プロレスラーのギャラ

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812お前名無しだろ
最初、石井館長が「佐竹、ウチにくるならこれだけ出そう」ってパッと手を開いて指を5本立
てて見せた。そのときは、僕は大学もちゃんと卒業していたし、全日本のチャンピオンでもあ
りました。当時はバブルで館長もベンツを乗り回すほど儲かっていましたから、もうちょっと
出してもいいのにと思いました。50万円でも安いと思っていたのです。それで、最初に貰った
給料袋の中を見たら一万円札が5枚入っていた。いまだから笑えますが、当時は冷や汗が出ま
した。"どうしよう"と思いましたが、自ら選んだ道だからしょうがないと、無理矢理に自分を
納得させて職員生活を始めました。

 正道会館の職員は結構長くやっていました。怪獣王国を作ってからもー年くらいは職員の肩書
きがついていましたから、結局6年くらいはやっていたと思います。それで、最終的にどれくら
いまで給料が上がったかというと、職員を辞める前の段階で13万円。92年には「格闘技オリンピ
ック」という興行を3回行っていますが、そのへんのファイトマネーもコミコミで、しかも額面
で13万円。何か知りませんが変な税金まで引かれていました。K-1が始まってやっと、ファイト
マネーがプラスされるようになったのですが、それにしても恥ずかしくて人に言えないくらい小
額でした。

 ついでにお金の話をすれば、僕は「トーワ杯争奪カラテ・ジャパン・オープン」の92年大会と
93年大会を連覇しています。この大会の優勝賞金が500万円で、それは頂いたのですが、後日
館長に30%を寄こせと言われました。それで僕は、ちゃんと150万円を2回、都合300万円を館長に
あげています。そのお金にしても出場料なら問題ありませんが、トーナメントですから優勝しない
ことには貰えません。1回戦で負けていれば賞金はゼロです。そうなったときに誰かが金銭的な
保証をしてくれるのかという問題です。勝ったときには分け前を取るけれど、負けたら知らん顔
では闘っているほうは大変です。あの頃の館長は、何だかんだいって僕が稼いできた金をうまい
こと巻き上げていました。これじゃどっちが館長だか分かりませんが、"くれ"と言われたのだから、
しょうがない。文句も言わず渡していました。本当に"いい弟子"でした