【暴力団】 ビートだけし 「親分の娘が、会いたいとベンツ3台で“拉致”された」

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33名前をあたえないでください
バーニングの幹部には大体が、右翼やヤクザといった人種が名を連ねている。
ライジングの平社長は元山口組の幹部の運転手であり、小指がないので有名である。
この平の人脈もライジング・バーニングの影響力を後押ししている。
平社長はオフィス北野(たけしの個人事務所)の役員である。

また、周防の子分だった館や、木之下なども役員となっている。
オフィス北野の株の25パーセント以上を占有していると言うから
もはやオフィス北野はたけしの事務所ではないだろう。
なぜオフィス北野が設立されたかを知っているか?
あの87年のフライデー事件の際、右翼「日本青年社」が
日本テレビや大田プロ(当時たけしが所属)に連日街宣車で抗議していた。
恐怖におびえたたけしは、仲のいい周防に仲介を頼む。
その見返りとして個人事務所設立と、役員参加を要求させられたのだ。

たけしの娘も実はたけしはオフィス北野からデビューさせたかったが、
「たけしの娘」という話題性のあるタレントを頂きたかったライジングが
たけしを脅して所属タレントにさせたのである。
またプロデューサーYOSHIKIにも問題があった。
YOSHIKIは96年のエックスジャパン「ダリアツアー」で
椎間板ヘルニアのため、全国ツアーを途中で断念することになった。
福岡ドームや横浜アリーナなどの大規模会場を
キャンセルしなくてはならない事態になり、
多額の借金が生まれた。その借金を肩代わりしたのが
バーニングの周防なのである。(これは意外に知られていない。)

その頃バーニングのお抱えプロデューサーの代表格といえば「小室哲哉」。
内田有紀や観月ありさなどバーニングタレントをプロデュースしまくっていた。
バーニングに飼い殺し状態の小室は生意気に独立を画策。
バーニング(エイベックス系)から逃れて、グローブ、カハラトモミなどを
連れてほかのレコード会社に移籍しようとした。
小室に逃げられたバーニングはYOSHIKIを今度は飼い殺しにした。
その結果が今回のたけしの娘へのプロデュースということさ。