【海上自衛隊】「いやがらせをして困らせよう」と元上司2人の名前で雑誌10冊の購読を申し込む 3等海佐を懲戒処分…横須賀地方総監部
635 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 02:59:30 ID:aSzo9v2J
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)
- 大永6年4月7日(1526年5月19日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇
(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日
(1526年5月19日)。名は勝仁(かつひと)。
636 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 03:00:21 ID:aSzo9v2J
後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日)
- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇
(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。
名は知仁(ともひと)。
637 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 03:01:10 ID:aSzo9v2J
正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日)
- 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日)
- 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。
638 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 03:02:30 ID:aSzo9v2J
後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日)
- 元和3年8月26日(1617年9月25日); 在位:天正14年11月7日
(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))は、
安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇である。
諱を和仁(かずひと)といい後に周仁(かたひと)と名乗った。
639 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 03:04:32 ID:aSzo9v2J
後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日(1596年6月29日)
- 延宝8年8月19日(1680年9月11日); 在位:慶長16年3月27日
(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日)
は第108代天皇である。諱は政仁(ことひと)。
640 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 17:05:32 ID:KKTfKnM7
頑張れ!
641 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 20:53:09 ID:knVTS4d7
642 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:42:31 ID:aSzo9v2J
明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日)
- 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇
(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日
(1643年11月14日))。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。
643 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:43:14 ID:aSzo9v2J
後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は江戸時代の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮、諱を紹仁(つぐひと)という。
644 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:44:13 ID:aSzo9v2J
後西天皇(ごさい てんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日)
- 貞享2年2月22日(1685年3月26日)、在位:承応3年11月28日
(1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))は、
江戸時代の第111代天皇。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。
花町宮。花町院。
645 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:45:03 ID:aSzo9v2J
霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日)
- 享保17年8月6日(1732年9月24日))は神武天皇から数えて
第112代天皇。在位は寛文3年1月26日(1663年3月5日)
−貞享4年(1687年)3月21日。幼名は高貴宮(あてのみや)、
諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い
(長らく院政を敷いたため)。
歌人。能書家。
646 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:45:52 ID:aSzo9v2J
東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日)
- 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇
(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日
(1709年7月27日)。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。
追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。
647 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:46:41 ID:aSzo9v2J
中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日)
- 元文2年4月11日 (1737年5月10日);
在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(
1735年4月13日))は、江戸時代の第114代天皇である。
幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。
追号の「中御門」は、御所の待賢門の別称に因む。
648 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:47:23 ID:aSzo9v2J
桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日)
- 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇
(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日
(1747年6月9日))。
幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。
649 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:48:09 ID:aSzo9v2J
桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日)
- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇
(在位:延享4年5月2日(1747年6月9日)
- 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。
幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、
諱を遐仁(とおひと)という。
650 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:49:02 ID:aSzo9v2J
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日)
- 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇
(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年11月24日
(1771年1月9日))。
江戸時代、また現在まで最後の女性天皇。
幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、
諱を智子(としこ)という。
近年の皇位継承問題から“最後の女帝”として俄かに注目されている。
651 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:50:12 ID:aSzo9v2J
後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日)
- 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇
(在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日
(1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。
なお、天皇急逝のため、後継の準備の為に実際よりも後の日付で発表され
たため、在位日が死亡後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。
652 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:50:53 ID:aSzo9v2J
光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日)
- 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇
(在位:安永8年11月9日(1779年12月16日) - 文化14年3月22日
(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。
