☆キリシタンの墓37基出土 臼杵☆
[2011年5月22日]
大分県臼杵市野津町原の「下藤地区共有墓地」で、安土桃山時代から江戸初期にか
けてのキリシタン墳墓37基が出土した。地面に並べた石を墓標としており、臼杵市教
委は、墓の地上部と墓坑(ぼこう)の両方がほぼ完全に残っている大規模なキリシタン
墓地の出土は国内初とみている。12月以降に一部の墓を掘り下げて構造や内部の
遺物を調べる方針。
墓地は山のなだらかな斜面にあり、墓は墓地の入り口から奥にかけて列を作るように
並んでいた。30センチ角ほどの石を地面に長方形に十数個ほど並べたものが多く、長
さ70〜250センチ、幅60〜100センチ程度。大きいものは大人、小さいものは子供の
墓とみられる。
並べた石の上に大きな石をかぶせた墓も見つかったほか、小礼拝堂らしき建物の礎石
や、墓地の中央には円形に小石を敷いた広場のような跡もあった。
市教委文化財課によると墓地全体の広さは1千平方メートル前後で、うちキリシタン墓地
は3分の1の約360平方メートル。16世紀後半ごろまでは墓を伴う仏教施設があったが、
付近の集落のキリシタンが墓地に利用するようになったらしい。元々あった墓石を砕き、
キリシタン墓の石組みに使った可能性が高いとみている。
幕府がキリスト教禁教令を出した1610年代以降、再び仏教などの墓地に戻り、近年まで
地区の共有墓地になっていた。キリシタンの墓があるとの言い伝えは地元で受け継がれ、
十字を刻んだカマボコ形の墓碑が墓地内で見つかり、墓地は1973年に旧野津町の有形
文化財指定を受けた。2000年には付近で石製の十字架の一部とみられる破片も見つか
った。
市教委は昨年12月に発掘調査を開始。土を10〜15センチ程度除去しただけで多数の墓
が現れたという。
調査に加わった五野井隆史・東大名誉教授(キリシタン史)は「墓標と下部構造の両方が完
全に残っている例は全国初ではないか。教会の敷地内などではない農村部の集落の墓と
しても貴重で、当時のキリシタンの生活を知る手がかりになる」と話した。また、幕府の禁教
令後、キリシタンの墓を各藩が積極的に破壊した記録は数多く残っているといい、「江戸時代
に臼杵を治めた稲葉氏はキリシタンに寛容だった可能性もある」との見方を示した。
▽ソース:アサヒドットコム
http://mytown.asahi.com/areanews/oita/SEB201105210055.html ▽画像:出土した石組みの遺構。地下に遺体が埋葬されている可能性がある=臼杵市野津町原
http://www.asahi.com/areanews/images/SEB201105210048.jpg