するセックス体験とは違うのではないかな、ということも想像できるようになりました。
そしてそのときに、祭りとセクシャリティーという問題を我々はもう少し大事に考えるべきで、簡単にソープに行って気を済ませてるとかって言うのは如何なものか、
という気がしてきた、っていうこともあります。