【海上自衛隊】「いやがらせをして困らせよう」と元上司2人の名前で雑誌10冊の購読を申し込む 3等海佐を懲戒処分…横須賀地方総監部
1 :
ランボルギーニちゃんφ ★ :
2008/03/29(土) 11:14:24 ID:??? ★海自:横須賀総監部、3等海佐を停職20日の懲戒処分 /神奈川
海上自衛隊横須賀地方総監部は27日、元上司へのいやがらせのために
勝手に雑誌の購読を申し込んだとして、海自第2術科学校の3等海佐(42)を
停職20日の懲戒処分にしたと発表した。
総監部によると、3佐は07年2月〜6月、元上司2人の名前で計10冊の
雑誌の購読を申し込んだ。届いた雑誌を不審に思った元上司の1人が東京地方警務隊に被害届を提出。
3佐は同7月に有印私文書偽造・同行使と官公職詐称の疑いで逮捕されたが、
東京地検は翌8月、起訴猶予処分にした。
3佐は総監部の調査に「業務に対する指導に恨みがあり、いやがらせをして困らせようと思った」
と話しているという。
毎日新聞
http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20080328ddlk14040187000c.html
2 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 11:15:36 ID:D5zOGaH2
なんという朝鮮人気質
3 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 11:17:11 ID:i6Zf4ihC
日本人てマジばかだな
4 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 11:19:05 ID:HpPGVhxn
3等海佐といったら旧軍の少佐だろう。なんという幼稚で 情けないヤツ。 みっともないから自主退職しろ。
おこちゃまか!!!!!!!!!!!!
いやがらせに薔薇族オーダーしたら、むしろ喜んでたりして。
海士かと思ったら3佐かよ!
8 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 11:43:41 ID:17efYOM9
上司の家にデリヘル呼ぶとかより悪質じゃないんだからいいじゃねぇか。
9 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 11:46:07 ID:IRcf4+PV
バレるようでは,国防は任せられんな
10 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 11:52:10 ID:6JVnY80x
アホか
11 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 12:43:21 ID:dwgr402b
一兵卒ならともかく「少佐」かよwww ウィニーといい、あたごの事故といい、海上自衛隊の将校は本気でアホばっかりなのか?w
>>3 そう思うんだったら、半島に帰れば?誰も困らないし。
しかし海軍も落ちたもんだな
ちいせえ・・なんて小さい人間なんだ・・ 40も過ぎて・・三等海佐にまでなって こんな基地外に国防を任せているとは情けない
>>3 だからな、日本人の世間話にまで鼻先を突っ込んでくんなよ狗が
16 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 14:08:57 ID:sm9RIJaS
葛城三佐>>>>>>>>>>>この三佐
17 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 14:20:02 ID:ZcCr9HA9
定番のピザは?
何の雑誌?
19 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 15:10:40 ID:bkj66CIX
>>1 要するに暇過ぎなんだろ?支那大陸進攻作戦(3軍共同作戦)の準備でもさせとけよ!
20 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 15:33:08 ID:W3tlZP6E
こんなアホが3佐なんて
21 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 15:59:42 ID:eh7ODcEp
シャア少佐詐称
やることがちいせえええええええwwww
23 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 16:23:30 ID:Czu5ei49
>3等海佐(42) はぁ・・・ コメントする気も失せるな。
24 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 16:33:54 ID:l7rm892t
少佐がこんなみみっちい嫌がらせかよ。 日本の海の防衛も危ねえな。
25 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 19:11:35 ID:PYM6Q9Ur
机上の空論とはこういうことだな… こいつは麻酔無しで虚勢だ 小さい男に玉はいらんw
10冊ってのは大きな器だな。
27 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 20:44:24 ID:vVs/RVJ7
特上すし10人前のまちがいじゃないのか?
28 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 21:11:26 ID:8rAP9dPa
やはり少佐には宇宙がお似合いですな
どんな雑誌か気になる
30 :
名前をあたえないでください :2008/03/29(土) 23:33:49 ID:Ept9kvti
少佐として、自主退職じゃ なまぬるいだろ まぁ、近々切腹するだろうよ
32 :
名前をあたえないでください :2008/03/30(日) 02:35:14 ID:arsdGwFo
>>31 自分が誰だか分からない様にする為に、目にマスクでもするんじゃないか?
33 :
名前をあたえないでください :2008/03/30(日) 03:10:23 ID:tudXkw/B
米軍にガソリンスタンドみたいな事をして、しんどい、過酷だ言ってる 海上自衛隊かww
34 :
名前をあたえないでください :2008/03/30(日) 03:35:16 ID:nSCAEPmn
内部監査したらこの手の話が限りなく湧いて出てくるのがヤバい。
>>1 ガキンチョかよ!!!
三佐って言ったら少佐だろ士官だろざけんな!!!
36 :
名前をあたえないでください :2008/03/30(日) 09:04:51 ID:Cwr2wbm3
し、少佐いけません!
37 :
名前をあたえないでください :2008/03/30(日) 09:25:58 ID:HhaC2Ofx
ガキ!そんなことして楽しいか!幼稚園児の頭だな!
38 :
名前をあたえないでください :2008/04/05(土) 10:52:15 ID:ZbnOJFq3
まあ、海上自衛隊ですから。もうこの組織はダメです。解隊するしかないです。 中野人が言うんだから間違いないです。
39 :
名前をあたえないでください :2008/04/11(金) 07:09:36 ID:1AI1VOFz
>>18 「世界の艦船」「Jシップス」あたりじゃないかな?
普段読まない月刊専門誌にも、目を通して下さいという意味で。
40 :
名前をあたえないでください :2008/04/20(日) 06:10:58 ID:10Pbdm0y
3佐も本当にアホだが、元上司2人もアホですね! 部下に恨まれる指導をするようじゃ、戦場で部下に後ろから撃たれますよ! 元上司2人は、バウンティ号の「ブライ艦長」のような奴ですか? 少佐がこんなことをするようじゃ、海上自衛隊にもいずれ「バウンティ号」のような叛乱事件が起きるでしょうね。 インド洋上で艦長がボートに置き去りにされ、・・・・・ 要するに、もうこのような組織はダメです。潰すしかないです。
41 :
名前をあたえないでください :2008/04/20(日) 09:14:27 ID:10Pbdm0y
アホ少佐は、自主退職し、割腹自殺を遂げたようだ。 遺書には「死んで元上司2人の恨みを晴らすべし。」と書いてあったそうだ。 元上司達は、アホ少佐の怨念に苦しむことになるだろう。嗚呼、恐ろしい。
42 :
名前をあたえないでください :2008/04/20(日) 09:22:47 ID:gXhNRh0x
嫌がらせは伝統のピカール(金属磨き)入りカレーだけにしとけば良いものを…
三佐って言ったら護衛艦の副長なんだろ。たぶん元上司の艦長を恨んでいる乗員はこの三佐の副長以外にもは大勢いたんだろうな。乗員を扇動して叛乱を起こすより悪質じゃねぇんだからいいじゃねぇか。
44 :
名前をあたえないでください :2008/04/21(月) 21:10:40 ID:wPVbmAf/
いやがらせは俺にもづっと付きまとっていた。 どうもおれは人から嫌われるタイプらしい。 年下の上司にはとくに嫌われた。学歴社会は仕事をしないと いじめられるな。
見張員に責任を転嫁する自動操舵の舩渡健艦長は逮捕されるべき!
47 :
名前をあたえないでください :2008/04/23(水) 04:50:36 ID:I4PVm5HY
所詮、自衛隊 この程度の人間
48 :
名前をあたえないでください :2008/04/23(水) 05:25:47 ID:ahVCoVk/
自衛隊は軍法会議の様なものないの? 鹿児島のキチガイとか銃殺しろよ、 本来日本人を守るべき者が日本人を殺すとは何事だ たるみすぎなんだよ
保守
50 :
名前をあたえないでください :2008/04/23(水) 22:47:27 ID:On/7R7Rg
>48 キチガイは北海道出身の練馬駐屯地所属の陸士だろ? 鹿児島とはまったく接点なし。 海上自衛隊ともまったく関係なし。 言いがかりはやめてくれ。
51 :
名前をあたえないでください :2008/04/23(水) 23:08:23 ID:ccdxAl58
良い年してなんでこんな低俗な嫌がらせが頭に浮かぶのだ
海上自衛隊第7護衛隊所属護衛艦「ゆうぎり」副長兼船務長3等海佐山口誠(34)を盗撮で逮捕 函館市豊川町の観光施設「明治館」1階店舗で、買い物をしていた登別市の女子短大生(20)の スカート内にデジタルムービーカメラを差し入れた男に短大生の連れの男性が気付き、逃げるところを 取り押さえた。調べでは、山口容疑者は短大生の下着を撮影しようとしたらしい。容疑を認めているという。
53 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 21:28:02 ID:WWMij5ms
舩渡健は、海上自衛隊という組織を守るために、遺族に謝罪という演技をしたんじゃねえのか? 真剣にに遺族のことを考えているんか? なぜ自主退職しねぇんだ! 裁判で争おうという魂胆が見え見えなんだよ! 船乗りとしても、人間としても最低なヤツだ! こんなのが海軍大佐とは情けない。
54 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 21:52:11 ID:etLAF0yw
>>38 海上自衛隊のせいにするとはめでてーな。
変な奴が入るからイメージが悪くなるんだろが。
55 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:16:31 ID:WWMij5ms
んんんん
56 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:17:10 ID:WWMij5ms
あああああ
57 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:17:38 ID:WWMij5ms
いいいいい
58 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:18:11 ID:WWMij5ms
ヵjrvl・らじぇえぁま
59 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:19:24 ID:WWMij5ms
kdvnhalkhvlkahjvla/kn/vznmz.knvlhdhakhkhdakhkhk.HHhkhcbkhHcDHhhKhcKSHkhskdhkhdhjkhahkhdahahHhkheahhkdhvadhkaha
60 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:21:32 ID:WWMij5ms
zjfdlajaljva/vlndsavnziaMvzjzmzjjzznjanzjajvmmiahahvkvdjkj
61 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:23:23 ID:WWMij5ms
hedhfndkdjvdndzxbMhakdahanvdkav
62 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:26:04 ID:WWMij5ms
?????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
63 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:27:57 ID:WWMij5ms
???????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
64 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:29:11 ID:WWMij5ms
?????????????????????????????????
65 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:30:38 ID:WWMij5ms
???ΜΝΞΞΟ?????λμνξο?????????ПОНМЫЫЬЭЮЯммнппмнноьыээюя
66 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:32:22 ID:WWMij5ms
???МЛМНОПЬЬЭЮЯпннллыьэюя??????????????????????????????
67 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:33:40 ID:WWMij5ms
????????????????????
68 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:34:27 ID:WWMij5ms
???????????????
69 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:36:11 ID:WWMij5ms
????????????????????????????????????????????????????????????
70 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:39:15 ID:WWMij5ms
???????▼?○???●●????????◯????????????????????????????????????♯?♭???♯♭???????
71 :
名前をあたえないでください :2008/04/24(木) 22:42:06 ID:WWMij5ms
??挧??捉捉??????捉??????????????
72 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:31:35 ID:vpTpgS4W
船の中に監禁されて頭がおかしくなってるから。
73 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:32:49 ID:vpTpgS4W
海上自衛隊ではパワハラなんて日常的にある。 上司からの脅迫、恫喝、 組織的な嫌がらせ、指導と称した明らかに越権した 個人への詮索と干渉、事実無根の噂を流して孤立させての マインドコントロール等いくらも存在している。 それらを利用して、部下を疲弊させて組み敷き服従させる ことが正しい部下指導と真剣に考えてる幹部自衛官が多い 船が航海している間は、勤務も休みも関係ないから 乗員には船そのものが生きる世界の全て 海自船乗りや潜水艦乗り特有の陰湿な性格特性と 相まって、上記したようなパワハラの温床が形成されて 自殺や不祥事が頻発する。
74 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:34:01 ID:vpTpgS4W
階級でしかモノがいえない馬鹿が多いから不祥事は減らん。 特に1佐ってマジ馬鹿一度シネ。
75 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:36:41 ID:vpTpgS4W
唯我独尊って、なんか海自幹部の異常に高いプライド 言いあててる言葉だね。 釈迦尊みたいに慈悲慈愛の心は 少ないけど、意地と自己愛の強い幹部が多いから組織てきに 崩壊気味なんでしょナムナム
76 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:37:32 ID:vpTpgS4W
海自は国を守る愛国心についての教育はしないからな 俺だけよければ良い=自由主義国家の悪いとこ丸出し 殆どの海自はみな愛国心なんか持ってねえよ、自分の出世と給料だけ 訓練で良い成績を取る、その為にもわざわざ実戦的な危険な訓練計画など危なくて、渡りたくないからな 実戦なんて考えているのは、一部の実戦部隊だけ、特に陸上、艦艇(潜水艦除く) 部隊なんて、術科競技や査閲の為の訓練の為の訓練に全力を注ぐことが第一主義として教えられる それは、北朝鮮の核実験に鑑み周辺事態に備える準備とか、今後の厳しい海外派遣に 備える準備(コンバットスキル・ストレス)の研究すら満足に行われていない 張子の艦隊に過ぎない
77 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:39:33 ID:vpTpgS4W
俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺俺 はははははははははははははははははははははははははははは ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャャ イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン 海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海 自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自自 幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹 部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部 職務上に関わらない曹士の私生活も、俺さまの意のままに 恫喝と強要のパワハラで絶対服従させている。 オツムも弱いから、指導としてパワハラが 俺さまの自己労力も軽微で理想の手法なのだ。 もっとも俺さまは、人格的に幹部としての威厳で 曹士の自主的な敬意からの服従が得られないことは 痛い真実でもある。 が所詮、俺さまにとって曹士は、のび太みたいなものだ。 俺さまにとって、パワハラは階級社会での最上の指導方法だ。
78 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:42:14 ID:vpTpgS4W
海自、会葬は幼稚なヴァカが多い 幹部はプライドばかりのバカが多い 幹部の仕事 一例・某艦副長の場合 哨戒配備中はコンソールの前で寝る。 配置に着く前には自分の配置周りの電気を消して廻る。 コンソールの前で寝てる時訓練その他で無線を使うとウルサイと怒鳴る、何も言わずにボリュームを絞る。 某艦艦長の場合 一例・対潜訓練中慌ただしいCICの艦長椅子で寝る。 怒った司令に起こされると対潜指揮官なのに居なくなる。 でも人が寝てるのは気に喰わないらしく、副長や他の幹部が配置で寝てると怒鳴り散らす
79 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 19:44:00 ID:vpTpgS4W
ホンマにアホばっかり。 戦争がないからでしょうな。だって、どこの国が攻めてくるのかね? 本気で考えてませんわ。士長でもわかりまっせ。これぐらいのことは。 上から下までこの平和がずっと続くと確信してます。あたりまえや、国際情勢ちょっと考えたら分かるわな。 ゆえに、のほほんと暮らしてるのです。 ありがたいですね、平和憲法は。みんなのホンネは平和憲法死守ですわ。 背中から撃たれなくてよかったね。 佐官の半分以上は、有事になったら真っ先に味方に殺されてまっせえ。 先に殺した方が安全ですわ。そうでないと、こっちが殺されるからね。 早く戦争したいね。平和な日本で良かったね。
80 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:40:03 ID:vpTpgS4W
【基本DQN】海上自衛隊のいじめは壮絶。電動ガン、ガス銃を相手にぶっ放す。
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1198925119/ 海自隊員のいじめ自殺 護衛艦内で部下をサバイバルゲームの的に
海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」の1等海士が、上司である2等海曹からのいじめを苦にして自殺したとされる事件の審理が26日、横浜地方裁判所で行われた。
いじめが自殺の原因ではないとする被告側の主張に対して、原告の代理人は、いじめられることによる自殺は予想ができた(予見可能性)とする準備書面を提出。
いじめと自殺の因果関係を説明した。
原告である遺族は、自殺した1等海士に対して暴行や恐喝を繰り返していた2等海曹と、
2等海曹の行為を知りながら十分な対処をせず安全配慮義務を怠った国に対して、
合わせて約1億3000万円を請求していた。
訴状などによれば、自殺した1等海士(当時21歳)は、2003年に海上自衛隊に入隊。同年12月から船務科電測員として勤務を始める。
一般的に、電測員は無線通信やレーダーなどで作戦上の情報を扱う。1等海士は2004年10月27日午前10時32分ごろ、京浜急行立会川駅ホームから、通過する電車に向かって飛び降りた。
複数の部下に対していじめを繰り返し、1等海士の自殺の原因になったとされる2等海曹は、内規に反して護衛艦内に電動ガンなどを持ち込み、1等海士ら部下を射撃の対象としていた。
2等海曹(当時34歳)が所持していたのは、ヘッケラー&コッホ社製MP5という短機関銃を模した威力の高い電動ガンなどで、
戦闘指揮所(CIC)内でサバイバルゲームを度々行い、部下らを強制的に参加させるなどした。
また、別の部下に髪型をパンチパーマにすることを強要し、断られるとガス銃で射撃。
甲板での部下の作業中、手際が悪いといって、左顔面、首筋を叩き、倒れた部下の腹部に蹴りを加えるなどの暴行に及んだ。
さらに、手製のナイフをちらつかせ、自分がヤクザと知り合いであるといって周囲を威圧。
サラ金の借金を返済するために、わいせつ画像約300本が収録されたCD−Rなどを部下に強制的に買い取らせた。
1等海士ら2人の部下から代金として15万円を受け取った、とされている。
81 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:42:02 ID:vpTpgS4W
イージス艦衝突事故で、行方不明となった漁船「清徳丸」の吉清治夫さん(58)と長男哲大さん(23)の親族に対し、 海上自衛隊横須賀地方総監部の山崎郁夫幕僚長(55)が20日、千葉県館山市の海自館山航空基地内で「あそこに報道陣がいますが、知らんぷりしてください。ひと言も話さないで通ってください」と発言した。 親族12人は同日午後、館山市沖まで曳航(えいこう)された清徳丸の船体がクレーンで台船に引き揚げられる作業を見守るため、山崎幕僚長の同行で海自の小型ボートに乗り、沖合に出ていた。 山崎幕僚長は作業後、親族が基地内の桟橋に戻った際、取材のため待機していた報道陣を指して発言した。 親族がバスで帰宅した後、発言を聞いた報道陣が「加害者の海自側から被害者の家族にそのようなことを言うのはおかしいではないか」と追及すると、 山崎幕僚長は言葉に詰まり「報道陣の数が多かったので驚いてしまった。 おわびしたい」と陳謝した。 山崎幕僚長は、横須賀地方総監部では総監に次ぐナンバー2の幹部。
82 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:43:15 ID:vpTpgS4W
私は親が漁師で旦那が海自隊員だったりする 親戚も漁師ばっかでいとこには空自隊員もいる 今回の事件は色々考えてしまう 旦那は海自の航空隊所属で配置場所も違うけどさ。 漁師の方が無事でいてくれればいいけど…難しいだろうな あたごの見張り員と航海長はなんで慎重に行動できなかったんだろうか 世間の反応を見るともう全ての海上自衛隊は悪となってる もし、海上自衛隊関係者とわかったら石を投げられたり人殺しとかやられるかもしれない これから覚悟しないといけないね。 自分はまだいいけどさ、子供がねぇ… 小2の娘が同級生とその親に今回の件で色々言われたらしく泣きながら学校から帰ってきたよ。 なんとか落ち着かせて今は疲れたのか娘は寝てる これから相手の親に抗議するけど、たぶん色々言われるだろうね。
83 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:43:58 ID:vpTpgS4W
ここ2〜3年の海自はほんとにガラガラと音をたてて、崩れつつあるようにみえる。 海軍ってのは、50年の節目で滅亡の道を辿るか、永遠の反映の象徴となるか、見えてくる。 ピークを過ぎ、かつての海軍がそうであったように、ソ連の海軍もそうであったように 海自も衰退の道を歩んでいるのだろうか。残念だが、私にはそう見える。 無能な学歴幹部が何の実績もないまま、レールの上を滑り駆け上がって行き、次々と失速していく。 使命感のない下士官どもも組織に巣くう虫と化し、有能なものは疎んじられる。 近日中に沈む船のネズミは、その前に陸に逃げ出すと言う。ネズミや虫けらが逃げ出してよろこんでいる 馬鹿幹部。自らの運命を悟ることを知らない無能なリーダー。悲しいね。
84 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:45:37 ID:vpTpgS4W
持ち込み禁止の電気冷温庫を勝手に設置して出火w 修理費はしめて600億円 船火事は船乗りの恥っていうし、ましてや自衛艦だし。 艦長さんはチャラにはならんが自殺ものだ。
85 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:47:06 ID:vpTpgS4W
アメリカの弾道ミサイル防衛の一翼を日本の艦が担って、その実験に成功し、 米海軍幹部と若い幹部自衛官が管制室で手を上げて喜んでいる様子をニュースで見て、 最先端の現場と現代の海自の変わりようを感じていたのだが、 その彼らが海の防人としての基本中の基本である操艦に関してお粗末であったことについて、 PC弄りが上手ならイージスシステムと一緒に陸に上がって空自隊員にでもしてもらった方がよい、 塩気の抜けた海上自衛官は海自を去るべきではないかとつくづく思った。
86 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:48:08 ID:vpTpgS4W
海自における士官と下士官間の意識の断裂。下士官は士官と飯も一緒に食えないらしいじゃないか。これは旧海軍からの組織文化・伝統らしいが・・・。下士官を歯車(消耗品)としてしか考えていないのが艦長以下の海自の士官らしいよ。
87 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:53:40 ID:vpTpgS4W
この不祥事から海自を立て直すのは並大抵の努力をしないと無理だな まず優秀な人材を確保し辛いだろう 夏にいくら体験公開しても無駄だな、海保の海猿は入隊者確保にすごいプラスになったが 海自は訓練がメインだからこのようなドラマ作っても面白みに欠ける 結局亡国のイージスとかジパングのような空想ものになってしまう 特別警備隊を題材にすれば結構いけるかもよ
88 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:55:32 ID:vpTpgS4W
無能で危険な組織が要らないだけ 国防は必要 海自が無能で危険だから皆が困ってるけど当の海自連中は無自覚
89 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:57:52 ID:zsvF7FuV
なんか海保厨が一人で書き込みしてるなw
90 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 22:57:55 ID:vpTpgS4W
29日夜、長崎県佐世保市で海上自衛隊のイージス艦の乗組員が酒を飲んでバイクを2人乗りし、酒気帯び運転の現行犯で逮捕されました。 逮捕されたのは、佐世保市を母港とする海上自衛隊のイージス艦「こんごう」の乗組員で一等海士の前段真二容疑者(23)です。 前段容疑者は29日夜9時ごろ、佐世保市白南風町の市道で酒を飲んだうえ、原付バイクに友人の男性と2人乗りしているのをパトロール中の警察官に発見され、酒気帯び運転の現行犯で逮捕されました。 イージス艦をめぐっては先月、千葉県沖で「あたご」が漁船と衝突事故を起こしたばかりで、こんごうの艦長は「隊員の指導に全力をあげたい」としています。
91 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 23:05:20 ID:vpTpgS4W
不祥事多いよね。 で、その項目なんだけど、スピード違反が、服務事故になるのはなぜ? 国防上、何も問題ない。どうして?
92 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 23:12:23 ID:vpTpgS4W
海自元隊員:暴行で退職…同期隊員に賠償提訴 宇都宮地裁 海上自衛隊幹部候補生学校(広島県江田島市)に所属していた20代の元男性隊員が04年、 練習航海中に暴行され退職に追い込まれたとして、同期だった20代の男性隊員(現2等海尉) を相手取り、逸失利益など1060万円の支払いを求める訴えを宇都宮地裁に起こした。隊員は 傷害容疑などで書類送検されたが、海自は事件を公表しなかった。元隊員は「組織的な隠ぺいも 明らかにし、体質を改善してほしい」と話している。 元隊員が提訴したのは16日。訴えによると、元隊員は03年4月に入隊し、海曹長だった 04年1〜2月に同校の練習航海に参加した際、護衛艦「うみぎり」内で、防衛大(神奈川県 横須賀市)出身の隊員から、海図作成に使う金属製コンパスを突き付けられ「早く辞めないと 殺す」と脅されたり、大型の三角定規で太ももを強打されたうえ、左足を繰り返し殴られる などした。元隊員は同年2月27日付で除隊した。 呉地方警務隊は04年3月、隊員を傷害、暴行容疑で書類送検したが、広島地検呉支部は 不起訴にした。海自は同月に隊員を注意処分にしたが、公表はしなかった。海上幕僚監部は 「懲戒処分の公表を始めた05年4月以前のことで、さかのぼって公表するケースでもない」 と説明している。 元隊員は現在も左ひざに痛みがある後遺症を抱えているといい、「当時、上官に暴行を 報告して病院へ行きたいと言ったが、『問題になってはいけない』と許可が出なかった」 と話している。同監部は「個人を相手取っているので、訴訟を関知していない」とコメント している。【内橋寿明】
93 :
名前をあたえないでください :2008/04/25(金) 23:14:14 ID:vpTpgS4W
海のせいで官品以外のPC使えなくなったよ!あんたらいい加減にしろ!
94 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/25(金) 23:16:46 ID:vpTpgS4W
この組織が戦争のための組織ではない。自衛隊の90%を超える人材が世襲になってる。 いかにこの仕事が楽か頒かろうと言うものだ。しかも戦闘の経驗が莫いものばかりだ。 そのうえ22歳になって幹部候補で26歳くらいで初年兵でしかも幹部こんなものが戦争に 使えるってか。みろ太平洋戦争を馬鹿ばかりの將校並べてしかも現地にいって逃げまくってた 大將は他にいてこうしろああしろしかも武器の遣い方も頒からんばか者だらけ いまの自衛隊もそうだ。馬鹿の塊。 海曹じゃない三尉以上の特別對偶だ。これらが癌になるんだ。今も癌だ。 普段掃除もしないでぶらぶらしてる。しかも士官として官舍にはいる。3流大学でも でてろばなれるんだ。しかもうすノロ見当違いが多いこのようなものが士氣を攝るんだ。 太平洋戦争見てみろベテランの下士官がいて昨日幹部學校を出た若いばか者 將校が知ったかぶって命令する尽く裏を掛かれて然もこの將校壕の中でふんぞり返ってる。 生き殘って言う言葉が、大隊の命令で無謀な攻撃だった。部下は皆死んだ俺だけ生き殘った 生き殘れるだろう汚く生き殘りやがったものが多い。古くからの古参を幹部にしたら 逆らったろうなそんな攻撃したら全滅だろそれは受け入れない。つまり軍は勝たなければ駄目だ 青二才の出る幕じゃない。職人の領域だ。軍幹部は昔も今も遊び人の聚まりになってる。 戦いに學歴は必要ない。成績もだ。幹部だったら作戰能力将棋が強いもののほうが 使い物になる。しかし実践だ。戦闘に立てないものが命令するとは言語道断だ。
95 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/25(金) 23:25:45 ID:vpTpgS4W
盗撮:海自1佐が通勤中に女性の足 停職処分に 海上幕僚監部は5日、通勤中の電車内で女性のスカート内部を撮影したとして、海上自衛隊幹部学校(東京都目黒区)の1佐(48)を停職30日の懲戒処分にしたと発表した。 同監部によると、1佐は3月24日午前9時ごろ、JR山手線の車内で、女性の足を携帯電話で撮影し、恵比寿駅で駅員に引き渡された。 警視庁は東京都迷惑防止条例違反容疑で起訴する方針。 1佐は同校で教育計画作成を監督する立場にあった。 8カ月ほど前から約600枚、同様の盗撮を繰り返しており、容疑を否認しているという。
96 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/25(金) 23:27:59 ID:vpTpgS4W
当然海自の場合 退職しても商船にも乗れないし 日本の船舶業界って、ふつうのサラリーマン社会に毒されて、特に内航船なんてのは「内航船経験者のみ」で、 しかも単なる中途採用は取らないor取れない。未だに違法承知で「瀬戸内ひとりワッチのできる人」とか言ってるでしょ? >漁船とか遠洋航海でも厳しいらしい 「いまは30年のベテランでも、日本人はお断りしています。」 日本かつおまぐろ漁業協同組合 談。(電話にて) ↑多分、幹部要員として商船大学や水産高校出身者しか採用してない模様。 但し、団塊組退職分の補充の必要に迫られている会社はベテラン日本人を採用してるみたい。 スレ違いスマソ。
97 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/25(金) 23:29:13 ID:vpTpgS4W
はっきり言って、海の不祥事には陸も迷惑してる。 特にクソ保全規則のタネを撒いたのは、まぎれもなく海が原因。今回の事故で事故報告体制の強化が実施されるのは明らか。 統幕体制になってから運命共同体になったって事をもっと自覚してほしいね。
98 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/25(金) 23:31:58 ID:vpTpgS4W
はっきり言って、海の不祥事には陸も迷惑してる。 特にクソ保全規則のタネを撒いたのは、まぎれもなく海が原因。今回の事故で事故報告体制の強化が実施されるのは明らか。 統幕体制になってから運命共同体になったって事をもっと自覚してほしいね。
消えろ、ヒマ人
「全速後進は衝突の30秒後」 「自殺未遂の当直員は乗員にイジメをうけていた」 「艦内から酒瓶を押収」 「防衛省は捜査妨害をしている」 「乗員からタレコミ電話が」―― 「『あたご』の乗員は口裏をあわせてわれわれに嘘をついているのではないか」 捜査にあたる海上保安庁のある幹部はそう憤いきどおった。 火の無い所に煙は立たずか・・・ 完全に腐り伐っているな、膿はこの組織の根本に有り、至急摘出すべし
なんか「あたご」が漁船との衝突に気づき後進をかけたのは、衝突後だったってね、それを海自は衝突1分前と嘘の証言を支持していたらしいよ さらに艦内で酒盛りも行われていた事実を隠そうと証拠隠滅作業も 指示したんだと インド洋飲酒事件やさわぎりでのいじめの件もあるし、たぶんこれら事実は氷山の一角にすぎないだろな 艦艇乗員は事故起こしすぎ、もう個人の自覚以前の問題だよな SUTORESUが溜まるのは分かるが、はけ口は間違っている 後対策だよな、30分に一度の見回りとか、24時間寝るなとか、方向性が360度ずれている感じがする
「なだしお」の教訓が活かされていません。 学習能力がありません。 記者会見もボロボロ。防衛部長はヘラヘラ笑うし。 このオヤジは、今回の異動で栄転したそうで、よほど人材がいないんでしょうか?
この組織はまじめにやっても馬鹿を見る、ゴマすりだけが出世できる 失敗したら責任のなすりあい、幹部は責任逃れ、いじめ まず、「あたご」の運行幹部は総員責任を取って辞職すべき また、第3護衛隊群司令、第63護衛隊司令も「あたご」を適切に指導教育できなかったため 重大な事故を招いた責任は重い、何らかの厳しい処分が必要だ。 さらに艦内飲酒なんかもってのほか、おまえらは酒気を帯びながら戦闘システムを運用 するのか!!!! 艦長以下乗員全員銃殺だな
軍艦は国家の延長。 海外にあっては大使館と同等の意味を持つ。 その権威を表したもの、日本にあっては旭日の軍艦旗。 領海外で警察権を持つ軍艦に対して敬意を表すために、民間船は軍艦に出会うと自国の国旗を上げ下げする。 海自の艦艇も海外への航海中、例外無く同様に敬意を受ける。日本の旭日旗は世界中で有名なので、知らない船乗りなどいないからです。 つまり、艦艇の前を横切る漁船などいないわけですねw もしいれば、それはテロリストとして認識されてもしょうがない行為。 つい先頃、アメリカ海軍の軍艦に接近した小型モーターボートが撃沈されたそうです。 結果的にテロリストではなく、民間人と分かった為謝罪したそうですが、この事件に対して非難する者はおりません。 なぜなら、これが海の掟であるから。 日本人の奇妙な価値基準で、領海外への航海を多く行う海自艦艇を縛り付けるのは良く無い。 そして国内から出ることの無い漁師であっても、この程度の常識はもっていなければいけない。 なぜなら、海外の様々な国の軍艦は日本へも寄港するわけです。その際、欠礼など失礼窮まる行為、まして軍艦に航路に入るとなれば国際問題に発展するかもしれない。 もし勇気があるなら、船で外国の軍艦へ急接近してみて下さい。ともおっしゃっています。 もっとも命無いでしょうけどw
無許可飲酒で86人を処分 インド洋派遣「はるさめ」 テロ対策特別措置法に基づきインド洋に派遣されていた 海上自衛隊横須賀基地の護衛艦「はるさめ」 (乗員180人)で無許可の艦内飲酒が繰り返された問題で、 海上幕僚監部は4日、服務規律違反があったとして艦長ら86人を 減給などの処分とした。 飲酒を問われたのは62人で、24人は監督責任などを問われた。 海幕によると、海自隊員の処分者数としては過去最多。 内訳は、はるさめ艦長の佐伯泰啓二佐(47)ら29人が 減給5分の1−30分の1、1カ月、はるさめ副長の三佐(39) ら21人が戒告で、いずれも懲戒処分。内部処分として訓戒が 第一護衛隊司令の坪倉恭司一佐(49)ら12人、注意、 口頭注意がはるさめ乗組員計24人。 海幕によると、酒類は出国時に乗員4人が、寄港時に21人がそれぞれ 無断で艦内に持ち込み、無届けのまま個人で保管していた。 佐伯艦長は許可範囲を超える飲酒を一度していた。乗組員の中には、 1人あるいは複数で24回も飲酒を繰り返していた先任海曹長(43) もいたという。 海自では昨年、インド洋に派遣された護衛艦「あさかぜ」でも、 飲酒が発覚、艦長ら25人が懲戒処分を受けた。
17日付け読売新聞の解説欄で「イージス艦事故の背景」と題し問題点を検討した文が出ていた 要約すると 1 イージス艦事故や情報漏えいや各種不祥事が続き、海自希望者が減ったこともあるが、最大の要因 は、少子・高齢化による艦艇乗員の充足率の低下だ。 2 同時に乗員不足を抱えながら、ペルシャ湾機雷掃海、インド洋派遣、工作船対策、法人輸送、船舶検査、MD と任務は広がっているが、充足率が上がっているが乗組員が減ったため十分な体制にない 結論:このままの状況が続くのであれば、艦艇の数を減らし、任務も減らすべき 1の文だがそれと今回の事故とどう接点があるのか、「あたご」は自動化されているといえ、定員である300名以上の乗員が乗っている また「しらね」のそれも当直員が80名以上おり、通常の護衛艦の倍はいるのに効果的に消化はできなかった また情報漏えいなどは、問題外 2 海外派遣などの任務には定員いっぱいの乗員で出航するのは常識、また工作船対処や船舶検査など、海軍としてできて当たり前、いままでおろそかに していた付けが回ってきただけだ、しかし特別警備隊の増強以外船舶検査なども変わらず疎かになっているのが現実だ それに実任務を実施したおかげで、従来の訓練が疎かになったと云うのは、これこそ問題外、それでは常に実戦の海上保安庁や米英豪韓など諸海軍はどうすんだ 海自は訓練の為の訓練だけしとけば良いのか、任務を減らせとは何たる言い分! 空自や陸自の意識や再編改革は始まっている どうやら海自はもっと大きな問題がありそうだ
海上自衛隊の問題点の本質は、赤煉瓦をブチ壊せなかった事。 先人の精神的遺産の本質である、古代から続く精神的伝統文化と最新テクノロジーが融合した精神的規範の構築を怠った事。
強制わいせつ:元自衛官に有罪−−地裁大村支部 /長崎
女性2人の下着を奪おうとしたとして、強制わいせつ罪に問われた大村市桜馬場、元海自大村航空基地所属の瀬戸口亮被告(40)=23日付けで懲戒免職=に対する判決が25日、長崎地裁大村支部であった。
下馬場直志裁判官は懲役2年6月、執行猶予4年(求刑・懲役2年6月)の有罪判決を言い渡した。
判決によると、瀬戸口被告は昨年12月15、23日、大村市内の駐車場で面識のない女性の下着を奪おうとし、体を触るなどわいせつな行為をした。
下馬場裁判官は刑の猶予の理由を「悪質な犯行だが、妻子の養育に励み、禁酒を誓うなどの情状面が認められる」と述べた。
〔佐世保版〕
毎日新聞 2008年4月26日 地方版
http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20080426ddlk42040474000c.html
今回の事故、あきらかに"甘ちゃん事故"だよ。 『よけてくれると思った。』免許とりたてのネーチャンとか土日ドライバーのオヤジとか、気持ちが若いだけの年寄りとか、交通感覚が甘いのが事故ると、こんな言い訳するんだ。 たとえジジババや暴走族が赤信号をシレッと渡っていたとしても、ぶつけたが最後、交通強者はまず謝らなけれはならないのだよ。 ヤクザでも、ゴネる時"法"を盾にする。 法的対処、つまり回避行動や事前の徐行、制動が十分でないと分が悪いのは交通強者の側なのだ。 クルマ同士の場合、ちょっと勝手が違ってくるけどね。
無免許だから海難審判でも罪は軽い。防衛省マジック! 部内海技資格を国家資格に改め、責任と自覚を海技保有者に 持たせるべきである。 部内資格で、責任と自覚が欠落してたのではないのだろうか? 国家免許以外で船舶を操縦しているのは海上自衛隊だけだ!
海自のパイロット、医師、薬剤師、調理師、などみんな国家免許を持ってるよ。
イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故から19日で1カ月。事故の教訓 として、海上自衛隊(制服組)と内局(背広組)双方で、当直時の仮眠を 廃止する措置が試行的に始まっている。しかしこの再発防止策には、 防衛省内から「精神主義でなく、合理的な対応をすべきでは」との異論 も出ている。 事故では、当直体制だった防衛省内の大臣への報告が、通達で定めた 1時間以内とならず問題になった。 吉川栄治・海上幕僚長は18日の会見で、海上幕僚監部や各地方総監部 などの主な陸上部署で当直長の階級を1佐に上げ、人員も増員。さらに数 時間あった仮眠時間も廃止する措置を3月上旬から始めたと説明した。 情報伝達訓練を17日に抜き打ちで実施しており、今後も随時行うとした。 吉川氏は「当直員の交代の際は、自分の役目をしっかり確認するよう指導 する」としたうえで、仮眠の廃止については「隊員のマインドを変えたい」 と強調する。 一方、統合幕僚監部での背広組の当直員も制服組同様、仮眠禁止になった。 週末に限り課長級を含む幹部職員も当直に入っている。 今回の対応に、省内の戸惑いは少なくない。ある防衛省幹部は「大臣への 報告の遅れと仮眠が関係したという話は全然ないのに」と首をかしげている。【本多健】 どうしてこんな的外れな対策しか考えられないのだろう 腐っているとしか考えられない
イージス艦の飲酒運転事故は艦長以下分隊長、分隊先任は責任取るべきだな 国の生命財産を守るべき自衛官が自ら法を侵しまくっている あたごでも艦内飲酒していたと聞くし、海自のヒューマンリレーションは酒でしか 得ることが出来ないのだろうか 本当に病んだ組織だ
先任伍長制度なんてアメリカのサルまねだろ。 伍長になる奴なんて、現場の仕事から逃げたいか、ただ司令の威光を盾に威張ってる だけじゃん。しかも、幹部じゃないから、服務事故が起きても、責任取って辞めたり しない。まあ良い人もいて、俺らの意見に耳を傾ける人もいるけど。 こういう高圧的な伍長のいるとこは、服務事故も起こりやすい。
軍艦は国家の延長。 海外にあっては大使館と同等の意味を持つ。 その権威を表したもの、日本にあっては旭日の軍艦旗。 領海外で警察権を持つ軍艦に対して敬意を表すために、民間船は軍艦に出会うと自国の国旗を上げ下げする。 海自の艦艇も海外への航海中、例外無く同様に敬意を受ける。日本の旭日旗は世界中で有名なので、知らない船乗りなどいないからです。 つまり、艦艇の前を横切る漁船などいないわけですねw もしいれば、それはテロリストとして認識されてもしょうがない行為。 つい先頃、アメリカ海軍の軍艦に接近した小型モーターボートが撃沈されたそうです。 結果的にテロリストではなく、民間人と分かった為謝罪したそうですが、この事件に対して非難する者はおりません。 なぜなら、これが海の掟であるから。 日本人の奇妙な価値基準で、領海外への航海を多く行う海自艦艇を縛り付けるのは良く無い。 そして国内から出ることの無い漁師であっても、この程度の常識はもっていなければいけない。 なぜなら、海外の様々な国の軍艦は日本へも寄港するわけです。その際、欠礼など失礼窮まる行為、まして軍艦に航路に入るとなれば国際問題に発展するかもしれない。 もし勇気があるなら、船で外国の軍艦へ急接近してみて下さい。ともおっしゃっています。 もっとも命無いでしょうけどw
116 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:12:14 ID:RLbVatFV
われわれ盾の会は自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父であり、兄である。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。
117 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:13:19 ID:RLbVatFV
かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官として待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここで夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかつた男の涙を知った。
118 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:14:06 ID:RLbVatFV
ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことは一点の疑いもない。
119 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:15:22 ID:RLbVatFV
われわれにとって自衛隊は故郷であり、生温い現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
120 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:17:21 ID:RLbVatFV
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
121 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:18:40 ID:RLbVatFV
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の体計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
122 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:20:41 ID:RLbVatFV
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。 しかも法理論的には、自衛隊は違憲であるのは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頒廃の根本原因をなして来ているにを見た。
123 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:21:51 ID:RLbVatFV
もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。 自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。 自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。
124 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:23:00 ID:RLbVatFV
われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。 自衛隊が目覚める時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。 自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。 憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
125 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:24:26 ID:RLbVatFV
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には盾の会を結成した。 盾の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあった。 憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。 国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明かになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。
126 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:25:25 ID:RLbVatFV
日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。 国のねぢまがった大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
127 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:26:43 ID:RLbVatFV
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったのか。 総理訪米前の大詰というべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終わった。 その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。 その日に何が起ったか。
128 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:28:16 ID:RLbVatFV
政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般市民の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾わずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。 治安出動は不用になった。 政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。
129 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:29:35 ID:RLbVatFV
これで極左勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。 名を捨てて、実をとる! 政治家にとってはそれでよかろう。 しかし自衛隊にとっては致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。 そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
130 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:30:40 ID:RLbVatFV
銘記せよ! 実はこの昭和四十五年(※四十四年の間違い)十月二十一日という日は自衛隊としては悲劇の日だった。 創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。 論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。 これ以上のパラドックスがあろうか。
131 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:32:47 ID:RLbVatFV
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。 われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているのならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。 自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。 男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。 我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起き上がるのが男であり武士である。 われわれはひたすら耳をすませた。 しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声は聞こえては来なかった。 かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
132 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:34:37 ID:RLbVatFV
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤怒した。 諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。 しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないこだ。 シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。 しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。 日本のように人事権まで奪われて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
133 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:37:20 ID:RLbVatFV
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。 武士の魂はどこへ行ったのだ。 魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行こうとするのか。 繊維交渉に当たっては自民党を売国奴呼ばわりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、 あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかった。 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。 あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう。
134 :
盾の会隊長 :2008/04/26(土) 23:39:03 ID:RLbVatFV
われわれは四年待った。 最後の一年は猛烈に待った。 もう待てぬ。 自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。 しかしあと三十分、最後の三十分待とう。 共に起って義のために共に死ぬのだ。 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。 生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。 生命以上の価値なくして何の軍隊だ。 今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。 それは自由でも民主主義でもない。 日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。 これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。 もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。 われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
135 :
海軍青年将校 :2008/04/26(土) 23:42:45 ID:RLbVatFV
日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ、 政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。
136 :
海軍青年将校 :2008/04/26(土) 23:44:12 ID:RLbVatFV
政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と 更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と 腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と 而して群拠する口舌の徒と…
137 :
海軍青年将校 :2008/04/26(土) 23:45:33 ID:RLbVatFV
日本は今や斯くの如き錯騒[綜]せる堕落の淵に死なんとしてゐる。 革新の時機!今にして立たずんば日本は滅亡せんのみ。 国民よ!武器を執つて立て(、)今や邦家救済の道は唯一つ 「直接行動」以外に何者もない、
138 :
海軍青年将校 :2008/04/26(土) 23:46:39 ID:RLbVatFV
国民諸君よ! 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ! 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ! 横暴極まる官憲を膺懲せよ! 奸賊、特権階級を抹殺せよ! 農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ! 而して、 陛下の聖明の下、建国の精神に皈り国民自治の大精神に徹して人材を登用し朗らかな維新日本を建設せよ。 民衆よ! この建設を念願しつゝ先づ破壊だ! 凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ! 偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す。 吾等は日本の現状を哭して赤手に魁けて諸君と共に 昭和維新の炬火を点ぜんとするもの。 素より現存する左傾、右傾の何れの団体にも属せぬ、 日本の興亡は吾等「国民前衛隊」決行の成否に非ずして 吾等の精神を持して続起[蹶]する国民諸君の実行力如何に懸る起て! 起つて真の日本を建設せよ!
139 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:03:13 ID:/6cOX5TW
140 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:12:44 ID:xv36eGl2
Rear Admiral R. Ichimaru of the Japanese Navy sends this note to Roosevelt. I have one word to give you upon the termination of this battle.
141 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:14:00 ID:xv36eGl2
Approximately a century has elapsed since Nippon, after Commodore Perry's entry to Shimoda, became widely affiliated with the countries of the world. During this period of intercourse Nippon has met with many national crises as well as the undesired Sino-Japanese War, Russo-Japanese War, the World War, the Manchurian Incident, and the China Incident. Nippon is now, unfortunately, in a state of open conflict with your country. Judging Nippon from just this side of the screen you may slander our nation as a yellow peril, or a blood thirsty nation or maybe a protoplasm of military clique.
142 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:15:29 ID:xv36eGl2
Though you may use the surprise attack on Pearl Harbour as your primary material for propaganda, I believe you, of all persons, know best that you left Nippon no other method in order to save herself from self-destruction.
143 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:16:05 ID:xv36eGl2
His Imperial Highness, as clearly shown in the "Rescript of the Founder of the Empire" "Yosei" (Justice), "Choki" (Sagacity) and "Sekkei" (Benevolence), contained in the above three fold doctrine, rules in the realization of "Hakko-ichiu" (the universe under His Sacred Rule) in His Gracious mind.
144 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:16:39 ID:xv36eGl2
The realization of which means the habitation of their respective fatherlands under their own customs and traditions, thus insuring the everlasting peace of the world.
145 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:17:18 ID:xv36eGl2
Emperor Meiji's "The four seas of the world that are united in brotherhood will know no high waves nor wind" (composed during the Russo-Japanese War) won the appraisal of your uncle, Theodore Roosevelt as you yourself know.
146 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:17:55 ID:xv36eGl2
We, the Nippon-jin, though may follow all lines of trade, it is through our each walk of life that we support the Imperial doctrine. We, the soldiers of the Imperial Fighting Force take up arms to further the above stated "doctrine". Though we, at the time, are externally taken by your air raids and shelling backed by your material superiority, spiritually we are burning with delight and enjoying the peace of mind.
147 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:18:26 ID:xv36eGl2
This peacefulness of mind, the common universal stigma of the Nippon-jin, burning with fervour in the upholding of the Imperial Doctrine may be impossible for you and Churchill to understand. I hereupon pitying your spiritual feebleness pen a word or two.
うにょーん
149 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:19:10 ID:xv36eGl2
Judging from your actions, white races especially you Anglo-Saxons at the sacrifice of the coloured races are monopolizing the fruits of the world.
150 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:20:02 ID:xv36eGl2
In order to attain this end, countless machinations were used to cajole the yellow races, and to finally deprive them of any strength. Nippon in retaliation to your imperialism tried to free the oriental nations from your punitive bonds, only to be faced by your dogged opposition. You now consider your once friendly Nippon a harmful existence to your luscious plan, a bunch of barbarians that must be exterminated. The completion of this Greater East Asia War will bring about the birth of the East Asia Co-Prosperity Area, this in turn will in the near future result in the everlasting peace of the world, if, of course, is not hampered upon by your unending imperialism.
151 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:20:36 ID:xv36eGl2
Why is it that you, an already flourishing nation, nip in bud the movement for the freedom of the suppressed nations of the East. It is no other than to return to the East that which belongs to the East.
152 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:21:08 ID:xv36eGl2
It is beyond our contemplation when we try to understand your stinted narrowness. The existence of the East Asia Co-Prosperity sphere does not in anyway encroach upon your safety as a nation, on the contrary, will sit as a pillar of world peace ensuring the happiness of the world. His Imperial Majesty's true aim is no other than the attainment of this everlasting peace.
153 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:21:37 ID:xv36eGl2
Studying the condition of the never ending racial struggle resulting from mutual misunderstanding of the European countries, it is not difficult to feel the need of the everlasting universal peace.
154 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:22:16 ID:xv36eGl2
Present Hitler's crusade of "His Fatherland" is brought about by no other than the stupidity of holding only Germany, the loser of the World War, solely responsible for the 1914-1918 calamity and the deprivation of Germany's re-establishment. It is beyond my imagination of how you can slander Hitler's program and at the same time cooperate with Stalin's "Soviet Russia" which has as its principle aim the "socialization" of the World at large.
155 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:27:18 ID:xv36eGl2
If only the brute force decides the ruler of the world, fighting will everlastingly be repeated, and never will the world know peace nor happiness.
156 :
Rear Admiral R. Ichimaru :2008/04/27(日) 00:28:24 ID:xv36eGl2
Upon the attainment of your barbaric world monopoly never forget to retain in your mind the failure of your predecessor President Wilson at his heights
157 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:36:47 ID:xv36eGl2
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐
158 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:37:25 ID:xv36eGl2
うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり
159 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:38:02 ID:xv36eGl2
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
160 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:38:50 ID:xv36eGl2
あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
161 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:41:42 ID:xv36eGl2
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
162 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:42:28 ID:xv36eGl2
曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
163 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:43:15 ID:xv36eGl2
嬉しやと 再びさめて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空
164 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:43:54 ID:xv36eGl2
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
165 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:44:31 ID:xv36eGl2
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
166 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:45:16 ID:xv36eGl2
露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはのことも 夢のまた夢
167 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:45:51 ID:xv36eGl2
石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
168 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:46:25 ID:xv36eGl2
昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
169 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:46:53 ID:xv36eGl2
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
170 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:47:20 ID:xv36eGl2
さらぬだに 打ぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな
171 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:47:57 ID:xv36eGl2
順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
172 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:48:23 ID:xv36eGl2
浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して
173 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:48:56 ID:xv36eGl2
今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代わる 我が身と思えば
174 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:49:27 ID:xv36eGl2
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
175 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:49:55 ID:xv36eGl2
友を得て なおぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は
176 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:50:22 ID:xv36eGl2
五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで
177 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:50:51 ID:xv36eGl2
何を惜しみ 何を恨まん もとよりも このありさまの 定まれる身に
178 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:51:20 ID:xv36eGl2
討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観
179 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:51:47 ID:xv36eGl2
かゑらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る 名をぞとゞめる
180 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:52:08 ID:xv36eGl2
願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ
181 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:52:34 ID:xv36eGl2
生まれては つひに死ぬてふ 事のみぞ 定めなき世に 定めありける
182 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:53:01 ID:xv36eGl2
つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを
183 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:53:22 ID:xv36eGl2
鴨山に 岩根し枕ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
184 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:54:51 ID:xv36eGl2
方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 病(いたつき)のゆゑにもくちん いのちなり みのりの に棄てば うれしからまし
185 :
名前をあたえないでください :2008/04/27(日) 00:59:28 ID:xv36eGl2
霰降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍に 我は来にしを
186 :
大伴家持 :2008/04/27(日) 01:15:02 ID:xv36eGl2
陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの 一云を 聞けば貴み 一云貴くしあれば
187 :
南雲忠一 :2008/04/27(日) 01:22:10 ID:xv36eGl2
サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、 米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、 在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、 克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、 負託の任を完遂せしことを期せり、 然るに天の時を得ず、地の利を 占むる能はず、人の和を以って今日に及び、 今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、 戦友相次いで斃る、 無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、 サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、 今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、 帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、 余は残留諸子と共に断乎進んで米鬼に一撃を加へ、 太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。 戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』 勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
188 :
栗林忠道 :2008/04/27(日) 01:29:41 ID:xv36eGl2
戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ 然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ 幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ 熟々皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ 尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ 終リニ左記 駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ 醜草の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ
189 :
外山正一 :2008/04/27(日) 01:37:10 ID:xv36eGl2
吾は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たる者は 古今無双の英雄で これに従ふ兵は 共に慄悍決死の士 鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を 起こしし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
190 :
外山正一 :2008/04/27(日) 01:37:40 ID:xv36eGl2
皇国の風と武士の その身を護る魂の 維新このかた廃れたる 日本刀の今更に また世に出づる身の誉 敵も味方も諸共に 刃の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の 死ぬべき時は今なるぞ 人に遅れて恥かくな 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
191 :
外山正一 :2008/04/27(日) 01:38:05 ID:xv36eGl2
前を望めば剣なり 右も左もみな剣 剣の山に登らんは 未来のことと聞きつるに 此世に於て目のあたり 剣の山に登るのも 我身のなせる罪業を 滅ぼすために非ずして 賊を征伐するが為 剣の山もなんのその 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
192 :
外山正一 :2008/04/27(日) 01:38:33 ID:xv36eGl2
剣の光ひらめくは 雲間に見ゆる稲妻か 四方に打ち出す砲声は 天に轟く雷か 敵の刃に伏す者や 弾に砕けて玉の緒の 絶えて墓なく失する身の 屍は積みて山をなし 其血は流れて川をなす 死地に入るのも君の為 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
193 :
外山正一 :2008/04/27(日) 01:38:56 ID:xv36eGl2
弾丸雨飛の間にも 二つなき身を惜しまずに 進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の 墓なき最期遂ぐるとも 忠義の為に死ぬる身の 死して甲斐あるものならば 死ぬるも更に怨なし 我と思はん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
194 :
外山正一 :2008/04/27(日) 01:39:23 ID:xv36eGl2
吾今茲に死なん身は 国の為なり君の為 捨つべきものは命なり 仮令屍は朽ちるとも 忠義の為に捨つる身の 名は芳しく後の世に 永く伝へて残るらん 武士と生まれし甲斐もなく 義のなき犬と云はるるな 卑怯者とな謗られそ 敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
195 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:47:17 ID:xv36eGl2
四面海もて囲まれし わが「敷島」の「秋津洲」 外なる敵を防ぐには 陸に砲台 海に艦
196 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:47:49 ID:xv36eGl2
屍を浪に沈めても 引かぬ忠義の丈夫が 守る心の甲鉄艦 いかでたやすく破られん
197 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:48:30 ID:xv36eGl2
名は様々に分かれても 建つる勲は「富士」の嶺の 雪に輝く「朝日」かげ 「扶桑」の空を照らすなり
198 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:48:59 ID:xv36eGl2
君の御稜威の「厳島」 「高千穂」「高雄」「高砂」と 仰ぐ心に比べては 「新高」山もなお低し
199 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:49:29 ID:xv36eGl2
「大和」魂一筋に 国に心を「筑波」山 「千歳」に残す芳名は 「吉野」の花もよそならず
200 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:49:57 ID:xv36eGl2
「千代田」の城の千代かけて 色も「常磐」の「松島」は 雪にも枯れぬ「橋立」の 松諸共に頼もしや
201 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:50:28 ID:xv36eGl2
海国男児が「海門」を 守る心の「赤城」山 「天城」「葛城」「摩耶」「笠置」 浮かべて安し我が国は
202 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:50:51 ID:xv36eGl2
「浪速」の海の芳しく 「竜田」の紅葉美しく なおも「和泉」の潔き 誉は「八島」の外までも
203 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:51:16 ID:xv36eGl2
「朧」月夜は「春日」なる 「三笠」の山にさし出でて 「曙」降りし「春雨」の 霽るる嬉しき朝心地
204 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:51:42 ID:xv36eGl2
「朝霧」晴れて「朝潮」の 満ちくる「音羽」「須磨」「明石」 忘るなかるる風景も よそに優れし我が国を
205 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:52:09 ID:xv36eGl2
事ある時は武士の 身も「不知火」の「筑紫」潟 尽せや共に「千早」ぶる 神の守りの我が国に
206 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:52:34 ID:xv36eGl2
「吾妻」に広き「武蔵」野も 「宮古」となりて栄えゆく 我が「日進」の君が代は 「白雲」蹴立つる「天竜」か
207 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:53:02 ID:xv36eGl2
大空高く舞ひ翔る 「隼」「小鷹」「速鳥」の 迅き羽風に掃はれて 散る「薄雲」は跡もなし
208 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:53:26 ID:xv36eGl2
鳴る「雷」も「電」も ひと「村雨」の間にて 「東雲」霽るる「叢雲」に 交じる「浅間」の朝煙
209 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:53:52 ID:xv36eGl2
今も「霞」の「八雲」たつ 「出雲」「八重山」「比叡」「愛宕」 「磐手」「磐城」「鳥海」山 それより堅き我が海軍
210 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:54:14 ID:xv36eGl2
「対馬」「金剛」「宇治」「初瀬」 みなわが歴史のあるところ 「豊橋」かけて「大島」に 渡る利器こそこの船よ
211 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:54:38 ID:xv36eGl2
敵艦近く現はれば 「陽炎」よりも速やかに 水雷艇を突き入れて ただ「夕霧」と砕くべし
212 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:55:01 ID:xv36eGl2
「暁」寒き山颪 「漣」たてて「福竜」の 群る敵をしりぞけん 勲はすべて我にあり
213 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:55:28 ID:xv36eGl2
護れや日本帝国を 万々歳の後までも 「鎮遠」「済遠」「平遠」艦 「鎮東」「鎮西」「鎮南」艦
214 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:55:51 ID:xv36eGl2
輝く国旗さしたてて 海外万里の外までも 進めや「鎮北」「鎮中」艦 進めや「鎮辺」「操江」艦
215 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:57:02 ID:xv36eGl2
(出陣) 天に代りて不義を討つ 忠勇無双の我兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国 勝たずば生きて還らじと 誓ふ心の勇ましさ
216 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:57:27 ID:xv36eGl2
(斥候) 或は草に伏し隠れ 或は水に飛び入りて 万死恐れず敵情を 視察し帰る斥候兵 肩に懸かれる一軍の 安危は如何に重からん
217 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:57:52 ID:xv36eGl2
(工兵) 道なき方に道を付け 敵の鉄道撃ち毀ち 雨と散り来る弾丸を 身にあびながら橋かけて 我が軍わたす工兵の 功労何にか譬ふべき
218 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:58:15 ID:xv36eGl2
(砲兵) 鍬とる工兵助けつつ 銃とる歩兵助けつつ 敵を沈黙せしめたる 我軍隊の砲弾は 放つに中らぬ方もなく 其声天地に轟けり
219 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:58:50 ID:xv36eGl2
(歩兵) 一斉射撃の銃先に 敵の気力をひるませて 鉄条網も物かはと 踊り越えたる塁上に 立てし誉の日章旗 皆我歩兵の働きぞ
220 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:59:17 ID:xv36eGl2
(騎兵) 撃たれて逃げゆく八方の 敵を追ひ伏せ追散らし 全軍残らず撃ち破る 騎兵の任務重ければ 我が乗る馬を子の如く いたはる人もあるぞかし
221 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 01:59:42 ID:xv36eGl2
(輜重兵) 砲工歩騎の兵強く 連戦連捷せしことは 百難冒して輸送する 兵糧輜重のたまものぞ 忘るな一日遅れなば 一日堪ゆたふ兵力を
222 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 02:00:08 ID:xv36eGl2
(衛生兵) 戦地に名誉の負傷して 収容せらるる将卒の 命と頼むは衛生隊 ひとり味方の兵のみか 敵をも隔てぬ同仁の 慈けよ思へば君の恩
223 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 02:00:32 ID:xv36eGl2
(凱旋) 内には至仁の君いまし 外には忠武の兵ありて 我手に握りし戦捷の 誉は正義の凱歌ぞ 謝せよ国民大呼して 我が陸軍の勲功を
224 :
大和田建樹 :2008/04/27(日) 02:01:02 ID:xv36eGl2
(平和) 戦雲東に治まりて 昇る朝日と諸共に 輝く仁義の名も高く 知らるる亜細亜の日の出国 光目出度仰がるる 時こそ来ぬれいざ励め
225 :
山田美妙斎 :2008/04/27(日) 02:04:56 ID:xv36eGl2
敵は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ 烏合の勢にあらずとも 味方に正志(ただし)き道理あり 邪はそれ正に勝難く 直は曲にぞ勝栗の 堅き心の一徹は 石に箭の立つ例あり 石に立つ箭の例あり などて怖るる事やある などてたゆたふ事やある
226 :
山田美妙斎 :2008/04/27(日) 02:05:48 ID:xv36eGl2
風に閃く聯隊旗 記紋は昇る旭よ 旗は飛来る弾丸に やぶるる程こそ誉なれ 身は日の本の兵よ 旗にな耻じそ進めよや 斃るるまでも進めよや 裂かるるまでも進めよや 旗にな恥ぢそ恥ぢなせそ などて怖るる事やある などてたゆたふ事やある
227 :
山田美妙斎 :2008/04/27(日) 02:06:50 ID:xv36eGl2
破れて迯ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉 瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや 畳の上にて死ぬ事は 武士の為すべき道ならず 躯を馬蹄にかけられつ 身を野晒になしてこそ 世に武士の義と言はめ などて怖るる事やある などてたゆたふ事やある
228 :
鳥山啓 :2008/04/27(日) 02:38:24 ID:xv36eGl2
守るも攻めるも黒鉄の 浮べる城ぞ頼みなる 浮べるその城日の本の 皇国の四方を守るべし 真鉄のその艦日の本に 仇なす国をせめよかし
229 :
鳥山啓 :2008/04/27(日) 02:39:20 ID:xv36eGl2
石炭の煙は大洋の 龍かとばかり靡くなり 弾撃つ響きは雷の 声かとばかりどよむなり 万里の波濤を乗り越えて 皇国の光輝かせ
230 :
La Marseillaise :2008/04/27(日) 02:44:35 ID:xv36eGl2
1er couplet : Allons enfants de la Patrie, Le jour de gloire est arrivé ! Contre nous de la tyrannie, L'étendard sanglant est levé, (bis) Entendez-vous dans les campagnes Mugir ces féroces soldats ? Ils viennent jusque dans vos bras Egorger vos fils, vos compagnes ! Refrain : Aux armes, citoyens Formez vos bataillons Marchons, marchons ! Qu'un sang impur Abreuve nos sillons !
