ショーペンハウエル 「女について」 

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10Ms.名無しさん
 自然が人類を二つに分けたとき、これを真二つに等分したのではなかった。すべて両極に
分かれているものにおいて、陽極と陰極との相違は、単に質的のみならず、同時に量的なものが
ある。−古代ギリシア・ローマの人々および東洋の諸民族は、まさしく、そのような女性観を
有っていたから、従って、彼らは、女たちに適当する地位を、わたしたち現代のヨーロッパ人よ
りもはるかに正当に認識していたのである。これにひきかえ、わたしたちは、このキリスト教=
ゲルマン的愚昧の最上の精華である古代フランス風の慇懃と、ばかげきった女人崇拝とを持って
いるのだ。しかも、このことは、ただ、往々にして、ベナレス〔インドのヒンドゥ教の聖都〕に
おける神聖な猿どもを想起させるほどに、女たちを横柄かつ無遠慮にするのに役立っているばか
りである。それらの猿どもは、自分たちが神聖視され、かつ殺生禁断になっているのを知って、
自分たちの欲することはすべてことごとくが許容されるものと考えているのだ−

西ヨーロッパ諸国の婦人、ことに、いわゆる「淑女」(「独」ダーメ「英」レディ)は、不当な地
位を占めている。なぜなら、古代人から適切にも「セクス・セクイオール」と呼ばれた婦人は、
どのみち、男性の畏敬と崇拝との対象たるに適していないし、男性よりも高く頭をもたげたり、
男性と同等の権利を有つには、ふさわしくないからである。この不当な地位に置かれた結果は、
てきめんに現れている。だから、ヨーロッパでも、人類の第二号たる夫人には、やはり、それ
相応の地位を指定し、また、ただにアジア人全体から笑われるばかりでなく、ギリシア人やロー
マ人にも同じように笑っただろうと創造される「淑女」というあらずもがなのものにも、結果をつ
けることが、ぜひとも願わしいのである。その結果、社交的・公民的ならびに政治的な関係にお
いて、具合のよくなることは、それこそ、はかり知れないほどであろう。そうなると、サリー族
の法典は、余計な自明の理として、全く不必要なものになってしまうに違いない。