どくとるまんぼう昆虫記

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141名無虫さん:04/06/18 03:24 ID:???
北氏の最新刊が出てた。優勝記念の阪神応援記(今年3月)。
「消え去りゆく物語」では、これがボケ老人の発想かというくらい
過去と現在と、場合によっては架空の場所まで行き来する内容で混乱したが
本物の北氏はまだ元気だった(腰痛が酷いようだが)

友人、というか先輩の阿川氏同様、娘が重要な要素になってきた。
昭和30年代後半生まれだから、文化的価値観の変化が大きかった70年代を
10代で経過しているので現代の読者と上手く橋渡しができるか
142 ◆PJ125713uk :04/07/03 19:39 ID:???
まんぼうマンセー
143名無虫さん:04/07/19 00:19 ID:???
http://www.papy.co.jp/bin/book.cgi?fn=heso&bid=bc_magpapy&download_id=DP000103
偶然「へそのない本」が引っ掛かった
144名無虫さん:04/09/08 04:51 ID:???
今年は阪神きついな・・
145空気嫁!:04/09/25 00:05:00 ID:???
何も知らない中国のジャーナリスト軍団に嫌気が差しているミハエル・シューマッハだが、彼は冷静を保った。
グランドハイアット国際ホテルで行なわれたプレスカンファレンスにおいて、
あるジャーナリストが“なぜあなたはいつも赤色を身にまとっているのですか?ラッキーカラーなんですか?”と、
ミハエルに質問した。いつも引退のことについて聞かれてうんざりだったミハエルは、
その突拍子もない質問をしたジャーナリストに対して微笑みながら、フェラーリのクルマの色が赤色だからだと答えた。
「それが幸運を運んできてくれるよう願っているよ。この色を身にまとってここにいることを素晴らしいと思っているし、
ボクらが上手くやれることを願っている。このレースも勝ちたいね」
次に、彼の7度目のタイトル決定を上海サーキットにおいて実現させることができるかという質問がミハエルに飛んだ。
これに対しても、ミハエルは落ち着いて、そのタイトル決定は1ヶ月前に実現したと説明した。さらに的外れな質問は続く。
“過去にあなたがドライブしていたジャガーは、来季以降参戦しないことになりましたが、どう思いますか?”
という質問が出されると、彼は紳士的に、ジャガーをドライブしたことはないと答えた。
ドンドコドンドコドンドコドン いぇー
ドンドコドンドコドンドコドン いぇー
ドンドコドンドコドンドコドン ドンドコドンドコドンドコドン いぇー

147名無虫さん:04/10/22 19:15:51 ID:winFD9sz
確か高1の頃夢中で愛読してました。
148名無虫さん:04/11/28 05:36:05 ID:???
>>15を見て
「マンボウおもちゃ箱」にその話があった
この本はエッセー+短編少々。

ガの話では「昆虫好きですがガだけは好きになれません」
という人に「飼育をしたら」とアドバイスするも、カイコを飼育して
成虫に見つめられているように感じてしまい嫌いになったという
女性の例があるなどと書いている

このエッセーのちょっと前に、「タイムマシンで過去に行ったら
大預言者か大発明家になれるか?」という文がある。結論として
「後から出来た幾つもの技術に支えられて生活している現代人では
のこのこ行った所で何の役にも立たない。ただほんの少し過去に行けば
なんとか偉い先生と言ってもらえるかも」という話がある。
中世に行って「魔女は精神病患者だ」と言っても、火あぶりにされるだけだと。

しかしこの板の生物好きや物知りや技術習得者や医者などが集団で中世に行けば
マンドレイク麻酔と焼酎消毒使って盲腸の手術くらい出来るかもしれない。但しバレたら
火あぶり間違いなし
149名無虫さん:04/12/31 22:27:43 ID:???
マンボウ小事典に、医局時代にちょっと勤務した研究所で
初夏に蚊が多数室内に入ってきたものの、数日は壁に止まっているだけだったが、
数日したら急に就寝時に吸血に来るようになって、対策しようにも
蚊取り線香は効かず手で叩いても切りが無く、床一面に水を入れた容器を置いて
蚊取り線香で目を回した蚊を溺死させてようやく室内のみは退治した、とある

