狂気の十字架
『欲望とのバランスをとる為の苦痛の礼賛」
初期のキリスト教徒は自らの信仰と自らの教会にとって避けられない時だけ
苦痛と殉教に訴えた。人々は苦痛の、そのものの為に苦痛を求め始めた時
ようやく殉教が行われるようになり、そうしてキリスト教信仰は制約を
受ける事なく実践されるようになった。
こういう傾向は中世に初めて現れたが極端な形での十字架の狂気は世俗主義と
精神的な快楽主義が支配的だったルネッサンスにはじまり、そのずっと後に
なって目立ちはじめた。
―タタルキェヴィチ―
San Francesco d'Assisi(1181〜1226)
聖痕現象との因果関係を考えた此処未。
磔刑の際、クリストが釘を打たれたのは手の平でなく手首であるそう。
何故なら、手首でなければ体重を支える事が出来ずに裂け落ちてしまうそう
(医学的に)。であるのにも関わらず手の平に聖痕現象が起きるという事
は。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
全てのものには相(姿、形)があります。
ものには性質があり、本体があり、潜在する力があり、そして作用する力を
持っています。
作用する状況にあたっては必ず、その原因があり、条件となる
縁があり、生み出される結果があり、それによる報いがあります。
要するに最初の相から報いに至るまでの九項目は一貫しており等しいものです。
つまり心と体は不二一体であり、原因と結果も同じく不二一体という事
なのです。
―仏陀『サッダルマ プンダリーカ スートラ』より―