60年代のアントニオ猪木

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1KBO
60年代の猪木について語るスレです
2お前名無しだろ:2013/06/22(土) 23:34:06.12 ID:fIoe39ToO
若い頃の猪木は男前でカッコいいね
3お前名無しだろ:2013/06/22(土) 23:40:32.18 ID:vlWfSp4k0
デビュー2週間後に
田中米太郎に初勝利
4お前名無しだろ:2013/06/23(日) 00:15:53.91 ID:86QvTOHlO
S35年9月30日
台東区体育館にてデビュー。
大木金太郎相手に逆腕固め(?)でギブアップ負け。
3年後の暮れに力道山が刺殺され
その翌年待望のアメリカ武者修業。

サンダー・ザボーだったか
日本の特撮ロボットみたいな名前のレスラー(フロント・ネック・チャンスリー・ドロップを彼から猪木は盗んだやろ?)から
「このままでは(力道山の下にいたら)お前はダメになる。
俺の所に来い!」
なんて言われたらしいけどね。
実際どうかね?
ルー・テーズと体型が似ているとは言われていたらしいが。
5お前名無しだろ:2013/06/23(日) 08:17:33.74 ID:/HihCvPu0
猪木が語ってたけど力道山の付き人時代は本当に辛くて、当時付き合っていた女性と
夜逃げすることを本気で考えていたらしいね。
結局、力道山が死んでアメリカ修行に出て帰国と言うときに、ハワイで豊登に誘われて
東京プロレス設立に加わるわけだけど、「馬場がいる限りお前はNo.2」と言われたのは
本当かな?と思う。
6お前名無しだろ:2013/06/23(日) 21:42:07.27 ID:86QvTOHlO
力道山の生前
逃げ出さなかったから
日本で活躍できる地盤ができたのは間違いないと思う。
逃げ出していたら
間違いなくヒロ・マツダのようになっていただろう。
7お前名無しだろ:2013/06/28(金) 22:46:31.67 ID:4M7F2+HrO
この年代のアントニオ猪木で目立ったのは
東京プロレスの旗揚げに参加してエースとなったこと
日プロ復帰後第11回ワールドリーグ戦優勝
ドリーとの最初のNWA戦(フルタイム・ノーフォール・ドロー)
の三点でしょうな。
東京プロレスを細かく見ると
よく名勝負と言われるバレンタイン戦(リングアウト勝ち)と
同じバレンタイン戦でもUS王座を奪取した試合(フォール勝ち?)
でしょう。
インターナショナルタッグ王座奪取は
所詮馬場の引き立て役としての猪木ですので除外します。

70年代のアントニオ猪木では
ドリーとの2回目のNWA戦(1-1のドロー)
馬場への執拗な挑戦
第1、2回NWAタッグリーグ戦優勝
UN王座奪取
が新日旗揚げ前の目立った活躍ですね。
8お前名無しだろ:2013/06/29(土) 00:04:15.32 ID:DUr80C7j0
>>7
>インターナショナルタッグ王座奪取は
>所詮馬場の引き立て役としての猪木ですので除外します。

そうでもないぞ
インタータッグ戦こそ
隠れた猪木台頭の舞台だった
猪木がブルクラ、エリック、キニスキー、ブラジル、サンマルチノらに
一歩も引かない試合を見せたし
決勝の1本をとってる場面が何試合もある
9お前名無しだろ:2013/06/29(土) 00:28:58.06 ID:eMwN8lbVO
>>8
そう言ってくれる人がいると助かる。
ただし
初めてBI砲で試合をした時
決勝は馬場が取ったので
観客の印象として
チームリーダーは馬場ということになったとか。
猪木にとって悪戦苦闘の時期だったのは間違いないと思う。
10お前名無しだろ:2013/06/29(土) 01:05:16.14 ID:nLmcpU2e0
悪戦苦闘というより
むしろ直に馬場との試合ぶりを比較されその差を縮めていく
絶好の場とも言えるよ
そのせいかBI砲時代の中盤から後半は
東京の大会場のメインは
馬場のインター戦よりインタータッグがメインになることが多くなっていく
11お前名無しだろ:2013/06/29(土) 06:48:33.25 ID:eMwN8lbVO
>>10
テレビとの契約
つまり
NETとの契約関係上
猪木をある程度主役に仕立てあげなければならなかった
っつーのとは関係ない?

でもその頃の猪木を見て
プロレスラーになったのが藤波か?
12お前名無しだろ:2013/06/29(土) 11:52:33.80 ID:cMBsF8hxP
19歳の時に出場した昭和37年のワールド大リーグ戦の対戦相手は凄いな。
ルー・テーズ、ディック・ハットン、フレッド・ブラッシー、マイク・シャープ、
ミスター・アトミック、バディ・オースチン、ラリー・ヘニング
13お前名無しだろ:2013/06/29(土) 12:21:22.37 ID:eMwN8lbVO
>>12
凄い顔ぶれだな。

10代でワールド大リーグ戦出場したのは猪木だけ?
14お前名無しだろ:2013/06/29(土) 14:11:27.45 ID:GJN/1EIL0
>>11
それはないと思うよ
インタータッグ戦は馬場が絡む以上
あくまで日テレの舞台
当時、猪木が主役になる舞台はアジアタッグだった
この頃はドリー、レイス組とか
あとから考えると
とんでもないチームが挑戦してるし
15お前名無しだろ:2013/06/29(土) 17:34:01.48 ID:cMBsF8hxP
>>13
外国人はわからんけど日本人で10代出場は猪木だけみたいだね。
デビューして1年半しかたってない猪木をエントリーさせて、
この強豪相手と対戦させたということはやはり力道山は
猪木に期待してたのかな。
16お前名無しだろ:2013/06/29(土) 20:25:26.14 ID:eMwN8lbVO
>>14
嬉しいね。
アジアタッグでNWAチャンピオンコンビが挑戦してるとはね。

>>15

リングネームは「アントニオ猪木」だったんだろ?
10代で団体の主要シングルリーグ戦に出場っつーのは
日プロ、国プロ、新日プロ、全日プロ
のメジャー団体では猪木ぐらいだろね?
17お前名無しだろ:2013/06/29(土) 21:08:18.00 ID:cMBsF8hxP
>>16
当時のリングネームはまだ猪木完至
18お前名無しだろ:2013/06/29(土) 21:16:01.74 ID:BOcmB6q90
文藝春秋から出ていた力道山のビデオに若手時代の馬場と猪木が映っていたな。
19お前名無しだろ:2013/06/29(土) 21:22:38.33 ID:cMBsF8hxP
チャンピオン太という番組で猪木は死神酋長という役で
力道山と対戦してやられている。
20お前名無しだろ:2013/06/29(土) 21:44:13.62 ID:eMwN8lbVO
>>17
まだ「猪木完至」だったのか?