231 :
La Marseillaise :2008/04/27(日) 02:45:16 ID:xv36eGl2
Couplet 2 : Que veut cette horde d'esclaves, De traîtres, de rois conjurés ? Pour qui ces ignobles entraves, Ces fers dès longtemps préparés ? (bis) Français, pour nous, ah ! quel outrage Quels transports il doit exciter ! C'est nous qu'on ose méditer De rendre à l'antique esclavage ! Refrain
232 :
La Marseillaise :2008/04/27(日) 02:45:55 ID:xv36eGl2
Couplet 3 : Quoi ! des cohortes étrangères Feraient la loi dans nos foyers ! Quoi ! ces phalanges mercenaires Terrasseraient nos fiers guerriers ! (bis) Grand Dieu ! par des mains enchaînées Nos fronts sous le joug se ploieraient De vils despotes deviendraient Les maîtres de nos destinées ! Refrain
233 :
La Marseillaise :2008/04/27(日) 02:46:27 ID:xv36eGl2
Couplet 4 : Tremblez, tyrans et vous perfides L'opprobre de tous les partis, Tremblez ! vos projets parricides Vont enfin recevoir leurs prix ! (bis) Tout est soldat pour vous combattre, S'ils tombent, nos jeunes héros, La terre en produit de nouveaux, Contre vous tout prets à se battre ! Refrain
234 :
La Marseillaise :2008/04/27(日) 02:47:03 ID:xv36eGl2
Couplet 5 : Français, en guerriers magnanimes, Portez ou retenez vos coups ! Epargnez ces tristes victimes, A regret s'armant contre nous. (bis) Mais ces despotes sanguinaires, Mais ces complices de Bouillé, Tous ces tigres qui, sans pitié, Déchirent le sein de leur mère ! Refrain
235 :
La Marseillaise :2008/04/27(日) 02:47:31 ID:xv36eGl2
Couplet 6 : Amour sacré de la Patrie, Conduis, soutiens nos bras vengeurs Liberté, Liberté chérie, Combats avec tes défenseurs ! (bis) Sous nos drapeaux que la victoire Accoure à tes mâles accents, Que tes ennemis expirants Voient ton triomphe et notre gloire ! Refrain
236 :
La Marseillaise :2008/04/27(日) 02:48:14 ID:xv36eGl2
Couplet 7 (dit couplet des enfants) : Nous entrerons dans la carrière Quand nos aînés n'y seront plus, Nous y trouverons leur poussière Et la trace de leurs vertus (bis) Bien moins jaloux de leur survivre Que de partager leur cercueil, Nous aurons le sublime orgueil De les venger ou de les suivre Refrain
237 :
The Star Spangled Banner :2008/04/27(日) 02:52:39 ID:xv36eGl2
O say, can you see, by the dawn's early light, What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming? Whose broad stripes and bright stars, through the perilous fight, O'er the ramparts we watched, were so gallantly streaming! And the rockets' red glare, the bombs bursting in air, Gave proof through the night that our flag was still there: O say, does that star-spangled banner yet wave O'er the land of the free and the home of the brave?
238 :
The Star Spangled Banner :2008/04/27(日) 02:53:36 ID:xv36eGl2
On the shore, dimly seen through the mists of the deep, Where the foe's haughty host in dread silence reposes, What is that which the breeze, o'er the towering steep, As it fitfully blows, half conceals, half discloses? Now it catches the gleam of the morning's first beam, In full glory reflected now shines on the stream: 'Tis the star-spangled banner! O long may it wave O'er the land of the free and the home of the brave!
239 :
The Star Spangled Banner :2008/04/27(日) 02:54:13 ID:xv36eGl2
And where is that band who so vauntingly swore That the havoc of war and the battle's confusion A home and a country should leave us no more? Their blood has washed out their foul footsteps' pollution. No refuge could save the hireling and slave From the terror of flight, or the gloom of the grave: And the star-spangled banner in triumph doth wave O'er the land of the free and the home of the brave!
240 :
The Star Spangled Banner :2008/04/27(日) 02:54:57 ID:xv36eGl2
O thus be it ever, when freemen shall stand Between their loved home and the war's desolation! Blest with victory and peace, may the Heaven-rescued land Praise the Power that hath made and preserved us a nation. Then conquer we must, when our cause it is just, And this be our motto: “In God is our trust.” And the star-spangled banner in triumph shall wave O'er the land of the free and the home of the brave!
241 :
Гимн Российской Федерации :2008/04/27(日) 03:00:23 ID:xv36eGl2
Россия ? священная наша держава, Россия ? любимая наша страна. Могучая воля, великая слава ? Твоё достоянье на все времена! Припев: Славься, Отечество наше свободное, Братских народов союз вековой, Предками данная мудрость народная! Славься, страна! Мы гордимся тобой! От южных морей до полярного края Раскинулись наши леса и поля. Одна ты на свете! Одна ты такая ? Хранимая Богом родная земля! Припев Широкий простор для мечты и для жизни Грядущие нам открывают года. Нам силу даёт наша верность Отчизне. Так было, так есть и так будет всегда! Припев
242 :
Державний г& ◆Z7ccyXt3Hk :2008/04/27(日) 03:04:38 ID:xv36eGl2
Союз нерушимый республик свободных Сплотила навеки Великая Русь. Да здравствует созданный волей народов Единый, могучий Советский Союз! Припев: Славься, Отечество наше свободное, Дружбы народов надёжный оплот! Партия Ленина ? сила народная Нас к торжеству коммунизма ведёт! Сквозь грозы сияло нам солнце свободы, И Ленин великий нам путь озарил: На правое дело он поднял народы, На труд и на подвиги нас вдохновил! Припев. В победе бессмертных идей коммунизма Мы видим грядущее нашей страны, И Красному знамени славной Отчизны Мы будем всегда беззаветно верны! Припев.
243 :
[ред.] Оф& ◆un9ClWYOHg :2008/04/27(日) 03:06:07 ID:xv36eGl2
Союзом незламним республ?ки в?льн? Нав?ки з’?днала Великая Русь. Хай кв?тне, народами створений сп?льно ?диний, могутн?й Радянський Союз. Присп?в: Славимо велич В?тчизни свободно?, Дружби народ?в опори в в?ках! Парт?я Лен?на ? сила народная До комун?зму нам вказу? шлях. Кр?зь грози св?тило нам сонце свободи, ? Лен?н великий нам путь ос?яв, На битву за правду покликав народи, Натхнення на труд ? на подвиги дав. Присп?в. У звершенн? славних ?дей комун?зму Ми бачим, кра?но, майбутн? тво?. Червоному стягу сво?? В?тчизни Народ наш несхитну присягу да?. Присп?в.
244 :
& ◆SJtL4jydwc :2008/04/27(日) 03:10:04 ID:xv36eGl2
起来! 不愿做奴隶的人?! 把我?的血肉、筑成我?新的?城! 中?民族到了最危?的?候、 毎个人被迫着?出最后的吼声。 起来! 起来! 起来! 我?万?一心、 冒着?人的炮火、前?! 冒着?人的炮火、前?! 前?! 前?! ?!
245 :
& ◆SJtL4jydwc :2008/04/27(日) 03:11:04 ID:xv36eGl2
起來!不願做奴隸的人們! 把我們的血肉、築成我們新的長城! 中華民族到了最危險的時候、 ?個人被迫着發出最後的吼聲。 起來!起來!起來! 我們萬?一心、 冒着敵人的炮火、前進! 冒着敵人的炮火、前進! 前進!前進!進!
246 :
& ◆SJtL4jydwc :2008/04/27(日) 03:12:20 ID:xv36eGl2
Q?lái ! bú yuàn zùo núlì de rénmen ! Bà w?men de xuèròu, Zhúchéng w?men x?n de chángchéng ! Zh?nghuá mínzú dào le zùi w?ixi?n de shíhòu, M?i gèrén bèipò zhe f?ch? zùihòu de h?ush?ng. Q?lái ! Q?lái ! Q?lái ! W?men wànzhòng yìx?n, Mào zhe dírén de pàoh?o, qíanjìn ! Mào zhe dírén de pàoh?o, qíanjìn ! Qíanjìn ! Qíanjìn ! Jìn !
247 :
義勇軍進行曲 :2008/04/27(日) 03:13:49 ID:xv36eGl2
起来! 不願做奴隸的人們! 把我們的血肉,築成我們新的長城! 中華民族到了最危険的時候, 毎個人被迫着発出最後的吼声。 起来! 起来! 起来! 我們万衆一心、 冒着敵人的炮火,前進! 冒着敵人的炮火,前進! 前進! 前進! 進!
248 :
God Save the Queen :2008/04/27(日) 03:18:43 ID:xv36eGl2
God save our gracious Queen, Long live our noble Queen, God save the Queen: Send her victorious, Happy and glorious, Long to reign over us, God save the Queen.
249 :
God Save the Queen :2008/04/27(日) 03:19:12 ID:xv36eGl2
O Lord, our God, arise, Scatter her enemies, And make them fall. Confound their politics, Frustrate their knavish tricks, On Thee our hopes we fix, God save us all.
250 :
God Save the Queen :2008/04/27(日) 03:19:47 ID:xv36eGl2
Thy choicest gifts in store, On her be pleased to pour; Long may she reign: May she defend our laws, And ever give us cause To sing with heart and voice God save the Queen.
251 :
Lied der Deutschen :2008/04/27(日) 03:22:05 ID:xv36eGl2
Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt, wenn es stets zu Schutz und Trutze brüderlich zusammenhält. Von der Maas bis an die Memel, von der Etsch bis an den Belt, |: Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt! :|
252 :
Lied der Deutschen :2008/04/27(日) 03:22:46 ID:xv36eGl2
Deutsche Frauen, deutsche Treue, deutscher Wein und deutscher Sang sollen in der Welt behalten ihren alten schönen Klang, uns zu edler Tat begeistern unser ganzes Leben lang. - |: Deutsche Frauen, deutsche Treue, deutscher Wein und deutscher Sang! :|
253 :
Lied der Deutschen :2008/04/27(日) 03:23:21 ID:xv36eGl2
Einigkeit und Recht und Freiheit für das deutsche Vaterland! Danach lasst uns alle streben brüderlich mit Herz und Hand! Einigkeit und Recht und Freiheit sind des Glückes Unterpfand; |: blüh' im Glanze dieses Glückes, blühe, deutsches Vaterland. :|
254 :
Inno di Mameli :2008/04/27(日) 03:31:54 ID:xv36eGl2
Fratelli d'Italia L'Italia s'è desta Dell'elmo di Scipio S'è cinta la testa Dov'è la vittoria? Le porga la chioma Ché schiava di Roma Iddio la creò
255 :
Inno di Mameli :2008/04/27(日) 03:32:46 ID:xv36eGl2
Stringiamci a coorte Siam pronti alla morte L'Italia chiamò Noi siamo da secoli Calpesti, derisi Perché non siam Popolo Perché siam divisi Raccolgaci un'Unica Bandiera una Speme Di fonderci insieme Già l'ora suonò
256 :
Inno di Mameli :2008/04/27(日) 03:33:23 ID:xv36eGl2
Stringiamci a coorte Siam pronti alla morte L'Italia chiamò Uniamoci, amiamoci L'unione e l'amore Rivelano ai Popoli Le vie del Signore Giuriamo far Libero Il suolo natio Uniti, per Dio, Chi vincer ci può?
257 :
Inno di Mameli :2008/04/27(日) 03:33:49 ID:xv36eGl2
Stringiamci a coorte, Siam pronti alla morte, L'Italia chiamò. Dall'Alpi a Sicilia Dovunque è Legnano, Ogn'uom di Ferruccio Ha il core, ha la mano, I bimbi d'Italia Si chiaman Balilla Il suon d'ogni squilla I Vespri suonò
258 :
Inno di Mameli :2008/04/27(日) 03:34:14 ID:xv36eGl2
Stringiamci a coorte Siam pronti alla morte L'Italia chiamò Son giunchi che piegano Le spade vendute Già l'Aquila d'Austria Le penne ha perdute Il sangue d'Italia Il sangue Polacco Bevé col cosacco Ma il cor le bruciò
259 :
Inno di Mameli :2008/04/27(日) 03:34:46 ID:xv36eGl2
Stringiamci a coorte Siam pronti alla morte L'Italia chiamò Sì (cantato)
260 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 03:56:31 ID:xv36eGl2
林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日 - 1991年(平成3年))は、 日本の旧内務省官僚、元陸上自衛官。 東京帝国大学卒業(法学部卒)。 初代陸上幕僚長、初代統合幕僚会議議長。 第11代日本赤十字社社長。陸軍中将林弥三吉の息子である。 警察予備隊中央本部長から数えて、実に14年の長きにわたって自衛隊の頂点にあった。 自衛隊創設初期の頃までは旧内務省官僚出身者が要職を占め、 特に陸上自衛隊においては「内務軍閥」とも呼ばれる勢力が出来上がり、 その後の旧陸軍出身幹部との主導権争いの要因の一つとなった。 初期の頃には要職に官僚出身者が大勢いた為、官僚が軍事力(すなわち自衛隊のこと)を統制するという、 誤った解釈と運用がまかり通るようになり、その影響は現在まで続く(内局の問題。シビリアンコントロールを参照)。 略歴 1929年(昭和4年):東京帝国大学卒業(法学部) 1945年(昭和20年)2月:鳥取県官選知事 1947年(昭和22年)2月:内務省地方局長、その後宮内庁次長 1950年(昭和25年)10月:警察予備隊中央本部長に就任、12月:警察予備隊総隊総監に就任 1952年(昭和27年)8月:保安庁第1幕僚長(初代陸上幕僚長) 1954年(昭和29年)7月:初代統合幕僚会議議長に就任 1964年(昭和39年)8月:退官 1965年(昭和40年):日本住宅公団総裁 1978年(昭和53年)4月:日本赤十字社社長 1983年(昭和58年)7月:日本善行会会長
261 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 03:58:56 ID:xv36eGl2
杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年 - )は、日本の元日本海軍軍人及び元海上自衛官。 海軍兵学校卒業(56期)、愛知県出身。 第5代海上幕僚長、第2代統合幕僚会議議長。 統合幕僚会議議長就任中(1964年12月11日)に、原子力潜水艦保有論を主張し、 翌日社会党は中央執行委員会を開き、原子力基本法違反であるとして、免職を申し入れる事態となった。 略歴 1927年(昭和3年)11月:海軍兵学校卒業(56期) 1938年(昭和13年)12月:海軍大学校入学 1940年(昭和15年)4月:海軍大学校卒業(甲種37期) 1940年(昭和15年):海軍大臣副官兼秘書官 1943年(昭和18年):南西方面艦隊参謀 1944年(昭和19年):海軍省軍務局第1課 1945年(昭和20年):第11突撃隊副隊長(油壺湾にて特攻兵器震洋を運用) 1958年(昭和33年)1月:海上自衛隊幹部候補生学校校長に就任 1959年(昭和34年)7月:第1護衛隊群群司令に就任 1961年(昭和36年)3月:舞鶴地方隊総監に就任 1962年(昭和37年)7月:自衛艦隊司令官に就任 1963年(昭和38年)7月:第5代海上幕僚長に就任 1964年(昭和39年)8月:第2代統合幕僚会議議長に就任 1966年(昭和41年)4月:退官
262 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:00:56 ID:xv36eGl2
天野 良英(あまの よしふさ、1910年2月12日 - )は、元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(43期)、宮城県出身。第6代陸上幕僚長、第3代統合幕僚会議議長。 息子は元西部方面総監の天野良晴。 略歴 1931年(昭和6年)7月:陸軍士官学校卒業(43期)、10月:第8師団歩兵第17連隊付 1937年(昭和12年)11月:陸軍大学校入学(52期) 1939年(昭和14年)11月:陸軍大学校卒業、恩賜組、12月:第21軍参謀部付 1940年(昭和15年)6月:第22軍参謀、12月:教育総監部課員 1944年(昭和19年)3月:第27軍参謀、9月 東部軍参謀 1945年(昭和20年)2月:参謀本部総務課、6月:教育総監部第1課、9月:陸軍省軍務局 1962年(昭和37年)8月:第2師団師団長に就任 1964年(昭和39年)3月:陸上幕僚副長に就任 1965年(昭和40年)1月:第6代陸上幕僚長に就任 1966年(昭和41年)4月:第3代統合幕僚会議議長に就任 1967年(昭和42年)11月:退官
263 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:02:00 ID:xv36eGl2
牟田 弘國(むた ひろくに、1910年(明治43年) - 1987年(昭和62年)6月29日)は、日本の元日本陸軍軍人及び元航空自衛官。 陸軍士官学校卒業(43期)。第6代航空幕僚長、第4代統合幕僚会議議長。 略歴 1931年(昭和6年)7月:陸軍士官学校卒業(43期) 1941年(昭和16年)11月:飛行第59戦隊 1942年(昭和17年)9月:独立飛行第84中隊長 1944年(昭和19年)9月:常陸教導飛行師団付 1945年(昭和20年)3月:第100飛行団団長 1957年(昭和32年)7月:第1航空団司令に就任 1962年(昭和37年)4月:中部航空方面隊司令官に就任 1964年(昭和39年)4月:航空総隊司令官に就任 1966年(昭和41年)4月:第6代航空幕僚長に就任 1967年(昭和42年)11月:第4代統合幕僚会議議長に就任 1969年(昭和44年)6月:退官
264 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:03:17 ID:xv36eGl2
板谷 隆一(いたや りゅういち、1911年(明治44年) - 1991年(平成3年))は、日本の元日本海軍軍人及び元海上自衛官。 海軍兵学校卒業(60期)、佐賀県出身。 第7代海上幕僚長、第5代統合幕僚会議議長。 赤城飛行隊長であった板谷茂海軍中佐の弟である。 略歴 1932年(昭和7年)11月:海軍兵学校卒業(60期)恩賜組 1937年(昭和12年)8月:上海特別陸戦隊の海軍中尉として第二次上海事変に参加 1941年(昭和16年):長門乗組、分隊長 1942年(昭和17年):名取砲術長 1943年(昭和18年):鬼怒砲術長 1944年(昭和19年):第二水雷戦隊参謀 1945年(昭和20年)4月:菊水一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加(矢矧に乗艦)、後に連合艦隊防備参謀 1952年(昭和27年):海上警備隊に入隊 1957年(昭和32年):アメリカ海軍大学校に留学 1964年(昭和39年)7月:護衛艦隊司令官に就任 1965年(昭和40年)7月:横須賀地方隊総監に就任 1966年(昭和41年)4月:第10代海上幕僚長に就任 1969年(昭和44年)7月:第9代統合幕僚会議議長に就任 1971年(昭和46年)6月:退官
265 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:06:23 ID:xv36eGl2
衣笠 駿雄(きぬがさ はやお、1915年2月23日 - 2007年2月11日)は、元日本陸軍軍人及び元陸上自衛官。 兵庫県生まれ。第9代陸上幕僚長、第6代統合幕僚会議議長であった。 陸軍中佐衣笠寛の長男で、陸軍士官学校48期、陸軍大学55期恩賜の軍刀組でもある、兵科は航空兵。 陸軍での最終階級は中佐で、戦後は自衛隊の創設期に入隊、直後に旧陸軍挺身団の元隊員達と供に(但し、第1研究員は落下傘降下未経験者であった)落下傘降下の研究を開始。 第1空挺団の創設に尽力する。 略歴 1915年:兵庫県生まれ。 1936年:陸軍士官学校48期卒業、陸軍習志野学校付となる。 1941年:陸軍大学校55期卒業。 1942年:陸軍航空士官学校教官。 1943年:第4航空軍参謀。8月:陸軍少佐に昇任。 1944年:航空本部総務部員。 1945年:航空本部総務部員兼航空総軍参謀。12月:予備役となる。 1951年:警察予備隊入隊。 1954年:福岡県香椎にて、落下傘降下第1次研究員20名の長として訓練開始。 1955年:臨時空挺練習隊を創設、8月:空挺教育隊長心得、10月:習志野に移駐、12月:習志野駐とん地司令兼務。 1957年:空挺教育隊長心得から隊長となる(兼司令)。 1958年:6月:第1空挺団編成完結。初代団長となる(兼司令)。8月:陸上幕僚監部第3部研究班長。 1959年:陸上幕僚監部第3部付。 1960年:第6管区総監部幕僚長。 1962年:陸上自衛隊航空学校長兼明野駐とん地司令。 1964年:陸上幕僚監部航空課長。 1966年:陸上幕僚監部第3部長。 1968年:第3師団長。 1969年:陸上幕僚副長。 1970年:第9代陸上幕僚長に就任。 1971年:第6代統合幕僚会議議長に就任。 1973年:退官。 1985年:勲二等瑞宝章受章。 2007年:心不全の為死去。享年91。
266 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:07:54 ID:xv36eGl2
中村 龍平(なかむら りゅうへい、1917年(大正6年) - 2008年(平成20年)3月29日)は、元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(49期)、東京都出身。 第7代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 1971年7月30日に発生した全日空機雫石衝突事故の対処に当たる。 また沖縄返還に伴う新たな部隊配備と施設管理を処理した。 略歴 1937年(昭和12年)6月:陸軍士官学校卒業(49期)。少尉に任官、第16師団歩兵第9連隊本部、南京の戦いに参加 1940年(昭和15年)12月:陸軍大学校入学(56期) 1942年(昭和17年)11月:陸軍大学校卒業、恩賜組 1943年(昭和18年):千葉陸軍戦車学校教官 1944年(昭和19年):関東軍参謀 1945年(昭和20年):参謀本部第1部 1969年(昭和44年)3月:第11師団師団長に就任 1970年(昭和45年)11月:東部方面隊総監に就任 1971年(昭和46年)7月:第10代陸上幕僚長に就任 1973年(昭和48年)2月:第7代統合幕僚会議議長に就任 1974年(昭和49年)3月:定年退官 2008年(平成20年)3月29日:逝去(享年91)
267 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:09:16 ID:xv36eGl2
白川 元春(しらかわ もとはる、1918年(大正7年)1月2日 - )は、日本の元日本陸軍軍人及び元航空自衛官。 陸軍航空士官学校卒業(51期)。第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長。 第20代陸軍大臣白川義則の三男である。 長沼ナイキ訴訟の処理に当たった。 略歴 1939年(昭和14年)4月:陸軍飛行士官学校卒業(51期)、飛行第45戦隊付 1942年(昭和17年)1月:飛行第90戦隊中隊長、12月:陸軍大学校入校 1944年(昭和19年)5月:陸軍大学校卒業、6月:鉾田教導飛行師団司令部付、10月:第2飛行師団参謀 1945年(昭和20年)5月:南方軍参謀 1954年(昭和29年)9月:航空自衛隊入隊 1970年(昭和45年)12月:西部航空方面隊司令官に就任 1971年(昭和46年)7月:統合幕僚学校校長、8月:航空幕僚副長に就任 1973年(昭和48年)7月:第11代航空幕僚長に就任 1974年(昭和49年)7月:第8代統合幕僚会議議長に就任 1976年(昭和51年)3月:退官
268 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:10:44 ID:xv36eGl2
鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年(大正7年) - 2000年(平成12年)8月14日)は、日本の元日本海軍軍人及び元海上自衛官。 海軍兵学校卒業(66期)。第10代海上幕僚長、第9代統合幕僚会議議長。 略歴 1938年(昭和13年)9月:海軍兵学校卒業(66期) 1941年(昭和16年):龍驤乗組、分隊長 1942年(昭和17年):谷田部海軍航空隊分隊長 1943年(昭和18年):谷田部海軍練習航空隊特修科学生 1944年(昭和19年):海軍航空技術廠飛行実験部員 1945年(昭和20年):横須賀海軍航空隊飛行審判部員 1971年(昭和46年)1月:教育航空集団司令官に就任 1972年(昭和47年)12月:航空集団司令官に就任 1973年(昭和48年)12月:第10代海上幕僚長に就任 1976年(昭和51年)3月:第9代統合幕僚会議議長に就任 1977年(昭和52年)10月:退官
269 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:14:56 ID:xv36eGl2
栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年2月27日 - 2004年7月19日)は、元大日本帝国海軍軍人、元陸上自衛官。 広島県呉市生まれ。第10代統合幕僚会議議長。 自衛隊制服組トップの統幕議長だった1978年、週刊誌上でいわゆる超法規発言をおこない解任された。 経歴 呉第一中学校、第一高等学校を経て1943年、東京帝国大学法学部卒業。 高等文官試験(高文)を首席で合格し内務省に入省するが海軍2年短期現役士官を志願し帝国海軍へ。 南方戦線へ従軍し海軍法務大尉として終戦を迎える。終戦後も、現地で戦犯の特別弁護人を務め、復員が遅れた。 復員後は弁護士を営んでいたが、1951年、警察予備隊(のちの陸上自衛隊)入隊。 幹部学校、米国防産業大学通信課程を経て在仏防衛駐在官。 第13師団長時代には、被爆地・広島から猛反発を受けながら、広島市の中心部で最新鋭の戦車大隊を率いて軍事パレードを強行した。 その後、東部方面総監、陸上幕僚長を経て、1977年、第10代統合幕僚会議議長に就任。 1978年7月、「週刊ポスト」誌上で「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。 第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促す“超法規発言”を行う。 これが政治問題化し、記者会見でも信念を譲らず、同様の発言を繰り返したため、文民統制の観点から不適切として、時の防衛庁長官・金丸信に事実上解任された。 が、福田赳夫首相が閣議で有事立法・有事法制の研究促進と民間防衛体制の検討を防衛庁に指示。国防論議のタブーが破られ、以後多くの国防論議が巻き起こるきっかけとなった。 1980年、参院選東京地方区に民社党から立候補したが落選。 その後は静岡新聞の客員論説委員、金沢工業大学附属国際問題研究所所長、国士舘大学客員教授などを務めながら多数の著書などで安全保障問題の発言を続けた。 栗栖の発言から25年後の2003年6月、有事法制の第一段階といえる武力攻撃事態対処関連三法が成立、有事法制の基本法である武力攻撃事態対処法が施行された。 2004年7月19日、心筋梗塞により死去。享年84。 主な著書・参考文献 私の防衛論、高木書房、1978年 自衛隊改造論、国書刊行会、1979年 いびつな日本人、二見書房、1979年 仮想敵国ソ連、講談社、1980年 核戦争の論理、二見書房、1981年 米ソ激突の恐怖、芳文社、1984年 考える時間はある、学陽書房、1984年 安全保障概論、ブックビジネスアソシエイツ社、1997年 日本国防軍を創設せよ、小学館、2000年 マジノ線物語、ケイアンドケイプレス、2001年
270 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:16:31 ID:xv36eGl2
高品 武彦(たかしな たけひこ、1921年 - 2004年12月18日)は、元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(54期)、東京都出身。 第14代陸上幕僚長、第11代統合幕僚会議議長。 グアムの戦いで戦死した高品彪陸軍中将の長男、高品朋陸軍少将の甥にあたる。 三矢研究では中心的役割を果たしたとされる。 略歴 1940年(昭和15年)9月:陸軍士官学校卒業(54期)。少尉に任官 1952年(昭和27年)9月:警察予備隊入隊 1974年(昭和49年)3月:第3師団長に就任 1976年(昭和51年)3月:陸上自衛隊幹部学校校長、10月:東部方面隊総監に就任 1977年(昭和52年)10月:第14代陸上幕僚長に就任 1978年(昭和53年)7月:第11代統合幕僚会議議長に就任 1979年(昭和54年)7月:退官
271 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:18:19 ID:xv36eGl2
竹田 五郎(たけだ ごろう、1921年(大正10年) - )は、日本の元日本陸軍軍人及び元航空自衛官、軍事評論家。 陸軍士官学校卒業(55期)、福岡県出身。 第14代航空幕僚長、第12代統合幕僚会議議長。 統合幕僚会議議長就任中において、雑誌記事(月刊誌宝石(光文社)3月号、1981年2月1日)にて徴兵制は違憲の政府統一見解及び防衝費1%枠に異を唱え専守防衛を批判をした。 これに対し野党は衆議院予算委員会において竹田統幕議長の罷免を要求、同委員会は紛糾した。 大村襄治防衛庁長官が竹田統幕議長を注意処分とし、これを受けて責任を取る形で2月15日付で退官した。 略歴 1941年(昭和16年)7月:陸軍士官学校卒業(55期) 1944年(昭和19年):飛行第244戦隊に配属、本土防空戦に従事 1951年(昭和26年):警察予備隊入隊 1952年(昭和27年):保安隊航空学校入校 1974年(昭和49年)5月:南西航空混成団団長に就任 1975年(昭和50年)7月:北部航空方面隊司令官に就任 1976年(昭和51年)12月:航空総隊司令官に就任 1978年(昭和53年)3月:第14代航空幕僚長に就任 1979年(昭和54年)8月:第12代統合幕僚会議議長に就任 1981年(昭和56年)2月:退官
272 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:19:28 ID:xv36eGl2
矢田 次夫(やた つぎお 、1923年(大正12年) - )は、日本の元日本海軍軍人及び元海上自衛官。 海軍兵学校卒業(72期)、鳥取県倉吉市出身。 第13代海上幕僚長、第13代統合幕僚会議議長。 略歴 1943年(昭和18年):海軍兵学校卒業(72期) 1944年(昭和19年):水雷学校高等科学生 1945年(昭和20年):第1潜水隊、伊号第四〇一潜水艦砲術長 1973年(昭和48年)7月:第4護衛隊群群司令に就任 1977年(昭和52年)9月:自衛艦隊司令官に就任 1980年(昭和55年)2月:第13代海上幕僚長に就任 1981年(昭和56年)2月:第13代統合幕僚会議議長に就任 1983年(昭和58年)3月:退官
273 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:20:49 ID:xv36eGl2
村井 澄夫(むらい すみお、1925年(大正14年) - )は、日本の元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(58期)。第17代陸上幕僚長、第14代統合幕僚会議議長。 略歴 1945年(昭和20年)6月:陸軍士官学校卒業(58期)。少尉に任官 1978年(昭和53年)3月:東部方面隊幕僚長に就任 1979年(昭和54年)3月:第5師団長に就任 1980年(昭和55年)2月:中部方面隊総監に就任 1981年(昭和56年)6月:第17代陸上幕僚長に就任 1983年(昭和58年)3月:第14代統合幕僚会議議長に就任 1984年(昭和59年)6月:退官
274 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:21:57 ID:xv36eGl2
渡部 敬太郎(わたなべ けいたろう、1927年(昭和2年) - 1997年(平成9年)11月26日)は、日本の元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校本科修了(60期)。第15代陸上幕僚長、第18代統合幕僚会議議長。 息子は文芸評論家の渡部直己。 略歴 1945年(昭和20年)8月:陸軍士官学校修業(60期) 1979年(昭和54年)7月:第10師団師団長 1981年(昭和56年)7月:北部方面隊総監に就任 1983年(昭和58年)3月:第18代陸上幕僚長に就任 1984年(昭和59年)7月:第15代統合幕僚会議議長に就任 1986年(昭和61年)2月:退官
275 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:23:14 ID:xv36eGl2
森 繁弘(もり しげひろ、1927年(昭和2年) - )は、日本の元大日本帝国陸軍軍人及び元航空自衛官。 陸軍士官学校卒業(60期)。第17代航空幕僚長、第16代統合幕僚会議議長。 自衛隊における最後の旧日本軍出身者でもある。 略歴 1945年(昭和20年)8月:陸軍士官学校修業(60期) 1980年(昭和55年)7月北部航空方面隊司令官 1983年(昭和58年)4月:第17代航空幕僚長に就任 1986年(昭和61年)2月:第16代統合幕僚会議議長に就任 1987年(昭和62年)12月:退官
276 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:24:40 ID:xv36eGl2
石井 政雄(いしい まさお、1931年 - 2007年5月9日)は日本の元自衛官。 千葉県出身、立教大学卒業。第20代陸上幕僚長、第17代統合幕僚会議議長。 統合幕僚会議議長在職中は、日本版DIAである情報本部構想の推進(1997年に統合幕僚会議情報本部として実現)に努めた。 また、第11師団長であった1985年、陸上自衛隊真駒内駐屯地内にさっぽろ雪まつり資料館をオープンさせた。 略歴 1956年(昭和31年)3月:立教大学卒業 1984年(昭和59年)3月:第11師団長 1986年(昭和61年)3月:第20代陸上幕僚長に就任 1987年(昭和62年)12月:第17代統合幕僚会議議長に就任 1990年(平成2年)3月:退官 2007年(平成19年)5月9日:胆管がんの為死去。享年76。
277 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:25:41 ID:xv36eGl2
寺島 泰三(てらしま たいぞう、1933年(昭和8年) - )は、日本の元陸上自衛官。 福島県出身、東北大学卒業。第21代陸上幕僚長、第18代統合幕僚会議議長。 略歴 1956年(昭和31年)3月:東北大学卒業(法学部) 1985年(昭和60年)10月第11師団長 1987年(昭和62年)3月:東部方面隊総監。12月:第21代陸上幕僚長に就任 1990年(平成2年)3月:第18代統合幕僚会議議長に就任 1991年(平成3年)6月:退官
278 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:26:52 ID:xv36eGl2
佐久間 一(さくま まこと、1935年(昭和10年)3月18日 - )は、日本の元海上自衛官。 第18代海上幕僚長、第19代統合幕僚会議議長。自衛隊史上初めての防衛大学校卒業の幕僚長でもある。 略歴 1957年(昭和32年)3月:防衛大学校卒業(1期) 1974年(昭和49年):護衛艦みくま艦長 1984年(昭和59年)3月:第2護衛隊群司令 1985年(昭和60年)4月:海上幕僚監部防衛部長 1986年(昭和61年)6月:海上自衛隊幹部学校長 1988年(昭和63年)7月:佐世保地方隊総監に就任 1989年(平成元年)8月:第18代海上幕僚長に就任 1991年(平成3年)7月:第19代統合幕僚会議議長に就任 1993年(平成5年)6月:退官
279 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:27:48 ID:xv36eGl2
西元 徹也(にしもと てつや、1937年(昭和12年) - )は、日本の元陸上自衛官、軍事評論家。 第20代陸上幕僚長、第22代統合幕僚会議議長。 略歴 1959年(昭和34年)3月:防衛大学校卒業(3期) 1988年(昭和63年)7月:第7師団長 1991年(平成3年)3月:中部方面隊総監に就任 1992年(平成4年)3月:第23代陸上幕僚長に就任 1993年(平成5年)7月:第20代統合幕僚会議議長に就任 1996年(平成8年)3月:退官
280 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:28:46 ID:xv36eGl2
杉山 蕃(すぎやま しげる、1938年 - )は、日本の元航空自衛官、兵庫県出身。 第22代航空幕僚長、第21代統合幕僚会議議長。 略歴 1960年(昭和35年)3月:防衛大学校卒業(4期) 1990年(平成2年)3月:北部航空方面隊司令官に就任 1993年(平成5年)7月:航空総隊司令官に就任 1994年(平成6年)7月:第22代航空幕僚長に就任 1996年(平成8年)3月:第21代統合幕僚会議議長に就任 1997年(平成9年)10月:退官
281 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:29:41 ID:xv36eGl2
夏川 和也(なつかわ かずや、1940年 - )は、日本の元海上自衛官。 第22代海上幕僚長、第23代統合幕僚会議議長。 略歴 1962年(昭和37年)3月:防衛大学校卒業(6期) 1992年(平成4年)6月:教育航空集団司令 1994年(平成6年)7月:佐世保地方隊総監 1996年(平成8年)3月:第22代海上幕僚長 1997年(平成9年)10月:第22代統合幕僚会議議長 1999年(平成11年)3月:退官
282 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:30:43 ID:xv36eGl2
藤縄 祐爾(ふじなわ ゆうじ、1941年(昭和16年)9月22日 - )は、日本の元陸上自衛官。兵庫県出身。 第26代陸上幕僚長、第23代統合幕僚会議議長。 略歴 1941年(昭和16年):兵庫県生まれ 1964年(昭和39年)3月:防衛大学校8期卒業(応用物理学専攻) 1965年(昭和40年):第24普通科連隊 1969年(昭和44年):幹部候補生学校 1972年(昭和47年):幹部学校指揮幕僚課程学生 1974年(昭和49年):第1普通科連隊重迫撃砲中隊中隊長 1976年(昭和51年):陸上幕僚監部第3部 1978年(昭和53年):陸上幕僚監部防衛部防衛課 1980年(昭和55年):米国留学。米陸軍指揮幕僚課程 1981年(昭和56年):陸上幕僚監部人事部補任課 1984年(昭和59年):防衛研究所一般課程 1985年(昭和60年):北部方面総監部防衛部防衛課長 1986年(昭和61年):第29普通科連隊連隊長 1988年(昭和63年):陸上幕僚監部教育訓練部訓練課長 1989年(平成元年):陸将補に昇任 1990年(平成2年):中部方面総監部幕僚副長 1992年(平成4年):陸上幕僚監部人事部長 1994年(平成6年):陸将に昇任。第7師団長 1995年(平成7年):陸上幕僚副長 1996年(平成8年):東部方面総監 1997年(平成9年):第26代陸上幕僚長 1999年(平成11年):第23代統合幕僚会議議長 2001年(平成13年):退官
283 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:31:55 ID:xv36eGl2
竹河内 捷次(たけごうち しょうじ、1943年3月10日 - )は、日本の元航空自衛官、第25代航空幕僚長、第24代統合幕僚会議議長。広島県出身。 略歴 三次高校卒業 1965年(昭和40年)3月:防衛大学校卒業(第9期 電気工学専攻)卒業、航空自衛隊入隊。 1989年(平成元年)6月:航空幕僚監部防衛部防衛課長 1991年(平成3年)3月:第5航空団飛行群司令 1992年(平成4年)6月:航空総隊司令部防衛部長 1993年(平成5年)7月:航空幕僚監部防衛部長、 1995年(平成7年)6月:北部航空方面隊司令官 1997年(平成9年)3月:航空支援集団司令官 1998年(平成10年)7月:航空総隊司令官 1999年(平成11年)7月:第25代航空幕僚長に就任。 2001年(平成13年)3月:第24代統合幕僚会議議長に就任 2003年(平成15年)1月28日:退職。5月1日:日本航空顧問
284 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:33:10 ID:xv36eGl2
石川 亨(いしかわ とおる、1944年9月10日 - )は、日本の元海上自衛官、第25代海上幕僚長(海将)、第25代統合幕僚会議議長。 埼玉県出身、防衛大学校第11期卒業。 略歴 1967年(昭和42年)3月:防衛大学校卒業(11期) 1982年(昭和57年)1月:2等海佐 1986年(昭和61年)7月:1等海佐 1987年(昭和62年)8月:海上自衛隊幹部学校教官兼研究部員 1988年(昭和63年)3月:海上幕僚監部防衛部防衛課分析室長 1989年(平成元年)11月:第6航空隊司令 1991年(平成3年)3月:海上幕僚監部防衛部 7月:海上幕僚監部防衛部防衛課長 1992年(平成4年)6月:海将補に昇任 1993年(平成5年)4月:第1航空群司令 1995年(平成7年)6月:海上幕僚監部防衛部長 1997年(平成9年)7月:教育航空集団司令官 1999年(平成11年)7月:佐世保地方隊総監 2001年(平成13年)3月27日:第25代海上幕僚長に就任 2003年(平成15年)1月28日:第25代統合幕僚会議議長に就任 2004年(平成16年)8月30日:退官
285 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:34:45 ID:xv36eGl2
先崎 一(まっさき はじめ、1944年5月4日 - )は、日本の元陸上自衛官(陸将)、初代統合幕僚長。 防衛大学校12期卒。鹿児島県出身。 最後の統合幕僚会議議長であり、2006年(平成18年)3月27日に発足した統合幕僚監部では初代統合幕僚長に就任した。 陸上幕僚長、統合幕僚長時に二度の定年延長がなされた。 2006年8月3日付で統合幕僚長を退任し、38年間の自衛隊勤務にピリオドを打った。 趣味は書道で腕前は師範級といわれ、楷書体を好んでいるという。 略歴 1944年5月4日:鹿児島県生まれ。 1964年3月:県立出水高等学校卒業。 1964年4月:防衛大学校入校。 1968年3月:防衛大学校12期卒業。 1979年8月:第25普通科連隊第2中隊長(3等陸佐)。 1988年:陸上幕僚監部教育訓練部教育訓練課訓練演習班長。 1991年:第39普通科連隊長。 1992年:陸上幕僚監部防衛部防衛課長。 1993年:陸将補に昇任。 1994年:北部方面隊幕僚副長。 1996年:陸上幕僚監部人事部長。 1998年7月1日:陸将に昇任 第24代第3師団長。 1999年12月10日:第37代陸上幕僚副長。 2001年1月11日:第27代北部方面総監。 2002年12月2日:第29代陸上幕僚長。 2004年8月30日:第26代統合幕僚会議議長。 2006年3月27日:初代統合幕僚長。 2006年8月3日:統合幕僚長を退任。 2006年9月1日:日本生命保険相互会社顧問に就任。 2006年9月12日:防衛庁顧問(現防衛省顧問)を委嘱。 2006年11月9日:国家安全保障に関する官邸機能強化会議メンバーに就任。
286 :
統合幕僚会議議長 :2008/04/27(日) 04:36:59 ID:xv36eGl2
齋藤 隆(さいとう たかし、1948年2月 - )は、日本の海上自衛官、第2代統合幕僚長(海将)、第27代海上幕僚長。 神奈川県立横須賀高等学校、防衛大学校本科第14期卒業。 戦後生まれの団塊の世代初の統合幕僚長でもある。 主要経歴 1970年(昭和45年)3月:防衛大学校卒(14期) 1985年(昭和60年)1月:2等海佐に昇任 1989年(昭和64年)1月:1等海佐に昇任 1990年(平成2年)8月:海上幕僚監部防衛課 1991年(平成3年)12月:海上幕僚監部防衛課防衛班長 1992年(平成4年)12月:第22護衛隊司令 1994年(平成6年)7月1日:海上幕僚監部防衛部防衛課長 1995年(平成7年)6月30日:海将補に昇任 1996年(平成8年)3月25日:海上自衛隊幹部学校副校長兼企画室長 1997年(平成9年)7月1日:海上幕僚監部防衛部長 2001年(平成13年)1月11日:海将に昇任、舞鶴地方総監 2002年(平成14年)8月1日:横須賀地方総監 2005年(平成17年)1月12日:第27代海上幕僚長 2006年(平成18年)8月4日:第2代統合幕僚長に就任 2008年(平成20年)3月21日:海上自衛隊の一連の不祥事による指揮監督義務違反で懲戒処分(減給)を受ける。
287 :
陸上幕僚長 :2008/04/27(日) 23:58:34 ID:xv36eGl2
林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日 - 1991年(平成3年))は、日本の旧内務省官僚、元陸上自衛官。 東京帝国大学卒業(法学部卒)。初代陸上幕僚長、初代統合幕僚会議議長。 第11代日本赤十字社社長。陸軍中将林弥三吉の息子である。 警察予備隊中央本部長から数えて、実に14年の長きにわたって自衛隊の頂点にあった。 自衛隊創設初期の頃までは旧内務省官僚出身者が要職を占め、 特に陸上自衛隊においては「内務軍閥」とも呼ばれる勢力が出来上がり、 その後の旧陸軍出身幹部との主導権争いの要因の一つとなった。 初期の頃には要職に官僚出身者が大勢いた為、官僚が軍事力(すなわち自衛隊のこと)を統制するという、 誤った解釈と運用がまかり通るようになり、その影響は現在まで続く(内局の問題。シビリアンコントロールを参照)。 略歴 1929年(昭和4年):東京帝国大学卒業(法学部) 1945年(昭和20年)2月:鳥取県官選知事 1947年(昭和22年)2月:内務省地方局長、その後宮内庁次長 1950年(昭和25年)10月:警察予備隊中央本部長に就任、12月:警察予備隊総隊総監に就任 1952年(昭和27年)8月:保安庁第1幕僚長(初代陸上幕僚長) 1954年(昭和29年)7月:初代統合幕僚会議議長に就任 1964年(昭和39年)8月:退官 1965年(昭和40年):日本住宅公団総裁 1978年(昭和53年)4月:日本赤十字社社長 1983年(昭和58年)7月:日本善行会会長
288 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:00:27 ID:xv36eGl2
天野 良英(あまの よしふさ、1910年2月12日 - )は、元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(43期)、宮城県出身。 第6代陸上幕僚長、第3代統合幕僚会議議長。 息子は元西部方面総監の天野良晴。 略歴 1931年(昭和6年)7月:陸軍士官学校卒業(43期)、10月:第8師団歩兵第17連隊付 1937年(昭和12年)11月:陸軍大学校入学(52期) 1939年(昭和14年)11月:陸軍大学校卒業、恩賜組、12月:第21軍参謀部付 1940年(昭和15年)6月:第22軍参謀、12月:教育総監部課員 1944年(昭和19年)3月:第27軍参謀、9月 東部軍参謀 1945年(昭和20年)2月:参謀本部総務課、6月:教育総監部第1課、9月:陸軍省軍務局 1962年(昭和37年)8月:第2師団師団長に就任 1964年(昭和39年)3月:陸上幕僚副長に就任 1965年(昭和40年)1月:第6代陸上幕僚長に就任 1966年(昭和41年)4月:第3代統合幕僚会議議長に就任 1967年(昭和42年)11月:退官
289 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:02:40 ID:JcpuiBzP
衣笠 駿雄(きぬがさ はやお、1915年2月23日 - 2007年2月11日)は、元日本陸軍軍人及び元陸上自衛官。 人物 兵庫県生まれ。第9代陸上幕僚長、第6代統合幕僚会議議長であった。 陸軍中佐衣笠寛の長男で、陸軍士官学校48期、陸軍大学55期恩賜の軍刀組でもある、 兵科は航空兵。陸軍での最終階級は中佐で、戦後は自衛隊の創設期に入隊、直後に旧陸軍挺身団の元隊員達と供に (但し、第1研究員は落下傘降下未経験者であった)落下傘降下の研究を開始。 第1空挺団の創設に尽力する。 略歴 1915年:兵庫県生まれ。 1936年:陸軍士官学校48期卒業、陸軍習志野学校付となる。 1941年:陸軍大学校55期卒業。 1942年:陸軍航空士官学校教官。 1943年:第4航空軍参謀。8月:陸軍少佐に昇任。 1944年:航空本部総務部員。 1945年:航空本部総務部員兼航空総軍参謀。12月:予備役となる。 1951年:警察予備隊入隊。 1954年:福岡県香椎にて、落下傘降下第1次研究員20名の長として訓練開始。 1955年:臨時空挺練習隊を創設、8月:空挺教育隊長心得、10月:習志野に移駐、12月:習志野駐とん地司令兼務。 1957年:空挺教育隊長心得から隊長となる(兼司令)。 1958年:6月:第1空挺団編成完結。初代団長となる(兼司令)。8月:陸上幕僚監部第3部研究班長。 1959年:陸上幕僚監部第3部付。 1960年:第6管区総監部幕僚長。 1962年:陸上自衛隊航空学校長兼明野駐とん地司令。 陸上幕僚監部航空課長。 1966年:陸上幕僚監部第3部長。 1968年:第3師団長。 1969年:陸上幕僚副長。 1970年:第9代陸上幕僚長に就任。 1971年:第6代統合幕僚会議議長に就任。 1973年:退官。 1985年:勲二等瑞宝章受章。 2007年:心不全の為死去。享年91。
290 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:03:54 ID:JcpuiBzP
中村 龍平(なかむら りゅうへい、1917年(大正6年) - 2008年(平成20年)3月29日)は、元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(49期)、東京都出身。 第7代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 1971年7月30日に発生した全日空機雫石衝突事故の対処に当たる。 また沖縄返還に伴う新たな部隊配備と施設管理を処理した。 略歴 1937年(昭和12年)6月:陸軍士官学校卒業(49期)。少尉に任官、第16師団歩兵第9連隊本部、南京の戦いに参加 1940年(昭和15年)12月:陸軍大学校入学(56期) 1942年(昭和17年)11月:陸軍大学校卒業、恩賜組 1943年(昭和18年):千葉陸軍戦車学校教官 1944年(昭和19年):関東軍参謀 1945年(昭和20年):参謀本部第1部 1969年(昭和44年)3月:第11師団師団長に就任 1970年(昭和45年)11月:東部方面隊総監に就任 1971年(昭和46年)7月:第10代陸上幕僚長に就任 1973年(昭和48年)2月:第7代統合幕僚会議議長に就任 1974年(昭和49年)3月:定年退官 2008年(平成20年)3月29日:逝去(享年91)
291 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:07:05 ID:JcpuiBzP
栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年2月27日 - 2004年7月19日)は、元大日本帝国海軍軍人、元陸上自衛官。 広島県呉市生まれ。第10代統合幕僚会議議長。 自衛隊制服組トップの統幕議長だった1978年、週刊誌上でいわゆる超法規発言をおこない解任された。 経歴 呉第一中学校、第一高等学校を経て1943年、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験(高文)を首席で合格し内務省に入省するが海軍2年短期現役士官を志願し帝国海軍へ。 南方戦線へ従軍し海軍法務大尉として終戦を迎える。 終戦後も、現地で戦犯の特別弁護人を務め、復員が遅れた。 復員後は弁護士を営んでいたが、1951年、警察予備隊(のちの陸上自衛隊)入隊。 幹部学校、米国防産業大学通信課程を経て在仏防衛駐在官。 第13師団長時代には、被爆地・広島から猛反発を受けながら、広島市の中心部で最新鋭の戦車大隊を率いて軍事パレードを強行した。 その後、東部方面総監、陸上幕僚長を経て、1977年、第10代統合幕僚会議議長に就任。 1978年7月、「週刊ポスト」誌上で「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。 第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促す“超法規発言”を行う。 これが政治問題化し、記者会見でも信念を譲らず、同様の発言を繰り返したため、文民統制の観点から不適切として、時の防衛庁長官・金丸信に事実上解任された。 が、福田赳夫首相が閣議で有事立法・有事法制の研究促進と民間防衛体制の検討を防衛庁に指示。 国防論議のタブーが破られ、以後多くの国防論議が巻き起こるきっかけとなった。 1980年、参院選東京地方区に民社党から立候補したが落選。 その後は静岡新聞の客員論説委員、金沢工業大学附属国際問題研究所所長、国士舘大学客員教授などを務めながら 多数の著書などで安全保障問題の発言を続けた。 栗栖の発言から25年後の2003年6月、有事法制の第一段階といえる武力攻撃事態対処関連三法が成立、 有事法制の基本法である武力攻撃事態対処法が施行された。 2004年7月19日、心筋梗塞により死去。享年84。
292 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:08:24 ID:JcpuiBzP
