週刊ゴング平成12年6月6日増刊号「プロレス界の永遠の若大将追悼号」より
今回,俺,いろいろなマスコミにコメントしたでしょ。
それはさ,俺にはジャンボの人となりを伝える義務があると思ったんだよ。
ジャンボはプロレス・ファンが思ってるほど,弱い男でもないし優柔不断でもないんだよ。
俺はそれを言いたかった…。
日曜日(14日)の夕方にマスコミの人から聞かされて,ジャンボはアメリカにも行ったし,俺は完治したもんだと思ってたから「またこんなくだらない情報を流しやがって」と思っていたんだよ。
まあ,話を聞かされて“まさか”と思いながらも,テレビや新聞の報道を気にして…一向にニュースにならないから「やっぱりたちの悪いガセか」と安心していたら昨日(16日)の昼,テレビをつけたらニュースでやっていて,ホント,心臓がバクバクしてきたよ。
ニュースを見た時にね,やっぱり俺が相撲から全日本に入った頃のことを思い出したよ。
快く迎え入れてくれて,いいアンチャンていう感じでさ,巡業のバスも隣の席を譲ってくれて。
ジャンボが受け入れてくれたから,俺もプロレスに入りやすかったと思うし…。
本当にね,ジャンボ鶴田という存在があって,彼が俺と真正面から向き合ってくれたから,俺っていう存在が認められたんだと思っている。
ジャンボは常に…俺たちが思う以上に前向きな男だったよ。
俺は好き勝手なことばかり言ってて,ジャンボに「源ちゃん,だめだよ。そんな簡単にはいかないんだよ」って,たしなめられることもあったけど,彼は難しい状況の中でも前向きに一つ一つ殻を破って突き進んでいたよね。
体を壊してからも教授になったって聞いたときには「この人には勝てないな」と思ったし,教壇に立っているんだなと思ったら,「ジャンボ,格好いいなあ」って思ったよ。
やっぱり身近で同じ歩調で歩んできたから,何かにつけて気になっていたよね。
俺は今でも相撲協会の人と付き合いがあるんだけど,そういう人から「ジャンボ鶴田が講演に来たよ」とか聞くと,うまくいったのかなって心配になったもん(微笑)。
最後にジャンボと喋ったのは去年の2月だったかな。
引退するって聞いたときに,全日本を辞めたとき(90年4月)以来,久しぶりに“お疲れさんでした”ってことで電話したんだよね。
もう吹っ切れていたというか,肩の荷が降りたというか,そんな印象だったよ。
で,「そのうちゆっくり昔話しようよ」ってことになって,ジャンボも「今度,源ちゃんのところ(鮨處・しま田)に行くから」って言ってくれて…。
今年に入って3月の22日だったと思うけど,ジャンボから電話があったんだよ。
でも俺が外出していて行き違いになっちゃって喋れなくて。
それで「ああ,日本に帰ってきて連絡をくれたんだな」って思って。
知り合いを通じて探したんだけど,結局コンタクト取れなかったんだよね。
ジャンボは「また連絡しますから」って言っていたというから,そのうちかかってくるんじゃないかなと安易に考えていたんだけど,それが最後になっちゃったね。
…お互い,家庭を持って,子供も持って…いろんなことを話せるだろうなって思っていたんだけど…。
俺は元気だったジャンボしか印象がないからさ。
気持ちの中では一生懸命に試合して,一生懸命に遊んで,元気いっぱいでいつもニコニコしていたジャンボしかいないからね。
だから…こんな言い方していいのか分かんないけど,俺は幸せだよ。
本当に俺は…“ありがとう”と思っているよ。
今,何かジャンボに言うとしたら…「お疲れさん」としか言いようがないね。
(5月17日昼取材)