発生から11日で2カ月となる東日本大震災で、西日本最大の279センチの津波を記録した
須崎市には、宝永南海地震(1707年)と安政南海地震(1854年)の津波の教訓が
記された「宝永津浪溺死(でき・し)之塚」が残る。
150年あまり前の住民らが「後世に災害があった時、彼らへの教訓になればと皆が願って
塚を建てた」と文字を刻み、油断を戒め続けている。
石塚は須崎市須崎の県道から少し入った林の中にひっそりとある。台座を入れた高さは
2・5メートルで、こけで覆われている。
側面に刻まれた約600文字の全文を、土佐山内家宝物資料館(高知市)で古文書を
研究する藤田雅子主任学芸員(33)に解読してもらった。
冒頭は石塚の由来で始まる。宝永4年10月の地震で、須崎では400人余りが水死した。
筏(いかだ)を組みあわせたように死者が折り重なり、すさまじい様子だったと記す。供養の塚を
建てようと準備していた147年後の安政元年12月、再び地震が起きて建立が遅れたが、
被害は少なかった。「昔の事を伝え聞き且(か)つ記録もあれば人々思い当たりて……」。
宝永の教訓で津波の来襲を予期した多くの人が高台に逃げたという。
ただ、“誤った昔話”を信じた30人余りが沖へ出て亡くなったとも記す。誤った話とは
「慌てて山へ逃げた人は落石で死に、沖に出た人は助かった」との言い伝えだという。
注意点として「地震後すぐに沖へ出るのはいいが、しばらくしてから船を出すのは危険だ」
と改めて戒めている。
地震が起きれば津波が来るため、揺れの様子を見て食べ物や衣類を用意し、石の落ちて
こない高い土地へ逃げるよう促す。
険しい山ではなく「古市や神母(い・げ)(現在の下分甲付近)」は浸水しなかったので目安に
せよ、とも書いてある。
結びには「後世もし斯(かか)る折に逢(あわ)ん人の心得にもなれかしと衆議して石を
立て……」とある。犠牲者の供養だけでなく、皆で話し合って後世への教訓を刻むことに
したというのだ。
藤田学芸員は「安政の時は、宝永の教訓で助かったという意識が強かったのでしょう。
だからこそ次の世にも残そう、という思いを感じます」と話す。
須崎地区の自主防災連合会長の大家順助さん(78)は、雑草に囲まれていた石塚を
15年ほど前に整備し、守ってきた。
「大震災が起きた今だからこそ、教訓を生かし、もう一度出直さないといけない」と話している。
(大蔦幸)
朝日新聞(マイタウン高知)
http://mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000001105110001