【皇室】秋篠宮ご夫妻が天皇陛下お見舞い=日本国

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週刊女性増刊『礼宮さま紀子さま青春華燭』

  紀子さまのルーツとその人々 1
  すべては わらぶき屋根の家から始まった

 大祖父のふるさと・和歌山県清水町は人口6千人の静かな山村。
 紀子さま誕生までの足跡と、新ロイヤル・ファミリーの知られざるプロフィール。

 昨年12月、紀子さまが家族とともに訪ねられてから、和歌山県清水町は
“紀子さまの里”として、すっかり有名になってしまった。
「せんだっても大阪から団体の観光客がバスをつらねてきましたわ。紀子さんの実家を
教えてほしいいう人が、あんまり多いんで、松浦さんも家のことは教えないでくれというてますわ」
 そう地元の人は苦笑いする。
“松浦さん”とは、紀子さまが泊まられたわらぶき屋根の家のご主人・松浦朗さん(55歳)。
紀子さまの大祖父。川嶋庄一郎さんの生家の現在の当主である。
 川嶋家はもともと和歌山市内の大庄屋であったが、庄一郎さんは清水町の農家松浦家から
婿養子に入った人だったー。
 和歌山県有田郡清水町は有田川の上流の深い山々に囲まれた小さな町。人口は6000人。
町の9割が山林で、一昨年、町内に初めてたったひとつの信号機が設置されたときは、
珍しさから、子供たちの見学がしばらく続いたというところーそこが、紀子さまの
ルーツの地であった。
「(紀子さまは)小学校6年の冬休みに1度、来ましたので、去年は、かなりなつかしがって
いました。とても喜んでいましたね…」
 紀子さまを迎えた松浦朗さんは農作業の手を休めて、そうつぶやいた。だが、それ以上は
語ろうとしなかった。水田が6反、ほかに、大根、キャベツ、ほうれん草なども栽培。
出荷しているのはお茶だけだという。川嶋辰彦さん(50歳)のまたイトコにあたる朗さんの
母・良子さん(74歳)が話してくれたひと言が、松浦さん一家のすべての思いなのかもしれない。
27名前をあたえないでください:2012/03/25(日) 03:07:48.51 ID:lH1bezuN
週刊女性増刊『礼宮さま紀子さま青春華燭』

  紀子さまのルーツとその人々 2

「神さまのように思っていた天皇家は身内のものが嫁ぐなんて夢みたいです。辰彦さんは
小さいころと、東大に合格したあとは2〜3回いらした程度で、ふだんは年賀状のやりとりが
あるくらいです。でも、去年みえたときは、裏のお墓をお参りしていただいたり、こんなに
遠縁でも親しくしてもらってありがたいことです。遠い人になってしまうんだなあ、もう
会うことはありえんわなあと思うと寂しい。だからこそ、紀子さんのことは大事に大事に
胸の中にしまってあるんです」

 紀子さまの大祖父・庄一郎さんは明治3年4月、松浦平吉さんの次男として生まれた。
 幼名は力松。寺子屋では1度教わったことは忘れなかったことから“袋耳の力松”と
呼ばれていたという。父の平吉さんは若くして亡くなり、母・かつのさんの手で育てられたが、
その秀才ぶりは村誌に、
《天資英明、遠く衆童に勝れしは人口の膾炙する所にして、母に事ふること至って厚く、
常に近隣の人をして驚嘆せしめし程なり…》
 と、記載されているほどだ。
 庄一郎さんは、やがて東京高等師範学校を卒業した明治27年、川嶋志まさんと結婚、
川嶋家の婿養子となる。
「農地改革で土地をとられるまでは、それは広い田畑を持つ大地主やったね」
 紀の川のほとり、和歌山市府中の古老はかつての川嶋家をそう振り返る。いまは府中地区に
「川嶋山」という地名は残っているのがわずかな面影だが、教育者としての庄一郎さんの
足跡は輝かしいものだった。
 京都、富山、滋賀の師範学校で教べんをとり、やがて、学習院教授、学習院初等科長、
奈良市版学校長をつとめた。
 晩年は和歌山に戻って隠居生活。近所の人の話によれば「いつも頭巾をかぶり袴に前だれ
という水戸黄門のようないでたちで庭の畑を耕していた」という。
28名前をあたえないでください:2012/03/25(日) 03:08:15.97 ID:lH1bezuN
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  紀子さまのルーツとその人々 3

