182 :
Ms.名無しさん:2012/10/12(金) 20:38:29.15 0
思うに、次の世代のもろもろの個性を厳密に規定することのほうが、彼らのあの感情過多や非現実
的な蜃気楼よりもはるかに高遠で尊厳な目的ではなかろうか。いやそれどころか、この地上の目的のな
かでこれにまさる重要かつ偉大な目的がありうるであろうか。恋愛の激情が深く人の心を動かし、それ
が現われるときいかにも真剣であり、この激情の動機とか、またこの激情がひき起こすもろもろの事柄
とかこうした些末な事柄さえきわめえ重要なものとなるのも、この目的があればこそである。この目的を
真の目的として認めるかぎり、そのかぎりにおいてのみ、恋の相手を手に入れるための煩雑さや果てし
ない努力や苦労もその事柄にふさわしいものと見えるのである。というのは、こういうあがきと苦労を
介して生まれでるものこそ、個人として徹頭徹尾くまなく規定されたきたるべき世代だからである。い
やそれどころかこのきたるべき世代は、性的衝動を満足させるためのきわめて慎重で明確な、しかもわ
がままな選択のなかにすでに胎動しているのであって、この選択がすなわち、恋愛と呼ばれるものであ
る。愛しあう二人のいやます恋情は本来すでに、彼らが生みだすことができ、また、生みだしたいと願
う新たな個体の生存意思である。いやむしろ、彼らの憧憬に満ちた眼がたがいに交わされあうとき、す
でにそこに、個体の新たな生命の火が点ぜられたのであり、この生命が、適切に構成された調和のある
未来の個性として告示されているのである。彼らは、真に融合合体することによって一つのものとな
り、もはやただかかるものとしてのみ生きつづけようとする憧憬を感じる。この憧憬は、彼らによって
生みだされた者のうちに実現されるであって、この者のうちに、彼ら両人から遺伝される性質が融合
合体して一つのものとなり生きつづける。逆に、男性と娘が〔結婚前〕たあいに憎みあい、その憎悪が
決定的で永久的なものであれば、これはすでに、彼らが生むことのできるものが出来の悪い、それ自体
不調和で不幸な存在となる予告である。それゆえカルデロンはあの恐ろしいセミラミスを大気の娘とよ
んではいるが、のちに夫殺しの因縁を作る強姦による娘として描いており、そこにも深い意味が宿って
いる。
183 :
Ms.名無しさん:2012/10/12(金) 21:25:46.84 0
ところで最後に、このように激しい力で性の異なった二つの個体を他のものには目もくれずたがいに
牽きあわせるものは、全種族のうちに具現されている生への意思であって、この意思が両者を生みだす
ことのできる個体のうちにおのれの目的にかなったおのれ自身の本質の客観化を予想しているのであ
る。すなわち、この個体は父親からは意思つまり性格を、母親からは知性を、両者からは体格を受け継
ぐことになる。しかしたいてい容姿は父親のほうに、体の大きさは母親のほうに似るものであって――
これは動物が雑種を生む場合に現われる法則に従っており、この法則は、胎児の大きさは子宮の大きさ
に従わねばならないということにもとづいている。人それぞれのまったく特殊な、彼にのみ固有な個性
は説明しがたいものであるが、愛しあっている二人のまったく特殊な個性的な激情もまたこれと同様で
ある。――いやそれどころか、この両者は根本においては同一であり、前者は、後者に潜在していた
ものの顕現にほかならない。まことに、両親がたがいに見染めあう――イギリスではこれをいみじく
も「たがいに思い染める」〔相手をこうと思い込む〕to fancy each otherと言っているが、―この瞬間こ
そ、新しい個体の出現する端初であり、その生命の真の跳躍点であると見るべきであり、まえにも言っ
たように、彼らの憧憬に満ちた眼がたがいに交わされ見つめあうとき、新たな生命の最初の萌芽が、も
ちろんこれもすべての萌芽と同様にたいてい踏みにじられるのであるが、生じるのである。この新たな
個体は、いわば新たな(プラトン的な)イデアである。ところで、すべてのイデアが猛烈きわまる勢い
でこの世に現象しようとあがき、因果律がそのためにこれらのイデアのすべてに配分する物質を貪婪に
つかみとるように、人間の個性というまさにこの特殊なイデアもまあ、現象界におのれを実現させよう
と猛烈きわまる勢いと貪欲さであがくのである。この貪婪さと烈しさがすなわち、将来の両親たる二人
のあいだの情熱なのである。この情熱には無数の度合いがあり、その両極端は、現世のアプロディテと
天つアプロディテとよぶこともできよう。しかしいずれにせよ、本質においてつねに同一である。
184 :
Ms.名無しさん:2012/10/12(金) 21:38:14.36 0
これに反し情熱の強さの度合いとなると、情熱が個性的になればなるほど、すなわち、愛されている個人
が その容姿のはしばしや性質やこれらすべてのおかげで、愛している個人の希望と独自の個性によるぬ
きさしならぬ欲望とを満足させるのに適した唯一の者であればあるほど、ますます大きくなる。ところで
このさい何が重要であるかは、われわれにこれから順次明らかになろう。恋愛の執着心は、まず第一に
そして本質的に健康と力と美に、したがってまた若さに向けられている。というのは、意思はまっさき
にすべての個性の基礎である人類の種族的性格を具現することを要求するからである。卑俗な色恋ざた
はそれ以上には出ない。つぎにいっそう特殊な要求がこれに結びつく。われわれはあとでこれらの要求
を詳細に研究しようと思うが、情熱は、これらの要求が満足される見込みのあるときに高まるのである。
しかし熱情のなかで最も激しいものは、二人の個性がたがいに調和しており、そのために父親の意思す
なわち性格と母親の知性とがその結合によってほかならぬもの、意思が憧憬を感じている個体を完成し
うる場合に生ずるのであって、その個体こそ、全種族のうちに具現されている生への意思一般が種族の
規模にふさわしい、したがって死すべき人の子の心情の規模を超えた憧憬を覚える当のものであり、ま
たこの憧憬の動機も個人の知性の範囲を超えている。これがすなわち、真の偉大な熱情の魂である。
――ところで、二つの個体相互の調和が、のちに考察すべきじつにさまざまな点のどの点においても完
全なものであればあるほど、彼らのあいだの熱情はますます強くなる。まったく同等な個体というもの
は存在しないから、特定の男性にたいしてはそれぞれ特定の女性が――つねに生まれるべき者に関して
――最も完全に適応していなければならない。こういう男女が出会う偶然というものが非常にまれであ
るように、真に情熱的な恋愛も非常にまれである。しかしこういう恋愛の可能性はだれのうちにも存在
しているのであって、だからこそ詩人の作品における恋愛の描写がわれわれにも理解されるのである。
185 :
Ms.名無しさん:2012/10/15(月) 13:47:24.93 0
―ほんらい恋愛の熱情は生みだされるべき者とその性質が中心問題であり、ここにその核心があるの
であって、まさにそのために二人の若い、教養のある男女のあいだに、彼らの志操や性格、心ばえの一
致によって性愛をまじえず友情が成立することがある。いやそれどころか、彼らのあいだには性愛とい
う点ではある種の嫌悪が存在することがあるが、その原因は次の点に求めるべきである。すなわち、彼
らが子供を生むとしたら、その子供は肉体的か精神的に不調和な性質をもつだろうということ、要する
に、彼の生存と性質が、種族のうちに具現されている生への意思の目的に適応しないだろうということ
である。これと逆の場合には、志操や性格、心ばえが異なっていながら、しかもそのためたがいに嫌い
あいながら、いや憎みあいながらも、それでも性愛が生じ、この性愛が以上すべての事柄にたいして盲
目にする場合にはそれが存続することがある。ここで性愛が結婚へ誤って導くようなことがあれば、そ
れは〔当事者たる個人にとっては〕非常に不幸なものになるであろう。―
さて、問題をいっそう根本的に検討してみよう。エゴイズムは一般にあらゆる個性に非常に深く根ざ
している特質であって、そのため、個人の活動を触発するには利己的な目的は、確実にその効果を期待
することのできる唯一の目的である。たしかに種族の個体にたいする権利は、はかない個性よりもさら
に以前のものであり、さらに直接的で、さらに大きなものである。しかし、個体が種族の存続とその性
情のために働かせられ、犠牲まで捧げさせられる場合、単に個人的な目的のみを目ざしているその知性
にたいし、事の重要性を理解させ、事が事だけにそれがいかに重要か、ということを感じさせることが
できない。そこでこういう場合に自然がその目的を達成するために取りうるただ一つの方法は、自然が
個人に或る種の妄想を植え付けることであって、この妄想のため、ほんとうは単に種族にとって善であ
るものが彼には自分自身にとって善であるように見え、そこで彼が自分自身のためにつくしていると妄
想しているのに、じつは種族のためにつくすことになる。
186 :
Ms.名無しさん:2012/10/15(月) 14:01:22.00 0
こういうわけで、あとでただちに消えてしま
う幻想が彼のまえに浮かび、これが動機として現実の代わりに働くことになる。この妄想がすなわち本
能である。本能はたいていの場合、種族の感覚と見なされるべきであって、種族に役立つことをこれが
意思に描いて見せる。ところが意思は、ここでは個体的になっているため錯覚を起こし、種族の感覚が
彼のまえに掲げてみせるものを個体の感覚をつうじて知覚せざるをえない、すなわち、単に全体の(こ
の言葉を最も本来の意味に解釈して)目的を追求しているのに、個人的な目的を追求しているように妄
想せざるをえない。本能の外面的な現象は、動物で最もよく観察することができる。というのは、本能