高品 武彦(たかしな たけひこ、1921年 - 2004年12月18日)は、元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(54期)、東京都出身。 第14代陸上幕僚長、第11代統合幕僚会議議長。 グアムの戦いで戦死した高品彪陸軍中将の長男、高品朋陸軍少将の甥にあたる。 三矢研究では中心的役割を果たしたとされる。 略歴 1940年(昭和15年)9月:陸軍士官学校卒業(54期)。少尉に任官 1952年(昭和27年)9月:警察予備隊入隊 1974年(昭和49年)3月:第3師団長に就任 1976年(昭和51年)3月:陸上自衛隊幹部学校校長、10月:東部方面隊総監に就任 1977年(昭和52年)10月:第14代陸上幕僚長に就任 1978年(昭和53年)7月:第11代統合幕僚会議議長に就任 1979年(昭和54年)7月:退官
293 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:11:03 ID:JcpuiBzP
永野 茂門(ながの しげと、1922年(大正11年)6月28日 - )は、日本の政治家。元参議院議員(2期)。元陸上自衛官。 大分県出身。勲二等旭日重光章。 人物 大分中学校(現・大分上野丘高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、 昭和16年(1941年)7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し陸軍将校となる。 終戦時は陸軍大尉。 戦後、陸上自衛隊に入隊し通信科出身ながら陸上幕僚長となる。 昭和55年退官(陸将)。昭和61年(1986年)、第14回参議院議員通常選挙に自由民主党から出馬、当選する。 第2次海部内閣で科学技術政務次官。 平成5年(1993年)、小沢一郎、羽田孜らと共に自民党を離党し新生党結成に参加。 1994年4月に発足した羽田内閣で法務大臣を務めるが、陸上幕僚長を務めた職業自衛官出身の大臣の誕生に文民統制から問題があるのではないかと指摘する声があがった。 毎日新聞のインタビューで「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言し、わずか11日間で更迭される(これは2007年に遠藤武彦農水相が8日間の在任記録が出るまで、戦後大臣通算在任最短記録1位であった) 平成10年(1998年)、政界引退。現在、日本戦略研究フォーラム(JFSS)相談役。
294 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:14:15 ID:JcpuiBzP
鈴木 敏通(すずき としみち、1924年 - 2008年3月15日)は、日本の元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校本科修了(57期)、福井県大野市出身。第16代陸上幕僚長。 人物 宮永スパイ事件で引責辞任した永野茂門前陸幕長の後任には、飯山茂東部方面総監が候補の一人であった。 しかし飯山茂が陸幕二部長時代の部下が、宮永に機密を漏洩した人物であることから、同期の鈴木敏通が就任したといわれる。 通信科出身であり永野前陸幕長の意向が働いた人事ともいわれる。 人格者であり今軍神との評判もあった。 略歴 1944年(昭和19年)4月:陸軍士官学校卒業(57期)。少尉に任官 1945年(昭和20年)8月:終戦時、陸軍中尉(歩兵第44聯隊附)。 1976年(昭和51年)7月:第13師団長師団長に就任 1977年(昭和52年)10月:陸上幕僚副長に就任 1979年(昭和54年)3月:中部方面隊総監に就任 1980年(昭和55年)2月:第16代陸上幕僚長に就任 1981年(昭和56年)6月:退官 2008年(平成20年)3月15日:逝去(享年84) 備考 息子の鈴木通彦も陸上自衛隊第9師団長を務めた陸将だが、2000年4月28日、違法射撃事件隠蔽の責任を問われ、陸将として史上初となる停職処分(20日間)を受け引責辞任した
295 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:15:08 ID:JcpuiBzP
村井 澄夫(むらい すみお、1925年(大正14年) - )は、日本の元陸上自衛官。 陸軍士官学校卒業(58期)。第17代陸上幕僚長、第14代統合幕僚会議議長。 略歴 1945年(昭和20年)6月:陸軍士官学校卒業(58期)。少尉に任官 1978年(昭和53年)3月:東部方面隊幕僚長に就任 1979年(昭和54年)3月:第5師団長に就任 1980年(昭和55年)2月:中部方面隊総監に就任 1981年(昭和56年)6月:第17代陸上幕僚長に就任 1983年(昭和58年)3月:第14代統合幕僚会議議長に就任 1984年(昭和59年)6月:退官
296 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:16:09 ID:JcpuiBzP
渡部 敬太郎(わたなべ けいたろう、1927年(昭和2年) - 1997年(平成9年)11月26日)は、日本の元大日本帝国陸軍軍人及び元陸上自衛官。 陸軍士官学校本科修了(60期)。第15代陸上幕僚長、第18代統合幕僚会議議長。 息子は文芸評論家の渡部直己。 略歴 1945年(昭和20年)8月:陸軍士官学校修業(60期) 1979年(昭和54年)7月:第10師団師団長 1981年(昭和56年)7月:北部方面隊総監に就任 1983年(昭和58年)3月:第18代陸上幕僚長に就任 1984年(昭和59年)7月:第15代統合幕僚会議議長に就任 1986年(昭和61年)2月:退官
297 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:17:36 ID:JcpuiBzP
石井 政雄(いしい まさお、1931年 - 2007年5月9日)は日本の元自衛官。 千葉県出身、立教大学卒業。第20代陸上幕僚長、第17代統合幕僚会議議長。 統合幕僚会議議長在職中は、日本版DIAである情報本部構想の推進(1997年に統合幕僚会議情報本部として実現)に努めた。また、第11師団長であった1985年、陸上自衛隊真駒内駐屯地内にさっぽろ雪まつり資料館をオープンさせた。 略歴 1956年(昭和31年)3月:立教大学卒業 1984年(昭和59年)3月:第11師団長 1986年(昭和61年)3月:第20代陸上幕僚長に就任 1987年(昭和62年)12月:第17代統合幕僚会議議長に就任 1990年(平成2年)3月:退官 2007年(平成19年)5月9日:胆管がんの為死去。享年76。
298 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:18:43 ID:JcpuiBzP
寺島 泰三(てらしま たいぞう、1933年(昭和8年) - )は、日本の元陸上自衛官。 福島県出身、東北大学卒業。第21代陸上幕僚長、第18代統合幕僚会議議長。 略歴 1956年(昭和31年)3月:東北大学卒業(法学部) 1985年(昭和60年)10月第11師団長 1987年(昭和62年)3月:東部方面隊総監。12月:第21代陸上幕僚長に就任 1990年(平成2年)3月:第18代統合幕僚会議議長に就任 1991年(平成3年)6月:退官
299 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:19:26 ID:JcpuiBzP
志摩 篤(しま あつし、1935年 - )は、日本の陸上自衛官。 第22代陸上幕僚長。初の防衛大学校卒業の陸上幕僚長である。 略歴 1957年(昭和32年)3月:防衛大学校卒業(1期) 1986年(昭和61年)6月17日:第9師団師団長に就任 1987年(昭和62年)7月7日:防衛大学校幹事に就任 1988年(昭和63年)7月7日:北部方面隊総監に就任 1990年(平成2年)3月16日:第25代陸上幕僚長に就任 1992年(平成4年)3月16日:退官 2007年(平成19年)11月:瑞宝重光章を受賞
300 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:20:12 ID:JcpuiBzP
西元 徹也(にしもと てつや、1937年(昭和12年) - )は、日本の元陸上自衛官、軍事評論家。 第20代陸上幕僚長、第22代統合幕僚会議議長。 略歴 1959年(昭和34年)3月:防衛大学校卒業(3期) 1988年(昭和63年)7月:第7師団長 1991年(平成3年)3月:中部方面隊総監に就任 1992年(平成4年)3月:第23代陸上幕僚長に就任 1993年(平成5年)7月:第20代統合幕僚会議議長に就任 1996年(平成8年)3月:退官
301 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:21:35 ID:JcpuiBzP
冨澤 暉(とみざわ ひかる、1938年 - )は、日本の陸上自衛官。 第25代陸上幕僚長。東京都出身。 父は第4回芥川龍之介賞受賞作家の冨澤有爲男、 妻は大戦中にF機関で活躍した藤原岩市陸軍中佐(元陸将でもある)の娘であり、 同じ陸上自衛隊第1師団師団長も務めた(義父藤原は第4代、冨澤は第20代)。 略歴 1960年(昭和35年)3月:防衛大学校卒業(4期) 1990年(平成年)3月16日:第1師団師団長に就任 1991年(平成3年)3月16日:陸上幕僚副長に就任 1992年(平成4年)3月16日:北部方面隊総監に就任 1993年(平成5年)7月1日:第24代陸上幕僚長に就任 1995年(平成7年)6月30日:退官
302 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:22:38 ID:JcpuiBzP
渡邊 信利(わたなべ のぶとし、 - )は、日本の陸上自衛官。 第25代陸上幕僚長。 略歴 1962年(昭和37年)3月:防衛大学校卒業(6期) 1992年(平成4年)6月16日:第2師団師団長に就任 1993年(平成5年)7月1日:陸上幕僚副長に就任 1994年(平成年)7月1日:北部方面隊総監に就任 1995年(平成7年)6月30日:第25代陸上幕僚長に就任 1997年(平成9年)7月1日:退官
303 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:23:25 ID:JcpuiBzP
藤縄 祐爾(ふじなわ ゆうじ、1941年(昭和16年)9月22日 - )は、日本の元陸上自衛官。兵庫県出身。 第26代陸上幕僚長、第23代統合幕僚会議議長。 略歴 1941年(昭和16年):兵庫県生まれ 1964年(昭和39年)3月:防衛大学校8期卒業(応用物理学専攻) 1965年(昭和40年):第24普通科連隊 1969年(昭和44年):幹部候補生学校 1972年(昭和47年):幹部学校指揮幕僚課程学生 1974年(昭和49年):第1普通科連隊重迫撃砲中隊中隊長 1976年(昭和51年):陸上幕僚監部第3部 1978年(昭和53年):陸上幕僚監部防衛部防衛課 1980年(昭和55年):米国留学。米陸軍指揮幕僚課程 1981年(昭和56年):陸上幕僚監部人事部補任課 1984年(昭和59年):防衛研究所一般課程 1985年(昭和60年):北部方面総監部防衛部防衛課長 1986年(昭和61年):第29普通科連隊連隊長 1988年(昭和63年):陸上幕僚監部教育訓練部訓練課長 1989年(平成元年):陸将補に昇任 1990年(平成2年):中部方面総監部幕僚副長 1992年(平成4年):陸上幕僚監部人事部長 1994年(平成6年):陸将に昇任。第7師団長 1995年(平成7年):陸上幕僚副長 1996年(平成8年):東部方面総監 1997年(平成9年):第26代陸上幕僚長 1999年(平成11年):第23代統合幕僚会議議長 2001年(平成13年):退官
304 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:24:02 ID:JcpuiBzP
磯島 恒夫(いそじま つねお、1942年 - )は、日本の陸上自衛官。第27代陸上幕僚長。 略歴 1965年(昭和40年)3月:防衛大学校卒業(9期) 1995年(平成7年)6月30日:第6師団師団長に就任 1996年(平成8年)7月1日:陸上幕僚副長に就任 1997年(平成9年)7月1日:北部方面隊総監に就任 1999年(平成11年)3月31日:第27代陸上幕僚長に就任 2001年(平成13年)1月11日:退官
305 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:25:08 ID:JcpuiBzP
中谷 正寛(なかたに まさひろ、1943年(昭和18年)9月25日 - )は元陸上自衛官。大阪府出身。第28代陸上幕僚長。 略歴 1943年:大阪府生まれ。 1966年:防衛大学校10期卒業、陸上自衛官に任官。 1999年:第4師団長。 2000年:中部方面総監。 2001年:第28代陸上幕僚長。 2002年:6月20日、防衛庁リスト事件で注意(指揮監督義務違反)処分を受ける。同年12月2日退官。 2003年:小松製作所顧問に就任
306 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:26:08 ID:JcpuiBzP
先崎 一(まっさき はじめ、1944年5月4日 - )は、日本の元陸上自衛官(陸将)、初代統合幕僚長。 防衛大学校12期卒。鹿児島県出身。 最後の統合幕僚会議議長であり、2006年(平成18年)3月27日に発足した統合幕僚監部では初代統合幕僚長に就任した。 陸上幕僚長、統合幕僚長時に二度の定年延長がなされた。 2006年8月3日付で統合幕僚長を退任し、38年間の自衛隊勤務にピリオドを打った。 趣味は書道で腕前は師範級といわれ、楷書体を好んでいるという。 略歴 1944年5月4日:鹿児島県生まれ。 1964年3月:県立出水高等学校卒業。 1964年4月:防衛大学校入校。 1968年3月:防衛大学校12期卒業。 1979年8月:第25普通科連隊第2中隊長(3等陸佐)。 1988年:陸上幕僚監部教育訓練部教育訓練課訓練演習班長。 1991年:第39普通科連隊長。 1992年:陸上幕僚監部防衛部防衛課長。 1993年:陸将補に昇任。 1994年:北部方面隊幕僚副長。 1996年:陸上幕僚監部人事部長。 1998年7月1日:陸将に昇任 第24代第3師団長。 1999年12月10日:第37代陸上幕僚副長。 2001年1月11日:第27代北部方面総監。 2002年12月2日:第29代陸上幕僚長。 2004年8月30日:第26代統合幕僚会議議長。 2006年3月27日:初代統合幕僚長。 2006年8月3日:統合幕僚長を退任。 2006年9月1日:日本生命保険相互会社顧問に就任。 2006年9月12日:防衛庁顧問(現防衛省顧問)を委嘱。 2006年11月9日:国家安全保障に関する官邸機能強化会議メンバーに就任。
307 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:26:49 ID:JcpuiBzP
森 勉(もり つとむ、1947年 - )は、日本の陸上自衛官。第29代陸上幕僚長。 略歴 1970年(昭和45年)3月:防衛大学校卒業(機械工学)(14期) 2001年(平成13年)1月11日:第7師団師団長に就任 2002年(平成14年)3月22日:陸上幕僚副長に就任 2003年(平成15年)7月1日:西部方面隊総監に就任 2004年(平成16年)8月30日:第29代陸上幕僚長に就任 2007年(平成19年)3月28日:退官
308 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 00:27:34 ID:JcpuiBzP
折木 良一(おりき りょういち、1950年2月10日 - )は、日本の陸上自衛官。第30代陸上幕僚長。熊本県出身。 [編集] 略歴 1972年(昭和47年)3月:防衛大学校卒業(機械工学)(16期) 2003年(平成15年)3月27日:第9師団師団長に就任 2004年(平成16年)8月30日:陸上幕僚副長に就任 2005年(平成17年)7月28日:中部方面隊総監に就任 2007年(平成19年)3月28日:第20代陸上幕僚長に就任
309 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 20:43:42 ID:JcpuiBzP
初代 林 敬三 東大 昭和 4年卒業 自衛隊における一高−東大−内務省 閥の頂点にあって 初代陸幕長として4年、初代統幕議長として10年の長きにわたって 自衛隊に君臨し、絶大なる影響力を誇った。 むろんこんな人事が許されたのは、官僚出身であったが故である。 この弊害は、防衛庁が内務軍閥と云われるもとになり、 自衛隊における旧陸軍出身者との主導権争いは、 第8代の山田正雄陸幕長まで続いた。 鳥取県知事-宮内庁次長より転任 昭和25年 警察予備隊中央本部長 昭和27年 保安庁第一幕僚長 昭和29年 統合幕僚会議議長 父は陸軍中将 林 弥三吉(8期) 昭和40年 日本住宅公団総裁 昭和53年 日本赤十字社総裁
310 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 20:47:09 ID:JcpuiBzP
2代 筒井 竹雄 東大 昭和 2年卒業 初代陸幕長林敬三の2年先輩であったが、拓務省官僚であったため後塵を拝した。 朝鮮の黄海道知事を努めていたときに終戦となり、たまたま京城に出張中であった。 戻ればソ連に捕まるとの警告に対し、『部下や民衆をそのままにできない』 として 死を覚悟して敢然と任地に戻り、結局ソ連に捕まりシベリアに連行された。 この一事が筒井の人となりを表しており、単なる官僚以上に徳をもって隊員をまとめた。 東大野球部の投手であり、自衛隊でも軟式野球大会で活躍した。 拓務省-朝鮮・黄海道知事より転任 昭和29年 陸上幕僚長
311 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 20:50:02 ID:JcpuiBzP
3代 杉山 茂 陸士36期 陸大45期 筒井竹雄の後任幕僚長としては、 岸本重一北部方面総監、松谷誠西部方面総監が候補であった。 岸本元大佐は入隊した旧陸軍の最古参(34) 山下奉文麾下の三羽烏の一人で、山下大将とともに東條首相の竹槍戦術に反対、 さらに空軍第一主義を唱えて東條の逆鱗に触れ、台湾に飛ばされたという逸話を持つ。 また初代航空幕僚長人選にも、航空総監部に在籍した経験から候補者として 名前の挙がった逸材である。 松谷元大佐(35)は軍政系の人物で杉山陸相や鈴木首相の秘書官を経験し、 終戦直前の対ソ和平交渉陸軍随行員の候補者としても名前があがり、 また戦後は、材木屋を営み世間の荒波にもまれたという、 こちらも幕僚長としては十分であった。 昭和15年 参謀本部動員班長 昭和16年 参謀本部庶務課高級課員 昭和17年 第18軍 作戦主任参謀 昭和20年 第18軍高級参謀 終戦時大佐 昭和32年 陸上幕僚長 昭和54年 偕行社会長
312 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 20:52:31 ID:JcpuiBzP
4代 杉田 一次 陸士37期 陸大44期 杉山茂の後任幕僚長としては37期の俊英 井本熊男統幕事務局長が有力であった。 しかし同期である杉田元大佐は、井本元大佐を排斥するために 杉山に1年長く陸幕長をやらせた、とする陰謀節が噂され、 結局井本熊男は幹部学校校長で陸自を去った。 かの有名な山下、パーシバル会談の通訳を勤め 参謀本部欧米課長を歴任した経歴を持ち、 三国同盟にも反対した陸軍部内では数少ない英米通。 情報畑の出身者でありながら作戦班長という重職を担った貴重な経験を持つ。 しかし大本営参謀だった所以からか、政治的言動の多かった人物とされ、 伊勢湾台風の災害出動や安保騒動の治安出動が検討されたときも、 しばしば政治的発言をしたと伝えられている。 だが、後任の陸幕長を陸士出身から輩出できなかったことは失敗であったと言えよう。 退役後、堀江正夫(51 西部方面総監 のち参議院議員)の選挙対策本部長として 選挙違反に問われたり、陸幕人事に介入して後輩たちを困惑させたこともあるという。 昭和16年 第25軍 情報主任参謀 昭和18年 参謀本部第2部 兼 東久邇宮王附副官 昭和19年 大本営 作戦班長 昭和20年 第17方面軍高級参謀 終戦時大佐 昭和35年 陸上幕僚長 昭和52年 日本郷友連盟会長
313 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 20:56:32 ID:JcpuiBzP
5代 大森 寛 東大 昭和 5年卒業 杉田一次の後任として、新宮陽太元大佐(38)、高山信武元大佐(39)、和田盛哉元中佐(41) 塚本政登士(42)元中佐 といった、陸士・陸大出身の陸幕長候補を差し終えて、 5代目陸幕長には一高−東大閥の内務官僚が起用された。 時の防衛庁長官が藤枝泉介で、大森とは東大も内務省も同期であったことも有利に働いたとされる。 三矢研究の追及をかわし、東京オリンピックの支援を成功させたが、 官僚然とした言動は陸幕長としては芳しいものではなかった。 千葉県警察部長−弁護士より転任 昭和37年 陸上幕僚長 昭和40年 防衛大学校校長
314 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 20:58:49 ID:JcpuiBzP
6代 天野 良英 陸士43期 陸大52期恩賜 大森前陸幕長が不評であったため、それに対比されて人気は高かった。 陸大恩賜軍刀にもかかわらず誰からも愛される人物で、同期・後輩からの支援も高かったという。 任期は1年で同期の吉江誠一に譲った後、統幕議長になったが、 これも陸士同期である空自の牟田弘国にゆずって1年余で退官した。 昭和15年 教育総監部課員 昭和19年 東部軍参謀 地上作戦主任 昭和20年 大本営第一部 業務統制 終戦時中佐 昭和40年 陸上幕僚長 昭和41年 統合幕僚会議議長
315 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:02:36 ID:JcpuiBzP
7代 吉江 誠一 陸士43期 陸大50期 天野前陸幕長とは陸士は同期、陸大は1期先輩。 閑院宮戴仁親王附武官の経験があり、性格は温厚で几帳面であった。 防衛庁長官には恵まれず、松野頼三の後の上林山栄吉は、3幕僚長と自衛隊音楽隊を動員して お国入りしたことが公私混同と大問題となり、早々に長官を辞任するといった事件があった。 昭和16年 参謀本部庶務課員 兼 戴仁親王附武官 昭和20年 補任課第一班長 兼 参謀本部員 終戦時中佐 昭和41年 陸上幕僚長 父は陸軍中将 吉江石之助(2期)
316 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:04:58 ID:JcpuiBzP
8代 山田 正雄 東大 昭和11年卒 吉江前陸幕長の後任には、田中兼五郎(45)が有力であったが、再々度内務官僚閥が起用された。 これは、田中元中佐と梅原治国防会議事務局長との関係を好ましいとは思わなかった 増田甲子七防衛庁長官に睨まれた結果であると噂された。 山田は高等文官試験を優秀な成績で合格したほどの頭脳明晰・記憶力抜群で、 陸軍士官学校・陸軍大学校の権威など歯牙にもかけない勢いで、 旧陸軍の俊英たちの度肝を奪ったという。 退役後、第8代の防衛研究所長に就任したが、本来シビリアンの就く地位であり、 東大卒の文官である山田はそれを可能にした。 内務官僚より転任 昭和43年 陸上幕僚長 昭和45年 防衛研修所長
317 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:06:59 ID:JcpuiBzP
9代 衣笠 駿雄 陸士48期恩賜 陸大55期恩賜 山田陸幕長の後任には、陸大首席の益田兼利(46)東部方面総監が有力であった。 しかし昭和45年11月25日 市谷駐屯地での三島事件の責任を負って辞任、 結局就任したのは2期後輩の衣笠駿雄であった。 陸士・陸大の軍刀組である上に空挺団の創始者であり、野戦部隊指揮官としての能力は抜群であった。 しかし陸幕長としては、記憶力抜群であった前任の山田正雄の副長であった経験からか、 万事が細か過ぎて大局を見失いがちであったとも伝えられている。 昭和18年 第4航空軍参謀 昭和20年 航空本部総務部員 兼 航空総軍参謀 終戦時少佐 昭和45年 陸上幕僚長 昭和46年 統合幕僚会議議長
318 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:08:44 ID:JcpuiBzP
10代 中村 龍平 陸士49期 陸大56期恩賜 昭和46年着任早々、雫石での全日空機衝突事故が発生、 上田航空幕僚長、増原防衛庁長官が引責辞任するという異常事態が起こった。 陸上自衛隊は空自と一体となって遺族業務を実施、中村陸幕長はその指揮をとった。 また祖国復帰を果たした沖縄の施設の管理・部隊配置などを実施した。 昭和18年 千葉戦車学校教官 昭和19年 関東軍参謀 昭和20年 参謀本部 第一部参謀(支那方面) 終戦時少佐 昭和46年 陸上幕僚長 昭和48年 統合幕僚会議議長
319 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:11:31 ID:JcpuiBzP
11代 曲 寿郎 陸士50期恩賜 陸大58期 陸軍砲工学校 高等科45期 優等卒 生来病弱であり、第12師団長時代からその病弱は危ぶまれていた。 にもかかわらず陸幕長になったということは、陸士首席卒業、砲工学校恩賜軍刀組 という経歴のおかげではなかったか、とされている。 学究肌で鋭い分析力を持ち、部下の幕僚は教えられることが多かったという。 退職後フォースターの威光で天下りすることはなく、 努力して簡易裁判所判事となり後に弁護士となった。 昭和16年 大尉 陸士生徒隊附 昭和19年 第13軍 作戦参謀 昭和20年 支那派遣軍参謀 終戦時少佐 昭和48年 陸上幕僚長 昭和50年 東京簡裁判事 昭和60年 弁護士
320 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:14:08 ID:JcpuiBzP
12代 三好 秀男 陸士53期恩賜 陸大59期恩賜 曲前陸幕長に勝るとも劣らず、陸士・陸大ともに恩賜軍刀の俊英。 次の栗栖弘臣元海軍法務大尉とならんで次期陸幕長との声が高かった人物。 栗栖の東大S18年卒は陸士の54期に相当するため、 人事序列の慣行上53期の三好元大尉が先に陸幕長となった。 陸幕の大改革を断行、米軍の旧制度が残る陸自を海空とおなじ機構に改編した。 また。昭和51年9月6日 函館空港にミグ25戦闘機が強行着陸、 我が国に緊張が走り在道部隊が警戒態勢をとった時の陸幕長でもあった。 昭和19年 陸士生徒隊附 昭和20年 第21師団参謀 終戦時大尉 昭和49年 陸上幕僚長
321 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:16:46 ID:JcpuiBzP
13代 栗栖 弘臣 東大 昭和18卒業 東大出身の内務官僚ではあったが、早くから海軍に在籍、法務大尉として南方に赴任し、 戦後自らもオーストラリア軍に逮捕拘禁の身でありながら、戦犯弁護人として活躍した。 異色の経歴から広い視野で陸上自衛隊を見ることができた人物。 一方で、林敬三、大森寛らの一高-東大の系譜にありながらそれらの派閥には属さず、 『治安出動など自衛隊の任務から外すべきである』として 自衛隊を国軍本来の姿に求めてやまなかった。 自衛官の地位向上のためには幕僚長を認証官にすべきだと主張、また内局参事官会議でも 制服代表としてしばしば発言し、内局と衝突したとも伝えられているが、内局(シビリアン)も、 東大の大先輩には強く反論できず部分的に制服組が内局を抑える場面もあった。 統幕議長になった昭和53年4月、尖閣諸島に対する侵犯事件が発生 のちの非常時立法の発言に繋がった。 スクランブル体制下の自衛官の心情に託し、政治家−内局の無策無能と職務怠慢に 警鐘を鳴らしたものであったが、護衛艦に自らの選挙地名をつけることに夢中だった 時の防衛庁長官・金丸信の容れるところではなく、 勇気有る発言と引き換えに統幕議長を9ヶ月で辞任した。 現在、有事立法が政治日程になっているのは栗栖陸将の功績である。 栗栖弘臣こそは真の武人の一人である。 昭和18年 文官高等試験合格−内務省入省 昭和19年 東京軍法会議附 昭和20年 第2南遣艦隊軍法会議法務官 終戦時 海軍法務大尉 昭和51年 陸上幕僚長 昭和52年 統合幕僚会議議長 海軍法務官 出身 有事立法発言で統幕議長辞任
322 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:19:22 ID:JcpuiBzP
14代 高品 武彦 陸士54期恩賜 栗栖陸幕長の後任には、田中象二北部方面総監(54)が有力であったが、 定年まで1年しかなかったことが影響してか同期である高品元大尉が就任した。 その高品陸幕長も統幕議長となったため、わずか任期9ヶ月で交代したのであった 昭和20年 陸士第5中隊区隊長 終戦時大尉 昭和52年 陸上幕僚長 昭和53年 統合幕僚会議議長 父は陸軍中将 高品 彪(28期) グアム島で戦死
323 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:21:27 ID:JcpuiBzP
15代 永野 茂門 陸士55期恩賜 通信出身であり、普通化(歩兵)特科(砲兵)などの後塵を拝してきたが、 徐々に頭角を現して来た大器晩成型。 昭和55年1月 宮永陸将補によるスパイ事件が起こり、引責辞任した。 辞任直後から政界への進出を考えており、源田實元航空幕僚長の後任として 自民党国防部会(いわゆる国防族)の参議院議員となった。 昭和20年 電信第13連隊中隊長 終戦時大尉 昭和53年 陸上幕僚長 機密漏洩事件で陸幕長辞任 昭和61年 参議院議員
324 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:23:22 ID:JcpuiBzP
16代 鈴木 敏通 陸士57期恩賜 永野前陸幕長の後任には、飯山茂東部方面総監(57)が候補の一人であったが、 陸幕2部長時代に部下が宮永に機密を漏洩したことから、同期の鈴木敏道が就任した。 通信出身であることから永野前陸幕長の意向が働いた人事とも噂されているが、 今軍神と言われたほどの人格者であった。 昭和19年 歩第44聯隊附 昭和20年 終戦時中尉 昭和55年 陸上幕僚長
325 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:25:43 ID:JcpuiBzP
17代 村井 澄夫 陸士58期恩賜 陸士を卒業し少尉任官で終戦を迎えた最後の陸幕長。 帝國陸軍最後の光芒であるかのような偉丈夫で古武士然とした容姿。 機甲科出身で昭和50年陸幕総務課長就任いらい電撃的なスピード出世は話題となった。 なお就任時の昭和56年11月(着用は翌年4月)、防衛記念章(略綬)が制定され 自衛官の士気は高まった。 昭和20年 終戦時少尉 昭和56年 陸上幕僚長 昭和58年 統合幕僚会議議長
326 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:28:04 ID:JcpuiBzP
18代 渡部 敬太郎 陸士60期 修了 予科士官学校 優等 村井陸幕長の後任には、59期から60期には人材が豊富で先陣争いは壮観であった。 その中から就任したのは60期の渡部敬太郎であった。 60期は終戦時陸士本科生徒で卒業はしていない。階級は兵長であった。 幹部登用試験問題の漏洩事件や山口射撃場での第17聯隊の小銃乱射事件などがあったが 見事に処理し、その手腕を高く評価された。 昭和58年 陸上幕僚長 昭和59年 統合幕僚会議議長
327 :
陸上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:29:51 ID:JcpuiBzP
19代 中村 守雄 陸航士61期 修了 陸航士61期修了、在学中の生徒として終戦を迎えた。 旧軍学校出身の最後の陸上幕僚長。 昭和60年8月の日航機御巣鷹山墜落事故には、第12師団を中心に述べ41000名を派遣 遺体の捜索・収容にあたった。 昭和59年 陸上幕僚長
328 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:35:07 ID:JcpuiBzP
初代 山崎 小五郎 東大 昭和6年卒業 海上自衛隊は、運輸省の海上保安庁の下部組織として発足したため、 当時海上保安庁次長であった山崎が初代の海幕長となった。 山崎は東大卒の文官でありながらも旧海軍にも理解があり 部下の要求を存分に吸収したと云われている。 昭和29年初の海上自衛隊の演習を終え、懸案であったMSA協定の締結後、 海幕長を副長の長沢浩に譲り運輸次官として返り咲いた。 山崎以降の海上幕僚長は、東山第17代海幕長を除き 海兵−防大出身者で占められている。 また陸上自衛隊と違い世帯が小さいので、派閥人事の影響が少なく 旧海軍軍人が主流で、海上保安庁出身の文官はあくまで傍流であった。 運輸省 海上保安庁次長より転任 昭和27年 海上警備隊総監−第二幕僚長 昭和29年 海上幕僚監部総監 昭和29年 運輸事務次官
329 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:37:16 ID:JcpuiBzP
2代 長沢 浩 海兵49期 海大30期 実質的には初代の海上幕僚長。 海兵49期は陸士34期に相当、即ち服部卓四郎と同期相当であった。 野村−保科ラインより信頼を受けY委員会のメンバーとなり、 海上自衛隊の基礎造りを命じられたのは、アメリカの駐在武官補佐官を勤め、 海軍省の人事局勤務が長かったことに由来する。 長沢は4年間海幕長の椅子にあり海上自衛隊の基礎を造り 昭和32年には練習艦隊をハワイに派遣し、岸首相を迎えて観艦式を東京湾で行った。 昭和16年 第5戦隊首席参謀 昭和18年 人事局 先任局員 昭和20年 海軍省軍務局第1課長 兼 軍令部第3・4課長 終戦時大佐 昭和29年 第二幕僚長 のち海上幕僚長
330 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:39:09 ID:JcpuiBzP
3代 庵原 貢 海兵52期 海大35期 長沢浩の後任幕僚長には、 吉田英三横須賀地方総監、溪口泰麿幹部学校校長が候補であった。 吉田元大佐(50)は戦時中は軍務局勤務が長かったが、 自衛隊入隊後は部隊の訓練指導に明け暮れた人物。 駆逐艦作戦をやらせたら海上自衛隊随一との評判であり指揮官先頭を旨とした。 溪口元大佐は(51)は、海大恩賜組で東大法学部に派遣され、 大戦中はドイツ大使館武官補佐官として海外にあった。 どちらも逸材ではあったが、海幕長となったのは52期の庵原元大佐であった。 砲術出身、海兵の同期に高松宮、源田實、柴田武雄がいる。 性格は温厚篤実、幅もあり内局の受けも良かった。一方で事務的能力は皆無であったという。 3年間の在任中、実用実験隊、練習艦隊などを新編し、初の国産護衛艦が配置についた。 昭和16年 第3艦隊参謀 昭和17年 第2艦隊参謀(作戦) 昭和18年 教育局1課 先任局員 昭和20年 首相秘書官 終戦時大佐 昭和33年 海上幕僚長 昭和49年 水行会会長
331 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:41:13 ID:JcpuiBzP
4代 中山 定義 海兵54期恩賜 海大36期 庵原前海幕長とは対照的に事務能力は抜群、英語も堪能で アメリカ海軍の受けも良かった。 海軍時代より「切れ者」との評判が高く、海上自衛隊きっての俊英。 米内海相の政治幕僚として政務に通じ、野村駐米大使にも可愛がられた。 昭和28年海将補、翌29年幹部学校校長からはじまって 35年自衛艦隊司令官、36年海上幕僚長と異例のスピード出世であった。 在任中、航空集団、海上訓練指導隊群の新編を行った。 昭和16年 ブラジル大使館付武官補佐官 昭和17年 チリ公使館付武官 昭和18年 海軍省調査課員兼軍務局2課員 昭和20年 海軍省軍務局員兼大本営戦争指導班 終戦時中佐 昭和36年 海上幕僚長
332 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:42:49 ID:JcpuiBzP
5代 杉江 一三 海兵56期 海大37期 終戦直前、第11突撃隊副長を拝命、戦争がもう少し長引けば生きてはいなかった人物。 庵原元海幕長のような大器でも、中山前海幕長のような俊才でもなかったが 万事こまめに手堅い仕事ぶりであったという。 昭和39年 海将としては始めて統合幕僚会議議長になり、 郷里の愛知県で「原潜保有論」を主張、国会の批判を浴びた。 昭和15年 海軍大臣副官兼秘書官 昭和18年 南西方面艦隊参謀 昭和19年 軍務局1課局員 昭和20年 第11突撃隊副長 終戦時中佐 昭和38年 海上幕僚長 昭和39年 統合幕僚会議議長
333 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:45:23 ID:JcpuiBzP
6代 西村 友晴 海兵59期 艦隊司令官も地方総監も経験せず、防衛部長から幕僚副長 そして海幕長となった唯一の人物。 通常海上幕僚長になる条件として、海幕の部長、護衛艦隊(航空集団)の司令官 地方総監の3ポストを経験させることになっている。 この3ポストを充分に経験した人物で第一級の折紙がついた人物が海幕長に推されるのである。 だが西村海幕長は海幕部長になる前に、 第1掃海艇群司令を半年ばかりやっただけで防衛行政=地上勤務一筋であった。 これは中山前海幕長が西村を重宝に使い過ぎたからだ、と言われているが、 さすがに防衛理論と政策の第一人者と目されており、当時内局の海原治も 師事したといわれている。 昭和18年 第3戦隊参謀 昭和19年 愛宕砲術長 昭和20年 終戦時少佐のち中佐 昭和39年 海上幕僚長
334 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:47:59 ID:JcpuiBzP
7代 板谷 隆一 海兵60期恩賜 海上自衛隊中興の祖。 兄・茂は赤城飛行隊長として有名な戦闘機搭乗員で千島にて名誉の戦死を遂げ、 弟板谷も中尉の頃は上海陸戦隊で功名を現し、第2艦隊の沖縄海上特攻作戦では 大和の僚艦軽巡矢矧に乗艦、撃沈され命からがら救助されたという経験を持つ。 昭和32年から1年間、米海軍大学校に留学している。 これは戦争激化のため日本の海軍大学を卒業したのは杉江元海幕長までで、 西村前海幕長以下は海大には進んでいない。 その意味でも板谷の米海大留学の先例は、海上自衛隊幹部たちの期待をふくらませた。 板谷の思想は、海上自衛隊は現在対潜作戦に集中しているが 本来は「空母を主軸とした機動戦力を持つべきである」 との信念を抱き、 対潜作戦のみの訓練演習の有り方に疑問を持っていた。 板谷海将は、海幕長を3年余、統幕議長を2年在任し、この間に5回の観艦式の指揮をとった。 昭和16年 長門分隊長 昭和17年 名取砲術長 昭和18年 鬼怒砲術長 昭和19年 第2水雷戦隊参謀 昭和20年 連合艦隊防備参謀 終戦時少佐のち中佐 昭和41年 海上幕僚長 昭和44年 統合幕僚会議議長 兄 茂(57期)は 赤城飛行隊長(戦死)
335 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:50:04 ID:JcpuiBzP
8代 内田 一臣 海兵63期 冷静沈着で滅多に怒った顔を見せることのなかった好漢。 一臣と書いて「かずとみ」と読むが、しばしば「イッシン」と呼ばれ、 海洋業務隊、資料隊の新編、少年術科学校の新設、第4護衛隊群を新編した。 3年弱の任期後は防衛研修戦史部調査員として戦史の編纂・研究に従事 公刊戦史「大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆を担当。 また昭和57年からは水交会の会長として海軍OBの纏め役となった。 昭和16年 大和分隊長 昭和18年 砲術学校高等科学生 昭和19年 砲術学校教官 終戦時少佐 昭和44年 海上幕僚長 昭和57年 水行会会長
336 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:51:41 ID:JcpuiBzP
9代 石田 捨雄 海兵64期 内田海幕長の後任には、 北村謙一(64)自衛艦隊司令官、石隈辰彦(65)護衛艦隊司令官 などの名前が 挙がっていた。 だが、海幕長には内田海幕長の下で副長を務めた66期である石田捨雄が就任した。 キスカ島撤収作戦時の旗艦阿武隈の通信長で、終戦時は少佐。 第31航空群、第2潜水隊群の新編を実施した。 昭和17年 阿武隈水雷長 昭和18年 兵学校教官兼監事 昭和19年 対潜学校教官兼研究部員 昭和20年 終戦時少佐 昭和47年 海上幕僚長
337 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:53:35 ID:JcpuiBzP
10代 鮫島 博一 海兵66期 搭乗員出身の唯一の海幕長。 若い頃から将来の海上幕僚長と目され、昭和30年始めてアメリカ駐在武官 (防衛駐在官)に派遣されている。 板谷元海幕長の思想を継承して海上機動部隊の創設を目標としており、 航空自衛隊創設の時の反対派の急先鋒であった。 パイロット出身であったが、航空部隊には厳しかったという。 それは愛するが故の厳しさであったか。 昭和16年 龍驤乗組のち分隊長 昭和17年 谷田部空分隊長 昭和18年 練習航空隊特修科学生 昭和19年 航空技術廠飛行実験部員 昭和20年 横須賀航空隊飛行審判部員 終戦時少佐 昭和48年 海上幕僚長 昭和51年 統合幕僚会議議長 平成 2年 水行会会長
338 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:55:52 ID:JcpuiBzP
11代 中村 悌次 海兵67期首席 海兵67期のクラスヘッド。 二佐の頃は小平の官舎住まいで、毎夜2時頃まで勉強し 朝は6時過ぎに家を出て片手でコッペパンを食べながら街灯のスイッチを切りつつ 歩いて駅に向かったという逸話を持つ。 昭和41年 海幕教育第1課長になった時は猛烈課長と評され、 一佐の頃までは「ゴルフに興ずる奴は国賊だ」と言い放ち、 エリート意識が強く完璧主義者であった。 謹厳実直で自分にも他人にも厳しい。まさに仕事の鬼であったと言えよう。 昭和18年 長門分隊長 昭和19年 兵学校教官兼監事 昭和20年 終戦時大尉 昭和51年 海上幕僚長 平成 4年 水行会会長
339 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 21:58:50 ID:JcpuiBzP
12代 大賀 良平 海兵71期 中村前海幕長は、幕僚長は長期間安定していなければならない、として 後任には4期下71期の大賀良平が就任した。 終戦時は大尉で朝鮮戦争には掃海艇長として参加している。 鮫島−中村ラインより引き揚げられ、大急ぎで経歴をつけるべく 昭和50年に海将、51年護衛艦隊司令官、半年後に大湊地方総監、 そして1年も経たずに海幕長と、海将になって3年で海幕長に推しあげられた。 異例の出世である。 だが期待を集めて登場した大賀海上幕僚長も、1年も経たずして胃潰瘍になり 中央病院に入院してしまうこととなった。 急スピード出世とめまぐるしい環境変化が神経をすり減らしたのかも知れない。 結局大賀海幕長は2年余で退官した。 昭和18年 阿武隈乗組 昭和20年 伊202潜航海長 終戦時大尉 昭和52年 海上幕僚長 平成10年 水行会会長
340 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 22:01:15 ID:JcpuiBzP
13代 矢田 次夫 海兵72期 大器晩成型で昇進するたびに人物が大きく見えたという。 昭和46年中村海幕防衛部長のしたで防衛課長を2年間勤め、 その仕事ぶりが認められてから徐々に頭角を現した。 防衛部長までは細かく厳しかったが、 総監、司令官を勤めてからは大局を見て小事は存分に部下に任せた。 海幕長になっても威を張るわけでもなく淡々として、先輩にも謙虚であったという。 昭和19年 水雷学校高等科学生 昭和20年 終戦時大尉 昭和55年 海上幕僚長 昭和56年 統合幕僚会議議長
341 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 22:02:56 ID:JcpuiBzP
14代 前田 優 海兵73期 日本人離れしたマスク、長身の偉丈夫、鋼鉄の性格で部下からは恐れられていた。 前田海幕長の評判は芳しくない。 部隊は事故を起こさぬよう積極的な訓練演習を差し控え、 地方総監部は独自の部隊運用を見送り、 常に前田海幕長の一挙手一投足を見守るというありさまで 結果的に組織を萎縮させ、指揮官の成長を妨げたと言われている。 しかしながら平時に於いても猛将の存在は貴重なものであり、 事勿れ主義による善人ばかりでは武装集団は組織として存立しない、 というのもまた事実であろう。 昭和19年 鳳翔乗組 昭和20年 終戦時中尉 昭和56年 海上幕僚長
342 :
海上幕僚長 :2008/04/28(月) 22:04:41 ID:JcpuiBzP
15代 吉田 学 海兵75期修了 前田前海幕長と打って替わって温厚、柔軟、謙虚で人当たりが良く 同期生がこぞって‘完璧なシーマン’の賛辞を送っている。 昭和58年4月26日 PS1対潜哨戒機が岩国基地で墜落、11人が殉職する事故が発生。 機敏に対応した。 昭和58年 海上幕僚長 平成12年 水行会会長
343 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:08:39 ID:JcpuiBzP
初代 上村 健太郎 東大 昭和5年卒業 航空自衛隊は昭和29年7月の発足である。 警察予備隊から4年、海上警備隊から2年遅れのスタートであった。 初代航空幕僚長の人選を巡って旧陸海軍は対立した。 陸は服部卓四郎と同期の岸本重一(陸士34期 終戦時第8飛行師団参謀長)を擁し、 海は佐薙毅(海兵50期)を立てた。 だが陸の林敬三、海の山崎小五郎に習い、 空も保安庁官房長であった文官・上村健太郎を任命した。 初代の最高指揮官をシビリアンから採用することは、アメリカ政府の意向でもあった。 明治41年生まれの若い上村は、警視庁特高部長の職にあって追放中ではあったが、 聡明な謙虚な人格者として知られていた。 一期二年 40代の若さで退官、その後は道路公団の総裁、内閣官房副長官などを歴任、 いずれもポストに執着せず一期で辞めている。 警視庁特高部長より転任 (公職追放後) 昭和27年 保安庁長官官房長 昭和29年 航空幕僚長 父は陸軍中将 上村良助(10期) 昭和37年 道路公団総裁
344 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:10:35 ID:JcpuiBzP
2代 佐薙 毅 海兵50期 海大32期 陸の推した岸本重一は、結局陸上自衛隊に残り北部方面総監となったので 7歳下の上村の副長を勤めていた佐薙毅が、後任の空幕長に選任された。 実質的には初代の空幕長であり、同時期の海上幕僚長・長沢浩の一期後輩。 戦前アメリカの駐在武官補佐官を経験しており、英語は堪能でアメリカ通。 日曜日には終日洋書を開いて、世界の航空情勢を原書で勉強するのが日課であるほどで、 そのあたりも空幕長に選任された所以とされている。 佐薙空幕長は三年勤務し、政権は鳩山、石橋、岸と代わった。 その間F86Fを米軍から引き受けるまで、 スムーズな成長ぶりであったといえる。 他にもT1練習機、H19ヘリコプターなどの引渡しをうけたのも 佐薙空幕長の時代である。 昭和14年 聯合艦隊航空参謀 昭和17年 軍令部作戦班長 昭和18年 南東方面艦隊先任参謀 兼 第11航艦先任参謀 終戦時海軍大佐 昭和31年 航空幕僚長 昭和45年 水行会会長
345 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:13:02 ID:JcpuiBzP
3代 源田 実 海兵52期 海大35期恩賜 佐薙空幕長の後任人事も、旧陸海軍の間で主導権争いがあった。 有力候補として、陸士37期の俊英・秋山紋次郎元大佐がいた。 大本営航空班長、支那派遣軍航空主任参謀、第100飛行団長などを歴任した 陸軍航空の牽引者で、佐薙空幕長の副長を勤めていたが、 結局三代目空幕長に就任したのは、陸士同期相当(兵52)の源田實であった。 当時、次期主力戦闘機にグラマンF11Fが内定していた。 これに対し、ロッキードF104が猛烈なる巻き返しを図る。 世に言うグラマン=ロッキード戦争である。 そしてアメリカに飛び自らF104に乗って内定を覆したのが、時の空幕長源田實である。 退官後、参議院議員になれたことと、ロッキード機の決定とは おそらく無関係ではないと思われる。 それは別にしても、大戦中のミッドウェー敗北の実質的責任者という意味からも、 知名度の高さに比べ、源田元大佐の評判は芳しくない。 「源田が自衛隊入りするのであれば俺は止める」とした柴田武雄元大佐をはじめ 殊に同期生からは悪評だったという。 しかし、戦後登場したジェット機の操縦を、将官でありながら五十の手習いで 果敢に挑戦するという姿勢は、さすが「源田サーカス」を率いた歴戦の勇士の 面目躍如たるところがあった。 なお、源田空将時代に幕僚長の階級章は4ツ星の大将相当となったが、 これは源田の独断の行動を内局が追認した結果である。 昭和16年 第1航空艦隊参謀 昭和17年 瑞鶴飛行長 昭和20年 第343航空隊司令兼352航空隊司令 終戦時海軍大佐 昭和34年 航空幕僚長 昭和37年 参議院議員
346 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:14:46 ID:JcpuiBzP
4代 松田 武 陸士39期 東大工学部卒 前述の秋山紋次郎元大佐に続く陸軍航空出身のホープとして、松前未曽雄元大佐がいた。 終戦時の下村陸相秘書官で自衛隊では防衛部長を勤めており、 空幕長の有力候補であったが、 就任したのは、一期後輩の39期・松田武元大佐であった。 陸幕長として永く陸自に君臨した林敬三と中学同期の関係から、 空幕長候補として昭和31年に陸上自衛隊の陸幕第4部長から送り込まれた人物。 陸大は出ていないが東大工学部(昭15年卒)に学び、長く軍需省に居た元陸軍大佐。 時の政権は岸信介から池田勇人に代わり、二人の防衛庁長官に仕えている。 また在職中、バッジ・システムを採用した事は特筆される。 退官後は、富士車輌の再建に取り組み、非凡なところを見せた。 昭和16年 航空本部員 昭和18年 軍需省機械局産業機械課長 昭和19年 航空本部整備部部員 兼 軍需省軍需官 昭和20年 軍需省航空兵器総局附 終戦時陸軍大佐 昭和37年 航空幕僚長
347 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:16:10 ID:JcpuiBzP
5代 浦 茂 陸士44期 陸大52期恩賜 5代目の空幕長には、松田前空幕長の副長、浦茂元中佐が就任した。 松田前空幕長より5期下だが、航空自衛隊発足と同時に空幕装備部一課長、 防衛部防衛課長、防衛部長などを歴任、空幕の生え抜きである。 源田元空幕長と同様に、次期FX(主力戦闘機)選定で政治に翻弄され、 最終的には岸元首相=松野頼三防衛庁長官の政治的判断によって、 マクドネル・ダクラスF4に決定した。 陸士44期同期の瀬島龍三が伊藤忠にいて、ノースロップF5を推していたが、 自身の決断により、丸紅=三菱重工の推すロッキードF104改を推した。 選定に漏れたが、丸紅は浦空幕長の労に報いるため 退官後は子会社の副社長に迎えられたという。 なお石川県から衆議院に出る野心もあったと噂されている。 昭和15年 航空本部員 昭和17年 大本営参謀(14課のち3課) 昭和20年 参謀本部3課員兼軍務局課員 終戦時陸軍中佐 昭和39年 航空幕僚長
348 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:17:49 ID:JcpuiBzP
6代 牟田 弘國 陸士43期 「航空自衛隊はパイロット主流でなければならない」という名分で、 航空総隊司令官から第6代空幕長に抜擢されたのが牟田弘國元中佐である。 前空幕長・浦茂空将よりも一期先輩だが年齢は歳下。 陸大は出ていない生粋の歴戦搭乗員で、 幕僚勤務は少なく常に現場を経験してきた人物。 1年半幕僚長に任じた後、陸士43期同期の天野良英陸将の後を襲い、 空将として初の統幕議長を2年勤めた。 昭和16年 飛行第59戦隊附 昭和17年 独立飛84中隊長 昭和19年 常陸教導飛行隊附 昭和20年 第100飛行団長 終戦時陸軍少佐のち中佐 昭和41年 航空幕僚長 昭和42年 統合幕僚会議議長
349 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:19:29 ID:JcpuiBzP
7代 大室 孟 陸士45期 7代目空幕長の候補者としては、浦茂元空幕長の腹心で、 陸士45期恩賜優等の田中耕二元中佐が、早くから有力視されていた。 しかし任じられたのは、陸士同期ではあるが幕僚タイプの田中空将とは対照的な 指揮官タイプの大室空将である。 田中空将は早くから中佐まで進級していたが、前任者である牟田空幕長同様 陸大出身者ではない生粋のパイロットである大室空将は、少佐のまま終戦を迎え、 航空自衛隊創設時は、教官としてパイロット養成に力を傾けていた。 空幕人事部長、北部航空方面隊司令官、空幕副長などを歴任しての就任であった。 昭和16年 下志津飛校附 兼 航空技術研究所員 昭和20年 第1独立飛行隊長 終戦時陸軍少佐 昭和42年 航空幕僚長
350 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:20:53 ID:JcpuiBzP
8代 緒方 景俊 陸士46期 陸大55期首席 人事畑出身で陸大軍刀組の元少佐。 緒方空幕長時代にバッジ・システムの運用が開始された。 しかし、F104Jが金沢市街に墜落し、民間人14人の死者を出す事件が起きた。 さらには佐渡分遣隊の反戦自衛官小西三曹の事件などがあり、 緒方空幕長の時代は良好とは言えなかった。 昭和16年 参謀本部3課員 昭和20年 参謀本部編成班 終戦時陸軍少佐 昭和43年 航空幕僚長
351 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:22:32 ID:JcpuiBzP
9代 上田 泰弘 陸士49期 陸大58期 次期空幕長候補として、空幕防衛部長であった山口二三元少佐(49期)がいた。 ところがバッチ室長時代の部下であった川崎一佐が、 防衛機密を伊藤忠商事に渡したことが発覚、 川崎一佐が逮捕される事件があった。 山口空将補はその責任をとって入水自殺を遂げたため、 第9代空幕長には同期である上田空将が就任した。 就任30日目、悲劇が起こった。 昭和46年7月30日 岩手雫石上空にて全日空58便と松島派遣隊のF86F戦闘機が 接触して墜落、乗客162人全員が死亡するという惨事が起きたのである。 上田空将は事件処理に奔走、事件の全容が解明されたところで引責辞任した。 在職わずか40日であった。 さらに退役後も犠牲者の霊を慰めるために誠意を尽くし、 黙々と162人の慰霊行脚を続けた。 なおこの「雫石事件」の原因は、全日空側にあるとされている。 雫石事件/全日空58便墜落事故により引責辞任
352 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:24:11 ID:JcpuiBzP
10代 石川 貫之 陸士50期 悲劇の上田前空幕長の後に登場したのが、一期後輩である石川貫之元少佐である。 同期に黒江保彦という、飛行第64戦隊いわゆる加藤隼戦闘隊の中隊長を勤めた 戦史に残る空の勇士がおり、次期空幕長とも目されたが、 惜しいことに小松司令のとき海難事故で死亡した。 堂々といた体格で、栄誉ある空自初のジェットパイロットの一人。 率先垂範である一方、第二航空団司令のとき、 千歳の町で餃子の材料を仕入れ、部下に振舞ったことが語り草になっている。 また在職中の沖縄返還に伴い、南西混成航空団を編成、 はじめて日本列島全域の防空体制が完成された。 なお石川空幕長の副長が次の空幕長・白川元春空将で、 幕僚経験の少ない石川幕僚長は白川幕僚副長に助けられることが多かったという。 勇将石川、知将白川のコンビは、雫石事件後の沈滞した航空自衛隊をよく纏め上げた。 昭和16年 飛行第16戦隊中隊長 昭和20年 飛行第246戦隊長 終戦時陸軍少佐 昭和46年 航空幕僚長
353 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:25:55 ID:JcpuiBzP
11代 白川 元春 陸士51期 陸大58期 昭和7年上海事変にあたっての派遣軍司令官・白川義則陸軍大将(陸士1期)の長男。 なお白川大将は、至難なる情勢下よく任務を完遂しながらも 朝鮮人兇漢の爆弾によって死亡している。 正義感が強く、情熱的かつ慎重な行政マンであったという白川元少佐は、 若いころの胸部疾患のため、空自に入ったときパイロットにはなれなかった人物。 白川空幕長時代に、ナイキの第三高射群を巡っての「長沼ナイキ訴訟」があり、 札幌地裁の自衛隊違憲判決は、国内で喧しいものがあった。 空幕長を1年で角田空将に譲り、統幕議長を2年間勤めている。 昭和16年 航空士官学校生徒隊附 昭和20年 南方軍参謀 終戦時陸軍少佐 昭和48年 航空幕僚長 昭和49年 統合幕僚会議議長 父は陸軍大将 白川義則(1期)
354 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:27:55 ID:JcpuiBzP
12代 角田 義隆 海機49期(海兵68期相当) 唯一の機関学校(海兵68期相当)出身の幕僚長。終戦時は海軍大尉。 海上自衛隊では、機関学校出身者は防衛部長や自衛艦隊司令官にはなれない。 まして海幕長には絶対不可である。 しかも兵学校68期には鈴木瞭五郎という武人肌の有力な候補者がいた。 あえて白川前空幕長は、時の事務次官島田豊を説得してまで角田空将を次期幕僚長に据え、 その上、鮫島博一海上幕僚長を訪ねて了解を求めたとも伝えられている。 異色の整備畑出身として、周囲の陸士、海兵出身者にコンプレックスを感じないわけには いかなかったと思われるが、空幕人事課長になってから頭角を表してきた人物。 判断力も調整能力も抜群で、第4高射群のスタート、婦人自衛官の誕生など順調であり、 白川前空幕長が期待したとおりの大器であった。 昭和19年 追浜航空隊分隊長兼教官 昭和20年 終戦時海軍大尉 昭和49年 航空幕僚長
355 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:29:34 ID:JcpuiBzP
13代 平野 晃 海兵69期 次期空幕長の候補として、田中保寿、小川英人、徳丸明など有力な陸士出身者がいたが、 角田空幕長が選んだのは海兵69期の平野晃であった。 角田前空幕長の辞任直前から平野空幕長の着任早々までは、「ミグ25事件」で大騒動であった。 函館には第28連隊があり、本来なら即時接収すべきところを陸は、 「空自の管轄である」と称して言い逃れ、 ベレンコ中尉の尋問及び身柄確保に際しても、 防衛庁、外務省、警察庁、法務省の間で綱引きがあり、 有事法制未整備の日本政府の醜態を天下に晒した。 昭和52年4月、航空自衛隊創設以来の大掛かりな空輸訓練、戦闘機部隊の機動展開を 新田原=小松基地間で実施した。「あおば」と名付けたこの演習は成功裡に終わり、 平野空幕長は面目を施した。 生長の家の熱心な信者であったという。 昭和18年 練習航空隊飛行学生 昭和19年 百里原航空隊分隊長兼教官 昭和20年 終戦時海軍大尉 昭和51年 航空幕僚長
356 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:31:01 ID:JcpuiBzP
14代 竹田 五郎 陸士55期 二代続けての海軍出身者に後塵を拝した陸士の輿望を担って登場したのが、 第14代の竹田空将である。 自衛隊発足までロクな仕事にありつけなかった旧軍人は多数いたが、 竹田元大尉は戦後の一時期、平和台球場でアイスキャンディーを売っていたことも あったという。 南混団司令で苦労したのち北空司令官、総隊司令官と、パイロットとして栄達を極め、 1年で第15代の山田良市空将に幕僚長を譲り、統幕議長を1年半やって退官した。 退官直前に「専守防衛」に疑問を投げかけた談話を雑誌に発表、物議を醸した。 昭和19年 飛行第244戦隊附 昭和20年 終戦時陸軍大尉 昭和53年 航空幕僚長 昭和54年 統合幕僚会議議長
357 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:32:42 ID:JcpuiBzP
15代 山田 良市 海兵71期 戦時中は第343航司令源田實大佐の下で分隊長を勤めていた。 戦後は、上官にあたり惜しくも戦死した歴戦のパイロット 戦闘701飛行隊長・鴛淵孝大尉(68)の末妹と結婚、 渋谷の映画館の支配人や建築会社勤務を経て、 空自発足と同時に志願して一尉で入隊する。 戦後9年間は「いつも飛びたい、飛ぶなら戦闘機」と思い続けていた。 直情径行に似合わず、公私の峻別ははっきりしており、 部下のパイロットには尊敬されている好漢。 新しい戦技を見事に文章化するという文才に長じ、なかなかの勉強家であるという。 パイロットの飛行時間低下の傾向を食い止めたり、 アラートハンガーに待機中の戦闘機にミサイル搭載を決断したり、 名指揮官として数々のエピソードが伝えられている。 昭和20年 第343航 戦闘701分隊長 終戦時海軍大尉 昭和54年 航空幕僚長
358 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:34:15 ID:JcpuiBzP
16代 生田目 修 陸士58期 要撃管制出身。終戦時は陸軍少尉。 幕僚勤務が多く、指揮官としての経験が不足がちであった。 そのため部隊の実情や兵員の心理の把握に難があったともされている。 また、同じ時期の海上幕僚長・前田優海将に似て「暴君」であったとも言われているが バッジXを決定した功績者でもあった。 昭和20年 終戦時陸軍少尉 昭和55年 航空幕僚長
359 :
航空幕僚長 :2008/04/28(月) 22:35:47 ID:JcpuiBzP
17代 森 繁弘 陸士60期修了 幼年学校から陸士60期に進み、在校中に終戦を迎えた。 生田目・前空幕長とは対称的に明るくさっぱりした性格であると同時に、 熟慮断行型の武将である。 酒は飲まないものの酒席には喜んで出席、浪曲をうなりカラオケでは美声を披露し、 社交ダンスも上手く、米軍人の夫人たちにも評判が高かった。 モスクワの駐在武官の経験があり、空幕勤務も適当で、指揮官としてもバランスがとれていた。 SAMX=ペトリオットの決定者でもある。 自衛隊最後の旧軍出身者として統幕議長を勤め、有終の美を飾った。 昭和58年 航空幕僚長 昭和61年 統合幕僚会議議長
360 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 22:50:43 ID:JcpuiBzP
Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz (* 1. Juli 1780 als Carl Philipp Gottlieb Claußwitz in Burg bei Magdeburg, † 16. November 1831 in Breslau) war ein preußischer General und Militärtheoretiker. Clausewitz wurde durch sein Hauptwerk Vom Kriege bekannt. Seine Theorien über Strategie, Taktik und Philosophie hatten großen Einfluss auf die Entwicklung des Kriegswesens in allen westlichen Ländern. Seine Theorien werden bis heute an allen wichtigen Militärakademien gelehrt und finden zudem im Bereich der Unternehmensführung sowie im Marketing Anwendung.
