折りたたみ式のちゃぶ台の上に小さな仏壇がある。岩手県陸前高田市の仮設住宅に1人で暮らす下重(しもしげ)ヨシ子さん
(79)は、一日のほとんどの時間を、この前に座って過ごす。津波に流されたまま、今も行方が分からない夫秀一さん(当時77歳)
の帰りを、ひたすら待ちわびながら。
朝目覚めると、下重さんは茶わん1杯のご飯を仏壇の前にそっと置く。コップにたっぷり水を注ぎ、一緒に供えることを忘れる
ことはない。「津波で流された人はしょっぱい思いをしたから、お水をたくさんあげると喜ぶんだよ」
その後は、ひたすら編み物の内職をする。せっせとかぎ針を動かしていると、気が紛れる。ボランティアらが集会所で開いて
くれるお茶会や料理教室が唯一の楽しみだ。
秀一さんは福島県大熊町出身。開拓のため移住した旧満州(現中国東北部)で親やきょうだいを亡くし、たった一人で帰国
すると、同県双葉町の遠い親戚のもとに身を寄せた。出稼ぎ先で下重さんの親類と知り合った縁で、陸前高田に移り住んだ。
共に歩んだ53年の月日。子宝に恵まれなかった2人は、海にほど近い自宅の庭いっぱいに花を植え、池でコイを飼い、
ささやかな喜びを糧に生きてきた。「年の瀬には裏の畑で取れた大根をたくさん漬けて、春には種をまいて。そんなことが、
もうできないんだべな」。そう言って寂しそうに窓の外に目をやった。
あの日、高台に歩いて避難する途中、後ろを振り返ると、一緒に自宅を出たはずの秀一さんの姿がなかった。それっきりだった。
かかりつけの歯科医も津波にのまれ、歯型も分からない。遺体を捜すすべさえなかった。
自宅も家財道具ごと流され、遺影のための写真すら見つからなかった。昨年になって、双葉町の親戚が、避難先から一時帰宅
した時に写真を探し出し、ようやく送ってくれた。「ああ、父さんだ」。うれしくて、写真を抱きしめ、そして泣いた。秀一さんが毎年
していたように、散り散りになった親戚に、住所の分かる範囲で地元特産の「米崎(よねさき)りんご」を送った。
仮設住宅には週に1度、スーパーの移動販売車がやってくる。待っているのは2?3人のお年寄り。いつも同じ人ばかりだ。
すっかり顔なじみになった店員に、あるとき尋ねられた。「父さん、病院にはかかってなかったの?」。秀一さんが震災の2カ月前
に大腸の摘出手術を受けたことを思い出した。入院していた県立病院に問い合わせると、臓器がまだ残されていると分かった。
警察庁によると、132遺体の身元が今も分かっていないという。「もしかしたら、手がかりになるかもしれない」。下重さんは2月、
震災から約2年の歳月を経て初めてDNA鑑定を依頼した。
最近、自宅を再建して仮設住宅を離れる家族が目立つようになった。バスで隣町へ買い物に出かける道すがら、高田の街並み
を眺める。がれきは片付き、被災した市役所も解体された。街は少しずつ、復興に向かっているように見える。でも、下重さんの
生活は、何一つ変わらない。
ソース(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20130401k0000m040098000c.html?inb=ra 写真=仮設住宅で編み物の内職をする下重ヨシ子さん。行方不明の夫秀一さんの遺影は、最近になって手元に届いた
http://mainichi.jp/graph/2013/04/01/20130401k0000m040098000c/image/001.jpg