諱ははじめ師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)に改めた。
傍系であった閑院宮家出身のためか、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。朝廷の権威の復権に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価されている。
653 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:52:55 ID:aSzo9v2J
仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日)
- 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇
(在位 文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日)。
諱は恵仁(あやひと)。
光格天皇の第六皇子。養母は後桃園天皇の第一皇女、
光格中宮の欣子内親王(新清和門院)。実母は勧修寺大納言経逸の女、
藤原?子(東京極院)。正妃は関白鷹司政煕の女、藤原繋子(新皇嘉門院)、
繋子没後はその妹、藤原祺子(新朔平門院)。
文化6年(1809年)3月24日、父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子とし
て立太子された。
文化14年(1817年)に即位し、父光格上皇の意をうけて朝儀復興に尽力した。
皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に
幕府との折衝を命じた。
幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。
享年47であった。
崩御の翌年にあたる弘化4年(1847年)、天皇の遺志によって御所の建春門外
に公家講学の所として学習所が設立された。明治天皇の命によって設立
された現在の学習院の前身である。
654 :
名前をあたえないでください:2008/05/02(金) 23:55:51 ID:aSzo9v2J
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日)
‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、江戸時代末期の天皇
(121代、在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日)。
諱は統仁(おさひと)。幼称は煕宮(ひろのみや)。
在位中の徳川将軍は、12代徳川家慶・13代徳川家定・14代徳川家茂・
15代徳川慶喜である。
仁孝天皇の第四皇子。養母は左大臣鷹司政?の娘で仁孝女御(後、中宮)
の藤原祺子(新朔平門院)。 実母は正親町実光の娘、仁孝典侍の藤原雅子
(新待賢門院)。正妃は九条尚忠の娘、九条夙子。
幼名は煕宮。天保11年(1840年)に立太子し、弘化3年(1846年)の父・
仁孝天皇の崩御によって践祚した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、
その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創立した。
嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府
大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷
さえ表明したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。これを
受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動
が荒れ狂った。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、妹・和宮親子内親王を
第14代征夷大将軍・徳川家茂に嫁がせるなど、公武合体運動を推進し、
あくまで鎖国を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために
賀茂神社や石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩主
松平容保への信任は特に厚かったといわれる。
しかし慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にある
と見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて天皇に条約の勅許を要求して、
天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となった。だが、
この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、
保守的な姿勢は崩さなかった(もっとも、遺品として時計が残るなど、
西洋文明を全く否定していたわけではない)。翌 慶応2年(1866年)
12月25日、義弟・家茂の後を追うように、在位21年にして崩御。享年35。
死因は天然痘と診断された。
突然の崩御であったため、倒幕派に暗殺されたとする説が、資料的にも
医学的にも非常に有力である。この説によれば、孝明天皇は保守的な人物で
倒幕の意思が無かったため、倒幕派であった岩倉具視などにとって最大の障
害であり、暗殺されたのだという。毒殺説の他に短槍での刺殺説も有るが、
刺殺説は信憑性に乏しい。毒殺説においては使用された毒物についても複数
の説がある。
昭和50年(1975年)、孝明天皇の典医を勤めていた、伊良子光順の拝診日記
が発見されたが、その内容は毒物による中毒死を推察させるものである。
当然ながら、宮内庁は、孝明天皇の暗殺を認めていない。このためか、
戦前は孝明天皇に関する研究は封印されていた。
いずれにせよ、幕府の存在に深く理解を示していた孝明天皇の死は、
禁門の変で鳴りを潜めた勤皇倒幕派の勢力復活と佐幕派の衰退を招き、
幕末史の大きな転換点となった。
暗殺説は国外にも流布しており、安重根が伊藤博文を暗殺した時の理由
として、孝明天皇の暗殺疑惑を挙げている。
655 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:03:24 ID:aSzo9v2J
明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)
- 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位:慶応3年(1867年)
- 明治45年(1912年))。
諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。
印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者
として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝
(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。
明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・
慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に、京都・中山忠能邸
で生まれ、祐宮(さちのみや)と命名された。
万延元年(1860年)5月、立太子を宣明する。9月28日、父・(孝明天皇から)
親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=皇太子睦仁親王となる)。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、父・孝明天皇が俄かに崩御。
慶応3年1月9日、満14歳の若さで践祚した。
656 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:04:16 ID:RSlh9I5n
幕末の動乱
この頃、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月
15日(1867年11月10日)に、明治天皇は、将軍・徳川慶喜からの大政奉還の
上表を勅許し、政権を朝廷に戻した。さらに慶応3年12月9日
(1868年1月3日)には(討幕派の主導において)王政復古の大号令を発し、
「新政府樹立」を宣言。東征を命じ、旧幕府軍と 明治元年(1868年)から
明治2年(1869年)にかけて戦い勝利した(戊辰戦争)。
新時代・明治
明治天皇(明治5年)この間、明治元年3月14日(1868年4月6日)には五箇条
の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には
政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制
を定めた(改元の詔書が発せられたのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。
しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されるとした)。
明治2年(1869年)、東京に遷って東京城(旧・江戸城)を皇居と改称し、
6月17日(7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では
公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけ
として、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が
大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を
断行し、中央集権体制を確立した。
他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布
の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。
岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷
改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽く
した。
※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日
(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」
と定めた(明治5年太政官布告第337号)。
657 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:04:54 ID:RSlh9I5n
征韓論
明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、
勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年
(1874年)から明治8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、
立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、