361 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 22:54:07 ID:JcpuiBzP
Herkunft [Bearbeiten]Die Herkunft von Clausewitz ist umstritten. Als Sohn des Steuereinnehmers Friedrich Gabriel Clausewitz wurde er vermutlich am 1. Juli 1780 in Burg (bei Magdeburg) geboren. Nach seinen eigenen Angaben stammte seine Familie aus einem oberschlesischem Adelsgeschlecht. Wahrscheinlich hatte sich sein Urgroßvater den Namen „von Clausewitz” erst in den Wirren des Dreißigjährigen Krieges zugelegt. Danach war der Großvater Benedict Gottlob Clausewitz als bürgerlicher Theologielehrer an der Universität Halle beschäftigt. Da aber Clausewitz und zwei seiner Brüder problemlos als Adelige in die preußische Armee aufgenommen wurden, ist davon auszugehen, dass man die adelige Herkunft der Familie anerkannte, auch wenn sie sich nicht nachweisen ließ.
362 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 22:54:46 ID:JcpuiBzP
Bis zu seinem 12. Lebensjahr erhielt Clausewitz nur eine sehr eingeschränkte Ausbildung an einer lokalen Lateinschule. Durch gute Beziehungen des Vaters, der selber als Offizier im Siebenjährigen Krieg gedient hatte, zum preußischen Offizierskorps konnte der Sohn im Frühsommer 1792 als „von Clausewitz” in das Infanterie-Regiment Nr. 34 eintreten, wo er Fähnrich wurde. Zu diesem Zweck fälschte die Familie sein Geburtsdatum auf den 1. Juni, um ihn älter scheinen lassen
363 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 22:56:23 ID:JcpuiBzP
Erste Dienstjahre [Bearbeiten] Marie von Clausewitz (1779–1836) nach einer Lithographie der ZeitIm Jahre 1793 zog das Regiment in den Ersten Koalitionskrieg, wo er bei der Belagerung von Mainz erste Kriegserfahrungen sammelte. Danach folgte der lange Feldzug am Rhein bis der Friede von Basel den Krieg für Preußen beendete. Das Regiment wurde zurück in seine Garnison Neuruppin verlegt. In den Jahren 1796 bis 1801 fand Clausewitz dort Zeit, sich seinen Studien zu widmen. Er las die zeitgenössische Literatur über die Französische Revolution, das Kriegswesen und die Politik, besuchte aber auch Vorträge über Logik und Ethik.
364 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 22:57:35 ID:JcpuiBzP
Dank bester Empfehlungsschreiben gehörte er im Oktober 1801 zum ersten Jahrgang der von Gerhard von Scharnhorst neu gegründeten Kriegsschule in Berlin. Hier wurde er maßgeblich durch das Denken Scharnhorsts beeinflusst, der bereits die Zusammenhänge von Politik und Kriegführung begriffen hatte. Auch mit den Schriften Immanuel Kants wurde er an der Akademie vertraut. Als Mitglied der Militärischen Gesellschaft, einem Diskussionsforum für höhere preußische Offiziere, kam er mit den drängendsten Fragen des damaligen Militärs in Berührung und ein unveröffentlichtes Manuskript (heute bekannt als Strategie von 1804) bezeugt, dass er schon in jener Zeit an die Verfassung militärischer Schriften dachte. Im Jahre 1804 graduierte Clausewitz als Bester seiner Klasse und fand danach als Adjutant des Prinzen August von Preußen Verwendung. Somit hatte er Zugang zum Hof und zur höheren Gesellschaft, wo er auch seine spätere Frau Marie von Brühl kennenlernte. Im Jahr darauf erschien in der Zeitschrift Neue Bellona anonym ein von ihm verfasster Artikel, der gegen das Werk des Militärschriftstellers Dietrich Adam Heinrich von Bülow gerichtet war und als erste Veröffentlichung von Clausewitz gilt.
365 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:00:03 ID:JcpuiBzP
Teilnahme an den Napoleonischen Kriegen [Bearbeiten]Im Jahre 1806 zog Clausewitz als Stabskapitän und Adjutant in den Vierten Koalitionskrieg. Nach der Schlacht bei Jena und Auerstedt am 14. Oktober 1806 wurde er zusammen mit dem Prinzen gefangen genommen und verbrachte ein Jahr in französischer Kriegsgefangenschaft. Hier analysierte er in seinen Historischen Briefen über die großen Kriegsereignisse im October 1806 die Niederlage der preußischen Armee. Nach seiner Rückkehr holte ihn Scharnhorst 1809 in seinen persönlichen Stab. Von da an arbeitete er als einer der wichtigsten Reformer an der Reorganisation des Heeres.
366 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:00:40 ID:JcpuiBzP
Im Jahre 1810 wurde er zum Major befördert und diente als Scharnhorsts Bürochef sowie als Lehrer für Generalstabsdienst und Taktik. Darüber hinaus unterrichtete er als Hauslehrer auch die preußischen Prinzen (darunter auch den Kronprinzen und späteren Deutschen Kaiser Wilhelm I.)
367 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:01:33 ID:JcpuiBzP
Da er sich 1812 moralisch nicht in der Lage fühlte, Napoleon I. in seinem Krieg gegen Russland zu unterstützen, verließ er die Armee und trat in russische Dienste. Seinem Freund Gneisenau hinterließ er eine patriotische Denkschrift, welche erst in den 30er Jahren des 20. Jahrhunderts entdeckt und unter dem Titel Bekenntnisschrift von 1812 veröffentlicht wurde. Er nahm an allen wichtigen Schlachten teil und übernahm bei der Konvention von Tauroggen eine wichtige Vermittlerrolle. Der preußische König Friedrich Wilhelm III. weigerte sich anschließend, den Fahnenflüchtigen wieder in preußische Dienste zu übernehmen. So machte Clausewitz die Befreiungskriege als Stabschef eines russischen Korps mit, bis es ihm im April 1814 erlaubt wurde, als Oberst nach Preußen zurückzukehren.
368 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:02:14 ID:JcpuiBzP
Im Jahre 1815 nahm er noch einmal als Stabschef eines preußischen Korps an dem Feldzug gegen Napoleon teil, der in der Schlacht bei Waterloo gipfelte.
369 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:03:54 ID:JcpuiBzP
Dienst während der Restaurationszeit [Bearbeiten]In den folgenden drei Jahren diente Clausewitz als Stabschef bei August Neidhardt von Gneisenau in Koblenz. Da alle liberalen Reformer während der Restauration unerwünscht waren, versetzte man sie auf wenig einflussreiche Posten. Clausewitz wurde 1818 zum Direktor der Allgemeinen Kriegsschule in Berlin berufen, ohne aber die Erlaubnis zu bekommen, dort auch lehren zu dürfen. Im September erfolgte auch seine Beförderung zum Generalmajor. Mit 38 Jahren war er der jüngste General der preußischen Armee. Dieser Posten befriedigte ihn nicht, aber alle Versetzungsanträge wurden abgelehnt, obwohl er ab 1821 wenigstens in den Generalstab aufgenommen wurde. Um 1823/1824 entstand mit Nachrichten über Preußen in seiner größten Katastrophe ein weiteres Werk, das sich erneut mit den Geschehnissen des Jahres 1806 beschäftigte. Allgemein ließ ihm der Posten an der Kriegsschule viel Zeit zu eigenen Arbeiten. Sein Hauptwerk Vom Kriege entstand in jener Zeit. Im Jahre 1827 wurden Clausewitz und seine Brüder offiziell vom preußischen König geadelt. Dies war nichts anderes als eine Bestätigung des Familienadels, den die Familie bisher nicht eindeutig hatte nachweisen können. Erst 1830 wurde er versetzt, zuerst zur Artillerie-Inspektion nach Breslau. Aber schon im Juli des Jahres kam es zum Polnischen Insurrektionskrieg und Clausewitz wurde zum Stabschef des preußischen Observationskorps unter Gneisenau berufen. Die russischen Truppen brachten die Cholera nach Polen, die sich bald über ganz Europa ausbreitete. Auch Gneisenau starb daran, und Clausewitz übernahm die Befehlsgewalt über die preußischen Truppen. Doch auch er erkrankte an der Cholera, kehrte im Herbst 1831 nach Breslau zurück und starb wenige Tage darauf am 16. November 1831 im Alter von 51 Jahren. Zwischen 1832 und 1837 gab seine Witwe Marie von Clausewitz auf eigene Kosten die hinterlassenen Schriften des Generals heraus.
370 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:05:38 ID:JcpuiBzP
Allgemeines Clausewitz wandte sich gegen die Systemmacher. Seiner Ansicht nach konnte man Kriegstheorie nicht als konkrete Handlungsanweisung für Generäle betreiben. Er wollte stattdessen generelle Prinzipien aufzeigen, die sich aus dem Studium der Geschichte und aus dem logischen Denken ergaben. Auch wenn er Typisches behandelte, wies er ständig auf den Realitätsbezug seiner Prinzipien hin. So meinte er, dass Feldzüge nur zu einem sehr geringen Grade geplant werden könnten, da unkalkulierbare Einflüsse oder Ereignisse, sogenannte „Friktionen”, jede zu detaillierte Vorausplanung schon nach wenigen Tagen gegenstandslos machen würden.
371 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:07:17 ID:JcpuiBzP
Clausewitz’ Definition des Krieges Aus der Bekenntnisschrift von 1812 wird ersichtlich, dass Clausewitz bis zu diesem Zeitpunkt einer eher existenziellen Interpretation von Krieg anhing. Das heißt, dass er Krieg als höchste Form der Selbstbehauptung eines Volkes ansah. Dies entsprach in jeder Hinsicht dem Geist der Zeit, in der die „Französische Revolution” und die Konflikte, die aus ihr erwuchsen, zur Ausbildung von Wehrpflichtarmeen und Guerilla geführt hatten. Solche Volksbewaffnungen und Volkskriege unterstützten die Interpretation des Krieges als existenzieller Kampf. In den folgenden Jahren hingegen schränkte Clausewitz diese Auffassung stark ein und erklärte, dass der Krieg eher als Instrument diene. „Der Krieg ist also ein Akt der Gewalt, um den Gegner zur Erfüllung unseres Willens zu zwingen.”. (Vom Kriege, Buch I, Kapitel 1, Abschnitt 2) Eine der provokantesten Thesen des Buches Vom Kriege war die Feststellung, dass ein Krieg erst mit der Verteidigung des Angegriffenen beginne. Ohne Verteidigung würde es nicht zu bewaffneten Kämpfen kommen, die Clausewitz für die Grundlagen jeden Krieges hielt. Er empfahl durch den Aufbau einer möglichst großen Armee einen potentiellen Gegner abzuschrecken. Der hier formulierte Abschreckungsgedanke des Verteidigungskrieges war weder neu noch einzigartig, wurde aber eine vielproklamierte Grundlage für das Wettrüsten vor dem Ersten Weltkrieg und im Kalten Krieg
372 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:09:24 ID:JcpuiBzP
Die Achse von Zweck, Ziel und Mittel Clausewitz analysierte die Konflikte seiner Zeit anhand einer Achse aus Zweck, Ziel und Mittel. Jeder Krieg hat nach Clausewitz einen Zweck, der im Wesentlichen darin bestehe, „dem Gegner unseren Willen aufzuzwingen”. Der genaue Zweck wird von der Politik bestimmt. Um den Zweck zu erfüllen, muss der Gegner wehrlos gemacht werden, was bedeutet, dass die gegnerischen Streitkräfte ausgeschaltet werden müssen. Dieses Ziel wird von der Strategie verfolgt und kann in verschiedenen Vorgehen bestehen. (Vernichtung des Heeres in einer Schlacht, Entziehen der Versorgungsbasis o.a.). Als Mittel zum Erreichen des gesetzten Zieles dient alles, worin der menschliche Verstand ein Hilfsmittel entdeckt, also alle moralischen und physischen Kräfte eines Staates (nicht nur die Streitkräfte). Aus dieser Zweck-Ziel-Mittel-Achse ergibt sich auch die Bedeutung des bekanntesten Zitates Clausewitz’: „Der Krieg ist eine bloße Fortsetzung der Politik mit anderen Mitteln” (Vom Kriege I, 1, 24). Gemeint ist damit, dass das Militär der Politik stets untergeordnet ist. Die Politik bestimmt demnach durch den Zweck die Anwendung von militärischer Gewalt, also von Krieg, als Mittel zur Lösung eines Konflikts. Der Krieg ist so der Politik immer untergeordnet.
373 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:12:17 ID:JcpuiBzP
Absoluter und Wirklicher Krieg Die Aussage Clausewitz’, dass alle moralischen und physischen Kräfte eines Staates als Mittel im Krieg eingesetzt werden könnten, legte den Gedanken an eine totale Kriegführung nahe. Clausewitz selbst beschrieb die sogenannten Wechselwirkungen der Eskalation, die zu einer Totalisierung der Kriegführung führen würden: 1. Der, der sich rücksichtslos aller ihm zur Verfügung stehenden Mittel bedient, muss ein Übergewicht über seinen Gegner bekommen, sofern dieser nicht das gleiche tut; dadurch steigern sich beide zum Äußersten. 2. Solange man seinen Gegner nicht bezwungen hat, läuft man Gefahr, selbst bezwungen zu werden. 3. Da keiner der Gegner die Entschlossenheit seines Feindes genau einzuschätzen vermag, wird jeder versuchen, so entschlossen wie möglich zu sein. Das Resultat einer solchen Entwicklung wäre die Einbeziehung aller staatlichen Mittel, was Clausewitz als Absoluten Krieg bezeichnet. Es handele sich dabei um ein logisch zu Ende gedachtes Modell, das jedoch in der Wirklichkeit gar nicht vorkommen könne, weil es unrealistische Annahmen enthielte: 1. Der Konflikt zweier Parteien müsste gänzlich isoliert ausgetragen werden, ohne Einmischung durch dritte Parteien – dies aber komme nicht vor. (Vgl. die ceteris paribus-Klausel). 2. Der Konflikt dürfte nur aus einer einzigen Entscheidung bestehen, nämlich der, ob er kriegerisch oder friedlich gelöst wird – er sei aber immer ein Prozess. 3. Mögliche Folgen und Kalkulationen (z. B. die Aussicht auf Frieden und eine Zeit nach dem Krieg) dürften keinen Einfluss auf die Handlungen der Parteien haben – in Wirklichkeit seien sie immer vorauszusetzen. Er konfrontierte also das Denkmodell des „absoluten Krieges” (einen Idealtyp) mit einem Erfahrungsmodell des „wirklichen Krieges” (einem Normaltyp), und dieser müsse immer unterhalb der Möglichkeiten eines Absoluten Krieges bleiben. In den Publikationen der modernen Kritiker Clausewitz’ wurde er hingegen immer wieder als Vordenker des totalen Krieges und der Katastrophen der Weltkriege bezeichnet, ohne dass seine der Realität verpflichteten Einschränkungen des Wirklichen Krieges beachtet worden wären. Der Begriff totaler Krieg hat nichts mit der Theorie Clausewitz zu tun, sondern geht auf Ludendorffs gleichnamiges Buch von 1937 zurück, in dem dieser ausdrücklich der Clausewitzschen Theorie widersprach.
374 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:13:56 ID:JcpuiBzP
Definition von Taktik und Strategie Für Clausewitz war die Grundlage jeder Kriegführung die Fähigkeit der Streitkräfte zu kämpfen. Somit kam dem Gefecht eine zentrale Bedeutung zu und die Taktik war für Clausewitz „Die Lehre vom Gebrauch der Streitkräfte im Gefecht”. Die Strategie hingegen „ist die Lehre vom Gebrauch der einzelnen Gefechte zum Zweck des Krieges” (Vom Kriege II, 1). Der Historiker Hans Delbrück wies darauf hin, dass schon Clausewitz einen Unterschied zwischen „Niederwerfungsstrategie” und „Ermattungsstrategie” machte. Clausewitz war also nicht der einseitige Prediger der Vernichtungsschlacht, als den ihn Kritiker oft darstellten. In den Rahmen der Taktik fällt auch die Clausewitzsche Theorie des Guerillakrieges. Darin betrachtete er diese Form der Kriegführung als die geeignetste, um einen Volkskrieg zu führen, was noch wesentlich auf eine existentielle Auffassung von Krieg hinweist. Er hatte dabei das Beispiel Spaniens vor Augen, das zwischen 1808 und 1814 einen solchen Krieg gegen die Truppen Napoleons durchstand. Diese Kampfform, die Clausewitz als Kleinen Krieg bezeichnete, war nichts völlig Neues, aber Clausewitz kommt das Verdienst zu, eine geschlossene Theorie der Guerilla entwickelt zu haben. Diese war noch für Mao Zedong im Chinesischen Bürgerkrieg sehr bedeutsam.
375 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:16:12 ID:JcpuiBzP
Angriff und Verteidigung Clausewitz hielt die Verteidigung für die überlegene Kampfform, da sie weniger Kräfte verbrauche. Verteidigung bedeute für ihn jedoch nicht das statische Abwarten eines gegnerischen Schlages, sondern flexibles Manövrieren. Derjenige, der sich strategisch in der Verteidigung befindet, kann nach Clausewitz’ Theorie trotzdem taktisch offensiv vorgehen. (Ein Beispiel für eine derartige Offensiv-defensiv-Strategie sind die Feldzüge des Generals Robert E. Lee während des Amerikanischen Bürgerkrieges 1861–1865.) Der Verteidiger sollte nach Clausewitz solange in der Defensive verbleiben, bis die Kräfte des Angreifers erlahmten und der Verteidiger somit ein Übergewicht erlangt hätte. An diesem „Kulminationspunkt des Sieges” kann der Verteidiger in die Offensive übergehen, um den Krieg siegreich zu beenden. Die Standardbeispiele eines solchen Vorgehens waren der Russlandfeldzug Napoleons 1812 (in dem der Kulminationspunkt mit dem Scheitern der Einnahme Moskaus erreicht worden war) und der Feldzug der deutschen Wehrmacht gegen die UdSSR, wo man den Kulminationspunkt im Spätsommer 1942 ansetzen kann. Es ist trotzdem falsch anzunehmen, dass der Kulminationspunkt immer dem größten Geländegewinn entspricht. So sehen manche Historiker ihn im Fall des Krieges gegen die Sowjetunion 1941–1945 auch schon nach der Kesselschlacht bei Smolensk erreicht.
376 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:17:46 ID:JcpuiBzP
Rezeption im 19./20.Jahrhundert Friedrich Engels beschäftigte sich in den 1850ern, nach der gescheiterten Revolution von 1848, mit Clausewitz’ Theorien, um die historisch-materialistischen revolutionären Ansätze um eine praktische militärische Komponente zu bereichern. Engels und Marx übernahmen von ihm unter anderem die Ansichten über Angriff und Verteidigung sowie über den Partisanenkrieg. In ihren umfangreichen Kommentaren zum Italienkrieg (1859) und dem Amerikanischen Bürgerkrieg (1861–1865) legten sie dar, wie eng ihre Anlehnung an den Preußen in Sachen der politischen und strategischen Ansichten war. Für ein eingehendes Studium spricht vor allem die Fülle an Clausewitz-Zitaten, die sich in ihren Briefen wiederfinden.
377 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:18:46 ID:JcpuiBzP
In der militärischen Fachwelt gewann Clausewitz’ Werk jedoch zunächst wenig Aufmerksamkeit. Erst der Chef des deutschen Generalstabes Helmuth von Moltke verhalf dem Buch Vom Kriege zu breiter Anerkennung. Moltke reduzierte jedoch Clausewitz’ Theorien auf ihr strategisches Kalkül, indem er meinte, die Politik bestimme lediglich den Beginn des Krieges. Während des Krieges selbst müsse sie sich jedoch dem Militär unterordnen. Diese Sichtweise wurde im Generalstab bereits nach Bismarcks Sturz 1890 und dann bis zum Ersten Weltkrieg zur Tradition, so dass die Politik in der Julikrise 1914 vom Generalstab bestimmt wurde.
378 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:20:25 ID:JcpuiBzP
Lenin hingegen fertigte während seines Schweizer Exils ein Exzerptheft über das Werk Vom Kriege an, um sich auf die Russische Revolution vorzubereiten. Der Schwerpunkt von Lenins Interesse lag dabei auf dem Verhältnis von Krieg und Politik, dem Angriff und der Verteidigung, sowie der Moral. Als den wichtigsten Abschnitt bezeichneter er selbst jedoch den Teil, in dem Clausewitz explizit auf die Unterordnung des Krieges unter die Politik hinwies. Unter dem Stalin-Regime wurde die Wirkung Clausewitz’ auf die Entwicklung des Marxismus-Leninismus hingegen geleugnet. In der deutschen Reichswehr besann man sich unter Generalstabschef Beck auf das Primat der Politik zurück, und als Adolf Hitler nicht nur zum politischen, sondern 1934 auch zum militärischen Staatsoberhaupt aufstieg, stellten politische Ziele scheinbar wieder die Leitlinien für die militärischen Zielsetzungen dar. Da aber „Politik” hier die persönlichen Zielsetzungen Hitlers bedeutete, entfernte er sich weit von deren Verständnis bei Clausewitz. Hierin, und nicht in einem staatsmännischen Verständnis von Politik, lag Hitlers Zerwürfnis mit seinem 1923er Mitputschisten Erich Ludendorff, der noch 1936, ein Jahr vor seinem Tod, konstatiert hatte: „Alle Theorien von Clausewitz sind über den Haufen zu werfen. Darum hat die Politik der Kriegsführung zu dienen.” (Der Totale Krieg, 1936, S.10). Beide Standpunkte entsprachen Clausewitz so wenig wie nur irgend möglich. Vielleicht konnte sich auch deshalb der „wirkliche” dem „absoluten” Krieg so stark annähern, wie in den Jahren von 1939 bis 1945.
379 :
Carl von Clausewitz :2008/04/28(月) 23:22:17 ID:JcpuiBzP
In Großbritannien vermutete man den Einfluss von Clausewitz auf die deutsche Strategie erst während des Ersten Weltkrieges, während schon einige Jahre zuvor eine Rezeption in Frankreich eingesetzt hatte. In den USA erkannte man Clausewitz’ Wirkung sogar erst kurz vor dem Zweiten Weltkrieg. Seit Beginn des Atomwaffenzeitalters wird von manchen Militärhistorikern die Gültigkeit der Clausewitz´schen Theorien angezweifelt, zuletzt in den 1990ern durch John Keegan. Dem zum Trotz ist Clausewitz’ Hauptwerk Vom Kriege zu einem der am weitesten verbreiteten Bücher der Erde geworden, dessen Inhalt bis heute an allen Militärschulen gelehrt wird. In Deutschland kam es sogar zur Gründung der Clausewitz-Gesellschaft, deren Ziel es ist aus den Gedanken Carl von Clausewitz’ Nutzen für die Gegenwart zu ziehen. Auch in nicht-militärischen Bereichen beschäftigte man sich mit Clausewitz. So sind seine Theorien auch Inhalt des Lehrplanes der Harvard University und verschiedener anderer Managementschulen. Auch die Boston Consulting Group gab ein Buch über dieses Thema heraus.
380 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:41:50 ID:JcpuiBzP
Gaius Iulius Caesar Octavianus Augustus
381 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:43:13 ID:JcpuiBzP
Tiberius
382 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:43:44 ID:JcpuiBzP
Caligula
383 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:44:09 ID:JcpuiBzP
Claudius
384 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:44:38 ID:JcpuiBzP
Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus
385 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:45:11 ID:JcpuiBzP
Servius Sulpicius Galba
386 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:45:35 ID:JcpuiBzP
Marcus Salvius Otho
387 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:46:05 ID:JcpuiBzP
Aulus Vitellius Germanicus
388 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:46:30 ID:JcpuiBzP
Titus Flavius Vespasianus
389 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:47:02 ID:JcpuiBzP
Titus Flavius Vespasianus
390 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:47:22 ID:JcpuiBzP
Titus Flavius Domitianus
391 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:47:46 ID:JcpuiBzP
Marcus Cocceius Nerva
392 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:48:21 ID:JcpuiBzP
Marcus Ulpius Nerva Traianus
393 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:49:09 ID:JcpuiBzP
Publius Aelius Traianus Hadrianus
394 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:49:37 ID:JcpuiBzP
Titus Aurelius Fulvius Boionius Arrius Antoninus Pius
395 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:50:02 ID:JcpuiBzP
Marcus Aurelius Antoninus Augustus
396 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:50:35 ID:JcpuiBzP
Lucius Ceionius Commodus Verus (natus die 15 Decembris 130- Altini obiit anno 169)
397 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:51:17 ID:JcpuiBzP
Gaius Avidius Cassius (natus circa anno 130 in Kyrrhos - obiit mense Iulii 175)
398 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:51:57 ID:JcpuiBzP
Marcus Aurelius Commodus Antoninus
399 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:52:25 ID:JcpuiBzP
Publius Helvius Pertinax (1 Augusti 126 - 28 Martii 193)
400 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:52:47 ID:JcpuiBzP
Marcus Didius Salvius Iulianus Severus (133/137 – 193)
401 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:53:21 ID:JcpuiBzP
Gaius Pescennius Niger (ca. 140–194)
402 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:54:04 ID:JcpuiBzP
Decimus Clodius Septimius Albinus
403 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:54:35 ID:JcpuiBzP
Lucius Septimius Severus
404 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:55:22 ID:JcpuiBzP
Marcus Aurelius Antonius (cognomen Caracalla dat) (4 Aprilis 186 - 8 Aprilis 217)
405 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:55:50 ID:JcpuiBzP
Marcus Opellius Macrinus (natus Caesareae Iol Mauretaniae anno 165; interfectus mense Iunio 218)
406 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:56:20 ID:JcpuiBzP
Marcus Opellius Diadumenianus (natus die 14 Septembris 208 - obiit aestate anni 218)
407 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:56:40 ID:JcpuiBzP
Varius Avitus Bassianus (203-222)
408 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:57:32 ID:JcpuiBzP
Alexander Severus
409 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:58:11 ID:JcpuiBzP
Maximinus Thrax
410 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:58:39 ID:JcpuiBzP
Gordianus I
411 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:59:09 ID:JcpuiBzP
Gordianus II
412 :
Index Imperatorum Romanorum :2008/04/28(月) 23:59:33 ID:JcpuiBzP
Pupienus
413 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:04:44 ID:z2Ylrs4g
軍隊というのは、本来は政府の外側にある組織であり、その行動において政治家が自由に口を挟める存在ではありません。 それは政治家が軍を私物化することを避ける為、ほとんどの国において常識とされているものです。 したがって軍には、独自の裁判制度があり、軍法があります。 軍人は国内法に従う必要は無く、軍法のみに従います。そして軍法によって活動根拠を与えられ、軍法によって裁かれます。 軍人は政府に忠誠を誓いません。軍人は政府ではなく、国家に服従し、国家元首に忠誠を誓う存在です。 たとえ政府の首長が命令しても、国家元首が承認しない命令に従う必要は無いのです。 (日本で言われる『シビリアンコントール』というのは、間違った使われ方をしているのが分かると思います) そして、もし政府が国民・国家に対して良くない政治を行っている場合、国家元首に忠誠を近い国家に服従する軍隊は、その政府を倒す義務を負います。 いわゆるクーデターです。 だから軍隊というのは、国民に愛され、尊敬される存在であるのです。 近年、タイで起こったクーデターは軍人が皆、国王のイメージカラーである黄色いリボンを巻いていました。 そして国民から、このクーデターに対して拍手喝采で迎えられました。 これが軍隊というものです。 植民地時代にアメリカ人が突き付けた現憲法を破棄し、自衛隊を軍隊にしなくてはなりません。 現状の自衛隊は政府の中の一機関であり、国民軍とはかけ離れた存在です。海外派遣を巡る一連の騒動も、自衛隊が軍隊でない為に起こっていることです。 ただし、例外があります。 一旦、海外へ出た自衛隊は、当然ながら国際法に従います。どこの領海でも無い公海上で活動する海自艦艇はなおさらです。 国際法上、軍人以外で武装している者はテロリストか海賊です。 防衛省及び外務省は公式に、自衛官に対して対外的に通用する英語表記の軍隊の階級を名乗るよう指導しています。 つまり海外では、自衛官は日本国の軍人として行動することになっています。 この矛盾を解消するためにも、現憲法の破棄、国際法上の問題が生じない新憲法を創設する必要があります。
414 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:07:53 ID:z2Ylrs4g
自衛隊の指揮権は、法律によって内閣総理大臣にある。 しかし、国軍となれば、指揮権ではなく、統帥権というかたちとなって、天皇陛下が持つ。 日本は、大東亜戦争に負けたが、国体は護持された。 日本国軍隊は連合軍に無条件降伏し、無くなったために、陛下は統帥権そのものを失った。 しかし、ここで憲法第9条が改正され、国軍が復活すれば、国家成立の根幹であるところの天皇制に基づいて、天皇陛下の持つ国軍の統帥権が復活することになる。 そうなってこそ、日本は立憲君主制国家として、本当の意味での独立国家となり、国際社会が対等関係を認める、名実共に国家となる。
415 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:11:35 ID:z2Ylrs4g
日本人の悪いところ。熱に浮かされたように一定の方向に流れてしまうところ。先の大戦でも、負けて しまうと、東条が、天皇がとかまびすしいが、一般国民もアサヒやマイニチの報道等に押されて走って しまったところがある筈です。既に総力戦と化していたことを忘れて、石油はインドネシアから持って くる等、運搬することを考慮していない、幼稚な有様。当時、国産のトラックも使い物にならず、フォード 等が圧倒的に良く出来ていたとのことです。栗林中将はここが分かっていたが、なす術もなく、せめて イオウジマが制圧されるのを少しでも遅らせることに尽力されたのでしょう。レーダーの重要性も 軍のトップは理解してなかった。対戦者攻撃用の可動兵器もなかった。負けるのはある意味当然です。
416 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:12:18 ID:z2Ylrs4g
『無血革命』に成功した明治以来の総決算が敗戦に終わりました。日本は明治以降、懸命に 欧米の模倣を行い、国力は増加しましたが、自由民権は本物にならなかったのではないか? そんな気がします。アメリカさんが進駐してある意味ラッキーだった。そうも言えるのでは ないでしょうか?GHQは色んな流れがあったでしょうが、披占領国民にも布告を出し、説明 をする。こんなことは日本人は経験していなかった筈です。米兵も下級兵士はともかく、指導 層は、学生時代のホームステイの経験では、実にインテリです。敗戦のショックから、自国の の防衛に対し、真剣に考えたくない。これは分かります。だが、もう60年も経過したのです から、そろそろ仕切り直しをすべき時期でしょう。
417 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:13:18 ID:z2Ylrs4g
日本が誇る海軍の零式や陸軍の隼等も、小馬力だが運行性能に優れていたが、重量を軽減する 為、敵機からの攻撃に弱い、その為戦争末期には紫電改等の大馬力機がやっと登場した頃には 操縦士が足りず、数で比較にならない有様。軽量化の要求は、馬力が小さかったせいでも ありますが、パイロットからの要望でもあったらしい。人命軽視という声もありますが、一番 問題なのは高馬力の飛行機エンジンをなかなか作れなかった。これから派生しています。
418 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:14:17 ID:z2Ylrs4g
議論は変なたとえですが、タマネギの皮を剥く作業に似ています。どんどん剥いて中に何か あるのかと探しても結局何も無かったりね。ここで、お互いに自分の仮説に基づいて、論争 するのが価値あるやり方であって、自分の腹の中を開示せず、模様眺めとか他人の書いたもの に茶々を入れるだけでは、議論が深まりません。反対だから、反対という態度はかっての 社会党委員長、土井たか子がやってのけた馬鹿さに似ていますよ。こういうのを不毛と表現 します。
419 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:15:21 ID:z2Ylrs4g
猪瀬さんが指摘されているように、戦時中の陸軍も指導部は役人であって、彼等が自分の 守備範囲だけでなく、全体のグランドデザインが理解できていたのか?そこが問題だろうと 考えるのです。一国の殆どの人民が国際通になれる筈も無く、やはりどこか物事の進め方に 無理があったのではないか?そう考えざるを得ません。そして、その傾向が今は改まって いるか?今の、日本を借金漬けに追いやった現状を考慮に入れると悲観的になります。 私は戦後派ですが、戦中派の意見を聞いてみたいものです。吉本さんは『真贋』でこの辺りを を書かれていますが、興味深く拝読しました。自国防衛について冷静に論議できることを 望む次第です。
420 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:16:27 ID:z2Ylrs4g
結局、9条固守の人は、勝手な理想を振りかざしているだけで、現実には何もなすすべがないのでは? と考えます。仮に、九州か裏に本、青森くらい迄の岸に難民を装った兵士が流れ着き、破壊活動を 始め、警察が保有していない強力な武器で武装している場合、軍隊(自衛隊と称す)が出動する晩 ですが、これは確か知事の招聘がないと動けない筈です。こういった体制では、相手になめられる だけですよ。しかも北はヒューミント(在日ち朝鮮人系)を沢山抱えています。こういった悲劇を 避ける為、暴政の反撃命令系統など論議すべきことが沢山あります。また、サリンの恐怖も忘れては なりません。彼等は、現にロシアからヘリまで買ってたのですから。
421 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:18:31 ID:z2Ylrs4g
軍隊というのは、本来は政府の外側にある組織であり、その行動において政治家が自由に口を挟める存在ではありません。 それは政治家が軍を私物化することを避ける為、ほとんどの国において常識とされているものです。 したがって軍には、独自の裁判制度があり、軍法があります。 軍人は国内法に従う必要は無く、軍法のみに従います。そして軍法によって活動根拠を与えられ、軍法によって裁かれます。 軍人は政府に忠誠を誓いません。軍人は政府ではなく、国家に服従し、国家元首に忠誠を誓う存在です。 たとえ政府の首長が命令しても、国家元首が承認しない命令に従う必要は無いのです。 (日本で言われる『シビリアンコントール』というのは、間違った使われ方をしているのが分かると思います) そして、もし政府が国民・国家に対して良くない政治を行っている場合、国家元首に忠誠を近い国家に服従する軍隊は、その政府を倒す義務を負います。 いわゆるクーデターです。 だから軍隊というのは、国民に愛され、尊敬される存在であるのです。 近年、タイで起こったクーデターは軍人が皆、国王のイメージカラーである黄色いリボンを巻いていました。 そして国民から、このクーデターに対して拍手喝采で迎えられました。 これが軍隊というものです。 植民地時代にアメリカ人が突き付けた現憲法を破棄し、自衛隊を軍隊にしなくてはなりません。 現状の自衛隊は政府の中の一機関であり、国民軍とはかけ離れた存在です。海外派遣を巡る一連の騒動も、自衛隊が軍隊でない為に起こっていることです。 ただし、例外があります。 一旦、海外へ出た自衛隊は、当然ながら国際法に従います。どこの領海でも無い公海上で活動する海自艦艇はなおさらです。 国際法上、軍人以外で武装している者はテロリストか海賊です。 防衛省及び外務省は公式に、自衛官に対して対外的に通用する英語表記の軍隊の階級を名乗るよう指導しています。 つまり海外では、自衛官は日本国の軍人として行動することになっています。 この矛盾を解消するためにも、現憲法の破棄、国際法上の問題が生じない新憲法を創設する必要があります。
422 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:19:51 ID:z2Ylrs4g
@つい最近の報道で(きのうかな?)〜日本の空の領空侵犯がついに300回を超えたらしい。(ヤフー・ニュース) A前にTV出演して石破ちゃん(庁官辞めた直後の時点ごろ)が、話していたのは、 3日に1回もの割合で、他国の戦闘機が、領空侵犯や領域に急接近するため 緊急スクランブル発進をして、対応している状態だと言ってました。 きょうも日本の空を守る為に、航空自衛隊のパイロットの方や管制関係者の 皆さんが深夜勤務されてるんだろうと思います。 おかげでこうして僕は、安心してネットで、好き勝手に遊ぶことが出来ます。 いっもどうもありがとうございます。また今後もよろしくお願いします。 最後に、領空侵犯のTV放送された話をもう少ししますが。。。 いつでもすぐ出動できるよう、年間1日も休むことなく、24時間体制でパイロットさんが交代で、 待機しており、戦闘機のエンジンもかけっぱなしと言っていました。 これを聞いた時は驚きでした。 だって3日に1回の割合の出動とか、もう307回も出動してるとは知らなかったし、 テレビのニュースでなぜ放送しないのでしょうか?怖いことです。
423 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:21:16 ID:z2Ylrs4g
侵略される恐れが少ないから自衛隊不要というのは大きな間違い。 自衛隊がいるから侵略されないんだ。 そして自衛隊には他国を侵略する能力はない。 国を防る力さえ不足してるんだから。 ま、とりあえず、今戦争が始まったら神戸以西と北海道除く仙台以北は普通に見捨てられるだろうね。 日本全土くまなく守るには数が少なすぎる
424 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:27:49 ID:z2Ylrs4g
ーく現実を認識してください。現実に日本は侵略されて手も出せないでいるではありませんか! 竹島、北方四島は不法占拠され、そして尖閣列島には自由に上陸もできない。 普通の国だったら実力をもって奪還しますよ。貴方はあくまでも争いごとはせず植民地になっても良い と言う。植民地になって繁栄できるんですか。世界の歴史を思い起こしてください。富は宗主国に収奪 され、自由は剥奪され人々は奴隷として使役されるんです。戦後の一時期、連合国の占領下にありまし たが、殖民地ではありませんでした。当時の日本はGHQの管理の下ではありましたが国家としての統 治機構は機能していたんです。 また経済面では財閥解体は行われましたが、自由な経済活動に特別な支障はなかったのです。 これは 植民地とは程遠い状態なのです。植民地とはどういうものか、貴方の勘違いを改めてください。 そして日本の周りは無法国家ばかりという現実を思い起こしてください。自衛隊解体などと夢にも想え ない筈です。むしろ戦うために足枷のない普通の軍隊を保持すべきだと想いませんか。
425 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:30:41 ID:z2Ylrs4g
あたご海士長自殺未遂、艦内詰問で精神的に追いつめか 4月10日22時26分配信 産経新聞 千葉県・野島崎沖で2月19日に漁船と衝突した海上自衛隊のイージス艦「あたご」の艦内で、 3月24日に自殺未遂し一時入院した海士長が、 事故原因をめぐり同僚や上官から問い詰められるなどした結果、 精神的に不安定になっていた可能性があることが10日、わかった。 防衛省によると、海士長は衝突時、 艦橋の当直(12人)の1人として見張り任務についており、 海上保安庁による原因調査のため、 他の艦員らとともに停泊中の艦内で上陸制限されていた。 海保は「隊員の精神面にも配慮して事情聴取しており、 自殺未遂は予想外だった」としており、防衛省が事実関係の把握に乗り出していた。 海士長は事故直前に漁船の灯火らしきものを発見し、当直士官の水雷長に報告したが水雷長が回避行動など的確な指示を出さなかったため「どうして再度報告しなかったのか」と艦内で繰り返し詰問されていたという。 海自幹部は「いじめとは断定できないが、精神的にかなり追いつめられていたようだ」との見方を示している。
426 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:31:17 ID:z2Ylrs4g
この組織はまじめにやっても馬鹿を見る、ゴマすりだけが出世できる 失敗したら責任のなすりあい、幹部は責任逃れ、いじめ まず、「あたご」の運行幹部は総員責任を取って辞職すべき また第3護衛艦隊、第63護衛隊も「あたご」を適切に指導教育できなかったため 重大な事故を招いた責任は重い、何らかの処分は必要 さらに艦内飲酒なんかもってのほか、おまえらは酒気を帯びながら戦闘システムを運用 するのか!!!!
427 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:32:52 ID:z2Ylrs4g
17日付け読売新聞の解説欄で「イージス艦事故の背景」と題し問題点を検討した文が出ていた 要約すると 1 イージス艦事故や情報漏えいや各種不祥事が続き、海自希望者が減ったこともあるが、最大の要因 は、少子・高齢化による艦艇乗員の充足率の低下だ。 2 同時に乗員不足を抱えながら、ペルシャ湾機雷掃海、インド洋派遣、工作船対策、法人輸送、船舶検査、MD と任務は広がっているが、充足率が上がっているが乗組員が減ったため十分な体制にない 結論:このままの状況が続くのであれば、艦艇の数を減らし、任務も減らすべき 1の文だがそれと今回の事故とどう接点があるのか、「あたご」は自動化されているといえ、定員である300名以上の乗員が乗っている また「しらね」のそれも当直員が80名以上おり、通常の護衛艦の倍はいるのに効果的に消化はできなかった また情報漏えいなどは、問題外 2 海外派遣などの任務には定員いっぱいの乗員で出航するのは常識、また工作船対処や船舶検査など、海軍としてできて当たり前、いままでおろそかに していた付けが回ってきただけだ、しかし特別警備隊の増強以外船舶検査なども変わらず疎かになっているのが現実だ それに実任務を実施したおかげで、従来の訓練が疎かになったと云うのは、これこそ問題外、それでは常に実戦の海上保安庁や米英豪韓など諸海軍はどうすんだ 海自は訓練の為の訓練だけしとけば良いのか、任務を減らせとは何たる言い分! 空自や陸自の意識や再編改革は始まっている どうやら海自はもっと大きな問題がありそうだ
428 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:33:41 ID:z2Ylrs4g
任務が増えたのなら、効率的な運営を考えるべきなのに、単なる管理強化で ごまかそうとしたから、事件が発生するのです。 クチは出すけどカネを出さないからですね。言うだけなら社会党でもできます。 海藻でもできます。将官が海藻並みです。だから、下のものが困ります。 海自はアホの集まりですか?
429 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:34:35 ID:z2Ylrs4g
この4月に各部隊若干の待遇改善は見られたが、それまでの人的な損失を埋め合わせるには、これから何年も、掛かるだろう。 社会的地位も、名誉も与えず、不祥事を政争の具にされる度に、意味のない管理強化を重ね、迷走し続けた結果がこれである。 理不尽な要求に、情熱を失い退職していった、同僚達のことが今でも悔まれてならない。
430 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:40:35 ID:z2Ylrs4g
やはり人事施策を何とかしないといけないでしょう。 指揮される側が必ずしも指揮官の考えや全般状況を判断する能力を有してはいない。 そして、連隊長が大隊長を評価するのに、大隊長の部下をひそかに呼びつけて情報収集したりすれば、大隊長は厳しくなければ厳しくないほど良い大隊長となる。 それを連隊長が真に受けるかだが...... 連隊長も隊員に好かれたい!? 結局、部下は上司を服務指導的なことでしか判断していない、という場面が結構ありますね。その下が期待する服務指導とは任務達成と違う方向であることもあります。 たとえば、イラクに行きたくない、行進訓練で背嚢を空にして歩きたいというような隊員の気持ちを理解してあげることです!?
431 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:42:38 ID:z2Ylrs4g
艦艇や任務を減らせってのはあながち間違ってないと思う まともな改装や修理、後方支援部隊も整備できないなら 建造費をそれに回すべきだし 前甲板からサンドレッド振り回して届けば優秀艦とか 他国の海軍には見せられないアホな訓練 やたら技法にこだわって訓練のための訓練になった立検 30分に一回の見回り 特に脅威の無い今、一度この組織は発展的解散をすべきだよ。
432 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:48:57 ID:z2Ylrs4g
海上幕僚監部並びに統合幕僚長および海上幕僚長の監督を受ける部隊及び機関 からなる。主として海において行動し、日本の平和と独立を守り、国の安全を 保つため、直接侵略及び間接侵略に対し日本を防衛することを主たる任務とし、 必要に応じ、公共の秩序の維持に当る。 その長は海上幕僚長。なお、日本では法律上軍隊としての機能は発揮できない が、他国からは海軍と同じものとみなされている。 潜水艦16隻と護衛艦(他国でのフリゲート・駆逐艦に相当)約50隻、そして対 潜哨戒機をはじめとする各種航空機を多数保有する。この護衛艦にはイージス 艦5隻が含まれ、さらに1隻を建造中である。また、実質的なヘリ空母であるひ ゅうが型護衛艦を建造中である。 冷戦が終結し長年の仮想敵だったロシア海軍が機能低下状態にある現在、この ような装備は明らかに過大として批判が一部の左翼勢力からある一方、護衛艦 等の定数削減への対応、あるいは拡大する中国海軍の脅威への対処として、能 力向上型を建造する必要があるとする意見がある。(実際には、大規模災害時 の洋上司令部となりうる高度な機能を有した大規模艦となっている)。
433 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:50:35 ID:z2Ylrs4g
帝國海軍の解体 第二復員局の掃海部隊は、昭和23年5月1日、装備や人員はそのままに、新たに 発足した海上保安庁保安局掃海課に組み入れられ、機雷の除去作業を行った。 このことが、結果的に、日本海軍が培ってきた操船技術などのノウハウやマン パワーを維持することになる。また、旧海軍軍令部作戦課が、第二復員省資料 整理部として温存され、ここで、海軍再建の研究が行われた。なお、第二復員 省は、復員庁、厚生省第二復員局へと改組された。
434 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:54:03 ID:z2Ylrs4g
海上自衛隊の創設 1950年に朝鮮戦争が起こると、旧海軍関係者は海軍再建の好機と見てGHQに海 軍再建を打診、多くの折衝を経てスモールネーヴィーを再建する方針が決まっ た。選択肢として、海軍を復活させる選択肢と海上保安庁を拡充する選択肢が 示された。旧日本軍の復活を危惧する国際社会と、非武装論が浸透した世論を 考慮して、組織構想が練られることとなった。 具体的には、1951年(昭和26年)10月、連合国軍最高司令官リッジウェイ大将 より、フリゲート(PF)18隻と大型上陸支援艇(LSSL)50隻の貸与の提案があった 。この提案を受け入れる事にした日本政府は、1952年に旧海軍軍人と海上保安 庁から人材を集め、受け入れた態勢を整える事にし、内閣直属の委員会が置か れた。 この委員会は、交互に議長を務めた柳沢米吉海上保安庁長官と山本善雄元少将 とのイニシャルをとってY委員会と呼ばれた。このY委員会は、山本善雄元少将 (海兵47期・元軍務局長)、秋重実恵元少将(海機28期・元軍需局第4部長)、 永井太郎元大佐(海兵48期・元教育局課長)、長沢浩元大佐(海兵49期・元軍 務局第一課長兼軍令部第三課長)、初見盈五郎元主計大佐(海経8期・元経理 局第三課長)、吉田英三元大佐(海兵50期・元軍務局第三課長)、森下陸一元 大佐(海機34期・元海軍予備学生生徒採用試験臨時委員)、寺井義守元中佐( 海兵54期・元軍令部第一課部員兼軍務局員)、柳沢米吉海上保安庁長官(東大 卒)、三田一也警備救難監(商船学校卒・元海軍予備員たる海軍中佐)で、後 に山崎小五郎海上保安庁次長(東大卒)が追加された構成であった。このよう に、Y委員会は、旧海軍軍人が11名中8名という大勢を占め、海上保安庁側は文 官たる長官・次長と海上保安官のトップである警備救難監のみが参与すること となり、人数的にも海軍再建を目指す旧海軍側が主流となっていた。なお、海 上保安庁側の専門家の立場である三田一也警備救難監は、商船学校卒で海軍予備員として大東亜戦争中は応召して海軍に勤務していた人物であったが、海軍嫌いで通っており、海軍再建には反対の立場であった。 Y委員会審議では、新部隊を海上保安庁の下に置くことに異論はないものの、 一般の海上保安庁の部隊同様に、警備救難監の下に置くか、或いは特別に海上 保安庁長官直属の機関とするかで紛糾した。飽くまで新部隊は海上保安庁の警 察力強化と理解する海上保安庁側は警備救難監の下に置くことを主張した。他 方、新部隊を将来海軍として独立させ名実ともに海軍再建を目指す旧海軍側は 将来の分離自立を目指して長官直属とすることを主張した。結局、旧海軍側の 主張が通り、長官直属の機関とされた。新組織の名称は当初は警察予備隊に倣 って「海上保安予備隊」が予定されたが、後に「海上警備隊」とすることが決 まる。 そして、サンフランシスコ平和条約発効の日である1952年(昭和27年)4月28 日に海上警備隊が設置される。同年中に、海上警備隊と航路啓開隊(掃海部隊 )は、海上保安庁から分離され保安庁警備隊となり、1954年防衛庁の発足と共 に、海上自衛隊が誕生する。2008年現在、正式の「海軍」への昇格は果たして いないものの、諸外国においては「日本海軍」と呼称する向きもある。これは 自衛隊の他の部隊も同様であり、「日本陸軍」「日本空軍」と呼称する向きが 存在する。なお管轄組織である防衛庁は2007年1月9日に防衛省へと昇格した。 なお、Y委員会のメンバーである長沢浩元大佐、吉田英三元大佐、寺井義守元中佐は海上自衛隊に入り、長沢浩元大佐は海将海上幕僚長、吉田英三元大佐は海将自衛艦隊司令を経て横須賀地方総監、寺井義守元中佐は海将横須賀地方総監まで昇った。
435 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:56:26 ID:z2Ylrs4g
現在 現状では対潜水艦作戦に特化した米軍の補助部隊としての性格が強いとされる (規模と能力の節を参照)。冷戦後は国会での予算削減圧力が強く、新防衛大 綱では護衛艦や哨戒機の定数が削減されている(下記外部リンク参照)。 このため、防衛省・自衛隊側は予算確保と組織防衛を主張することが多い。反 面、主力の潜水艦16隻と護衛艦隊所属の護衛艦32隻の定数は削減されておらず 、また、新型潜水艦、イージス艦や実質的にはヘリ空母ともいわれるひゅうが 型護衛艦の建造により、戦力は増強されているとの見方もある。
436 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 06:58:40 ID:z2Ylrs4g
日米同盟 日米安全保障条約にのっとり、自衛隊の中で一番米軍との連携が深いのは海上 自衛隊である。現在の日本政府の公式見解では、内閣法制局によると集団的自 衛権は認められていないとされているが、アメリカ第7艦隊と海上自衛隊はほ ぼ相互の組織関係とまでなっているため、第7艦隊のサポートや有事の際の後 方支援といった任務は暗黙的に存在する。米海軍は空母等の正面戦力の増強 に予算を重点的に振り分けているため、補助艦艇の整備の為の予算は十分とは いえず、海上自衛隊を主力の空母部隊を補助する有力な戦力として期待してい る。 米軍は反国家分裂法を制定し台湾への圧力を強めた中国政府を強く批判してお り、以前も中国への圧力のため台湾海峡に空母2隻を派遣した実績がある(台 湾有事の項を参照)。 北朝鮮については弾道ミサイル実験や核開発疑惑、人権問題などを大きく問題 視しており、悪の枢軸」と呼んで厳しく批判している。このことから台湾海峡 以上に軍事行動の可能性は高いと言われ、有事の際は自衛隊の役割も非常に重 要となると考えられている。
437 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 07:00:10 ID:z2Ylrs4g
海外派遣 湾岸戦争後の自衛隊ペルシャ湾派遣に始まり、自然災害やPKO派遣等による海 外派遣の輸送の要として活躍している。米軍のアフガニスタン攻撃の際は、 海上での米軍支援のためインド洋に自衛隊の大型補給艦を派遣した(自衛隊イ ンド洋派遣参照)。
438 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 07:01:27 ID:z2Ylrs4g
防衛交流 海上自衛隊は、各国海軍との防衛交流を積極的に推進している。 1980年(昭和55年)以降は、米海軍主催でハワイ付近で実施されている多国軍 事演習である環太平洋合同演習(RIMPAC)に参加している。また、ロシア海軍 300周年記念観艦式に参加するため、1996年7月には71年振りに海上自衛隊の艦 船がウラジオストク港へ派遣された。また、これに対して、ロシア連邦側も19 97年6月に103年振りにロシア海軍軍艦ウラジミール・ビノグラードフが東京港 に来航した。 2006年(平成18年)10月3日から5日まで、第6回アジア太平洋潜水艦会議(APS C2006)を初めて海上自衛隊が主催した。この会議には、日、豪、加、中、コロンビア、仏、印、インドネシア、マレーシア、パキスタン、韓、露、シンガポール、タイ、英、米の16ヶ国海軍が参加した。同会議は2001年(平成13年)から毎年開催されている。 諸外国海軍との共同訓練の開始時期などは自衛隊#防衛交流を参照。 遠洋練習航海による交流は練習艦隊を参照。
439 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 07:04:30 ID:z2Ylrs4g
規模と能力 平成17年4月現在、海上自衛隊は人員約4万4000名、艦艇152隻(イージス艦5隻 (1隻建造中)、ヘリコプター搭載護衛艦4隻(1隻建造中 1隻計画中)、防空 ミサイル護衛艦4隻、汎用護衛艦約20隻、潜水艦16隻等:計42万6020t)と航空 機309機(哨戒機P-3C約80機、哨戒ヘリコプターSH-60J約90機、発展型のSH-60 K約30機)を保有している。主力部隊は8個の固定翼哨戒機部隊と6個潜水艦部 隊、4個護衛隊群である。1個の護衛隊群は、ヘリ搭載護衛艦1、防空ミサイル 護衛艦2、汎用護衛艦5隻、計8隻からなる。 載のあたご型護衛艦)および、全通甲板を持つヘリ空母(はるな型護衛艦の 代替としてひゅうが型護衛艦)が建造中である(ともに平成19年3月末現在)。 これら装備増強は、護衛艦の総隻数の削減を補うための質的な能力向上を目指 したものである。また、長年の仮想敵国だったロシア海軍がソ連全盛期に比べ ると組織的にも装備的にも機能低下状態であるが、北朝鮮や台湾有事、中国軍 の急進的な軍備増強による脅威の増大など、想定される不測の事態への対応を 強化するという側面もある。 このような装備の能力向上について、中国などのごく一部の国から懸念が表さ れることもあるが、自衛隊は前述のように侵攻能力を有しておらず、周辺国に とって脅威とはならない。
440 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 07:09:08 ID:z2Ylrs4g
概要 陸上自衛隊がアメリカ陸軍式に編成・教育され、旧陸軍との関係を断絶してい るの比べ、旧海軍77年の歴史と伝統を重視しており、旧海軍の末裔を自認して いる。現在でも、スマートネイビーを標榜とする日本海軍の伝統を重んじてい る組織である。伝統的な気質としては、純粋な軍人育成を嫌い、シーマンシッ プ(スマートで、目先が利いて、几帳面。負けじ根性といった船乗りの心得) に基づいたリーダーシップ(指導、統率力)を持ち、クリューコーディネート (協調、統制能力)も可能な人材育成を前面に掲げることなどがあげられる。 これは、陸軍が基本的に国内にとどまって国土を防衛する任務を担うのに対し て、海軍(特にBlue Water Navy)は外国を訪問することが多く、海軍士官は 相互親善を深める外交官的な役割をも担ってきたことに由来する。そのこと もあり、陸海空の中で海上自衛隊のみ初任幹部ほぼ全員を海外に出して見聞 を広めさせている(練習艦隊参照)。 海上自衛隊は、伝統墨守といわれるほど旧日本海軍の伝統を汲んでいる。観艦 式などには日本海軍伝統の軍艦行進曲(軍艦マーチ)が演奏され、海軍の軍艦 旗をそのまま自衛艦旗としており、日本海海戦を記念して制定された戦前の海 軍記念日(5月27日)の前後には、現在の海上自衛隊も、基地祭などの祝祭イ ベントを設けている。海上自衛隊で使われる信号喇叭の喇叭譜も一部を除いて 旧海軍のものをそのまま使用しており、君が代の喇叭譜が陸海それぞれ別にあ るという変則なことになっている。金曜にカレーを食べる習慣(海軍カレー)も旧海軍の伝統である。 なお、陸空では使用されない「士官」の語も「幹部自衛官」のほかに法令上も用いられている(士官#自衛隊参照)。 反面、上述のエリート意識や、決して良い事ばかりではない旧海軍の悪き体質 や気質、時代にそぐわない伝統まで継承してしまっているとして、古くから現 在でも「伝統墨守唯我独尊」と隊や省内部、マスメディアから揶揄される事も ある。
441 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/29(火) 07:14:21 ID:z2Ylrs4g
艦内生活 詳細は護衛艦#護衛艦での生活を参照 海上自衛隊では、海軍再建に関与したアメリカ海軍の影響もある。例えば、 艦内飲酒について、イギリス海軍では紳士の嗜みとして許されていたのに対し 、海上自衛隊では、禁酒法を制定したアメリカ海軍の流れを汲み、基本的に一 切許可されず、厳重な罰則規定も存在する。 勤務時間などは「海上自衛官の勤務時間及び休暇に関する達」(昭和38年2月18日海上自衛隊達第15号) などで規定されており、夏期(4月1日から9月30日まで)の平日は、午前6時起 床(総員起こし)、体操後に朝食を摂り、午前8時から11時45分と午後1時から 午後4時30分まで課業を行う。午後7時30分に巡検が行われ、午後10時消灯とな る。自衛艦旗は、停泊中は午前8時の課業開始時に掲揚され、航行中は常時掲 揚されている。また、曹士の取りまとめ役として先任伍長も置かれている。
442 :
名前をあたえないでください :2008/04/29(火) 12:37:05 ID:UAM+xMsJ
海軍少佐がこのレベルかよwwww もう日本海軍は米海軍の指揮下に入れよ(馬路
443 :
名前をあたえないでください :2008/04/29(火) 14:01:46 ID:mf9IHIN6
444 :
戦争を出來る人材がいないのだ :2008/04/30(水) 00:58:50 ID:CSJNtX+/
全国の自衛隊の基地や駐屯地の敷地内にゴルフ施設が計11カ所あり、 隊員や関係者が無料か格安料金で使っていることが28日、 防衛省の調査で明らかになった。ゴルフ施設の存在は一般には公表されておらず、 同省は一連の不祥事や事故で綱紀粛正を進めているが、 幹部からは「国民の信頼回復のためには見直しが必要では」との指摘も出ている。 石破茂防衛相は施設全廃も含め、対策の検討を指示した。 防衛省によると、ゴルフ施設があるのは陸上自衛隊が木更津駐屯地(千葉県)に1カ所、 海上自衛隊が下総航空基地(同)など2カ所、航空自衛隊は入間基地(埼玉県)など8カ所(別表参照)。 大半の施設は飛行場や高射訓練場の近くに安全確保のために設けられた 芝生の保安用地につくられている。「隊員の体力錬成と余暇の有効活用のための 空き地利用」として整備、整備。最大規模の施設は空自入間基地と 陸自木更津駐屯地にあるティーグラウンドやバンカー、グリーンなどを備えた本格的なもので、 それぞれ11ホールと9ホール。利用者は隊員やOBに限定している施設が多いが、 同伴者、家族が利用できる場所もある。 料金は無料か、利用する隊員らが会費(月額1000〜3000円)を払う。 コースの整備や芝刈りなどの維持運営は隊員が行っているという。 すべての施設は「課業時間外、土日や祝日に利用している」としている。 調査を行った防衛省は「保安用地などをゴルフ施設として利用することは 法的には問題はない」としている。 しかし、周辺住民はゴルフ施設の存在を知らされておらず、 周囲を樹木で囲って外部から遮断したり、 わざわざ「特別訓練場」と呼んでいる場所もあるという。 〜以下略
445 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:05:01 ID:CSJNtX+/
娯楽たってゴルフはねえだろ! 無駄に広い土地を使うし・・・・・ しかも、ゴルフをやりたがる奴は、 娯楽が必要な末端じゃなくて、高級幹部(将官級)だろ!