日プロ追放までに特筆すべきは
ジャーマンの美しさ。
ストロング小林戦の時にはすでに足腰が弱りつつあったろうが
ブリスコ戦などで見せたジャーマンは正しく「人間橋」という表現が相応しかった。
21お前名無しだろ:2013/06/29(土) 21:46:13.08 ID:tDJoDnQY0
>>4
東京プロレス旗揚げにも参戦した
サニー・マイヤースじゃなかった?
22お前名無しだろ:2013/06/29(土) 22:13:38.19 ID:cMBsF8hxP
当時、猪木が憧れていたレスラーはキラー・コワルスキー
23お前名無しだろ:2013/06/29(土) 22:32:38.56 ID:eMwN8lbVO
>>21
「俺の所に来い!」と言ったかどうか知らんが
第5回ワールド大リーグ戦(S38年?)に参加し
フロント・ネックチャンスリーで猪木からフォールを奪ったのは
サンダー・ザボーで間違いない。
24お前名無しだろ:2013/06/29(土) 22:46:44.08 ID:GJN/1EIL0
>>20
そのへんが曖昧なんだよ
力道山vsデストロイヤーのビデオを見ると
実況が「セコンドのアントニオ猪木」と言ってるし
昭和42年のアイアンクローシリーズのポスターは
「猪木寛至」になってる
25お前名無しだろ:2013/06/29(土) 23:00:46.02 ID:eMwN8lbVO
>>24
S42年なら日プロ復帰してるはずだから
「アントニオ猪木」になってるはずだよ。
26お前名無しだろ:2013/06/30(日) 00:05:15.99 ID:g7G8WUAo0
>>25
だから曖昧なんだよw
DVD化された
猪木、吉村vsリベラ、シクルナの試合を見てると
実況でアントニオ猪木も猪木寛至も両方言ってるね
27お前名無しだろ:2013/06/30(日) 00:28:28.32 ID:5SXIRp14O
>>26
じゃ馬場は
ジャイアント馬場と馬場正平の2パターンで実況されてる?
28お前名無しだろ:2013/06/30(日) 00:42:12.23 ID:g7G8WUAo0
>>27
されてないよ
猪木も昭和44年頃の映像ではアントニオ猪木の統一されてるし
この時代だと
大木は清水アナから実況でひとつの試合の中で
「大木金太郎」「キムイル」の両方で呼ばれることはよくあった
29お前名無しだろ:2013/06/30(日) 07:23:41.04 ID:aoesnFycP
大木金太郎は短期間だが金剛だった
30お前名無しだろ:2013/06/30(日) 07:39:11.44 ID:aoesnFycP
>>24
昭和37年と昭和38年のワールド大リーグ戦は猪木完至の名前で出場してるよ。
デストロイヤーが初来日したのは試合をしてないが唱和38年ワールド大リーグ戦
の時で決勝の力道山VSキラー・コワルスキーの試合前にデストロイヤー
がコワルスキーにビンタをくらわせた。
力道山VSデストロイヤーが対戦することになったのは唱和38年の
ワールド大リーグ戦以降だから、この頃にアントニオ猪木になったのかな。
力道山はチャンピオン太で猪木が演じた死神酋長を気にいって、
リングネームを死神酋長にしようとしたが、さすがに猪木がそれだけは
やめてくださいと断ったのでアントニオ猪木になった。
31お前名無しだろ:2013/06/30(日) 11:28:54.71 ID:GdoejVDi0
豊登時代になって
アントニオ猪木の方が本名より世間に通りがいいから
そっちにしろと説得されたという話もある
32お前名無しだろ:2013/06/30(日) 12:19:12.34 ID:5SXIRp14O
フロントネックチャンスリーは
実際効くのかね?
見た目より効かずに
見た目よりかけ手の方がダメージを受けそうに思うけど。
33お前名無しだろ:2013/06/30(日) 21:23:12.76 ID:vY9vphx40
>>32
プロレス技でそれを言っちゃぁオシメエよ
34お前名無しだろ:2013/06/30(日) 22:39:53.84 ID:5SXIRp14O
>>33
オシメェも何も
アントニオドライバーのおかげで猪木は腰をやられたと言われているし
その後のレスラー人生を考えるとアントニオドライバーは使わない方がよかったろうな。
それよりはDDTの方がよかったろうにな。
当時はあったかどうか知らんが。
35お前名無しだろ:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:/ytmoroJ0
コブラツイストはいつから使い始めたんだろう
36お前名無しだろ:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:NLCgblzEP
>>35
使い始めたきっかけになったのかどうかはわからんけど
昭和37年のワールド大リーグ戦でディック・ハットンに
コブラツイストでやられているね。しかしキャリア1年半
の猪木はディック・ハットンみたいな最強クラスの男
と対戦することになって怖くなかったのかな。
力道山もハットンには子供扱いされたみたいだし。
37お前名無しだろ:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:aQEKjdSb0
>>35
アメリカ遠征前はネック・ブリーカー・ドロップが決め技で
渡米中にウィルバー・スナイダーに教わったと以前にインタビューで語っていたね。
東京プロレス旗揚げと同時に披露。
当時は選手権戦は3本勝負が基本だったから決め技を二つ用意したと思われる。
38お前名無しだろ:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:JlpVqp700
>>37
ネックブリーカーは
ブラッシーからのものだと思ってたが
39お前名無しだろ:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:aQEKjdSb0
>>38
スマン
書き方が悪かったコブラの話ね。
40お前名無しだろ:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:agvtIUuv0
>>38
>>35へのレスだからそれを見れば分かりそうなものだが
41お前名無しだろ:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:CGg9DnEJO
vsマルコフ戦(第11回W大リーグ戦決勝)などを見ると
キッチンシンクなど
新日時代では使っていなかった技を目にして驚く。
42お前名無しだろ:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:AC24ySrg0
gesu
43お前名無しだろ:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:xkcAJZtH0
>>41
カンガルー・キックも使わなくなった。
スピニング・バックブリーカーはカネックに掛けてるのを後楽園ホールで見た事がある。
ドロップ・キックも日プロと新日ではスタイルが変わったね。
44お前名無しだろ:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:Sy/BFjwU0
カンガルーキックは80年くらいまで使ってたぞ
45お前名無しだろ:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:jljDyze50
>>43
猪木はドロップキックが下手だったからひねって胸から着地することができなかった。
カンガルーキックは元々そんなに多くは使ってなかった。
バックドロップはテーズから教わるまで抱え上げ式で不格好だった。
46お前名無しだろ:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN ID:ISKuXwvGO
age
47お前名無しだろ:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN ID:4qv5ddGc0
猪木はドロップキックが下手だった
ベアキャットライトが来日してからひねるスタイルを習得した
ライトの指導があったかな
48お前名無しだろ:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:bAbEH+x+O
スクリュー式にしてから
見られるようになったんじゃない?
49お前名無しだろ:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:4ipS8rRuO
猪木のドロップキック!
50KBO ◆gsNoahGATI :2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:RxKPNqVv0
gesu
51お前名無しだろ:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:q0VeTw6e0
猪木が60年代で一番使ったフィニッシュ技はコブラツイスト。
対ブラッシーのUN戦やワールドリーグ戦のコックス戦でのブレーンバスターを返して
コブラで決めるところなどが印象に残っている。
卍固めとジャーマンはここぞというときだけに使った。
ワールドリーグ戦決勝のマルコフ戦やインター戦でマスカラスに掛けた時や
バレンタインに掛けたところなど。ジャーマンはブリスコ戦、ドリー戦。
どちらもタイトルマッチだった。
52お前名無しだろ:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:eK3fEu/G0
>>51
UN王者になったのは昭和46年(1971年)だよ
53お前名無しだろ:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:x4UqGJ3g0
>>52
知ってるよ。それがどうした?
54お前名無しだろ:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:eK3fEu/G0
>>53
60年代のスレなのになんで51は70年代の話をしてるのかということ
55お前名無しだろ:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:x4UqGJ3g0
ああ、そういうことねw
少しくらいはいいんじゃないの?
56お前名無しだろ:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:hgqstJVd0
イメージとしてこのスレは日プロ・東プロ時代の猪木を扱う、
別スレの「70年代の〜」は新日時代の猪木を扱うって感じかな。
1〜2年はみ出しても構わないと思うよ。
57お前名無しだろ:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:YWEHP5/b0
猪木の60年代1960-1971(日プロ追放)
70年代 1972ー1980(ハンセンにNWF奪われる)
80年代 1980-1983(IWGP決勝で失神)

それ以降は晩年って感じかな?
58お前名無しだろ:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:qGV9E/WY0
違うな。
60年代 ポスト力道山を馬場と争う時代(日プロ&東プロ)
70年代 日本人対決と異種格闘技の時代
80年代 ポスト猪木におびえる時代
59お前名無しだろ:2013/09/08(日) 15:53:19.91 ID:H9DdRra30
gesu
60お前名無しだろ:2013/09/08(日) 23:17:08.39 ID:lJU1vLWn0
1〜2年はみ出したら意味がない。
51は最初に、60年代で、と言ってるではないか。
コックス戦もNETで放送されたが、70年代だった。
61お前名無しだろ:2013/09/09(月) 20:33:42.58 ID:D56bRaQW0
>>60
そんな意固地にならなくてもw
70・71年の猪木を語れなかったら日プロ時代の話が膨らまないだろう。
「日プロ時代までのアントニオ猪木」の解釈でいいんじゃないか?
62お前名無しだろ:2013/09/10(火) 19:29:02.19 ID:ETN3a1C50
>>57
全盛猪木は対大木からアリまでの印象が強い
以降は気の抜けかけたサイダーを振って泡を出すような感じ
世界の頂上との不穏気味を経験して、以降は現実との狭間で無理に気力を振り絞るようなもんか
アリより後はお約束で、80年代以降は客への媚びが目に付いてきた

あと
BI時代なら表裏のカンガルーとコブラでキーロックを多用してたかな?
必殺は大体コブラ
メイン3本勝負の1本目から卍を使っていたり、相手次第じゃ繋ぎでも卍を使っていた
出し惜しみを始めた74〜76の全盛期以降や大一番の奥義と化し始めた80年代とは明らかに違う

まぁ、スレタイは60年代ちゅーより東プロ日プロ猪木のほうが適切ですな
63お前名無しだろ:2013/09/17(火) 23:32:18.27 ID:X/VrRWDT0
gesu
64お前名無しだろ:2013/09/19(木) 20:56:45.88 ID:cdBRHBxrO
サンマルチノが
猪木がインタータッグ戦でシュートを仕掛けてきたから
リング下に放りやったら
上がりきれずに
馬場にタッチした
とか言ってるけど
ホントかいな?
65お前名無しだろ:2013/09/19(木) 21:09:01.39 ID:rh3rhSOh0
60年代の猪木語れるのは、猪木と同年代のジジイしかいないだろうな
66お前名無しだろ:2013/09/19(木) 23:29:47.00 ID:Otq72B8z0
サンマルチノは猪木嫌いだから、わからんな。
67お前名無しだろ:2013/09/20(金) 00:35:56.62 ID:oaR10UDQ0
アントニオドライバー時代なんて知らねぇ
68お前名無しだろ:2013/09/20(金) 12:43:34.87 ID:kueT3A4tO
猪木のアントニオ・ドライバーって、佐山とゴールドマンが得意にしていたネックチャンスリーとはかなり違う気がする。
写真だけでしか見たことない(VS バレンタイン)が、簡略したブレンバスターに見えるんだけど…。
69お前名無しだろ:2013/09/20(金) 18:43:52.75 ID:dbGS+kvF0
http://white.ap.teacup.com/corona/900.html

この写真貴重ですな。
実際の対戦写真は見たことなかった
70お前名無しだろ:2013/09/20(金) 19:03:24.79 ID:W+iNNuyT0
ぶっちゃけ、猪木の運動神経ってどうだったのかな?
子供のころは「鈍寛(どんかん)」といわれ、プロレスラーになってからも
長州に「プロレス以外まるでだめだった」といわれている。

