☆さわちゃんのティールーム:15回 教養教育☆
前回、この欄で旧制高校のことを書いたら、担当デスクから「教養教育は人によって受
け止め方が違うのでは?」と疑問が呈された。もちろん、「教養」と言っても幅広い。中身
もいくつかあるだろう。私が思うに、教養は、現在の学問や教科教育の中でいえば「文科」
と「理科」のバランスの上に成り立つ。
これも以前書いたけれど、私立大学の入試はなぜ少数科目なのか、という疑問にも行き
着くのだ。600校近い私立大がそろいもそろって少ない受験科目を課しているのか?誰も
答えてくれない。
ともあれ、教養を思いつくままに書けば、正確な日本語の会話と読み・書き、外国語の会
話と読み・書き、日本の歴史と世界の歴史、数学、科学といったところか。これにコンピュー
ターの扱いも加わる。最低限であると思う。人によっては、これに漢文や古文が加わり、さ
らに科学を細分化して物理や生物を挙げる人もいるだろう。
義務教育の教科・科目は、一応それを学ぶ理由があって構成されているのだ。在学中は
「何でこんなことを勉強するのか」「大人になっても実社会で使わないではないか」と疑問に
思うのが常である。大人になっての生活で使うことだけ学ぶなら、数学は加減乗除、国語は
現代文と漢字くらい、理科なぞは日常では、まあ使わないであろう。しかし、それだけの知識
では間違いなく応用力がつかない。頭脳の広がりを抑制するだけだ。教養とはそういう性質
のものであり、身につけた知識をさまざまに結びつけて、新しい発想を生み出すことだ。
学問や教科を離れれば、社会生活を営む上でのマナーや想像力、言葉を発信してさらに
聞くことができる対話力、他人の痛みを身に取り込むことができる共感力も、もちろん教養だ。
こちらのほうが日常生活では、より重要な教養ともいえる。
教養について書くきっかけになった旧制高校は、当時のエリート養成機関であった。同年齢
の世代の1%以下しか進まなかったスーパーエリート集団で、旧帝国大学の定員とほぼ同じ
人数だったから、入試はあったが、選ばなければ進学できる条件であった。大学入試のために
受験勉強を続けるのではなく、指導層になるための教養教育が最重点であったという。
現在の学制で旧制高校が復活するはずもない。大学進学率が50%を超えた現在、大学や
高校全般にエリート教育機関としての役割を担えるわけもない。大衆化した高等教育(大学や
大学院)の良い面はあるが、バランスのとれた教養教育ができなくなっている。そのひずみが、
今の社会に広がっているのだと思う。
[2011/04/27]
▽ソース:毎日新聞
http://mainichi.jp/life/edu/news/20110426org00m100014000c.html 2011年4月27日