の役割は動物の場合に最も明瞭だからである。ところが本能の内面的な経過は、あらゆる内面的なもの
と同様、われわれがわれわれ自身に即してのみ知ることのできるものである。ところで、人間は本能と
いうものをほとんどもたない、たかだか、生まれたばかりの赤子が母親の乳房を求めてつかむぐらいの
本能しかもたないと考えられているのはたしかであるが、しかし実際は、或るひとつの非常に確実で明
瞭な、いや非常に複雑な本能、すなわち、性的満足のために異性をきわめて微妙かつ真剣に、しかも気
ままに選択する本能をわれわれはそなえているのである。異性の美醜は、この満足それ自体からすれば、
すなわち、それが個体の切実な欲求にもとづく感覚的な享楽であるかぎり、この満足とはほとんどなん
の関係もない。したがって、それにもかかわらず美醜にあくまで拘泥し、またそのために慎重な選択が
なされるというのは、選択する者はそのように妄想はしているけれども、明らかに選択する者自身とは
関係がなく、真の目的、すなわち生みだされるべき者に関係がある。というのは、種族の典型をこの生
みだされるべき者にできるだけ純粋に正確に獲得させようと思うからである。
187 :
Ms.名無しさん:2012/10/15(月) 14:31:48.40 0
すなわち、無数の身体上の事故や精神上の不幸によって、人間の形態に実にさまざまな変種が生ずるが、
それでも種族の純正な典型がそのあらゆる部分にわたってまたしても作りだされるのであって、これは、
性的衝動をあらゆる場合に先導する美的感覚の指導のもとになされるのであり、この美的感覚がなければ、
性的衝動は吐き気を催すような欲望に堕落するのである。そこでだれでもまず第一に、最も美しい個体を、
すなわち、種族の性格が最も純粋に現われているような個体を断固として選び、これを激しく熱望する。
しかし彼は第二に、相手にたいし自分に欠けている完全性をとくに要求する。いやそれどころか、自分の
欠点と反対の欠点を美しいと思うことさえある。たとえば、小柄な男性が大柄な女性を求め、金髪の者が
黒髪の者を好むのもそのためである。――男性が自分にふさわしい美女を見て惑乱し、そのため、この美
と一体になることが最高善だと思いこむのは、これがまさに種族の感覚であって、この感覚が、明らかに
示されている種族の刻印を見てとり永久にこの刻印を種族が失わぬようにさせたいと思うからである。
種族の種族たるゆえんの典型が維持されるのは、美にたいするこの断固たる執着のためである。だから
こそこの執着はじつに強力に作用するのである。この執着心がどういう点を顧慮するかは、あとでとく
に観察することにする。それゆえ、この場合人間を導いているのは実際は本能であって、この本能が種
族の最善のものを目ざしているのであるが、人間自身はこれを単におのれの享楽を高めるための努力に
すぎないと妄想している。――じじつ、あらゆる本能はほとんど例外なく、人間の場合と同様に種族の
幸福のために個体を動かすものだという本能のこの本質を明らかに示す有益な教訓がここにある。
188 :
Ms.名無しさん:2012/10/15(月) 14:45:17.33 0
というのは、昆虫が特定の花や果実、あるいは汚物や腐肉を、また姫蜂のようにほかの昆虫の死骸をさ
がす場合じつに慎重であるが、これも自分の卵を産みつけるのに適切なただ一つの場所を求めるためで
あり、これを見つけだすための苦労も危険もあえて厭わないが、これは、男性が性的満足のために彼の個
人的な好みに合った特定の性質をそなえた女性を慎重に選択し、彼女を獲得しようと熱心に努力し、こ
の目的を達成するためにしばしば理性のいかなる言葉にも耳をかさず、財産や名誉や命にもかかわる愚
かな結婚や情事、はては姦通や強姦などの犯罪によって生涯の幸福を犠牲にするのとよく似ている。こ
れらすべてはただ、個体を犠牲にしても、つねに主権者たる自然の意思に服して最も有効に種族に奉仕
するためにすぎない。すなわち、本能とはいかなる場合でも、目的概念に従っているかのように見えな
がら、実際はまったく目的概念をもたずに働くことである。自然が本能を植え付けるのは、行動する個
体が目的を理解することができないか、あるいは目的を追求することを欲しないような場合である。そ
れゆえ本能はふつう動物にのみ、しかも最も下等な動物にとくに与えられる。というのは、これらの動
物はきわめてわずかな悟性しかもたぬからである。しかし、ここで観察してきた場合にほとんどかぎら
れるが、人間にも本能が与えられている。というのは、人間はたしかに目的を理解するが、しかしその
目的を必要なだけの熱心さで、すなわち彼の個人的な幸福を犠牲にしてまで追求しようとはしないか
らである。したがってここでも、あらゆる本能の場合と同様、心理は意思に働きかけるために妄想とい
う形態をとる。好色な妄想が彼にふさわしい美しさをそなえた女性の腕にいだかれることが他のどの女
性の腕にいだかれるよりも大きな快楽だと男性に思いこませるのである。あるいはこの妄想がただ一人
の個人にのみ向けられ、この女をわがものにさえすればそれこそ幸福で有頂天になるだろうと固く信じ
ているが、これもじつは種族の純正な典型の維持のために、いやむしろ、この両親からのみ生まれる
まったく特定の個性を生みだすために行われるのである。
189 :
Ms.名無しさん:2012/10/15(月) 20:54:16.97 0
この場合、本能というものの性格、すなわ
ち、目的概念に従っているかのように見えながら、じつは目的概念をもたずに行動しているというこの
性格がきわめて完全に保持されており、かの妄想にかりたてられる者は、彼を導く唯一のものである目
的すなわち生殖を忌避したり、妨げたりすることさえある。つまり道ならぬ恋の場合がほとんどすべて
そうである。事柄の性格が以上述べたとおりのものであるため、恋人たちはすべて、ようやくのことで
想いをとげると奇妙な失望感を覚え、これほどまでにあこがれ望んでいたことが他のすべての性的満足
より格別ましなものでなかったことに驚き、そこで、そのためたいして得もしなかったことを悟るので
ある。すなわち、かの願望とその他のあらゆる願望との関係は、種族と個体、つまり、無限なるものと
有限なるものとの関係のようなものである。ところが満足はほんらい種族のためのみのものであり、そ
のため個体には意識されない。というのは、個体は、この場合種族の意思に鼓舞され、自分の目的では
まったくなかった目的にいかなる犠牲を払っても仕えるからである。そこですべての恋人たちは、この
大仕事をついにしとげたのちに、瞞着されたことを悟るのである。というのは、この場合は妄想によっ
て個体は種族にだまされていたのであるが、この妄想が消えうせたからである。したがって、快楽にま
さるほら吹きはいないというプラトンの言葉はまことに至言である。
ところでこれらのことは逆にまた動物の本能とその工作衝動を明らかにする。動物もまた明らかに一
種の妄想にとらわれ自分自身の快楽のためだと錯覚しているが、じつは種族のために営々と献身的に働
いているのである。たとえば鳥が自分の巣をつくり、昆虫が産卵に適したかけがえのない場所を求めた
り、あるいは、自分が食うためではなく将来の幼虫の飼として卵のかたわらに添えておかねばならない
獲物をあさるようなことまでしたり、蜜蜂や雀蜂や蟻が巧妙な巣づくりやきわめて複雑な営みに従事し
たりするのも、みなそうである。
190 :
Ms.名無しさん:2012/10/15(月) 21:09:56.55 0
一種の妄想がたしかに彼らすべてを導いているのであって、この妄想
が、種族にたいする奉仕にエゴイスティックな目的という仮面を被らせるのである。おそらくこれが、
本能のさまざまな現われの根底にある内面的な、すなわち主観的な経過をわれわれが理解する唯一の方
法であろう。しかし本能によって強く支配された動物、ことに昆虫の場合に、外面的に、すなわち客観
的にわれわれに示されるのは、客観的な組織、すなわち脳髄組織、にたいする神経節組織、すなわち主
観的な神経組織の優位である。ここから推察されるように、これらの動物をかりたてるのは、客観的な、
正確な把握であるというよりはむしろ願望をかきたてる主観的な表象、すなわち、脳髄にたいする神経
節組織の影響によって起こる表象であり、したがって、或る種の妄想であって、これがあらゆる本能に
おける生理学的な経過である。――このことを例証するためにわたしは、本能が人間にいささか微弱で
はあるが存在することの他の例として妊婦の食物にたいする気まぐれな嗜好をあげよう。こういう嗜好
が生ずる原因と思われるのは、胎児の栄養のために胎児に流入する血液が特殊な、つまり一定の変化を
受ける必要が生じ、その必要に応じてこのような変化をひき起こす食物がただちに妊婦にたいし熱望の
対象となって現われるということ、すんわち、ここでもひとつの妄想が生ずるということである。こう
いうわけで女性は男性よりも本能を一つ余計にそなえている。事実また神経節組織は女性のほうが男性
よりもはるかに発達している。――人間のそなえている本能は動物よりも数が少なく、その数少ない本
能さえとかく道を誤らされがちであるということも、人間の場合脳髄が非常に優勢であるということか
ら説明できる。すなわち、性的満足のための選択を本能的に導く美的感覚が男色などという堕落した病
癖に陥るのも、この感覚が道を誤らされたのである。あおばえ(ムスカ・ウォミットーリア)がその卵
を本能の命ずるように腐肉のなかに生みつけないで、天南星の花に、この植物の死臭に惑わされて産み
つけるというようなことも、これに似ている。
191 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 11:35:16.88 0