馬場がアメリカでトップレスラーになったのに、猪木はなれなかった。
これって馬場が2メートルを超える身長だったということもあるが
運動神経の違いも大きかったのではないかと思うのだが。
71お前名無しだろ:2013/09/20(金) 19:06:27.22 ID:q3j7uuok0
馬場のウリは世界で一番醜い男だったからなあ
運動神経は関係ないでしょ
72お前名無しだろ:2013/09/20(金) 19:27:50.43 ID:W+iNNuyT0
馬場は中学高校と野球をやりプロ野球選手にまでなったのだから
相当な運動神経だと思うよ。プロレスは演劇だから運動神経は
関係ないともいえるが、馬場がアメリカで成功して猪木は成功しなかった。
運動神経のほかにどんな原因が考えられる?
73お前名無しだろ:2013/09/20(金) 19:37:40.67 ID:wKaSGzwaO
今週刊大衆で連載中の柳澤健の「1964年の
ジャイアント馬場」では、馬場は頭の回転が良くて、
なおかつ本物のスポーツアスリートであったから
全米で成功した、という論旨で書かれている
74お前名無しだろ:2013/09/20(金) 19:42:25.73 ID:wKaSGzwaO
馬場の同期のマンモス鈴木は、化け物的肉体を
持っていたが、体だけだったのでアメリカで挫折した。
だが馬場には肉体プラスクレバーな頭脳とアスリートの
運動神経があった、と柳澤は書いている
75お前名無しだろ:2013/09/20(金) 19:45:29.46 ID:q3j7uuok0
>>72
だから馬場は他に類を見ない醜悪なルックスを持っていたことだろ
体の大きさとか強さじゃなく醜い外見がウリだったんだもの
76お前名無しだろ:2013/09/20(金) 20:03:28.68 ID:wKaSGzwaO
見た目の醜悪さでは、全身剛毛で長身のマンモス
鈴木が勝っていた。馬場はプロのルックスでは
鈴木に勝てないことを認め、それ以外の部分で
勝負し、全米トップに立ったと柳澤は言う
77お前名無しだろ:2013/09/20(金) 20:07:34.47 ID:W+iNNuyT0
いくらプロレスとはいえ、いやプロレスだからこそ
運動神経が重要なんじゃないの?
初代タイガーを見るとそう思う
78お前名無しだろ:2013/09/20(金) 20:18:14.06 ID:wKaSGzwaO
そうなのよ。馬場があの体でドロップキックを
やる、という所に、プロレスに適した運動神経が
認められるわけで。しかも飛行姿勢も着地も
巧かった。
79お前名無しだろ:2013/09/20(金) 20:28:13.12 ID:TkP+cXszi
馬場は頭は良いと思うよ、常に意味を持って動いてるし
運動神経なら高野俊二やホンマン、北尾とかの方が良いと思うけど
彼等にあのブッチャーと睨み合っただけで会場を湧かせる芸当は無理
80お前名無しだろ:2013/09/20(金) 20:53:45.69 ID:cEJiBeUs0
まさに馬場は、プロレス界の松井秀喜だな。
81お前名無しだろ:2013/09/20(金) 21:32:09.78 ID:p5PsSYz/0
猪木がアメリカで通用しなかったって決め付けてる奴がいるけど
たったの2年しかアメリカにいないし
その間の20〜21歳のレスラーとしては
エリック、ブルーザー、スナイダーら
超大物とシングルでメインを取ってるくらいだから
大抜擢といっていいだろう
同時期に猪木と同年齢だった
テリーやマードックでもここまでいってない
82お前名無しだろ:2013/09/20(金) 23:15:25.96 ID:W+iNNuyT0
馬場はタイトルマッチまでやっているんですけど・・・
83お前名無しだろ:2013/09/20(金) 23:20:00.14 ID:8IFnFWD10
それならタイトルをとってる猪木の勝ちだなw
84お前名無しだろ:2013/09/20(金) 23:33:41.53 ID:oaR10UDQ0
今以上に日本人はチビ、東洋人はチビと思われてた中で東洋の巨人って言うのは最高のギミックだとは思う
85お前名無しだろ:2013/09/21(土) 02:17:51.24 ID:O0Xqejxj0
馬場はバディ・ロジャースに勝ち、NWA世界ヘビー級を奪取した。
「世界一」の座に、その時、確実に立ったのだ。
だが、リターンマッチで観客が暴動になり、ベルトは有耶無耶になってしまった。
昭和37年の時。

だが馬場は生涯その奪取劇を忘れることがなかった。
そして、バディ・ロジャースの素晴らしさを生涯忘れられなかった。

猪木さんの話じゃないですが・・・
86お前名無しだろ:2013/09/21(土) 02:25:19.12 ID:pByOadl+0
>>85

その話を詳しく
87お前名無しだろ:2013/09/21(土) 02:35:37.16 ID:pByOadl+0
馬場はロジャースを
「最高のレスラー」
と称してたな。
俺ら(72年生まれ)前後の世代では、ロジャースはゴッチに(ミラーと共に)
袋叩きにされた、現代版(80年代前半)のレイス・ニックと映っていたが、
なぜ馬場がその“ヘタレ”のロジャースを絶賛するかが謎だった。
88お前名無しだろ:2013/09/21(土) 03:27:18.18 ID:5njbWV/dO
>>12
ラリー・ヘニングが出てるってのもすごいな。
当時は寛ちゃんと同じ駆け出しの若手だろうに。
89お前名無しだろ:2013/09/21(土) 08:58:05.65 ID:Y9zHWkiY0
>>70
>これって馬場が2メートルを超える身長だったということもあるが
>運動神経の違いも大きかったのではないかと思うのだが。
その通り。力道山は馬場の動きを見て「でかいのに器用だからいいレスラーになる」
といって期待を掛けていた。単にでかいだけならあれほどアメリカで人気が出ることもないし、
日本に帰ってもエースとして扱われることも無かった。馬場を過小評価しているのは、
全盛期の馬場の試合を見たことが無い人間なのだろう。或いは猪木信者で
馬場に対して客観的に評価する意思が無いかのどちらか。
90お前名無しだろ:2013/09/21(土) 09:04:44.04 ID:Y9zHWkiY0
>>87
そのエピソードはゴッチ信者が振りまいたデマ。
91お前名無しだろ:2013/09/21(土) 09:31:40.56 ID:BE9WrqliO
考えてみればゴッチとミラーは2人がかりで
卑怯だわ
9285:2013/09/22(日) 03:43:11.19 ID:inl+/cPN0
>>86
詳しく、も何もないですよ。
結構有名な話です。

ですが、馬場はずっと黙っていましたし、
門茂男さんの著作で書いてありましたが、私は、信用できないなあと思ってました。

ですが、渕さんのブログにそのまんま書いてありました。
馬場の死後しばらくして書いたんでしょう。
馬場は生涯、公表することはなかったんですね・・・
93お前名無しだろ:2013/09/22(日) 11:25:18.04 ID:hczNDx9v0
>>90
ゴッチ・ミラーがロジャースを袋叩きにした件の真偽はいいとして、
単なるショーマンレスラーだけじゃなかったんだろうな、ロジャース。
馬場があれだけ評価してるのを見ると。
フレアーやニックのスタイルをどうしても受け入れることが出来なかった
俺にとってはロジャースは彼らの分身(元祖)としか見ることが出来ない。
もっとも、一度も来日しておらず、まともに映像も見ていないから写真等
からの想像でしかないんだが。
全盛期は意外に短く、61年にNWAを獲ってから63年にテーズに獲られ、その直後
WWWFの初代王者に認定されるもブルーノに秒殺負けの惨敗。
これでトップ戦線から消えたんだよな。
94お前名無しだろ:2013/09/22(日) 11:34:46.87 ID:GRgjwCsX0
>>93
タイトル獲られた後は確かに短いけど、その前から結構な期間人気レスラーだったよ。
彼が来日しなかったのもプロモーターから引く手あまたで日本にまで来る必要が無かったから。
タイトル獲ったのって40歳過ぎてからだから。
95お前名無しだろ:2013/09/22(日) 12:00:32.67 ID:DxiDHAUY0
YouTubeにロジャーズの試合がアップされてるけど受身がメチャクチャに上手い。
96お前名無しだろ:2013/09/22(日) 20:22:51.58 ID:LM/jRp1O0
>>92
王道十六文に書いてますが
9785:2013/09/23(月) 14:46:57.38 ID:098TxVwH0
>>96
わ、書いてあったんですか。
すみません・・・
92年に出た本でしたっけ・・・
98KBO ◆gsNoahGATI :2013/10/05(土) 11:36:20.31 ID:XTHStwe50
gesu
99KBO ◆gsNoahGATI :2013/10/12(土) 04:31:25.16 ID:b/iv47Ap0
gesu
100お前名無しだろ:2013/10/12(土) 05:47:50.62 ID:iMgMpTBf0
http://www.youtube.com/watch?v=gwv3R5e7oHs
ドリー戦
http://www.youtube.com/watch?v=7FxGCqrC4F4
クリス・マルコフ戦
http://www.youtube.com/watch?v=uJf7H1P57uA
日本プロレス ジャイアント馬場 アントニオ猪木 VS ディック・ザ・ブルーザー クラッシャー・リソワスキー
101お前名無しだろ:2013/10/14(月) 11:12:23.16 ID:Z7XHfKj+0
エリートの馬場、雑草の猪木と言う対比をよく見かけたが10代で
ワールドリーグ出場の猪木は雑草でもなんでもなくエリート候補生なんだよね
102お前名無しだろ:2013/10/14(月) 11:33:25.03 ID:maqGK3Bj0
上田馬乃助に言わせると、馬場も猪木も力道山に可愛がられたエリートだ
ということになるそうだ。
103お前名無しだろ:2013/10/14(月) 13:33:13.14 ID:yLUOIkZ40
力道山は、馬場は体が大きく器用だから特待生扱い。猪木は素質がありそうなので
手元に置いて育てると考えていた。本人は嫌がっていたが「チャンピオン太」で
死に神酋長という相手役ををやらせたのも力道山からすると気に入っていた証拠。
他にはスパーリング相手は吉村(四の地固め封じの練習台など)、レスリングの基礎は
吉原功に教えて貰っていた。遠藤は引き立て役として重用。

ただ、猪木は力道山に対する恨みが大きく殴られた印象しか持ってなかった。
力道山に対する思い入れが一番強かったのが同胞だった大木ことキム・イル。
104お前名無しだろ:2013/10/14(月) 23:24:09.74 ID:maqGK3Bj0
いくら力道山が非常識だったとはいえ、まだ10代の少年だった猪木を
海外に出すなんてことは出来なかったと思う。じっくり手元で育て大人になったら
アメリカへ、というつもりだったんじゃないだろうか?
105お前名無しだろ:2013/10/17(木) 04:05:30.27 ID:rC+Cw2+K0
>>1 テスト
106お前名無しだろ:2013/10/17(木) 13:52:26.90 ID:qmDOHF0O0
十代の奴が5つも年上の奴に激しくライバル意識持つかな?
馬場にそこまでライバル意識持ったのって東京プロレスあたりからじゃないの?
107お前名無しだろ:2013/10/19(土) 01:58:58.90 ID:4asdpOM00
まだ10代で、ブラジルの家族と離れてさびしかったでしょう
馬場を兄のように慕ってたらしい
いつもマスコミに注目され、力道山にかわいがられ、アメリカでの活躍が
新聞に載ったりする馬場を単純にうらやましいと思った
道場でしごかれたり力道山に侮辱されたりばかりの暗い生活から逃げたい
猪木は華やかな馬場のポジションに嫉妬はしたでしょうね
108お前名無しだろ:2013/10/19(土) 04:39:32.32 ID:XRSdASRf0
武者修行中に結婚したアメリカ人との間に生まれた娘も
生きていれば50くらいになってたんだな