天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動
への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して
議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。
近代国家の確立
明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、
大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。
明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、
立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、
郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、
莫大な皇室財産の設定を行なった。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、
日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、
近代天皇制国家確立の基礎となった。翌・明治23年(1890年)には教育勅語
を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。
帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する
政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能
を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立に
おいても、天皇は宥和に努めた。
658 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:05:30 ID:aSzo9v2J
列強への道
栃木県那須村演習統監。明治42年11月。日本が初めて直面した近代戦争
である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。
また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な
国力の増強を図った。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本を
植民帝国へと膨張させる政策を採用した。
明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であった条約改正を完了させ、
名実共に日本は列強の一員となった。
崩御(死去)
明治45年(1912年)7月30日、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して
崩御した。享年61(満59歳没) 。
なお、実際の崩御は「7月29日午後10時43分頃」と言われているが、
宮内省告諭に拠る崩御日時は「7月30日午前0時43分」となっている。
これは建前上、崩御当日に(皇太子嘉仁親王が践祚して新帝となる)
一連の宮中儀式を執り行ったということにせねばならなかったものと
思われる。
同年(大正元年)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)
に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車
に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に
埋葬された。なお、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地には
『聖徳記念絵画館』が建てられた。
659 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:06:23 ID:RSlh9I5n
人柄と影響
最も有名な御真影、キヨッソーネ作による肖像版画明治天皇は、近代の
天皇制が確立した時期の天皇である。若年で即位して以来、大政奉還、
王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末
から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、
絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律
すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、乗馬と
和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある
性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚
や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、
また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を
「西洋好き」と評していた。特に教育に関しては儒学を基本にすべしとする
元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のよ
うな西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。特に
明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される
事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を
一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を
遅らせている。こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任
とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで
天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を
求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が
洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という
契約を交わされて天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを
約束(「明治天皇紀」)して天皇自らが親政の可能性を放棄したのである。
写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる
肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、
苦心の末に作成されたものである。ただ、最晩年の明治44年(1911年)に
軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが
明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。
明治天皇は明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉と
認識された。大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が
殉死した。明治天皇を中軸として作り上げられた明治国家は、この後、
変容していくこととなる。
非西欧諸国の中で近代化に成功した日本の君主ということで、海外での評価
は日本国内以上に高く、エチオピアのハイレ・セラシエ1世やパラグアイの
アルフレド・ストロエスネル、イラクのサダム・フセインなど、明治天皇
を尊敬する人は多い。
660 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:06:45 ID:RSlh9I5n
著名な御製
明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。
その数は、約93,000首を超えると言われる。
よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に
おとらぬ国となすよしもがな
よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
系譜
父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明帝の正妃・九条夙子(英照皇太后)
を「実母」と公称した。 乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良
くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。
諡号・追号
在位期間の元号からとって、明治天皇と追号された。
明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、
またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、
以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない。
(追号も諡号の一種とする説もあるが、厳密には異なる)
661 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:09:24 ID:RSlh9I5n
大正天皇(たいしょうてんのう、1879年8月31日 - 1926年12月25日)は、
第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。
幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。印は壽(じゅ)。
在位中の元号から採って、大正天皇と追号された。明治以降の近代天皇制
で初の一夫一妻制をとった天皇である。
大正天皇は1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子
として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍 柳原愛子である。
明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生
まれてから年が明けるまで重い病気に悩まされた。侍医(主治医)の浅田
宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)
とのちに記録している。
このような状態ではあったが、明治天皇は昭憲皇太后(一条美子)との間
に皇子女が得られず、側室出生の親王・内親王ら5人も、第三皇子である
大正天皇の出生以前に相次いで死去していたため、皇太子となった。
なお、嘉仁親王は幼少期に昭憲皇太后の子であると聞かされていたため、
生母が柳原愛子と知った時にはショックを受けたとされる。
662 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:11:21 ID:RSlh9I5n
幼少期