446 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:12:36 ID:CSJNtX+/
そういえば、昔、「ゴルフに興ずる奴は国賊だ。」 と言っていた海上幕僚長がいたなぁ。 だれだっけ?もうかなり前の人で、元帝国海軍の軍人だったと思う。
447 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:15:37 ID:CSJNtX+/
448 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:17:28 ID:CSJNtX+/
449 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:18:57 ID:CSJNtX+/
450 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:19:37 ID:CSJNtX+/
451 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:21:25 ID:CSJNtX+/
周辺住民は知らされておらず? 当たり前だろ 知らせてどうすんの? ウチの近くの基地にもデカい体育館あるし隊員と家族しか使えねーが不満にも思わんよ わけわからん部外者が施設の利用と称して基地に入り放題な方が問題
452 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:22:42 ID:CSJNtX+/
453 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:25:39 ID:CSJNtX+/
勤務時間帯にやってた訳じゃないなら別にたいした問題でもないと思うが
454 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:27:13 ID:CSJNtX+/
テニスコートだったら、問題なかったのかも分からんね。 ゴルフはイメージ悪いからなあ。
455 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:28:10 ID:CSJNtX+/
456 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:31:20 ID:CSJNtX+/
航空祭の基地開放でいろいろ還元されてると思うよ。税金に関しては。 アメリカの基地祭なんかは納税者への説明の意味も込めてやってるらしいね。
457 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:38:49 ID:CSJNtX+/
グラウンドでサッカーをするのと、ゴルフ場でゴルフをするのは 同じことだろう。 自衛官は、心身を鍛えるため、勤務時間中にスポーツをすることを 義務とされている。 ゴルフは立派なスポーツだ!娯楽ではない。
458 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:43:57 ID:CSJNtX+/
このスレッド埋め立てる? 海上自衛隊の不祥事が多いのは旧軍の伝統を引きずっているから。 術校で幹部の講和で言っていた。 「不要な電灯(伝統)は断となせ」。
459 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:47:03 ID:CSJNtX+/
防衛大臣 いしば しげる 石破 茂 生年月日 昭和32年2月4日 出身地 鳥取県 衆議院議員 鳥取1区、当選7回 -------------------------------------------------------------------------------- 経歴 昭和61年 7月 衆議院議員に初当選(全国最年少議員として) 平成 4年 12月 農林水産政務次官 8年 1月 衆議院 規制緩和に関する特別委員会 委員長 10年 8月 衆議院 運輸常任委員会 委員長 11年 10月 衆議院 運輸常任委員会 筆頭理事 衆議院 安全保障委員会 委員 12年 2月 衆議院 憲法調査会 委員 7月 農林水産総括政務次官 12月 防衛総括政務次官 13年 1月 防衛庁副長官 5月 衆議院 安全保障委員会 理事 10月 衆議院 テロ対策特別委員会 委員 14年 1月 衆議院 安全保障委員会 委員 衆議院 外務委員会 筆頭理事 3月 衆議院 憲法調査会 委員 4月 衆議院 武力攻撃事態対処特別委員会 委員 9月 防衛庁長官 16年 10月 衆議院 武力攻撃事態対処特別委員会 筆頭理事 衆議院 安全保障委員会 委員 17年 5月 衆議院 郵政民営化に関する特別委員会 理事 9月 衆議院 日本国憲法に関する調査特別委員会 委員 11月 衆議院 総務委員会 委員 衆議院 日本国憲法に関する調査特別委員会 委員 衆議院 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 筆頭理事 衆議院 安全保障委員会 委員 19年 9月 衆議院 外務委員会 委員 9月 防衛大臣 趣味 読書、音楽鑑賞、料理 信条 至誠の人、真の勇者 家族 妻・娘二人
460 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:48:36 ID:CSJNtX+/
防衛副大臣 えと あきのり 江渡 聡徳 生年月日 昭和30年10月12日 出身地 青森県 衆議院議員 青森2区、当選3回 -------------------------------------------------------------------------------- 経歴 昭和56年 3月 日本大学大学院法学研究科修了 59年 4月 光星学院八戸短期大学非常勤講師 4月 社会福祉法人至誠会職員 63年 4月 社会福祉法人至誠会副理事長 政歴 平成 8年 10月 衆議院議員初当選(当3) 15年 11月 衆議院経済産業委員会理事 16年 9月 内閣府大臣政務官 17年 9月 〃 再任 18年 10月 党国会対策委員会副委員長 19年 8月 防衛副大臣(安倍改造内閣) 9月 防衛副大臣(福田内閣) 信条 「随処に主となれば立処皆真なり」 プロフィール 日本大学大学院修了後、八戸短大講師をしながら社会福祉法人の職員となり、 福祉の里づくりを目指し、平成8年衆院選初当選。12年選挙では苦杯をな めたが、15年2期目当選。16年9月第2次小泉内閣で内閣府大臣政務官、 17年9月第3次小泉内閣で内閣府大臣政務官に再任され務めた。17年3期 目当選、衆院議院運営委員会理事(再任)党国対委員会副委員長(再任)を務 める。 趣味 読書、映画鑑賞 家族 妻、長女、次女、三女、長男
461 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:52:16 ID:CSJNtX+/
防衛大臣政務官 てらだ みのる 寺田 稔 生年月日 昭和33年1月24日 出身 広島県 衆議院議員 広島5区、当選2回 経歴 昭和55年 東京大学法学部卒業、大蔵省入省、主計局に配属 57年 米ハーバード大学院に留学(2年間) 平成13年 財務省 内閣、司法・警察担当主計官 14年 財務省 防衛担当主計官 16年 内閣府参事官を最後に依頼退官 政歴 平成16年 衆議院議員 初当選 ・ 自民党 広島県第5選挙区支部長 ・ 衆議院 国土交通委員会、安全保障委員会、国会対策委員会 委員 ・ 自民党 組織局 次長 17年 第44回 衆議院議員総選挙に当選(2期目) ・ 衆議院 安全保障委員会 理事 ・ 自民党 国防部会 会長代理 ・ 自民党 報道局、情報調査局 次長 18年 ・ 衆議院 厚生労働委員会、安全保障委員会 与党理事 内閣委員会 委員 ・ 自民党 国防部会 会長代理 19年 8月 防衛大臣政務官(安倍改造内閣) 9月 防衛大臣政務官(福田内閣) その他 若手を応援する若手議員の会 副会長 行政改革推進本部 幹事、同本部特別会計改革委員会 主査(兼務) 日本の安全保障に関する宇宙利用を考える会 副委員長 宇宙開発促進特命委員会 事務局長 原爆症認定を早期に実現させるための議員懇談会 代表世話人 政党活動 父母共に広島の地で被爆した被爆2世として核軍縮及び大量破壊兵器の 拡散防止に関する諸活動に尽力したい。 2004年8月平和メッセージ、2004年11月平和アピールをそれ ぞれ発出し、平和関係諸団体にも同時発出した。 また、国会においては、核兵器廃絶条約早期締結に向け活動している。 その他の活動 文化財保護財団のメンバーとして我が国の歴史と文化と伝統に根ざした 文化の伝承・発展に努めている。また、地元に存在する有形・無形文化財 についても支援を行っている。 著書:「みんなが知りたい日本経済のこと」 家族 妻との間に2女 信条 「力を戮せ、心を一にす」 趣味 テニス・ウォーキング・読書・カラオケ・スポーツ観戦
462 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:53:01 ID:CSJNtX+/
防衛大臣政務官 あきもと つかさ 秋元 司 生年月日 昭和46年10月23日 出身地 東京都 参議院議員 比例代表、当選1回 -------------------------------------------------------------------------------- 経歴 昭和59年 3月 鹿児島市立吉野東小学校卒業 62年 3月 鹿児島市立吉野東中学校卒業 平成 2年 3月 鹿児島県立武岡台高校卒業 4年 4月 大東文化大学 経済学部入学 5年 4月 衆議院議員事務所へ学生秘書として入所 (平成12年より公設第一秘書) 8年 3月 大東文化大学 経済学部卒業 16年 7月 第20回参議院通常選挙において、305,613票を獲得 自民党比例代表第2位・全政党第9位で初当選 18年 9月 参議院内閣委員会理事 19年 8月 防衛大臣政務官(安倍改造内閣) 9月 防衛大臣政務官(福田内閣) その他 自民党青年局次長 家族 夫人 信条 わかる政治、見える政治。 趣味 読書、映画鑑賞、テニス
463 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:53:53 ID:CSJNtX+/
防衛事務次官 増田 好平(ますだ こうへい) 生年月日: 昭和26年 4月 2日 出身地: 東京都 学 歴: 東京大学法学部卒業(昭和50.3) 試 験: 上級職国家公務員試験(法律)合格 -------------------------------------------------------------------------------- 昭和50. 4 長官官房総務課 5 防衛局運用課 51. 5 経理局施設課 52. 7 長官官房総務課 53. 4 大蔵省主計局 55. 4 防衛庁部員 防衛局調査第1課 56. 4 〃 防衛局調査第1課調査第2班長 57. 1 〃 人事教育局人事第1課 58. 5 〃 防衛局防衛課年度班 60. 7 〃 防衛局運用課 61. 4 〃 防衛局運用課総括・運用班長 62. 4 〃 防衛局計画官付 63. 9 〃 防衛局防衛課 平成 2. 7 〃 長官官房企画官 3. 2 (兼)総理府大臣官房政府専用機準備室参事官 4. 1 (解)総理府大臣官房政府専用機準備室参事官 7 防衛庁部員 防衛局防衛政策課 5. 1 防衛施設庁施設部施設取得第二課長 6. 7 装備局航空機課長 7. 6 防衛局計画課長 8. 6 長官官房広報課長 10. 6 防衛局防衛政策課長 12. 6 長官官房防衛審議官 13. 1 長官官房審議官 14. 8 (併)内閣審議官(内閣官房副長官補付) 16. 4 (解)内閣審議官(内閣官房副長官補付) 内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付) 17. 8 防衛庁防衛参事官(統合運用・IT担当) 18. 2 (兼)防衛施設庁技術審議官 8 (解)防衛施設庁技術審議官 人事教育局長 19. 9 防衛事務次官
464 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:55:55 ID:CSJNtX+/
防衛省内部部局幹部名簿 平成20年3月26日現在 防衛省内部部局幹部名簿 役職名 氏名 ふりがな 事務次官 増田 好平 ますだ こうへい 防衛参事官(国際担当) 辻 優 つじ まさる 防衛参事官(法制・IT等担当) 枡田 一彦 ますだ かずひこ 防衛参事官(総合取得改革担当) 小川 秀樹 おがわ ひでき 大臣官房長 中江 公人 なかえ きみと 衛生監 外山 千也 とやま せんや 技術監 秋山 義孝 あきやま よしたか 報道官 豊田 硬 とよた かたし 審議官 黒江 哲郎 くろえ てつろう 審議官 中島 明彦 なかじま あきひこ 審議官 尾澤 克之 おざわ かつゆき 審議官 羽深 成樹 はぶか しげき 審議官 木坂 愼一 きさか しんいち 米軍再編調整官 丸井 博 まるい ひろし 参事官 大東 おおひがし たかし 参事官 谷井 淳志 たにい あつし 参事官 堀地 徹 ほっち とおる
465 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:57:17 ID:CSJNtX+/
防衛省内部部局幹部名簿 平成20年3月26日現在 防衛省内部部局幹部名簿 役職名 氏名 ふりがな 秘書課長 深山 延暁 みやま のぶあき 文書課長 前田 哲 まえだ さとし 企画評価課長 武田 博史 たけだ ひろふみ 広報課長 中村 吉利 なかむら よしとし 訟務管理官 沼澤 芳明 ぬまざわ よしあき 防衛政策局長 見澤 將林 たかみざわ のぶしげ 次長 松本 隆太郎 まつもと りゅうたろう 防衛政策課長 山本 達夫 やまもと たつお 日米防衛協力課長 芹澤 清 せりざわ きよし 国際政策課長 土本 英樹 つちもと ひでき 防衛計画課長 島田 和久 しまだ かずひさ 調査課長 鈴木 敦夫 すずき あつお 運用企画局長 コ地 秀士 とくち ひでし 事態対処課長 辰己 昌良 たつみ まさよし 国際協力課長 岡 真臣 おか まさみ 運用支援課長 尾ア 徹 おさき とおる 情報通信・研究課長 竜 哲 りゅうざき あきら 人事教育局長 渡部 厚 わたなべ あつし 人事計画・補任課長 中村 範明 なかむら のりあき 人事制度課長 神原 紀之 かんばら のりゆき 人材育成課長 城戸 謙憲 きど かねのり 厚生課長 道鎭 雄二 どうちん ゆうじ 服務管理官 森 佳美 もり よしみ 衛生官 野田 広 のだ ひろし 経理装備局長 長岡 憲宗 ながおか けんしゅう 会計課長 菊地 和博 きくち かずひろ 監査課長 山本 直男 やまもと ただお 装備政策課長 柴尾 浩朗 しばお ひろあき システム装備課長 外園 博一 ほかぞの ひろかず 艦船武器課長 田中 聡 たなか さとし 航空機課長 辻 秀夫 つじ ひでお 施設整備課長 宮澤 直幸 みやざわ なおゆき 技術計画官 飯田 圭哉 いいだ けいや 施設技術官 西村 好文 にしむら よしふみ 地方協力局長 地引 良幸 ぢびき よしゆき 地方協力局次長 山内 正和 やまうち まさかず 地方協力局次長 伊藤 盛夫 いとう もりお 地方協力企画課長 P 行成 ひろせ ゆきなり 地方調整課長 佐竹 基 さたけ もとい 周辺環境整備課長 田中 敏博 たなか としひろ 防音対策課長 田渕 眞二 たぶち しんじ 補償課長 飯嶋 千秋 いいじま ちあき 施設管理課長 坂野 祥一 さかの しょういち 提供施設課長 南 博之 みなみ ひろゆき 労務管理課長 石尾 慎一郎 いしお しんいちろう 沖縄調整官 藤井 高文 ふじい たかふみ 調達官 松本 正 まつもと ただし
466 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 01:59:58 ID:CSJNtX+/
「統合幕僚長あいさつ」 人間には「体内時計」があると言われています。これは、生きていくため 体内に組み込まれた時間割のようなものであり、生活のリズムをコントロー ルしています。人間が本来持っている1日の単位は25時間と言われており、 地球の時間サイクルである24時間とは異なっていますが、起床後に朝日を 浴びるなどといった行為をすることによってリセットされ、24時間周期に 合わせているそうです。外の世界から遮断された中で生活を送ると、次第に ずれが大きくなってきます。「体内時計」をうまくコントロールし、生活に 支障を来すことのないように心掛けたいものです。 さて、自衛隊では、統合運用体制移行後、丸2年が経過し、4月から新し い年度がスタートしました。国内外に目を向けますと、5月にはロシア新大 統領の就任、7月には洞爺湖サミットの開催、8月には北京五輪及び日中平 和友好条約締結30周年、来年1月には米国新大統領の就任等、日本の安全 保障等に大きな影響を与えるイベントが予定されています。これらを注視し つつ、隊務を運営していくことはもちろんのことですが、統合運用体制の第 3年度に当たり、気持ちを新たにし、統合運用の実効性の更なる向上を図り つつ、新たな脅威や多様な事態に実効的に対応するとともに、国際的な安全 保障環境を改善するために国際社会が協力して行う活動に主体的かつ積極的 に取り組み、自衛隊の任務遂行に全力を尽くして参る所存です。 一方、昨年度は、防衛省・自衛隊として、様々な事件や事故等が続き、国 民の皆様には多大なご心配とご迷惑をおかけいたしました。自衛隊は、万一 の侵略に備えた抑止重視の「存在する自衛隊」から各種事態への対応を重視 した「より機能する自衛隊」へと変化し、付与される任務・役割も増大し、 また、実際に事態に即応して行動することが求められています。このような 中にあって、自衛隊の「体内時計」を現在置かれた環境に適合させ、隊員一 人一人の意識を変え、愚直なまでに基本に立ち返るとともに、事件、事故等 の原因を早期に究明して再発防止策を確立し、これを徹底することにより、 常に正常に機能するようにしていくことが重要であると考えています。また、 昨年12月から、有識者による防衛省改革会議が開催されているところです が、防衛省・自衛隊としても組織の見直しを含め抜本的な対応について検討し ていく必要があると認識しています。 「武力集団」である自衛隊として、自己チェックを怠ることなく、常に厳 正な規律と高い士気を保持するとともに、事態の生起に即応し、国民の皆様 の負託に応えられるよう、今後とも努力精進して参りたいと思います。 統合幕僚長 海将 齋 藤
467 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:02:15 ID:CSJNtX+/
陸上自衛隊ホームページをご覧の皆様、陸上幕僚長の折木陸将です。 この度、私たち陸上自衛隊をより身近に感じて頂くとともに、皆様のご理解を一層深めて頂きたいとの思いを込め、ホームページをリニューアル致しました。 これからも、様々な分野において幅広い役割を果たしている隊員達とその活動等を紹介できるよう内容の充実を図って参ります。 最後に、私たち陸上自衛隊は、国民の皆様からのご期待と信頼に応えるべく、しなやかで逞しい組織となるようより一層精進致して参りますので、どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。
468 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:05:19 ID:CSJNtX+/
「着任のご挨拶」 平成20年3月24日付をもって海上幕僚長を拝命いたしました赤星慶治 です。 内外情勢が大きく変化する中で我が国の防衛そして海上自衛隊のあり方が 広く問われているこの時機、海上幕僚長の職責の重さに身の引き締まる思い を禁じ得ません。しかし、現下の情勢が如何に変化しようとも、海上防衛の 重要性にはいささかの変化もなく、我が国にとって死活的に重要な海上防衛 の任務達成に向け全隊員とともに全力を尽くす決意であります。 さて、近年、海上自衛隊においては、多くの不具合事案や重大事故が相継 ぎ、我々に対する国民の信頼が大きく揺らいでいます。 言うまでもなく我々は、国家、国民のために献身するという決意のもと、 常に身を挺して任務を完遂し、国民の負託に応えていくべき存在です。いか なる状況においても海上自衛隊は、国家、国民の要請に速やかに対応し、国 民の負託に応えうる足腰の強い実力集団でなければなりません。 このような認識のもと、海上幕僚長としての勤務方針を「精強・即応」並 びに「柔軟な対応」といたしました。 「精強・即応」とは、目前の情勢変化に動ずることなく事に臨んでは迅速 に行動し、整斉と任務を完遂しうる精強な海上自衛隊を練成、維持すること です。これは海上自衛隊創設以来、連綿と受け継がれ、海上防衛に任ずるプ ロフェッショナル集団の本質でもあります。 次に「柔軟な対応」です。来る3月26日をもって海上自衛隊は、創設以 来最大規模となる体制移行と部隊改編を断行します。前例や慣習に盲従する ことなく、前動続行的思考を廃し、変えるべきものは勇気を持って柔軟な発 想で大胆に変えていくことが必要だと考えています。 現在、海上自衛隊がおかれている情勢を真摯に受け止め、海上防衛の重責 を担任し、身を挺して国家、国民に貢献する海上自衛隊員である「誇り」を 全隊員で共有し、隊員一人一人が自己の使命と職責をよく認識し、やるべき 事を整斉と実施し、海上自衛隊の信頼回復に努め、任務を完遂し、国民の負 託に応えるため、心を一つにして全力を尽くしていく所存です。
469 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:06:53 ID:CSJNtX+/
航空幕僚長の田毋神 俊雄 です。 航空自衛隊を取り巻く状態は、最近の十年間、かつてないほど急激かつ迅速 に変化しています。十年前、航空自衛隊がイラクで活動するとは誰も予測し ていませんでした。しかし今、現実に我々の輸送機がイラクの空で復興支援 活動を行っています。 この様な予測もしていなかった急激な変化の中でも、航空自衛隊は与えられ た任務を的確に遂行しています。これは、「国家・国民のため」という武士 道の精神を忘れることなく日々粛々と教育訓練を繰り返し、任務を遂行して きた隊員一人一人の努力の積み重ねの結果であると思います。また創設以来 五十数年の隊務運営のやり方が間違っていなかった証でもあります。 私たちは、航空自衛隊員の一員であることに誇りと自信をもって、十年後い かなる任務が与えられているかということも考えながら、引き続き真摯に部 隊の精強化に尽くしてまいる所存であります。 このホームページでは、イラク復興支援活動を始めとする海外での活動状況 を含め、航空自衛隊の様々な活動や戦闘機、輸送機、地対空誘導弾等の装備 品を紹介しておりますので、皆様の航空自衛隊に対するご理解を益々深めて いただければ幸いです。
470 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:10:34 ID:CSJNtX+/
防衛大学校長 五百旗頭(いおきべ) 真(まこと) 防衛大学校受験を歓迎します 防衛大学校は、日本の国防に関心のある人、組織の上に立ってリーダーとな ることに関心のある人、情熱と積極性をもつ人を待っています。 防衛大学校は、4年制の大学教育を受けながら、英語能力を身につけ、学生の 約10パーセントが海外短期留学することができます。キャンパスには留学生 が多数おり、海外の士官学校の学生の訪問が頻繁にあり、国際的な雰囲気が あります。そして毎年国際士官候補生会議が学生たちによって組織されてお ります。 防衛大学校は、こうした国際交流を重視しているかたわら、全員運動部に所 属して体力の向上を目指すことに力点をおいた大学でもあります。 防衛大学校は自衛隊のリーダー(幹部自衛官)となる人たちを育成する日本 で唯一の大学教育機関です。防衛大学校は防衛省の機関ですので「大学校」 といっておりますが、一般大学と同じ4年制の教育を施し、学位を授与して います。 防衛大学校は毎年約460名を基準に学生を採用しますが、その内訳は約85名 が人文社会科学系、約375名が理工学系です。人文社会科学系では3学科、 理工学系では11学科があり、学生は現代社会に関連の深い、多様な14分野の うち1つを専攻して卒業することができます。学生の専攻分野は2学年に進む ときに決まりますが、1学年生は教養教育科目を重点的に学び、その間英語 教育、情報処理、日本語表現能力のほか、憲法、歴史、政治学などの人社系 基礎科目、数学、物理、化学などの理工系の基礎科目を習得し、2学年に進 むときに専攻分野を決めます。 防衛大学校の教官数は約350名で、これは学生4.8人に1人の割合になり、 全国でももっとも望ましい少人数教育が行われています。 防衛大学校のもう一つの特徴として、制服教官(幹部自衛官)による防衛 学の授業があります。戦史や国防論、戦略論など、一般大学では見られな い、防大ならではの教育科目です。この意味で、防衛大学校は、将来の日 本の国防の任につくためのリーダーとしての資質を磨く「士官学校」でも あります。 防衛大学校は、横須賀の三浦半島の先端に位置し、東京湾を望み、富士山 を仰ぐ風光明媚な自然環境に恵まれたところにあります。防衛大学校は、 若人が4年間の大学生活を過ごすのに最適な大学です。 諸君の受験を歓迎します。
471 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:12:26 ID:CSJNtX+/
第8代 防衛医科大学校長 早川正道 挨拶 防衛医科大学校は、医師である幹部自衛官となるべき者を養成し、かつ、 自衛隊医官に対して自衛隊の任務遂行に必要な医学についての高度の理論・ 応用についての知識と、これらに関する研究能力を修得させるほか、臨床に ついての教育訓練を目的として昭和48年11月に設立されました。翌年4 月から航空自衛隊入間基地内の仮校舎で第1期生の授業が開始され、50年 8月に現在の所沢校舎に移り、現在に至っております。 平成19年1月9日防衛庁は防衛省となりました。国際平和協力活動等が 本来任務となり、自衛隊衛生部門の一員である本校の卒業生も、その活躍の 場が、我が国のみならず国際的に広がっていくものと確信しております。
472 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:15:30 ID:CSJNtX+/
【 ようこそ、情報本部ホームページへ 】 専守防衛を国防の基本とする我が国の安全を確保するためには、戦略情報 を含む高度の情報収集やその分析等を総合的に実施し得る体制が重要です。 情報本部は、そのようなニーズを満たすための防衛省の中央情報組織であ り、国際軍事情勢等の自衛隊全般を通じて必要とされる情報の収集・分析等 を行うため、職員はそれぞれの部署で日夜勤務に精励しています。 平成18年3月27日をもって情報本部は長官(現防衛大臣)直轄化され、 防衛庁長官(現防衛大臣)に対して迅速・的確・直接に情報を提供し得る 「防衛省の中央情報機関」として新編されました。 本ホームページによって情報本部についての理解を深めて頂ければ幸いで す。 情報本部長 空将 外薗 健一朗
473 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:19:10 ID:CSJNtX+/
平成19年9月1日付をもって、防衛監察監を拝命いたしました櫻井正史で す。 防衛省・自衛隊は、創設以来五十年にわたり、わが国の平和と独立を確保す るとともに、国際平和維持活動や災害派遣などの様々な活動を積み重ねて参 りました。ところで、昨今の防衛省・自衛隊を取り巻く情勢の変化は、これ までよりも一段と多種多様な分野に及んでおり、組織として、それらに迅速、 的確に対応していくためには、より強靭な組織体制が求められております。 防衛庁から防衛省への移行もこうした課題に対応していくためになされました。 しかしながら、度重なる不祥事によって、防衛省・自衛隊に対する国民から の信頼が著しく損なわれ、組織としての基盤を揺るがしかねない事態となっ ております。 このような事態を踏まえ、平成19年9月、防衛監察本部が設立されました。 防衛監察本部では、防衛省・自衛隊の全ての組織に対して、独立した立場で、 会計に関する手続をはじめ、あらゆる業務を対象に厳格な監察を実施いたし ます。監察を通じて、不正や非違行為に繋がる行為を未然に防止し、防衛省・ 自衛隊を健全で強靭な組織体へ導き、国民からの信頼を揺ぎないものにする ことが防衛監察本部に課せられた最大の任務であると考えております。 私ども防衛監察本部職員一同は、このような任務の重要性と責任の重みに思 いを致し、全身全霊を尽して日々の職務に励んでゆく所存であります。 平成19年9月 防衛監察監 櫻井さくらい正史
474 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:22:35 ID:CSJNtX+/
Q: 10時からの参議院本会議で「思いやり予算」が否決されることになり そうですけれども、条約としては参院否決が初めてということですが、受け止 めをお願いします。 A: これは、今の参議院の議席の数からいって、民主党さんが反対であられ 、その他社民、共産で反対の方々がおられる、これはやむを得ないと思ってお ります。もし、仮にそういうことになればということです。ただ、それは条約 ですから当然憲法の手続きに従って、今後の推移で行われることになります。 もしそういうことになれば、極めて残念ということに尽きます。 Q: 自民党の小委員会が昨日、統幕の機能強化を内容とするような提言を まとめられましたけれども、大臣のおっしゃっていることと随分方向性が違 いますが、それについての受け止めをお願いします。 A: そうですか。私は、別に違うとは思わないです。運用というものを内 幕一体で行うことにおいては、従来、私が自民党の関係の仕事をやっておっ たときからある議論でありますし、私もその方向性には何の異論もないこと であって、色々な人の色々な議論があるわけですから、ピッタリ一致すると いうことはないと思います。ただ、概ねの方向性としてはそんなに乖離があ るものだとは思っていないということです。 Q: 今日の読売新聞の一面で、新たな防衛会議を作るために秋の臨時国会 に応じて出すという報道がありましたけれども、事実関係はいかがでしょう か。 A: そのようなことは全く決めていません。それは、書いた人に聞いてく ださい。 Q: 現在、防衛会議がありますけれども、これは今後活かしていくという ことなのでしょうか。 A: それはそうです。活かしていきますが、それを防衛会議という形で防 衛省設置法等々の中でその権能を決めるというようなことだとすれば、それ はやはり設置法の改正になるのでしょう。しかしながら、そういうような方 向性で決めたというようなことは少なくとも私は承知をしていません。どこ かで誰かがそのようなことを決めたと言っているのかもしれませんが、私は そのようなことは知りません。私がそれで良いと言わなければ当然、防衛省 の案にはならない、当たり前のことです。
475 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:26:20 ID:CSJNtX+/
Q: 練馬駐屯地の19歳の自衛官が、鹿児島でタクシー運転手を殺害する という事件が発生しました。また事件、不祥事という感が否めませんが、こ れについてどう大臣は受け止めていらっしゃいますか。 A: 事実関係を正確に把握をしなければいけないということで、今その報 告を求めているところです。今ご指摘のように、19歳の一等陸士が、そう いう事件を起こしたという一報は受けています。またその当該容疑者たる者 が3月の下旬から所在不明であったということも報告は受けております。正 確な状況を把握次第、またコメントは出しますが、現時点では、横須賀にお いて米兵によるタクシー運転手の方を殺害したという事件があったが、今聞 く範囲においては、類似のような気がしないわけではない。いずれにしても、 事実関係をきちんと把握をした上で、被害者の方に対するお詫びはきちんと しなければならないし、原因の把握もきちんとしなければいけないことであ り、政府としてこれ以上とりようがない対策・対応をしなければならないと いうことだと思います。いずれにしても、誠に申し訳ないということ以外に ありません。ただ、事実関係をきちんと把握しないうちにコメントを詳細に 述べることはできません。 Q: 省内における組織再編作業の現在のところの進捗状況で、一方で自民 党が小委員会で一つ再編案をまとめるということですけれども、今後の作業 の中で、この自民党案との関係を含めて今後どういうふうにお考えになって いますでしょうか。 A: それはどうでしょう、自民党案もこれから何度か小委員会において議 論がなされ、そして国防部会にあがるのか、国防3部会なのか、どういう取 り扱いになるか分かりません。中身もどういうものになるか、最終的なこと は分かりませんが、ただ、議論をされるべき点はいくつかあり、そこについ て考え方そのものが異なるのか、異ならないのかということがあります。つ まり、一つは、UC混合体制ということがあり、もう一つは、スタッフとラ インとの関係をどう整理するかという問題や、そして政治家、文官、制服こ の関係の整理があります。特に防衛省設置法第12条というものがどこにど のように効いてくるのか、あるいは効かなくなるのかという話です。これは、 精緻に法律に落としてみてどうなるのかということでないと、同床異夢的な ことになりかねないので、あまりいい加減な議論をしてはいけないと私自身 思っています。法律に落としてみたらば、意図したことと全く違ったとか、 そういうことは十分起こり得ることであり、私は思うのですがこの実力組織、 普通の国でいう軍、これの改革というのは、何年も何年もかかってやるとい うのが諸国の通例であって、それはわが国の場合には半年くらいの議論です から、私はいろいろな論点をきちんと詰めるということが大事だと思ってお り、いずれにしても自民党の案というのは最終的なものが分からないので、 ここで自民党の案についてコメントすることはできません。また、省内の議 論も各論に入ってみて、繰り返しになりますが、条文に落としたときにどう なるかというところまでいかないと、本当にこれがどういうものなのか、思 ったものと違うことがあり得るので、当然有識者会議との整合も図りながら 詰めの作業はしたいと思っています。
476 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:26:43 ID:CSJNtX+/
Q: 先週、航空自衛隊のイラクへの派遣をめぐって田母神空幕長が「そん なの関係ねえ」というふうに会見で発言されました。これについては批判の 声も上がってはいるのですが、大臣自身はこの表現を含めてどのようにお考 えになりますでしょうか。 A: 私は地元に帰ってバタバタして見ていないのですが、この映像はライ ブで流れていますか。 Q: あの日はテレビカメラが会見には出ていなかったかもしれません。 A: 出ていなかったのですか。文字でしか読んでいないので、実際にどう いう感じだったか、つまり会見で言われた状況と文字になったものと印象が 異なる場合があるので、これをその場で見ているかあるいは、映像を見てい ればきちんとしたコメントができるのでしょうが、あくまで文字で見た上で、 前提付きで申し上げれば、政府としてああいう判決が出たけれど、私はコメ ントで申し上げたように、この判決の結論を導き出すためにイラク派遣にお ける空自の活動というものが、議論のプロセスとして必要であったかと言え ばそうだとは思っていません。そしてまた当然基本計画においては、バグダ ッド空港というふうに書いてあるのであって、バグダッドというような漠然 たることは言っていないわけであり、政府としてはああいう判決は出ている けれども、我々の活動は非戦闘地域で行われているものであって、いささか も活動が憲法に反するものとは考えていないということです。空幕長はそれ と同じ趣旨を言ったものだと思います。ただ、空幕長の会見について、これ はよく私もフォローしなければいけないことですが、私自身、大臣としてそ のことを法的にまた、国会においてもどうなのだということであり、判決と いうものが法律の結論として出ているわけだから、政府としてどう思うかと いうことを申し上げているのであって、幕僚たる方がそれと違うニュアンス でご発言になるということにはやや違和感は感じています。ただ、空幕長と して現場の隊員に対して、いささかも士気を落とすことがないように、この 活動が憲法に則った活動であるということを強調されたかったというお気持 ちはよく分かります。ですから、田母神さんの心情、そして隊員を思う気持 ちについて、いささかの疑いも持つものではありませんが、言い方として私 は若干の違和感を覚えないではないということです。ただ、空幕長の隊員を 思う真摯な気持ちは、私は、いささかも変わりがないものだと思っています。
477 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:28:16 ID:CSJNtX+/
Q: 今日、守屋前次官の初公判が開かれましたけれども、その受け止めを お願いします。 A: 冒頭陳述を全て正確に把握しているわけではないし、あくまで冒頭陳 述を聞く限りにおいてということですが、改めて、どうしてこんなことが起 こるのか、隊員或いは国民に対する大きな背信行為であって、勿論、本人の 主張もあるだろうけれども、聞く限りにおいて、驚き、悲しみ、そういう思 いです。極めて残念であるということです。 Q: 守屋前次官と部下との多額の金銭のやり取りについてなのですが、防 衛省の調査と違う内容が今回、明らかになりました。これについて、改めて 防衛省で調査するお考えはありますか。 A: これからよく冒頭陳述を精査してみなければいけません。しかし、仮 に現職の職員との間に問題のあるような金銭の授受があったとするならば、 それは我々として確認の上、しかるべく対応しなければならないということ だと思います。 Q: しかるべき対応をしなければならないというのは、改めて調査される ということですか。 A: それは、冒頭陳述をよく確認した上でないと軽々なことは言えません。 それが調査をしなければならないというようなことだと認識をしたならば、 調査は躊躇なく行います。
478 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:33:16 ID:CSJNtX+/
Q: 自衛隊のイラク派遣についての裁判で、昨日、名古屋高裁が空自の活 動が憲法違反にあたるとの判決を出したことについての受け止めと、判決文 の中で首都バグダッドが戦闘地域であるとした上で、多国籍軍の武装兵員輸 送が武力行使と一体化した行動であると認定したことについてご所見があれ ばお願いします。 A: 昨日の名古屋高裁の判決につきまして、内容を繰り返すことはいたし ません。国側が勝訴したものでございます。しかしながら判決理由の中で、 空自の活動が違憲とされたということは極めて遺憾であると考えます。判決 を導き出す立論過程において、そのような自衛隊の活動が違憲であると判断 した部分が論理構成上必要なものであったかといえばそういう訳ではないと 私は読んでおります。従って、これはいわゆる傍論部分にすぎないものであ りまして、なぜそういうようなことを敢えて言及したのか、私には理解をし かねるところでございます。これは累次国会答弁等々で、或いは記者会見等 々で申し上げていることでございますが、私どもの航空自衛隊の活動という のは、憲法の範囲内において行われているものであります。従いまして、こ のことは当然合憲であり適法であるという考えに全く変わりはございません。
479 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:34:00 ID:CSJNtX+/
Q: 防衛省の組織再編について、省内の改革推進チームの議論の進捗状況 はどのようになっているのかということと、大臣が市ヶ谷の人員削減を打ち 出して余剰人員を地方の部隊に振り分ける意向という一部報道もありますけ れども、大臣自身そういうご意向なのでしょうか。 A: 進捗状況について申し上げれば、理念系というもので、私が示したも のがございますが、それはあくまで理念系であり、色々なバリエーションが 当然あり得るものでございます。それぞれ一長一短、メリット、デメリット、 そういうものがありますから、そういうものについてどうなのかという議論 を行っているものであり、現在そういう段階です。私は余剰という言い方を したつもりは全くありませんが、仮にそのようなことにより効果的な大臣の 補佐態勢というものが確立され、効率的という面からすれば人員の重複部分 というような問題、そういうところから人材支援が生み出されるということ はあるかもしれないと思っております。また、常に申し上げていることです が、私は現場に人が足りないという意識が強くございまして、艦艇の充足率 にしてもそうですし、あるいは現在の大綱の決定においても、それがどれだ け事実を的確に把握しているかは別にして、充足率と定員の議論がありまし たが、結局のところ定員の方をそれに合わせたというような、ある意味実態 に合わせたみたいな批判というか論評をされたこともございますが、実際に 厳しい財政事情の中にあって人は増えないが、任務は拡大しているというこ とから考えれば現場に人が足りない現状である。自衛隊の基本はあくまで現 場でありますから、現場が任務に相応しい人を確保しなければいけないとい うニーズがあるわけです。それと中央組織が効率的な組織になるとすれば、 その二つの事象が合わさってそういうことがあるだろうと私は思っておりま す。ただ現場に人が足りないから、とにかく中央の人を減らせというような 暴論を言っているつもりは全くなく、そういう話ではなくて、実際に現場に 人が足りないということと、中央組織を、大臣補佐態勢を効率的にするとい うことが合わさってそういうことが結果として起こりうるということを申し 上げている。今の時点で「このようです」というものを決したものではござ いません。
480 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:34:39 ID:CSJNtX+/
Q: 中央組織のポストを減らすと、役所の人からは抵抗というか反発が予 想されますけれども、現在もそういう声があるのでしょうか。そのような反 論があるのでしょうか。 A: ポストが減るからいやだというお話しは、私自身聞いたことがありま せん。これは常に申し上げていることでございますが、「立場を明らかにし て意見をください」ということ、そして「かくかくしかじか、かくなる理由 でということを明らかにしてください」ということであります。これはポス トに限らず、組織のあり方自体もそうですが、そういうことであれば、それ はもちろんいくらでも議論の対象になりうるものでございます。ただ、ポス トが減るからいやだみたいな、そういう不見識なことを言っている人がいる とは、私は承知をいたしておりません。
481 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:35:18 ID:CSJNtX+/
Q: 航空自衛隊のイラクでの活動ですが、どういった活動をしているのか ということについての情報開示というものが不足しているのではないかとい う指摘もありますが、今後、「武力行使と一体化ではないのだ」ということ をもっとアピールするために、そういった公開を含めてお考えになる部分と いうのはございますか。 A: これは、空自のクウェート、イラク間の輸送に限らず、補給支援特措 法に基づく海上自衛隊の活動についても、可能な限り情報公開するというこ とを私は申し上げているところであり、ホームページ等々においてそういう 活動というものは支障のない範囲において明らかにしているものでございま す。ですから、それをご覧になって、もちろんご覧になってのご発言だと思 いますが、この部分が足りない、あの部分が足りないということであればご 指摘をいただきたいと思っております。私として、本当に支障のない範囲に おいての情報公開はしたいと思っており、そのようにしているつもりですが、 逆に申し上げれば、支障のあるというものについては、これは多くの国々と の協力関係においてやっていることでございますので、わが国独自で判断し 情報公開するということに必ずしもなじまない部分がございます。従いまし て、個々の部分がなお足りないということがあれば是非ご指摘をいただきた いと存じます。
482 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:35:55 ID:CSJNtX+/
Q: 判決の中で、「週に4回から5回、定期的にクウェートの空港からバ グダッドの空港に武装した多国籍軍の兵員を輸送していることが認められる 」という判決の事実認定なのですけれども、これは事実でしょうか。事実に 反していますでしょうか。 A: 「武装した」というのをどういうことを捉えてそのようにおっしゃっ ておられるのかということだと思います。つまり、小銃でありますとか、そ れに必要な弾薬でありますとか、そういうものを携行した人員が乗ることは あり得るということは申し上げているところでございます。従いまして、そ れを輸送しているということがどういうような評価になるのか、それによっ て、即、戦闘地域であるとか、武力行使と一体化するとか、そういうような 評価にはならないのだと私は思っております。なぜ非戦闘地域という概念を 設けたのか、そのことが実際にやることが憲法9条に違背をしないようにと いうことであるわけですが、それに更に念押しという形で非戦闘地域という 概念を設けている。要は憲法9条をきちんとその履行を担保するためにそう いう仕組みを作っているものでございまして、そういうような小銃ですとか そういうものと弾薬というものを持った者を輸送するということは、武力行 使の一体化には当たらないということは累次申し上げているところでござい ます。
483 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:36:25 ID:CSJNtX+/
Q: 北京オリンピックに関して、世界各地で聖火リレーに対する妨害活動 をしていますけれども、何か感想があればお願いいたします。 A: これはチベットに限らず、もちろん内政干渉にならないように気をつ けて言わなければならないのですけれども、その地域において、人権弾圧と いうものがあってはならないということが、それはそのとおりだと私は思い ます。それが中華人民共和国であれ、あるいはロシアであれ、どこでもそれ は同じことです。しかしながら、平和の祭典たるオリンピックの聖火を輸送 するということを実力によって妨害するということが決して好ましいことで はないと、それはダライ・ラマ14世自身もそういうことについては、言葉 は正確ではないかもしれませんが、「決して望むものではない」というよう な考えを述べておられるところでございます。あまねく、どの国おいても、 その地域における人権というものが尊重されるべく配意がされねばならない ということ、それが日本政府としても当然そういう認識でございます。それ と平和の祭典たるオリンピックの聖火の輸送というものを妨害するというこ とは、一つの考えとして繋がって成り立つものではないだろうと思っており ます。やはりそういう聖火というものがきちんと輸送されるべきであります し、同時にそれぞれの国において、総論としてそれぞれの国民の人権という ものが弾圧されることがあってはならないということ、それは両方成り立ち うることだと私は思います。
484 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:44:23 ID:CSJNtX+/
Q: 先週発足した抜本的対策検討会議についてお伺いします。次回は、 「あたご」事故後の大臣や次官の対応についても検証するということです が、大臣自身、大臣と次官の対応の具体的にどの部分に問題があったとい うふうにお考えでしょうか。 A: これは、大臣、次官に限りませんが、当省全体としてどうであったか ということについての議論をしなければいけないことだというふうに思って おります。いくつかのご指摘を頂いておりまして、一つは「2分前」、「1 2分前」問題、あるいは緑の灯火という話はなんであるのかということ、さ らには、航海長を呼んで事情を聞いたということについてどうだということ であります。私としては、「あたご」の事故発生から、今日に至るまで、色 々なご批判をいただいているわけで、それを全部点検してみようというふう に思っております。情報開示のあり方というのは、基本的に現在未確認であ りますが、こういう情報があるということを何処まで開示するか、国会答弁 でもお答えしたことですが、確認を行い、あるいは捜査当局はじめ、そうい う色々な関係部署と調整する関係上、これはどうしても遅いとか、小出しだ とか、そういうご批判を頂くことになるわけです。しかし、入った情報を未 確認ですがということで出せば、当然、次に入ってくる情報との齟齬という のもあるわけで、そうすると、今度は二転三転とこういうご批判を頂くこと になるわけです。どちらにしても、二転三転というご批判を頂かず、なお、 小出しだとかあるいは遅いとか、そういうご批判を頂かないというのは、ど ちらかというと言い方はよくないのかもしれませんが、二律背反という、そ ういう関係には立つのだろうと、どういう形が一番望ましいのかということ について、我々として虚心坦懐に考えてみなければいけないということだと 思います。一つのルールみたいなものも必要なのだろうというふうに思って おりまして、このあたりいつもお話しすることですが、報道関係の方々がど のようにお考えになるだろうかということもあると思います。私は、当然の ことですが、事実を隠すことなく、ましてや手を加えることなく、公表する というのは大事なことだと思っております。ただ、政府に対する信頼という ものが二転三転ということで、ネガティブなレッテルを貼られるということ は、望ましいことではなくて、そうすると遅いとか小出しとかいうご批判を ある程度、甘受しながらもきちんとした確認、あるいはきちんとした調整と いうことは必要なのかもしれません。ただ、そういうことであって、報道の 方々、あるいは国民の皆様方のご理解を得るために、どういう仕組み、工夫 があるだろうかということで、虚心坦懐、謙虚に、また真摯に考えて参りた いというふうに思っているところでございます。
485 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:45:13 ID:CSJNtX+/
Q: クラスター爆弾の関係でお聞きしますが、来月に禁止条約についての 会議がありますけれども、日本がこれまで保有を必要とした理由と、クラス ター爆弾を日本が使用する場合のシナリオ、想定についてお聞きしたいと思 います。 A: これも国会で何度かお答えをしているところでございますが、別にク ラスターに限らず、色々な武器というものは、抑止力として、持っているも のでございます。私どもは、専守防衛という考え方からして、このクラスタ ーというものを海外で使用するという想定をしておりません。不幸にして、 我が国が急迫不正の武力攻撃を受けたという場合に、広く面的に制圧できる というクラスターの持つ抑止力というものは、私は、評価されるものだと思 います。つまり、それを言葉の正確性を欠くかもしれませんが、攻撃的に使 うのではなくて、あくまで抑止力として、防御的に使うということでクラス ターの保有という考え方は、成り立っているものでございます。したがって、 仮にクラスターを使わざるを得ないという状況が現出したときに、当然、民 間人は退避をさせるという措置を執ります。諸国でクラスターが使われてい る場合に、民間人の被害が圧倒的に多いということは、これは事実であると いうふうに私は認識をしているところでございまして、わが国が不幸にして 使わざるを得ないという場合には、民間人の退避ということ、そして侵略を 排除し終わった段階で、その地域に民間人が戻られる場合には、私どもとし て不発弾が残っていないか、それによって事故に遭われることがないように、 その地域に子弾や不発弾が残っていないということを完全に確認した上でな ければ住民の方々、民間人の方々が戻るということはないというように思っ ております。あくまで、わが国に対して侵略を試みる勢力が仮にあったとし たら、このクラスターの持つ抑止力というものをどのように考えるか、そし て民間人の被害というものをゼロにするということのためにどのような手が 打てるか、そのバランスでわが国のクラスター保有というものは考えるべき だというふうに思っております。他方、私どもの国としてクラスターが信頼 性を備えたクラスター、信頼性の低いクラスター、その基準というものが客 観的にこれからどういう解が求められるかという議論はしていかなければな りませんが、そういうような分け方が本当に可能であるのかどうかと思って おります。そして、対人地雷の時も議論があったことですが、抑止力を中核 に置いて兵器を保有する場合に、クラスターを止めたとして、代替手段とし てどのようなものがあるのか。対人地雷の時には、指向性散弾というものが 開発されたわけですが、クラスターの場合には、そういうことがなかなか難 しいということであります。そして、アメリカでありますとか、ロシアであ りますとか、中国でありますとか、これは否定的な立場に立っているわけで、 何もアメリカだけのことを考えて申し上げているわけではありません。この クラスター爆弾というものによって、不幸な被害というものが起きないとい う実効性をどのようにしてきちんと担保するのかということを考えていかね ばならないのだというふうに思っております。本当はクラスターを使わなく てもいいような、あるいはそれを抑止力としてもたなくてもいいようなそう いう世界が訪れるように、努力をしていかねばならないことだというふうに 思います。そういうことを除去するということを日本においてはそうなので すが、しかし、全世界においてどうなのかということは、やはり日本として 本当に議論していかねばならないことだというふうに私は思います。
486 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:46:17 ID:CSJNtX+/
Q: 大臣、事後対応の件に関してなのですが、2月27日の国会答弁、航 海長の聴取は、海保に無断であったと発言されておりますが、これは、前日 までと明らかに前言を翻していますよね。その情報が更新されたということ ではなくて、この点、今大臣はどう評価されておりますか。 A: 無断であったということをどう評価するかとういう話ですが・・・・。 Q: いや、26日までは、航海長の聴取は海保に断ったという説明をされ ていて、27日に初めて無断であったと・・・。 A: ですから、それをどのように評価するかということも、これは国会で 何度もお答えしていますが、つまり、横須賀の海上保安部に対して、「けが 人一人、そして上級部隊に報告するために一人降ろします。」ということを 連絡して、先方の当直の方が「わかりました。」というふうに言われたと聞 いておりますが、このことをもって了解というふうに申し上げてきた訳です。 しかしながら、それは連絡をしたということであって、了解という評価には ならないというふうに私自身、発言を翻したということを言われると、そう いうふうにおとりになるということもあるでしょうが、私としては、きちん と連絡はしましたが、しかしながら、海上保安庁の然るべき立場の人にきち んと「こういうことですよ」という連絡について、それは当直の人に連絡し たからそれでいいだろうということではなくて、海上保安庁という一つの捜 査当局に対して、きちんと通知をするという行為が必要であり、そちらの方 がより望ましいということを申し上げました。ですから、その連絡したとい う行為を、これを海上保安庁の承諾を得たという評価にはなりませんという ことをその場で申し上げたものでございます。
487 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:47:04 ID:CSJNtX+/
Q: 事実関係は変わらないけれども、それに対する評価が変わったという ことでしょうか。 A: そうです。 Q: 26日の海幕長会見までは、連絡をしたという評価だったと思うので すが。 A: 連絡はしてますでしょう。 Q: それ以降に評価が変わったということでしょうか。 A: 連絡したということと承諾を得たということは違うのではないですか。 Q: 連絡はしたけれども承諾については触れていなかった。 A: そうです。ですから、それを私は国会答弁でもお答えしていますが、 防衛省・自衛隊という実力組織を管理し運営する者として、あるいはそうい う立場に立つ防衛相として、「どこで何が起こっているのか」ということを 把握するというのは、それは責務だと私は思います。しかしながら、それが 民間船舶と衝突をしたということ、そしてそれが海上保安庁の捜査に係るも のであるということでございます。それは、当然実力組織として把握するた めに行ったものでありますが、海上保安庁という捜査当局の然るべき部署に 対して、それをきちんと「海上保安庁に対して」という行為を行うとする、 行わなければならないものであって、それは当直の方にお電話すればそれで 足りるというものではないと思っております。また、当直の方ではなくて、 その航海長の聴取を始めた時間から考えれば、海上保安庁の然るべき方にそ ういうような連絡をする時間も十分にあったということで、適切ではなかっ たということを申し上げたのでございます。
488 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:47:47 ID:CSJNtX+/
Q: 大臣、内閣支持率の下落傾向が続いているわけですけれども、この現 状をどうお考えになるかということと、当省では防衛省改革という課題もあ るわけで、こうした取り組みを政権浮揚につなげていけるとお考えになるか、 その辺りについてお伺いします。 A: それは各社いろいろな調査がありますが、内閣支持率が低下傾向にあ るというのには様々な要因があるだろうと思います。総理も昨日おっしゃっ ておられましたが、例えば長寿医療制度というものに対して、一人一人の7 5歳以上の方に対して、「山田花子さん」「鈴木一郎さん」「田中二郎さん」、 その人にとってどうなのかということをきちんと得心いただくような努力と いうものが必ずしも十分でなかったということがあるといます。お役所風の 精緻な理屈で、これはこれをサステイナブル(持続可能)なものにしていく ために必要なものですと、あるいは負担が減る方も大勢いらっしゃいますし、 そして年金からそれをいただきますということによって負担も軽減され事務 コストも減りますとか、そういうことを縷々言うわけだけれども、「田中花 子さん」「鈴木一郎さん」それぞれの方にとってどうなのだということをご 得心いただけるという段階に至っていないということです。それは民主党の 方が昨日、その言葉を私は使いたくないので言わないのですが、「現代の何 とか」と、そういうような言い方で批判をされるということに対して、そう ではないのだということが情の面において得心いただける、そういうような 状況に至っていない、ということだと思います。それは、何も後期高齢者医 療制度に限らず、全ての分野に亘ってそうなのであって、理屈は正しいのだ と言ってもそれが納得してもらえなければ、それは意味の無いことだと私は 思っておりまして、そういう努力を地道に積み重ねていかねばならないだろ うと思います。ですから私は、テロ特措法の失効の直前に官房長官と共に街 頭に立って訴えたことがあります。いかなる政策であっても、本当に街頭に 立って訴えて、最初は聞く耳を持っていただけなくても立ち止まる方が出て 「じゃあ聞いてみようか」と、聞いてみたら「ああそうだったのか」という ふうに言っていただけるようにならなければ駄目だというふうに思っており まして、内閣全体としてそういうことを果たしていかねばならないかと思っ ており、「所管外ですから私は関係ありません。」というようなことは、私 は取るべき態度だとは思っておりません。なお、防衛省改革の点についてお 触れになりましたが、防衛省改革も同様であって、組織いじりが目的なので は決してありません。何故これをやらねばならないのか、それをやることに よってどのように変わるのかということがきちんとご説明できるようでなけ ればならないと思っております。ただ、年金でありますとか、あるいは医療 と違いまして、一人一人にとってどうなのだというようなことが直結いたし ませんので、ここのお話の仕方については、相当の工夫が必要だという認識 をもっております
489 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:48:30 ID:CSJNtX+/
Q: 2日前の13日に沖縄県内で米軍人の息子による万引き事件が発生し ました。その際に店員がまず現場で身柄を取り押さえたのですが、後から憲 兵隊が身柄を拘束して基地内に連れて帰るということが明らかになりました。 綱紀粛正が叫ばれる中で、こういう事件が発生したことに対する受け止めが 一点と、基地外で発生した事案に対して、米兵が基地内に日本側の捜査要請 に応じず、基地内に連れて帰るということについて、地位協定に抵触すると いう意見もあるのですが、それについての見解をお願いします。 A: この案件につきましては、私も新聞報道で承知をしているというのが 現状でありまして、実際にどのような事実関係であるのかということについ て正確に状況を知っているわけではありません。したがいまして、そういう 状況の中でコメントするということは必ずしも適当ではないと思っておりま す。地位協定に触れるか触れないかとういうことにつきましても、両論ござ いまして、これも事実関係をきちんと私として把握をした上で、当然地位協 定は外務省の所管ではありますが、それが地位協定というものに照らしてど うなのかということについてきちんとした見解をもちたいと思っています。 現時点でコメントすることができるだけの材料を持っていないので、事実関 係が明らかになり、その上できちんとしたお答えをいたしたいと思います。
490 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:49:10 ID:CSJNtX+/
Q: 確認ですが、今日の閣僚懇では大臣の方から後期高齢者医療制度につ いては何か発言されたのでしょうか。 A: 閣僚懇で舛添大臣から周知徹底ということについて、広報体制を更に 充実させていきたいという旨のご発言がありました。私は全くそれは同感で あります。選挙区へ帰ってみて、本当に高齢者の方がこの制度について大き な不安、あるいは、内容がわからないことについての不満みたいなものをお 持ちだということは、実際にお一人お一人に接してみて、すごくわかりまし た。私が閣僚懇で申し上げましたのは、本当に街頭に出て高齢者の方々に対 して、こういう制度なのですということ、負担が増える方もいれば減る方も いて、地域差がありますから、それのやり方というものについては色々な議 論があるのでしょうけれども、基本的に正しい政策ですが誤解が多い、ある いは内容がよく理解されていない現状です。クローズドな場所で関係者を集 めてお話することも大事だけれども、本当に街頭に出て、「ああ、そうなの か」というふうにご理解頂ける、そういう努力が必要なのではないだろうか ということ申し上げました。これは消費税のときもそうでしたが、本当に街 角で演説をして、誰も聞いてくれないかもしれない、あるいは罵声が飛び、 やじが飛び、ひどい場合は何か飛んできたりすることもあって、本当に正し いものであればそういうことが必要なのではないだろうかということを、私 として申し上げたところでございます。当然、政権内にある者として、評論 家みたいなことを言うのではなく、自分としてもできる限りの手伝いはしま すということは申し上げました
491 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:49:46 ID:CSJNtX+/
Q: それに対して総理から何かございましたか。 A: 総理からはございません。ただ、私が発言します前に何人かの大臣か らか発言がありまして、官房長官が「役所から、こういう制度ですよという パンフレットをもらったのだけれども、正確精緻なものではあるが、理解す るのにものすごく時間がかかる」というご発言もありました。本当に分かっ て頂くような努力というものをしていかなければならない。それは当然、こ の制度の持つ特性からして、負担が下がる人も大勢いらっしゃるけれども上 がる人もいる。それに地域差もあるわけで、今まで例えば東京23区のよう に補助をやっていたところが、オール東京ということになるとそれを止める というところも出るわけであり、それは人によって地域によって違うので、 そういう難しさはあるけれども、広報の努力というものを一層していかねば ならないというような趣旨のご発言について総理からはございました。
492 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:53:02 ID:CSJNtX+/
Q: 昨日自民党で恒久法のプロジェクトチームが立ち上がりましたが、公 明党内からはまだこのタイミングでのスタートは国民の理解を得られないの ではないかという声もあったり、与党内で認識が一致しない中でのスタート になっていますが、大臣から見てどのようにお考えになりますか。 A: これはテロ特にしてもイラ特にしても、やがて法律の期限が来る。昨 年の議論でも特別措置法で対応するのではなくて、恒久法、一般法で対応す べきではないか、原理原則を明らかにし、議会の関与のしかたというものも きちんと明らかにするべきではないかという議論が与野党ともに多かったと 思うのです。自民党としてはもう一昨年になりますが、条文化まで行ってい るものですから、やはり議論というものを詰めておくということは必要なこ とではないかと思います。また特別措置法は切れるという時になって、昨年 と同じような議論というのは避けるべきだと思うのです。だから、もちろん 公明党さんも深いお考えがあっておっしゃっておられることだろうと思いま すが、こういう「平時」という言い方もおかしいかも知れませんが、法律の 期限が目前に迫っているわけではない段階で恒久法についてのきちんとした 議論が行われるということは、私は望ましいことだと思います。
493 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:53:43 ID:CSJNtX+/
Q: 昨日省内で抜本的改革検討会議がスタートしましたが、次回は事故後 の対応について大臣やあるいは次官が、その幹部の対応についても検証され ることがあるのか、またその外部の人間の導入ということも大臣はおっしゃ っていましたが、今後どのタイミングでそういったことがあるのか、今後の 進め方について教えていただきたいのですが。 A: この議論は、だらだらとやっていいというわけではない。昨日も私の 冒頭の挨拶の中で申し上げたことですが、集中的に精力的にスピード感を持 って、結論を出したいというふうに思っています。先般の「あたご」の事故 後における私であるとか、次官であるとか、それぞれの対応についてもこれ は検証して、こうあるべきだったのではないか、こっちの方が望ましかった のではないか、そういう議論はしっかりとやりたいと思っています。外部の 方の意見を聞くというのもなるべく早い内が望ましいですが、中で侃々諤々 口論をつなぐみたいな状態で外部の方のお話を聞くのも返って失礼なことに なるかもしれないから、内部の議論に一定の方向性が出た段階で、外部の方 のお話を聞きたいと考えています。これは色々な年代で若い方の意見も聞き たいし、有識者として、いつも名前が出る方々のみならず、ある意味で在野 のというか防衛省に対して批判的な厳しいご見解をお持ちの方からも虚心坦 懐のご意見を聞きたいと私は思います。
494 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:54:22 ID:CSJNtX+/
Q: インド洋の給油活動なのですが、仮に延長する場合にでも今の特措法 の延長というよりは、恒久法の制定を行うことの方が望ましいということに ついては。 A: その一環として、行うことが望ましいとは思いますけれど、そこは、 その時の情勢によるのではないでしょうか。適宜、給油状況というのもホー ムページ等々で明らかにしていることだけれども、ニーズというのは変わら ずあるわけです。それが合衆国からということではなくて、例えばパキスタ ンであるとか、欧州各国であるとか、そういうところからニーズがあるわけ で、その時の状況にもよりますが、ニーズがある以上は当然何らかの法的な 担保が必要だと思っています。その時に「また特措法ですか」、「昨年あっ た議論は何だったんですか」ということは、立法府のあり方としてあまり望 ましいものではないのではないかと思います。それは立法府と行政府がきち んとお話し合いをして、恒久法の論点というのは大体明らかになっているこ とと思っています。要は「何をやるんだ」、「どこまでやるんだ」というこ とと、武器の使用権限の話、そして国連を始めとする国際社会との関与のあ り方と、それとある意味相関関係に立つ議会の関わり方、大体論点はそれぐ らいだと思います。そうであれば、私はそれぞれについてきちんとした議論 を行うのも立法府の責任であり、考え方を提示するのも行政府の責任だと思 います。
495 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:55:02 ID:CSJNtX+/
Q: 大型連休中に調整されていた米国訪問が実現されないようですけれど も、一番の理由は何だったのでしょうか。 A: 「行きます」ということを公式に申し上げたこともありませんが、ま だ今の時点で完全にやめたというお話しでもありません。昨年ゲイツ長官が 来られて相当長い時間議論をしました。また、見通しうる将来、会談をする 機会というのもいくつか考えられるとすれば、こういう国会の状況あるいは 危機管理体制の強化等々から鑑みて、無理して行くことではないと思います。
496 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:55:37 ID:CSJNtX+/
Q: 先日普天間の協議会が開かれましたが、沖縄県側から改めて沖合修正 の意見が出て、新たな実務協議の場というような提案もあったようですが、 大臣はこれについてはどのように必要性をお考えになりますか。 A: それは次回までに色々な議論が行われるのだろうと思っております。 しかし、政府として今の案というものが、色々な要素を考慮して最も良い案 だということを申し上げ、合理的な理由なく変更するのは困難であるという のは、もう皆さん方よくご存知のとおりであって、さはさりながら、本当に その頻繁に協議会が行われて政府と沖縄との間の意思疎通、信頼関係を醸成 しているところではありますが、知事がこの間お話になったのを読んでみる と、「閣僚いっぱいいるからアバウトな話だね」というようなご発言が知事 からあったらしいが、より具体的に詰めていくことは、有効なものであり、 その必要性も含めて次回までに議論が行われるのではないかと思います。い ずれにしても信頼関係を醸成するということが大事であるということですか ら、この間出たお話というのを等閑視するつもりはないということだと思い ます。
497 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:58:27 ID:CSJNtX+/
Q: 昨日、官邸で防衛省改革会議がありましたけれども、委員のほうから 監査の一層の強化等、色々な意見がでました。議論の深掘りの必要性が指摘 されたのかと思いますけれども、大臣の御感想と、今後の調達改革の引き続 きの進め方についてお願いします。 A: 寺田政務官を長として、検討を進めてきたものであって、実現可能な もの、今すぐ実行に移せるもの、そういうものを詳細にしようということで あります。これを具体的なスケジュールに乗せていくことが重要なのであっ て、それの実現に向けて、省として努力をしていきたいと思っているところ です。
498 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 02:59:17 ID:CSJNtX+/
Q: 次回の改革会議は、防衛省の組織改革について議論されると聞いてお ります。当然、省内と官邸の議論も平行して行うと思うのですが、大体、い つ頃までを目処に改革会議の案をまとめるお考えなのでしょうか。 A: それは、作業の進捗状況によると思います。現在、省内の議論におい ても、いくつかの理念系はあるわけで、それを示して、メリット、デメリッ トを上げてみたと、デメリットといわれる部分も、こうすれば回避できるの ではないかというようなことがそれぞれの理念系についても示されていると ころであって、理念系はあくまで理念系でありますから、実際にやるとすれ ば、この中のどれかというわけではなく、その中間みたいなものをとること になるのかなというぐらいなことで、まだ「これだ」というものにはなって おりません。ただ、頭の整理は大体できており、利害得失もみんな共通認識 としてあるわけだから、作業スケジュールとしては、次回の防衛省改革会議 がいつ開かれるかわからないけれども、そこまでには、一応省内の検討を中 間的に取りまとめるような段階までもっていけたらいいなと思っております。 そうでなければ、防衛省改革会議にお諮りすることもできないと思っており ます。今回の調達改革においても、防衛省内で議論したものに対して、防衛 省改革会議がまた別の観点から色々な御指摘をいただくわけであり、そうい う御指摘をいただくためにも次回の改革会議までに、一定のまとまりという ものを持ちたいなと思っています。
499 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 03:00:09 ID:CSJNtX+/
Q: 骨幹となる組織図を出すというのはあるのでしょうか。 A: それは理念だけ並べても何のことだか分からないので、今の組織図、 これも組織図の書き方は色々ありますので、何に着目して組織図を書くの かによります。また、今の組織図と新しい構想の組織図というものは対比 しないとわかりにくいと思います。
500 :
名前をあたえないでください :2008/04/30(水) 03:00:48 ID:CSJNtX+/
Q: 明日、普天間協議会が開かれます。環境影響調査等、始まりましたが 地元の方は未だに沖合への移動を主張されています。大臣自身、計画案修正 の可能性について改めてお考えをお願いいたします。 A: これは、合理的な理由がない限り、変更は難しいということをずっと 申し上げています。そこの意味というものを、つまり法治国家で法に基づい て環境影響評価を行っている、また、これから行うわけであって、それでど ういうような結論が出るかということを見ない前に、沖合移動について断定 的な、あるいは予断を持って何かを言うということは、それはどうなのだろ うかと思っております。やはり、環境影響評価というものをきちんと行い、 その結果というものを尊重するということ、これが重要なことだと思います。 同時に、官房長官がおっしゃった、沖合移動について地元から強い御意向が あるということを念頭に置くわけですが、しかしきちんとした手続き、これ が必要なことも確かであると思っております。地元の御意向も念頭に置きつ つということを繰り返せば、どのようにして環境影響評価にそれが反映され るかと考えますが、今、そのことについて断定的なことは当然言えません。 Q: 大臣がおっしゃる合理的な理由というのは、地元の意向というのも合 理的な理由に入りませんか。 A: それは、その時になってみなければ分からないのではないですか。合 理的な理由というのは一体何なのだろうということですから、やはり、まず 環境影響評価というものをきちんと行うということが大前提としてあるのだ と思います。
>>429 180 :専守防衛さん:2008/04/27(日) 02:23:50
この4月に各部隊若干の待遇改善は見られたが、それまでの人的な損失を埋め合わせるには、これから何年も、掛かるだろう。
社会的地位も、名誉も与えず、不祥事を政争の具にされる度に、意味のない管理強化を重ね、迷走し続けた結果がこれである。
理不尽な要求に、情熱を失い退職していった、同僚達のことが今でも悔まれてならない。
502 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:09:46 ID:3nKBE9O2
東海大学しか出ていないような幹部が技術研究本部の開発官(船舶担当)を狙って いるっていう話だとさ。 気持ち悪くなってしまうよなあ、まったく以って。内局の高官から見れば、二流の 私立大学なんてゴミみたいなもんだからさ。 いや、海上自衛隊なんてその程度の世界なのかもしれんなあ。
503 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:15:16 ID:3nKBE9O2
軍隊というのは、本来は政府の外側にある組織であり、その行動において政治家が自由に口を挟める存在ではありません。 それは政治家が軍を私物化することを避ける為、ほとんどの国において常識とされているものです。 したがって軍には、独自の裁判制度があり、軍法があります。 軍人は国内法に従う必要は無く、軍法のみに従います。そして軍法によって活動根拠を与えられ、軍法によって裁かれます。 軍人は政府に忠誠を誓いません。軍人は政府ではなく、国家に服従し、国家元首に忠誠を誓う存在です。 たとえ政府の首長が命令しても、国家元首が承認しない命令に従う必要は無いのです。 (日本で言われる『シビリアンコントール』というのは、間違った使われ方をしているのが分かると思います) そして、もし政府が国民・国家に対して良くない政治を行っている場合、国家元首に忠誠を近い国家に服従する軍隊は、その政府を倒す義務を負います。 いわゆるクーデターです。 だから軍隊というのは、国民に愛され、尊敬される存在であるのです。 近年、タイで起こったクーデターは軍人が皆、国王のイメージカラーである黄色いリボンを巻いていました。 そして国民から、このクーデターに対して拍手喝采で迎えられました。 これが軍隊というものです。 植民地時代にアメリカ人が突き付けた現憲法を破棄し、自衛隊を軍隊にしなくてはなりません。 現状の自衛隊は政府の中の一機関であり、国民軍とはかけ離れた存在です。海外派遣を巡る一連の騒動も、自衛隊が軍隊でない為に起こっていることです。 ただし、例外があります。 一旦、海外へ出た自衛隊は、当然ながら国際法に従います。どこの領海でも無い公海上で活動する海自艦艇はなおさらです。 国際法上、軍人以外で武装している者はテロリストか海賊です。 防衛省及び外務省は公式に、自衛官に対して対外的に通用する英語表記の軍隊の階級を名乗るよう指導しています。 つまり海外では、自衛官は日本国の軍人として行動することになっています。 この矛盾を解消するためにも、現憲法の破棄、国際法上の問題が生じない新憲法を創設する必要があります。
504 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:17:03 ID:3nKBE9O2
軍隊を動かすには莫大なお金がかかる。その予算は全て税金なわけで、それを管理しているのは政府。 これを「シビリアンコントロール」っていうんだよ。 シビリアンコントロールのことを「官僚統制」と勘違いしたまま、日本は何十年も来ちゃったからな。 守屋みたいな「事務員の親玉」が国防のトップで好き放題やっちゃったんだよな。 そろそろ本来の、本当の意味の軍隊を創設しなきゃいかんよな。 ところで戦前の話だが、海軍はアメリカとの戦争に反対してたって事くらいは知ってるよね? 知ってるならいいんだけどね。
505 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:18:27 ID:3nKBE9O2
自衛隊の指揮権は、法律によって内閣総理大臣にある。 しかし、国軍となれば、指揮権ではなく、統帥権というかたちとなって、天皇陛下が持つ。 日本は、大東亜戦争に負けたが、国体は護持された。 日本国軍隊は連合軍に無条件降伏し、無くなったために、陛下は統帥権そのものを失った。 しかし、ここで憲法第9条が改正され、国軍が復活すれば、国家成立の根幹であるところの天皇制に基づいて、天皇陛下の持つ国軍の統帥権が復活することになる。 そうなってこそ、日本は立憲君主制国家として、本当の意味での独立国家となり、国際社会が対等関係を認める、名実共に国家となる。
506 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:21:02 ID:3nKBE9O2
出港三昧でG.W入って、 カレンダーどおり+当直3日。 まともに休めないまま、G.W明けからまた出港。 入隊してから、こんなに休めてないのは記憶がない。 皆さんの部隊はどうでつか?