http://white.ap.teacup.com/corona/img/1307518595.jpg
http://white.ap.teacup.com/corona/img/1307518675.jpg
109お前名無しだろ:2013/10/23(水) 14:11:18.22 ID:wOOif6Q60
日本中に勢いがあった時代 「こまけーことはいーんだよ!」
http://www.youtube.com/watch?v=q46dgvSsUhM
110KBO ◆gsNoahGATI :2013/11/02(土) 15:23:47.78 ID:p1RQRxjE0
gesu
111お前名無しだろ:2013/11/06(水) 23:25:50.68 ID:EjsaxM3U0
108の写真は月刊プロ・ボクでの猪木インタビューにも使われていた。
その時は、別れました、と答えていたな。
112お前名無しだろ:2013/11/07(木) 18:06:11.72 ID:mf5UxOIU0
>>101
猪木はワールドリーグは62,63年と連続出場しているね。
猪木より先輩のマティ鈴木、ミツ・ヒライ、ミスター林らが不参加であることを
考えると、実は猪木ってかなりエリート扱いだったんじゃね?
他にもかなりいたであろう先輩レスラーを差し置いての大抜擢。
後の新日・全日時代で、キャリア2〜3年の20歳前後の若手をリーグ戦に参加
させたことなどないだろ?
比較対象が馬場だから猪木は雑草と呼ばれてるけど。
113お前名無しだろ:2013/11/07(木) 18:12:58.31 ID:mf5UxOIU0
追記だが、猪木はそのワールドリーグではテーズ、ブラッシー、ハットン、
M・シャープ、アトミック、オースチン、オコーナー、カルホーン、アトキンス
等超一流どころをぶつかっている。
その意味でも、力道山が猪木に対する期待度が高かったことがわかるな。
この時代のこういう検証って、あまり猪木に関する評論で語られていたのを
見聞きしたことはないんだが。
114KBO ◆gsNoahGATI :2013/11/15(金) 01:45:56.89 ID:D4Jm9Xgn0
gesu
115お前名無しだろ:2013/11/27(水) 10:21:19.56 ID:fB8QmL2g0
この移民野郎!またブラジルに返されてえか!
116お前名無しだろ:2013/11/28(木) 15:23:49.02 ID:h2RcQes30
sage
117お前名無しだろ:2013/11/28(木) 16:56:23.82 ID:MlPrlfmMO
>>97
『王道十六文』は87年に出た本だよ。
118KBO ◆gsNoahGATI :2013/11/29(金) 05:54:27.34 ID:7UkjO5gp0
gesu
119KBO ◆gsNoahGATI :2013/12/09(月) 15:33:31.88 ID:h1+i7NNS0
gesu
120お前名無しだろ:2013/12/21(土) 16:22:28.50 ID:XOwvgWfs0
sage
121お前名無しだろ:2013/12/22(日) 00:39:30.44 ID:R/wDjA5T0
昔は前座を中継することはほとんどなかったから、
猪木の試合映像も残っていないのか。
見てみたいものだ。
122お前名無しだろ:2013/12/31(火) 01:10:23.01 ID:esk8K2Jz0
>>121
マサはアマ時代にテレビで猪木の試合を見て注目してたと言ってたから
テレビマッチに登場してたのは間違いないと思うんだけどね
123お前名無しだろ:2013/12/31(火) 11:32:21.03 ID:B7y2muDj0
あるとしたら力道山死後〜海外遠征前。
(帰国後はマサと東京プロレスで一緒)
昭和39年3月6日、リキ・スポーツパレスで
「豊登・猪木、渡米壮行試合」
金曜日なのでおそらく生中継されたのでは。
猪木はセミの45分3本に登場。
124お前名無しだろ:2014/01/09(木) 17:44:32.32 ID:us6ODbOQ0
sage
125お前名無しだろ:2014/01/10(金) 12:50:43.85 ID:zUn8g7kx0
>>123
リアルタイムで見た人って、若くても還暦近い年齢だろうし。
当時は昨今みたいにプオタなんて少なかったろうから、記憶に残ってる人は
殆どいないんじゃないか。
しかし、80年代の全日・新日の感覚で行くと、海外遠征前の若手が
セミファイナルでテレビ放映されるってのがいささか信じられない。
というか、その前にワールドリーグに出場なんてのも。
猪木がいかに期待されていたっていうことだろうか?
ただの一介の若手扱いではなかったんだろうかね。
126お前名無しだろ:2014/01/10(金) 12:56:15.83 ID:Pfn1jss+0
力道山末期頃〜豊登時代はセミで日本人対決が組まれることが多かったみたいだね
127KBO ◆gsNoahGATI :2014/01/16(木) 18:31:29.56 ID:F1jCnt6z0
gesu
128KBO ◆NoahGATI4U :2014/01/25(土) 20:30:33.93 ID:Ox9dbATH0
gesu
129KBO ◆NoahGATI4U :2014/02/22(土) 22:56:43.57 ID:nB0ZDn350
gesu
130お前名無しだろ:2014/03/03(月) 14:38:05.41 ID:Ej1ot0Tk0
全日の初期、馬場は猪木の挑発に対して猪木をライバルだとか思ったことは一度もない。やきもち、嫉妬に過ぎないと一蹴していた。(雑誌インタビュー)
果たしてそうか?んなわけはない。
日プロ後期、馬場の天下が磐石になったのは確かだけど猪木が急速に追ってきていたのも事実。
大木と吉村を追い抜き、インターの相棒となり人気もどんどん上がった。
最初こそ猪木と相手が取り合って最後を馬場が締める感じが多かったが、次第に扱いは対等に近づいていく。

テレビ朝日が参入し、看板の馬場を写すことは認められなかったが、それじゃ猪木を主役に・・・となった。

箔をつけるため、シングルタイトルを与えられ、挑戦者に鉄の爪エリックが選ばれ防衛を果たす。
"本場所"ワールドリーグ戦も当たり前になっていた馬場の連覇街道は止められた。NWA新王者ドリーへの挑戦も引き分け(名勝負扱い)。つまり看板外人にも猪木は負けなくなった。
で、新進の美人女優との一億円披露宴でリング外でも話題になる。

これ、意識しない方が変だし何とも思わないほうがおかしい。内心は相当焦ったはずだ。日プロ上層部にも不審を抱いただろうし。
逆に追い上げていた猪木の方がイケイケで気分は楽だし乗ってたはずだ。だから最後は暴走したんだろうが。

まあ老舗の日テレ版が本放送みたいな感じで、テレ朝版を抑え続けていられた事で辛うじて優位性を保持できていたこと。ワールドリーグ戦も冷や汗展開ながら12、13回となんとか取り返したし。

でも猪木提唱の日プロ改革案に一度は乗りかけ上田がチクるまでは信用。
それ考えたらお人好しというか、周りが思うほどの焦りはなかったのかも知れないが。
131お前名無しだろ:2014/03/03(月) 15:13:04.71 ID:/gYxWEsd0
どうなんだろうね。
話題としては70年代まで入ってるけど、いわゆる「猪木のクーデター事件」には馬場も
最初は賛成してたんだよね。ダラ幹が不明朗な経理をしてたり選手が体を張って稼いだ金を
無駄遣いしているってことまでは共通認識を持ってた。問題は猪木が主導権を握ろうとして
自分のスタッフを入れて改革をしようとしたこと。これで馬場は共闘する立場を変えて、
猪木に不信感を持った。要するに馬場からしてみれば、猪木とのツートップまでは許せるが、
自分を排除しようと画策してると映ったわけだ。事実、猪木は馬場に相談せずに勝手に
動き出した。馬場の立場からすれば疑心暗鬼になって当然。

それから、日テレとテレ朝(当時のNET)との棲み分けをダラ幹がちゃんとせずに、
馬場をNETに出すなどして日テレを怒らせたことも問題になった。契約違反だったからね。
とにかく、当時の日プロは馬場・猪木の二枚看板とNWAとの連携もあって我が世の春を謳歌してた。
ダラ幹らからすれば猪木の台頭は看板が増える美味しい状況。当人たちのプライドや
他の主力級の大木に気を砕かず選手たちが離反するのは当たり前の状況を作り出していた。

当初はダラ幹VS選手がダラ幹VS馬場VS猪木になり、ダラ幹は馬場を取り込んだと勘違いしてた。
で、政治家の馬場はちゃっかり水面下で日テレと独立に向けて動いてた。馬場はアメリカ時代に
培った人脈があったため独立するときは最大限にそれを利用した。一方猪木は人脈がなく、
ゴッチだけが頼りという有様。ゴッチは高い金を要求してどうしようもないレスラーばかりを
読んできたため、猪木は自力で何とか打開策を探らなければならなかった。その一つが
VS小林の日本人エース対決であり異種格闘技、ローカルタイトルを借金に苦しんでたパワーズから
金で買ったと言われるNWFタイトル。これを「世界タイトル」と銘打って無理矢理箔を付けた。
132お前名無しだろ:2014/03/04(火) 00:38:07.24 ID:HxRD10Ly0
馬場は新日(旗揚げ的には先にやられたけど)なんかすぐ潰れる。と思っていただろうな。坂口が合流しテレ朝がついた時もおそらく「あの外人メンツじゃどうしようもない」とタカをくくっていたと思う。パワーズ相手に奪ったNWFにも鼻で笑う余裕だったに違いない。
でも、小林や大木との対決で大観衆を集め話題を独占し、力道山追悼オープン選手権にそうそうたるメンツを集めたにも関わらず、ロビンソン戦で興行合戦を挑んできた新日に実質負けたんじゃね?雰囲気を味わう。

猪木ってこんなに人気なのか!と思っただろう。そしてブッチャーの対抗馬として作られたシンも成功し、マイナー外人路線ながら地盤を強固にしていく新日。
大型新鋭の鶴田はいまひとつ人気が弾けない。頼りはもう日本のファンが格を認めて見ているNWAという存在しかなかったろう。

そこに新日が加盟を求め出した。これだけは許してはならん牙城!さすがの政治力で有名無実化にはできたが・・・
133お前名無しだろ:2014/04/14(月) 09:32:03.82 ID:zWJXo6qH0
ダラ幹w
この言葉考えたカジセンセはセンスあるな。
134お前名無しだろ:2014/04/15(火) 12:58:28.35 ID:SNPQczOt0
>>133
ダラ幹自体は昭和初期の労働運動でもよく使われてた
実は死語だったりする
135お前名無しだろ:2014/04/15(火) 13:25:40.52 ID:jTtLTbUF0
だら‐かん 【だら幹】
《堕落した幹部の意》自己の地位を利用して私の利益をはかる指導者。特に、労働運動で、資本家と妥協して私利をはかり、運動を不利に導く指導者をいう。「それには内部の―の力に待つところが多いのである」〈武田・日本三文オペラ〉
http://kotobank.jp/word/%E3%81%A0%E3%82%89%E5%B9%B9
136お前名無しだろ:2014/04/16(水) 05:11:18.34 ID:rEaumHE4O
>>132
>猪木ってこんなに人気なのか!って思っただろう。
残念ながらクーデター騒動前の71年前半頃には集客力、リング上の存在感共に
猪木>>>>馬場になっていたんだよな。
2年前のBIコンビVSホッジ・スナイダー組の頃はまだ馬場>>猪木だったんだけど、その後の第11回ワールドリーグ戦での猪木マルコフ戦、夏のBI対ブルクラの連戦で馬場≧猪木ぐらいまで差が縮まって年末のドリー戦を境に実質猪木≧馬場に逆転していた。
古株の番記者や日テレ関係者の間では馬場贔屓が多くてそれでも馬場が人気実力共に一番なんだと定義づけたかった様だが今でいうユーザー評価や顧客満足度では猪木が一番だった訳だから。
だからこそ無謀と思われた新日旗揚げも猪木なりの勝算があったんだんだろうしNETが味方に付いた後は一気に上昇気流に乗って事実上日本プロレス界の主導権を掌握したとも言える。
137お前名無しだろ:2014/04/18(金) 10:41:07.27 ID:2ivgPPPA0
>>113