幼少時代の大正天皇誕生の翌年、皇室の風習により中山忠敬の屋敷に里子に
出された。この間、明治天皇は養育にほとんど口出しをしなかった。1885年
(明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に戻ったが、弟宮は全員、妹宮はほと
んど逝去しており、年の近い親族が少なかった。そのため、あまり家族と接
することがなかったとされる。
1887年(明治20年)8月31日、8才の誕生日の時に皇后・美子(昭憲皇太后)
の養子となる(儲君)。同年9月には学習院に入学した。学習院時代には侍
従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校し、これがランドセルの原型となる
など微笑ましい出来事が語られている。しかし、健康に優れず学業に集中で
きなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、
留年することもあった。1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の
恒例になった。
1889年、立太子礼を挙げる。他方学習院での学習は一向に進まず、
乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手
とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難で
あるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師による
マンツーマンの授業を受けた。この時重視された教科は、フランス語、
国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江からは大きな影響を受け、
漢文を趣味としたという。しかし、これらの教育も嘉仁親王にとっては
非常に厳しく、しばしば明治天皇に愚痴を漏らしていたという。
明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきり
であった嘉仁親王の管理を教育から健康まで総合的に行うため、新たに
東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、
嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないま
ま危篤に陥った時には、第3皇子である宣仁親王に高松宮の称号を与える
ことで、有栖川宮の祭祀を継承させている。
663 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:14:08 ID:RSlh9I5n
結婚・巡啓の日々
結婚の儀1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九條節子(貞明皇后)
と結婚した。このとき節子は15歳であった。「病弱の皇太子に早めの結婚
を」と願った周囲の声に後押しされてのものといわれている。ただ、寂し
い幼少時代を過ごした親王にとっては非常にうれしい出来事だったらしく
、幼少期以来優れなかった健康がこの後回復していった。この結婚の時、
日本各地で記念として桜が大量に植樹された。日本=桜という概念が生
まれたのもこの時期であるといわれる。また、現在広く行われている
神前結婚式は、この御婚儀を東京大神宮が一般向けにアレンジしたもの
である。結婚後は明治天皇とは対照的に一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的
な一面を見せたという。大正天皇が事実上では初の一夫一妻制の天皇で
ある(のちに昭和天皇が一夫一妻制を明文化)。
健康が回復してからの親王は日本各地を回った。その範囲は沖縄県を除く
全土であった。有栖川宮の黙認もあって、この時の親王は非常に気さくで、
身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成のお召列車でなく一般乗客
と同じ普通列車に乗り込み、兵庫県の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を
訪問、新潟では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時なぞは蕎麦屋
には入るなど自由奔放にふるまった。これは当時、明治天皇が一般人の目
の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。
京都帝国大学(後の京都大学)付属病院を訪れた時には患者に声をかけ
患者が涙にむせんだという逸話も残っており、福岡県知事との会話の間に
持っていたタバコを気軽に差し出したという記録も残っている。このよう
な思ったことをすぐに言動に出す癖は幼少期からのものであるが、嘉仁親王
の癖を好ましく思わなかった明治天皇や元老山縣有朋らに幾度となくたしな
められていたようである。
嘉仁親王は、巡行中、興に乗れば漢詩を創作している。父の明治天皇や子の
昭和天皇が和歌を好んで読んだのとは好対照である。富山県訪問時に詠んだ
「登呉羽山」の詩は現在、呉羽山山頂に碑文となっており、おそらくは大正
天皇唯一の詩碑とされる。[1]創作した漢詩の数は実に1367首もあり、
歴代天皇のなかでも飛びぬけている。(第2位が嵯峨天皇の97首)開放的な
天皇の性格上、和歌が31文字で限られた表現しかなしえないので、多様な
表現が可能な漢詩に心を寄せたものと思われる。
皇太子時代の韓国訪問時、漢城(ソウル)にて。皇帝純宗や李垠、
伊藤博文の姿もある1907年(明治40年)、嘉仁皇太子は大韓帝国を訪れ、
皇帝純宗や皇太子 李垠と会っている。このときの大韓帝国は、保護国
とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊
という事になった。このとき、嘉仁皇太子は李垠をたいそう気に入り、
その後朝鮮語を学び始めたという。
664 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:15:49 ID:RSlh9I5n
即位
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇の崩御(死去)にともない、皇位を
継承して大正と改元した。1915年(大正4年)に京都御所で即位の御大典を
あげるが、その性格と病状の悪化から「頼りない」「頭が弱い」などという
認識が、山縣ら政界の一部での公然とした認識となった。天皇自身、即位後
の急激な環境の変化と、山縣らの冷淡な態度に過度のストレスを持つように
なる。そんな中で御用邸の休暇には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求め
ていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢は、僅かばかり残された天皇
の自由を奪っていく事になる。
1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休む
ことが多くなり、1919年(大正8年)には食事をとることも勅語を読むこと
もできなくなるほど病状は悪化していた。1921年(大正10年)には皇太子
裕仁親王が摂政に就任することで天皇は事実上の引退となり、病状は公に
される運びとなった。このため、後々にも「頭が弱い病弱な天皇」として
一般に認識されることになった。その一方で、皇太子時代から巡啓に同行
するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは
大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」
天皇像を『原敬日記』に記している。
大正天皇の大葬その後は病気療養を続けていたが、1926年(大正15年)
11月に病状が極度に悪化し、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山
御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を
握ったまま、心臓麻痺で崩御(死去)。宝算(享年)47。
臨終の床に生母を呼んだのは皇后・節子の配慮によるものであったという。
「大正天皇」と追号され、翌年2月8日多摩陵に葬られた。
665 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:18:24 ID:RSlh9I5n
評価
昭和天皇による評価
「先帝の事を申すは如何なれども、その皇太子時代は究めて快活に元気にあ
らせられ、伯母様の所へも極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は
万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりし為め、遂に御病気となら
せられたる、まことにおそれ多きことなり。」
秩父宮雍仁親王による評価
「父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。東宮
御所時代には(中略)子供の目にも溌剌としてうつっていた。それが天皇
になられて数年で、別人のようになられたのだから。」
いわゆる「遠眼鏡事件」
「遠眼鏡事件」とは、大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で
詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして
議員席を見渡した とされる事件であり、それにまつわるさまざまな風説
が流布されており、大正天皇は暗愚であった と評価される要因のひとつで
あるとされる。
この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容
(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なって
おり、信憑性は定かではない。また、語り出されたこと自体が太平洋戦争
後すなわち「近代天皇制の呪縛から解放され」た昭和30年代にほぼ集中し
ているという。
この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている。
この証言は「勅書をくるくると丸め、遠めがねに」したことを否定してはい
るが、どのような経緯で、お付きの女官が大正天皇本人から聞くことになっ
たかは述べられてない。また、その「事件」がいつの出来事であるかも明確
ではない。そのため、そういった「事件」が実際に起こったのか、その経緯
についての大正天皇の説明が真実であるかということを判断することはでき
ない。
また、大正天皇は脳膜炎を患って以来手先が不自由であり、上手く巻けたか
どうかを調べていたのが、議員からは遠めがねのように使っていたように見
えたという説もある。そもそも、勅書は丸めるものであるので丸めること自
体におかしな点はない。
大正天皇は、最終的に政治的な立場から排除された天皇であり、大正天皇が
病弱で暗愚である エピソードの流布自体への政治的な思惑を指摘する意見が
ある。実際、皇太子時代から近かった原敬首相存命時には極力伏せられてき
た天皇の病状は、原の暗殺直後に一般に流布されるようになったとされる。
それに対して、戦前は不敬罪があり、皇室の噂は封印されていたものであり、
(風説の報道が昭和30年代に集中しているからといって)虚構との説明には
説得力がないという意見がある。
大正天皇についての情報は肉親、利害関係者の証言など、客観性が乏しいも
のが多い。