しかし換気の為窓開けたらまた同じ数だけ入ってきたと。

パキスタンではハエの大群に悩まされ、ちょっと大きな都市のラワルピンディなどでも
室内の30匹のハエを退治し終わるまでに40匹入ってきた(誇張だろうが)とある。
本人も、衛生害虫やら多足類やらは好きでないと書いている(ザトウムシが嫌いで、
足を全部毟ってしまったらしい)
150名無虫さん:2005/04/29(金) 20:46:30 ID:???
あげ
151名無虫さん:2005/04/30(土) 04:37:04 ID:b69OANQ9
>>10
ウスバカゲロウなあ。笑ったなあ俺も。
152名無虫さん:2005/05/18(水) 11:01:04 ID:???
もりお
153名無虫さん:2005/05/21(土) 20:05:25 ID:???
怪盗ジバコ にノミのサーカスをネタにした作品がある。
ヒトノミなど持っている人がいなくなって演技者を確保できず
無くなってしまった。

あれは座長?の出す息の二酸化炭素を上手く利用するらしい
虫眼鏡を使って見る風景はなかなか幻想的なようだが

小説の内容は、ノミの確保が出来なくなったノミのサーカスが
1人の汚い男を見つけ、彼にくっついていたノミが素晴らしく
生きが良く演技も良く覚えると分かったものの、その男に
報酬を渡し過ぎ、男が娼婦買うために香水やら風呂やら使っているうちに
ノミがいなくなってしまったというもの。
「清潔にしたからではない。蚤と寝ていたのに、女と寝て蚤が嫉妬して去ったのだ」

そこにジバコが現れ、世界の蚤の多そうな住宅に忍び込み蚤を盗み出す?というもの。
怪しい足音が聞こえた後、痒く無くなり却って良く眠れたなどと。

阪口氏の「世界の昆虫」の付録案内書にも、蚤のサーカスの話が幾つか載っている。
1960年代前半に座長が亡くなり幕を閉じたらしい。怪盗ジバコが書かれたのはその数年後。
154ヤスポン:2005/05/24(火) 23:06:46 ID:5gY+Y5qT
高校の頃、読んでキベリカタビロハナカミキリをすごい採りたいと思ってました。
実際、かっこよくて良い虫で今は毎年、埼玉県で採っています。
155名無虫さん:2005/08/01(月) 00:13:39 ID:???
この本、最近本屋で見ないなー。
絶版近いのかも。
156名無虫さん:2005/10/23(日) 23:29:45 ID:???
北杜夫の「輝ける碧き空の下で」と同じく第一回ブラジル移民の話を
橋田原作でこないだNHKでやっていた。
被る内容も幾つかあったが、話の展開早すぎた?

北杜夫の方は「戦後しばらくまでで筆を終えた。それより伸ばすと
もう1冊でまとまらなくなる」と止めてしまった。
橋田は姉妹の再会まで引っ張り上げた。

北杜夫の方はドキュメンタリー色が強く、各日本人農園の誕生まで
細かく書いてある。橋田はそんなの一切無し。
157名無虫さん:2005/12/24(土) 19:16:26 ID:???
おやすみ、もりお
158こう:2005/12/30(金) 11:13:26 ID:???
どくとるまんぼう青春期なんてのもありますね。
159名無虫さん:2006/01/01(日) 14:11:39 ID:???
>>34 フィジーでは現地在住の日本人が「虫なんて見た事無い」
といっていてがっかりしたという。
実際には面白い昆虫が何種かいる。大型のネブトクワガタや
13cm以上のカミキリなど。
このカミキリは絶滅したという話もある
160名無虫さん:2006/03/02(木) 19:08:51 ID:???
ボロボロになったので買いなおしたよ。
161名無虫さん:2006/03/04(土) 13:57:40 ID:???
俺が一番好きな本だ
162名無虫さん:2006/03/05(日) 01:34:28 ID:???
虫は好きでも嫌いでもないが北さんの本は好きだなぁ。
「峪間にて」と「船乗りクプクプの冒険」、「羽蟻のいる丘」、「星のない街路」がアツい。
163名無虫さん:2006/04/11(火) 05:50:00 ID:???
久しぶりに読みたくなったな。。。
164名無虫さん:2006/07/15(土) 20:00:00 ID:???
なんだかんだで、「青春記」は外せない。
165名無虫さん:2006/08/05(土) 21:03:57 ID:???
遠藤周作の未発表作あった 46年ぶり今月出版
http://www.asahi.com/culture/update/0805/image/TKY200608040507.jpg

