ソース(スポルティーバ、小田嶋隆氏「二次観戦者の帰還〜キス・ユア・アスリート」)
http://sportiva.shueisha.co.jp/series/odajima/2011/08/05/post_2/ http://sportiva.shueisha.co.jp/series/odajima/assets_c/2011/08/matsuda0804b-1-thumb-300x285-4647.jpg 8月2日の午前10時5分ごろ、松本山雅FCに所属する松田直樹選手(34)が、長野県松本市の梓川ふるさと公園での練習中
に倒れ、同市内の信州大学病院に救急搬送された。
このニュースは、練習を見学していたサポーターが発信したツイッターを通じて、またたく間に拡散した。
私のタイムライン(ツイッターの個人用表示画面)に第一報が表示されたのは、午後2時頃のことだった。うそだろ?私は目を疑った。
松田直樹って、あの元マリノスの松田か? 心臓マッサージ? なんだそれは? どうしてこんなことが起こるんだ?
この段階では、情報はまだ錯綜している。最初の報告をリツイート(再拡散)した人たちの態度も、だから、極めて慎重だった。
「続報を待とう」「安易な憶測は避けないといけない」「過剰反応しないように」と、自らを戒める言葉を付け加えながら、松田選手の
容態を気づかう人の数は、しかし、どんどんふくれあがっていった。
皮肉なことに、事件を伝える人々の「控えめさ」が、かえって、事態の深刻さを物語っていた。どういうことなのかというと、ふだん
ツイッターの表面を騒がせている大げさなアジテーションとは対照的に、抑えた口調で語られる情報は、それだけ真摯な憂慮を伝えて
いたということだ。
スポーツには悲劇がつきものだ。
選手の負傷や、代表チームの敗北や、クラブチームの消滅など、年々歳々、悲劇の文法で語られる事件は枚挙にいとまがない。
それらの悲劇がもたらすドラマを正しく伝えることは、伝え手であるわれわれにとって、大切な仕事でもある。というのも、悲劇は、
栄光や歓喜を劇的たらしめるためにどうしても必要な、スポーツの基礎要件だからだ。
しかしながら、今回の松田選手のケースのような、競技が想定している枠組みを超えた悲劇については、実は、われわれは語る
べき言葉を持っていない。
絶句する以外に、どうしようもないではないか。
今回、松田選手の救急搬送を伝える様々なメディアの反応を見比べてみて、私は、実は、サッカー関連の掲示板に集う人々を
ちょっと見なおしている。というのも、あの悪名高い匿名掲示板には、意外や意外、バチあたりな言葉を発する人間がほとんど
現れなかったからだ。スレッドにコメントを書き込んで行く人間の多くは、驚くほど素直に松田選手の病状を心配し、その回復を祈念
している。これは私にとって意外なことだった。
私の見たところでは、サッカー板に常駐する人々の口汚さは、何年も前から、常軌を逸したレベルに到達している。
ライバルチームの選手やサポーターに対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)や、気に入らない判定を下した審判に向けての罵詈雑言
(ばりぞうごん)は、実際の話、見ていてうんざりするほど苛烈だ。ずっと昔、インターネットがまだ微温的なたまり場であった時代は、
審判への罵声にも一定量のユーモアが含まれていたものだし、敵サポ同士の毒舌の交換にも、親しみに似た感情が介在していた
ものだった。
が、そういう時代はもはや過去のものだ。
掲示板の規模がある臨界点を超えて以来、発言の平均値は耐え難い低さに下がっている。だから私は、この2年ほど、何か特別
な出来事が無い限り、サッカー掲示板はあえて覗かないようになっていた。
(中略)
スポーツは、競技場に集まる人間の悪意を、ルールと運動に化学変化させる一種の魔法だ。
その過程で生まれる爆発的な歓喜や、誇張された悲しみは、スタジアムに居合わせた人間に分かち与えられる90分の果実として、