666 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:19:45 ID:RSlh9I5n
系譜
父は明治天皇、母は側室・御局であった公家の柳原愛子。
貞明皇后との間には迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)、淳宮雍仁親王
(秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)の4男
をもうけた。
また、柳原白蓮の従兄にあたる。
大正天皇より御陵が東京に移され、多摩陵(たまのみささぎ)に葬られた。
大正天皇を祀る神社はないが、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿
に祀られている。
667 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:22:28 ID:RSlh9I5n
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日
- 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。
名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。
歴代天皇の中で(神話上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)今上天皇の実父にあたる。
668 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:24:57 ID:RSlh9I5n
略歴
香淳皇后とともに。
1922年、イギリス皇太子エドワード・デイヴィッド(右)訪日時、
貞明皇后(中)とともに。
1928年、即位の礼。
1946年10月29日、憲法改正案を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。
1946年11月3日、日本国憲法に署名。昭和天皇は、1901年(明治34年)
4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后節子(貞明皇后)の第一皇子として、
東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の東宮御所で生まれた。
名は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。
生後70日で枢密顧問官の伯爵・川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育
された。1908年(明治40年)、学習院初等科に入学し、学習院院長・
乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。
初等科在学中の1912年(大正元年)、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に
任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。1914年(大正3年)
3月、学習院初等科を卒業。
1916年(大正5年)年、立太子礼を経て皇太子となった。
1918年(大正7年)、久邇宮良子女王が皇太子妃に内定。
1919年(大正8年)、満18歳となり、成年式が執り行なわれた。
大正天皇の病状悪化の中で、1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日まで、
イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任
し、摂政宮と称された。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、
命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、
久邇宮良子女王と結婚した。
669 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:26:29 ID:RSlh9I5n
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御により、践祚して第124代天皇
となり、昭和に改元[1]。1928年(昭和3年)11月、京都御所で即位の大礼
を行なった。以後、終戦まで国策決定に深く関与し、特に軍事・外交政策
にはしばしば独自の判断を示した。1933年(昭和8年)12月23日、皇太子・
継宮明仁親王が降誕(誕生)。1945年(昭和20年)8月、ポツダム宣言受諾
を決定し、同15日、戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代
天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせた。1946年(昭和21年)1月1日の詔書
(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」な
どを否定し、新日本建設への希望を述べた。
1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法において 天皇は「日本国の象
徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「国政に関する権能を有しない」と
されたが、占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などに
より、独自の政治的影響力を保持した。1952年(昭和27年)4月28日、サン
フランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復し、報告のため伊勢神宮
と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、靖国神社をそれぞれ参拝し
た。
670 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:27:51 ID:RSlh9I5n
戦後は、天皇としての公務の傍ら、生物学研究者としての業績をあげた。
1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス、オランダなどを歴訪。
1975年(昭和50年)には、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。
1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。
1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、(神代を除き)
歴代天皇で最長の在位期間を記録した。
1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。
1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に出席。これが公の場への、
最後の出席となった。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸
乳頭周囲腫瘍により崩御(死去)。87歳と、歴代の天皇で(神代を除き)
最も長寿であった。在位中の元号である昭和より、昭和天皇と追号された。
同年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、
武蔵野陵に埋葬された。
671 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:32:22 ID:RSlh9I5n
年表
1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と貞明皇后の第一皇子
として青山の東宮御所で生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。
生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。
1908年(明治40年)学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)
から厳格な教育を受ける。
1912年(大正元年)陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。
1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
1916年(大正5年)陸海軍大尉昇任。立太子礼を経て皇太子となる。
1918年(大正7年)久邇宮良子女王が妃に内定する。
1919年(大正8年)成年式。
1919年(大正8年)陸海軍少佐に昇任。
1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までイギリスをはじめヨーロッパ
諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン・パウエル卿と
謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章を
贈呈される。
1921年11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。
1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で
無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める。
(虎ノ門事件)
1924年(大正13年)に久邇宮良子女王と結婚。
1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御により践祚し、昭和と改元。
葉山の御用邸内において剣璽渡御の儀を行なう。
1926年(昭和元年)第124代天皇、陸海軍大元帥となる。
1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行なう。1
2月、御大典記念観兵式。
1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、
粘菌などに関する進講を受ける。
1933年(昭和8年)12月23日、皇太子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す
用語)。
1940年(昭和15年)皇居前広場において皇紀2600年奉祝式典に出席。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。
1945年(昭和20年)8月15日正午、国民に対してラジオ放送を通じて
「戦争終結」を告げた(玉音放送)。歴代天皇で初めて、一般国民に天皇の
肉声を聞かせる。9月2日、東京湾内・アメリカ軍艦・ミズーリ号上にて日本
政府および軍代表が降伏文書に署名する。
1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書を煥発する。
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告の
ため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖国神社をそれぞれ参拝。
1959年(昭和34年)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚に出席(朝見の