日本人にとってのキリスト教の意味を問う純文学や、ユーモアあふれる小説・エッセーで幅広く
支持された作家の遠藤周作さんの書き下ろし未発表原稿が、没後10年にあたる今年、東京
都内で見つかった。作品を書き上げて46年ぶり。相手の心に届く手紙の書き方が、恋愛論
なども交えて185枚の原稿用紙につづられていた。
原稿には題がついておらず、書き出しを書名にとった「十頁(ページ)だけ読んでごらんなさい。
十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜(よろ)しい。」(海竜社)として今月下旬、緊急出版される。
原稿執筆は1960年ごろ。55年に「白い人」で芥川賞、58年に「海と毒薬」で毎日出版文化賞と新潮社
文学賞を受賞し、作家として注目を集め始めたが、肺結核を再発して入院を余儀なくされた時期だった。
風采の上がらないサラリーマンが営業でいい成績をあげる話から、原稿は始まる。
成功の秘訣(ひけつ)は、旅先から送る相手への手紙での気遣いだった……。
「読む人の身になって」手紙を書くことが大切で、そうした気遣いが人生を変えることに
つながるということを、ユーモアいっぱいに描いている。

原稿を手にした妻の順子さん(79)は「結核を再発し、本人も悩んでいた。十分な蓄えもなかったので、
家族を養うために生活費を稼ごうと、ベッドで一生懸命原稿を書いていた様子が思い出される」と振り返る。
原稿は長崎市立遠藤周作文学館に寄贈するという。原稿は6月11日夜、東京・中野に住む元編集者で
評論家の櫻井秀勲さん(75)の自宅書庫で見つかった。仕事場を移すために書庫を片づけていたところ、
積み重なった絵画収納用の箱の中からポリ袋に包まれた分厚い原稿用紙が出てきた。

遠藤さん特製の原稿用紙で、受取印から、60年4〜9月に7回に分けて、当時櫻井さん
のいた出版社の同僚に渡されていたことが判明した。

引用元(抜粋)http://www.asahi.com/culture/update/0805/001.html
長崎市立遠藤周作文学館 http://www.pref.nagasaki.jp/naisnet/search/print.php?num=1230008
北氏と仲良しだった作家で
166名無虫さん:2006/10/22(日) 03:10:14 ID:DMh0fPJb
もう寝るね、もりお。
167名無虫さん:2006/10/23(月) 23:35:49 ID:???
おやしみ、もりお
168名無虫さん:2006/10/24(火) 08:28:52 ID:HbPlNAUU
>>159
フィジーに虫捕りに行ったことあるけど、ネブトクワガタやチビクワガタなどは
朽木を割らないと見つからないから、普通に生活していては見れないね。
13cmのへロスウスバカミキリの方は久しく採集されていないが
15cmを越すヘイロブスキーウスバカミキリの方は最近も採れている。
といっても非常に少なく、私は採れなかった。
それよりずっと小さいが9cmに達するウスバカミキリがいて、そちらの方は
普通に採れる。私も沢山採った。
169名無虫さん:2006/11/21(火) 23:56:24 ID:???
★斎藤茂太氏が死去 精神科医でエッセイスト

 精神科医で、家族を題材にしたエッセーが人気だった斎藤茂太(さいとう・しげた)氏が
20日午前、心不全のため東京都府中市の病院で死去した。90歳。東京都出身。
葬儀・告別式は12月3日午後1時から、東京都港区南青山、青山葬儀所で。
喪主は妻美智子(みちこ)さん。

 歌人で精神科医だった斎藤茂吉の長男。明治大文学部、昭和医専(現昭和大医学部)を卒業。
慶応大医学部で精神医学を専攻後、軍医などを経て1950年に精神科病院の院長に就任した。