507 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:21:39 ID:3nKBE9O2
どこの自衛隊も一緒だと思うんだが、連休中はポータブルDVDでグレンダイザーの DVD-BOXとか回して楽しんでいたんだが、昨今の規則のせいでそんな楽しみも なくなってしまったなorz
508 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:22:20 ID:3nKBE9O2
GW中に出港。 家族持ちの場合 『お父さぁん、お休みなのにどっか行っちゃうの?遊べないの?(´・ω・`)』 「おお…ごめんよ。お父さん、出港しないといけないんだ。帰ってきたら沢山遊ぼうな(´;ω;`)」 『しゅっこーって何するの?』 「…」 言えねえよなあ 皆あらかじめタオル首に巻いて懐中電灯ぶら下げて、員長はテストハンマーを腰に差してメガホン携帯、OBA員はツナギ着て防火靴履いて隠れて、〈教練火災!〉を待ってる防火 めぼしい区画には何故か受け木や斜材を仮止めする架台が最初からついてて(そこから1FRずれた場所で浸水起きたらどうすんだw)、電機員は最初からゴム手袋をはめて電機修理要具をガチャガチャ身に付けてる防水 サンドレッドを投げ合って成功率を競う、シャバに見せればドン引き200%なDQN競技 “とにかく大袈裟に元気よく芝居すればOK”で、実際やれば逆に溺者や負傷者を殺しかねないくらい変テコな救急措置 キリ無いな、やめとこう
509 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:23:31 ID:3nKBE9O2
なぜ、制服通勤を嫌う?はずかしいのか? 都会の満員電車通勤では、ちと現実的とは言いがたいが。 ふつうの地方の基地(大抵は地方だろ)では当たり前だろ。 服務の本筋じゃないか。 自衛隊法上もそれが原則であって、私服でもいい場合が決めてある に過ぎない。それをいつしか当たり前のように考える自衛官。 甘やかしすぎだ。そんな奴、辞めてしまえ。そんな性根の奴に給料 払ってやるのが、あほらしい。
510 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:24:22 ID:3nKBE9O2
陸さんはどうかしらんが、最近じゃ米海軍でも通勤は私服が普通だ。 そもそも、先進国では海軍軍人が制服姿で街を肩で風切って歩くことを あまり奨励してない。 パールハーバーでも、サンディエゴでもな。 民度の低い国の軍人ほど制服で闊歩したがる。 職業に誇りを持つことと、通勤時に制服を着用することはイコールではない。 もっと広い世界を見てからものを言え。
511 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:26:37 ID:3nKBE9O2
海上自衛隊ではパワハラなんて日常的にある。 上司からの脅迫、恫喝、 組織的な嫌がらせ、指導と称した明らかに越権した 個人への詮索と干渉、事実無根の噂を流して孤立させての マインドコントロール等いくらも存在している。 それらを利用して、部下を疲弊させて組み敷き服従させる ことが正しい部下指導と真剣に考えてる幹部自衛官が多い 船が航海している間は、勤務も休みも関係ないから 乗員には船そのものが生きる世界の全て 海自船乗りや潜水艦乗り特有の陰湿な性格特性と 相まって、上記したようなパワハラの温床が形成されて 自殺や不祥事が頻発する。
512 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:27:17 ID:3nKBE9O2
統合幕僚議長が原因でしょう コノままでは海自はモマイと一緒に潜水棺になっちゃうぞ サイトやめろ!!!横総監就任いらい服務事故の異常頻発の原因と 事実おのれを改めて省みてもらいたいものだ。部隊内の雰囲気ギスギス棘トゲ感は最悪 もう充分にガキ大将あじわっただろ?
513 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 00:29:29 ID:3nKBE9O2
自は国を守る愛国心についての教育はしないからな 俺だけよければ良い=自由主義国家の悪いとこ丸出し 殆どの海自はみな愛国心なんか持ってねえよ、自分の出世と給料だけ 訓練で良い成績を取る、その為にもわざわざ実戦的な危険な訓練計画など危なくて、渡りたくないからな 実戦なんて考えているのは、一部の実戦部隊だけ、特に陸上、艦艇(潜水艦除く) 部隊なんて、術科競技や査閲の為の訓練の為の訓練に全力を注ぐことが第一主義として教えられる それは、北朝鮮の核実験に鑑み周辺事態に備える準備とか、今後の厳しい海外派遣に 備える準備(コンバットスキル・ストレス)の研究すら満足に行われていない 張子の艦隊に過ぎない
514 :
三島事件 :2008/05/01(木) 00:42:06 ID:3nKBE9O2
1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地) の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰」 であった。総監・益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総 監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、 人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、 追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者 もいた。 三島自身が自衛官と、詰めかけたマスコミ陣に向けて30分間演説することを 要求してそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演 説をしたが、自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不 満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容 へついての反撥も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、 バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわ ずか7分で切り上げた[3](三島はマイクを用意していなかった。この悲痛な 光景を、テレビで見た作家の野上弥生子は、後に「三島さんに、マイクを差 し上げたかった。」と述懐している。堤堯談。)。そして森田必勝らと共に 「天皇陛下万歳」を三唱したのち、三島は恩賜のたばこを吸い総監室で上半 身裸となり、「ヤァァッ!」と叫び自身の腹に短刀を突き立て、介錯の刃によ り絶命した(この時、介錯人の森田は手の震えでうまく首を斬れず、古賀が 代わって担当した)。 自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして 安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛 隊の国軍化を促す内容が書かれていた。また、三島はこれらの檄文と遺書を 「楯の会」の会員を通じてNHK記者の伊達宗克とサンデー毎日記者の徳岡孝 夫に託していた。 日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見 ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を 『日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞』 と断じていた。演説で、三島は自衛官らに、「諸君は武士だろう、武士なら ば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。
515 :
三島事件 :2008/05/01(木) 00:42:27 ID:3nKBE9O2
1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地) の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰」 であった。総監・益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総 監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、 人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、 追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者 もいた。 三島自身が自衛官と、詰めかけたマスコミ陣に向けて30分間演説することを 要求してそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演 説をしたが、自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不 満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容 へついての反撥も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、 バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわ ずか7分で切り上げた[3](三島はマイクを用意していなかった。この悲痛な 光景を、テレビで見た作家の野上弥生子は、後に「三島さんに、マイクを差 し上げたかった。」と述懐している。堤堯談。)。そして森田必勝らと共に 「天皇陛下万歳」を三唱したのち、三島は恩賜のたばこを吸い総監室で上半 身裸となり、「ヤァァッ!」と叫び自身の腹に短刀を突き立て、介錯の刃によ り絶命した(この時、介錯人の森田は手の震えでうまく首を斬れず、古賀が 代わって担当した)。 自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして 安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛 隊の国軍化を促す内容が書かれていた。また、三島はこれらの檄文と遺書を 「楯の会」の会員を通じてNHK記者の伊達宗克とサンデー毎日記者の徳岡孝 夫に託していた。 日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見 ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を 『日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞』 と断じていた。演説で、三島は自衛官らに、「諸君は武士だろう、武士なら ば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。
516 :
三島事件 :2008/05/01(木) 00:42:59 ID:3nKBE9O2
自殺の原因には諸説が挙げられるが、その一つとして考えられるのが、自身 の「老い」への恐怖である(実際、三島は「自分が荷風みたいな老人になる ところを想像できるか?」と友人に語っている)。新潮社の担当編集者だった 小島千加子に対しては「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年 をとることを、絶対に許せない」と語っていた[4]。 もう一つの理由として挙げられるのは、ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に 対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年元旦に「年頭の迷 い」と題して『読売新聞』に発表した文章のなかで、「西郷隆盛は五十歳 で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、 一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げ た加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄た る最終年齢に間に合ふのだ」と述べている。 また、もう一つの理由として挙げられるのは、「切腹という行為」そのもの に対する官能的なフェティシズムである。そのことは1960年に榊山保名義で ゲイ雑誌に発表した小説「愛の処刑」からも明瞭に看取される。 三島が死に急いでいたことは、檄文に元来「昭和四十四年十月二十一日」 (国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって 鎮圧された日)と書くべきところを「昭和四十五年十月二十一日」と書いて いることなどからも伺える。伊達宗克『裁判記録「三島由紀夫事件」』に収 録された検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前「自衛隊 員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自 分は死ななければならない」と語っていたという。 介錯は、森田必勝および古賀浩靖がおこなった。最初は森田が斬りつけたも のの二度失敗し刀を曲げてしまい、有段者の古賀に交代してやっと果たせた。 警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き 立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって 切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。さらに、舌を噛み切っ ていたことも報告されている。なお古賀浩靖は服役後、宗教団体・生長の家 総裁谷口清超の娘と結婚し、荒地浩靖の名で宗教活動をおこなっている。 また事件後、陸上自衛隊東部方面総監部総監室には、川端康成や当時警察官 僚で三島と親しかった佐々淳行が訪れたほか、総監室の外には同じく三島と 親しかった石原慎太郎も訪れたものの、現場である総監室には入室しなかっ た
517 :
三島事件 :2008/05/01(木) 00:44:58 ID:3nKBE9O2
三島の自衛隊論 三島は、檄文で 自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍 たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地 位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった と訴えた。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめ て軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであ ろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわ れなかったことに憤った。 また、檄文では、 諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。 …アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは 自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカ の傭兵として終るであらう とも警告した。 なお、三島は、死の年の1月19日、21日、22日に『読売新聞』に「『変革の 思想』とは―道理の実現」という文章を寄せている。そこには、檄文や演説 では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが余すところなく 書かれている。 この中で三島は、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革 命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、今の 日本は「統治的国家」(行政権の主体)と「祭祀的国家」(国民精神の主体) の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓う かを問うた。それに合わせて、"現憲法下で"という条件付であるが、 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を 編成し、対直接侵略を主任務とすること、 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成 し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本 理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、 治安出動も行う、 という提案をおこなっている。なお、国土防衛軍には多数の民兵が含まれる とし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。 なお、『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀杖を受けることと連隊旗 を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。 このように、三島が自衛隊に望んでいたことは 自衛隊の名誉回復 日米安保体制からの脱却と自主防衛 の2点に集約される。
518 :
三島事件 :2008/05/01(木) 00:46:53 ID:3nKBE9O2
三島の天皇論 一方、三島の天皇への態度は複雑である。 三島は、最後の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、 「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』において は「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖 な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。 インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現 状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」(林房雄との対談『対話・日本人 論』)などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との 位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を 「週刊誌天皇制」として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作 りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を「大逆臣」と呼んで痛罵するなどし た。 特に昭和天皇に対しては、1970年11月の古林尚との対談で「私はむしろ(昭 和)天皇個人に対してある意味反感を持っている」と発言している。 その「反感」とは、三島によれば、昭和天皇が 忠臣たるべき2・26事件の反乱将校らを厳重に処罰させたこと、 いわゆる『人間宣言』により、「神としての天皇のために死んだ」特攻隊隊 員らを裏切ったこと、 ことによるものである。 この昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る「英 霊の聲」で端的に表されている。三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊 員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとん ど呪詛に近い言葉を語らせている。 高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じ ない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」、当時の人気歌手を引き 合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあっ たという[5]。 もっとも、その一方で、学習院高等科を首席で卒業した際に昭和天皇から恩 賜の銀時計を拝受したことを感慨深く回想しており、1969年5月におこなわれ た東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭 和天皇が「3時間(の式の間)木像のように微動だにしなかった」御姿が大変 ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。また、同じ討論 集会で三島は「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君 らと手をつなぐ(共闘する)のに、いつまで経っても言ってくれないからお 互い『殺す、殺す』と言っているだけさ」と言い放ち、全共闘学生を挑発し た。 なお、三島の天皇主義的な側面を捉えて、俗に三島を右翼と位置づける傾向 がいまだに根強いが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるな ど、必ずしも既存右翼と軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年 頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。 しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(も しくは政治利用)するようになる。このことに関して、福島次郎は左翼は階 級の権利のため、つまり現代人のエゴか発し、右翼は自己犠牲的な純真無私 な精神から成り立っているという三島の解釈によるとしている。
519 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:01:44 ID:3nKBE9O2
神武天皇(じんむてんのう、伝 庚午年1月1日(紀元前711年2月13日)− 伝 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日))は、日本の初代天皇(在 位:神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)- 神武天皇76年3月11日)。 日本神話以降に相当するとされる初代天皇。日向国(宮崎県)出身。 天皇が即位した1月1日は、現在の暦では2月11日にあたり、日本国が建国した 日として、第二次世界大戦に敗戦する前は紀元節、戦後は建国記念の日とい う祝日である。 神武天皇が実在したかについては歴史学界では否定的見解が強い。 『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)とも。
520 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:02:56 ID:3nKBE9O2
綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年(紀元前632年)- 綏靖天皇33年 5月10日(紀元前549年6月28日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる 第2代の天皇(在位:綏靖天皇元年(紀元前581年)1月8日 - 同33年(紀元前 549年)5月10日)。神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)・神沼河耳 命(古事記)。いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一 般的である(実在説もある)。
521 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:03:56 ID:3nKBE9O2
安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年(紀元前577年)- 安寧天皇38年 12月6日(紀元前510年1月17日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる 第3代の天皇(在位:綏靖天皇33年7月3日(紀元前549年) - 安寧天皇38年12 月6日)(紀元前511年)。磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと) ・師木津日子玉手見命(『古事記』)。いわゆる欠史八代の1人で、実在しな い天皇と捉える見方が一般的である。(実在説もある)
522 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:04:48 ID:3nKBE9O2
懿徳天皇(いとくてんのう、綏靖天皇29年(紀元前553年)- 懿徳天皇34年9月 8日(紀元前477年10月6日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第4代の 天皇(在位:懿徳天皇元年(紀元前510年)2月4日 - 同34年(紀元前477年) 9月8日)。大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)・大倭日子 ?友命(『古事記』)。いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉え る見方が一般的である(実在説もある)。
523 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:05:44 ID:3nKBE9O2
孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年(紀元前506年)- 孝昭天皇83年 8月5日(紀元前393年9月5日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第5 代の天皇(在位:孝昭天皇元年(紀元前475年)1月9日 - 同83年(紀元前393 年)8月5日)。和風諡号は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)・ 御真津日子訶恵志泥命(『古事記』)。いわゆる欠史八代の一人で、実在しな い天皇と捉える見方が一般的である(実在説もある)。
524 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:06:38 ID:3nKBE9O2
孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年(紀元前427年)- 孝安天皇102年 1月9日(紀元前291年2月27日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第 6代の天皇(在位:孝安天皇元年1月27日(紀元前392年) - 同102年1月9日 (紀元前291年))。日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみ こと)・大倭帯日子国押人命(古事記)。いわゆる欠史八代の一人で、実在し ない天皇と捉える見方が一般的である(実在説もある)。
525 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:07:53 ID:3nKBE9O2
孝霊天皇(こうれいてんのう、孝安天皇51年(紀元前342年)- 孝霊天皇76 年2月8日(紀元前215年3月27日))は、『古事記』『日本書紀』に記され る第7代の天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日(紀元前290年) - 同76年2月 8日(紀元前215年))。大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとに のみこと)・大倭根子日子賦斗邇命(『古事記』)。 「ヤマトネコ」とい う称号は7代孝霊・8代孝元・9代開化、少し離れて22代清寧の諸天皇(『古 事記』)にみえ、『記・紀』の編纂が最終段階に入った7世紀末から8世紀 初めに存在した持統・文武・元明・元正の諸天皇(『日本書紀』・『続日 本紀』)の称号にもみえる。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、後世の 『記・紀』編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したという疑い が濃厚である。 いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える見方 が一般的である(実在説もある)。
526 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:09:29 ID:3nKBE9O2
孝元天皇(こうげんてんのう、 孝霊天皇18年(紀元前273年)- 孝元天皇 57年9月2日(紀元前158年10月14日))は、『古事記』『日本書紀』に記さ れる第8代の天皇(在位:孝元天皇元年(紀元前214年)1月14日 - 同57年 (紀元前158年)9月2日)。大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくに くるのみこと)・大倭根子日子国玖琉命(古事記)。 「ヤマトネコ」とい う称号は7代孝霊・8代清寧・9代開化、少し離れて22代清寧の諸天皇(『古 事記』)にみえ、『記・紀』の編纂が最終段階に入った7世紀末から8世紀初 めに存在した持統・文武・元明・元正の諸天皇(『日本書紀』・『続日本紀』 )の称号にもみえる。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、後世の『記・紀 』編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したという疑いが濃厚であ る。 いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える見方が有力である が、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に、孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す 系譜が刻まれていたことから、孝元天皇自身も実在の人物とみなす見方も出 てきている。
527 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:10:44 ID:3nKBE9O2
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年(紀元前208年)- 開化天皇60年 4月9日(紀元前98年5月23日))は、『古事記』『日本書紀』に記される 第9代の天皇(在位:孝元天皇57年(紀元前158年)11月12日 - 開化天皇 60年(紀元前98年)4月9日)。稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひ こおおびびのみこと)・若倭根子日子大毘々命(古事記)。 「ヤマトネコ」 という称号は7代孝霊・8代清寧・9代開化、少し離れて22代清寧の諸天皇 (『古事記』)にみえ、『記・紀』の編纂が最終段階に入った7世紀末から 8世紀初めに存在した持統・文武・元明・元正の諸天皇(『日本書紀』・ 『続日本紀』)の称号にもみえる。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、 後世の『記・紀』編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したので はないかという疑義が提出されている。 いわゆる欠史八代の一人で、実在 しない天皇と捉える見方が一般的である(実在説もある)。
528 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:11:50 ID:3nKBE9O2
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年 12月5日(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10 代の天皇(在位:崇神天皇元年(紀元前97年)1月13日 - 同68年(紀元前 30年)12月5日)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまき いりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすす めらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひ こいにえ)である。現代の日本の学術上、実在の可能性がある程度見込める 初めての天皇である。
529 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:12:49 ID:3nKBE9O2
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日(紀元前69年1月26日) - 垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年8月8日)は『古事記』・『日本書紀』 に伝えられる第11代の天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日(紀元前29年) - 垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年)。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりび こいさちのみこと)・活目尊。『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命(いく めいりびこいさちのみこと)、『常陸国風土記』に伊久米天皇、『令集解』 所引「古記」に生目天皇、『上宮記』逸文に伊久牟尼利比古(いくむにりひ こ)大王と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚 の性格が強く、その史実性については多分に疑問である。
530 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:13:56 ID:3nKBE9O2
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年 11月7日(130年12月24日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代 の天皇(在位:景行天皇元年(71年)7月11日 - 同60年(130年)11月7日)。 和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・ 大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土 記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけ るのみこと)の父。 「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代 仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒 明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀 前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、 景行天皇の実在性には疑問が出されている。 記紀の記事は多くが日本武尊 (やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性に は疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半か。
531 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:15:04 ID:3nKBE9O2
成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年(84年)- 成務天皇60年6月11日 (190年7月30日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代の天皇 (在位:成務天皇元年(131年)1月5日 - 同60年(190年)6月11日)。和風 諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひ このすめらのみこと、古事記)。 「タラシヒコ」という称号は12代景行、 13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したこ との確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシ ヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,14代の称号は後世の造作とい うことになり、成務天皇の実在性には疑問が出されている。 『記・紀』に 載せる成務天皇の旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が 少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すれば、その年 代は4世紀半ばに当たるか
532 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:16:11 ID:3nKBE9O2
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、生年不詳 - 仲哀天皇9年2月6日(200年3月 8日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代の天皇(在位:仲哀天 皇元年(192年)1月11日 - 同9年(200年)年2月6日)。足仲彦天皇(たらし なかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。 「タラシヒコ」と いう称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7 世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号を もつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,14代の 称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されて いる(仲哀天皇架空説)。 神功皇后の夫・応神天皇の父とされるが、実在性を含めて諸事績の史実性に は疑いが持たれる。
533 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:17:01 ID:3nKBE9O2
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日(201年1月5日) - 応神天皇41年2月15日(310年3月31日))は、第15代の天皇(在位:応神 天皇元年(270年)1月1日 - 同41年(310年)2月15日)。別名、誉田天皇・ 誉田別尊(ほむたわけのみこと)。
534 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:18:03 ID:3nKBE9O2
仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年(257年) - 仁徳天皇87年 1月16日(399年2月7日))は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年 (313年)1月3日 - 同87年(399年)1月16日)。古事記の干支崩年に従え ば、応神天皇の崩御が西暦393年、仁徳天皇の崩御が西暦427年となり、そ の間が在位期間となる。名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』 )、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみ こと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。
535 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:19:09 ID:3nKBE9O2
履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年(336年)? - 履中天皇6年3 月15日(405年4月29日))は、第17代の天皇(在位:履中天皇元年(400年) 2月1日 - 同6年(405年)3月15日)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほ わけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』に見える「倭の五王」 中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり) 。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが正 しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事 になるが、定かではない。
536 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:20:02 ID:3nKBE9O2
反正天皇(はんぜいてんのう、仁徳天皇24年(336年)? - 反正天皇5年1月 23日(410年2月12日))は、第18代の天皇(在位:反正天皇元年(406年)1 月2日 - 同6年(410年)1月23日)。多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけ のみこと)・水歯別命(古事記)。『宋書』・『梁書』に記される「倭の五 王」中の倭王珍(彌)である可能性が高い。
537 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:21:10 ID:3nKBE9O2
允恭天皇(いんぎょうてんのう、男性、仁徳天皇64年(376年)? - 允恭天 皇42年1月14日(453年2月8日))は、第19代の天皇(在位:允恭天皇元年 (412年)12月 - 同42年(453年)1月14日)。雄朝津間稚子宿禰尊(おあ さづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国 の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されて いる。
538 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 01:21:58 ID:3nKBE9O2
安康天皇(あんこうてんのう、履中天皇2年(401年)? - 安康天皇3年8 月9日(456年9月24日))は、第20代の天皇(在位:允恭天皇42年(453年) 12月14日 - 安康天皇3年(456年)8月9日)。穴穂天皇・穴穂皇子(あなほ のみこ)。中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興 に比定されている。
539 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:02:53 ID:3nKBE9O2
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年)12月 - 雄略天皇23年 8月7日(479年9月8日))は、第21代の天皇(在位:安康天皇3年(456年) 11月13日 - 雄略天皇23年(479年)8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわ かたけるのみこと)、大長谷若建命・大長谷王(古事記)。大悪天皇・有徳 天皇とも。また、『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に 比定されている。 倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されてお り、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市 の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘に「獲加多支鹵大王」と記載されていたこ とはこれを裏付ける。中国の史書の記述や金象嵌鉄剣銘等が実在性を裏付け る有力な史料となっている。朝廷としての組織はまだ未熟であったが、『日 本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本 霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々が雄略朝 を歴史的な画期として捉えていたことが窺われる。
540 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:04:05 ID:3nKBE9O2
清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年(444年)? - 清寧天皇5年1月 16日(484年2月27日))は、第22代の天皇(在位:清寧天皇元年(480年) 1月15日 - 同5年(484年)1月16日)。名は白髪皇子(しらかのみこ)。 和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわか やまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
541 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:05:09 ID:3nKBE9O2
顕宗天皇(けんぞうてんのう、顯宗天皇、允恭天皇39年(450年) - 顕宗天皇3年4月25日(487年6月2日))は、記紀・『播磨国風土記』に 伝えられる第23代の天皇(在位:顕宗天皇元年(485年)1月1日 - 同3年 (487年)4月25日)。弘計天皇(おけのすめらみこと)・来目稚子(くめ のわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと、『古 事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。
542 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:06:16 ID:3nKBE9O2
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年(449年) - 仁賢天皇11年8月 8日(498年9月9日))は、第24代の天皇(在位:仁賢天皇元年(488年)1月 5日 - 同11年(498年)8月8日)。億計天皇(おけのすめらみこと)・大石 尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(お おし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
543 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:07:42 ID:3nKBE9O2
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年(489年) - 武烈天皇8年12月8日 (507年1月7日))は、第25代天皇(在位:仁賢天皇11年(498年)12月 - 武烈天皇8年(506年)12月8日)。小泊瀬稚鷦鷯尊(をはつせのわかさざ きのみこと)小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと) (日本書紀)、小長谷若雀命(古事記)。 天皇系図 15〜26代長谷(はつせ)の列木(なみき)宮で8年間天下を治めた。 太子(ひつぎのみこ)がなったので、御子代(みこしろ)として、小長谷部 (をはつせべ)を定めた。「天皇既に崩りまして、日続(ひつぎ)知らすべ き王(みこ)無かりき。故、品太(ほむだ)天皇の五世の孫、袁本(おお) どの命を近つ淡海国より上りまさしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授 け奉りき」(『古事記』)
544 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:10:54 ID:3nKBE9O2
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)? - 継体天皇25年2月 7日(531年3月10日))は第26代の天皇(在位:継体天皇元年2月4日(507年 3月3日) - 同25年2月7日(531年3月10日))。オホド王。継体天皇以降、大 和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が 国内で強くなった。また天皇家の系譜として伝わるものは彼以降はほぼ正確 であるとされる。現皇室との血縁が確認できる最古の天皇である。しかし継 体の出自に関しては諸説ある。 別名として伝わるのは『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書 紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)、『筑 後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、『上宮記』 逸文に乎富等大公王(おおどのおおきみ)。なお、隅田八幡宮(和歌山県橋 本市)蔵の人物画像鏡銘(443年説と503年説)に見える「孚弟王(男弟王?)」 は継体天皇を指すとする説がある)。 隅田八幡神社旧蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男 弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱 作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長 寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこ の鏡を作る」(判読・解釈には諸説あり)とあり、このように読むと「癸未」 を503年、「男弟王」を(おおと)=男大迹王と解釈出来、継体天皇は癸未=武 烈天皇5年8月10日(503年9月18日)の時点では大和の意柴沙加宮=忍坂宮にい たとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ継体天皇が畿内勢力の抵 抗にあい、長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説も崩れる。また、 鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は百済の武寧王(別名斯麻)のことと思 われ、鏡は百済王より継体天皇に贈られた品という見方も出来る。ただ、 「古事記」に見える王名「袁本杼(ヲホド)」と鏡の銘文に記された「男 弟(ヲオト)」とは6世紀初頭における発音は異なっていたので[1]、この 説は根本部分に無理があるのは否めない。
545 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:12:11 ID:3nKBE9O2
安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年(466年) - 安閑天皇2年12月 17日(536年1月25日))は、第27代の天皇(在位:継体天皇25年(531年) 2月7日 - 安閑天皇4年(535年)12月17日)。広国押武金日天皇、勾大兄皇子。
546 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:13:15 ID:3nKBE9O2
宣化天皇(せんかてんのう、男性、雄略天皇11年(467年) - 宣化天皇4年 2月10日(539年3月15日))は、第28代の天皇(在位:安閑天皇2年(535年) 12月18日 - 宣化天皇4年(539年)2月10日)。 弟(いろと)、建小広国押楯(たけをひろくこおしたて)命、檜?(ひのく ま)の廬入野(いほり)宮に坐しまして、天の下治めらしめしき。(この後 は、二人の比売(ひめ)を娶って産まれた御子が男子三人、女子二人と祖に ついて書いている)(『古事記』)檜?の廬入野の宮は、奈良県高市郡。
547 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:14:20 ID:3nKBE9O2
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年) - 欽明天皇32年4月 15日(571年5月24日))は、第29代の天皇(在位:宣化天皇4年(539年) 12月5日 - 欽明天皇32年(571年)4月15日)。天国排開広庭天皇・志帰嶋 天皇・斯帰斯麻天皇(しきしま)とも。この代に、百済より仏教が公伝し、 任那が滅亡した。 弟(おと)、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇、師 木島(しきしま)の大宮に坐しまして、天の下治めらしめしき。 師木島の大宮は、奈良県磯城郡。
548 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:15:41 ID:3nKBE9O2
敏達天皇(びだつてんのう、宣化天皇3年(538年)? - 敏達天皇14年8月 15日(585年9月14日)は、第30代天皇(在位:572年4月3日 - 585年8月 15日)。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)、 沼名倉太珠敷命(古事記)。他田天皇。 天皇系図 26〜37代御子、沼名倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)命、他田 (をさだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、十四歳(とをまりよ とせ)なりき。(この後は、六人の比売(ひめ)を娶り、二十四人の御子 を設け、この中御子の一人の御子が、つまり孫が即位したことを述べている。) (分注、甲辰の年の四月六日に崩りましき。)御陵は川内の科長(しなが) にあり。(『古事記』)他田宮は、奈良県磯城郡。川内は、大阪府南河内郡。
549 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:16:43 ID:3nKBE9O2
用明天皇(ようめいてんのう、生年不詳 - 用明天皇2年4月9日(587年5月 21日))は、第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日))。 弟(おと)、橘の豊日命、池邊宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、 三歳(みとせ)なりき。この天皇、稲目(いなめ)の大臣の女、意富藝多 志比売(おほぎたしひめ)を娶して、生ませる御子、多米(ため)王。 (分注、一柱。)また庶妹開人穴部(ままいもはしひとのあなほべ)王 を娶して、生みませる御子、上宮(うえつみや)の厩戸豊聡耳(うまやど のとよとみみ)命。(この後、四人の御子が生まれ、また比売(ひめ)を 娶り、二人の御子が生まれると記す。)この天皇。(分注、丁未の年の四 月十五日に崩りましき。)御陵は石寸(いわれ)の掖上(いけのうえ)に ありしを、後に科長(しなが)の中の陵に遷(うつ)しき。(『古事記』) 池邊宮は、奈良県磯城郡。上宮の厩戸豊聡耳命は、聖徳太子。
550 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:17:27 ID:3nKBE9O2
崇峻天皇(すしゅんてんのう、生年不明 - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス 暦592年12月12日))は、第32代天皇(在位用明天皇2年(587年)8月2日 - 崇峻天皇5年(592年)11月3日)。 弟(おと)、長谷部(はつせべ)の若雀(わかささぎ)天皇、倉橋(くらは し)の柴垣(しばかき)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、四歳(よ とせ)なりき。(分注、壬子の年の十一月十三日に崩りたましき。)御陵は 倉橋の岡の上にあり。(『古事記』)。倉橋の柴垣宮は、奈良県磯城郡。
551 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:18:40 ID:3nKBE9O2
推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月 7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇。 初の女帝である。(在位崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇 36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。 額田部皇女 (ぬかたべのひめみこ)。 彼女が最初の天皇号を名乗ったと言う説と、天 武天皇が最初の天皇号使用者との説が有る。推古が最初なら、厳密な意味で の日本の初代天皇は女性である。 『古事記』ではこの天皇までを記してい る。 日本史の飛鳥時代の始まりは説によってばらつきがあるが、一般的に推古天 皇の即位を基準にしている。また、日本に伝来した仏教文化が本格的に華開 いた時代でもあり、これを飛鳥文化という。 妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはり だ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななと せ)なりき。(分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵 は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき。(『古 事記』)。小治田宮は奈良県高市郡。
552 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:20:39 ID:3nKBE9O2
舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年 10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年 1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。皇 子時の名は田村皇子(たむらのみこ)。 和風諡号は息長足日広額天皇(お きながたらしひひろぬかのすめらみこと)。 先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年)に死去した時、継嗣を定めて いなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇 子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天 皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとした言う説と 他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避 したと言う説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系 (田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承 争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的 な判断をしただけであるとする見方もある。 ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。 在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者 の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧 清安、高向玄理が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れた。 『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。 古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女(田村の御名は彼女 から継承されたものである。)が舒明よりも20年以上長く生きて天智天皇3年 (664年)に死去している事や、子である天智天皇らの年齢を考えると、ほ ぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。
553 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:22:15 ID:3nKBE9O2
皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇6年7月 24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇(在位:皇極天皇元年(642年) 1月15日 - 4年(645年)6月14日)。重祚して第37代 斉明天皇(さいめいて んのう、齊明天皇。在位:斉明天皇元年(655年)1月3日 - 7年(661年)7 月24日)となる。 推古天皇から一代おいて即位した女帝である。諱は寶女王(たからのひめみ こ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたから いかしひたらしひめのすめらみこと)。尚、諱の表記については宝皇女(た からのひめみこ)という表記が一般化しているが、これは後世の尊称による 物と思われる。 敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇 女。 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。 はじめ高向王と結婚し て、漢皇子を産んだ。 後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(のちの天 智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。 舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位 した。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。 在位 中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。 在位4年(645年)に、中大兄皇子が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼす(乙巳の変・大 化の改新)と、皇極天皇は軽皇子(のちの孝徳天皇)に皇位を譲った。 孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就いた。 政治の実権は皇太子の中大兄 皇子が執った。 『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだ ため、労役の重さを見た人々が批判した。有間皇子の変に際して、蘇我赤兄 は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、 長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にした のが三である。 対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。蝦夷 に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送った。 在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民 の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送っ た。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海 を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。遠征の軍が発する前に亡く なった。
554 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:24:53 ID:3nKBE9O2
孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年)- 白雉5年10月 10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇である。諱は軽皇子 (かるのみこ)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめ らみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その 在位時期をその政策(後世のいうところの大化改新)などを含めて難波朝 (なにわちょう)という別称で称されることがあった。 天皇系図 26〜37代敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子王子茅渟王(ちぬの おおきみ)の長男。 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。 皇極天皇(斉明天皇)の同母弟で、天智天皇(中大兄皇子)の叔父にあたる。 皇極天皇の娘の間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛(おたら しひめ)を妃として、有間皇子を儲けた。 蘇我石川麻呂の娘の乳娘(ちの いらつめ)を妃とした。在位は孝徳天皇元年(645年)6月14日から、白雉5年 (654年)10月10日であった。 『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒 者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。 皇極天皇4年(645年)6月に乙巳の変が起きると、14日に皇極天皇は中大兄 皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は 三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。 14日のうちに、軽皇子は壇に登って即位した。 皇極天皇に皇祖母尊(すめ みおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂 (阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤 原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。 初めて元号を立てて、大化元年(645年)とし、650年には白雉に改元した。 『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳 天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化改新 と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条 は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることがわかっている。 このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのでは ないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点にな っている。 孝徳天皇の在位中には、高句麗、百済、新羅からしばしば使者が訪れた。 従来の百済のほかに、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。 日本(当時は倭)は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の 随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵、磐舟柵 を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇 がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて 倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌 年病気になって亡くなった。 近年では、軽皇子が中大兄皇子を教唆して「乙巳の変」を引き起こした「黒 幕」であるという説を唱える歴史学者もいる。しかし軽皇子が即位して後重 用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。
555 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:26:30 ID:3nKBE9O2
斉明天皇(皇極天皇重祚)
556 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:27:41 ID:3nKBE9O2
天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう。男性。推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日)。第38代天皇。国風諡号は天命開別尊 (あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。生前は葛城皇子(かづらきのみこ/かつ らぎのみこ)と呼ばれていたと思われる。一般には中大兄皇子(なかのお おえのおうじ/なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは皇太 子の意で、「中大兄」は「次の皇太子」を意味する語。
557 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:28:32 ID:3nKBE9O2
弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 天武天皇元年7月23日 (672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年 1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))である。諱は大友 (おおとも)又は 伊賀(いが)。大友皇子としても知られる。弘文天 皇は諡号。
558 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:30:34 ID:3nKBE9O2
天武天皇(てんむてんのう、舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日 (686年10月1日))は、『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇 (在位:天武天皇2年2月27日(673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年 10月1日))。 和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのす めらみこと)。この和風諡号は極めて道教的な諡号である。天武13年(684 年)10月に旧来の氏姓制度の改革として定められた八色の姓(やくさのかば ね)の筆頭が「真人」であった。即位前の名は大海人皇子(おおあまのみこ、 おほしあまのみこ、おおさまのみこ)といい、幼少期に養育を受けた凡海氏 (海部一族の伴造)にちなむもので、当時では養育者より幼名をとるのは慣 例だった。また、凡の字が異なるのは諱となることを避けてのことといわれ ている。舒明天皇の第三皇子で母は宝皇女(皇極天皇)、天智天皇、間人皇 女の同母弟であるが、異説もある。 『日本書紀』には、才能に恵まれ、武徳に優れ天文・占星の術を得意とした とある。 余談ではあるが、双六を好んだとされる。臣下を招いて双六を講じた際に臣 下に対し褒美を与えたという。 天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられているが『日本書紀』編纂 の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王であることから、潤色が加えられて いるとする見解もある。また同書では、当初から兄・天智天皇の皇太弟であ ると記されているが、大友皇子の立太子の事実を否定し、天皇の皇位継承を 正当化する意図があるとする意見もある。 天武天皇がそれ以前の大王という呼称を「天皇」に改めるよう命じたのでは ないかと見るものもある。天皇の称号は、天武天皇が始めたとする説が広く 支持されており、非常に有力となっている。これによれば、天武天皇が事実 上の初代天皇だったこととなる。(ただし、天皇号をより早く推古期に求め る説や、遅く大宝以降とする説もある)。 また、宮廷歌人柿本人麻呂の歌に も「大君は神にしませば」で始まる歌があるように天皇自身の存在もそれま でとは違う神格的な存在となっていった。
559 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:31:31 ID:3nKBE9O2
持統天皇(じとうてんのう・大化元年(645年) - 大宝2年12月22日 (703年1月13日))は、日本の第41代天皇。女帝である(称制:朱鳥元 年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。名は?野讚良(うののさら ら,またはうののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年 (703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやま とねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年) に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろ のひめのすめらみこと)がある。(なお『日本書紀』において「高天原」 が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである。)漢風諡号、 持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船による。
560 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:32:37 ID:3nKBE9O2
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇11年(683年) - 慶雲4年6月15日 (707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月17日 (697年9月7日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 名は珂瑠(か る)、軽皇子(かるのみこ)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年 (慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」と、『続日本紀』797年(延 暦16年)に諡された「天之眞宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢの すめらみこと)がある。 草壁皇子が689年に亡くなり、その後、高市皇子 も亡くなったため、693年立太子した。 697年、祖母・持統天皇に譲位され 即位した。 まだ15歳であったため、持統天皇が後見人として付いた。 701年(大宝元年)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱して いた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。 今まで散発的にしか記録され ていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。
561 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:34:50 ID:3nKBE9O2
元明天皇(げんめいてんのう、女性、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月 7日(721年12月29日))は、奈良時代初代天皇で第43代の天皇(在位:慶雲 4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。天智天 皇の第四皇女で?野讚良皇女(持統天皇)とは父方だと異母姉妹、母方だと 従姉妹で、夫の母であるため姑にもあたる。即位前の名は阿陪皇女(あへの ひめみこ)阿閇皇女とも。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいら つめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。 和風諡号は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」(やまとねこあまつみよ(み しろ)とよくになりひめのすめらみこと)である。 675年に十市皇女と共に伊勢神宮に参拝、679年頃に甥である草壁皇子と結婚、 草壁皇子は即位する事無く早世し、姉で義母でもある?野讃良皇女(持統天 皇)の即位を経て、息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位した。 707年4月には夫、草壁皇子の命日(旧暦4月13日)が国忌に入ったが、直後息 子天皇が病に倒れ、譲位を固辞していた所崩御してしまった。残された孫の 首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初 めて皇后を経ないで即位した。 708年に武蔵国秩父より和銅が献じられたので、和銅に改元し、和同開珎を鋳 造させた。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時 代であった、その為実務に長けていた藤原不比等を重用した。 710年、藤原京より平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者と して残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。 712年 正月には諸国の国司に荷役につく民を気遣う旨の詔をだしたが、同年にはま た古事記が献上され、713年には風土記が編纂された。 715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いと首皇子がまだ 若いと言う理由で娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に譲位した。721年 5月に発病し、婿である長屋王と藤原房前に後事を託し、遺詔として葬送の 簡素化を命じた後、12月7日に崩御した。
562 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:36:32 ID:3nKBE9O2
元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇8年(680年) - 天平20年4月 21日(748年5月22日) 在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年 2月4日(724年3月3日))は第44代の奈良時代の天皇。女帝である。父は天 武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。即位 前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天 皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女 帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに 対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。 弟・文武天皇の子である首(おびと)皇子(後の聖武天皇)がまだ若い為、 母・元明天皇から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の 詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲 深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。養老元 年(717年)から藤原不比等らが中心と成って養老律令の編纂を始める。 養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に 倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。 長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不 比等の長男武智麻呂は中納言、次男房前(ふささき)は、未だ参議(その後 内臣になる)であった。 養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身の法が制定された。 これにより早くも律令制は崩れ始めていく。 養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。退位の 詔では新帝を「我子」と呼んで退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補 佐した。 天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務が取れなくなると、上皇は 改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年にが病気の天皇の名 代として難波京遷都の勅を発している。晩年期の上皇は、病気勝ちで政務が 行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲 麻呂らと政務を遂行していたと見られている。
563 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:39:27 ID:3nKBE9O2
聖武天皇(しょうむてんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8年5月 2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平 勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、奈良時代の第45代天皇。即位 前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦 天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、 勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝 満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不 比等の娘・宮子。
564 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:40:28 ID:3nKBE9O2
孝謙天皇(こうけんてんのう、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月 4日(770年8月28日))は、日本の第46代天皇(在位:天平勝宝元年7月 2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日))。父は聖 武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光 明子)。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。即位前の名 は阿倍内親王。生前は宝字称徳孝謙皇帝と称した。高野天皇・高野姫天皇・ 倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)とも呼ばれたこともある。 淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(しょうとくてんのう、稱コ天皇、 在位:天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年 8月28日))。この称徳天皇以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余 年女帝はいない。
565 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:42:29 ID:3nKBE9O2
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日 (765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日 (758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では 廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大 炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。
566 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:43:04 ID:3nKBE9O2
称徳天皇(孝謙天皇重祚)
567 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:45:04 ID:3nKBE9O2
光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵 (藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇 が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど 重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤 原永手とのバランスをとった。天平神護元年(765年)には墾田永年私財 法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。 神護景雲3年(769年)、「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を 受けた。事の真偽を確かめるべく、和気清麻呂が勅使として再度宇佐八幡 の神託を確認し、それが虚偽であることを確認したが、清麻呂は称徳天皇 の怒りを買って大隅国へ配流された(宇佐八幡宮神託事件)。その後、道 鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。 しかし翌年、称徳天皇は天然痘で崩御。このとき、看病の為に近づけたのは 宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の娘。姉妹ともいう)だけで、道鏡は崩 御まで会うことはなかった。病気回復を願う祈祷(現代では迷信だが、当時 は立派な医療行為のひとつ)が行われたとの史料がないことから、医療行為 を施されず見殺しにされたとの主張(さらに踏み込んで暗殺説)もある。 称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなす こともなかった。また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天 皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、 藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位 した。また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再 開された。
568 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:46:55 ID:3nKBE9O2
光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月29日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年 (770年)10月1日 - 天応元年(781年)4月3日)。 天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は 紀橡姫。8歳で父が死亡したためか、初叙が29歳(従四位下)と大変遅かった。 その後天平16年(744年)聖武天皇の皇女・井上内親王(いのえのひめみこ) を妃としたことからにわかに昇進が早くなり、天平宝字6年(762年)に中納 言となり、恵美押勝の乱の鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を受けて天平 神護2年(766年)には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・ 王が粛清されていったために専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って いたといわれている。 神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御した。独身の女帝に後継者はなく、 度重なる政変による粛清劇によって天武天皇の子孫たる皇族がなかったため、 左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議藤原宿奈麻呂、同藤原縄麻呂、同石 上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂らによる協議が行われた。白壁王と井上内親 王の間には他戸王と酒人内親王がいた。他戸王は女系ではあるものの天武天 皇系皇族の最後の一人であるということから、その父親である白壁王が次期 皇位継承者として推挙された。これを受けて、62歳で即位することとなった。 即位後、井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、宝亀3年(772 年)井上内親王を呪詛による大逆を図ったとして罪し皇后を廃し、皇太子の 他戸親王も廃した。井上内親王は翌年、天皇の同母姉難波内親王を呪ったと して幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王もともに幽閉されてやがて 二人とも変死した。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。翌宝亀4年 (773年)高野新笠から生まれた山部親王を立てて皇太子とした。のちの桓武 天皇である。この背景には山部親王とそれを擁立する藤原家の陰謀があった と目される。 70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月第一皇女能登内親 王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月、病を理由に皇太子に 譲位。同年12月23日、崩御。
569 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:48:19 ID:3nKBE9O2
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月7日 (806年4月9日))は、日本の第50代の天皇である。山部親王(やまべの みこ)。 はじめに784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した。 また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍 とする軍を送った。しかし晩年にはこのような軍事と造作が百姓を苦しめ ているとして式家の藤原緒嗣に批判された。文化面では続日本紀の編纂を 発案したとされる。最澄と空海が唐から帰国し日本の仏教に新たな動きを もたらしたのも桓武治下である。 井上内親王と他戸親王の不自然な死、治世のはじめに、皇太子とした弟早 良親王を藤原種継暗殺の廉で785年流罪とし配所で死なしめたという暗い面 も持ち合わせた。怨霊を恐れ、延暦19年(800年)7月19日、早良親王を崇 道天皇と追号し、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。 最澄や空海の保護者として知られる一方で、既存の仏教が政権に関与して 大きな権力を持ちすぎた事から、所謂「南都六宗」と呼ばれた諸派に対し ては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われてお り、後の『薬子の変』へとつながる温床となった。延暦25年(806年)3月 17日に崩御。
570 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:51:07 ID:3nKBE9O2
平城天皇(へいぜいてんのう、へいじょうてんのう、宝亀5年8月15日 (774年9月26日) - 弘仁15年7月7日(824年8月5日))は第51代の天皇 (在位:大同元年5月18日(806年6月8日) - 大同4年4月1日(809年5月 8日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。奈良帝(な らのみかど)とも呼ぶ。国風諡号は日本根子天推国高彦尊(やまとねこ あめおしくにたかひこのみこと)。 桓武天皇の長男。母藤原乙牟漏(藤原良継の娘)は桓武天皇の皇后。皇太子 とした嵯峨天皇は同母弟。子に阿保親王、高岳親王、巨勢親王、ほか内親王 4人がある。阿保親王の第5子が在原業平で、平城天皇には孫にあたる。 延暦4年(785年)、叔父の早良親王に代わり立太子される。だが、病弱で あった上に父天皇との関係も微妙であり、『日本後紀』によれば、延暦12 年(793年)に春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂 された事や、同24年(805年)に一時重態であった天皇が一時的に回復した ために皇太子に対してに参内を命じたのにも関わらず参内せず、藤原緒嗣 に催促されて漸く参内したことなどが記されている。また、皇太子時代よ り、妃の母である藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命 じられている。こうした経緯が、即位後の天皇による父・桓武天皇の政策 に対する見直しへと反映されたといわれている。 大同元年(806年)5月に即位した。即位当初は政治に意欲的に取り組み、 官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済 の立て直しを行い、民力休養に努めた。その一方で藤原薬子を呼び戻して 尚侍に任じて宮廷内部の事を一任し、『続日本紀』から削除した藤原種継 暗殺事件の記述を復活させた。これは薬子が藤原種継の娘であったことも あるが、早良親王廃太子と自分の皇位継承の正当性を示す目的があったと されている(後に嵯峨天皇によって再度削除されることになる)。大同4年 (809年)4月、病気のため神野親王(嵯峨天皇)に譲位、嵯峨天皇は平城 天皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年12月、平城上皇は旧都である 平城京に移り住んだ。 薬子やその兄の藤原仲成の介入により、大同5年(810年)、平安京より遷都 すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷 都の詔を出し、政権の掌握を図った。しかし、嵯峨天皇側に機先を制され、 9月10日、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。これに応じて11日に挙兵し、薬子 と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて翌日平城京に戻っ た。直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を 廃され、大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。これを薬子の変と呼ぶ。 なお「薬子の変」の際、妃の朝原内親王と大宅内親王は平城上皇に同行せず、 弘仁3年(812年)の5月、揃って妃の位を辞した。 その後も上皇(当時は法皇の称号はなかった)は平城京に滞在していたが、 「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の朝覲行幸も受けている。 大宰権帥に遷された阿保親王、廃太子・高岳親王の2人の皇子にも四品親王 の身位を許されるなど、相応の待遇は保障されていたようである。後に嵯峨 天皇が退位しようとした時に、藤原冬嗣が退位後の天皇に平城上皇と同じ待 遇を与えれば、費用がかさんで財政が危機に瀕するとして退位に反対する意 見を述べている事からでも裏付けられる。 諡は平城京に因むものである。墓所は宮内庁により平城京のすぐ北の楊梅 陵(やまもものみささぎ)が指定されている。楊梅陵(市庭古墳)は全国 最大の円墳と考えられてきたが、1962-63年の発掘調査により前方部が平城 京築造の際取り壊されていたのが判明したため、同古墳を平城天皇の墓と するのは無理がある。
571 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:53:36 ID:3nKBE9O2
