☆江戸の村人守った命山☆
[2011年05月19日]
津波や高潮が襲ってきたらどこへ逃げるか――。今から330年前、遠州灘に面した逃
げ場のない低地帯に、村人たちがいざという時に避難する小さな山が築かれた。高さ3・
5メートルと5メートル。今は木々や雑草に覆われている二つの人工山は、江戸時代の
防災施設だ。人々は「命山(いのちやま)」と呼んだ。
■袋井・浅羽地区
現在の袋井市浅羽(あさば)地区にある「大野命山」と「中新田命山」。二つの集落の真ん
中にそれぞれ位置する。現在の海岸線から1・2キロほどで、築造当時の海岸線はもっと
近かった。
きっかけになったのは1680(延宝8)年、江戸時代最大といわれる台風の襲来だった。こ
の地域は当時、入り江が深く入り込んでいて、大潮と重なって津波のような高潮が海岸線
や入り江を襲った。民家6千軒が流され、300人以上が水死したという。
当時の浅羽地域は横須賀藩(現在の掛川市)の領地で、藩はさっそく総動員で全長約13
キロに及ぶ「浅羽大囲堤(おおがこいづつみ)」という防潮堤を築いた。現在の大野、中新田
の二つの集落は、この大囲堤より海側にあって恩恵を受けられず、村人たちは藩の技術指
導を受けて自力で命山を築いたという。
地元の郷土史グループ「浅羽史談会」副会長の岡本寛二さん(73)によると、大囲堤は昭和
の農地整備に伴って壊され、ごく一部残るだけだが、命山は二つとも原形をとどめる。岡本
さんは「浅羽は昔から水との闘いだった。先人たちが苦労して命を守る場所を築いた歴史を
忘れないようにしたい」と話す。
二つの命山は伝承の域を出なかったため、2002年に旧浅羽町が学術調査を実施。江戸時
代の防災上の築造物として高い評価ができるとして、07年には県の文化財に指定された。
大野命山は縦32メートル、横24メートルの長方形で、高さ3・5メートル、頂上の広さ136平
方メートル。中新田命山は縦31メートル、横27メートルと同規模だが、頂上は68平方メート
ルと狭く、その分高さ5メートルを確保している。どちらも当時の民家の屋根より高く、1平方メ
ートルあたり2人で計算すれば、大野命山は270人、中新田命山は140人を収容できた。
築造後、高潮発生で村人が実際に避難し、舟で対岸の横須賀から食料を調達したり、潮が引
くのを待ったりしたのが記録に残されているという。
浅羽史談会は大囲堤や命山をもっと知ってもらおうと、地元の図書館で4月に展示会を開いた。
東日本大震災で津波対策に関心が高まっている折、江戸時代の防災施設が残存することに驚
く人もいたという。「命山は地元の誇りだが、今度は我々の世代がどうすればいいかを考えなけ
ればいけない」と岡本さんは話す。
▽ソース:アサヒドットコム
http://mytown.asahi.com/shizuoka/news.php?k_id=23000001105190002