>追記だが、猪木はそのワールドリーグではテーズ、ブラッシー、ハットン、
>M・シャープ、アトミック、オースチン、オコーナー、カルホーン、アトキンス
>等超一流どころをぶつかっている。

猪木にとってこの時のワールドリーグ戦は猪木試練の十番勝負だったんだなw
138お前名無しだろ:2014/04/18(金) 10:52:18.57 ID:IbU2f9ELO
Gスピリッツとか古いテレビ関係者の馬場は見せ物の証言、猪木が最初に言い出したから信用はしてなかったがわりとマジだった。
139お前名無しだろ:2014/04/18(金) 18:14:39.58 ID:c0LX8KHS0
フランケンシュタインとか直接馬場に言ったんだろ?
その時馬場はどんな顔したんだろ?
140お前名無しだろ:2014/04/19(土) 02:14:30.58 ID:dxg6R71Y0
>>136
今の時代、日プロ時代の馬場と猪木をリアルに比較できるヒトはそうはいない。
うちの親もプロレスを見てはいたが、別に特段興味があるわけじゃない
“一般層”。
この時代のプロレスファンは殆どそうだと思う。
貴重だな、貴殿は。
141お前名無しだろ:2014/04/19(土) 02:47:21.80 ID:4LrdbYRS0
 猪木日プロ追放前1969-1971年は『ゴング』も読んでたしTVで日本
TV、NET両方見てたけど。たしかにその3年は猪木のファイトや実績
が急上昇した時期なんだね。1969年のワールド・リーグ決勝で流血
の死闘の末にクリス・マルコフを卍固めで落とし初優勝。69年末に
NWA世界戦でD.F.ジュニアと60分ノー・フォールのドローっていう
、名勝負をする。しかも手の指一本骨折という怪我を負ってのドロー。

 1970年は星野勘太郎とのタッグで第1回世界タッグ・リーグ優勝。
1971年は念願のユナイテッド・ナショナルをロサンゼルスで獲得。
春にF.V.エリックとは1対1で引き分け。またインター・タッグでは
覆面カリスマのミル・マスカラスを卍で落とす。シングルでもUN戦で
マスカラスにはフライング・クロス・アタックをコーナー・マット
に自爆させてリング・アウトで勝ってる。夏にはNWA王者にな
る前で上り調子のジャック・ブリスコに2対1で完勝。秋の第2
回タッグ・リーグでは坂口と組んで連覇。同時期女優倍賞美津子と
結婚。試合もプライベートも絶頂期ではあった。

 でもそれまでの馬場の実績もあったし俺からみると馬場とイーブン
て感じだったな。
142お前名無しだろ:2014/04/19(土) 07:04:12.71 ID:E3vyaGs90
71年時点では
もう馬場の方はもう見たいカードは出尽くして
過去の焼き直しで繋いでる感じが強く
猪木の方はまだまだこれから見たいカードが目白押しだったから
2人の立場は嫌でも逆転してただろうね
143お前名無しだろ:2014/04/19(土) 12:27:44.39 ID:4Cl9SVRv0
うーん、俺も69年から71年の頃は日テレとNET両方観ていて、
ゴング、別冊ゴング、プロレス&ボクシング、ファイトを定期購読する位に
一番プロレスに熱くなってた時期だけど、確かに猪木の評価が高まっていて、
馬場に並ぼうかってレベルまではいったとは思うけど、まだまだ馬場が中心にいたのも
確かなんだよねえ。UNタイトルだって、NETが猪木中心のマッチメイクしか
放送できなかったため、テレビ局がタイトルを望んで日プロがそれらしいタイトルを
あてがったというのが事実だし、それでもインターよりは格落ちした扱いだった。
ドリー戦も馬場はインタータイトル賭けてフルタイム・ドローで面目保ってたね。
個人的には当時から猪木の方が好きだったけど、馬場がNo.1で猪木がNo.1.5位の
差はあったよ。外人トップは必ず馬場のインター戦を戦ってたからね。

あと、細かい話しだけどマスカラスのシングル戦はノンタイトル戦だったはず。
別冊ゴングのインタビューでマスカラスは猪木を褒めながらも、
「いい選手だが単細胞なところが欠点」と明言していたね。
当時の猪木はマスカラスのようなルチャ系の選手と経験が無くて
持てあましてた印象があった。
144お前名無しだろ:2014/04/19(土) 12:47:35.11 ID:SRZNfIjY0
昭和46年の段階で表面的なものは
馬場の方が猪木よりはまだ少し上というのは間違いのないところだけど
実質的には立場が逆転してたといっても言い過ぎじゃない
ワールドリーグの優勝がなかったら
この年の馬場はシングル、タッグともに壊滅的な内容と言っていい
前年迄とはあまりに違いすぎる
もう馬場ではもたないという時期が迫ってきてた
145お前名無しだろ:2014/04/19(土) 12:57:47.57 ID:4Cl9SVRv0
当時の馬場は技が多彩でオリジナル技もランニング・ネックブリーカー・ドロップや
ジャイアント・バックブリーカーがあった。他にも32文ロケット砲や16文キック、
アトミックドロップ、ココナッツクラッシュなどスケールの大きいファイトが魅力で、
猪木も「馬場さんは立ってるだけで説得力があって羨ましい」と言ってたほど。
大きくてスピードもあって技も豊富だったから、いくら猪木が頑張っても追いつけないという
その焦燥感が、Wリーグ戦直後の挑戦発言になったんじゃないかな。

選手晩年の馬場しか知らない人にとっては上述の印象は全くないと思うけど、
当時の馬場は30代前半の全盛期だった。テレビで観るより会場で観ると分かるが、
インタータッグでBIを観るとやはり猪木の存在感は馬場に敵わなかったのは確か。
また、当時は子供だけじゃなくおじさんたちも試合を観ていて、若くて溌剌した猪木より
大きくて見応えのあった馬場の方が人気は高かったんだよね。
146お前名無しだろ:2014/04/19(土) 13:20:25.94 ID:4LrdbYRS0
143:馬場がNo.1で猪木がNo.1.5位の 差はあったよ。外人トップは必ず
馬場のインター戦を戦ってたからね。

141ですけどたしかに143さんの言う通りだったと思いますね。
 「外人TOPは必ず馬場のインターに挑戦」だったし、またその試合が
手に汗握る良い試合だった。デストロイヤーにはインター選手権
前の30分T本勝負で32文を外され自爆→4の字でgive upしてた。そ
の試合はTV中継もされ『ゴング』にもグラビアで掲載。危機感を
出して、実際のインターではなんとか退ける、みたいな。ブラジル
やキニスキーには実際にインター奪われリターンマッチで勝つって
いう。世界の強豪相手に互角に渡り合う、ていうイメージはあった。
日本のNo.1は馬場っていうポジションが俺にはありました。

 その中で猪木は馬場に先行されながらも名勝負をファンク・ジュニ
アと残したり、卍固めや原爆固めといった当時は使い手が日本選手
ではあまりいなかった強烈な印象の技を使い始めたり、コブラツ
イストでのgive up率を高めたり(日本プロ時代の猪木はコブラツ
イストが決まれば勝てる、のイメージがあって、新日本になってか
らコブラのイメージが消えたように記憶しています)、何とか自分
のイメージを高めようとしていた。

 たしか1971年第13回ワールド・リーグが日本選手が馬場と猪木が
同点、外人はデストロイヤーとアブドラ・ブッチャーが同点で、そ
こでちょっと記憶が曖昧なんだけど(第1試合で勝者が出ればその
選手が優勝、だったかな?)、第1試合猪木vsデストロイヤ
ーが4の字のまま場外転落で両者リングアウト。第2試合が馬場vs
ブッチャーで馬場の勝ち。馬場優勝。で試合後に猪木が馬場に挑戦
したいと声明出しましたよね。「時期早尚」と日プロ側に却下されて。
あれが1971年春で、あそこが分岐点だった気がするんだけど。猪木の
位置が馬場の真後ろくらいには来てた。マラソンに例えると、もう
かわして1位に躍り出る直前だったような…。ところが同1971年暮
れに日プロ突然の猪木追放。だったと思います。
147お前名無しだろ:2014/04/19(土) 13:23:59.54 ID:PfAukZBpi
この当時の猪木で記憶にあるのは、日プロ追放後にテレ朝のピンポンパンの亜流番組に
アントンお兄さんとして出ていた事かな。
親父が「猪木も日本プロレスをクビになって、こんなことやってんだ?」と言っていた。
148お前名無しだろ:2014/04/19(土) 16:04:17.03 ID:4Cl9SVRv0
馬場がキニスキーにバックドロップを食らって負けた試合は、今から思うとロスでリマッチやる
予定まで折り込まれてたんだと思う。年末で映画『トラ・トラ・トラ!』の公開と同時期だった
記憶があるな。あのシリーズでは東プロで因縁があったバレンタインも来日していて、
猪木のUNとBIのインタータッグに挑戦してた(パートナーはもちろんキニスキー)。
UNは確か猪木が卍で勝ったと記憶してる。キニスキーは元NWA王者で実力者だったから、
馬場も負けブックを飲んだんだと思う。

71年のWリーグは馬場、猪木、ブッチャー、デストロイヤーの四人が同点で並んでくじ引きで
対戦相手を決めた(後に猪木潰しとの噂もあったが)。日本人同士は戦わない決まりがあったので、
馬場VSブッチャーと猪木VSデストロイヤーという組み合わせになった。俺も記憶が曖昧だけど、
馬場と猪木が勝った場合どうするのかは対戦相手を入れ替えて再戦するルールだったと思う。
猪木はこの大会では最終戦でコックスに3カウント奪われるも足がロープに掛かってたとのアピールが
認められ、試合続行になりブレーンバスターを空中で身体を反転させてコブラで仕留めた。
かなりきわどい勝利だった印象がある。