儀において)。
1962年(昭和37年)南紀白浜にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠を
しのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠
んだ。
1971年(昭和46年)9月27日より香淳皇后とともにイギリス、オランダなど
を歴訪する。オランダでは生卵を投げつけられるという事件があった。
1975年(昭和50年)9月30日から同年10月14日まで皇后とともにアメリカを
訪問する。
1981年(昭和56年)新年一般参賀で初めて参集した国民に向かい「お言葉」
を述べる。
1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に御出席、これが公の場へ
の最後の御出席となる。
1989年(昭和64年)1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍により崩御
(死去)、87歳。
1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、
武蔵野陵に埋葬される(日本国憲法と(現行の)皇室典範を経て葬られた
最初の天皇)。
672 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:33:10 ID:RSlh9I5n
系譜
昭和天皇の父は大正天皇、母は皇后節子(さだこ)(貞明皇后)。
父方の祖父は明治天皇、祖母は典侍・柳原愛子。母方の祖父は九条道孝、
祖母は野間幾子。
皇子女
香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。
照宮成子内親王(てるのみや しげこ、1925年-1961年) - 東久邇宮盛厚王妃
久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、1927年-1928年)
孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、1929年-1989年)- 鷹司平通夫人
順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年-) - 池田隆政夫人
継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、1933年-) - 第125代天皇・今上天皇
義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年- ) - 常陸宮
清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年- ) - 島津久永夫人
673 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:35:16 ID:RSlh9I5n
宮中某重大事件
1919年(大正8年)11月に元老・山縣有朋が、「皇太子裕仁親王妃に内定」
と発表されていた良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約
破棄を進言した事件。「良子でなければならぬのだ」との裕仁親王本人の
意志が尊重されて、「婚約に変更なし」と発表された。 山縣は皇室を思
って進言したのだが長閥の巨頭として非難された。山縣は責任を感じて大
正10年3月、枢密院議長・元老など全ての辞表を提出したが 5月、優詔に
て却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。
婚礼の儀の延期と関東大震災
1923年(大正12年)の関東大震災により、同年秋季予定されていた皇太子裕
仁親王(当時摂政であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来な
ら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長
することはせず遷都するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親
王の意向により延期となった。
この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っ
ている。背景には、霞関離宮が修理中であったため箱根(大きな震災を被っ
た)に行く予定であったが、加藤友三郎内閣総理大臣が死去し、政変が起き
ていたため東京の宮城(皇居)に留まったことがある(1973年の記者会見よ
り。会見記録は高橋紘「陛下、お尋ね申し上げまする」に詳しい)。
また後年、昭和天皇は次のように述懐している。「その 惨憺たる様子に対
して、まことに感慨無量でありました」(1981年の記者会見より)
674 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:36:39 ID:RSlh9I5n
田中義一首相を叱責
満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を
厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しな
かった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激し
く叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその直後に
死去)。
田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる牧野伸顕内大臣の指導
の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見
せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野ら
の「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイ
メージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の
揺らぎすら生じさせることとなった。
この事件で、天皇はその後の政治的関与について臆病になったという。
なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に
内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』
など)を照らしあわせるとそこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。
675 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:38:18 ID:RSlh9I5n
天皇機関説事件
1935年(昭和10年)、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、
昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇
機関説で良い」と言った。 昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説
であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわら
ず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述
懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動
かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見ら
れるが、現実にはそれほど単純でない。
機関説は、国家法人説と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国
家の本質を「法人」とする点において主権および主権者の存在をあいまいに
する意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的
立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。
しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するとい
う点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の
「民本主義」と並んで護憲運動や大正デモクラシーの理論的バックボーンを
演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと立
憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそ
こまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説
は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、
有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説
もある。
676 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:39:37 ID:RSlh9I5n
二・二六事件
1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、
侍従武官長・本庄繁陸軍大将の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも
咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕
が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許
すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を真綿で締める
に等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を
率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれど
も統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面
し初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は反乱軍と認
定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、太平洋
戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)
を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言
われている。なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、影
の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自分の通訳に
選んでいる。
677 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:42:22 ID:RSlh9I5n
