長宗我部氏、実は四国を平定できていなかった!?
土佐の戦国大名・長宗我部元親の四国統一を疑問視する声が、研究者の間で大きくなっている。
「阿波や讃岐、伊予に降伏していない勢力があった」とする非統一説が台頭。
南国市の県立歴史民俗資料館も、既に「四国統一」表記を後退させた。
逆に、伊予の戦国大名・河野氏に関して降伏説を後押しするような新資料が見つかり、
長宗我部氏をめぐる議論が熱を帯び始めている。
1575(天正3)年、土佐を統一した長宗我部元親は四国平定に乗り出した。
途中、織田信長の干渉を受けながらも阿波、讃岐を制圧し、
1585(天正13)年春、伊予中部の河野通直(こうの・みちなお)を降伏させ四国を統一した――というのが、
「高知県史」などで長く語られてきた通説だ。
これに反論する論文を、三重大学の藤田達生教授(日本史)が1991年に発表。
同教授は史料解釈の間違いなどを指摘した上で、
▽伊予国内には、北部の来島氏など降伏していない勢力が存在する
▽河野氏の降伏は後世に書かれた軍記物「土佐物語」の記述に依拠したもので、これを示す史料はない――として統一説を否定した。
さらに2006年には高知大学の津野倫明教授(日本史)が阿波、讃岐の制圧までも否定する説を発表。
史料の検討から、阿波の土佐泊城(鳴門市)、讃岐の虎丸城(東かがわ市)は落城しておらず、
長宗我部氏への抵抗が続いていた可能性を指摘した。
これらの説から研究者の間では
「元親は四国をほぼ手中に収めたが、完全制覇には至っていない」とする見解が強まり、
その余波は長宗我部氏に関する常設展示コーナーを設けている県立歴史民俗資料館にも。
パネルなどの「四国平定」の表記を「大部分を支配下に置いた」と変更。
今春のリニューアルでは、長宗我部氏の勢力図も新説に沿って書き換えた。
■土州様?
一方、河野氏の居城だった湯築(ゆづき)城(松山市)の発掘調査で、
城内から見つかった長宗我部氏にかかわる瓦や土器が近年、研究者の間で議論を呼んでいる。
大手(城の表門)付近から土佐の岡豊城、中村城でしか見つかっていない瓦が出土したからだ。
寸法や成形に共通点があり、文様は同じ笵(はん)木を使って焼かれたと考えられている。
城内の家臣団の居住区からは、元親を指すと考えられる「土州様」と墨書された土器皿も見つかった。
調査を担当した愛媛県埋蔵文化財調査センターの中野良一調査第一係長は、
「長宗我部氏が湯築城を占拠した証しに瓦をふいたのではないか」と推測。河野氏の降伏説を主張している。
が、これにも愛媛県の文献史の研究者らは「降伏を示す同時代の史料はない」と反論。
河野氏と長宗我部氏が一時的に同盟関係にあり、「瓦や土器が見つかってもおかしくない」とする説も唱えられている。
本県の考古学の研究者も
「湯築城に長宗我部氏の何らかの関与があった可能性は高いが、
瓦をふいた年代を確定することは難しく、慎重に解釈すべきだ」としており、まだ議論は続きそうだ。
ソース 高知新聞 2010年06月09日10時30分
http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=260292&nwIW=1&nwVt=knd