ところで生まれるべき者を徹頭徹尾目的とする本能があらゆる性愛の根底にあるということは、本能
をいっそう詳細に分析すれば、完全に確証されることであるから、ここでぜひともこれを行なっておき
たい。――まず第一にとりあげねばならないのは、一般的な傾向として男性は生来恋愛では気が変わり
やすいが、女性は気が変わらないということである。男性の愛情は、想いをとげた瞬間から、いちじる
しく減退する。他の女性ならほとんどどの女性でも、彼がすでにわがものにしている女性よりは彼に
とって魅力がある。彼は変化を切望するからである。ところが女性の愛情はまさにその瞬間から高ま
る。これは、自然が種族を維持し、できるだけこれを増加させることを目ざしているというこの自然が
追求する目的の結果である。すなわち、男性は一年に百人の子供でも平気で生むことができる、彼にそ
れと同数の女性を提供するならば。ところが女性は、いかに多くの男性を与えられても一年に一人の子供し
か(双生児は別であるが)生むことができない。だから男性はつねに他の女性をさがし求めるのであ
る。これに反し女性はほとんどただ一人に執着する。というのは、自然は女性を動かして、本能的に、
反省を伴わずとも未来の子供の養育者であり保護者である男性をわが手から失わぬようにさせるからで
ある。したがって夫婦間の貞節は、男性にとっては努めてなすことであり、女性にとっては自然であ
る。それゆえ女性の姦通は、客観的に、すなわちその結果から見ても、主観的に、すなわち、それが自
然に反するという点から見ても、男性の姦通よりもはるかに許しがたい。
しかしながら、異性に接して覚える満足は、われわれにはそれがいかに客観的なものであるように見
えても、単に本能が仮装したもの、すなわち、種族の典型を維持しようと努力している種族の感覚であ
るが、このことを根本的に洞察し完全に確信するためにはさらに、この満足を覚えるさいにわれわれを
導いているもろもろの顧慮にいたるまでいっそう詳細に検討し、その細目にまで立ち入らなければなら
ない。
192 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 11:49:57.10 0
もっとも、ここでこういう細目にまでわたって述べるということは、哲学の著作ではいかにも奇妙に見
えるであろうが。これらの顧慮は、直接種族の典型に、すなわち美に関するもの、および、精神上の特
質に向けられているもの、最後に、単に相対的にすぎないものとに分かれる。この最後のものは、両個
体の一面性や畸形を相互に修正し相殺しあう必要から生ずる。われわれはこれらの顧慮を個々に検討し
てみよう。
われわれの選択と好みを導く最も重要な顧慮は年齢である。だいたいにおいて、この年齢は月経が始
まってから終わるまでの年齢と考えてよい。しかし、十八歳から二十八歳までの時期が断然優先する。
これに反し、女性はこの年齢からはずれると、われわれに魅力を感じさせない。年老いた、すなわち月
経の終わった女性はわれわれに嫌悪を起こさせるだけである。年が若ければ美しくなくてもつねに魅力
がある。美しくても若さがなければ魅力はない。――この場合われわれを無意識に導いている意図は明
らかに生殖一般の可能性である。それゆえどの個体も、生殖、あるいは受胎可能な時期から離れるにし
たがって、異性に対する魅力を失う。――第二の顧慮は健康にたいする顧慮である。急性の病気は一
時妨害となるにすぎないが慢性の病気やあるいは単に病弱であるというだけでも人を恐れさせるのは、
これが子供に遺伝するからである。――第三の顧慮は骨格であるが、それは、骨格が種族の典型の基礎
だからである。年をとっていることや病気についで、畸形ほどわれわれを嫌悪させるものはない。どれ
ほど容貌が美しくてもそれの埋め合わせにはけっしてならない。むしろ体つきが正常ならば、どんなに
容貌が醜くても絶対にこのほうを選ぶだろう。さらに体格が不均衡なものはそれがどういうものであっ
てもわれわれは最も鋭敏にこれを感じる。たとえば、発育が未熟だったり、ずんぐりしているとか、足
が短いとか等々であるが、びっこも、それが外部の事故の結果でない場合は、同様である。
193 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 12:13:26.50 0
これに反し、容貌が人目に立つほど美しければすべての欠点を補って余りがある。それがわれわれを魅惑
するからである。これもここで注目すべきことのひとつであるが、すべての人が足が小さいことを尊重す
るのは、足が小さいということが種族の重要な特徴だからであり、どんな動物でも跗骨と蹠骨とを合わせ
ると人間のように小さいものはおらず、これは直立して歩行することと関係があり、人間は蹠骨動物だか
らである。そこでイエズス=シーラハもまた(二六の二三、クラウスの改訂訳による)、「容姿がすらり
として足の美しい女性は、銀の台座の上に立っている黄金の柱のようである」と言っている。歯もわれ
われには重要である。というのは、歯は栄養にとって重要であり、とくに遺伝しやすいからである。
――第四の顧慮は、或る程度の肉づきの豊かさ、すなわち、植物性機能、つまり造形力が優勢なことで
ある。これが胎児に豊富な栄養を約束するからである。そこで、ひどくやせている場合われわれは非常
に不快を感じる。豊満な女性の胸が男性にとって非常な魅力があるのは、それが女性の生殖機能と直接
関係があり、新生児に豊富な栄養を約束するからである、ところが肥満しすぎた女性はわれわれに嫌悪
を感じさせる。その理由は、こういう体質は子宮の委縮を、すなわち不妊を暗示するからである、これ
は、頭でわかるのではなくて本能でわかる。――容貌の美しさを顧慮するのは、最後になってからのこ
とである。ここでもとくに問題になるのは骨相である。そこで美しい鼻が主として注目され、団子鼻で
はすべて台なしである。鼻が少々上向きか下向きかで生涯の幸福を決められた娘は数知れぬほど多い
が、それもけだし当然のことである。というのは、種族の型がまさに問題だからである。顎骨が小さ
く、そのため口が小さくできているのは、動物の口と対照的で、これは人間の容貌の特徴として非常に
重要である。いわば削りとられたように引っ込んだ顎は、とくにいやがられる。それは顎の張ってい
るのがわれわれ人類のみに見る特徴だからである。最後に登場するのが、美しい眼と額にたいする顧慮
である。それは精神上の特質、母親から遺伝される知的な特質と関係あるからである。
194 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 13:39:45.46 0
他方、女性の好みからなされ無意識な顧慮となると、もちろんわれわれは男性の場合ほど詳しく示
すことができない。ただ次のことだけは、だいたいにおいて主張することができる。女性は、青年が
元来人間の最高の美を示すものであるにもかかわらず、主としてこの年頃よりは、三十歳から三十五歳
までの年齢の男性のほうを好むものである。その理由は、女性を導くのは趣味ではなくて、この年齢を
生殖力の全盛期と見る本能だということである。一般に女性は、美にたいしては、とくに容貌の美しさ
にたいしては注目しない。まるで子供に美を授ける仕事を引き受けるのは自分たちだけだと言わんばか
りである。女性の心をとらえるのは主として男性の力であり、この力から生まれる勇気である。という
のは、この力と勇気が、強壮な子供と、それと同時に子供の勇敢な保護者を約束するからである。男性
にどういう肉体上の欠点があっても、また典型から逸れた点があっても、女性自身がこれらの点で欠点
がなく、というよりむしろ反対に人並み以上であれば、そのことによって女性は、子供に関するかぎり
生殖によってこれらの欠点を解消することができる。ただ男性側の性質で、男性に固有の、したがって
母親が子供に授けることのできないものは別である。男らしい骨格、肩幅の広さ、しまった腰、まっす
ぐな足、筋肉の力、勇気、ひげ等々がこれである。女性が醜い男性を愛することはしばしばあるが、男
らしくない男はけっして愛さないのも、このためである。それは、こういう男性の欠点を女性は相殺す
ることができないからである。
性愛の根底にある顧慮で第二の種類は、精神上の特質に関するものである。ここでわれわれが発見
するのは、女性は例外なく男性における心情、或るい性格の特質にひかれるということである。――と
いうのは、これらの特質は父親から遺伝するからである。女性を魅するのは、堅忍不抜の意思、決然と
事を断行する勇気、それにまたおそらくは誠実さと親切なことであろう。ところが知的な長所は、女性
にたいし直接の、まあ本能的な影響力をもたない。それはつまり、知的な長所は父親から遺伝しないか
らである。相手の無知は女性の場合どうでもよいことである。
195 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 13:59:23.96 0
卓越した精神力とか、あるいは天才となると、一種の変態としてむしろ不利な印象を与える。醜くて、
愚かで、粗野な男が教養も才気もある好ましい男を押しのけて女性の愛をうるのは、そのためである。じ
じつまた、精神的に異質の男女のあいだにしばしば恋愛結婚が成立することがある。たとえば、彼のほう
は粗野で、腕っぷしが強く、頑迷なのに、彼女のほうは多感で、思慮深く、教養もあり、情操が豊かだと
か、あるいは彼のほうはまったく天才的な学者なのに、彼女のほうは馬鹿だというような場合など。
これぞヴィーナスの女神のしわざ、
身も心も似ざる者に青銅のくびきをかけて
笑いはやすは
その理由は、ここでは知的な顧慮よりもまったく別の顧慮が――すなわち、本能の顧慮が優先している
