【大石内蔵助】妻と長女ら6人の里帰り、実態分かる貴重な史料発見 吉良刃傷の約1年後 兵庫・豊岡

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1初恋(070514)φ ★
大石内蔵助:書状発見 妻と長女ら6人で里帰り、実態分かる貴重な史料 /兵庫

◇元禄15年4月14日付−−豊岡市出土文化財管理センター

「忠臣蔵」の赤穂浪士で知られる大石内蔵助が、妻りくの父である石束源五兵衛にあてた
書状が見つかった。京都にいた大石が、妻と長女くうを豊岡に里帰りさせる際の状況が
記されており、20日発表した豊岡市出土文化財管理センター(瀬戸谷晧所長)は「これまで、
他の文献では分からなかった里帰りの実態が分かる貴重な史料」と話している。【山口朋辰】

書状の日付は元禄15(1702)年の4月14日。同14年3月に大石の主君・浅野長矩が吉良義央に
刃傷に及び、4月に赤穂城を明け渡した1年後。大石は、浅野家の再興を探っていたころとみられる。
書状には、

▽石束家の家来2人が無事に京都に到着した
▽長男を豊岡に派遣するつもりだったが中止する
▽代わりに大石の家来と世話人の女性を妻と長女に付き添わせる

−−などの内容が書かれている。豊岡市城崎町湯島の飲食店経営、四角澄朗さん(61)が
今年3月に京都市内の骨とう店で購入し、瀬戸谷所長に調査を依頼。同市の古文書研究者が
解読したところ、花押や筆致、文体などから大石が書いたものと判断した。

これまでの史料では、大石がどのように妻と長女を豊岡に里帰りさせたのかは分かっていなかった。
今回発見された書状で、妻と長女、石束家の家来2人、大石の家来、世話係の女性の計6人で
豊岡に帰った状況が判明した。里帰りの時期についても同年3月から4月ごろと考えられていたが、
瀬戸谷所長は手紙の日付から「4月15、16日に京都を出発したと考えていいだろう」としている。
書状は、催しでの展示や研究資料として利用される。〔但馬版〕

毎日新聞 2007年4月21日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/hyogo/news/20070421ddlk28040577000c.html

依頼ありました
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1176453189/152
2名前をあたえないでください:2007/04/22(日) 13:59:25 ID:uLXnCKT0 BE:250516782-2BP(4127)
一時間もレスがつかないなんて・・・忠臣蔵終わったな
3名前をあたえないでください:2007/04/22(日) 14:22:04 ID:04hHOmi+
別れの場面には娘2人と次男と供が1名が定番の5人組みくらいだが、
実際は娘は1人で次男はいなかったんだな。
4名前をあたえないでください:2007/04/22(日) 15:44:01 ID:zJqHQfgV
へ〜。骨董屋から幾らで買ったんだろ?幾らで売れるんだろ?
5名前をあたえないでください:2007/04/22(日) 16:32:51 ID:D9aeROQg
>>4

大石内蔵助の直筆とわかっているから、かなりな金額で売れるんじゃまいか?
少数とは言え、忠臣蔵オタクは存在するらしいよ。

しかし、こういう古文書が残っているのはさすがに日本というしかないね!
どこかの国では56年ほど前に起草された憲法原本さえ、行方不明なんだからな。

6名前をあたえないでください:2007/04/22(日) 16:49:35 ID:3BJTGB+J
施設に保存されてきたものではないから「さすが日本」という訳ではない。事実上チョソと同レベル
7名前をあたえないでください
>>6
家家、チョンには遠く及びません。です。はい。