遺恨を残さない形で消費される。
であるから、ゲームの中でカタルシスを得た観客は、原則として、喜怒哀楽をスタジアムの外に持ち出さない。
(
>>2以降に続く)
(
>>1の続き)
スポーツ報道においても、ある程度同じことがいえる。
すなわち、自分の立ち位置をよくわきまえているスポーツファンは、スタジアムの外で起こった事件や、ルール外の出来事や、競技
カレンダーの枠外で展開されるイベントについては、原則として介入しないのである。
たとえば、なでしこの優勝をリアルタイムで見守り、一緒に応援してきたファンは、優勝が決まった後は、彼女たちに群がらない。
スタジオに呼び出して大騒ぎをしたり、空港で走りながらカメラのフラッシュを炊いたり、練習後の選手を尾行したり、合コン相手の
大学生のツイートを検索しているのは、サッカーとは無縁なところで商売をしている女性誌の記者や芸能リポーターたちだ。記者会見で、
前の方の席を取ろうと醜い争いを展開しているのも、社会部の遊軍記者や夕刊紙のオヤジだ。ふだんから地道に取材をしてきた
サッカー記者は、ほとぼりが醒めるのを静かに待つ。というのも、「ルール」に無頓着な人間は、そもそもスポーツの世界に居られない
人間だからだ。
伊良部投手の自殺をめぐる報道においても、死の前後の事情を掘り返すために現地に記者を派遣する決定を下したのは、結局、
野球とは無縁な部署のデスクだった。
野球界の人間は、黙って心を痛めていた。ファンも、メディア関係者も、だ。
死を悼むということは、追悼の言葉を連呼することではない。むしろ、黙って心を痛めることだ。あたりまえの話だ。
伊良部投手の悲劇とそれを伝える報道を眺めながら私が思ったのは、野球ファンは、やっぱり捨てたものではないということだった。
野球ファンの掲示板も、サッカーのそれと同じく、通常は、どうにも辛辣で、口汚く、不謹慎な言葉であふれた場所だ。
が、本当の悲劇が起こってみると、伊良部投手をネタに笑いを取ろうとしたり、その死を茶化して貶(おとし)めようとする声は、
ほとんど湧いてこない。
やはり野球が好きな人間は、普段はどんなに斜に構えていても、伊良部という偉大な投手に対する最低限のリスペクトは失わない
のである。それが確認できただけでも、掲示板を覗きに行った価値はあった。
ひるがえって、ワイドショーは、大はしゃぎだ。無論、手を叩いて喜んでいたのではない。
レポーターは沈痛なふうを装っていたし、キャスターも、コーナーのアタマと最後に、ぬかりなく追悼の言葉を付け加えていた。
でも、伊良部投手の晩年の不祥事を、デカいパネルに列挙して、紙をひっぺがしながらいちいち読み上げてみせていたことは、
誰にも隠しようのない事実だった。
結局、スポーツを知らない人たちは、スタジアムの外の出来事にしか興味を持たない。そういうことなのだ。選手に対しても同様だ。
彼らは、試合中のプレイには目もくれない。その代わりに、休日のプライベートを追い掛け回す。でもって、練習の努力については
一行も報じないくせに、離婚や飲酒運転については細大漏らさずほじくり返しにかかるわけだ。
テレビの皆さんには、ぜひ、試合を映してほしいと思う。
オフの、スタジオの、バラエティーの、白い歯を見せている選手でなく、試合中の、フィールドの上の、走っている、必死な顔の選手を
カメラにおさめてほしい。このことは、ぜひ、こころからお願いしたい。
松田選手には、なんとしても回復してほしい。そして、「悲劇」を期待して病院の前に隊列を作っているカメラに向かって、元気よく、
こう言ってもらいたい。
「オレがくたばると思ったか?」と。
※ この原稿を書き上げた12時間後に、松田選手の訃報が届きました。残念です。チームの枠を超えて、大好きなサッカー選手
でした。心から冥福をお祈りいたします。
(終わり)
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