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日 (842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月 8日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 名は神野(かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に 淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。 兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に 高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、亡父・桓武天 皇の意向が働いたといわれている。 このような事情から即位後に甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌年 810年に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳 親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか今度はかね てから臣籍降下を望んでいた異母弟の大伴親王(淳和天皇)を強引に皇太 弟に立ててしまった(これが承和の変の遠因となる)。 ともあれ、以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期(弘仁 文化)を過ごした。818年、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界に おける死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。だが、当時は農業生産 が極度の不振(『日本後紀』によれば、817年より7年連続で干害などの被害 を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。 820年には当時朝廷内で大きな権勢を誇っていた藤原氏の有力者4人(藤原内 麻呂・冬嗣親子、藤原緒嗣、藤原園人)が揃って封戸を返上(計15,000戸) している(更に緒嗣は淳和天皇時代の825年に2,000戸を追加返上した)。 また、最末期には大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・ 勅旨田の設置などが行われている。 823年、財政上の問題を理由(上皇が2人では財政負担が大きい)に反対する 藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。退位後は冷然院・嵯峨院 を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位 すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や 仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を 皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。 漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。皇子皇女多数。皇族の整理を 行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものと その子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の子の一人。 陵墓は京都の嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。 嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像 爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆 何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り
572 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:55:26 ID:3nKBE9O2
淳和天皇(じゅんなてんのう、延暦5年(786年) - 承和7年5月8日 (840年6月7日)、在位:弘仁14年4月27日(823年5月30日) - 天長 10年2月28日(833年3月22日))は、平安時代初期の第53代天皇。西 院天皇ともいう。 桓武天皇の第七皇子。 母は、藤原百川の娘・旅子。皇后正子内親王との間 に恒貞(つねさだ)親王を儲けた。他に贈皇后高志内親王などの妃がおり、 子も多数いた。 平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。 弘仁元年9月13日(810年10月14日)、薬子の変後に廃太子された高岳親王 (平城天皇の子)に代わって立太子した。 弘仁14年4月27日(823年5月30日)、即位。これに伴い、大伴氏が伴氏と改 姓している。天皇の御名と同姓なのは畏れ多いと大伴氏が判断したからだ といわれている。 天長10年2月28日(833年3月22日)、仁明天皇に譲位し退位。 清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。また 土地対策を行い、税収の増加に努めた。また、『令義解』た『日本後紀』 の編纂が行われた。表面的には比較的平穏な時代であった。 だが、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなく(『日本後紀』によ れば、大同元年5月1日(806年5月22日)に大伴親王(当時)が父帝の死を 機会に臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている)、更に 有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王が仁明天皇の皇太子になったこと に不安を抱いていたと言う。退位して上皇になった天皇は忠実な側近藤原 吉野に親王の後事を託して崩御するが、その不安は承和の変として現実の ものとなった。 承和7年5月8日(840年6月7日)、崩御。死にあたり、薄葬を遺詔としたた め京都大原野西院に散骨された。
573 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:57:10 ID:3nKBE9O2
仁明天皇(にんみょうてんのう 弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日 (850年5月6日); 在位 天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月 19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。名は正良(まさら) 親王。 天長10年(833年)3月6日、叔父に当たる淳和天皇の譲りを受けて即位。 当初、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てたが、承和9年(842年)の 承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王 が立太子した。これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、それ を利用して甥である道康を立太子させた藤原良房の陰謀があったと言われ ている。 嘉祥3年(850年)3月19日に病にかかり、文徳天皇に譲位。同年3月21日に 崩御。 天皇は幼少時から病弱であったとされ、『続日本後紀』には7歳の頃からの 様々な病歴が記載され、即位後もしばしば薬(丹薬・石薬)の調薬をして 医師並みの知識を有していたとされる。また、『三代実録』の藤原良相の 死去の記事では良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとされてい る。 江戸時代の儒学者・頼山陽は、天皇が恒貞親王が度々皇太子を辞退した際 には受け付けず、事件にかこつけてこれを廃して自分の実子を立てたこと を厳しく非難している(『日本政記』)。
574 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 14:58:47 ID:3nKBE9O2
文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年(827年) - 天安2年8月27日 (858年10月7日)、在位:嘉祥3年4月17日(850年5月31日) - 天安2年8月 27日(858年10月7日))は第55代天皇。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 承和9年(842年)、承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、変の解決に功 のあった伯父藤原良房にも推され代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)、仁 明天皇の崩御に伴い即位。 こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強め、文徳天 皇が東宮だった頃に嫁がせていた娘、染殿后明子(あきらけいこ)がちょう ど天皇即位の年にようやく産んだ、第四皇子惟仁(これひと)親王(のちの 清和天皇)を立太子させる。天皇は寵愛の更衣、紀静子所生の第一皇子惟喬 親王に期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。 だが、その後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に在位中には内裏 の外れにある東宮や嵯峨上皇の離宮だった冷然院などに居住して、遂に一度 も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかったという。やがて、天 皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に 危機が及ぶ事を恐れた左大臣源信の諫言で取り止めとなった。 かかる状況下で858年に突然の病で急死する。通説では死因は脳卒中とされ ているが、彦由一太は余りの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えて いる。
575 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 15:00:20 ID:3nKBE9O2
清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月 4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年 (858年)11月7日 - 貞観18年(876年)11月29日。後世、武門の棟梁と なる清和源氏の始祖で、諱は惟仁(これひと)。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣藤原良房の娘、女御明子(めいし、 あきらけいこ)。惟喬(これたか)親王(844〜897)の異母弟。 [外祖父藤原良房の後見の元、惟喬親王を退けて皇太子となる。文徳天皇の 崩御に伴い、わずか9歳で即位したため、良房が外戚として政治の実権を握 った。 貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件が発生し た。天皇は伴善男を信頼していた為、事件を解決した良房に遠慮する形で既 に貞観6年(864年)に元服していたにも関わらず、正式に摂政に任命した。 譲位後の元慶3年(879年)、突然出家して無理な断食修行を行った末に病死 したとされている。 嘉祥3年(850年) 生誕。同年、立太子。 天安2年(858年) 即位(9歳)。 貞観8年(866年) 応天門炎上事件。 貞観18年(876年) 27歳で突然譲位し、仏門に帰依。 元慶4年(880年) 崩御。
576 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 15:03:11 ID:3nKBE9O2
陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(869年1月2日) - 天暦3年 9月29日(949年10月23日)、在位:貞観18年(876年)11月29日 - 元慶8年 (884年)2月4日)は第57代天皇。諱は貞明(さだあきら)。 第56代清和天皇の第一皇子。母は権中納言藤原長良〔ふじわらのながら〕 の娘、女御藤原高子(二条后)。子に歌人として優れた元良親王と元平親 王らがいる。元平親王は陽成源氏の祖であるが、のちに武家の棟梁となる 清和源氏は実際は陽成源氏で、この元平親王を先祖とするが、後述すると おり陽成帝には暴君との評判があり、それを嫌って一代前の清和天皇に祖 を求めたのだとの説が近年提示されている。 生後2ヶ月足らずで立太子。9歳で清和天皇から譲位され帝位に就く。在位の 初めは父上皇、母高子、摂政藤原基経(天皇の伯父)が協力して政務を見た。 父清和上皇の死後、基経との関係が悪化したらしく、基経は出仕をボイコット するに及ぶ。清和天皇に二人の娘を入内させたのに続き、陽成天皇の元服に 際し、さらに娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、母后の高子 が拒否したためではないかというのが、近年の説[2]である。 陽成天皇は乱れた行いが多いとされてきた。元慶7年(883年)には宮中で自 身の乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)を 殴殺する事件を起こし、譲位を余儀なくされる。基経によって退位に追い込 まれたという。 ただし、陽成天皇の暴君説は退位時の年齢が17歳(満15歳)であり疑問点も 多く、天皇を廃位し、自身の意向に沿う光孝・宇多帝を擁立した基経の罪を 抹消するための作為だともいわれる[3]。また、退位後も光孝・宇多・醍醐 の諸帝の警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成上皇 に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説 がある。 退位後に幾度か歌合せを催すなど、歌才があったようだが、自身の歌として 伝わるのは後撰和歌集に入撰し、のちに小倉百人一首にも採録された下記一 首のみである。 「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人 一首では「淵となりぬる」) 上皇歴65年は2位の冷泉天皇の42年を大きく凌ぐ1位である。『大鏡』には、 いったん臣籍降下したにもかかわらず、父、光孝天皇の後をうけ即位した元 侍従であった宇多天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではない か」と言ったという逸話が残っている。その皇子で又従兄弟でもあった敦仁 親王(醍醐天皇)よりも長生きし、更に朱雀天皇、村上天皇と、大叔父の光 孝系の皇統継承を見届けたのもまた、皮肉な事であった。ちなみに唯一現代 まで伝わる上記の歌は宇多天皇の妹にあたる妃の一人、釣殿宮綏子内親王に あてた歌である。
577 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 15:05:23 ID:3nKBE9O2
光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日 (887年9月17日) 在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))は、第58代の天皇。 諱は時康(ときやす)。 仁和帝(にんなのみかど)、小松帝(こまつのみかど)とも。 藤原氏は、この帝の治世で初めて関白を出した。 仁明天皇の第三皇子。母は贈太政大臣藤原総継(ふさつぐ)の娘、澤子。 兄弟には、文徳天皇、宗康親王 、人康親王、本康親王、源多、源光がいる。 また嵯峨源氏の源是茂を養子としている。 幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。16歳で父・仁明天皇の御前に て元服して四品親王となり、以後中務卿・式部卿・相撲司(別当)・大宰 帥・常陸及び上野国太守と親王が歴任する官職をほぼ全てを歴任し、53歳 のときに一品親王となって諸親王の筆頭となる。 陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。『徒然草』には 即位後も炊事を自分でしたとある。藤原基経を関白にし政務を執らせた。 即位と同時に皇子を多く臣籍降下させたが、病を得たため仁和3年8月25日 に子源定省(さだみ)を親王に復し、翌8月26日に立太子させた。同日に 崩御し、定省親王が宇多天皇として践祚した。 宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。 和歌・和琴などに秀でともされ、桓武天皇の先例に倣って鷹狩を復活させた。 また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。 晩年は政治改革と親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創 建を計画するも実現を見ぬままに終わり、後を継いだ宇多天皇の「寛平の治」 及び仁和寺創建に継承されることになる。 『日本三代実録』にある「天皇少(わか)くして聡明、好みて経史を読む。 容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に 長ず」と評されている。 830年(天長7年)、生誕 常陸太守、中務卿、上野太守など歴任 876年(貞観18年)、式部卿 882年(元慶6年)、一品親王 884年(元慶8年)、即位 887年(仁和3年)、崩御
578 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 19:54:41 ID:3nKBE9O2
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月 19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年11月17日 (887年12月5日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 名は定省(さだみ)。 光孝天皇の第七皇子。母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・皇太后班子女王。 一度臣籍降下し、源氏の姓を賜って源定省を称したが、後に実力者の関白 藤原基経の後押しで887年(仁和3年)8月25日に皇族に復帰し、翌8月26日に 皇太子に立てられる。これには宇多天皇が基経の異母妹である尚侍藤原淑子 の猶子であったことが大きい。同日に光孝天皇が病没したため践祚し、11月 17日に即位した。 第一皇子敦仁親王(のちの醍醐天皇)は、女御(贈皇太后)藤原胤子の子。 藤原胤子は内大臣藤原高藤女で、宇多天皇が若い時からの妻の一人。 藤原胤子の他、女御は藤原温子、橘義子、菅原衍子、橘房子。藤原温子は 基経の女で、宇多帝即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁 親王を猶子とし、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮に 住んだため、東七条后、七条后とも称される。橘義子からは斉世親王があり、 菅原道真女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が出た。 菅原衍子は菅原道真の女。 皇子皇女多数。宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍に降下し た。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、藤原胤子の子・敦実親王か ら出た系列が最も栄えた。 敦実親王の子・源雅信は左大臣を務め、その女・ 倫子は藤原道長の正室となり、一条天皇中宮彰子や関白頼通の母となった。 朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の綾小路家などがあり、 また雅信から近江に土着した佐々木氏が出ている。 藤原時平と菅原道真を重用した(寛平の治)。888年(仁和4年)に造立され た勅願寺が仁和寺。 その後、醍醐天皇に譲位し、仁和寺に入って法皇と称した。天皇の譲位に ついては古くは仏道専心説が有力であったが、近年では藤原氏からの政治 的自由を確保するためとする説、一旦臣下から皇族に復帰して即位したた めにこれに不満を抱く他の皇族の皇位要求の動きに先んじた説などがある (後述の『大鏡』の陽成上皇の発言はその暗示ともされる)。また『寛平 御遺誡』には右大臣源能有の死による強い衝撃について書かれており、退 位と結びつける見方もある。 一方、陽成上皇との関係は微妙であった。『大鏡』には、陽成上皇が宇多 天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったと いう逸話が残っているが、陽成上皇が復位を画策しているという風説は天 皇を悩ませた。保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によ れば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇 といえども天皇の許しなく内裏に入る事が禁じられたが、後に昌泰の変が 起きた時に醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろう とした宇多上皇がこの決まりを盾に阻まれたと記されている。 皇位継承者不在の危機にあたり、臣籍降下した者が即位した例であるが、 当時在世中の元良親王らを超越しての即位であり、藤原淑子・基経による 擁立劇という側面もある。即位直後におきた「阿衡事件」は、天皇を自ら の傀儡にしたい基経と、若き天皇との主導権争いでもある。事件は天皇の 譲歩に終わったものの、基経が想像するよりは英明な人物であったから、 菅原道真を重用するなど、次第に「親政」色を強めてゆくことに成功した。 『寛平御遺誡』、『宇多天皇御記』の著書を残す。晩年は病気がちの醍醐天 皇に代わって、実際の政務を執っていたいう説もある。
579 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 19:58:04 ID:3nKBE9O2
醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月 29日(930年10月23日))は、平安時代の天皇。第60代。在位:寛平9年7月 13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日)。はじめの諱は 維城、のちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は父の正妃 藤原温子(関白太政大臣基経の女)。20人に近い女御・更衣をかかえ、保 明親王(文献彦太子)・代明親王・重明親王(吏部王)・源高明(臣籍降 下)・兼明親王(前中書王)・寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天 皇)をはじめ、36人の子女をもうけた。 元慶9年1月18日(885年2月6日)、源定省の長男・源維城として生まれる。 仁和3年(887年)、父が皇籍に復帰して天皇に即位した事に伴い、皇族に 列する事になった。寛平元年(889年)親王宣下、同5年4月2日立太子。同 9年7月3日元服し、同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示を受けて藤原時 平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわ たり、摂関を置かず形式上の親政を行っていたため、後世「延喜の治」と 崇められたが、昌泰4年(901年)、時平の讒言を聞き菅原道真を大宰権帥 に貶めた昌泰の変は、聖代の瑕と評されることであった。だが近年では、 この事件を天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動であった と考えられている。時平も初めての荘園整理令を発布したりして政治の刷 新に意欲的であり、国史『日本三代実録』を完成させ、また律令政治の基 本法である延喜格式の撰修に取り掛かったりしたが、完成に至らぬまま早 世し、弟藤原忠平らがその志を継いで延長5年(927年)に完成した。 天皇はまた和歌の振興に留意し、延喜5年(905年)、『古今和歌集』撰進 を紀貫之らに命じた。自身も和歌に堪能で、勅撰集に43首入る。家集『延 喜御集』もある。20巻にわたる33年間の宸記『延喜御記』は諸書に引かれ ている逸文のほかは現存せず、村上天皇の御記と併せて『延喜天暦御記抄』 とよばれて伝わる。 天皇ははじめ中宮藤原穏子との間にあげた長子保明親王を東宮の座に据えた が、早世したためその子慶頼王を立坊させるも、やはり夭折した。一連の不 幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され、延喜23年(923年)になって、天皇は 道真を左遷した詔を破棄し、右大臣に復し贈位を行うなどその慰霊に努めた。 延長8年9月22日(930年10月16日)、病篤きによって皇太子寛明親王に譲位 し、その7日後、延長8年9月29日(930年10月23日)に崩御。醍醐寺の北、笠 取山の西、小野寺の下において土葬された。
580 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 19:59:48 ID:3nKBE9O2
朱雀天皇(すざくてんのう、延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月 15日(952年9月6日)、在位:延長8年11月22日(930年12月14日) - 天慶9年 4月13日(946年5月16日))は第61代の天皇。諱は寛明(ゆたあきら)。 第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。 延長4年(926年)、東宮となる。立太子の背景には、兄保明親王とその子 慶頼王の二代にわたる東宮の夭折があり、母后穏子は怨霊を恐れて、幾重 にも張られた几帳の中で寛明親王を育てたという。延長8年(930年)醍醐 天皇の崩御を受け同年9月の践祚後、11月に8歳で即位。政治は、伯父忠平 が摂関として取り仕切っていた。 治世中の承平5年(935年)2月、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年 には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした。(承平・天慶の乱) 懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征夷大将軍 に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年に は橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。 治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多く、 また皇子女に恵まれなかったこともあってか、朱雀天皇は早々と同母弟成 明親王(後の村上天皇)に譲位し、仁和寺に入った。しかしその後、後悔 して復位の祈祷をしたともいう。天暦6年(952年)に出家して、その年に3 0歳で亡くなった。
581 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 20:01:54 ID:3nKBE9O2
村上天皇(むらかみてんのう、延長4年6月2日(926年7月14日) - 康保4年 5月25日(967年7月5日)、在位:天慶9年4月28日(946年5月31日) - 康保 4年5月25日(967年7月5日))は、平安時代中期の天皇。第62代。諱は成明 (なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経の娘中宮穏子。第61代朱雀天皇 の同母弟。 天慶7年(944年)4月22日に皇太子となり、同9年4月13日に朱雀天皇の譲位 により践祚、同月28日に即位。 先代に続いて天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949年)に 忠平が亡くなるとそれ以降摂関を置かず、延喜時代とともに天皇親政の典 範とされた。しかし実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄 弟にあり、更に母の穏子や兄の朱雀法皇も後見を名目に政治に関与しよう としたため、親政は表象にすぎなかった。 平将門・藤原純友の起こした承平・天慶の乱(935年 - 940年)の後、朝廷 の財政が逼迫していたので倹約に努め物価を安定させた。 文治面では、天暦5年(951年)に『後撰集』の編纂を下命したり、天徳4年 (960年)3月に内裏歌合を催行したりするなど、歌人としても歌壇の庇護者 としても後世に評価される。琴・琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開 花させた天皇といえよう。 天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。しかしその反面、この時 代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われる一方、天 徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難があった。 康保4年(967年)5月25日、在位のまま42歳で崩御。天皇号を持つ天皇は、 村上天皇以後、江戸期の光格天皇まで900年近くの間なかった。 また、皇子具平親王の末裔は「村上源氏」として、以後の宮廷政治におい て大きな影響力を与えるようになる。
582 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 20:05:13 ID:3nKBE9O2
冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年 10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、第63代の平安時代中期の天皇。 村上天皇の第二皇子。憲平(のりひら)親王。母は藤原師輔の娘中宮安子。 円融天皇の同母兄。 第一皇子の広平親王を押しのけて生後間もなく立太子。時の権力者である 藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。康保4年(967年)、 村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿で即位式を行っ た。精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、藤原実 頼が関白についた。村上天皇の第四皇子為平(ためひら)親王と、守平親 王の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変があり、安和2 年(969年)、円融天皇(守平親王)に譲位。譲位後は冷泉院上皇と称され る。62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている。 以後後一条天皇の即位まで約50年間弟の円融系との皇位迭立が続き、円融 系を父方、冷泉系を母方とする曾孫の後三条天皇の即位で両皇統は融合さ れる事となった。 上皇になった際の名称は、現在の二条城の東北に嵯峨天皇が造営した離宮 「冷然院」が後に後院(上皇の御所)となった「冷泉院」に由来する。 冷泉天皇は容姿が非常に端麗であったが、皇太子時代から精神の病ゆえの 奇行が目立った。大江匡房が記した『江記』などにより、以下のエピソー ドが挙げられる。 足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。 父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を 送りつけた。 清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。 病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた。 退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大 声で歌を歌った。 儀式の最中に「こんな重いものは被っていられない」といきなり冠を脱ぎ、 近く使えていた馬命婦を帳の中に強引に引き入れて姦した。 これらの奇行と当時の摂政だった藤原実頼と外戚関係を持たず、逆に有力 な跡継ぎとされていた 為平親王が伯父の源高明を舅とし、藤原氏を刺激し た(安和の変の伏線となる)事等が僅か2年で退位する原因となった。もっ とも退位後は在位時のプレッシャーがなくなったのか、61歳まで生きたが、 師貞親王(花山天皇)をはじめとする皇子女や弟円融天皇、その皇子の一条 天皇等多くの親族に先立たれたのは皮肉な事であった。しかし、天皇の血 統は確実に孫娘の禎子内親王をもって、没後円融系と融合される事となっ たのである。
583 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 20:53:52 ID:3nKBE9O2
円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年3月2日(959年4月12日) - 正暦2年 2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年9月23日(969年11月5日) - 永観2年8月27日(984年9月24日))は、第64代の天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘、中宮安子。冷泉天皇の同 母弟。すぐ上の同母姉資子内親王と仲がよく、これを一品に叙した。 はじめ関白兼通の娘?子を中宮とし、天元2年(979年)に彼女が亡くなると、 代わって関白頼忠の娘遵子を中宮に立てた。また、兼家の次女詮子を入内さ せ、詮子との間には唯一の皇子女、懐仁親王(後の一条天皇)が産まれてい る。 康保4年(967年)9月1日、九歳にして、同母兄の為平親王を飛び越えて立 太子。それ以前には3ヶ月余りにわたる皇太子の空位があった。為平親王が 源高明の娘を妃にしていたため、これを嫌った藤原氏の策略による安和の 変で、源高明が失脚すると、冷泉天皇の譲りを受けて即位した。 即位時11歳であったので、太政大臣藤原実頼(さねより)が摂政に就いた。 天禄元年(970年)に実頼が薨去すると、天皇の外舅伊尹(これまさ)が摂 政を引き継いだ。同三年、伊尹が在職一年あまりで亡くなると、その弟の 兼通・兼家の間で、摂関職を巡って熾烈なる争いが行われた。天皇は亡母 の遺訓に従って兼通を関白に任じて、さらに貞元2年(977年)に関白兼通 が重病に陥ると、兼通の要望に従って遠縁の藤原頼忠を後任とした。これ は兼通の権勢もあるが、兼家が当時兄の冷泉上皇には娘・超子を納れてい たにも関わらず、天皇である自分の許には娘を納れていなかったために天 皇も兼家に含むところがあり娘・遵子を納れていた頼忠の方に好意を抱い ていたとする見方もある。 その後兼家も娘・詮子を納れ、天皇の唯一の皇子女である一条天皇(懐仁 親王)を儲ける。にもかかわらず、「素腹の后」遵子を中宮に立てた。一 連のことは兼家の恨みを買い、彼は娘詮子・外孫懐仁親王ともども、里第 に籠って出仕しなかった。これに対して天皇も2度の内裏の焼失の際に故兼 通邸の堀河殿(退位後も御所として使用)や関白頼忠邸を仮の御所として 兼家への依存を拒むなど、両者の緊張関係が続く事になる。 かように藤原氏の勢力争いに翻弄され、永観2年(984年)、懐仁親王の立 太子を条件に花山天皇に譲位。一条朝には幼帝を指導して強い発言権を持 ち、院政の意図があったともいうが不詳。
584 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 20:58:07 ID:3nKBE9O2
花山天皇(かざんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年 2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和 2年6月23日(986年7月31日))は、第65代の天皇。平安時代中期にあたる。 諱は師貞(もろさだ)。かつては「華山天皇」とも表記されていた。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘・女御 懐子。三条天皇の異母兄。子には花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家)の祖 となった清仁親王がいる。 安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984 年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政 であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡 くなっており、有力な外戚を持たなかった事は、2年足らずの在位という後果 を招いた。 関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝 の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、 貨幣流通の活性化など、革新的な政治を行ったが、程なくして天皇が退位 したのに殉じて遁世した。
585 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 20:58:28 ID:3nKBE9O2
19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、 『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原?子が妊娠中に死亡したこ とを素因とするが、『大鏡』では更に、藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひ と)親王(一条天皇)を即位させる為に陰謀を巡らした事を伝えている。 蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出 家するとそそのかし、内裏から元慶寺(花山寺)に連れ出した。 このとき 邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが兼家の命を受けた清和源氏 の源満仲とその郎党達である。安部晴明の屋敷の前を通ったとき、中から 「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」 と言う声が聞こえ、目にみえないものが晴明の家の戸を開けて出てきて一行 を目撃し「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えた と。 元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺 を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれた事を知った。内裏から 行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そ こでともども出家したと伝える。 この事件は親王時代に学問を教え、当時 式部丞になっていた紫式部の父藤原為時や、尾張国郡司百姓等解文で有名な 藤原元命の運命にも影を落とした。 花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記 した説話は『大鏡』『古事談』に多い。その一方で、彼は絵画・建築・和歌 など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたび たび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。 出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道上人が観音霊場三十三ヶ所 の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市) でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修 行に勤め大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三 十三箇所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が 御詠歌となっている。この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼 途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を 送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺として西国三十三 箇所巡礼の番外霊場となっている。 出家してからの有名な事件としては花山法皇襲撃事件がある。花山法皇29歳 のとき、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた。伊周が通ってい た故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷の四の君の処に花山法皇が通い だした。その四の君は寵愛した女御藤原?子の妹にあたる。それを伊周が自 分の相手の三の君に通っているのだと誤解。兄弟は武士を連れて法皇の一行 を襲い、隆家と従者の武士は法皇の衣の袖を弓で射抜き、更に花山法皇の童 子二人を殺して首を持って行ったと『百錬抄』にある。花山法皇は恐怖のあ まり口をつぐんで閉じこもっていたが、噂が広がり伊周・隆家は太宰府や出 雲国に流罪となった。(「長徳の変」)
586 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:00:53 ID:3nKBE9O2
一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛 弘8年6月22日(1011年7月25日))は第66代天皇。在位は寛和2年(986年) 6月23日 - 寛弘8年(1011年)6月13日。名は懐仁(やすひと・かねひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はいない。 永観2年(984年)、花山天皇の時、皇太子に立てられる。寛和2年(986)6月 23日(8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家してしまったために、数え 年7歳で即位した(孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる)。皇太子に は冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した (のちに関白)。 兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として摂政・関白を務め、一条天皇 の中宮に娘の定子(ていし)を入れるが、長徳元年(995年)に病没。代わり に弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子伊周との争いに 勝利した道隆・道兼の弟道長が、姉で天皇の生母の詮子の推挙を受け、内覧 となって実権を掌握した。道長は先に中宮であった定子を皇后とし、娘の彰 子(しょうし)を中宮に立てて、一帝二后の先例を開いた。 一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后 定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安 女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』など に詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は 温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。 また、天皇が道長を関白とせずに内覧に留めたのは、天皇自身が長ずるにつ れ、曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のように、摂政関白を置かずに親政 する事を志したのと、道長自身も、当時閣議に出られない決まりがある摂政 関白よりも、閣員の首座として実権を掌握しようとした事が一致した為で、 これにより、後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資や藤原行成等の有 能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した。 その一方で、鎌倉時代初期に書かれた道長の6代目の子孫にあたる慈円の著 した『愚管抄』によれば、天皇の死後道長は天皇の遺品の中に一通の手紙を 発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書か れていて、これを「道長の専横によって国は乱れている」という意味に解し た道長はその文を焼き捨てたという一件がある。これは摂関家にとっては不 都合な事実であるが、慈円は事実関係そのものは否定せずに、天皇の認識不 足を激しく責めて道長の忠節を称えている。また、これと似たような話は同 時期に書かれた『古事談』にも記載されていることから、この話は実話かそ れに近い出来事があり、天皇と道長の関係が必ずしも順調に行っていなかっ たのではと見る説もある。
587 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:02:52 ID:3nKBE9O2
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年 5月9日(1017年6月5日))は第67代の天皇。諱は居貞(おきさだまたはいや さだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年)から長和5年1月29日 (1016年)まで。 冷泉天皇の第二皇子に生まれ、母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇后宮 超子。花山天皇の異母弟。 七歳で母を失い、父冷泉上皇は精神病を患っていたため、その後見は薄弱で あった。外祖父兼家に容姿が酷似して立派であったといい、兼家の鍾愛を受 けて育ったことが『大鏡』に見える。 寛和2年(986年)7月16日、二重の従弟一条天皇(当時七歳)の即位にとも ない、兼家の後押しで皇太子となる。冷泉・円融両系の迭立に基づく立太 子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上の11歳であったため、「さかさ の儲けの君」といわれた。 外舅にあたる道隆・道兼・道長三兄弟が先後して政権を掌握し、それぞれ 一条天皇のもとで後宮政策を布いたため、三条天皇は25年という長い東宮 時代を経て、36歳でようやく一条帝の譲りを受けて即位。皇太子には藤原 道長女彰子腹の敦成親王(後一条天皇)が立った。 外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠き、 かつ三条天皇が納れた道長の次女・中宮妍子が両者の期待を裏切って女児 を生んだこともあり、道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った 病状の悪化もあり、三条天皇は第一皇子敦明親王の立太子を条件に、道長の 勧めに従い退位した。翌寛仁元年(1017)4月に出家し、程なく42歳で没した。 三条天皇の死後、その長子敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、ついに 自ら東宮を辞退する挙に出た。このことにより冷泉・円融両系の迭立に終止 符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた 皇女禎子内親王を通じて以後の天皇家へ受け継がれていくことになる。
588 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:04:36 ID:3nKBE9O2
後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇 (在位:1016年 - 1036年)。諱は敦成(あつひら)。 一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。その誕生の様子は「紫式 部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族 の栄華の初花となる。 長和5年2月7日(1016年3月24日)、8歳で即位したため、道長が摂政とな り権勢を振るった。道長の娘で叔母にあたる威子を中宮とし、この時代 には珍しく他の妃を持たなかったが、皇子女は内親王二人のみで世継ぎ の皇子にはついに恵まれぬまま、29歳の若さで崩御した。遺詔により、 喪を秘して敦良親王への譲位の儀を行ったとされている。
589 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:06:28 ID:3nKBE9O2
後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇 (在位:1036年 - 1045年)。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄後一条天皇の皇太弟。 後一条天皇の即位に伴い皇太子となった敦明親王が、寛仁元年(1017年)自 ら皇太子を辞退したため、その後を受けて皇太子となる。同5年(1021年) 道長の六女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内、万寿2年(1025年)に 待望の第一王子親仁(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は産後の肥立ちが 悪く2日後に急逝した。その後道長の孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第 二王子尊仁(後三条天皇)始め一男二女を出産、それとは対照的に兄後一 条がついに皇子の誕生を見ぬまま崩御したため、その後を受けて即位した。 即位後は関白藤原頼通が養女?子を入内させて中宮に立てたのを始め、その 弟藤原教通が娘生子を、同じく藤原頼宗が娘延子を相次いで入内させたが、 いずれも皇子を出産することはなかった。その間皇后禎子内親王とその皇子 尊仁親王は関白らに冷遇されていたが、後朱雀天皇が里内裏の東三条第にお いて病に倒れて譲位を決断した際、皇后を支援していた藤原能信の働きで尊 仁親王を次期皇太子にするよう遺詔を発したと言われる。寛徳2年1月16日 (1045年2月5日)譲位。その2日後に出家、同日崩御。享年37。
590 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:08:07 ID:3nKBE9O2
後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。父後朱雀天皇。母藤原道長女藤原嬉子。名を親仁(ちかひと) という。紫式部の娘大弐三位が乳母である。 万寿2年(1025年)8月3日誕生、2日後に生母の東宮妃嬉子が急死。長元9年 (1036年)2月22日、親王宣下。長暦元年(1037年)7月2日元服、三品に叙 される。同年8月17日、皇太子に。寛徳2年(1045年)4月8日即位。治暦4年 (1068年)4月19日、在位のまま崩御。享年44。 藤原頼通の娘寛子を皇后としたが、皇子が生まれないまま後冷泉天皇は亡 くなった。そのため、死後は異母弟で藤原氏を外戚としない後三条天皇が 即位することになる。
591 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:10:55 ID:3nKBE9O2
後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代の天皇。諱は尊仁 (たかひと)。享年40。在位は治暦4年4月19日(1068年5月22日) から延久4年12月8日(1073年1月18日)まで。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女、皇后禎子内親王(陽明門院)。 後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇 となった(ただし、禎子内親王は藤原道長の外孫である)。 生母が藤原の出でない為、関白藤原頼通や弟の教通に疎んじられたが、彼等 の異母弟の能信の支援を受けたと言われている。『今鏡』によると、後朱雀 天皇が尊仁親王を兄の親仁親王(後冷泉天皇)の皇太弟にと考えていたのを、 頼通が抑えていたのに対し、能信が強く薦めて、その遺詔により皇太弟とな る事が出来たとある。しかし、頼通や教通は、後冷泉天皇の後宮に娘を入内 させて外祖父として権力を握る為に、尊仁親王に対して陽に陰に圧迫を加え ていた。その一例として、歴代の東宮が伝領する「壷切の剣」を頼通が「藤 原氏(特に摂関家)腹の東宮の宝物」との理由で、23年もの間、親王が即位 するまで献上しなかった事が、大江匡房の談話集『江談抄』に記されている。 しかし、結局後冷泉天皇にはついに皇子がなく、天皇の死後、尊仁親王は即 位した。 頼通が失意のあまり引退した後、上東門院彰子の推挙で弟の教通を関白に したが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子 の藤原能長や、村上源氏の源師房等を登用して摂関家の政権独占打破を図 り、大江匡房や藤原実政等の下級役人などを登用し、積極的に親政を行っ た。また、源隆国のように、東宮時代の天皇を頼通に気兼ねして蔑ろにし ていた者に対しても、隆国の子息の俊明を登用する等、決して報復的態度 を取らないように公正な態度を示した。 1069年延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し、1070年には 絹布の制、1072年には延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化に より弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、 今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、その為に基準 外の摂関家領が没収される等(『後二条師通記』に記載有り)、摂関家の 経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたら した事で、『古事談』はこれを延久の善政と称えている。一方、摂関家側 は頼通・教通兄弟が対立関係にあったために天皇への積極的な対抗策を打 ち出すことが出来なかった。 また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全 土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようになる。 1072年、即位後4年にて第一皇子貞仁親王に譲位して院政を開こうと図った が、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。尚、近年の研究では、天皇の退 位は院政の実施を図ったものではなく、病によるものとする説が有力である。
592 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:13:17 ID:3nKBE9O2
白河天皇(しらかわ てんのう、天喜元年6月19日(1053年7月7日) - 大治4年7月7日(1129年7月24日))は、第72代の天皇。在位は延久4年 12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月5日)。諱を 貞仁(さだひと)という。 藤原摂関家と外戚関係の薄い後三条天皇の第一皇子として生まれ、母は藤原 氏閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤 原茂子(?-1062)。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。 幼い時は父子ともに冷遇されたが、治暦4年(1068年)、父帝即位とともに 親王宣下を受け貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子、同4年、 20歳で即位。関白を置いたが、翌5年、上皇の病没後も、父同様に親政を 目指し、荘園整理などに力を入れ摂関家の権勢を弱めることに努める。 後三条院とその生母である陽明門院は白河天皇の異母弟実仁親王更にその 弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と 定めた。白河天皇はこれに反発したが応徳2年(1085年)実仁親王は病没 した。これにより、応徳3年11月(1086年)、白河天皇は輔仁親王ではなく、 8歳のわが子の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位し た。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために白河院として 自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。引き続き摂政関白は置かれ たものの、これにより名目上の存在に近いものとなる。 白河上皇は堀河天皇の成人後も政権を返すことなく、受領階級や武家出 身の近臣を用いて専制的な政治を行った。武士は、院の警護役として創 設した北面の武士になどにあてた。 熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には皇女の病没を機に出家し法名 を融観とし、法皇となった。また法勝寺等の多くの寺院や仏像をつくらせ たが、その経済力は受領の経済力を活用した。 堀河天皇崩御後は、その皇子で自らの孫である第74代鳥羽天皇、更にその 子の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、大治4年7月7日(1129年 7月24日)、77歳で崩御するまで実に3代43年間院政を敷いた。これを「治天 の君」という。 白河法皇が「天下の三不如意―賀茂川(鴨川)の水(鴨川の流れとそれに よる水害)・双六の賽(さいころ、当時の双六(ただし、現在のものと違 い西洋のバックギャモンに近い)は賭博の手段として盛んに用いられて、 さいころの目の動きが勝敗を分けた)・山法師(比叡山延暦寺の僧衆〔僧 兵〕)」だけはどうしようもないと嘆いたという故事は、裏を返せば彼が それ以外のものであれば思い通りにならない事はないという絶大な権力を 誇っていたことを示している。また、女性関係の派手さでも知られており、 崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時広く流布 され信じられる原因ともなっている。
593 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:14:59 ID:3nKBE9O2
堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年 7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位1086年 - 1107年)。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉?子 内親王(郁芳門院)。 応徳3年(1086年)11月26日、立太子と同日に、8歳で父から譲位され即位 した。関白藤原師実が摂政となるが、上皇となった白河院が院政を敷き、 全権を掌握した。堀河天皇は政治に携わることなく、学問と和歌、管弦に 情熱を注いだ。女御藤原苡子(贈皇太后)との間に生まれた皇子宗仁親王 (鳥羽天皇)を皇太子としたが、苡子が没すると宗仁親王は白河院に引き 取られ、院の下で養育された。叔母にあたる中宮篤子内親王の薫陶を受け、 廷臣らに慕われた賢帝であったが病弱で、帝位にあるまま29歳で亡くなった。 なお、臨終の様子は乳母子である典侍藤原長子の『讃岐典侍日記』に詳しい。 ちなみに、マラリアに罹患していたとする説が、明治34年頃には、存在した。
594 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:16:37 ID:3nKBE9O2
鳥羽天皇(とばてんのう、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年 7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位1107年 - 1123年)。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后藤原苡子。外祖父は藤原実季。崇徳天皇、 近衛天皇、後白河天皇は子。『古事談』の記述では崇徳天皇を白河天皇の 実子としている。 生後間もなく母苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育され た。父堀河天皇の死後、5歳で即位。政務は白河法皇が執った。永久5年 (1117年)白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年中宮 とし五男二女をもうける。保安4年(1123年)1月23日長子崇徳天皇に譲位、 その後も実権は白河法皇が握り続けた。 白河法皇の死後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇に疎んじら れていた藤原忠実を呼び戻して娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、院 の要職を自己の側近で固める。さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮璋子 にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、所生の皇子体仁親王(近衛 天皇)を即位させた。崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代28年に渡り 実権を掌握。康治元年(1142年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇とな った。 皇后美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、鳥羽法皇の崩御の直後に 保元の乱が勃発する原因を作った。
595 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:23:33 ID:3nKBE9O2
崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年 8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。 退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一 皇子だが父には疎んぜられた。古書『古事談』には、これは崇徳天皇が鳥 羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父白河法皇と、白河が後に鳥羽に与え た待賢門院との間にできた子であったためとある。父・鳥羽がそれを知っ たため、崇徳を「父の弟にして子」と言う意味で「叔父子(おじご)」と 呼んだという。ただし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性には 疑問も残る。 保安4年(1123年)に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位 につく。白河の死後治天の君となった父、鳥羽に疎んじられ、永治2年(1142 年)4月28日、異母弟である近衛天皇に譲位する。新帝は崇徳の中宮藤原聖子 の養子となっており、当初、崇徳は自身による院政を期待していたのである が、鳥羽によって発布された譲位の宣命には「皇太弟」と明記されていたた め、崇徳は父院としての立場を喪失し、巧みにその院政を封印されてしまっ たという。
596 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:24:25 ID:3nKBE9O2
こうして上皇となったあとも、実権は治天の君である鳥羽が握っており、 その不満は募っていった。近衛の母である美福門院は崇徳を宥めんとして、 彼の長男である重仁親王を自分の養子として迎え入れ、万が一近衛が子をな くして死去した場合の重仁の皇位継承の可能性を残すというような対策を講 じはしたものの、その一方で同母弟雅仁親王の王子守仁親王をも養子とする など、遡及的に見れば、すでにこの点に後年の保元の乱の遠因はあった。
597 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:25:16 ID:3nKBE9O2
久寿2年(1155年)に近衛天皇が死去すると、皇位継承者を決定する王者議定 は、鳥羽、美福門院、藤原忠通、信西らの主導の下、重仁親王と守仁親王を 候補者として審議されることとなった。だが、あくまでも崇徳を忌避する鳥 羽、不仲である崇徳の院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門 院、そして自身が乳母夫を勤める雅仁親王の即位による台頭をめざした信西 らの合意によって、次代の守仁の即位を前提として、その父王雅仁が中継ぎ として即位することとなった。後白河天皇である。
598 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:26:16 ID:3nKBE9O2
保元元年(1156年)7月2日の鳥羽の死去ごろから天皇方は、崇徳と鳥羽との 末期の対面を拒否する、検非違使を召集して京中を警備させ崇徳に対する警 戒の念をあからさまにしてみせる、鳥羽の初七日を崇徳の臨幸もないうちに 実施するなど、露骨な挑発と追い込みを行いだす。 7月10日、追い詰められた崇徳は藤原頼長とともに白河殿に移り、平忠正、 平家弘、源為義ら武士を召集して、生き残りを図るために武力で天皇方を 倒そうとした(保元の乱)。しかし、鳥羽は生前すでに有事に備えて、有 力な武士らに後白河を守るよう命じており、7月11日には平清盛・源義朝・ 源義康らが夜陰に乗じて白河殿を奇襲攻撃し、院方は敗走した。頼長は矢 傷によって六日後に死亡、忠正・家弘・為義は捕縛の後に処刑され、崇徳 は仁和寺に入って髪を下ろし、後白河の下に出頭したものの許されず、讃 岐国に流刑に処された。このため、その後の崇徳は「讃岐院」と呼ばれた。 讃岐での軟禁生活の中で、仏教に深く傾倒して極楽往生を願うようになって いった。五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写 本作りに専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京 の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、治天の君となっていた後白 河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、影 響下にある朝廷は写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳は、自分 の舌を噛み切って、その血でせっかくの五つの写本全てに「日本国の大魔縁 となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこ う)す」と書き込んだ。爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、後 に生きながら天狗になった、とすら言われた。長寛2年8月26日(1164年9月 14日)に讃岐で崩御する。一説には、三木近安によって暗殺されたともされ る。遺骸を火葬にした際、その煙は都の方角にたなびいたと伝えられる。 哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった。 崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に大火事が起 こり、末期には叛乱が相次ぎ(下記の諡号制定はこの時期であり、既に怨霊 と深く認識されていた)、更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち 後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て 鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷では いよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う(御霊信仰)。 治承元年7月29日、「崇徳」の諡号が定められて、同日に藤原頼長に従一位 太政大臣を追贈した。寿永2年には保元の乱の古戦場である春日河原に廟を 置いて「粟田社」と呼ばれる社を設置した。だが、応仁の乱後に衰微して 天文年間に平野社に統合された。また、崩御の直後に地元の人達によって 御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与 えられたとされている。 白峯神宮(京都市)その一方で後世には、四国全体の守り神であるという 伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白 河の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるた めに琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた 家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕 府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であっ た細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平 定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言 われている。 後の明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳の霊を京都へ帰還さ せて白峯神宮を創建した。
599 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:28:03 ID:3nKBE9O2
近衛天皇(このえてんのう、保延5年5月18日(1139年6月16日) - 久寿2年 7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日 (1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱を体仁 (なりひと)という。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原氏の美福門院(藤原得子)。 生母の美福門院が鳥羽天皇の寵愛を受けていたため、わずか2歳で崇徳天皇 と代わって即位した。治世中は鳥羽法皇が院政を敷いた。若死したため子 は無く、皇位を巡って鳥羽と崇徳上皇が対立したことから保元の乱が起こる。
600 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:30:55 ID:3nKBE9O2
後白河天皇((ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月 23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。 諱は雅仁(まさひと)。譲位後は後白河院として院政を行うが、二条天皇 や高倉天皇との対立により、院政停止に追い込まれることもあった。 鳥羽天皇の第四皇子。母は、藤原公実(きんざね)の娘、待賢門院璋子。 大治2年(1127年)、鳥羽天皇の第四皇子として生まれる。藤原宗忠は 「后一腹に皇子四人は、昔から稀有の例だ」と評した。保延5年(1139年) 12歳で元服、二品に叙される。久寿2年(1155年)近衛天皇が死去すると、 美福門院の養子となっていた守仁親王即位までの中継ぎとして、立太子し ないまま29歳で即位した。守仁はまだ年少であり、尚且つ存命中である実 父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためで、 父鳥羽院からは皇位の器ではないとみなされていた。この頃、田楽・猿楽 といった庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込んでいて、後白河も今様 (俗謡)を好み熱心に研究していた。『梁塵秘抄口伝集』に十余歳の時か ら、人を大勢集めて今様を歌ったことが記されている。今様の遊び相手に は、源資賢・藤原季兼がいた。
601 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:32:15 ID:3nKBE9O2
保元元年1156年、鳥羽法皇が死去すると保元の乱が発生した。この戦いでは 後見の藤原信西が主導権を握り、後白河は形式的な存在だった。乱後、信西 は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再 建などを行う。 保元3年(1158年)、後白河は守仁に譲位(二条天皇)。これは当初の予定 通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』)、すなわち美福門院と信西の 協議によるものだった。父の所領の大部分は、美福門院とワ子内親王に譲ら れたため、後白河は頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。 二条の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政 派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立 の様相を見せるようになった。 この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。12月9日 夜、院御所・三条殿が、信頼・義朝の軍勢による襲撃を受けて幽閉される。 結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平 清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。後白河は乱の最中、 幽閉先を脱出して仁和寺に避難していた。この時、争奪の対象になったのは 二条天皇であり、後白河は信西が殺害され政治力を失っていたことから、ほ とんど省みられていなかった。 乱後、後白河は二条親政派の中心だった経宗・惟方の逮捕を清盛に命じる。 経宗・惟方は、信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及され たものと推測される。これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状 態となる。
602 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:33:41 ID:3nKBE9O2
この頃、後白河は上西門院の女房・小弁(平滋子)を寵愛した。応保元年 (1161年)9月、滋子は後白河の第七皇子(憲仁)を出産するが、その誕生 には「世上嗷々の説(不満・批判)」(『百錬抄』)があった。やがて憲 仁立太子の陰謀が発覚し、平時忠・平教盛・藤原成親・藤原信隆らが二条 天皇により解官され、後白河の政治介入は停止された。翌年には二条親政 派の重鎮・経宗が帰京を許され、時忠・源資賢が流罪となった。政治から 排除された後白河は、蓮華王院の造営に没頭する。後白河は落慶の供養会 に二条の行幸を熱望したが、二条が全く関心を示さなかったため「ヤヤ、 ナンノニクサニ」(『愚管抄』)と恨みを抱いたという。 永万元年(1165年)二条天皇が死去すると、後白河は清盛と手を結び、憲 仁親王の立太子を実現させた。仁安3年(1168年)には六条天皇を退位させ て、憲仁を即位させる(高倉天皇)。嘉応元年(1169年)に出家し、法皇 となる。滋子は皇太后となっていたが後白河の出家にともない、院号宣下 を受けて建春門院となった。院御所・法住寺殿には建春門院御願の最勝光 院が造営された。この頃の後白河と清盛の関係は良好で、嘉応2年(1170年) 福原にある清盛の別荘で宋人を引見して日宋貿易に興味を示し、承安元年 (1171年)12月には清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内する。
603 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:35:01 ID:3nKBE9O2
嘉応元年(1169年)、尾張の知行国主・藤原成親の目代が日吉神社の神人 と闘争事件を起こしたため、延暦寺は成親の流罪を要求して強訴する。後 白河は成親を擁護して、重盛に大衆の防御を命じる。平氏は、清盛が天台 座主・明雲を導師として出家するなど延暦寺と友好的であり、重盛は積極 的に動こうとしなかったため、後白河は延暦寺の圧力に屈して成親流罪を 認める。しかし大衆が帰山した途端に態度は一変、事件の対応にあたった 時忠・平信範の流罪を命じた。延暦寺と平氏は反発して再び強訴が起こり、 清盛が福原から上洛して武士が召集されるなど、情勢は一挙に不穏となった。 後白河は事態の不利を悟り、成親の解官を決定した。 承安2年(1172年)12月、伊賀国住人が春日社神人と闘争を起こし神人が殺 害されたため、興福寺の大衆は伊賀国住人の処罰を要求して、春日社の神木 を奉じて強訴した。伊賀国住人は重盛の郎党だった。この時は大衆の不満を 摂関家が慰撫したようである。重盛が裏で手を回し工作したと推測される。 承安3年(1173年)6月、興福寺と延暦寺の対立から、延暦寺傘下の多武峯が 興福寺大衆の攻撃により炎上する。後白河は南都15ヶ寺の荘園・末寺を没官 することを宣言、興福寺は激怒して強訴する。後白河は、興福寺権別当・覚 珍を派遣して大衆を説得し、事態は沈静化する。 たび重なる強訴の要因の一つには、後白河の園城寺に対する露骨な優遇が あった。後白河が出家した際の儀式では、戒師以下8人の僧全員が園城寺の 門徒だった。同じ天台宗でありながら園城寺と激しく対立する延暦寺では 不満が渦巻き、各地では延暦寺傘下の神人と院近臣の国司の間で抗争が絶 えなかった。
604 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:36:29 ID:3nKBE9O2
安元3年(1177年)建春門院の死去によって、後白河と平氏の関係は悪化の 兆しを見せていたが破局には至っていなかった。そのような中で、白山事 件が勃発する。事件は加賀守・藤原師高の目代が白山と抗争して堂舎を焼 き払ったことから始まった。白山は延暦寺の末寺であり、師高の父は後白 河の近臣・西光だった。延暦寺の大衆は師高の流罪を求めて強訴を起こすが、 後白河は強硬な態度をとり重盛に防御を命じる。重盛の軍兵の射た矢が、 神輿に当たるなどの不手際により非難の声が巻き起こり、後白河はやむな く師高を流罪にする。 西光は報復として、天台座主・明雲の処罰を主張。後白河も同意したため、 明雲は天台座主を解任され所領も没収、伊豆に配流となった。延暦寺の大 衆が明雲の身柄を奪回したため、後白河は延暦寺の末寺・荘園の没収を図り、 延暦寺武力攻撃を平経盛に命じる。経盛は親平氏勢力の延暦寺と戦端を開く つもりはなく出兵を拒否、重盛・宗盛も清盛の指示に従うと称した。業を煮 やした後白河は、清盛を福原から呼び出して攻撃を要請する。清盛は出兵を 承諾し、延暦寺攻撃が決定する。 ところが、6月1日に西光が逮捕され院近臣による平氏打倒の陰謀が発覚し た(鹿ヶ谷の陰謀)。関係者は一網打尽にされ、西光・成親は殺害された。 実際に陰謀計画が進行していたかは定かでないが、院と平氏の対立が激し くなっていたことを物語る。 後白河に難は及ばなかったが、治承2年(1178年)言仁親王の立太子を認め ざるを得なくなる。不満を抱いた後白河は、治承3年(1179年)になると平 氏の勢力を削減するため圧力を加える。白河殿盛子が死去すると、盛子の 管理していた摂関家領を没収、重盛が死去するとその知行国・越前を没収 した。さらに親平氏派の基通をさしおいて松殿基房の子・師家を権中納言 に昇進させた。これに対して清盛は、11月14日にクーデターを起こす。後 白河は鳥羽殿に幽閉され、院政も停止される(治承三年の政変)。
605 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:40:24 ID:3nKBE9O2
治承4年(1180年)、皇子の以仁王が諸国に令旨を発し、京都で源頼政と 平氏打倒の軍を挙げた(以仁王の挙兵)。この挙兵は失敗に終わるが、 高倉宮以仁王の平氏討伐の令旨を受け取った全国の源氏が呼応し、木曾 の源義仲(木曾義仲)、伊豆へ流罪となっていた義朝の子の源頼朝など が挙兵すると、後白河法皇はこれを支援する。 養和元年(1181年)、それまで後白河法皇に代わって院政を敷いていた 高倉上皇が崩御すると、ほかに院政をとることのできる上皇がいない為、 後白河院政が再開される。また清盛が病死すると平氏の勢力は急激に衰 え、法皇の発言権は拡大した。寿永2年(1183年)7月には、木曾義仲が 叡山と連携して京都に攻め込むと、平氏は安徳天皇、建礼門院らを奉じ、 三種の神器と共に西へ落ち延びていった。叡山に避難していた法皇は京 へ戻ると、上洛した木曾義仲・源行家らを迎えて平氏追討の院宣を下す。 高倉上皇の皇子から新帝を擁立する際には、義仲は以仁王の子の北陸宮を 推挙するが、後白河は寵姫の丹後局の影響でこれを退けて尊成親王(後鳥 羽天皇)に決定し神器が無いために緊急措置として院宣により即位させた。 9月、鎌倉に本拠を置いた頼朝が密奏を行い、東国の支配権を認めさせると、 義仲は京で孤立する。頼朝に義仲追討を命じ、頼朝の弟の源義経に命じて これを討たせた。さらに平氏討伐の命令を出し、文治元年(1185年)、 壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。 すると今度は、頼朝と法皇の間で確執が発生し、義経に頼朝討伐の院宣を 下す。しかし義経が敗れ、今度は頼朝の抗議と兵糧攻めを受けると、後白 河法皇は頼朝に義経追討の院宣を下す。文治5年(1189年)、義経が殺され ると、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされるが、これを拒否した。 しかし、頼朝が奥州藤原氏を攻めると、事後承諾の形で奥州藤原氏追討の 院宣を下し、後に頼朝は上洛して法皇と和解。ただし、頼朝より願い出さ れた征夷大将軍への就任と九条兼実の関白就任は断固拒否する。 そのため頼朝と兼実は法皇の死を待つことで一致し、建久3年(1192年) 3月に法皇が66歳で死去すると、頼朝は7月に征夷大将軍を拝命、鎌倉幕府 を開いた。
606 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:40:52 ID:3nKBE9O2
『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文 にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と同母兄・崇徳上皇に酷 評されていたという。後に『梁塵秘抄』を撰する。今様の歌い過ぎで、3回 ものどをこわしたと言う話も伝わっている。また、自分の政権維持のため に、平家や木曾義仲ら武士勢力を利用しては、その存在が邪魔になると討 伐という形で使い捨てを続けた事から、源頼朝からは「日本国第一の大天 狗」と評された(ただし、近年この大天狗の表現は、院近臣の高階泰経を 指したのではないかとする説も出ている)。 『玉葉』に記された藤原信西の後白河評は「和漢の間、比類少きの暗主」。 その暗君のわずかな徳として「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、 あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ」(一旦やろうと決めたこ とは制法など無視して、必ずやり遂げる人)としている。ただし、これは 九条兼実が清原頼業から聞いた話として、『玉葉』寿永3年(1184年)3月 16日条に書きとめたもので、信西が本当にそう言ったか定かでなく、兼実 は後白河嫌いで通っているのでそのまま鵜呑みにはできない。 兼実は「鳥羽法皇は普通の君であるが、処分については遺憾であり、すべ てを美福門院に与えられた。今の後白河法皇は処分に関する限り遙かに鳥 羽法皇より勝れている。人である賢愚など、簡単に評価できないものだ」 とし、その死去にあたっては「法皇は度量が広く慈悲深い人柄であられた。 仏教に帰依された様子は、そのために国を滅ぼした梁の武帝以上であり、 ただ延喜・天暦の古きよき政治の風が失われたのは残念である。いまご逝 去の報に接し、天下はみな悲しんでいるが、朝夕法皇の徳に慣れ、法皇の 恩によって名利を得た輩はなおさらである」形式的な悲しみの言葉を使い ながらも、仏教帰依を非難し、近臣の悲しみを嘲笑している。 このように後白河には悪評以外に評価が無く、悪評が後を絶たないが、こ れは、後白河が自らの院政によって武家勢力との共存を図り、結果として 次から次にあたかも手駒を捨てていくかのごとく武士を利用していった事 が大きな要因といえる。その意味では平清盛も源義仲も、そして源義経も 後白河の犠牲者であった。事実、義経の要請に応じて源頼朝追討の院宣を 発しておきながら、その頼朝に義経追討の院宣を発している。さらに、頼 朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされてもこれを拒否し、頼朝が奥州 藤原氏を滅ぼした事を知ると、事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下 している。このように自分の都合でしか事象を解釈できず、かつて敵視し ていた人物を一転して賛美したり、或いはその逆で支援していた人物を排 除したりと、態度が180度逆転する事が非常に多かった。いかに世の常とは いえ、これは元首としては致命的な欠陥と言わざるをえないものである。 これでは、父鳥羽法皇が後白河を皇位の器ではないとみなしたのは、当然 と言える(無論、崇徳、近衛、後白河の3代28年に渡り鳥羽法皇が院政を敷 いていた事を、考慮に入れねばならない)。そして、後白河院政は結果と して武家政権の基盤を磐石な物にするとともに、朝廷の政権基盤を大幅に 弱体化させてしまったのである。
607 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:45:32 ID:3nKBE9O2
二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万 元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日 (1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。 名を守仁(もりひと)という。 後白河天皇の第一皇子。母は源有仁の養女・贈皇太后懿子(よしこ)。 外祖父は藤原経実。祖父である鳥羽法皇の后・美福門院の養子となる。 生母の懿子(よしこ)が急死したことで祖父・鳥羽法皇に引き取られ、 美福門院により養育された(『山槐記』)。近衛天皇が即位しており、 更に同じく美福門院の養子として先に入っていた重仁親王(崇徳上皇の 長男)がいたために皇位継承の望みは薄く、仁平元年(1151年)10月、 僧侶となるために伯父である覚性法親王のいる仁和寺に入った(9歳)。 その後、孫王は仏典をよく読みこなし「ちゑふかくおはしましけり」 (『今鏡』)と評判になった。近衛は病弱で子もいなかったことから、 仁平3年(1153年)関白・忠通が鳥羽法皇に孫王への譲位を奏請し、美福 門院も崇徳の院政への危惧から孫王の擁立に傾いていった。久寿2年 (1155年)7月に近衛が崩御すると「王者の議定」が行われて、孫王即位 までの中継ぎであることを条件に、雅仁親王(後白河天皇)が即位した。 8月仁和寺から戻った孫王は、9月親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日 立太子、12月に元服、翌年3月には美福門院の皇女・?子内親王を妃に迎え るなど、美福門院の全面的な支援を受けた。
608 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:46:16 ID:3nKBE9O2
保元3年(1158年)8月、後白河は守仁に譲位する(二条天皇)。これは 「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)によるもので、美福 門院が信西に強く要求して実現したものであった。二条天皇を支える勢力 として、藤原伊通(美福門院の従兄弟)・藤原経宗(二条生母・懿子の 弟)・藤原惟方(二条の乳母・俊子の子)らが集結して、二条親政派を 形成した。ここに、二条親政派と後白河院政派の対立が始まった。二条 は美福門院に育てられたこともあり、実父・後白河との関係は冷淡なも のであった。平治元年(1159年)12月平治の乱が起こると、二条は反乱 軍に幽閉されるが清盛の六波羅邸へ避難する。『平家物語』によると女 房車の中を覗いた武士が、二条を女房と見誤ったとする。女性のような 美貌を持った美男子だったという。 乱が終結した直後の12月29日に美福門院の八条邸に行幸し、翌正月には 太皇太后・藤原多子を入内させる(二代の后)。『平家物語』は多子の 入内を二条の独断とするが、後見の美福門院や側近の経宗・惟方がこの ような重大問題に関与しなかったとは考えにくく、二条の立場を固める ための政略的な婚姻と推測される。しかし、3月に経宗・惟方が後白河の 命により配流されて失脚、7月には藤原隆信が院昇殿停止処分を受け、8 月には中宮・?子内親王が病により出家[1]、11月には後見の美福門院が 死去するなど二条親政派の要人が次々に消えて、二条の立場は不安定と なり後白河院政派が勢力を拡大した。表面的には「院・内申シ合ツツ同 ジ御心ニテ」(『愚管抄』)二頭政治が行われたが、両派の対立は深く 「上下おそれをののいてやすい心なし、ただ深淵にのぞむで薄氷をふむ に同じ」(『平家物語』)という状況であった。 二条が頼みとしたのは、藤原伊通と平清盛だった。伊通は太政大臣とし て二条を補佐し、政道の意見書『大槐秘抄』を著した。また乳母・平時 子を従三位典侍にするとともに(『山槐記』)、時子の夫・清盛を検非 違使別当・中納言にすることで軍事的な後ろ盾とした。応保元年(1161年) 9月、後白河と平滋子の間に生まれた皇子憲仁(後の高倉天皇)を皇太子に しようとする陰謀が発覚すると、二条は後白河近臣の平時忠・平教盛・藤 原成親・藤原信隆を解官して、後白河の政治介入を停止した。「主上二条 院、世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ」(『愚管抄』)実権を掌握した 二条は、親政の拠点を押小路東洞院の内裏に据えて清盛に警護させた。12 月には美福門院の皇女・ワ子内親王に八条院の院号を与えて准母となし、 出家していた?子内親王にも高松院の院号を与えた。さらに、忠通の養女・ 藤原育子(むねこ、実父は徳大寺実能)を中宮として、関白・基実とも連携 して摂関家も自らの下に取り込むことに成功した。応保2年(1162年)には 叔父の経宗を召還する一方、自らを呪詛した時忠・源資賢を配流するなど 着々と政治基盤を固めていった。 二条は悪僧・神人の統制令や荘園整理など、信西の政策を踏襲して積極的 な政務を展開する。政治から排除された後白河は信仰の世界にのめりこみ、 蓮華王院を造営して供養の日に二条の行幸と寺司への功労の賞を熱望するが、 二条が拒んだことから後白河は恨みを抱いたという(『愚管抄』)。蓮華王 院には荘園・所領が寄進され、二条は後白河の院政復活の動きに警戒心を 抱くことになる。長寛2年(1165年)2月、太政大臣の伊通が亡くなり、 自らも病に倒れた。6月には前年に生まれた実子の順仁親王(六条天皇、 中宮・育子の養子)に譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。 二条は優れた人物で「末の世の賢王におはします」(『今鏡』)と賞賛さ れ、愚昧とされた父・後白河とは対照的だった。一方で、後白河との対立 は生涯に渡って解消されることはなく、「孝道には大に背けり」(『源平 盛衰記』)という世評もあった。
609 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:49:02 ID:3nKBE9O2
六条天皇(ろくじょうてんのう、長寛2年11月14日(1164年12月28日) - 安元2年7月17日(1176年8月23日))は日本の第79代天皇 (在位:永万元年6月25日(1165年8月3日) - 仁安3年2月29日 (1168年3月30日))。名を順仁(のぶひと)という。 二条天皇皇子、生母は大蔵大輔伊岐致遠女。左大臣徳大寺実能の娘・皇后 藤原育子を母后とする。 生後7ヶ月と11日(数え年で2歳)で親王宣下・立太子し、その日のうちに 践祚(歴代最年少即位)。その2か月後の8月27日に即位式が行われるも、 途中で泣き出して中断したために慌てて乳母(蔵人頭・藤原邦綱の娘、 成子)が授乳させてやっと落ち着いたという(参議・中山忠親が、赤ん坊 には儀式よりも乳の方が大切であると機転を利かせたのだという)。勿論 政務が執れるわけも無く、摂政・近衛基実(育子の兄)と邦綱が表向きを 取り仕切った。 在位2年8ヶ月で祖父・後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(後の高 倉天皇)に譲位する(歴代最年少上皇)。その後は世間からも忘れ去られ た寂しい生涯を送り、元服を行う事も無く13歳で死去(死因は赤痢と言わ れる)。后妃なく、遺児なし。 父である二条天皇は在世中に親政を行おうとして後白河と対立した上、 異母弟・憲仁の擁立を画策したとして、憲仁の叔父・平時忠を流罪、平 教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河の院政を停止させた。二条 天皇の死後に、政治の実権を奪われていた後白河が清盛と手を結んで、 甥から叔父へと言う不自然な皇位継承を実現させたと言われている。
610 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:50:37 ID:3nKBE9O2
高倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 養和元年1月14日(1181年2月6日)、在位仁安3年2月19日(1168年3月30日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日)、院政1180年)は第80代の天皇。 名を憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母、平滋子は清盛の妻平時子の異母妹。皇后は平 清盛の娘平徳子(後の建礼門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。 政界の実力者・平清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を 巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院 の不満から、二条天皇の死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高 倉天皇からみて甥)をわずか3歳で退位させ、天皇として擁立された。政 務は父後白河院が院政を敷き、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲 った。後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近 年の研究では平氏一門と組んで政治を押し進める意図を持っていたとの 説も出ている。 色白で美男の優男だったという。
611 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:51:33 ID:W8DA0imo
612 :
名前をあたえないでください :2008/05/01(木) 21:52:45 ID:3nKBE9O2
安徳天皇(あんとくてんのう、治承2年11月12日(1178年12月22日) - 寿永4年3月24日(1185年4月25日))は、第81代の天皇。在位は 治承4年(1180年)4月22日 - 寿永4年(1185年)3月24日。 名は言仁(ときひと)。 父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)、祖父は、 平清盛。 治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。 治承4年(1180年)2月21日に践祚し、4月22日に2歳で即位するが、当然、 政治の実権は清盛が握る。 即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が 行なわれるが、半年ほどで京都に還幸。寿永2年(1183年)、源義仲の入 京に伴い、三種の神器とともに都落ちする。平家一門に連れられ大宰府を 経て屋島に行き、行宮を置いた。源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍によって、 平氏が屋島の戦いに敗れると海上へ逃れる。そして寿永4年(1185年)、 最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し、 一門は滅亡に至る。 安徳天皇は、最期を覚悟して神爾と宝剣を身につけた祖母二位尼に抱き 上げられると、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問 いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子として お生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわ れました。この世はつらくいとわしいところですから、極楽浄土という 結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。安徳天皇は小さな 手を合わせて念仏を唱えると、二位尼は「波の下にも都がございます」 と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じ、安徳天皇は歴 代最年少の8歳で崩御した(『平家物語』「先帝身投」より)。 母の建礼門院も入水するが、熊手に髪をかけられ引き上げられている。 この際、三種の神器のうち神璽と宝剣が海底へ沈んだ。のちに神璽は引 き上げられたが、宝剣はこの時失われたとされる。 下関市伊崎町には、壇ノ浦の合戦の翌日、漁師達が網にかかった安徳天 皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したという御旅所がある。 寿永2年(1183年)に後鳥羽天皇が即位したため、同年から崩御の寿永4年 (1185年)までの2年間、在位期間が重複している。
613 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:39:11 ID:aSzo9v2J
後鳥羽天皇(ごとばてんのう、治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日); 在位:寿永2年(1183年) 8月20日 - 建久9年(1198年)1月11日)は、平安末期から鎌倉初期 にかけて在位した第82代天皇。諱は尊成(たかひら)。
614 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:40:08 ID:aSzo9v2J
土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇 (在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日 (1210年12月12日)。諱は為仁(ためひと)。
615 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:40:55 ID:aSzo9v2J
順徳天皇(じゅんとくてんのう、建久8年9月10日(1197年10月22日) - 仁治3年9月12日(1242年10月7日)は鎌倉時代の第84代天皇。在位: 承元4年11月25日(1210年12月12日)- 承久3年4月20日(1221年5月13日)。 諱は守成(もりなり)。
616 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:41:48 ID:aSzo9v2J
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日 (1218年10月30日) - 天福2年5月20日 (1234年6月18日))は鎌倉時代の第85代天皇 (在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日)。 諱は懐成(かねなり)。
