1 :
Ms.名無しさん:
おれなんか一日一回それも早漏だから30秒くらいしかモタん^^;
糞スレ
sage進行でお願いします。
4 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/01(金) 12:51:15
3回が限界。それ以上はチンコ痛くなる。
板違い
基地外
早漏1。逝け
削除依頼出してこい
9 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/01(金) 12:54:00
>>9 頼むから上げないで。お願い。
過激恋愛板行けば?喪男板でもいいよ。
まだチンチンの皮剥けてないんでしょ?
このスレ上げなければおねしょもなおるよ?
11 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/01(金) 12:59:15
>>10 ちんちんの皮は向けてますが?
というかサゲ厨うざいよ馬鹿野郎
13 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/01(金) 13:03:07
11は1か??
15 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/01(金) 13:15:55
16 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/01(金) 13:17:35
>>12 ヤフー捨てメルとるときには1980年1月1日生まれにしてる
>>15 少し占ってあげようかと思ったのだが。
占っても早漏かどうかまでは分からないから心配いらないよ。
18 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/01(金) 23:48:11
上げます
Q.阿弥陀仏以外の仏では助からないのですか?
A.「十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」(御文章)とあるように、
諸仏方も、何とか救ってやりたいの慈悲心を起こされたのですが、私たちの罪があまりに重く、見捨ててしまわれたのです。
そんなあらゆる仏に見放された極悪人だからこそ、なおさら捨ててはおけぬと、ただ一仏、「必ず助ける」と誓われたのが阿弥陀仏です。
だからこそ釈尊は、仏教の結論として、「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)“弥陀一仏に向かい、信じなさい” と、何度もお勧めになっているのです。
親鸞聖人は、「真実の信心」を明らかにし、信心ひとつで救われることを説かれました。
それは、信心は人間の迷い 心がつくったものではなく、本願力の回向(えこう)による信だからであります。
では真実の信心が仏になる因である としたら、信心はその条件であるかというと、けっして条件ではありません。
如来は「信じたならば救う」といわれるの ではなく、「かならず救わねばおかない、わたくしのまことを信じてくれよ」といわれるのです。
つまり「救う」という如来の誓願が先に動き出しているのであって、それに呼びさまされておこるのが、わたくしの信 なのであります。
そのめぐみを受け入れるためには、何の条件もいりません。
ではわたくしにとって「信ずる」とはどう なることでしょうか。
それは「如来の本願力について疑いがなくなり、それにまかせること」であります。
浄土真宗の信心は自分の心を固めて信心するのではなくて、そういう我執によるはからいがなくなることです。
本願 の光りに照らされて、自分の本当のすがたを知らされ、如来のまことに目覚めてゆくのであります。
その信心をいただ くには「真実の教えを聞く」ことしかありません。
南無阿弥陀仏
「お浄土をもってござる仏さまの、必ずたすけるといわれるおおせにしたがうよりほかに手はないではないか」(讃岐の庄松)
私が小さい頃、なぜ南無阿弥陀仏とお念仏するのか疑問に思い、とりあえず側にいた母親に「南無阿弥陀仏ってどういう意味なん?」と聞きました。
ところが、「今、忙しい。後にしぃ」といわれました。