 紀子さまの祖父・川嶋孝彦さんも和歌山市の出身。旧制一高から東京帝大法学部に進み、
旧内務省入りしたエリート官僚であった。
 内閣統計局長、参議院人事委員会専門員などを歴任したが、昭和33年、国会図書館
専門調査員の仕事についていたとき亡くなった。61歳であったという。
 妻の紀子(いとこ)さん(83歳)とは見合い結婚。紀子さんは大正2年から10年間、
大阪市長を務めた池上四郎さんが父であり、9人きょうだいのいちばん末娘(六女)だった。
池上家は元会津藩士というお家柄だという。
 孝彦さんとの間には3男2女が誕生。だが長男の啓一さんは1歳で亡くなった。
長女が小菅宮子さん(61歳)、次女が佐藤豊子さん(58歳)、次男が紀子さまの父・辰彦さん、
三男が川嶋行彦さんである。

 紀子さまの母方の祖父・杉本嘉助さん(75歳)は、脊椎矯正器具の開発で特許を持ち、
昨年まで整体治療院を開いていたが、もともとは旧南満州鉄道の技術者であった。
 静岡で家具製造業を営んでいた杉本吉太郎さんは、嘉助さんを木工職人にし、家業を
継いでほしいと考えていたといわれるが、
「成績が優秀で、学校の先生のすすめもあり、地元の工業高校から、横浜工業専門学校
(現在の横浜国立大学工学部)へ進んだんですよ」
 と、嘉助さん宅の近所の人は話す。
 紀子さまの祖母・栄子さん(74歳)の父・服部俊太郎さんは旧満鉄の副参事で、嘉助さんの
上司であった人であるという。嘉助さんとの間には2女が誕生。長女が紀子さんの母・和代さん
(48歳)だった。
「ご両親が物静かでとても礼儀正しい方なんです。そのせいか和代さんもおとなしい人で、
道で会うといつも会釈してくれました」
 と小さいころの和代さんを知る地元の人は話す。また、杉本家は教育熱心な一家としても
評判であり、和代さんと、3歳違いの妹・育代さん(45歳)もともに静岡の名門女子高・
静岡英和女学院で中学・高校を過ごした。
29名前をあたえないでください:2012/03/25(日) 03:08:38.09 ID:lH1bezuN
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  紀子さまのルーツとその人々 4

「学校までは4キロほどあったんですが、和代さんは毎日1時間かけて歩いて通学していました。
頑張り屋さんで、成績はトップクラス。英語はなかでも得意だったと思います」
 静岡英和女学院での同級生はそう話していた。
 その後、東京の昭和女子短期大学英文科に学んだが、そのとき知り合ったのが、
東大経済学部に在学していた辰彦さんだった。
「道を歩いていて石をけとばしたら女房に当たった」
 と。ふたりのなれそめを聞く友人に、辰彦さんはこんなふうに話したことがあるという。
ときには和代さんは研究室を訪れ、辰彦さんの論文の整理などのお手伝いもした恋愛時代をへて、
ふたりは昭和39年10月、結婚。
「辰彦さんはまだ大学院の学生で、和代さんが近所の子供たちの家庭教師をして生活を支えて
いらしたんですよ」
 そう、和代さんの同級生は振り返る。
 辰彦さんは東京都立戸山高校から東大経済学部、東大大学院を経て米国のペンシルバニア大
大学院に留学、博士号を得った。ペンシルバニア大大学院で助教授をつとめたが、昭和48年に帰国、
学習院大経済学部の助教授に迎えられ、昭和51年、36歳の若さで教授となった。
 専門は「交通経済学」で『道路交通需要の将来予測』『都市化現象と都市分析』などをはじめ、
50をこえる著書や論文がある第一人者である。
 また、環境問題や人口問題などを研究している国際応用システム分析研究所にも所属し、
昭和52年から54年まではオーストリアのウィーン郊外にある研究所の主任研究員として赴任もした。
 学習院大での辰彦さんは「やさしい」と評判の教授。
「授業より大切だと思うことがあれば、そちらを優先してください」
 そう、ニコニコしながら話し、
「笑っていれればみんな幸せですから、笑っていられるようにみなさんにAを差し上げましょう」
 ということがしばしば。
30名前をあたえないでください:2012/03/25(日) 03:09:02.87 ID:lH1bezuN
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  紀子さまのルーツとその人々 5