真珠湾攻撃・開戦詔勅
1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米戦は避けられないものとし
て決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇は
この席で敢えて発言をし、明治天皇御製の
「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)
という短歌を詠み上げた。
昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。しかし、戦争が始
まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南
洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次
の日記に記されている。
戦争指導
1943年6月24日、戦艦武蔵に行幸した昭和天皇(中央)戦争末期のころは文字
通り世界中で日本軍が戦火をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々
と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ
、実際に幾つか指示等もしている。また、この様なやりとりのなかで答えてし
まったがために、後にはひけずにニュージーランドなどオセアニア付近へ戦局
を広げねばならなくなってしまった経緯が存在する。
和平に向けて
1945年(昭和20年)1月6日、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしていると
の報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この
時、木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧めている[2]。 準備は木戸が行い、
軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺する
という名目であった。
そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿の上奏があ
る。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を
防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇
は近衛の言うとおりの人事が出来ないことを指摘しており、近衛の策は実行
されなかった。
東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和
天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐している。8月9日にポツダ
ム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・
鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった。 昭和
天皇は受諾の意思を表明し、8月15日、玉音放送。終戦となった。後に昭和
天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、
自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て
考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と臥薪嘗胆した
鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている。
678 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:47:25 ID:RSlh9I5n
人間宣言
昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(1945年)1946年(昭和21年)1月1日
、人間宣言を渙発。この詔書はGHQの指導下にあったマスコミにより天皇の神
格否定として喧伝され、国民に大きな衝撃を与えた。
これと前後して、天皇がGHQ本部を表敬訪問した際に撮影された、GHQ総司令官
でアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と一緒に並んだ全身写真が公
開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分)されている。天皇が正装のモ
ーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーがラフな服装で腰
に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は改めて敗戦の重みを
思い知らされた。天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を
与えている。
679 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:48:26 ID:RSlh9I5n
外遊
皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までの間、
イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。
これは史上初の皇太子の訪欧]であり、国内には反対意見も根強かったが、
山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。出発は新聞で
大々的に報じられた。お召し艦には巡洋艦香取が用いられた。イギリスで
は日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世やロイド
・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初
の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解い
たという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見し
た他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地など
を訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。
1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリ
スやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には
数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに
立ち寄っており、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地である
デンマークやベルギー、フランスなどでは暖かく歓迎された。フランスで
は旧知であるエドワード8世と再会、しばし歓談している。しかし当時両国
が植民地支配していたビルマやインドネシア戦線で旧日本軍の捕虜となっ
た退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇すること
になった。特にインドネシアの宗主国であったオランダにおいては生卵や魔
法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいもので
あった。
また、1975年(昭和50年)にはフォード大統領の招待によって9月30日から
10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の訪
米は史上初の出来事である。これに先立つこと10余年前、皇太子明仁親王夫
妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋をたどってのものと
いえる。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画さ
れたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前にはアメリカ人は
天皇の訪米にあまり関心がないという報道がなされ、侍従長・入江相政によ
ると天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいたといい、関係
者を悩ませた。天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってア
メリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、
訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日フォード大統領との公式会見、
10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日
のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々
的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった。ニューヨーク訪問
時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が
天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソ
ードが多かった。ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカ
が日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサン
ゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑
む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入し
たことが話題になった。昭和天皇の外遊はこの訪米が最後のものであった。
2007年現在13回の海外訪問を行なっている今上天皇と比較しても回数はごく
わずかである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの
回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。
帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業で
あったことを物語っている。
680 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:49:49 ID:RSlh9I5n
行幸
戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で
国民の熱烈な歓迎を受けた。三池炭鉱の地下1000メートルもの地底深くや
満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地
までの道路は当時整備されておらず、約2キロの道のりを徒歩で村まで赴い
た。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建った