 著述活動にも意欲的で、個性的な両親を紹介した「茂吉の体臭」「快妻物語」などでファンを獲得。
核家族の長男の心情を温かくつづった80年の「長男の本」がベストセラーになるなど、
人間関係を精神医学的に読み解くエッセーを多数出版し、「モタさん」の愛称で親しまれた。

 日本精神科病院協会会長、日本ペンクラブ理事などを歴任。無類の飛行機好きとしても知られた。
作家の北杜夫氏は弟。

◆作家で精神科医のなだいなださんの話 
「私が慶応大の医局に在籍していたころ、近くに斎藤茂太さんの病院があり、よく遊びにお見えになった。
大勢の前で話などをするときは、場の空気を上手に読んで、ぴったりの話題をさりげなく話す
無類の座談の名手でした。非常に面白い人で、当時はちょびひげをはやしていて、斎藤さんが
その場にいると場が盛り上がったことを、50年たった今も思い出します。長いことご苦労さまでした」

サンスポ http://www.sanspo.com/sokuho/1121sokuho034.html
170名無虫さん:2007/04/18(水) 12:28:46 ID:???
志賀昆虫普及社相談役の志賀夘助氏死去


志賀夘助さん(しが・うすけ=志賀昆虫普及社相談役)が15日、老衰で死去、
104歳。通夜は20日午後6時、葬儀は21日午前11時から東京都渋谷区
西原2の42の1の代々幡斎場で。喪主は長男康太郎さん。

子ども向けから専門家向けまで、様々な昆虫採集用具や標本製作道具を
開発し、普及に努めた。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0416/TKY200704160277.html

北氏は中学時代からこの店に通っていた。スプリング式の
クルクル畳む捕虫網は当時からあったようだ
171名無虫さん:2007/07/25(水) 02:11:22 ID:???
三千年に一度しか咲かない「優曇華」(うどんげ、別名:優曇婆羅花)という伝説の花が、最近韓国、台湾、香港、中国大陸、
オーストラリアなどで発見された。

まず、1997年7月に韓国の京畿道広州郡のある寺院で、住職が如来坐像の胸部にこの花を見つけた。続いて、2005年5月に
千年の歴史がある韓国慶州市の正覚寺でこの花が発見され、金海日禅師らが、佛教経典の記載を基に、この花が優曇華
であることを確認した。

佛教の経典『法華文句』には「優曇華は、霊瑞の意を示し、三千年に一度現れる。その花が現れたときには、金輪王(轉輪聖王)
がこの世に現れる」と記載されている。さらに『慧琳音義』には、「優曇華は、サンスクリット語からの略訳で、全名は烏曇跋羅
(優曇婆羅)で、瑞祥霊異の意味である。この花は、天上の花であり、人間世界には存在しない。もし、如来佛がこの世に下り、
金輪王がこの世に現れれば、その偉大な福徳力によって、はじめてこの世にこの花が見られる」と記載されている。

花は、直径数ミリ程度で、鐘型、淡白色、花径が金絲のように細い。花は夜中に咲き、翌朝に萎む。咲く時間はほんの一瞬で
ある。開花時に花は薄い紫色になり、檀香の香りを放つ。

予言研究者の話では、この花が咲いているのは、轉輪聖王が今、この世で法を伝え、法を正し、衆生を救い済度していることを
意味しているという。

ソース:大紀元時報日本
http://jp.epochtimes.com/jp/2007/07/html/d86961.html
172名無虫さん:2007/07/25(水) 02:12:39 ID:???
「蜻蛉、薄馬鹿下郎」から

