【外交】日本政府を代表しておわびする声明を発表 カナダ軍捕虜に対して[11/12/9]

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5:人種蔑視に基づく残虐行為
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm#zangyaku
連合国側がおこなった非戦闘員の無差別大量虐殺、戦場における捕虜の虐殺や
戦闘能力を失った者に対する虐殺以外にも、戦死者の遺体に加えた冒涜行為などは
日本人の宗教的感覚とは相容れないものであり、その実態は彼等の残虐行為を戦場
で体験し、目撃した者が書いた以下の著作にあります。

その中には米軍兵士の残虐行為を目撃した米国人のものも、数多くありました。

昭和二十年(1945年)四月七日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)
など二隻、駆逐艦三隻が敵の空襲を受けて沈没しました。
「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った米軍戦闘機
の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧の原艦長の証言)

「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な
機銃掃射を加え続けた。」(著書、「伊藤整一」、大和と運命を共にした第二艦隊司令長官)


同様な残虐行為はニューギニア近海でもおこなわれました。昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦
(空襲)の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が敵機の攻撃により沈められましたが、
沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり漂流中の千名の兵士達に対して、
アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に
戻り弾を補給し、映画撮影のカメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。

「決して男らしいやり方ではなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。
「隊員の中には気分が悪くなる者もいた」。

救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えたその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルム
が十年ほど前にオーストラリアのテレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。
「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。(容赦なき戦い、ジョン・ダワー著)

ちなみに日本海軍では漂流者に対する攻撃を禁止していました。

終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、第四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが
付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が
必要な場合だけであった。(容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授 ジョン・ダワー著)

病院に対する爆撃

昭和十九年(1944年)五月二十四日にブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、
米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百名が死傷した。病院の屋根には国際法の
定めに従い、上空からよく見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもかかわらず、それを
無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。
それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。


フィリピンのラグナラ州カランバには日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、ここは
フィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、
戦争が既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養失調で死亡した日本兵捕虜は一万二千人にものぼった。

もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、
B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。


太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。

「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋
において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの
高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。
この残虐性は四ヶ月後に広島でその頂点に達することになる。」 (著書、戦艦大和の運命)