目が覚めると、自分がベッドの上にいる事に気付いた。
居場所を確認しようと、カテジナ・ルースは上体を起こし、頭を左右に振る。
だがすぐに、自分の目では部屋の中も窓の外の景色も確認出来ない事を、思い
出した。
エンジェル・ハィロゥの中心で見た、命の光。その輝きが、カテジナの視力
を奪った。彼女の目には、周りが明るいのか暗いのかを感じる程度の力しか、
残ってはいない。かつて無垢な少年の気を引いた長い金髪も、戦いの中で血に
染まっていった両の掌も、光を通じて感じる事が、彼女には不可能なのだ。
悲しいが、涙は出ない。それが自分でも不思議だった。
キィ、という小さな音を立てて、カテジナのいる部屋のドアが開く。木製の
ドアらしい。今の彼女は、音だけでそんな事が理解出来る様になってしまった。
「あら、起きてらしたの。」
女性、中年の女性の声だ。
か細い声で、カテジナが呟く。僅かな物音ででも消えてしまいそうなカテジ
ナの呼び掛けは、聞こえなかったのだろう。その女性は、入って来たばかりの
部屋から出て行こうとする。
「少し待っててね。今、主人を連れて来るから。」
婦人の気配が消えた後、カテジナはなぜ自分がここにいるのかを、思い出そ
うと努力していた。
アーティ・ジブラルタル。地球と宇宙を結ぶその場所に、カテジナはいた。
多くのザンスカール帝国の元兵士達と共に。
カテジナの目から力を奪った最後の戦いの後、ザンスカール帝国は崩壊した。
その後、捕虜となって地球に取り残された帝国の兵士達の運命は、アーティ・
ジブラルタルに集められ、そこから魂を引く重力を持たない宇宙へと、連れ戻
される事に決まる。
だか、カテジナだけは解放された。彼女が正式な地球居住権を得ている事が、
判明したからだ。連邦軍の支給品の着替えが詰まったトランク、僅かな金、旧
式のワッパと共に、彼女はアーティ・ジブラルタルから放り出された。彼女の
目が役に立たない存在である事が、分かっているにも関わらず。
U.C.0133年に起きた木星動乱が一応の終結を見た後、地球居住者の権利は、
大幅に拡大された。コスモ・バビロニア戦争とそれに続く木星動乱の時に、地
球連邦軍の秘密警察マハが、行き過ぎたスパイ狩りを行った為だ。
木星帝国は戦争を仕掛けるに当たって、かなり周到な準備をしていたらしく、
地球にも木星帝国のスパイや協力者が多数いた。そういった木星側の人々を、
マハは有無を言わさず狩り、宇宙へ上げる。
その中には、正式な地球居住権を持つ人も多数含まれており、中には木星帝
国に関係のない人すらも含まれていた。マハの活動や存在に否定的な人達を、
木星帝国のスパイだというレッテルを張り、宇宙に送り込むという破廉恥な行
為すら、マハはためらわず行った。
そうしたマハの暴走が、地球に住む連邦政府の政治家や高官達を刺激する。
自分達はもちろん、有力な支持者やスポンサー達の関係者が、マハの暴走の被
害を受けるのではないかと危惧したのだ。
U.C.0135年。連邦議会で、マハの規模と権限を大幅に縮小する法案が可決。
同時に、地球居住者の居住権も強化された。以後、マハは目立った活動をする
事もなく、治安の悪い地域の不法居住者を、思い出した様に取り締まるだけの
存在となり、現在に至る。
そうした事を知っている連邦の役人と宇宙引越公社の職員は、カテジナを解
放する事に決めたのだ。正式な地球居住権を持つ人間を、下手に独断で宇宙に
上げてしまっては、後々面倒になる。
だがカテジナにはそんな役人達の思惑など、どうでも良かった。自分の居場
所が消えてしまった事が、悲しかった。これで、何度目の事だろう。そう思い
ながら、カテジナはワッパを走らせた。
ウーイッグへ帰ろう。家へ帰ろう。ルース商会を大きくする事にしか興味を
示さない父と、外に男を作り遊び歩く母のいる、あの家へ。小さな頃から一人
で食事をするのか当たり前だった自分の家の記憶さえも、すがるに値する存在
だと、彼女には思えた。
ワッパが盗まれた事に気づいて途方に暮れているカテジナに、その男は声を
掛けた。俺に一晩付き合ったら、金を恵んでやると言う台詞を吐いて。