結局、馬場が優勝したけど猪木が馬場の控え室に行って握手を求め対戦を要求。馬場もとまどい
芳の里から「時期尚早」とのコメントが出て挑戦話しは収束した。でも、当時のファンは期待したよね。
王者馬場とそれに肉薄してきた猪木とどっちが強いのかって盛り上がった。まあ、今だとブックありきで
引き分けにせざるを得なかったとは思うけど。当時の猪木は「若獅子」と言われていてまだ少しだけ
青臭さがあったように思う。そこが魅力的だったんだけど。
149お前名無しだろ:2014/04/19(土) 16:12:42.68 ID:4Cl9SVRv0
自分は猪木ファンだったからクーデター騒ぎの後は暫くはテレビ観戦しなかった。
猪木の変わりにUN王者になった坂口のシーク戦だけは観たけど。
新日の旗揚げ興業のゴッチ戦も雑誌でみて映像が観たいと思って残念だった。
久しぶりに豊登の姿もあったのに。でも、後にレンタルビデオで観ることが出来た。
やはり金策やビジネス面で追われていたのか動きに生彩が無かったのが残念。
その後も坂口が移籍してNETが放送するまでは雑誌でしか見れなかった。
あくまで印象だけどテレビがなかったせいか卍を多用していたように思う。
あと、鎌固め(日プロ時代は使ってなかった)もこの時期の技の印象がある。
150お前名無しだろ:2014/04/19(土) 17:36:48.97 ID:4LrdbYRS0
149:自分は猪木ファンだったからクーデター騒ぎの後は暫くはテレビ観戦し
なかった。

俺も実は猪木が追放されてからは日本プロレスのTVみた記憶がない。まだ中
継がしてたはずだけど見なかったね。馬場と坂口が一時インター・タッグ
やってたらしいけど見て無かった。日本プロレスの最後は大木がインター
選手権保持者になってF.V.エリックとやり、それがアイアン・クローで
血だるまにされてやっと引き分け。その試合は『ゴング』のカラー・グラ
ビアに掲載されれて凄惨さとエリックの恐さがよく出ていた。でもそれも
雑誌で見ただけです。

149:その後も坂口が移籍してNETが放送するまでは雑誌でしか見れなか
った。

そうなんで、俺も雑誌はみてたけど、外人選手が知らないのばかりで、
それ相手にしてる猪木の団体は大丈夫か、ていう。今で言ういわゆる
インディーズだよね。新日本プロの黎明期は。なんか貧乏くさくて
カネがなさそうで、でも地方興行を何とかやってます、ていう。猪木
のスター性だけでもってる弱小団体ですよねあれは。坂口が入り、TVも
始まり、日本勢2TOPにはなったがまだ外人招聘力は弱い時代が続いていた
ような…。レッド・ピンパネールという覆面レスラーが大柄で迫力あっ
てよく出ていた記憶がある。今は名前もでないレスラーですよね。でも
あれがメイン・エベントで猪木や坂口とよくやっていたような。
151お前名無しだろ:2014/04/20(日) 06:41:21.52 ID:1PnJXNJk0
新日は当初はコネがなかったため、カール・ゴッチにブッキングを頼んでいたそうだ。
そのせいもあってネームバリューのない、よく分からない外人レスラーばかり来ていた。
ゴッチは国際プロレスに呼ばれるまでハワイで清掃員をやっていたくらいだったから、
ブッカーで金を稼ぐのは美味しい仕事だったんだろうと思う。それでもあの布陣のレスラーでは
後に新日の関係者から「ぼったくられてた」と評価されても仕方がない。

猪木が最も印象に残ってる外人レスラーとしてタイガー・ジェット・シンの名を挙げてるが、
坂口の加入とシンのブレイク、小林戦が無ければ新日は確実に潰れていた。
特に小林戦は日本人エース同士の対決として、実現当時は大きな話題になった。
この時代を知らない人には想像できないかも知れないが、新日と国際は後のイメージほどの差はなく
下手をすれば小林の他に草津や杉山を擁し、AWAとも提携していた国際の方が立場は上だった。
猪木しかトップを張る選手がいない、シンくらいしかめぼしい外人選手がいない新日にとって
小林戦というのエース対決は大きなエポックとなったことは疑いがない。

猪木は新日設立当初、「馬場は3分、坂口なら片手で1分あれば勝てる」と盛んに挑発していたが、
この時期の猪木の境遇を考えると、馬場が言った「負け犬の遠吠え」は当たらずも遠からずの感が強い。
常に吠えてないと、新機軸を発信しないと忘れられる、見向きもされないといったところか。
それが猪木と新日のスタイルになったため、安定してからも猪木は常に新機軸を打ち出そうとした。
異種格闘技路連やIWGP構想がそれだし、タイガーマスクに端を発する日本人覆面レスラー、
藤波VS長州の日本人同士による抗争劇もそういった猪木のスタイルから生まれたものだろうと思う。
152お前名無しだろ:2014/04/20(日) 12:20:05.73 ID:qNR0l/oLI
小林戦あたりになるとアンドレやNWFがついてきて人出云々は解消されつつあるのですが。
153お前名無しだろ:2014/04/20(日) 12:50:52.00 ID:GC0am1aj0
>>130
>全日の初期、馬場は猪木の挑発に対して猪木をライバルだとか思ったことは一度もない。やきもち、嫉妬に過ぎないと一蹴していた。(雑誌インタビュー) 果たしてそうか?んなわけはない。

レスラーとしてはそうだったかもしれないが、少なくとも全日本を旗揚げしたあとは
全日本vs新日本というライバル関係をファンはちゃんと認識していたのは事実だ。
逆にいうと「猪木をライバルだとか思ったことはない」という発言は
ファンやマスコミに対する牽制だよ。
154お前名無しだろ:2014/04/20(日) 12:54:08.36 ID:GC0am1aj0
>>104
ワーキングビザなどの関係で未成年者をアメリカで働かせることができないなどの事情があったかもしれないね。
155お前名無しだろ:2014/04/20(日) 14:35:46.03 ID:8RMttO1S0
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156お前名無しだろ:2014/04/21(月) 07:43:35.30 ID:/4A3Uh8S0
全日の初期の話だろう?
馬場はレスラーとしても団体の長としても猪木や新日をライバルとは思ってなかったよ。
当時は絶対的な権威だったNWAの後ろ盾があったし、力道山の遺族を取り込んでいたため、
自分たちこそ正統な後継者というアピールも出来た。また、アメリカでは馬場のことは
よく知られていて海外修業時代では既にレスラーとしてもトップを張っていた。
しかも日本で最大のネットを持つ日テレが付いていた。旗揚げでも新日がゴッチだけという
状況と比較して、全日はこれでもかというくらい豪華な外人レスラーを呼んだ。

これだけの違いがあったのに初期の段階で馬場が猪木を意識する理由があるはずない。
尤も馬場の方も猪木を相手にしてる場合じゃないという危機感はあったと思う。
有望な後継者を育てなければならなかったし、でっち上げた力道山由来のタイトルなんて
権威も何もないタイトルだけでは心許なかったろう。猪木と同様、馬場もタイトルがネックだった。
何しろ当時のインターは大木が保持していたから。
157お前名無しだろ:2014/04/21(月) 15:18:56.49 ID:Sqa+gsWn0
当初はPWFよりNWFより、IWAが歴史では上に来ていたのに・・・
ベルト自体がしょぼいのがいけなかっのかな。
158お前名無しだろ:2014/04/21(月) 17:27:04.55 ID:hx7cWZYA0
>>151
>坂口の加入とシンのブレイク、小林戦が無ければ新日は確実に潰れていた。

坂口とシンは確かにそうだと思うが、小林戦が無くても潰れはしなかっただろ。
ただ、後の路線(日本人対決等)が大幅に変更になったことは確かだろう。
これがなければ大木戦も長州革命もなかったかもしれない。
159お前名無しだろ:2014/04/23(水) 03:23:31.65 ID:Aog6uVW7O
>>158
いや大木戦はやったと思うけど。
むしろ大木戦が小林戦の後になったせいで大木の存在感がやや薄くなったともいえるわけだし。
小林がいなかったら大木率いるはぐれ日プロ軍とか大韓プロレス軍なんかがシンと並ぶ興行の柱になった可能性すらあったんじゃないのかな。
160お前名無しだろ:2014/04/28(月) 01:12:28.84 ID:Nf3Dd3S00
>>148
そのときのWリーグおぼえている。
猪木が本気で優勝を狙っている気がした。応援していた。
組み合わせが決まって、なんか猪木の優勝はないなと思った。

ここまでは子どもの心の回想だが、実際、当時の日プロで
猪木ががんばればWリーグを制するといったことは可能だったの?
タイトルマッチもそうだけど、「プロレス」を保持しつつ、試合は試合として
実力で結果を左右させ得るものとしてあったの?

すべてがシナリオ通りのものでしかなかったの??
161お前名無しだろ:2014/04/28(月) 06:57:32.32 ID:eH7l5Wcz0
>>160猪木ががんばればWリーグを制するといったことは可能だったの?

 実際に1969年のWリーグでは決勝が猪木vsクリス・マルコフで卍決めて初
優勝してますよ。

 猪木って日プロにずっといた馬場と違い途中豊登に引き抜かれ東京プロ
レスって新団体設立し、それが崩壊して日プロにもどってきた組。そこが
馬場と大きく違うし、日プロという企業としても、一度退職して会社設立
し、倒産してまた復帰する人間は信用しにくいというのはあったとしても
不思議ではない。
 実力だけじゃないその辺でも馬場を会社が推す理由はあったと思いますね
。少なくとも馬場じゃなく猪木をあえて推す理由は考えにくい。 その
辺の事情は手近な資料で「wikipedia東京プロレス」に詳しく書いてあります
よ。
 ただそれによると、東京プロレスに猪木が参加した背景に、日プロが
馬場を大事にしているのが露骨で嫌気がさしていたため、とあります。力道
山からも可愛がられていた馬場は力道山死後も猪木より会社から可愛がられ
それに反感を持っていたと。馬場と猪木の確執は当時から始まっていた
ということでしょう。猪木は実力で馬場を追い越すしか道はなかった。
猪木が何かと後年「実力」を口にしていたのも、会社からの評価では馬場に
勝てなかった日プロ時代の遺恨が関係しているのではないかと思います。
162お前名無しだろ:2014/04/28(月) 21:38:12.37 ID:W1WYuUIh0
いや、69年のWリーグも観てたから知ってるよ。
(だいたいこのスレで何度も話題になってるじゃんw)

ただ、それもブックだったのだろうなという現在の学習のうえで
あえて、「猪木はがんばったら勝てたのか?」という問を立ててみたということ。

当時のプロレスに、スポーツ競技としての「実力」という尺度はあったのか?
競技としての勝ち負けは、その他のスポーツ試合同様、力量によって左右されていたのか?
すべてがサーカスや芝居といった「見世物」でしかなかったのか?