617 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:42:33 ID:aSzo9v2J
後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇 (在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日 (1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。
618 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:43:15 ID:aSzo9v2J
四条天皇(しじょうてんのう、寛喜3年2月12日(1231年3月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))は、鎌倉時代の第87代天皇 (在位:貞永元年10月4日(1232年10月26日)- 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。
619 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:44:08 ID:aSzo9v2J
後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇 (在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日)- 寛元4年1月29日 (1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。
620 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:45:11 ID:aSzo9v2J
後深草天皇(ごふかくさてんのう、寛元元年6月10日(1243年6月28日) - 嘉元2年7月16日(1304年8月17日))は、鎌倉時代の第89代天皇 (在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1259年1月9日))。 諱は久仁(ひさひと)。
621 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:46:06 ID:aSzo9v2J
亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇 (在位:正元元年11月26日(1259年1月9日)- 文永11年1月26日 (1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。
622 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:47:03 ID:aSzo9v2J
後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日))は、鎌倉時代の第91代天皇 (在位:文永11年1月26日(1274年3月6日 - 弘安10年10月21日 (1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。
623 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:48:08 ID:aSzo9v2J
伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇 (在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日 (1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。 書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。
624 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:49:04 ID:aSzo9v2J
後伏見天皇(ごふしみてんのう、;弘安11年3月3日(1288年4月5日) - 延元元年/建武3年4月6日(1336年5月17日))は鎌倉時代の第93代天皇 (在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日 (1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。
625 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:49:45 ID:aSzo9v2J
後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇 (在位:正安3年1月22日(1301年3月3日) - 徳治3年8月25日 (1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。
626 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:50:28 ID:aSzo9v2J
花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 貞和4年/正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇 (在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日 (1318年3月29日))。諱は富仁(とみひと)。
627 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:51:21 ID:aSzo9v2J
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、正応元年11月2日(1288年11月26日) - 延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)は、第96代天皇。 諱は尊治(たかはる)。1926年(大正15年)10月に詔書が出され、 それまでの第95代から第96代天皇として皇統を書き換えられた。
628 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:53:06 ID:aSzo9v2J
後村上天皇(ごむらかみてんのう 嘉暦3年(1328年) - 正平23年 / 応安元年3月11日(1368年3月29日) ; 在位:延元4年 / 暦応2年8月15日 (1339年9月18日) - 正平23年 / 応安元年3月11日)は、南北朝時代の 第97代、南朝第2代天皇である。名を義良(のりよし / のりなが)という。 名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定される ようになった(それまでは一貫して現皇統につながる北朝が正統とされてい た)。 奈良の吉野、大阪の住吉などを行宮とした
629 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:54:08 ID:aSzo9v2J
長慶天皇(ちょうけいてんのう、興国4年/康永2年(1343年) - 応永元年8月1日(1394年8月27日) 在位:正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日) - 弘和3年/永徳3年(1383年)10月)は、南北朝時代の第98代、 南朝第3代天皇である。名を寛成(ゆたなり)という。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定され るようになった(それまでは一貫して現皇統につながる北朝が正統とされ ていた)。
630 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:55:05 ID:aSzo9v2J
後亀山天皇(ごかめやまてんのう、正平2年/貞和3年(1347年)? - 応永31年4月12日(1424年5月10日); 在位:弘和3年/永徳3年(1383年) 10月 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))は、 南北朝時代の第99代、南朝最後の第4代天皇である。 名を熙成(よしなり[2])という。 明治44年(1911年)に南朝が正統 とされたため、歴代天皇として認定されるようになった(それまでは 一貫して現皇統につながる北朝が正統とされていた)。
631 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:56:18 ID:aSzo9v2J
後小松天皇(ごこまつてんのう、永和3年/天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、 歴代第100代の天皇(在位:永徳2年/弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。名は幹仁(もとひと)。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、在位期間が南北朝合一 以降(1392-1412)に繰り下げられてしまっている。それまでは一貫して 現皇統につながる北朝が正統とされていたため北朝在位年数(1382-1412) を使用していた。
632 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:57:08 ID:aSzo9v2J
称光天皇(しょうこうてんのう 応永8年3月29日(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日); 在位: 応永19年8月29日 (1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、 室町時代の第101代天皇である。名ははじめ躬仁(みひと)、 のち実仁(みひと)に改めた。
633 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:57:56 ID:aSzo9v2J
後花園天皇(ごはなぞのてんのう、応永26年6月18日 (1419年7月10日) - 文明2年12月27日 (1471年1月18日); 在位:正長元年7月28日 (1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))は、 室町時代の第102代天皇である。名を彦仁(ひこひと)という。
634 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:58:45 ID:aSzo9v2J
後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇 (在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日 (1500年10月21日))。名は成仁(ふさひと)。
635 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 02:59:30 ID:aSzo9v2J
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日) - 大永6年4月7日(1526年5月19日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇 (在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日 (1526年5月19日)。名は勝仁(かつひと)。
636 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 03:00:21 ID:aSzo9v2J
後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇 (在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。 名は知仁(ともひと)。
637 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 03:01:10 ID:aSzo9v2J
正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。
638 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 03:02:30 ID:aSzo9v2J
後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日); 在位:天正14年11月7日 (1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))は、 安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇である。 諱を和仁(かずひと)といい後に周仁(かたひと)と名乗った。
639 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 03:04:32 ID:aSzo9v2J
後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日); 在位:慶長16年3月27日 (1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日) は第108代天皇である。諱は政仁(ことひと)。
640 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 17:05:32 ID:KKTfKnM7
頑張れ!
641 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 20:53:09 ID:knVTS4d7
642 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:42:31 ID:aSzo9v2J
明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、第109代天皇 (在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日 (1643年11月14日))。幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。
643 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:43:14 ID:aSzo9v2J
後光明天皇(ごこうみょうてんのう、寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))は江戸時代の第110代天皇(在位:寛永20年10月3日(1643年11月14日) - 承応3年9月20日(1654年10月30日))。幼名を素鵞宮、諱を紹仁(つぐひと)という。
644 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:44:13 ID:aSzo9v2J
後西天皇(ごさい てんのう、寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日)、在位:承応3年11月28日 (1655年1月5日) - 寛文3年1月26日(1663年3月5日))は、 江戸時代の第111代天皇。幼名を秀宮、諱を良仁(ながひと)という。 花町宮。花町院。
645 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:45:03 ID:aSzo9v2J
霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は神武天皇から数えて 第112代天皇。在位は寛文3年1月26日(1663年3月5日) −貞享4年(1687年)3月21日。幼名は高貴宮(あてのみや)、 諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い (長らく院政を敷いたため)。 歌人。能書家。
646 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:45:52 ID:aSzo9v2J
東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇 (在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日 (1709年7月27日)。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。 追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。
647 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:46:41 ID:aSzo9v2J
中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日 (1737年5月10日); 在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日( 1735年4月13日))は、江戸時代の第114代天皇である。 幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。 追号の「中御門」は、御所の待賢門の別称に因む。
648 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:47:23 ID:aSzo9v2J
桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇 (在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日 (1747年6月9日))。 幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。
649 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:48:09 ID:aSzo9v2J
桃園天皇(ももぞのてんのう、寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))は、江戸時代の第116代天皇 (在位:延享4年5月2日(1747年6月9日) - 宝暦12年7月12日(1762年8月31日))。 幼名を八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)、 諱を遐仁(とおひと)という。
650 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:49:02 ID:aSzo9v2J
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇 (在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年11月24日 (1771年1月9日))。 江戸時代、また現在まで最後の女性天皇。 幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、 諱を智子(としこ)という。 近年の皇位継承問題から“最後の女帝”として俄かに注目されている。
651 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:50:12 ID:aSzo9v2J
後桃園天皇(ごももぞのてんのう、宝暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日))は、江戸時代の第118代天皇 (在位:明和7年4月28日(1770年5月23日) - 安永8年11月9日 (1779年12月16日))。諱は英仁(ひでひと)。 なお、天皇急逝のため、後継の準備の為に実際よりも後の日付で発表され たため、在位日が死亡後も続いている(宮内庁所蔵「後桃園院御凶事前後記」)。
652 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:50:53 ID:aSzo9v2J
光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇 (在位:安永8年11月9日(1779年12月16日) - 文化14年3月22日 (1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。 諱ははじめ師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)に改めた。 傍系であった閑院宮家出身のためか、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。朝廷の権威の復権に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価されている。
653 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:52:55 ID:aSzo9v2J
仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇 (在位 文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日)。 諱は恵仁(あやひと)。 光格天皇の第六皇子。養母は後桃園天皇の第一皇女、 光格中宮の欣子内親王(新清和門院)。実母は勧修寺大納言経逸の女、 藤原?子(東京極院)。正妃は関白鷹司政煕の女、藤原繋子(新皇嘉門院)、 繋子没後はその妹、藤原祺子(新朔平門院)。 文化6年(1809年)3月24日、父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子とし て立太子された。 文化14年(1817年)に即位し、父光格上皇の意をうけて朝儀復興に尽力した。 皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に 幕府との折衝を命じた。 幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。 享年47であった。 崩御の翌年にあたる弘化4年(1847年)、天皇の遺志によって御所の建春門外 に公家講学の所として学習所が設立された。明治天皇の命によって設立 された現在の学習院の前身である。
654 :
名前をあたえないでください :2008/05/02(金) 23:55:51 ID:aSzo9v2J
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) ‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、江戸時代末期の天皇 (121代、在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日)。 諱は統仁(おさひと)。幼称は煕宮(ひろのみや)。 在位中の徳川将軍は、12代徳川家慶・13代徳川家定・14代徳川家茂・ 15代徳川慶喜である。 仁孝天皇の第四皇子。養母は左大臣鷹司政?の娘で仁孝女御(後、中宮) の藤原祺子(新朔平門院)。 実母は正親町実光の娘、仁孝典侍の藤原雅子 (新待賢門院)。正妃は九条尚忠の娘、九条夙子。 幼名は煕宮。天保11年(1840年)に立太子し、弘化3年(1846年)の父・ 仁孝天皇の崩御によって践祚した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、 その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創立した。 嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府 大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷 さえ表明したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。これを 受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動 が荒れ狂った。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、妹・和宮親子内親王を 第14代征夷大将軍・徳川家茂に嫁がせるなど、公武合体運動を推進し、 あくまで鎖国を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために 賀茂神社や石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩主 松平容保への信任は特に厚かったといわれる。 しかし慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にある と見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて天皇に条約の勅許を要求して、 天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となった。だが、 この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、 保守的な姿勢は崩さなかった(もっとも、遺品として時計が残るなど、 西洋文明を全く否定していたわけではない)。翌 慶応2年(1866年) 12月25日、義弟・家茂の後を追うように、在位21年にして崩御。享年35。 死因は天然痘と診断された。 突然の崩御であったため、倒幕派に暗殺されたとする説が、資料的にも 医学的にも非常に有力である。この説によれば、孝明天皇は保守的な人物で 倒幕の意思が無かったため、倒幕派であった岩倉具視などにとって最大の障 害であり、暗殺されたのだという。毒殺説の他に短槍での刺殺説も有るが、 刺殺説は信憑性に乏しい。毒殺説においては使用された毒物についても複数 の説がある。 昭和50年(1975年)、孝明天皇の典医を勤めていた、伊良子光順の拝診日記 が発見されたが、その内容は毒物による中毒死を推察させるものである。 当然ながら、宮内庁は、孝明天皇の暗殺を認めていない。このためか、 戦前は孝明天皇に関する研究は封印されていた。 いずれにせよ、幕府の存在に深く理解を示していた孝明天皇の死は、 禁門の変で鳴りを潜めた勤皇倒幕派の勢力復活と佐幕派の衰退を招き、 幕末史の大きな転換点となった。 暗殺説は国外にも流布しており、安重根が伊藤博文を暗殺した時の理由 として、孝明天皇の暗殺疑惑を挙げている。
655 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:03:24 ID:aSzo9v2J
明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位:慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。 諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。 印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者 として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝 (Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・ 慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に、京都・中山忠能邸 で生まれ、祐宮(さちのみや)と命名された。 万延元年(1860年)5月、立太子を宣明する。9月28日、父・(孝明天皇から) 親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=皇太子睦仁親王となる)。 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、父・孝明天皇が俄かに崩御。 慶応3年1月9日、満14歳の若さで践祚した。
656 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:04:16 ID:RSlh9I5n
幕末の動乱 この頃、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月 15日(1867年11月10日)に、明治天皇は、将軍・徳川慶喜からの大政奉還の 上表を勅許し、政権を朝廷に戻した。さらに慶応3年12月9日 (1868年1月3日)には(討幕派の主導において)王政復古の大号令を発し、 「新政府樹立」を宣言。東征を命じ、旧幕府軍と 明治元年(1868年)から 明治2年(1869年)にかけて戦い勝利した(戊辰戦争)。 新時代・明治 明治天皇(明治5年)この間、明治元年3月14日(1868年4月6日)には五箇条 の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には 政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制 を定めた(改元の詔書が発せられたのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。 しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されるとした)。 明治2年(1869年)、東京に遷って東京城(旧・江戸城)を皇居と改称し、 6月17日(7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では 公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけ として、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が 大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を 断行し、中央集権体制を確立した。 他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布 の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。 岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷 改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽く した。 ※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日 (1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」 と定めた(明治5年太政官布告第337号)。
657 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:04:54 ID:RSlh9I5n
征韓論 明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、 勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年 (1874年)から明治8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、 立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、 天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動 への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して 議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。 近代国家の確立 明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、 大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。 明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、 立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、 郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、 莫大な皇室財産の設定を行なった。 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、 日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、 近代天皇制国家確立の基礎となった。翌・明治23年(1890年)には教育勅語 を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。 帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する 政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能 を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立に おいても、天皇は宥和に努めた。
658 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:05:30 ID:aSzo9v2J
列強への道 栃木県那須村演習統監。明治42年11月。日本が初めて直面した近代戦争 である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。 また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な 国力の増強を図った。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本を 植民帝国へと膨張させる政策を採用した。 明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であった条約改正を完了させ、 名実共に日本は列強の一員となった。 崩御(死去) 明治45年(1912年)7月30日、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して 崩御した。享年61(満59歳没) 。 なお、実際の崩御は「7月29日午後10時43分頃」と言われているが、 宮内省告諭に拠る崩御日時は「7月30日午前0時43分」となっている。 これは建前上、崩御当日に(皇太子嘉仁親王が践祚して新帝となる) 一連の宮中儀式を執り行ったということにせねばならなかったものと 思われる。 同年(大正元年)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑) に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車 に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に 埋葬された。なお、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地には 『聖徳記念絵画館』が建てられた。
659 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:06:23 ID:RSlh9I5n
人柄と影響 最も有名な御真影、キヨッソーネ作による肖像版画明治天皇は、近代の 天皇制が確立した時期の天皇である。若年で即位して以来、大政奉還、 王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末 から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、 絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律 すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、乗馬と 和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある 性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。 若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚 や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、 また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。 元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を 「西洋好き」と評していた。特に教育に関しては儒学を基本にすべしとする 元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のよ うな西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。特に 明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される 事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を 一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を 遅らせている。こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任 とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで 天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を 求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が 洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という 契約を交わされて天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを 約束(「明治天皇紀」)して天皇自らが親政の可能性を放棄したのである。 写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる 肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、 苦心の末に作成されたものである。ただ、最晩年の明治44年(1911年)に 軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが 明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。 明治天皇は明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉と 認識された。大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が 殉死した。明治天皇を中軸として作り上げられた明治国家は、この後、 変容していくこととなる。 非西欧諸国の中で近代化に成功した日本の君主ということで、海外での評価 は日本国内以上に高く、エチオピアのハイレ・セラシエ1世やパラグアイの アルフレド・ストロエスネル、イラクのサダム・フセインなど、明治天皇 を尊敬する人は多い。
660 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:06:45 ID:RSlh9I5n
著名な御製 明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。 その数は、約93,000首を超えると言われる。 よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ 系譜 父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明帝の正妃・九条夙子(英照皇太后) を「実母」と公称した。 乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良 くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。 諡号・追号 在位期間の元号からとって、明治天皇と追号された。 明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、 またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、 以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない。 (追号も諡号の一種とする説もあるが、厳密には異なる)
661 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:09:24 ID:RSlh9I5n
大正天皇(たいしょうてんのう、1879年8月31日 - 1926年12月25日)は、 第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。 幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。印は壽(じゅ)。 在位中の元号から採って、大正天皇と追号された。明治以降の近代天皇制 で初の一夫一妻制をとった天皇である。 大正天皇は1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子 として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍 柳原愛子である。 明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生 まれてから年が明けるまで重い病気に悩まされた。侍医(主治医)の浅田 宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失) とのちに記録している。 このような状態ではあったが、明治天皇は昭憲皇太后(一条美子)との間 に皇子女が得られず、側室出生の親王・内親王ら5人も、第三皇子である 大正天皇の出生以前に相次いで死去していたため、皇太子となった。 なお、嘉仁親王は幼少期に昭憲皇太后の子であると聞かされていたため、 生母が柳原愛子と知った時にはショックを受けたとされる。
662 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:11:21 ID:RSlh9I5n
幼少期 幼少時代の大正天皇誕生の翌年、皇室の風習により中山忠敬の屋敷に里子に 出された。この間、明治天皇は養育にほとんど口出しをしなかった。1885年 (明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に戻ったが、弟宮は全員、妹宮はほと んど逝去しており、年の近い親族が少なかった。そのため、あまり家族と接 することがなかったとされる。 1887年(明治20年)8月31日、8才の誕生日の時に皇后・美子(昭憲皇太后) の養子となる(儲君)。同年9月には学習院に入学した。学習院時代には侍 従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校し、これがランドセルの原型となる など微笑ましい出来事が語られている。しかし、健康に優れず学業に集中で きなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、 留年することもあった。1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の 恒例になった。 1889年、立太子礼を挙げる。他方学習院での学習は一向に進まず、 乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手 とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難で あるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師による マンツーマンの授業を受けた。この時重視された教科は、フランス語、 国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江からは大きな影響を受け、 漢文を趣味としたという。しかし、これらの教育も嘉仁親王にとっては 非常に厳しく、しばしば明治天皇に愚痴を漏らしていたという。 明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきり であった嘉仁親王の管理を教育から健康まで総合的に行うため、新たに 東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、 嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないま ま危篤に陥った時には、第3皇子である宣仁親王に高松宮の称号を与える ことで、有栖川宮の祭祀を継承させている。
663 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:14:08 ID:RSlh9I5n
結婚・巡啓の日々 結婚の儀1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九條節子(貞明皇后) と結婚した。このとき節子は15歳であった。「病弱の皇太子に早めの結婚 を」と願った周囲の声に後押しされてのものといわれている。ただ、寂し い幼少時代を過ごした親王にとっては非常にうれしい出来事だったらしく 、幼少期以来優れなかった健康がこの後回復していった。この結婚の時、 日本各地で記念として桜が大量に植樹された。日本=桜という概念が生 まれたのもこの時期であるといわれる。また、現在広く行われている 神前結婚式は、この御婚儀を東京大神宮が一般向けにアレンジしたもの である。結婚後は明治天皇とは対照的に一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的 な一面を見せたという。大正天皇が事実上では初の一夫一妻制の天皇で ある(のちに昭和天皇が一夫一妻制を明文化)。 健康が回復してからの親王は日本各地を回った。その範囲は沖縄県を除く 全土であった。有栖川宮の黙認もあって、この時の親王は非常に気さくで、 身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成のお召列車でなく一般乗客 と同じ普通列車に乗り込み、兵庫県の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を 訪問、新潟では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時なぞは蕎麦屋 には入るなど自由奔放にふるまった。これは当時、明治天皇が一般人の目 の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。 京都帝国大学(後の京都大学)付属病院を訪れた時には患者に声をかけ 患者が涙にむせんだという逸話も残っており、福岡県知事との会話の間に 持っていたタバコを気軽に差し出したという記録も残っている。このよう な思ったことをすぐに言動に出す癖は幼少期からのものであるが、嘉仁親王 の癖を好ましく思わなかった明治天皇や元老山縣有朋らに幾度となくたしな められていたようである。 嘉仁親王は、巡行中、興に乗れば漢詩を創作している。父の明治天皇や子の 昭和天皇が和歌を好んで読んだのとは好対照である。富山県訪問時に詠んだ 「登呉羽山」の詩は現在、呉羽山山頂に碑文となっており、おそらくは大正 天皇唯一の詩碑とされる。[1]創作した漢詩の数は実に1367首もあり、 歴代天皇のなかでも飛びぬけている。(第2位が嵯峨天皇の97首)開放的な 天皇の性格上、和歌が31文字で限られた表現しかなしえないので、多様な 表現が可能な漢詩に心を寄せたものと思われる。 皇太子時代の韓国訪問時、漢城(ソウル)にて。皇帝純宗や李垠、 伊藤博文の姿もある1907年(明治40年)、嘉仁皇太子は大韓帝国を訪れ、 皇帝純宗や皇太子 李垠と会っている。このときの大韓帝国は、保護国 とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊 という事になった。このとき、嘉仁皇太子は李垠をたいそう気に入り、 その後朝鮮語を学び始めたという。
664 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:15:49 ID:RSlh9I5n
即位 1912年(明治45年)7月30日、明治天皇の崩御(死去)にともない、皇位を 継承して大正と改元した。1915年(大正4年)に京都御所で即位の御大典を あげるが、その性格と病状の悪化から「頼りない」「頭が弱い」などという 認識が、山縣ら政界の一部での公然とした認識となった。天皇自身、即位後 の急激な環境の変化と、山縣らの冷淡な態度に過度のストレスを持つように なる。そんな中で御用邸の休暇には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求め ていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢は、僅かばかり残された天皇 の自由を奪っていく事になる。 1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休む ことが多くなり、1919年(大正8年)には食事をとることも勅語を読むこと もできなくなるほど病状は悪化していた。1921年(大正10年)には皇太子 裕仁親王が摂政に就任することで天皇は事実上の引退となり、病状は公に される運びとなった。このため、後々にも「頭が弱い病弱な天皇」として 一般に認識されることになった。その一方で、皇太子時代から巡啓に同行 するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは 大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」 天皇像を『原敬日記』に記している。 大正天皇の大葬その後は病気療養を続けていたが、1926年(大正15年) 11月に病状が極度に悪化し、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山 御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を 握ったまま、心臓麻痺で崩御(死去)。宝算(享年)47。 臨終の床に生母を呼んだのは皇后・節子の配慮によるものであったという。 「大正天皇」と追号され、翌年2月8日多摩陵に葬られた。
665 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:18:24 ID:RSlh9I5n
評価 昭和天皇による評価 「先帝の事を申すは如何なれども、その皇太子時代は究めて快活に元気にあ らせられ、伯母様の所へも極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は 万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりし為め、遂に御病気となら せられたる、まことにおそれ多きことなり。」 秩父宮雍仁親王による評価 「父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。東宮 御所時代には(中略)子供の目にも溌剌としてうつっていた。それが天皇 になられて数年で、別人のようになられたのだから。」 いわゆる「遠眼鏡事件」 「遠眼鏡事件」とは、大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で 詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして 議員席を見渡した とされる事件であり、それにまつわるさまざまな風説 が流布されており、大正天皇は暗愚であった と評価される要因のひとつで あるとされる。 この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容 (天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なって おり、信憑性は定かではない。また、語り出されたこと自体が太平洋戦争 後すなわち「近代天皇制の呪縛から解放され」た昭和30年代にほぼ集中し ているという。 この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている。 この証言は「勅書をくるくると丸め、遠めがねに」したことを否定してはい るが、どのような経緯で、お付きの女官が大正天皇本人から聞くことになっ たかは述べられてない。また、その「事件」がいつの出来事であるかも明確 ではない。そのため、そういった「事件」が実際に起こったのか、その経緯 についての大正天皇の説明が真実であるかということを判断することはでき ない。 また、大正天皇は脳膜炎を患って以来手先が不自由であり、上手く巻けたか どうかを調べていたのが、議員からは遠めがねのように使っていたように見 えたという説もある。そもそも、勅書は丸めるものであるので丸めること自 体におかしな点はない。 大正天皇は、最終的に政治的な立場から排除された天皇であり、大正天皇が 病弱で暗愚である エピソードの流布自体への政治的な思惑を指摘する意見が ある。実際、皇太子時代から近かった原敬首相存命時には極力伏せられてき た天皇の病状は、原の暗殺直後に一般に流布されるようになったとされる。 それに対して、戦前は不敬罪があり、皇室の噂は封印されていたものであり、 (風説の報道が昭和30年代に集中しているからといって)虚構との説明には 説得力がないという意見がある。 大正天皇についての情報は肉親、利害関係者の証言など、客観性が乏しいも のが多い。
666 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:19:45 ID:RSlh9I5n
系譜 父は明治天皇、母は側室・御局であった公家の柳原愛子。 貞明皇后との間には迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)、淳宮雍仁親王 (秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)の4男 をもうけた。 また、柳原白蓮の従兄にあたる。 大正天皇より御陵が東京に移され、多摩陵(たまのみささぎ)に葬られた。 大正天皇を祀る神社はないが、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿 に祀られている。
667 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:22:28 ID:RSlh9I5n
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。 名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。 歴代天皇の中で(神話上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)今上天皇の実父にあたる。
668 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:24:57 ID:RSlh9I5n
略歴 香淳皇后とともに。 1922年、イギリス皇太子エドワード・デイヴィッド(右)訪日時、 貞明皇后(中)とともに。 1928年、即位の礼。 1946年10月29日、憲法改正案を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。 1946年11月3日、日本国憲法に署名。昭和天皇は、1901年(明治34年) 4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后節子(貞明皇后)の第一皇子として、 東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の東宮御所で生まれた。 名は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。 生後70日で枢密顧問官の伯爵・川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育 された。1908年(明治40年)、学習院初等科に入学し、学習院院長・ 乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。 初等科在学中の1912年(大正元年)、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に 任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。1914年(大正3年) 3月、学習院初等科を卒業。 1916年(大正5年)年、立太子礼を経て皇太子となった。 1918年(大正7年)、久邇宮良子女王が皇太子妃に内定。 1919年(大正8年)、満18歳となり、成年式が執り行なわれた。 大正天皇の病状悪化の中で、1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日まで、 イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任 し、摂政宮と称された。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、 命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、 久邇宮良子女王と結婚した。
669 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:26:29 ID:RSlh9I5n
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御により、践祚して第124代天皇 となり、昭和に改元[1]。1928年(昭和3年)11月、京都御所で即位の大礼 を行なった。以後、終戦まで国策決定に深く関与し、特に軍事・外交政策 にはしばしば独自の判断を示した。1933年(昭和8年)12月23日、皇太子・ 継宮明仁親王が降誕(誕生)。1945年(昭和20年)8月、ポツダム宣言受諾 を決定し、同15日、戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代 天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせた。1946年(昭和21年)1月1日の詔書 (いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」な どを否定し、新日本建設への希望を述べた。 1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法において 天皇は「日本国の象 徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「国政に関する権能を有しない」と されたが、占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などに より、独自の政治的影響力を保持した。1952年(昭和27年)4月28日、サン フランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復し、報告のため伊勢神宮 と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、靖国神社をそれぞれ参拝し た。
670 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:27:51 ID:RSlh9I5n
戦後は、天皇としての公務の傍ら、生物学研究者としての業績をあげた。 1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス、オランダなどを歴訪。 1975年(昭和50年)には、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。 1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。 1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、(神代を除き) 歴代天皇で最長の在位期間を記録した。 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。 1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に出席。これが公の場への、 最後の出席となった。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸 乳頭周囲腫瘍により崩御(死去)。87歳と、歴代の天皇で(神代を除き) 最も長寿であった。在位中の元号である昭和より、昭和天皇と追号された。 同年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、 武蔵野陵に埋葬された。
671 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:32:22 ID:RSlh9I5n
年表 1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と貞明皇后の第一皇子 として青山の東宮御所で生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。 生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。 1908年(明治40年)学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将) から厳格な教育を受ける。 1912年(大正元年)陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。 1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。 1916年(大正5年)陸海軍大尉昇任。立太子礼を経て皇太子となる。 1918年(大正7年)久邇宮良子女王が妃に内定する。 1919年(大正8年)成年式。 1919年(大正8年)陸海軍少佐に昇任。 1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までイギリスをはじめヨーロッパ 諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン・パウエル卿と 謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章を 贈呈される。 1921年11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。 1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で 無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める。 (虎ノ門事件) 1924年(大正13年)に久邇宮良子女王と結婚。 1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御により践祚し、昭和と改元。 葉山の御用邸内において剣璽渡御の儀を行なう。 1926年(昭和元年)第124代天皇、陸海軍大元帥となる。 1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行なう。1 2月、御大典記念観兵式。 1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、 粘菌などに関する進講を受ける。 1933年(昭和8年)12月23日、皇太子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す 用語)。 1940年(昭和15年)皇居前広場において皇紀2600年奉祝式典に出席。 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。 1945年(昭和20年)8月15日正午、国民に対してラジオ放送を通じて 「戦争終結」を告げた(玉音放送)。歴代天皇で初めて、一般国民に天皇の 肉声を聞かせる。9月2日、東京湾内・アメリカ軍艦・ミズーリ号上にて日本 政府および軍代表が降伏文書に署名する。 1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書を煥発する。 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告の ため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖国神社をそれぞれ参拝。 1959年(昭和34年)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚に出席(朝見の 儀において)。 1962年(昭和37年)南紀白浜にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠を しのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠 んだ。 1971年(昭和46年)9月27日より香淳皇后とともにイギリス、オランダなど を歴訪する。オランダでは生卵を投げつけられるという事件があった。 1975年(昭和50年)9月30日から同年10月14日まで皇后とともにアメリカを 訪問する。 1981年(昭和56年)新年一般参賀で初めて参集した国民に向かい「お言葉」 を述べる。 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。 1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に御出席、これが公の場へ の最後の御出席となる。 1989年(昭和64年)1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍により崩御 (死去)、87歳。 1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、 武蔵野陵に埋葬される(日本国憲法と(現行の)皇室典範を経て葬られた 最初の天皇)。
672 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:33:10 ID:RSlh9I5n
系譜 昭和天皇の父は大正天皇、母は皇后節子(さだこ)(貞明皇后)。 父方の祖父は明治天皇、祖母は典侍・柳原愛子。母方の祖父は九条道孝、 祖母は野間幾子。 皇子女 香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。 照宮成子内親王(てるのみや しげこ、1925年-1961年) - 東久邇宮盛厚王妃 久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、1927年-1928年) 孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、1929年-1989年)- 鷹司平通夫人 順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年-) - 池田隆政夫人 継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、1933年-) - 第125代天皇・今上天皇 義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年- ) - 常陸宮 清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年- ) - 島津久永夫人
673 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:35:16 ID:RSlh9I5n
宮中某重大事件 1919年(大正8年)11月に元老・山縣有朋が、「皇太子裕仁親王妃に内定」 と発表されていた良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約 破棄を進言した事件。「良子でなければならぬのだ」との裕仁親王本人の 意志が尊重されて、「婚約に変更なし」と発表された。 山縣は皇室を思 って進言したのだが長閥の巨頭として非難された。山縣は責任を感じて大 正10年3月、枢密院議長・元老など全ての辞表を提出したが 5月、優詔に て却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。 婚礼の儀の延期と関東大震災 1923年(大正12年)の関東大震災により、同年秋季予定されていた皇太子裕 仁親王(当時摂政であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来な ら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長 することはせず遷都するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親 王の意向により延期となった。 この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っ ている。背景には、霞関離宮が修理中であったため箱根(大きな震災を被っ た)に行く予定であったが、加藤友三郎内閣総理大臣が死去し、政変が起き ていたため東京の宮城(皇居)に留まったことがある(1973年の記者会見よ り。会見記録は高橋紘「陛下、お尋ね申し上げまする」に詳しい)。 また後年、昭和天皇は次のように述懐している。「その 惨憺たる様子に対 して、まことに感慨無量でありました」(1981年の記者会見より)
674 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:36:39 ID:RSlh9I5n
田中義一首相を叱責 満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を 厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しな かった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激し く叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその直後に 死去)。 田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる牧野伸顕内大臣の指導 の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見 せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野ら の「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイ メージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の 揺らぎすら生じさせることとなった。 この事件で、天皇はその後の政治的関与について臆病になったという。 なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に 内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』 など)を照らしあわせるとそこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。
675 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:38:18 ID:RSlh9I5n
天皇機関説事件 1935年(昭和10年)、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、 昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇 機関説で良い」と言った。 昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説 であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわら ず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述 懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動 かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見ら れるが、現実にはそれほど単純でない。 機関説は、国家法人説と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国 家の本質を「法人」とする点において主権および主権者の存在をあいまいに する意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的 立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。 しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するとい う点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の 「民本主義」と並んで護憲運動や大正デモクラシーの理論的バックボーンを 演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと立 憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそ こまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説 は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、 有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説 もある。
676 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:39:37 ID:RSlh9I5n
二・二六事件 1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、 侍従武官長・本庄繁陸軍大将の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも 咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕 が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許 すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を真綿で締める に等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を 率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれど も統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面 し初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は反乱軍と認 定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、太平洋 戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線) を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言 われている。なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、影 の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自分の通訳に 選んでいる。
677 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:42:22 ID:RSlh9I5n
真珠湾攻撃・開戦詔勅 1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米戦は避けられないものとし て決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇は この席で敢えて発言をし、明治天皇御製の 「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」 (四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう) という短歌を詠み上げた。 昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。しかし、戦争が始 まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南 洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次 の日記に記されている。 戦争指導 1943年6月24日、戦艦武蔵に行幸した昭和天皇(中央)戦争末期のころは文字 通り世界中で日本軍が戦火をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々 と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ 、実際に幾つか指示等もしている。また、この様なやりとりのなかで答えてし まったがために、後にはひけずにニュージーランドなどオセアニア付近へ戦局 を広げねばならなくなってしまった経緯が存在する。 和平に向けて 1945年(昭和20年)1月6日、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしていると の報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この 時、木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧めている[2]。 準備は木戸が行い、 軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺する という名目であった。 そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿の上奏があ る。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を 防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇 は近衛の言うとおりの人事が出来ないことを指摘しており、近衛の策は実行 されなかった。 東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和 天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐している。8月9日にポツダ ム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・ 鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった。 昭和 天皇は受諾の意思を表明し、8月15日、玉音放送。終戦となった。後に昭和 天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、 自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て 考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と臥薪嘗胆した 鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている。
678 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:47:25 ID:RSlh9I5n
人間宣言 昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(1945年)1946年(昭和21年)1月1日 、人間宣言を渙発。この詔書はGHQの指導下にあったマスコミにより天皇の神 格否定として喧伝され、国民に大きな衝撃を与えた。 これと前後して、天皇がGHQ本部を表敬訪問した際に撮影された、GHQ総司令官 でアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と一緒に並んだ全身写真が公 開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分)されている。天皇が正装のモ ーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーがラフな服装で腰 に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は改めて敗戦の重みを 思い知らされた。天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を 与えている。
679 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:48:26 ID:RSlh9I5n
外遊 皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までの間、 イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。 これは史上初の皇太子の訪欧]であり、国内には反対意見も根強かったが、 山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。出発は新聞で 大々的に報じられた。お召し艦には巡洋艦香取が用いられた。イギリスで は日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世やロイド ・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初 の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解い たという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見し た他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地など を訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。 1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリ スやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には 数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに 立ち寄っており、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地である デンマークやベルギー、フランスなどでは暖かく歓迎された。フランスで は旧知であるエドワード8世と再会、しばし歓談している。しかし当時両国 が植民地支配していたビルマやインドネシア戦線で旧日本軍の捕虜となっ た退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇すること になった。特にインドネシアの宗主国であったオランダにおいては生卵や魔 法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいもので あった。 また、1975年(昭和50年)にはフォード大統領の招待によって9月30日から 10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の訪 米は史上初の出来事である。これに先立つこと10余年前、皇太子明仁親王夫 妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋をたどってのものと いえる。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画さ れたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前にはアメリカ人は 天皇の訪米にあまり関心がないという報道がなされ、侍従長・入江相政によ ると天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいたといい、関係 者を悩ませた。天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってア メリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、 訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日フォード大統領との公式会見、 10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日 のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々 的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった。ニューヨーク訪問 時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が 天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソ ードが多かった。ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカ が日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサン ゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑 む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入し たことが話題になった。昭和天皇の外遊はこの訪米が最後のものであった。 2007年現在13回の海外訪問を行なっている今上天皇と比較しても回数はごく わずかである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの 回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。 帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業で あったことを物語っている。
680 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:49:49 ID:RSlh9I5n
行幸 戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で 国民の熱烈な歓迎を受けた。三池炭鉱の地下1000メートルもの地底深くや 満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地 までの道路は当時整備されておらず、約2キロの道のりを徒歩で村まで赴い た。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建った ね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先でのエピソード、 御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。全国46都道府県を巡幸 するも、沖縄巡幸だけは沖縄が米軍の占領下にあったためついに果たすこと ができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを 悔やんでいた。 また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪 万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の 1985年(昭和60年)のつくば博の開会式にも出席している。これらイベント の成功にどれほど寄与したか正確に計ることはできないが、特に敗戦から立 ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響 を与えたと見られている。病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国 体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した 後は皇太子明仁親王を名代として派遣しお言葉を伝えた。これに関して、 「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」との御製が伝 わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(今上 天皇)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりまし た」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。
681 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:51:32 ID:RSlh9I5n
スポーツ観戦 皇太子時代から大変な好角家であり、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧 相撲に赴いている。特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年 (昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、 富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り 出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との 取り組みはしばしば天覧相撲の日に組まれた。 1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球の巨人-阪神戦いわゆる 「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては当時の大映の永田雅一 社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興 に与えた影響は計り知れないと言える。この後プロ野球において天覧試合は 行われなかったが、プロ以外では1966年(昭和41年)11月8日の日米野球 ドジャース戦が天覧に付されている。
682 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:57:35 ID:RSlh9I5n
「崩御」前後 1988年(昭和63年)の暮れに入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳 所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報 道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼり、最終的な記帳者の総 数は900万人に達した。 1988年9月19日に吐血してから1989年(昭和64年)1月7日に崩御するまでの期 間は、テレビなどでバラエティの派手な演出などが不謹慎であるという理由 で自粛になった。なおこの「自粛」は、同年の流行語となった。このほか、 病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中 止・中断されることがあった。 1988年の中日ドラゴンズのリーグ優勝ビールかけおよびパレードの自粛 1988年の明治神宮野球大会中止 井上陽水出演のCM(日産自動車:セフィーロ)で「みなさんお元気ですか?」 の音声カット 五木ひろしの結婚披露宴の中止(更には一般市民でも自粛・延期する人が 続出した) 全日本プロレス出場プロレスラー流血自粛(新日本プロレスは流血続行) 1988年の「日本歌謡大賞」が中止 笑っていいとも!のオープニングテーマの自粛・差し替え ロート製薬のオープニングキャッチ自粛 伝統行事の中止・縮小 このほか、多数のCMが所謂自粛バージョンになっている。 昭和天皇が病気で倒れた後は暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う 行事が自粛された。
683 :
名前をあたえないでください :2008/05/03(土) 00:58:32 ID:RSlh9I5n
大相撲初場所の開催を1日延期して1月9日から行う 崩御後2日間に渡って、TVはCMなしでニュースおよび追悼特番のみの放送 (ただしNHK教育テレビではほぼ通常放送であった。) 各放送局とも「Xデー」と呼んで、密かに特番体制を準備していた。事前の 噂では、5日間追悼番組が放映されることになっていたが、レンタルビデオ 店に客が殺到するなど、特番自体の視聴率が振るわなかったことや、経営上 の判断から2日間で特番体制は解除されたと言われている。 1989年の全国高校ラグビー決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城 県・茗溪学園高等学校の両校優勝) 1989年の全国高校サッカー選手権大会が2日間順延 1989年の爆風スランプ武道館ライブ順延 1989年1月8日のラジオ体操の中止 1989年1月8日の公演を宝塚歌劇団が中止 学校や塾では始業式を遅らせたり授業を中止するところも多数あった。 このほか、地下鉄通路の広告の照明までが落とされたり、パチンコ屋ですら 店内で音楽を流さなかったなどの出来事も起こっている。 1989年(昭和64年)1月7日午前6時35分に危篤報道があり(実際は午前6時33 分に崩御)、NHKをはじめとする各放送局は一斉に特別報道体制に入った。 この時NHKでは青地に黄色の丸ゴシック体で「臨時ニュース」というテロップ と共にチャイムを鳴らした。7時56分、藤森昭一宮内庁長官(当時)が「天皇 陛下におかせられましては、本日午前6時33分吹上御所において崩御あらせら れました」と発表。直後NHKでは黒地に白の楷書体の手書き筆字で「天皇陛下 崩御」というテロップに切り替わり、チャイムが鳴らされた。このときの チャイムは「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'8 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」というものであった(これは臨時ニュ ースにおいてNHKが用いる通常のチャイム「a'8 e''8 cis''8 a'8 e''8 e''8 cis''4 a'8 e''8 cis''8 e'8 a'2」と微妙に違い、長い)。同日14時36分に 新元号発表の記者会見が始まる冒頭には、記者会見場に入場する小渕恵三内 閣官房長官(当時)の映像をバックにスーパーインポーズで「新元号決ま る」というテロップが表示され、再び同じチャイムが鳴らされた。小渕が 着席し、「ただいま終了しました閣議で「元号を改める政令」が決定され、 第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。 新しい元号は、平成であります」と言って額に入った「平成」の文字のした ためられた色紙を掲げた。このエピソードから小渕は「平成おじさん」と称 されることになった。この新元号は毎日新聞が最も早く報じ、「リベンジを 果たした」と光文事件と結びつけた報道がなされた。 危篤発表直後および崩御発表から翌1月8日終日まではNHK(総合)および民放 各局が特別報道体制に入り、CMの自粛、昭和天皇の業績を偲ぶ番組、崩御報 道を受けてのニュースなどが放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュース や通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほ とんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送 を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。特別報道 体制内の番組(前年末からの危篤報道を受けてあらかじめ製作していたも の)にて昭和史が回顧され「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、 以後定着した。日付の切り替わる前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せ た人々が町の時計塔の写真を取る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間 を待つなどの姿が報道された。
684 :
名前をあたえないでください :
2008/05/03(土) 00:59:47 ID:RSlh9I5n 翌1月8日から新聞活字には「平成元年」の文字が初めて現れることになった。 昭和64年は7日間しかなかったため、「昭和64年」が刻印された硬貨は希少 であると認識されがちだが、これは正しくない。実際には「平成元年」の金 型が手配される平成元年3月頃までは「昭和64年」の硬貨は発行され続けてお り、他の年と比較してその数が際立って少ないということはない。 1989年(平成元年)2月24日に大喪の礼が執り行われ、武蔵野陵に埋葬された。 昭和天皇崩御の日、1989年1月7日のNHK朝の「ワイドニュース」(6時36分 から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日のNHK「ニュース スペシャル・昭和天皇大喪の日」(8時30分から4時間40分間)の平均視聴 率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ・関東地区調べによる)。 崩御後、1988年まで天皇誕生日であった4月29日はみどりの日という国民の 祝日となった。2007年からは、昭和の日に祝日名称が変更された。 各地の記帳所、記帳所の設置された場所 皇居前記帳所 千葉県民記帳所 葉山御用邸通用門記帳所 名古屋熱田神宮境内記帳所 京都御所前記帳所 福岡市庁舎内記帳所 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所 ※同町は伊豆大島に存在し、前年には三原山噴火という天災に見舞われたば かりであった。 関連項目 CMが放送されなかった日 s:天皇陛下崩御に関する件