スピードを出した男のワッパに乗って、カテジナはその部屋に辿り着いた。
辿り着く迄に聞いた男の話によると、その男はこの辺り一番の商人で、郊外に
持つ自分の別荘にカテジナを案内するという。
男の話にカテジナは、父の持つ冷たさと、母の持つ汚らわしさを感じた。
男を軽蔑しながら、カテジナは久しぶりのシャワーを浴びる。人工的な温か
い雨を気の済むまで浴びた後、バスタオルに体を包んで、カテジナは浴室から
出た。
男は服を着たまま、バスタオル一枚のカテジナをベッドに押し倒す。悪臭の
するキスと、不快感しか生まない愛撫。それにカテジナは耐えた。クロノクル
の次に体を開く男が、こんな汚らわしい存在だとは。
自分の巣に育てようと、体と言葉を使って懸命に赤毛の青年を励まし続けた
日々が、思い出された。悲しみの涙も、情けなさの涙も、使い物にならない自
分の目からは出て来はしない。私の涙は全て、光輝く命の翼が奪ったのだから。
人工的なゴム越しに、男の存在を感じる。その時にカテジナの発する苦しみ
の声を、男は勘違いして、卑猥な動きで腰を振り続けた。しかも二度も。
自分勝手な二度の快楽に溺れ、全裸でだらしなく横になっている男の方に、
カテジナは顔を向ける。見えはしないが、男への軽蔑が正確な居場所を教えて
くれるのだ。
顔を背け、ベッドから離れようと出した足に感じた、異様な感触。右足の裏
から伝わるそれは、無造作に放り出された、男の精の残骸の入れ物から感じる
物だった。
何かが、弾けた。
立ち上がったカテジナは、先程の行為を反芻しながら夢を見ている男の腕を
掴んで、引き起こした。目を覚まし、何が起こったのか理解出来ない男の顔に、
カテジナの拳が飛ぶ。男の腹に、カテジナの爪先が入る。
男は床にうずくまろうとして、膝を付き、頭を下げた。しかし、先程汚らし
い憎悪で黒く染まったカテジナの右足が、男の顎を蹴り上げる。蛙の死骸の様
に、男は仰向けに倒れた。そこに表情の無い視線を、カテジナは向けた。
牛のいななきに似た男のうめき声が、耳に入る。カテジナはそのうめき声に
近づき、右足を上げた。そして、毒虫を踏み殺す様に、うめき声の発生場所を
踏みにじった。二度、男が自分の中を汚そうとした回数程。
ガッ!
二度目の鉄槌が振り降ろされた時、その音が、足の裏で踏みつけている物の
何処かから生まれた。男の黄色い歯が折れた音なのか、男の肺の奥から発せら
れた断末魔なのか。カテジナは、そんな事には興味は湧かない。ただ、足元の
毒虫の意識が完全に消えている事を示す音なのだという事が、分かれば良かっ
た。
カテジナは、もう一度シャワーを浴びる。毒虫と、それが生んだ汚らわしい
精の残骸の入れ物を踏み付けた右足を、幾度となく洗った。
埃臭い自分の衣服に再び身を包み、身支度を終えたカテジナは、脱ぎ散らか
された男の衣服から、財布とワッパのキーを抜き取る。部屋の隅に置かれた自
分のトランクを持ち上げた後、気を失っている男の股間があるであろう方向に
向かって、カテジナは唾を吐き、部屋から出て行った。
谷に架かった橋を渡り切った直後、カテジナの耳が、バッテリー切れの不快
な警告音を捉える。
ワッパを止め、内ポケットから財布を取り出し、指先を財布の中で動かす。
カテジナの指は、あと一回ワッパの充電が出来るだけの金額を確認した。
男から奪ったワッパはスピードとパワー重視の道楽品らしく、充電の度に、
なけなしのカテジナの財布の中から、大金を奪っていくのだ。充電をしたいが、
金を使い切ってしまえば、安全な水を買う事が出来なくなる。
アーティ・ジブラルタルを放り出されてから今迄の間、わずかなパンと水だ
けでニ週間ほど生き延びたカテジナは、ワッパを諦める決意を固めた。
荷台からトランクを降ろした後、ワッパに乗らずにエンジンを掛ける。ワッ
パのそばに立ったカテジナが左手でアクセルを押すと、ワッパが少しづつ動き
始めた。今越えた谷に向かって。
それから、どれ程歩いただろう。晩秋の日差しと夜風は、弱り切ったカテジ
ナの体力を容赦無く奪ってゆく。目の前にウーイッグの町並みが見えたその時、
彼女はまるで大地に還るかの様に、うつ伏せた。