ね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先でのエピソード、
御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。全国46都道府県を巡幸
するも、沖縄巡幸だけは沖縄が米軍の占領下にあったためついに果たすこと
ができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを
悔やんでいた。
また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪
万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の
1985年(昭和60年)のつくば博の開会式にも出席している。これらイベント
の成功にどれほど寄与したか正確に計ることはできないが、特に敗戦から立
ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響
を与えたと見られている。病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国
体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した
後は皇太子明仁親王を名代として派遣しお言葉を伝えた。これに関して、
「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」との御製が伝
わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(今上
天皇)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりまし
た」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。
681 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:51:32 ID:RSlh9I5n
スポーツ観戦
皇太子時代から大変な好角家であり、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧
相撲に赴いている。特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年
(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、
富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り
出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との
取り組みはしばしば天覧相撲の日に組まれた。
1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球の巨人-阪神戦いわゆる
「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては当時の大映の永田雅一
社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興
に与えた影響は計り知れないと言える。この後プロ野球において天覧試合は
行われなかったが、プロ以外では1966年(昭和41年)11月8日の日米野球
ドジャース戦が天覧に付されている。
682 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:57:35 ID:RSlh9I5n
「崩御」前後
1988年(昭和63年)の暮れに入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳
所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報
道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼり、最終的な記帳者の総
数は900万人に達した。
1988年9月19日に吐血してから1989年(昭和64年)1月7日に崩御するまでの期
間は、テレビなどでバラエティの派手な演出などが不謹慎であるという理由
で自粛になった。なおこの「自粛」は、同年の流行語となった。このほか、
病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中
止・中断されることがあった。
1988年の中日ドラゴンズのリーグ優勝ビールかけおよびパレードの自粛
1988年の明治神宮野球大会中止
井上陽水出演のCM(日産自動車:セフィーロ)で「みなさんお元気ですか?」
の音声カット
五木ひろしの結婚披露宴の中止(更には一般市民でも自粛・延期する人が
続出した)
全日本プロレス出場プロレスラー流血自粛(新日本プロレスは流血続行)
1988年の「日本歌謡大賞」が中止
笑っていいとも!のオープニングテーマの自粛・差し替え
ロート製薬のオープニングキャッチ自粛
伝統行事の中止・縮小
このほか、多数のCMが所謂自粛バージョンになっている。
昭和天皇が病気で倒れた後は暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う
行事が自粛された。
683 :
名前をあたえないでください:2008/05/03(土) 00:58:32 ID:RSlh9I5n
大相撲初場所の開催を1日延期して1月9日から行う
崩御後2日間に渡って、TVはCMなしでニュースおよび追悼特番のみの放送
(ただしNHK教育テレビではほぼ通常放送であった。)
各放送局とも「Xデー」と呼んで、密かに特番体制を準備していた。事前の
噂では、5日間追悼番組が放映されることになっていたが、レンタルビデオ
店に客が殺到するなど、特番自体の視聴率が振るわなかったことや、経営上
の判断から2日間で特番体制は解除されたと言われている。
1989年の全国高校ラグビー決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城
県・茗溪学園高等学校の両校優勝)
1989年の全国高校サッカー選手権大会が2日間順延
1989年の爆風スランプ武道館ライブ順延
1989年1月8日のラジオ体操の中止
1989年1月8日の公演を宝塚歌劇団が中止
学校や塾では始業式を遅らせたり授業を中止するところも多数あった。
このほか、地下鉄通路の広告の照明までが落とされたり、パチンコ屋ですら
店内で音楽を流さなかったなどの出来事も起こっている。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時35分に危篤報道があり(実際は午前6時33
分に崩御)、NHKをはじめとする各放送局は一斉に特別報道体制に入った。
この時NHKでは青地に黄色の丸ゴシック体で「臨時ニュース」というテロップ
と共にチャイムを鳴らした。7時56分、藤森昭一宮内庁長官(当時)が「天皇
陛下におかせられましては、本日午前6時33分吹上御所において崩御あらせら
れました」と発表。直後NHKでは黒地に白の楷書体の手書き筆字で「天皇陛下
崩御」というテロップに切り替わり、チャイムが鳴らされた。このときの
チャイムは「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 cis''8
e'8 a'8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」というものであった(これは臨時ニュ
ースにおいてNHKが用いる通常のチャイム「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 e''8
cis''4 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」と微妙に違い、長い)。同日14時36分に
新元号発表の記者会見が始まる冒頭には、記者会見場に入場する小渕恵三内
閣官房長官(当時)の映像をバックにスーパーインポーズで「新元号決ま
る」というテロップが表示され、再び同じチャイムが鳴らされた。小渕が
着席し、「ただいま終了しました閣議で「元号を改める政令」が決定され、
第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
新しい元号は、平成であります」と言って額に入った「平成」の文字のした
ためられた色紙を掲げた。このエピソードから小渕は「平成おじさん」と称
されることになった。この新元号は毎日新聞が最も早く報じ、「リベンジを
果たした」と光文事件と結びつけた報道がなされた。
危篤発表直後および崩御発表から翌1月8日終日まではNHK(総合)および民放
各局が特別報道体制に入り、CMの自粛、昭和天皇の業績を偲ぶ番組、崩御報
道を受けてのニュースなどが放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュース
や通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほ
とんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送
を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。特別報道
体制内の番組(前年末からの危篤報道を受けてあらかじめ製作していたも
の)にて昭和史が回顧され「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、
以後定着した。日付の切り替わる前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せ
た人々が町の時計塔の写真を取る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間
を待つなどの姿が報道された。
684 :
名前をあたえないでください:
翌1月8日から新聞活字には「平成元年」の文字が初めて現れることになった。
昭和64年は7日間しかなかったため、「昭和64年」が刻印された硬貨は希少
であると認識されがちだが、これは正しくない。実際には「平成元年」の金
型が手配される平成元年3月頃までは「昭和64年」の硬貨は発行され続けてお
り、他の年と比較してその数が際立って少ないということはない。
1989年(平成元年)2月24日に大喪の礼が執り行われ、武蔵野陵に埋葬された。
昭和天皇崩御の日、1989年1月7日のNHK朝の「ワイドニュース」(6時36分
から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日のNHK「ニュース
スペシャル・昭和天皇大喪の日」(8時30分から4時間40分間)の平均視聴
率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ・関東地区調べによる)。
崩御後、1988年まで天皇誕生日であった4月29日はみどりの日という国民の
祝日となった。2007年からは、昭和の日に祝日名称が変更された。
各地の記帳所、記帳所の設置された場所
皇居前記帳所
千葉県民記帳所
葉山御用邸通用門記帳所
名古屋熱田神宮境内記帳所
京都御所前記帳所
福岡市庁舎内記帳所
東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所
※同町は伊豆大島に存在し、前年には三原山噴火という天災に見舞われたば
かりであった。
関連項目
CMが放送されなかった日
s:天皇陛下崩御に関する件