そこで、今度はおばあさんに同じように聞いてみると、今度は「難しくて、よぉわからんわ。お父さんに聞き」といわれました。
そこで、父の帰りを待って、また同じように聞いてみると、父は紙になにやら文字を書いて私に見せて、「読んでみぃ」と言いました。
そこには、「まかせよ、すくう、いまここで、われを、たのみとせよ」と書かれてありました。
読めても意味がわからないので、「どういうこと?」とたずねると、
父は「南無阿弥陀仏というのは、こんな風にお前を今ここで救うぞ、という呼び声なんだよ」。
そこで、「じゃあ、なんで僕らが南無阿弥陀仏っていうのん?」と私は聞きました。
「それはなぁ、その阿弥陀さんの呼び声に対して、私らがありがとうって言ってるんだよ」と教えてくれました。
私たちが救われるのは、自分がお念仏するからではなく、阿弥陀さまにすべてをおまかせするからなのです。
庄松さんが言うように「おまかせするよりほかに手はない」のです。
「南無阿弥陀仏」と唱える事によって浄土に往生できると説いた 法然の行としての念仏をさらに一歩押しすすめたもので、
念仏自体も自力でなく弥陀の本願力という他力によるものとしています。
親鸞の絶対他力の念仏は、自分の意志でやらなければ念仏ではなく、
阿弥陀仏の絶対的な救済に対して思わず自然に発する報恩感謝の念仏であると教えています。
「南無阿弥陀仏」と唱える事によって浄土に往生できると説いた 法然の行としての念仏をさらに一歩押しすすめたもので、
念仏自体も自力でなく弥陀の本願力という他力によるものとしています。
親鸞の絶対他力の念仏は、自分の意志でやらなければ念仏ではなく、
阿弥陀仏の絶対的な救済に対して思わず自然に発する報恩感謝の念仏であると教えています。
病人とは私たちすべての人間のこと、医師とは阿弥陀仏のことです。
病気で苦しむ人がいたから、「阿弥陀仏」という医師が 現れられました。
その阿弥陀仏が完成なされた薬が「南無阿弥陀仏」の「六字の名号」です。
その妙薬を私たちが頂くと、立ちどころに病気が全快します。
それを「信心決定」といいます。
信心決定したら、阿弥陀仏にお礼を言わずにおれません。
それで称えるのが「念仏」です。
これらのことがよく分かれば、浄土真宗はすべて分かります。
【1】勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、
「道徳は今年でいくつになったのか。
道徳よ、念仏申しなさい。
念仏といっても自力と他力とがある。
自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。
他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。
このようなわけで、他力というのは他の力、如来の本願のはたらきという意味である。
この信心は臨終まで続き、浄土に往生するのである」
と仰せになりました。
正確に言えば、浄土真宗の教祖はいません。
というより、浄土真宗という宗派はありません。
祖とされる親鸞聖人自身、ただ御仏の弟子という自覚しかなく、何か新しい悟りを開いたという事を語っているわけでもありません。
御仏の全ての衆生救済の大慈悲に気づかされた・・・ただ、それだけだと申しているだけです。
阿弥陀仏の大本願は信じるのではなく、信じさせてもらうのです。
信心の心すら、阿弥陀仏の力により発する他力なのです。
我々のような悪人が自力で念仏を唱えられるわけがないのですから。
>抜けてる(買い足すべき)必読書があったらご教示ください。
歴史的な事や人物像などの探究、或いは教学的な知識を得たいなら、まだまだ少なすぎる蔵書数とも言えますが・・・。
肝心なのは、あなたが念仏信者であるとした場合、他力により報恩感謝の念仏が発せられたかどうかと言う事ではないでしょうか?
自力の念仏でなければ本物の念仏ですが。
人が知らない知識を得たとしても、それは、特別な人間としてではなく、その分野の代表の一人として得た知識であって、皆と共有すべき財産なのです。
今日の宗教界、いや、社会全体はこの根本を忘れて、知識を得た事で選民意識を持つのが普通になっています。
くれぐれも、知識に溺れて物事の本質を見失わないようにすべきだと思います。
命の平等・・・これを忘れたら仏教ではありません。
>"他力"とは何か?
