東奥日報夕刊一面(その1)
「こんな騒ぎになっているなんて…。まず成田空港でびっくり。
荒川静香さんが出た後でも、誰も帰らないで待っててくれて。
カメラのフラッシュとかもすごくて、『うわー』って思いました。
でも、私って写真が苦手なんですよ。
笑ってる顔がひきつっているってよく言われるんです。」
「4戦目のデンマーク戦に負けた後、青森や北海道から応援に来てくれた
友人や応援団たちと一時間ぐらい会うことができたのが大きかったです。
向こうもこっちも泣いちゃって。私も大学の友達と抱き合って…。
吹っ切れたというか、本当に大きな力をもらいました。そ
れと、カナダ戦から積極的な作戦に変えたのがうまくいきました。」
−えっ、戦法を変えた?
「はい。それまではチャンスを待つ作戦。でもカナダ戦からは、
チャンスを自分たちから作っていく攻撃的な戦法に変えました。
ストーンをどんどんハウスにためていくんですが、
もちろんリスクもあったんだけど、みんなリスクを跳ね返すぐらい
好ショットを決めてました。自分としては初戦のロシア戦が、
一番悔しい試合。一番うれしい試合はやっぱりカナダ戦ですね。」
東奥日報夕刊一面(その2)
南富良野町立落合小三年の時、父義重さん(五五)、
母敏子さん(五七)の影響でカーリングを始めた。
翌年、姉二人と同級生の寺田桜子さん(二一)=チーム青森=と
一緒にチームを作り、ジュニアの北海道大会に出場。
この時優勝したのが、小野寺歩さん、林弓枝さん=チーム青森=
らがいた高校生チーム「シムソンズ」だった。
−運命的な出会い?
「そうですね。対戦してギブアップ負けでしたが、その時、
歩ちゃん(小野寺)たちに、『何歳なの』、『すごいいっちゃいのに頑張っているね』
と声を掛けられたのを覚えています。
大会が終わった後、あまりにもかっこよくて、サインをもらったほど。
それが今こうして一緒にオリンピックに出るなんて…。」
−落合中三年、富良野高一年と全日本ジュニア大会でも好成績を挙げた。
オリンピックを意識したのはそのころ?
「いえ、それまではオリンピックは夢のような存在でした。
高校三年の春、私とさっちゃん(寺田)は受験勉強しなきゃいけないし、
チームは解散になるのかなーって思ってたら、フジ・ミキさん(チーム青森のコーチ)
から、青森に行って歩ちゃんと一緒にカーリングを続けたらどうかって
アドバイスをもらって。その後、歩ちゃんからも『一緒にトリノを目指そうと』
電話をもらい、あこがれだった二人と同じチームでやれるんだって、
すぐ飛びつきました。だから受験勉強も全然苦にならなかったですね。」
93 :
雪と氷の名無しさん:2006/04/03(月) 19:46:32 ID:Qgzd0Eii
ただいま萌絵
さすが東奥日報
東奥日報夕刊一面(その3)
−トリノ五輪を終えて、チーム青森を引っ張ってきた小野寺さん、
林さんが北海道に帰りました。二人は一時休養し今後の活動は未定ですが、
目黒さんたちは?
「さっちゃんが言った言葉なんですが、『オリンピックを目指すって、
本当にオリンピックに出た人にしか言えない』と。本当にそう思います。
二人はオリンピックの厳しさも喜びも全部知った上でトリノを目指した。
二人からは、あきらめないで頑張れば夢がかなうということを教えてもらいました。
今度は自分から夢をつかみとっていきたい。やると決めたら絶対くじけたくない。
四年後のバンクーバー五輪を目指します。」
カーリングを離れると、部屋でのんびりするのが好きな大学四年生。
「でも、大会や練習のために冬期間休学していたので、卒業まであと二年
かかるんですよ。いや、バンクーバーを目指せば、もっと先に延びちゃうかな。」
(おわり)