からである。結婚の目的は、才気煥発な会話ではなくて、子供を生むことである。それは、心と心の結
びつきであって、頭と頭の結びつきではない。女性が男性の精神にほれこんだなどと言い張るのは、根
も歯もない笑止千万な嘘っぱちか、さもなければ、変質が昂じたものである。――ところが男性は、本
能的な恋愛を女性の性格上の特質によって決めたりはしない。だからこそ、じつに多くのソクラテスが
彼らのクサンティッペを見いだしたのであって、たとえば、シェークスピア、アルブレヒト・デューラ
ー、バイロン等々みなしかりである。しかしこの場合〔女性の〕知的な特質は〔選択に〕影響する。それ
が母親から遺伝するからである。しかしこの知的な特質の影響よりもだんぜん優勢なのは、肉体美の影
響である。このほうがより本質的な点でいっそう端的に作用するからである。ところで、母親が娘と男
性にとって魅力のあるものにするために、彼女たちに美術や語学等々を習得させるのも、かの知的な特
質が男性に与える影響を感得しているか、あるいは経験しているためになされることである。彼らはこ
の場合、人為的な手段で知性を補強しようとしているので、必要な場合に腰や胸にたいしてとる措置の
ようなものである。――
196 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 14:10:08.82 0
ここで注意を要するのは、真の恋愛を芽生えさせる唯一の魅力であるまったく
直接的な、本能的な魅力がもっぱらここで問題になっているのだということである。聡明で教養のある
女性が男性の知性や精神を尊重したり、男性が理性的な思慮によって花嫁の性格を調べこれを参考にし
たりすることがあるが、これは、ここで問題にしている事柄とはなんの関係もない。このようなことは、
結婚する倍の理性的な選択の基礎とはなっても、われわれの主題である激情的な恋愛の基礎にはならない。
これまでは、わたしは絶対的な、すなわち、だれにでも通用する顧慮のみを考察してきた。こんどは
相対的な顧慮を扱うことになるが、これは個人的なものである。というのは、これらの顧慮の目的は、
すでに現われている種族の型の欠陥を修正し、選択する個人自身がすでに身に帯びている型の歪みを訂
正し、こうして典型の純粋な表現に帰らせることだからである。それゆえここではだれも、自分に欠け
ているものを好む。このような相対的な顧慮から生ずる選択は、個人的な性情から生じ、個人的な性情
に向けられているため、単に絶対的な顧慮から生ずる選択よりもはるかに明確で決定的であり、排他的
である。それゆえ、真に激情的な恋愛の根源は普通これらの相対的な顧慮のなかにあり、通常の比較的
弱い愛情だけが絶対的な顧慮にもとづく。したがって、偉大な熱情に火を点ずるのは、つねに端正で完
全無欠な美であるとはかぎらない。このように真に激情的な愛情を生じさせるには、或るなにものかが
必要であって、これは科学的な比喩によってのみ表すことができる、すなわち、ふたりは、酸とアル
カリが中和して中性塩となるように、たがいに中和しなければならない。それに必要な規定は主として
次のようなことである。
197 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 18:13:42.96 0
第一に、男らしいとか女らしいとかいう性的能力というものはすべて偏ぱであ
るということである。この偏ぱな一面性は或る個人には他の個人よりもいっそう決定的に現われ、より
高度に存在しており、そこでそれぞれの個人におけるこの一面性は、異性のうちの或るものよりも他の
ものによっていっそうよく補完され中和されることがある。それは、すべての個人は、新たに生みださ
れるべき者の性質がすべてのものの帰趨するところであるから、この生まれるべき者における種族の典
型を補完するために、おのれの一面性と反対の一面が必要だからである。生理学者のよく知るところで
あるが、男らしさと女らしさには無数の度合いが許されており、前者がこれらの段階を下降すると、か
の胸の悪くなるというようなギュナンダーやヒュポスパドイスとなり、後者がその段階を上昇すると、
あの優美なアンドロギュネーとなる。どちらかの側から出発しても完全なヘルマフロディテイスムスに
達することができ、この段階にある個人は、両性のまさに中間を保ち、両性のいずれにも属さず、した
がって生殖には無能力である。そこで、いま問題にしている男女両性の二つの個体の作用を中和するた
めに必要なのは、この両個体の一面性がたがいに過不足なく相殺されるように、男性がそなえている男
らしさの一定の度合いが女性がそなえている女らしさの一定の度合いと完全に一致するということであ
る。したがって男らしい男性は女らしい女性を求め、またその逆にもなる。まさにこのようにして各個
体は、性の度合いが自分に等しい相手を求めるのである。ところで二人のあいだにこの点に関し必要な
釣合がどの程度とれているかということは、彼らによって感知され、他の相対的な顧慮とならんで、恋
愛の熱度を高める基礎となる。それゆえ、相愛の男女が自分たちの魂の調和を感激して語るけれども、
問題の核心は、ここで明らかにした調和、すなわち、生みだされるべき者とその完全性とにかかわる調
和であり、明らかにこの調和のほうが、彼らの魂の調和よりもはるかに重要である。
198 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 18:47:37.23 0
―魂の調和などといっても。結婚してまもないうちに破れてしまい、はなはだしい不調和の生ずることが
しばしばある。さて、これにつづくのがさらに次に述べる相対的な顧慮で、これらの顧慮は、自分の弱点
や欠点、また典型の歪みなどが生みだされるべき子供のうちに永久化されたり、それどころか完全な変態
になってしまったりしないように、各人がこれらを相手によって解消しようと努めることにもとづくもの
である。男性が筋肉の力が弱ければ弱いほど、それだけますます強壮な女性を求めるであろうし、女性の
ほうもまた同様である。ところで、筋肉の力が弱いのは女性には自然で普通のことであるから、女性はふ
つう力の強い男のほうを好むものである。―さらに、身長も重要な顧慮である。小柄な男性は大柄な女性
を断然好むものであり、その逆も同様である。ただし小柄な男性が、彼自身は大柄な父親のたねで生まれ
たのに、ただ母親の影響で大きくなれなかっただけの場合には、大柄な女性にたいする好みはいっそう
激しくなる。というのは、彼は父親から血管組織と、大きな身体に血液を供給することのできるそのエ
ネルギーを受け継いでいるからである。ところが男性と祖父がすでに小柄だった場合は、大柄な女性に
たいするこの執着はそれほど強くは感ぜられないだろう。大柄な男性にたいする大柄な女性の嫌悪の根
底には、あまり大きすぎる人種を避けようとする自然の意思が働いており、それは、大きすぎると、こ
ういう女性が与えうる力では、長く生きるには弱すぎるからである。それにもかかわらず、こういう女
性がたとえば社交界で見ばえをよくするために大柄な男性を選んだりすると、たいてい子孫がこういう
愚行の償いをするはめになる。さらに、色つやにたいする顧慮も非常に決定的である。金髪の者はあく
まで黒髪か褐色の髪の者を要求するが、後者が前者を要求するのはまれにしかない。その理由は、金髪
と青い眼自体がすでに変種であり、というより一種の変態ともいうべきものであって、白ねずみか、少
なくとも白馬と似たようなものである。
199 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 20:59:34.63 0
彼らの住みつくのはヨーロッパのみで、世界のその他の地域で
は、たとえ極地の近くでも住みつかず、その祖先は明らかにスカンディナヴィアから出たものである。
ここでついでに私見を述べさせてもらえば、皮膚の色が白いのは人間にとって自然なことではなく、人
間は元来、われわれの祖先であるインド人のように皮膚は黒色か褐色であり、したがって白人などとい
うものはけっして自然の腹から生まれたものではなく、白色人種などとよく言われるけれども、そうい
うものは現実に存在しないのであって、白人というものはすべて褪色した人間である。なじめない北方の
土地へ追いこまれ、その土地で異国の植物のように冬になれば温室が必要になるような生存をひたすら
つづけるだけで、こうして数千年のあいだに人間は白色になったのである。ジプシーはインド人の一種
で、約四世紀後にはじめてヨーロッパに移住してきた者であるが、彼らは、インド人の皮膚の色がわれ
われのそれに変わろうとする過渡期な状態を示している。自然が性愛において原型としての黒髪と褐色
の眼に復帰しようと努力するのはそのためである。ところが、インド人の褐色の皮膚に特別嫌悪するほ
どではないまでも、皮膚の白色が第二の天性となってしまったのである。――最後に、人はすべて身体
の個々の部分においても自分の欠陥と歪みを修正するものを求めるもので、その部分が重要であればあ
るほど、その要求はますます断固たるものになる。そこで団子鼻の人間はわし鼻やおうむのような顔に
えも言われぬ満足を覚えるということになる。その他すべての部分についても同様である。胴体や手
足があまりほっそりして、ひょろ長い人間は、以上にずんぐりして小柄な人間でもけっこう美しいと思
うものである。――気質にたいする顧慮も同様である。だれでも自分と反対の気質のほうを好むもので
ある。ただし、これはただ、自分の気質がどれほど決定的であるかによるのであるが。――本人自身が
なんらかの点で非常に完全な者は、なるほど、この点において不完全なものを格別好んだり求めたりは