 辰彦さんの弟・川嶋行彦さんも学習院大経済学部の助教授を経て、東京国際大学商学部教授。
現在は同大のアメリカ校(米国オレゴン州)に赴任しているが、講義は辰彦さん同様、学生たちの評判のマト。
「黒ぶちメガネに髪は坂本竜馬のようなオールバック。いつも風呂敷包みに袴をはいて教室に来ますので、
学内で知らない人はいないという名物教授です」
 と、東京国際大の卒業生は話す。出席は「あまり重視しません」ということだが、学生で
教室はいつも満員。それだけ人気もあったという。
 また、辰彦さんもふたりの姉も、そろって学者に嫁いでいる、
 長姉の宮子さんの夫は、東京・小平市にある白梅学園短期大学保育課教授の小菅茂雄さん。
 すぐ上の姉・豊子さんは、元専修大学文学部教授の佐藤英一郎さんと結婚、教育学を専門とした
佐藤教授だったが、昭和58年9月に亡くなった。
 紀子さまの祖母・紀子さんのオイには京都大学掲載が国教授の池上惇さん(57歳)もいて、
まさに川嶋家は学者一族である。
31名前をあたえないでください:2012/03/25(日) 03:09:28.06 ID:lH1bezuN
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  紀子さまのルーツとその人々 6

 昨年7月末、紀子さまはご家族、祖父母の杉本嘉助さん・栄子さん夫妻、親戚一家と旅行なさっている。
お出かけになったのは静岡県伊豆の湯ヶ島の吉奈温泉・東府屋旅館。ここもまた、紀子さまのご親戚だった。
「紀子さんとはそのとき会うのが初めてでした。おじさん(杉本嘉助さん)から“おてんばで活発”と
聞いていたんですが、まったく印象は違いました」
 そう話すのは東府屋旅館の“若奥さま”城所由佳さん(23歳)。由佳さんは昨年3月“若主人”の城所達也さん(29歳)
と結婚したが、由佳さんの父親が嘉助さんのイトコで、紀子さまとは“またイトコ”にあたる。
「うちには“子宝の湯”という露天風呂があって紀子さんも入られました。お風呂に入るときも
浴衣姿でお辞儀をされたのを覚えていますが、その浴衣姿がとても可愛らしくお似合いでした」
 と由佳さんはいう。
 名物のキジ鍋とシシ鍋を召し上がり、親戚そろっての楽しい一夜を過ごした翌日、達也さんは、
直営のキジの飼育園へ紀子さまのご一家を案内された。現在約6千羽が育てられている。
「私が“ときおり突然変異で白いキジが生まれることがあるんですよ”と説明し、お見せしたところ、
紀子さんと、弟の舟くんが、むずかしい遺伝学の話を始めたんです。やはり、学者一家だなあと、
そのとき思いました」
 と、達也さん。
 由佳さんが礼宮さまと紀子さまのご婚約を知ったのは、実家の母親からの「新聞をみてごらん」
という電話でだった。
「もうびっくり。でも、ここへいらしたとき紀子さんは“おじいさまを今後ともよろしくお願いします”
と、私にごあいさつされたんです。いま思えば、これからはおじいさんともなかなか会えなくなるので、
そんなふうにおっしゃったのではないでしょうか。
 私は紀子さんとは同じ年の同じ月の生まれなんです。でも、私よりとても落ち着いていて、笑顔も
本当に素敵でした。でも、私もいわれるんですよ。笑ってるときがいちばんいいって…」
 由佳さんはさわやかな笑顔をみせた。どことなく、紀子さまに似た笑顔だった。