芝居が前提なら70、71年のWリーグで猪木が優勝できるはずがないな。
そもそも芝居なら、「力をつける」とは、上手に「プロレス芝居をこなすようになる」であって
演技力、役者力とを身につけ評判を上げ、キャストで上位に立つことにしかならない。

「猪木ががんばったら勝てたのか?」は
千両役者として馬場を抜き看板になることを意味するのか
アスリートとして力量を上げてスポーツ試合に勝つという余地も当時あったのかどうかということ。
163お前名無しだろ:2014/04/28(月) 23:45:15.75 ID:5PSX22Dq0
>>162
 日本プロレス馬場を評価し推していた。力道山生前から。死後も変わらない
。それが東京プロレスになり、日本人同士のTOP争いを好まずはぐらかす
経営陣への不満になる。経営が変われば組み合わせも変わり、馬場とも戦える
と思ったかもしれない。人望では馬場には敵わない猪木は馬場を超えるに
は試合以外にないという発想になる。猪木が新日設立後何かと「実力世界
一決定戦」とか、「実力」を強調するようになるのも、プロレス興業のな
かでは人望や人柄や、力以外で位置が決まること、それは馬場を想定して
の発想だろうけど、への反感でしょう。

 新日設立後も当時のプロレス最大派閥であり権威だったNWAと提携するこ
とはできなかった。NWAは馬場の設立した全日と提携し、ここでも契約とい
う勝負で馬場に負けてしまう。「実力」では新日つまり自分が上、馬場や
全日本プロの人気は本物ではない。本物というなら自分と戦ってみろ、
という挑発がそこから生まれる。

 猪木がどう突っ張ろうと日プロは当時馬場トップ、日本人対外人図式で
利益を上げていた以上、猪木の声を聴く耳などなかったでしょう。「実力」
もへちまもない。これで上手く行ってるんだから、という考え方でしょう。
猪木のなかに、「経済原理や世間の常識を無視しても」、という発想が
当時もいまも出てくるのは、「本当のこと」が隠されてしまうことへの反感
で、その始まりは馬場との確執だったと思いますね。

 UWFや前田が本人がどれだけ否定したとしても猪木の遺伝子の子孫だとい
うのも中心に猪木のイデオロギーがあるのが直感されてしまうからですね。
164162:2014/04/29(火) 01:02:57.32 ID:L9G9TPz90
>>163でおっしゃることはよくわかります。
またそれらは、このスレで万遍なく確かめられる定説として了解しているつもりです

>>162はリフレッシュしてあえて問うたもの。

できれば直截の返答を期待しております。
165お前名無しだろ:2014/04/29(火) 02:20:47.38 ID:SP/HcgO10
>>164
 
「猪木ががんばったら勝てたのか?」は千両役者として馬場を抜き看板になる
ことを意味するのか アスリートとして力量を上げてスポーツ試合に勝つとい
う余地も当時あったのかどうかということ。

という問いですね。世間でよく言われる論争「馬場vs猪木 どっちが強い」
はどういう土俵で問うかで答えは違ってくるんではないか。「プロレス」
はそもそも継続させなきゃいけない興業だし勝ち負け決めることは二の次で
、 「実力」とかそこで言っても通用しないだろう、集客力・組織内評価
優先じゃないか。そこで猪木のいう「実力」を問う余地が当時の日本プロレス
にあったのか?という。

 なかったでしょうね。だから猪木は変えようとしただろうし。それが
叶わなかったことで新日本プロを作り、実現しようとした。そう思って
います。
166お前名無しだろ:2014/04/29(火) 03:00:58.60 ID:L3hVKZP+O
ディープなハナシに首を突っ込むのは戦々恐々だが、当時子供で猪木大好きの自分から見ても、正直プロレスってリアクション大げさで真剣勝負ではないなとはわかっていた。

ただ、比較材料として攻め込む時の説得力と、攻められた後ダメージ回復からの逆転の能力など、強い弱いは確実にあるとも感じていたね。
今にして思うのは、両者ともに、片方には無い能力を有していて、世界の強豪レスラーを迎え撃つにはこれ以上最高の二枚看板はあり得なかったのではないか?と思う。
ただ総合的には、華麗だが少々暴走癖があり、調子に乗りすきて隙を突かれやすい猪木より、面白さには欠けるが慎重で頼もしく、相手をノして勝つ馬場がまだまだ強かったのは正直な当時の印象。
対戦して仮に猪木が勝つにしても、徹底的に馬場を叩き潰すことは無理なハナシだったとは思う。
167お前名無しだろ:2014/04/29(火) 18:41:39.58 ID:ruzC5X+h0
わざとなのか、歯切れの悪い、主題から逸れた留保付きの回答が多くなるな。

>猪木ががんばればWリーグを制するといったことは可能だったの?

これがお題だから、馬場と猪木の直接対決があったらどっちが強いだとか
そういう定番論争じゃないんだ。

69年にWリーグに優勝しているがそれもブックだとしたら
その後もどうがんばってもWリーグ優勝などできなかったのではないか?

がんばればできたの?

それはスポーツとして? 役者人気として? ということ。
馬場との比較なんかどうでもよくて。
168お前名無しだろ:2014/04/29(火) 19:51:55.64 ID:IzMigBOZ0
しかし馬場を語るとき猪木との比較は必要ではないが
猪木を語るとき馬場との比較が必ず出てくるということで
猪木と馬場の終生のポジションが透けて見えるな。
普通スポーツ選手なら、強力な後続があれば追いつき追い越すことがあってしかるべき。
王を語るとき長嶋が出てくるが、長嶋を語るとき王は必ずしも必要ではない、と同じか?
169お前名無しだろ:2014/04/29(火) 23:22:54.42 ID:0ab5Sohj0
ガチだと大木金太郎が一番強いと言われていたのは何か裏付けがあってのことか?
ガチの試合なんかなかったんだからわからないよな?
猪木と大木の試合そのものが無意味なわけで。
60年代の日本プロレスには日本人対決ってなかったのか?
うっかり本気になってしまったとかないの?
170お前名無しだろ:2014/04/30(水) 01:28:26.34 ID:vvf2UWToO
プロレスで解らないのは、その大木にしても、引退後パンチドランカーになるほど頭突きをトレーニングし、実戦でも多用していたこと。
女子プロとは明らかに違い、どう見ても相手に頭が当たってる。

100%フェイクなら、あんな自分も痛くて相手にも迷惑この上無いことを本気で練習する必要なくね?
171お前名無しだろ:2014/04/30(水) 01:36:50.74 ID:tou9GKZB0
頭突きは、仕掛けるほうはそんなに痛くないよ。
技を磨いたのは、自分にダメージが少ない部位を使って
相手にダメージを与える部位にヘッドパットを打ち込む技術の習得のためだろ。

吉村、猪木のアジアタッグ王座を見てるといつもイライラしてきて
なんで猪木・大木じゃないんだ!と思ったんだがなあ
172お前名無しだろ:2014/04/30(水) 02:03:25.36 ID:R8KpI0gB0
>>166
前半は賛成だが、後半は疑問。

猪木が60年代に「華麗」だと思ったことがないし
(バディロジャース、ドリーファンク、マスカラアスなど華麗とはそういう選手)
リングの外ではそうであっても、馬場相手にリングで真剣勝負したら隙は見せないだろうし
逆に、馬場はおもしろさ満載。馬場はまさにフィリッツ・フォン・エリックとか、
フレッド・ブラッシー、ボボ・ブラジル、ブルーノ・サンマルチノ、スカイ・ハイリーのような存在。
相手を熨すといえばルー・テーズ、モンスター・ロシモフ、ジン・キニスキー、ダニー・ホッジ。
馬場は表現力、猪木はスピードとテクニックというイメージ。
誰かの受け売りだがw1969年あたりに両雄が真剣勝負で「プロレス競技」をしたら、
猪木がショーマン行為を出さず勝負に徹すれ馬場に勝ち目はなかっただろう。
ただ、そういう試合になったとき、当時の日本人は「????」となったろうな。
173お前名無しだろ:2014/04/30(水) 03:28:38.04 ID:wcnFNiPB0
 前レスと関係する話で馬場と猪木の差異。対ファンク・ジュニア、また
対F.V.エリックというと馬場も猪木も日プロ時代にシングルで対決してる
わけだけど。このジュニア戦、エリック戦を比較して検証すると、分かる
ことがあって。

 ジュニアの当時の決め技といえばスピニング・トー・ホールド。エリック
といえばアイアン・キロー(顔面掴み)。で、この二つは単に決め技という
だけじゃなく、これが決まるだけでダメージが残り、展開が奪われる。鬼門
ともいえる技だった。馬場はこれらをシングルで結局決められて、1本
奪われている。ところが猪木はジュニアと2試合して1回も気めさせなかった
。またアイアン・クローも気めさせず、代わりに1本目ストマック・クロー
の餌食にはなったがアイアン・クローはかわし、それどころか2本目に
今度こそとアイアン・クロー狙いにきたところを外して背後にまわり
バック・ドロップで仕留めている。

 この辺に猪木の馬場を上回る巧さ、テクニシャンぶりは出てたと思う。
特に60分シングルでアイアン・クローを封じた選手ってそういないでしょ
う。
 ただ相手の1番の決め技を出させないというのは興業としては良いのか
悪いのか微妙で、アイアン・クロー、スピニング・トー・ホールドが
どんなに凄いのか、見たい人もいたろうから、そこがファン・サービス
としては馬場よりも下とも言えますね。まさに>>172レスじゃないけど
そういう意味では馬場は「面白さ満載」。1流外人の決め技がどんなに
凄いか分かる。
174お前名無しだろ:2014/04/30(水) 04:42:34.54 ID:mkh2fi6/0
ドリーの決め技は、初来日の時でさえ
スピニング・トー・ホールドとスープレックスだったよ。
スピニング・トー・ホールドは地味で痛みが伝われない技だからネ。
初来日の時、馬場とのNWA戦と、6人タッグでマツダに決めた以外には
これでフィニッシュは取っていないと思うよ。
馬場に決めたのは、その時、馬場には人間風車で持ち上げられなかったからだよ