しないが、それでも他の人びとよりはこの不完全性と妥協することが容易である。
200 :
Ms.名無しさん:2012/10/16(火) 21:17:45.61 0
というのは、彼自身がこの点における大きな不完全性から子供を守っているからである。たとえば、本
人自身が非常に色の白い者は、顔の色が黄色くてもあまり嫌悪を感じないが、顔の色の黄色い者は、輝く
ばかり顔の白いのを見ると、神々しいほど美しいと思うのであろう。――男性が決定的に醜い女性に惚れ
こむということがまれにあるが、こういう場合に起こるのは、前述したように性の度合いが厳密に調和し
ていて、彼女のすべての異常性が彼の異常性とまさに正反対のもの、すなわち、それを修正するものであ
るときである。ふつう恋愛の熱が上がるのはこういうときである。
われわれは女性の身体となるとどの個所でもさぐるように眺め、女性は女性で同じようにやるが、そ
のさいの非常な真剣さ、また、好意を覚えはじめた女性を検査するときに品定めでもするかのようにい
かにも綿密周到であることや、われわれの選択が気ままなこと、花婿が花嫁を観察するさいに集中する
注意、どんな部分についても欺かれまいとする用心深さ、また彼が重要な部分においてはどのような程
度の相違でもこれを非常に重視するということ、――これらはすべて、目的の重要さにまったくふさわ
しいことである。というのは、新たに生みだされるべきものは、一生涯、これと似た部分を持ってまわ
らねばならぬからである。たとえば、女性が少々背中が曲がっているだけで、子供がせむしになること
もとかくありがちであり、その他すべてのことも同様である。――もちろん、これらのことが意識され
ているわけではない。むしろ人はすべて自分自身の快楽のためにあの困難な選択を行なっているのだ
(自分の快楽はじつはこのさいなんの関係もないのに)と妄想している。しかし彼は、彼自身の体質の
前提のもとに種族の利益に正確に合致するように選択を行なっているのであって、この種族の典型を純
粋に維持することがその隠れた使命なのである。
201 :
Ms.名無しさん:2012/10/17(水) 13:05:55.90 0
このさい個体は、それとは知らずに、より高いもの、
すなわち種族の委託のもとに行動する。そこで、彼自身にとってはどうでもよいかもしれない事柄、い
な、どうでもよいにきまっている事柄が重視される。はじめて会う二人の若い男女がたがいに相手を観
察するさいのあの深い、無意識な真剣さとか、たがいに相手に向かって投げるあのさぐるような、底の
底まで見ぬかぬにはおかぬといった視線、また両人の人品骨柄のあらゆる特徴や部分が受けねばならぬ
入念な検査などには或るまったく独特なものがある。すなわち、この探究や検査は、彼ら両人によって
可能な個体とこの個体のもろもろの性質の組合せとについてなされる種族の霊の瞑想なのである。そ
の結論いかんによって、彼らがたがいに相手に覚える満足と相手を熱望する度合いが決定する。この
熱望は、すでにかなりの度合いに達したのちでも、突然消えうせることがあるが、それはいままで気づ
かずにいたなにか或るものを発見するからである。――種族の霊はこのように、生殖能力のあるすべて
の者のうちにあってきたるべき世代を瞑想するのである。このきたるべき世代の素質こそ、恋愛の神ク
ピドー〔キューピッド〕が一心不乱に、瞑想と思念にふけりながら取り組んでいる大仕事である。種族
とすべてのきたるべき世代にかかわるキューピッドのこの重大な仕事の重要性と比較すれば、どれもこ
れもおしなべて蜻蛉のごとくはかない存在である個体の仕事などは取るに足らぬものである。だからこ
そキューピッドは、仮借なく個体を犠牲にすることをつねに覚悟しているのである。というのは、彼が
個体にたいする関係は、不死なるものが死すべきものにたいする関係と同様であり、彼の利害が彼らの
利害にたいする関係は、無限の利害が有害な利害にたいする関係と同様だからである。それゆえ彼は、
単に個体の幸不幸にかかわるだけの仕事と比べてより高遠な種類の仕事をつかさどっているということ
を自覚することによって、戦乱のただなかにあっても、仕事に追いまくられ右往左往している生活のな
かでも、また、疫病が荒れ狂っているあいだでもこの仕事を超然とやってのけ、仕事をやりとげるため
なら、浮世を離れた僧院のなかまでも踏みこむのである。
202 :
Ms.名無しさん:2012/10/17(水) 13:21:37.48 0
種族の典型をできるだけ回復するために、一方の個体が他方の個体のまったくかけがえのない特別の
完全な補足である場合には、この他方の個体がもっぱらその一方の個体のみを熱望するのであるが、二
つの個体の身体上の素質がまさにかかるものである場合があることを示すことによって、恋愛の強度が
その個体化ととも増加することを、われわれはこれまで見てきたのである。この場合すでにそうとうな
熱情が生ずるが、この熱情は、唯一の相手に、しかしただその相手にのみ向けられることによって、し
たがっていわば種族の特別な委託を受けて現われるというまさにそのことによって、いっそう高貴な、
崇高な趣を帯びるのである。単なる性的衝動が下劣なのは、これと反対の理由からであって、こういう
衝動は個性化されずにすべての人に向けられ、種族の質はほとんど顧慮せず、ただ量の点でのみ種族を
維持しようと努めるからである。ところが恋愛の個性化と、またそれとともにその強度が高度なものに
なると、もしこの想いがとげられない場合は、この世のあらゆる財宝、いや、生命すらその価値を失う
ことがある。こうなると恋愛という願望は、他のいかなる願望にも及ばぬほど激しいものになり、その
ためいかなる犠牲をもあえて辞せず、これがいつまでも遂げられないとなると、狂気か、それとも自殺
にまでかりたてることがある。このような極端な激情の根底にある無意識な顧慮は、以上示したものの
ほかに、われわれがこのように眼前に見ることのできない別のものがあるにちがいない。そこでわれわ
れは、この場合体質だけではなく、男性の意思と女性の知性がとくにおたがいに適応しており、そのお
かげで、種族の霊がここで意図している或る特定の個体が彼らによってのみ生みだされうるのであり、
その理由は、物自体の本質のうちにあるため、われわれのうかがい知ることのできないものであると考
えざるをえない。さらに端的に言えば、生への意思はここで、この父親とこの母親とのみから生みださ
れることのできる或る特定の個体のうちに客観化されることを要求しているのである。
203 :
Ms.名無しさん:2012/10/17(水) 13:50:28.77 0
意思そのもののこの形而上的な要求は、さしあたっては、未来の両親の心以外もろもろの存在者のう
ちに活動する舞台をもたない。そのため彼らの心がこの衝動にとらわれ、その目的がいまのところはま
だ純粋に形而上的でいっさいの現実に存在する事物とは別のところにあるものを、彼ら自身のために願
望しているかのように妄想する。それゆえ、ここにはじめて可能となった未来の個体の生まれ出ようと
する衝動は万物の根源から生ずるものであるが、この衝動こそ、未来の両親がたがいに相手に向かって
いだくあのおのれ以外いっさいのものを眼中におかぬ烈しい熱情となって現象のうちに現われるもので
あり、実際これこそ比類なき妄想であって、そのため、このように恋にかかった男性は、他のどんな女
性と寝ようと実際はたいして変わりはないのに、この女性と寝るためならこの世のあらゆる財宝を捧げ
ても惜しくはない気持になるのである。それにもかかわらず、目的が単に女と寝るためにすぎないこと
は、この烈しい激情も他のすべての激情と同様享楽と同時に消えうせることから明らかである。――こ
れには当の本人も大いに驚くのであるが。たまたま女が不妊(フーフェラントによれば、これは十九の
体質上の欠陥から生ずる)で、本来の形而上的な目的がむなしくなった場合にも、同様にこの激情は消
失する。この目的はまた、いく百万の数知れぬものがそのなかにも同一の形而上的な生命力が生まれ出
ようと努力しているにもかかわらず萌芽のままに踏みにじられることによって、日々むなしくされてい
るのであるが、そのさいただ一つの慰めといえば、無限の空間と時間と物質が、したがって尽きること
のない回帰の機会が生への意思に開放されているということである。
204 :
Ms.名無しさん:2012/10/18(木) 13:16:39.82 0
テオフラストゥス・パラケルススは、このような主題を取り扱ったこともなく、まあわたしとは考え
方がまったく違っているが、それでもここで述べたような考えが、つかのまではあっても、一度は念頭
に浮かんだにちがいない。というのは、まったく別の事柄に関してではあるが彼一流の雑駁な言い方で
次のような注目すべき意見を書きとめているからである。すなわち、「これらの人びとこそ、神の結び
給うたものである。たとえば、ウリヤの妻である女とダヴィデのごとき。この関係は、少なくとも人間
の精神はそのように確信していたのであるが、正しい合法的な結婚にまったく反対するものではあったけ
れども。――しかし、ソロモンは、姦通によるとはいえ、バテシバとダヴィデの裔以外からは生まれえ
なかったのであって、このソロモンのためにこそ神は二人を結び給うたのである」と(『長命について』
一の五)
ヒメロス、愛のあこがれは、あらゆる時代の詩人が無数の言いまわしで表現しようと絶えず努めては
いるが、この対象を描きつくすことはできず、いな、満足な表現すら与ええないでいるのであるが、ま
た、或る特定の女性をわがものにすればこれを無限の幸福と思わせ、また、手に入れることがかなわぬ
と知れば言語に絶した苦痛を覚えさせるのもこの愛のあこがれである。――愛のこのあこがれと苦痛
