(続き)
(どんな存在だった?)若い当時は厳しくて大変な人だと思いましたけど、いまから思い起こしてみるとすごい自分の時間なんかあったんだろうか?っていうくらい
一生懸命やってましたね、いろんなことを。父性愛です、父性愛。レスラー全員のオヤジになって、厳しく、ときには優しく。
練習中は鬼のように怖かったですね。練習終わったら、陰で『あのハゲオヤジ』って言って、それを聞かれても『誰のことをハゲって言ってるんだ!?』って許されたというか。
いま自分に身についているいろいろ、人から自分が評価されるときに、自分が持ってるもののなかで山本さんから教えてもらったものっていうのは数えきれないくらいあるなって。
今日お通夜に参加していろいろ思いましたけどね。レスラーとしてっていうんじゃなくて、一人の人間の生き方として、いつもコツコツと小さな努力を積み上げることが大事だし。
人間って本当に努力しないといけないときに、ちゃんと努力できるかできないかっていうのが、人生でいちばん大事なことなんだっていうのは山本さんに教えてもらいました。
ハッと気がついてみたら、すごい大きな影響でしたね。当時、新日本の道場にいて、山本さんがコーチでいて、あのときに育った選手はみんなそうじゃないですか。
当時は新日本は“過激なプロレス”って言われてたんですけど、ハッキリ言うとメインイベントとかは全日本も新日本もそんなたいして変わりはないと思うんですよ。
だけど山本さんが育てた若手の連中、前座中堅クラスはハンパじゃないことやってるんですね、いま考えると。
あれプロレスだったんだろうか?って。その中からいろんな多士済々な人がのちのち出てきて、日本の格闘技界を作りましたからね。
あのまま新日本プロレスが本当にレスリングの方面だけで頑張ってやっていれば、また日本の格闘技界も変わっていたかもしれない。
本当に縁の下の力持ちっていうか。黙々とおごることなく、えらぶることなくやり遂げた人。
(明日の告別席にも?)はい。自分、弔辞読まなきゃいけないんで。いろいろ考えてます」