佐々木健介は震えていた。
暗い自動車整備工場の片隅でひとり息を潜めていた。
早いものであれからもう1日が経過した。
水や食料を殆ど補給せず、且つ一睡もしていない彼の体は
既に限界にきていた。それでも彼は動かない。
餓死する事より他人に蹂躙・撲殺される恐怖が遥かに上回っていた
人間の運勢とは振り子の様なものだ。良い時もあれば、その逆も然り。
しかし彼を取り巻く状況はあまりにも悪過ぎた。最悪、と呼んでもよい。
才能やセンスには乏しいが、人一倍練習した。
性格も悪くはない。下には強いが、上に刃向う事などあり得ない。
その実直な人柄がブッカ-に評価され、一時期は名実ともエースとなった。
だが彼は、悲しいかな決して『トップ』の器ではなかった。
その評価が下されたトップというのは、この業界では生き地獄に等しい。
興行成績の落込み、長年の長州・永島体制による組織的なゆがみと軋轢、
それに乗じた創業者による現場介入…
生え抜きではない彼の見方は長州以外に皆無だった。
この師弟は全ての責任を押し付けられ、閑職へと追い込まれてしまった。
その時彼に向けられた誹謗や中傷、長州力の早過ぎる死…
そしてこの殺し合いの為だけにアメリカから呼び戻された自分の悲運!!
彼は他の大多数のレスラーと違い、仲間を信用しなかった。
何より自分自身を信用できなかった。
彼は立ち上がるそぶりさえ見せない。
武器が『目潰しスプレー』という事実も、確実に戦意を削ぎ落としていた。
佐々木健介は、動かない。
ガラガラガラ…深夜のガレージにシャッターの開く音がする。
健介は息を殺し身を潜める。隠れる術は覚えた、既に3回目だ…
大方、武器を探しにきたのだろう。めぼしいものは軍が全て没収済だが。
ところが4人目の来訪者は気色が違った。彼は暫く回りを見渡すと
健介とは逆の方向に向かって歩を進めだしたのだ。
…マズイ、居座るつもりか!? どうする、逃げるか戦うか、とどまるか?
様々な思案は健介の頭を混乱させる。動揺はそのまま反応に直結する。
無意味に揺れた健介の体はダンボールに触れ、雪崩減少を発生させた。
「誰だ!?」 引き裂くような絶叫が倉庫内にこだまする。
でも健介は不思議な事にその声を聞いて安心した。何だ、一番優しい奴だ…
自分の不運を嘆いていたが、少しは風向きが変わってきたのか?
意を決して健介は語りかけた。
「俺だよ!! ノガちゃん、健介だよ!!」
「…健介…?」訝しげな声が闇から漏れる。
ただその後、野上彰の口から出た言葉は意外だった。心外、と言ってもよい。
「やめろ、撃つな、撃たないでくれー!!!」
「ノガちゃん、何言ってんだよ!! そんな事する訳ないだろう!!」
「嘘だ!! 皆、そう言って仲間を殺していくんだ!!」
…仲間、いい響きだ。自分が孤独じゃないってわかる。皆怖かったんだ…
「嘘じゃない! 本当だ! 俺は誰も殺してない! そんな事出来る訳がないだろっ!!」
問返しても返事がない。そのうち早いリズムの足音が出口方向へ流れ出した。
…見捨てるのか、野上!? 俺を見捨てるのか!?
「行くな! 行かないでくれ、ノガちゃん! 俺をひとりにしないでくれー!!」
足音が止む。野上彰が怪訝そうに聞き返す。
「本当か? 本当に撃たないか? 信じていいのか、健介!?」
「本当だ!! 俺はずっと隠れてたんだ!! それに銃なんて持ってやしない!!」
長い間の静寂が場内を支配する。おもむろに野上が口を開く。
「…ずっと? あれからずっとひとりでここに?」
「恐いんだ… 殺されるのも殺すのも… 俺はそんな為にレスラーになったんじゃない!!」
暫くすると物陰から、小さい嗚咽が健介の耳に聞こえてきた。
「…ノガちゃん? どうした?」
「恐かった… 俺もずっと逃げ回ってた。一日中、山をうろついてたんだ…
もう嫌だ!! 何で俺達がこんな目に!! 」
健介は安心と同時に怒りを覚えた。 野上の言う通りだ、なぜ俺達が!!?
「ノガちゃん、一緒に動こう!! 二人の方が安全だ。そして皆を助けよう!!
俺達はこんな事をする為にトレーニングしてきた訳じゃないんだ!!」
「…信じていいのか、健介? お前を頼っていいのか!?」
「仲間だろ!! 野上、俺を信じてくれ!! 一緒に戦おう!!」
「…けんすけぇ…」涙声と共に、足音が聞え始めた。先程とは違い近づいてくる音だ。
健介はふと興奮から冷めた。急に恐くなった。目潰しスプレーを握り直した。
「野上っ!! 止れ!! こないでくれ!!」「…なんだよ、信用しろって言ったじゃないか!?」
「…いや、スマン。正直、足音が聞こえたらなぜか急に…」
野上の返答がない。怒らせたか?それとも逃げたのか?
「ノガちゃん? ノガちゃん!?」「…見ぃ-つけた、っと」
えっ?と思って後ろを振り返る途中だったろうか?
破裂音と共に健介の視界・嗅覚・聴覚・思考、その全てが消し飛んだ。
「…ようやく夜目に慣れたんで、ね」
先刻の涙声はいま何処? 野上は冷たい声で遺体に語りかける。
「ごめんなー、騙しちゃったみたいで。でもほら、俺、一応アクターだから(笑)」
「…やっぱり飛び道具があると便利だよな。警棒、支給されたってさぁ…
でもこれ、井上には勿体無い武器だよねぇ? 」
野上彰は茶飲み話をしているかの様に、そして佐々木健介の魂が横に
あるかの様に語り続けている。
「今と同じアプローチしたんだよ。立場は全く正反対だったけどね。
井上が中々心開いてくれないで苦労したよ…
ただ最後は泣きながら『ノガさーん』って抱き着いてくれたよ。
人間、夜になると緊張が薄れるんだね。 」
クスクス忍び笑いながら、健介のそばまで来た。「スイカ割だな、まるで」
呟きながら彼は血の海に浸かっている細長い缶を取り上げた。
瞬間、野上の嘲笑が静まった場内に響き渡る。
「なんだよ、目潰しスプレーって(笑) お前、武器までしょっぱいな(笑)
まぁ平田さんもそうだったけど。吹き矢だぜ、吹き矢!! どう戦うんだよ、一体!?
平田さん、最後までボヤいてたなぁ… いい味出してたよなぁ 」
そこまで言うと、野上はフッと息をつき、健介の横に腰をしゃがめた。
「一言、言っておく。 俺とお前は仲間でも友達でもない。
お前にちゃんづけされる筋合いは一切ない。今まで一度もないよな、そんな会話」
彼は立ち上がり裾をポンポンと払う。虚空を見上げ、言葉をつなぐ。
「アゴも誰もかも、大方武藤とか永田とかに生き残って欲しいんだろうけどさ
でもそこで、敢えて俺が残るっていうのも… 」
再度、野上は視線を下に落す。 異臭の漂う中、彼は遺体に優しく微笑んだ。
「結構、ブックとしてはイケてるんじゃないかなぁ?」