一言で言えば、阿弥陀仏の大本願そのもの。
全ての衆生を余すことなく救済する阿弥陀仏の力そのもの。
自力で悟りをひらけない悪人も、阿弥陀仏の力(他力)で救済される。
阿弥陀仏に救われるのも他力、その事に気づかされ、思わず念仏を唱えさせていただくのも他力。
全てが阿弥陀仏の御計らいであり、信仰心そのものが阿弥陀仏の力(他力)により芽生えるのです。
人間如きの小賢しい理屈が入り込む余地はありません。
◆顕浄土真実教行証文類
【 序 】
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。
浄業機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまへり。
これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。
ゆえに知んぬ、円融至徳の果号は悪を転じて徳をなす正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を得しむる真理なりと。
しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。
大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を忻ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もっぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへってまた曠劫を逕歴せん。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもって聞くところを慶び、得るところを嘆ずるなりと。
(本願念仏章)善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。
ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。
これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。
なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。
しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。
あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。
阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。
ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。
それで、善人でさえも往生するのだから、まして悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。
阿弥陀仏が一切の衆生を救いたいという願いを発して仏になられたのは、十劫という気の遠くなるような昔にさかのぼります。
以来、その願いは実際に力となり、無限のいのちをもって今日に至るまで止むことなくはたらき続けています。
しかも、そのはたらきは光がどのような暗闇の世界であろうともあまねく照らし尽くしていくように、
煩悩の闇に惑わされて真実の智慧をもたない私たちを一人残さず真実に目覚めさせてくださいます。
浄土真宗の極意「今、まさに仏力を談ず」
ご信心になる方法はありません。真宗の信仰に入る道はないんです。
それなのにみんな道があると思ってる。
だいたい自分の思うとることが賢いと思うことから間違いだと親さまがおっしゃるのに、まだ自分の頭を使おうと思うとる。
真宗に入る道はない。真宗入門なんていらんお世話だ。入門するのもおればせんのもおる。そんな事、知るか。入門の道はない。
何故か、真宗とは向うから来て下さる法である。
(歎異抄より)
今は亡き親鸞聖人からこのようなお話をうかがったことがあります。
法然上人がおいでになったころ、そのお弟子は大勢おいでいになりましたが、法然上人と同じく真実の信心をいただかれている方は少ししかおられなかったのでしょう。
あるとき、親鸞聖人と同門のお弟子方との間で、信心をめぐって論じあわれたことがありました。
といいますのは、親鸞聖人が、 「この善信の信心も、法然上人のご信心も同じである」と仰せになりましたところ、勢観房、念仏房などの同門の方々が、
意外なほどに反対なさって、「どうして法然上人のご信心と善信房の信心とが同じであるはずがあろうか」といわれたのです。
そこで、 「法然上人は智慧も学識も広くすぐれておられるから、それについてわたしが同じであると申すのなら、たしかに間違いであろう。
しかし、浄土に往生させていただく信心については、少しも異なることはない。まったく同じである」とお答えになったのですが、
それでもやはり、 「どうしてそのようなわけがあろうか」と納得せずに非難されますので、結局、法然上人に直接お聞きして、
どちらの主張が正しいかを決めようということになりました。
そこで法然上人に、詳しい事情をお話ししたところ、「この源空の信心も如来からいただいた信心です。善信房の信心も如来よりいただかれた信心です。
だからまったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空が 往生する浄土には、まさか往生なさることは ありますまい」と
法然上人が仰せになったということでありました。
ですから今でも、同じ念仏の道を歩む人々の間で、親鸞聖人のご信心と異なっておられることもあるのだろうと思われます。
34 :
Ms.名無しさん:皇紀2665/04/02(土) 01:37:25
上げとくか・・・
布教乙です
36 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 01:03:39
居ますか
37 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 01:12:18
性欲過多な俺1日に8回したことあるよ。
彼女が呆れてた。
38 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 01:59:10
一回でいい
中身が重要
39 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 02:02:39
>>37 キチガイだな
よっぽど淫乱馬鹿女じゃないと付き合いきれないんじゃね?
40 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 02:05:54
いや1日に8回なんて普通でしょ
41 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 02:12:59
普通じゃねーよ
一日8人とだったらまだ分かるけど
42 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 02:18:16
>>41 それだって同じ8回じゃねえかよ。
10代の頃の性欲盛んなときは1日10回くらいセックスできても不思議じゃないと思うぞ。
43 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 02:31:55
条件が違うだろ
同じ女と8回は無理
というか2回もきつい
44 :
Ms.名無しさん:2005/04/03(日) 02:35:54
>>43 お前な、それはその女への愛が足りねえんだよ。
一発目からタチませんが何か?