は、はかない個体の欲求からそのたねをうるのは不可能であって、むしろそれは、種族の霊のあげる
嘆息であり、種族の霊は、その女性を手に入れるかいなかは、これこそ、おのれの目的を実現するため
のかけがえのない手段を獲得するか、それとも失うかそのいずれかにほかならぬと見、そこで深い嘆息
をあげるのである。
205 :
Ms.名無しさん:2012/10/18(木) 13:55:27.37 0
種族のみが無限の生命をもち、それゆえ、無限の願望と無限の満足、および無限の
苦痛を受け入れることができるのである。ところがこれらのものがここでは死すべき人の子の狭い胸の
なかに幽閉されており、それゆえ、胸もはりさけんばかりに思われたり、無限の歓喜、あるいは無限の
嘆きの予感が胸を満たすのをなんと表現すべきかそのすべを知らぬのも、怪しむには足りないのであ
る。つまりこの予感が卓越した種類のあらゆる恋愛詩に題材を提供するのであって、これらの詩が地上
のいっさいのものを越えた超越的な比喩に高まるのは、そのためである。これがペトラルカの主題であ
り、サン・プルーやヴェルテルやヤコポ・オルティスの主題であって、さもなければこれらは理解する
ことも説明することもできないであろう。というのは、愛している女性をあのようにかぎりなく尊重す
ることがその女性のなにか精神的な長所、一般に客観的で実在的な長所にもとづくなどということはあ
りえぬことだからである。まず第一に、ペトラルカがそうであったように、彼女は愛する人にこれほど
正確に知られていないからである。種族の霊のみが、彼女がおのれにとって、またおのれの目的のため
にどういう価値をもっているかを一目で見ぬく能力をそなえているのである。じじつまた、激しい熱情
は通常、一目見たときに生ずるものである。
真に恋し者にして、ただ一目見て恋せざりし者のあるべきや
(シェークスピア『お気に召すまま』第三幕・第五場)
この点で注目すべきものは、二百五十年も昔から有名なマテオ・アレマンの小説『グスマン・デ・アル
ファラーチェ』の次の個所である。「人が恋をするには、多くの時が過ぎゆくことも、思案をしたり選
択したりすることも必要ではない。必要なのはただ、あの一目惚れの瞬間、たがいに琴瑟あい和すこと
であり、あるいは、こういう場合よく下世話に”虫が好く〔血の共感〕”と言われているものであり、星
の特殊な影響が通常そこへ導くのである」第二部・第三巻・第五章。したがってまた、愛する女性を恋
がたきや死によって奪われることは、恋愛の激情にかられた者にとって他のいかなるものにもまさる苦
痛なのである。
206 :
Ms.名無しさん:2012/10/18(木) 15:16:23.42 0
というのは、この苦痛が超越的なものであり、これが単に個体としての彼をとらえるだ
けではなく、彼の永遠の本質たる種族の生命を襲うからにほかならない。ところで、この種族の特殊
な意思と委託に応えるために彼はここに召されているのである。したがて嫉妬は、非常に苦しく、ま
た恐ろしいものであり、愛する女性を人の手に渡すことは、あらゆる犠牲のうちで最大のものである。
――勇者たるものはおよそ嘆くことを恥とするが、恋の嘆きだけは恥としない。それは、ここで愁訴し
ているのは彼ではなくて、種族だからである。――カルデロンの『偉大なるゼノビア』第二幕の或る
場面でデキウスがゼノビアに向かってこう言っている。
なんと、それならおまえはわたしを愛してくれるのか。
そのためなら、百千の勝利を棄てても、
わたしは帰ってこよい。
ここでは、これまであらゆる利害を圧していた名誉も、性愛、すなわち種族の利害が勝負に加わり、
利益をうることが決定的だと見てとれば、たちまちにして撃退されるのである。というのは、種族の利
害は、単なる個人の利害がどれほど重要であってもこれらすべての利害に比して無限にまさっているか
らである。したがって、名誉や義務や誠実も、他のあらゆる誘惑、いや死の脅威にすらみごとに抵抗し
おわせていながら、これにだけは屈服する。私生活において見られることもこれと同様で、良心を守る
ということが恋愛に関するほどまれなことはなく、ここでは良心は、その他の点では正直で公正な人び
とによってすらときには無視され、姦通すらはばかることなく行なわれることがあるが、それは、恋愛
の激情、すなわち、種族の利害が彼らを捕えるときである。それはあたかも、そのさい彼らは、個人の
利害によってはとうてい与えられることのできない高い機能を自覚していると信じているかのようであ
る。
207 :
Ms.名無しさん:2012/10/18(木) 16:00:48.06 0
それはつまり、彼らは種族の利害によって行動しているからである。この点で注目に値するのは、
シャンフォールの次の言葉である。「男と女がたがいに烈しい熱情を燃やすときは、彼らの仲を割く障
害が、夫であろうと両親であろうと、その他なんであれ、あたかも愛しあうふたりは、自然によってた
がいに結ばれ、法律や人の世の掟がなんと言おうと、ふたりの仲は神の法によって定められているよう
にわたしには思われるのである。」もしこれを言語道断だと怒る者があれば、福音書のイエスがここにい
る者もすべて同じ罪を犯しているのではないかと断じ、姦通を犯した女を赦してやるあの思いも寄らぬ寛
容な態度を考えてみればよかろう。――デカメロンの大部分は、この観点から見れば、種族の霊が、
みずから踏みにじった個体の権利と利害ににたいして浴びせる嘲笑と侮蔑にすぎないかのように見える。
身分の違いやこれと似たすべての関係も、これらが烈しく愛し合うふたりの結合を妨害する場合には、
これまた種族の霊によって簡単に排除され、無効の宣告を受ける。種族の霊は、無限の世代にかかわる
おのれの目的を追求し、このような人間の掟や考慮をもみがらのように吹き飛ばしてしまうからであ
る。烈しい恋愛の目的が問題になる場合には、どのような危険にもすすんで身をさらし、平素は臆病な
人間でもこのような場合には勇敢になるのは、それと同じ深い理由からである。――演劇や小説でもわ
れわれは若い人たちが彼らは恋愛事件、すなわち種族の利害を擁護し、個人の幸福のことのみを考え
る老人たちを打ち負かすのを見ると、よろこばしい共感を覚えるのである。というのは、種族が個体よ
り重要であればあるほどそれに応じて、愛しあう人びとの努力は、その努力を妨げようとするすべての
努力酔いもはるかに重要で崇高であり、それゆえまた正当であるように見えるからである。そこでほと
んどあらゆる喜劇の主題は、そこに描かれる個人の一身上の利害と矛盾するため彼らの幸福を破滅させ
かねない独自の目的をもった種族の霊が登場することである。通例、種族の霊は、志したとおりにやり
とげるが、じれが詩的正義にかなったものとして観客を満足させるのである。
208 :
Ms.名無しさん:2012/10/18(木) 17:07:15.20 0
というのは、観客は、種族の目的が個人の目的にはるかに優先することを感得してしるからである。そこ
で観客が、幕が下りて勝利の栄冠に輝く恋人たちをあとにして立ち去るさいになんの不安も感じないのは、
彼らは彼ら自身の幸福をきずいたのだという妄想を彼らと同じようにいだいているからである。ところが
彼らはむしろ彼らの幸福を、用心深い老人たちの意思にそむき、種族の幸福のために犠牲に供したのであ
る。風変わりな二、三の喜劇では、事態を逆転させ、種族の目的を犠牲にして個人の幸福を達成させよう
と試みたものがあるが、しかしこの場合には、観客は種族の霊がこうむる苦痛を感じとり、このようにし
て個人の利益が確保せられてもそのために心を安んずることができないのである。この種の例として思い
つくものに、非常に有名な小篇が二、三ある。たとえば、『十六歳の女王』や『理性の結婚』など。恋愛
事件を扱った悲劇では、たいてい、種族の目的が達せられなくなるために、その道具であった個体も同時
に破滅することになる。たとえば『ロメオとジュリエット』、『タンクレード』、『ドン・カルロス』、
『ヴァレンシュタイン』、『メッシーナの花嫁』等々。
人が恋におちいっていると、しばしば喜劇的な、またときとすると悲劇的な現象が生ずる。どちら
も、彼が種族の霊のとりこになり、これに支配され、もはやその身がおのれ自身のものでなくなってい
るからである。彼の行動が個人にふさわしくないものになるのは、そのためである。恋愛の熱がいっそ
う高まってくると、彼の思想は非常に詩的な、崇高な趣を呈するだけではなく、超越的で超自然的な傾
向を帯び、そのため彼が彼ほんらいのきわめて形而下的な目的を見失うようにみえるのであるが、これ
は根本において次の理由によるものである。
209 :
Ms.名無しさん:2012/10/18(木) 17:18:05.19 0
すなわち、彼はいまや、単なる個体にかかわる事柄よりも
はるかに重要な事柄にたずさわっている種族の霊に鼓舞され、その特別の委託を受けて、おのれが父と
なり恋人が母となってはじめて授けうるこの特定の個性を子々孫々永世にわたって伝えるためにここに
その基礎をきずこうとしているのであって、しかも子孫がそれ以外にはかかるものとして生まれ出るこ
とが不可能であるにもかかわらず、生への意思の客観化がかかる子孫の誕生を断固として要求している
からである。かくも超越的な重要性をもった問題のために行動しているのだということを感得すればこ
そ、恋におちいった男は地上のいっさいのもの、いな、おのれ自身すらを軽視するにいたるのであり、
彼のはなはだ形而下的な願望もきわめて超自然的な衣をまとうのである。そのため恋愛は、いかに散文
的な人間であってもその生涯における詩的なエピソードとなるのであるが、ただしこの場合には、事態
はときとして喜劇的な趣を呈することがある。――種族のうちに客観化される意思のかの委託は、恋に
