★被爆医の父…面影求め現場へ '08/8/7
原爆投下後に救護所となった福屋百貨店(広島市中区)で、被爆者治療に尽くした医師がいた。
原爆症とみられる症状で被爆後1カ月たたない9月3日に亡くなった吉田寛一医師=当時(51)。
未知の放射線被害に手探りで立ち向かい、力尽きた父の面影を求め、次女村上直子さん(81)
=廿日市市=が6日、被爆建物として今も残る福屋を訪ねた。
市医師会長だった父が院長を務めた「臨時伝染病院」は、終戦直後の8月17日、市が設けた。
被爆直後の広島では、吐血や下痢などの急性症状は赤痢とみられていた。
八丁堀(中区)の自宅で妻ツマさん=当時(53)=と被爆しながら救護に追われていた父は、
病院開設を市幹部に進言した。
放射線の脅威は家族にも、自分にも迫る。「胸が苦しい。少し休もう」。
父は8月末、福屋での治療を中断した。同じころ、病床のツマさんの容体が急変。
「生きていたい」と言い残し、9月1日に亡くなった。父も後を追うように世を去った。
直子さんは、夫の転勤で広島を離れた。夫の退職後に帰郷した直子さんは福屋を訪れ、
変ぼうぶりに驚いた。歴史に埋もれる父の足跡を、手記にまとめる気持ちになったのは、
70歳を過ぎたころだった。
臨時病院があった2、3階は婦人服売り場となった。
「廃虚のビルで体の衰弱を自覚しながら、父は頑張った。
父が呼び寄せているようで、ここは落ち着く場所なんです」。直子さんは数珠を手に合掌した。
【写真説明】「亡くなる直前まで病院に電車で通勤していました」。
福屋の前で被爆者の治療に力を尽くした父の思い出を語る村上さん
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20080807001001.jpg 中国新聞
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