「で、行き倒れてるあんたを、配達帰りの俺が見つけたってわけだ。」
パン屋の主人と名乗る、婦人に連れて来られたその男性の話を、小さな皿に
盛られた具の入っていない薄いスープを口にしながら、カテジナは聞いていた。
長くまともな食事をしていない彼女を気遣って、そんな食事を婦人は用意した
のだ。
「悪いけど、あなたが眠っている間に荷物を調べさせてもらいました。あなた、
軍人さん?」
婦人の問いに、カテジナは戸惑った声を返す。
「いえね、トランクの中の着替えに、連邦軍の支給品だと書いてあるタグが付
いていたものだから。」
元ザンスカールの兵士だと分かるのはまずいと咄嗟に思ったカテジナは、婦
人に曖昧な返事を返す。ただ、故郷のウーイッグへ帰る途中だという事だけは、
はっきりと伝えた。
「そう。だいぶお疲れの様ですし、うちでしばらく休んでおいきなさい。」
早くウーイッグに帰りたいと理由を付けて、カテジナは遠慮する。
「そんな、遠慮なさらなくても。ウーイッグはこの町から、それほど離れては
いないわ。目もご不自由な様ですし、いいんですよ。」
婦人はカテジナの意思を押し切った後、主人と共に部屋を出た。
涙が出た。枯れ果てたと思っていた涙が。空襲で故郷を離れた後、初めて彼
女に与えられた無償の優しさが、そうさせたのだ。その涙が、薄いスープをさ
らに薄めている事に、カテジナは気づかなかった。
アーティ・ジブラルタルで支給された物と同じ型の旧式のワッパのそばに、
カテジナとパン屋の夫婦が立っていた。カテジナのこけていた頬は丸く変わり、
埃まみれだった長い金髪は、かつての美しい輝きを取り戻している。そして何
より違うのは、冬物の衣服を身にまとっている事だ。婦人が若い頃に着ていた
古着を、カテジナにくれたのだ。
「私はもう着ない物だから。お似合いですよ。」
それを知る方法を持たないカテジナは、一瞬、下を向く。
「セシリー。」
パン屋の主人は小さな声で婦人の名を呼び、咎めた。
「あ……。ごめんなさい、ルースさん。気が利かなくて……。」
僅かな沈黙の後、パン屋の主人がカテジナの腕を取り、ワッパの存在を教え
てくれる。カテジナは自分の腕の持たれた部分から、無機質な冷たさを感じた。
主人の右腕が義手であることが、今になってわかった。
「このワッパ、あんたにやるよ。古い物だけど、一応は動く。元気な姿を、早
くご両親に見せてあげるんだな。」
カテジナは、義手の事を尋ねる。木星動乱の時に右腕を失ったのだと、パン
屋の主人は教えてくれた。私と同じ境遇なのだ、この人は……。
「生きていれば、いい事があるさ。」
そう励ますパン屋の主人の声から、カテジナは自分にはない命の強さと優し
さを、親切な夫婦が持っている事を理解した。
「それと、これ。少ないけど、取っときな。」
パン屋の主人はそう言って、彼女にお金の入った財布を渡す。主人の右手か
らそれを受け取る時、カテジナはその義手を暖かく感じた。また、涙が出た。
何かおかしい。オートコンパスが壊れたので手動でワッパを操作していたが、
どうやら道に迷ったらしいのだ。足元から、川のせせらぎが聞こえる。
人の温もりを求め、カテジナは川伝いにワッパを動かす。しばらくすると、
赤ん坊の笑い声と、それをあやす少女の声が聞こえてきた。その楽し気な雰囲
気に近づき、以前よりも僅かに生気を帯びた声で、人がいるであろう場所に向
かって、尋ねる。
「ワッパのオートコンパスが壊れてしまって、方向が分かりません。ウーイッ
グは、どちらでしょう?」
親切な少女がオートコンパスのスペアをくれたお陰で、カテジナの乗るワッ
パは、確実にウーイッグへと近づいている。肌寒い。あの少女と出会った頃か
ら、雪が降ってきたのだ。
涙が出た。次に流す涙は嬉し涙にするのだと、あのパン屋の夫婦の優しさに
向けて、誓ったはずなのに。今自分の頬を伝う涙が、嬉し涙ではないのだと気
付いたカテジナは、頬を濡らし続ける事をやめなかった。
カテジナの頬にある涙の川に、雪が落ち、解けて、交じり合う。その感触で
すら、今の彼女を支配する感情を、強くするのだった。
−完−