おちいった男の意識のなかでは、この女性といっしょになることが彼にとって無限の幸福であるという
期待の仮面をかぶって現われる。恋愛の熱が最高度に達すると、この幻影はますますその輝きを増し、
もしそれを達成することができなければ、生きること自体がいっさいの魅力を失い、いまやなんの喜び
もなく、味気のない、楽しみのないもののように思われるため、生きていくことがいやになり、死の恐
怖さえ消えうせ、ときとしてみずからすすんで命を縮めることがある。このような人間の場合には彼の
意思が種族の意思の渦のなかに巻きこまれたのであって、すなわち、種族の意思が個体の意思よりはる
かに優勢となったのであって、もしその人間が前者の資格で働くことができなければ、後者の資格で働
くことを拒否するのである。この場合は個体は、種族の意思が或る一定の対象にたいして集中する無限
のあこがれを受け入れる容器としてはあまりにも弱いのである。
210 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 10:41:06.95 0
そこでこの場合には結末は自殺か、ときとしては恋人どうしの心中である。ただし自然が命を救うた
めに人を狂気にし、この狂気がそのヴェールでかの絶望的な状態の自覚を覆うなら、別であるが。――
じじつまた年ごとにあらゆるこの種の事件がいくつか生じており、いま述べたことの真実性を証明して
いるのである。
しかしながら、満たされない恋の激情が悲劇的な結果に終わるだけではなく、満たされた場合も幸福
よりは不幸をまねく場合のほうが多い。というのは、この激情の要求は、当事者のその他の事情と一致
せず、それにもとづいて立てられた生活設計を破壊するため、その人間の個人的な幸福を破滅させるほ
どにこれと衝突するからである。いやそれどころか、恋愛は外的な事情と矛盾するだけではなく、自分
自身の個性とすら矛盾することがある。それは、性的な関係は別とすれば、恋する者自身が憎み、軽蔑
し、いやそれどころかおぞ気のする者にさえ恋が向けられることがあるからである。しかし種族の意思
は個体の意思よりもはるかに強く、そのため、恋する男は自分がきらっている性質にはすべて眼をつむ
り、すべてを見逃し、すべてを見そこなって、恋の相手といつまでも腐れ縁をつづける。かの妄想なる
ものがこれほど完全に彼を盲目にしているのであって、この妄想は、種族の意思が満足させられるやい
なや消失し、そのあとに残るのは、にくにくしい連れ合いだけである。非常に分別のある、いや、人並
み以上にすぐれた人物ががみがみ女や悪妻といっしょになているのを見、どうして彼らがこういう女を
選んだのか理解に苦しむことがしばしばあるが、これもこのことから説明がつく。だから古人も愛の神
を盲目に描いたのである。それどころか、恋におちいった男はそのために自分が一生苦しまねばならな
い花嫁の気質や性格の耐えがたい欠点を明らかに認識し痛切に感じておりながら、それでも諦めきれな
いことがある。
おまえに罪があろうとなかろうと、
わたしはそれを問いもせぬ、気にもせぬ。
わたしの知っていることは、おまえが愛しいということだけだ。
たとえおまえがなんであろうと。
211 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 10:58:47.32 0
というのは、根本において彼が求めているのは彼自身に関する事柄ではなく、これから生まれてくる第
三者に関する事柄だからである。ところが彼は、彼が求めているのは彼自身に関する事柄であるかのよ
うな妄想にとらわれているのである。しかしながら、おのれ自身のことを求めないというまさにこのこ
とが、いかなる場合でも偉大さのしるしであって、これが恋愛の激情にも崇高な趣を与え、これを詩の
好個の題材たらしめるのである。――最後に性愛は、相手にたいする極度の憎悪とさえ矛盾しないこと
がある。すでにプラトンがこれを羊にたいする狼の愛にたとえたのもそのためである。このようなこと
が起こるのは、激しい恋におちいった男がいかに努力し哀願しても、どうしても自分の乞いが容れられ
ないときである。
愛しいことも愛しいが、憎いことも憎い。
(シェークスピア『シンビリーン』第三幕・第五場)
こういうときに愛する女にたいする憎悪が燃えたつと、相手を殺しそのあとで自分も死ぬということに
ときとしてはなりかねない。この種の例がいくつかは毎年起こるのがつねで、イギリスやフランスの新
聞でよく見ることである。だからゲーテの言っているのはまったくそのとおりである。
ひじ鉄砲はおろか、地獄の火もこれよりましだ。
ええ、なんとも腹の虫が納まらぬ。
恋をしている男が恋人の冷淡さと、彼の苦悩を見て虚栄心を満足させて喜ぶのを残酷というのは、じっ
さい誇張ではない。というのは、彼は、昆虫の本能のように、理性の説くあらゆる道理に逆らって自分
の目的を是が非でも追求し、その他のいっさいのものを無視するように強制する衝動の影響に支配され
ており、彼はこの影響から逃れることができないからである。満たされぬ焦心の思いを、鎖や鉄塊を足
かせにひきずるように、生涯抱きつづけねばならず、人知れぬ森のなかで嘆息をもらした者は、ひとり
ペトラルカだけではなく、世に数多かったのである。しかし同時に詩才に恵まれてたのはひとりペト
ラルカのみであって、ゲーテの美しい次の詩句は彼にこそふさわしい。
人が悩みのあまり黙すとき、
神はわたしに、悩みを語るすべを授けた給うた。
212 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 11:37:44.51 0
じっさい、種族の霊はいたるところで個人の守護神と戦いをまじえ、その迫害者であり敵であって、
おのれの目的を貫徹するためには、ついでも個人の幸福を容赦なく破壊する覚悟をしている。いやそれ
どころか、国民全体の幸福がときとして種族の霊の犠牲にされたことさえある。シェークスピアはこの
種の例を、『ヘンリー六世』の第三部・第三幕・第二場および第三場でわれわれに提示している。これ
らすべては、種族がわれわれの本質の根底であり、個体よりもいっそう直接に、いっそう以前にわれわ
れにたいして権利をもっているということにもとづくのであって、またそれだからこそ種族の仕事が優
先するのである。古代の人びともこのことを感じており、そのため彼らが種族の霊をを擬人化したキュー
ピッドは、見た眼にはあどけないが、そのくせ敵対的で残酷な、そのため人にきらわれる神であり、ま
た気のむらな、専制的なダイモーンであるが、それでも神々と人間の支配者なのである。
神々と人間の暴君たるなんじ、エロスよ
人を殺める弓矢、盲目と翼が彼の属性である。翼は無常を暗示しており、これは通常、満たされたあと
に起こる幻滅とともにはじめて現われる。
すなわち、激情は、種族にとってのみ価値のあるものを個体にとっても価値があるように瞞着してみ
せる妄想にもとづくものであるため、種族の目的が達せられれば、錯覚は消えうせざるをえない。個体
をとらえていた種族の霊は、ふたたび個体を解放するのである。種族の霊に見棄てられると、個体はふ
たたび元来の偏狭貧寒な状態にまいもどり、あのように崇高で英雄的な、無限の努力を捧げたにもかか
わらず、そのあとにおのれの楽しみとして得たものといえば、どんな性的満足によってもざらに与えら
れるものにすぎなかったことを知って驚くのである。個体は。期待に反し、以前よりもかくべつ幸福でも
ないことを発見し、おのれが種族の意思に欺かれたものであることに気づく。それゆえ、しあわせを得
たあとは、テセウスはアリアドネのもとを立ち去るのがつねである。もしペトラルカの激情が満たされ
ていたら、鳥が卵を産むやいなやさえずるのをやめるように、その瞬間から彼の歌はとだえたであろう。
213 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 13:38:35.34 0
ここでついでに注意をしておくが、わたしの愛の形而上学がほかならぬこの熱情に巻きこまれた人び
とにどれほど意にそわぬものであろうと、理性的な考察がこれらの人びとにたいしておよそなにごとか
をなしうるとすれば、それはわたしが明らかにした根本真理がなによりもまずこの熱情の克服を可能に
するにちがいないということである。しかし古代の喜劇作家の述べた言葉にわれわれはひとまず敬意を
払おう。「それ自身理性も節度ももたぬものを理性によって制御することは不可能である。」
恋愛結婚は、種族の利害のために行なわれるので、個人の利害のためではない。なるほど当事者は自
分自身の幸福を増すためだと思っているが、しかしその真の目的は、彼ら自身には無縁なものである。
というのは、目的が彼らによってのみ可能な個体を生みだすことにあるからである。彼らは、この目的
によって結ばれた以上、今後ともたがいにできるだけ協調していくように努めねばならない。ところ
が、恋愛の激情の本質をなすかの本能的な妄想によって結ばれたふたりが、その他の点でははなはだそ
りの合わぬ性情の持ち主である場合がきわめて多い。このことは、この妄想が、いきおいそうならざるを
えないのであるが、消えうせるとき、ただちに明らかになる。したがって恋愛で結ばれた結婚は不幸な
結果に終わるのが通例である。というのは、恋愛結婚は現在の世代を犠牲にして未来の世代のためには
かるものだからである。スペインの諺も「恋愛によって結婚する者は、苦しみながら生きねばならな
い」と言っている。――多くは両親の選択によるものであるが、便宜上結ばれた結婚は、これと逆であ
る。この場合に行なわれる顧慮は少なくとも、それがどういう種類のものであっても、自然に消え去る