2度目、3度目の来日時では、パワーアップし、馬場をも人間風車を
掛けることができ、もうドリー=スピニング・トー・ホールド
というイメージも薄くなっていた。

46年暮れの、坂口とのNWA戦は、人間風車とバックドロップで2本取っているし。
175お前名無しだろ:2014/04/30(水) 05:05:16.20 ID:tou9GKZB0
スピニング・トー・ホールドはやや複雑な技だったから
やられる側が適度に献体してないとかからなかなかった。
もちろん、リアルで観てた僕たちは興奮したけど
この技はもう見世物時代の博物誌のようなものだと思った。
ブレーンバスターとかバックドロップはその点
反射的に出る技として、実際に有効なものと見えていたけど。

コブラツイストだって相手とのコラボレーションに見えてたもんなあ・・・
176お前名無しだろ:2014/04/30(水) 05:24:15.76 ID:R8KpI0gB0
>>173
相手の得意技を食らっても勝てる、というブックを得ていれば
馬場だって悠長に受けに回れたでしょう。キム・ヨナのように。

後発の猪木が、決定的な技を封印して価値を拾おうとしたのは
「約束されない」純勝負としてのプロレスの萌芽だったのでは?
177お前名無しだろ:2014/04/30(水) 13:02:35.56 ID:VrOQAp710
>>173
>相手の1番の決め技を出させないというのは興業としては良いのか
悪いのか微妙で

1971年9月の対エリック戦、胃袋掴みという決まり手は、
意外性があって良かったと思うぞ。
あの技は、ブレーンクローと違い、掛けられている選手の苦悶する表情が
見えて、説得力がある。

それに掴む場所は違うが、同じクローということで、客も納得できるだろ。
178お前名無しだろ:2014/04/30(水) 14:24:38.74 ID:VrOQAp710
>>171
>吉村、猪木のアジアタッグ王座を見てるといつもイライラしてきて
オースチン&アトミック組には、吉村が長時間捕まっていたなぁ。
ドリー&レイス、ドリー&マードックにも標的にされたし、
で、吉村が解放され、猪木につながった時、客の興奮も絶頂に達した。

>なんで猪木・大木じゃないんだ!と思ったんだがなあ
昭和44年に猪木・大木組でアジアタッグを獲得したが、
2度防衛、半年足らずで大木が「アジアシングル王座防衛に専念するため」
という理由で返上。猪木&吉村組がタッグ王座に返り咲いた。

大木は、猪木の引き立て役になるのが嫌だったんだろうな。
179お前名無しだろ:2014/04/30(水) 16:05:12.15 ID:1lzGMWmI0
馬場に一度も勝てないのに虚勢を張るしかない某プロレスラー
180お前名無しだろ:2014/04/30(水) 17:52:18.34 ID:LgR/jf5A0
ドリーのスピニング・トー・ホールドは、
確かにキニスキーからNWA王座を奪った技だが、
いまひとつ、いや三つくらいパッとしない技だったなぁ。
あの技、見たいと思った?

プロレスごっこでやっても全然、痛くないし(それは、プロと素人の
差もあるが、4の字やキーロック、顔面掴みだって
それなにに威力は感じられた)。

だから、ドリーも人間風車を、テキサス・ブロンコ・スープレックス
として決め技に入れたんだろ?
初来日の時から、バックドロップも使っていたし。
181お前名無しだろ:2014/04/30(水) 20:39:35.89 ID:wcnFNiPB0
 日プロではファンク・ジュニアあそこの通例で親父のシニアがセコンド
に陣取りちょっかい。試合は正攻法でも「悪」のイメージを取り入れてい
たが全日ではファンクス善玉で人気上昇。スピニング・トー・ホールドも
スマートな決め技としてよく使うようになった印象がある。

 全日ではデストロイヤーも善玉。ファンク兄弟(日プロ時代は「ファン
クス」の呼び名はなかった)も善玉。とどんどん善玉扱いになり、ブラジ
ルは花束食べる変人。かつての凄みや重みが消えていく。馬場は日プロ時
代の外人の重みと凄みを全日流起用法で相当消したね。全日プロの影の問
題として最も感じるのが俺はアレなんだ。彼ら外人の雄姿が浮かぶのは決
まって日プロ時代。全日時代は日プロ時代に比べるとイメージが軽い。
だから全日っていうと、外人レスラーのイメージをどんどん変えていって
、それが目新しい感じもあったけど、今ふりかえるとちょっと軽すぎる。
新趣向出さなきゃいけない侘しさというか、商品経済原理はプロレス
もまったく例外ではないというか、今は感じますね。
182お前名無しだろ:2014/04/30(水) 23:25:24.60 ID:UYJIKkAH0
全日、新日の話はここではどうでもいい。
やむを得ず言及する場合を除いて、<日本プロレス 60年代 猪木> に関する話にしてくれないか。
183お前名無しだろ:2014/05/01(木) 00:48:57.21 ID:2P3ELMKVO
調子に乗りすきで思い出したが、猪木がストンピングをやりだすと、子供ながらにオレはいつも不安になった。
案の定、急所打ちなどで動きを止められると、決まってオフクロが「ま〜た〜イイ気になってやるからさー」
と怒っていたw

結局オフクロは猪木ファンだったのかもしれぬ。
184お前名無しだろ:2014/05/01(木) 00:57:28.42 ID:uuW1PG5Z0
昔は野暮なこという人少なかったんだなw
みんなも祖父母や親が行きてるならつまらない事言わないようにw
185お前名無しだろ:2014/05/01(木) 02:11:53.19 ID:eNpJ2naN0
>>180
ドリーファンクのスピニング・トー・ホールドなんかエラボレイトというかインテリジェントな感じがして
けっこう好きだった。技自体がじつは?地味だからか、これがはじまるとアナが
妙に興奮して、絶体絶命!みたいな絶叫してたでしょ?
むしろ4の字とか、ごろごろ転がってロープとか、逆四の字に持ち込むとか、なんかかったるかった。

そのころ、一番わくわくしたのはロメロ・スペシャル。

鉄の爪は、前は古すぎて、全日以降はどうでもよくなったので
テレビで試合を見られなかったのが残念。
あれ、こめかみを握力で締め付けているだけなのになぜ流血するの?
186お前名無しだろ:2014/05/01(木) 03:39:00.82 ID:UEJe+Ive0
>>185
>あれ、こめかみを握力で締め付けているだけなのになぜ流血するの?

 エリックが馬場にアイアン・クリーをかけているupの写真みると、やや指の
先端の当りを寝かせて掴んでいるシーンがある。寝かせにいってるときに爪
を立てるんでしょうね。1969年か1970年だったと思うがロサンゼルスで馬場vs
エリックがあってアイアン・クローの場面があった。うちのTVが故障してて向
いの家のTV見せてもらったんだけどそこのおじさんが「何で鉄の爪許してんの
?」とか不思議がってた。本当に「鉄の爪」をしてると思ってたみたいだ。

 今調べたら1969年12月の試合で放送は1970年1月だったようです。
187お前名無しだろ:2014/05/01(木) 03:46:53.77 ID:UEJe+Ive0
 失礼。アイアン・クリーじゃない。アイアン・クロー。
188お前名無しだろ:2014/05/01(木) 04:48:16.02 ID:PPaneoNr0
>>167
日本人の頂点対決を避けたい上層部の思惑は無視できない。
それが、プロレス興行だから。現場の座長は馬場だったわけだしな。

そのうえで70-71年のWリ-グにおける猪木優勝の可能性を後付けで論考してみる。
前年69年(11回)Wリーグで猪木に花を持たせているぶん、70年はシナリオができていた。

70年はマンガ「タイガーマスク」にも取り上げられたドン・レオ・ジョナサンが徐々に大人気!
猪木はシングルで勝っているのですが、リーグとしては馬場が決勝で対戦。
(前年からのシナリオか、猪木は決勝にも進めず。ジョナサンと猪木なら
おもしろい空中戦が見られたのだが、馬場の演技力のほうがジョナサンには愛好が良かった)

翌71年(猪木最後)、4強のうち、必殺技のあった馬場の盟友で格上のデストロイヤーと猪木、
これは「勝ち」に持ち込むためには4の字固めをことごとく封じなければならない。
定番の技が見られないとなると興行的にはマイナスなので、実質不可能。
リングアウトで引き分け。ですら、猪木にはベネフィット。
当然、次の馬場は勝つことになっていた。(→がんばっても勝てない構造)


結論:猪木がいくら頑張っても、12回以降の日プロのWリーグで優勝することはできないことになっていた。
189お前名無しだろ:2014/05/01(木) 09:33:03.54 ID:zMuR7pML0
それじゃあの口やかましいトルコやなんか黙ってないんじゃない?
猪木だって大人しくしてたと思えないし
190お前名無しだろ:2014/05/09(金) 00:09:56.45 ID:PtuACHeT0
>>188
ジョナサン優勝じゃだめだったのか?
日プロって、力道山型の日本人がヒーロー舞台だったんだな。
格闘技だとK-1もprideも日本人が大会を制するイメージ無いんだが
そんなにもあからさまなブック?(シナリオ??)で興業できた時代とは・・・
戦後の力道山・木村とかの頃ならわかるよ。ある意味国民を発揚する装置だったから。
サッカーじゃメキシコ五輪の銅が奇跡扱い。
その世界の壁のリアリティは、プロレスには求められてなかったのか??

オレなんか子どもの頃から「外人組」ばかり応援してたよ。
新日社長・猪木がアリとやって、あーなって、世界の壁がやっとプロレスファンにわかったわけ?
当時の信教の基調を回想してほしいな。
191お前名無しだろ:2014/05/28(水) 00:56:17.37 ID:gSAECvIx0
ボンバイエ保守
192お前名無しだろ
k-1も武蔵が準優勝とかなかった?
魔裟斗もけっこう作られたエースじゃないかな?

まぁ、それでも(特に)ヘビー級では外人との身体能力差はいかんともしがたい・・・という事実を示してリアリズムっぽく仕上げた石井という人は才能はあった。
アントニオ猪木の格闘技路線から始まり、UWF系(高田や前田)やらに胡散臭さが充満していて、そりゃそうだよなぁ、という琴線にうまく触れた。