ようなことのありえない現実的な顧慮である。これらの顧慮が思んぱかるのは現存する人びとの幸福で
あって、未来の人びとにはもちろん不利益である。ところが現存する人びとの幸福もやはり問題なので
ある。結婚のさいに自分の愛欲を満足させることよりも金を目あてにする者は、種族として生きるより
も個体として生きているのであて、このことは心理にまっこうから反し、そのため反自然なものに見
られ、或る種の軽蔑をまねく。
214 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 15:23:37.53 0
両親の忠告を聞かず、金持でしかも老人でもない男の求婚を拒絶し、便
宜上の顧慮をすべて無視してひたすら自分の個人的な好みにしたがって選択する少女は、自分個人の幸
福を種族の犠牲にするのである。しかしまさにそのためにわれわれは、この少女に或る種の喝采を送ら
ないではおれないのである。というのは、彼女はより重要なものを選んだのであり、自然の(さらに的
確に言えば種族の)意を体して行動したのだからである。ところが両親の忠告は、個人的なエゴイズム
を旨とするものであった。――以上のように見てくると、婚約を結ぶさいに個人かそれとも種族の利害
かそのどちらかが損をせざるをえないかのように思われる。しかしたいていはそうなるものである。と
いうのは、生活上の便宜と激しい恋愛が両立するなどというのは、きわめてまれな幸運だからである。
大部分の人間の身体や道徳、あるいは知性における憐れむべき劣悪な素質は、結婚が通常純粋な選択と
好みからではなく、さまざまな外面的な顧慮から、また偶然の事情にしたがって結ばれるという点に一
部はその原因がある。それでも便宜とあわせて、好みも或るていど顧慮されるならば、これは、いわば
種族の霊との妥協である。幸福な結婚というものは、周知のようにまれである。それはつまり、結婚の
主たる目的が現代の世代ではなく、未来の世代にあるということが、まさに結婚の本質だからである。
しかし恋をしている繊細な心の人びとを慰めるためになおつけ加えておきたいことは、ときとして激し
い性愛に、まったく別の起源から生じる感情、すなわち、心情の一致にもとづく真の友情が加わるとい
うことである。しかしこの友情はたいてい、本来の性愛が満足させられて消えうせたときにはじめて現
われるものである。この場合友情は、ふたりの肉体的な素質と道徳的な素質、それに知性的な素質がた
がいに満足しあい、たがいにふさわしいものであって、そこから、生みだされるべきものを顧慮して性
愛が生ずるのであるが、これらの素質がまたまさに本人自身に関してもあい反する気質や精神上の長所
としてたがいに補足的な関係に立ち、そのことによって心情の調和を基礎づけるということから生ずる
のである。
215 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 15:34:32.58 0
ここで論じた愛の形而上学全体は、わたしの形而上学一般と密接に結びついており、これがわたしの
形而上学一般を逆に解明してくれる光を与えるのであるが、その点について要約すれば次のとおりであ
る。
明らかにされたことは、性愛を満足させるために行なわれるのは無数の段階を経て強烈な線愛にまで
高まる慎重な選択であるが、この選択が、人間がきたるべき世代の特殊な、個人的な素質にたいして払
うきわめて真剣な関心にもとづくものであるということである。ところでこのきわめて注目すべき関心
は、まえの諸章で明らかにせられた二つの真理を確証する。一、人間の本質自体の不壊性であって、こ
の本質は、かのきたるべき世代のうちに生きつづける。というのは、反省やもくろみからではなく、わ
れわれの本質の最も内奥に潜む傾向と衝動から生ずるあのように激しい、熱心な関心は、もし人間が絶
体にはかないものであり、この人間と実際にまた徹底的に異なった世代があだ時間的に彼のあとにつづ
くものであるとしたら、これほどまでに執拗に存在し、人間にたいしこれほど強力な威力をふるうこと
もできないであろうからである。ニ、人間の本質自体は個体よりも種族のうちに宿るということである。
というのは、種族の特殊な素質に寄せるあの関心は、ごく移り気な好みからきわめて真剣な激情にまで
及ぶすべての恋愛事件の根底をなすものであるが、この関心が、だれにとってもほんらい最も重要な事
柄であり、その成否が最も敏感に人の心を動かすからである。だからこそ、それはとくに心情の問題と
よばれるのである。じじつまたこの関心が強く決定的に表明せられた場合には、単に自己一身にかかわ
るものであることを証明するのである。
216 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 17:59:29.73 0
――では、恋をしている男が全身全霊を捧げてみずから選んだ
女の眼つきに執心し、彼女のためにいかなる犠牲を捧げてもあえて悔いないのはなぜであるか。――そ
れは、彼女を求めるのは、彼の不滅の部分であり、なんであれそれ以外のものを求めるのはつねに、や
がては滅びゆくべき部分にすぎないからである。それゆえ特定の女性に向けられた強烈な、いや、熱火
のごとく燃えさかりさえするあの要求は、われわれの本質の核心が不壊であること、また種族において
その本質が永続することにたいする直接の担保である。この永続を取るに足らぬ不十分なものと考える
のは誤っており、この誤りは、われわれが種族の永続ということを、われわれに似てはいるがいかなる
点でもわれわれと同一でないものが未来に生存することとしか考えないために生ずるのであり、またこ
のように考えるのも、われわれが外部に向けられた認識から出発し、われわれが直観的に把握する種族
の外面的な形態のみを考慮し、種族の内面的な本質を考慮しないからである。しかしこの内面的な本質
こそ、われわれ自身の意識の根底にその核心として潜むものであり、したがってこの意識そのものより
いっそう直接的でさえあり、物自体として個体化の原理より解放され、あらゆる個体のうちにありなが
ら、たとえこれらのものがたがいに併存し、あるいは継起しようとも、本来まったく同一なものなので
ある。ところでこれがすなわち生への意思であり、つまり生命と存続をかくも痛切に要求する当のもの
にほかならない。それゆえこれがつまり、死を免れたもの、死にわずらわされないものなのである。し
かしながらまた、このものも現在の状態以上には出ることができない。したがってこのものも、生命が
ある以上個体としての苦悩と死も免れないことは確実である。このものもこの苦痛と死から解放するこ
とは、生への意思の否定に保留された任務であり、この否定によって個体の意思は種族の幹から解き離
され、種族のうちに生存することを放棄するのである。そのとき個体の意思がどうなるかということに
関しては、われわれにこれを理解する概念が欠けており、いやそれどころか、われわれはこれらの概念
を得る材料をいっさい持ちあわせていないのである。
217 :
Ms.名無しさん:2012/10/19(金) 18:09:43.89 0
われわれはこれを、生への意思であるかいなかを
選択する自由をもったものとしか言いようがないのである。後者の場合、仏教はこれを涅槃とよんで
いるが、この言葉の由来は〔本巻の〕第四十一章の終わりの注に示しておいた。これは、およそ人間の認
識が、それがまさに人間の認識であるかぎり永久に達することのできない点である。――
ところでわれわれがこの最後に考察した見地に立って人生の紛乱へ眼をやるならば、そこに見るの
は、すべての者が生の逼迫と困苦に忙殺され、力のかぎりをつくして無限の欲求を満足させ、さまざま
な苦悩を防ぐために努力しながら、しかもその報いとして得るものは、この困苦に満ちた個体的生存を
わずかつかのまのあいだ維持するにすぎないという情景である。しかし、そのつかのまのあいだで、こ
の紛乱のただなかでわれわれが目にするのは、愛しあう男女が慕わしげにたがいに眼と眼をかわしてい
る情景である。――しかしなぜ彼らはこのようにひそかに人目を恐れ忍びながら会わねばならないので
あろうか。――それは、この愛しあう男女は反逆者であり、これらの反逆者はさもなければやがて終焉
するこの逼迫と困苦を永続させようとひそかに努力しているのであって、彼らが妨げようと欲している
ものが、彼らと同類のものがかつて妨げようと欲したもののように、ほかならぬこの逼迫と困苦の終焉
だからである。――ただいま考察した問題は、次章でさらに論ぜられるはずである。
218 :
Ms.名無しさん:2012/10/21(日) 17:40:24.68 0
ションベンハウエル
219 :
Ms.名無しさん:2012/11/29(木) 17:28:42.11 0
age
女嫌いなのは、女に嫌われてるだけだろハゲチャビン
ショーペンハウエルは馬鹿
金でしか女が寄ってこない性悪ハゲ
こいつはサイコパスだと思う
アスペっぽい
肖像画見るとアスペくさい顔してるよね
気持ち悪い
226 :
弧高の鬼才:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN O
たしかに半分きちがいみたいな人だったが、しかし、彼は当時としてはめずらしく「独我論」には陥らなかった。
女に対する態度は独裁的
228 :
Ms.名無しさん:2013/09/07(土) 09:42:34.37 0
ひたすらどっかからコピペしただけだろw
229 :
Ms.名無しさん:2014/01/19(日) 21:19:01.48 O
230 :
Ms.名無しさん:2014/02/05(水) 21:03:17.87 0
231 :
Ms.名無しさん:
この人は、本物。これ読んで確信した。