 クサカゲロウはウスバカゲロウの同類だ
 その親虫はウスバカゲロウよりずっと可憐で、三センチほどの草色の身体にわずか草色がかっ
た透明な翅、金いろにかがやく複眼をもっている。田舎屋の電燈の笠などにひっそりととまって
いる。その姿もなにか印象的だが、その卵はさらに迷信の対象とされる。
 クサカゲロウの母親は普通木の葉の裏に卵をうむが、電燈の笠にもよくうみつける。腹部の先
をそこへおしつけ、ゆっくりと話すと、いかにも細い糸がのびてきて、一センチばかり先に小さ
な卵がついている。こうして一度に数個から二、三十個の卵をうむ。これが俗にういう「ウドンゲ
の花」である。
 優曇華とは、インドの経文の中の架空の植物で、三千年に一度だけ花が咲き、そのときには金
輪明王が世に現れるのだそうだ。なにやら有難そうな話で、そのため人々はクサカゲロウの卵
を見つけると吉兆だというが、逆によくないことがありそうだと不吉がる者もある。吉とするか
凶とするかは地方によって異なり、いずれにせよ珍しい現象だと思われているが、実際にはクサカ
ゲロウの卵なんぞはいくらも見つかる。一々有難がったり怖ろしがったりしていては身がもたな
いが、幸いみんなは自然科学者の目を有さないから、家のそこここにウドンゲがついていても滅
多に見つけだしはしない。
173名無虫さん:2007/07/25(水) 02:16:40 ID:???
 姿やさしい成虫、ふしぎな糸つきの卵にくらべ、クサカゲ
ロウの幼虫は蟻地獄ほどではないがやはり気味のわるい格好
で、同じように肉食をする。彼らの食物は木の芽にたかるア   (この辺にクサカゲロウの図版)
ブラムシ(アリマキ)だ。これは蟻のところで述べたアン
ト・カウで、台所にいる大きなアブラムシ(ゴキブリ)
とはちがう。
 園芸家から目のカタキにされるアリマキは、あまりに小粒で柔かく、これといった武器を持た
ぬから、まるでほかの虫たちの食糧倉庫のようなものだ。いろんな昆虫がこれを食べる。わずか
に蟻たちが乳しぼりのために彼らを保護し、彼ら自身は数の力によって種属を保っている。あら
ゆる草木の若枝にはびっしりとたかっていて、園芸家にますます腹を立てさせる。その点、少な
くとも園芸家にとっては、ウドンゲの花は吉兆といってよい。
 クサカゲロウの幼虫はどんどんアリマキの汁を吸う。そして餌食となったアリマキの死骸をど
っさり背中の上に背おっている。これは鳥などにやられぬための擬装であるらしい。一匹の幼虫
は毎日百匹くらいのアリマキを食べるといわれ、園芸家はウドンゲの花に礼拝すべきだ、と人は
思うだろうが、実際は電燈の笠なんぞにうみつけられた卵は役に立たないだろう。餌のアリマキ
のいるところまで小さな幼虫が行きつける筈もないし、おそらく母親が灯りに誘かれてきて、そ
こでうっかり産気づいてしまったのだ。自然はずいぶん無責任なことをするようだが、われわれ
もまた「自然」の一環のなかの存在なのである。

アジア各国での自然に対する関心なんて>>171程度であるw

北氏は園芸を小ばかにしたネタをこの本に多く書いているw人工的なのが好きでないと言う

北氏は植物標本を作ろうと試みたが、種名が分からず、図鑑も買ってもらえる当てが無いので
シダを1つ押し葉にしただけで辞めた、と言っている。
昆虫と植物両方詳しい人はかなり強いが、そんな人は今でも多くない
174名無虫さん:2007/10/27(土) 23:17:30 ID:???
おやしみ、もりお
175名無虫さん:2008/03/17(月) 23:03:27 ID:???
>>72>>75
現在、遠藤氏のCMをやっているw
176名無虫さん:2008/05/07(水) 01:21:48 ID:jJBgO535
もう寝るね、もりお。
177名無虫さん:2008/05/08(木) 22:08:06 ID:???
谿間にて について
ttp://0helium0.blog23.fc2.com/blog-date-200603.html

>彼は「フトオアゲハを捕獲した」という、そのフトオアゲハはゴキブリによって
食べられ「翅だけが残った」という。
しかし、そこに至るまでの話が少々妙であり、唐突である。
確か彼はその前に「別の蝶、オナシモンキアゲハの雌」を確かに捕まえたのだが、
オナシモンキアゲハについてはそれ以降触れられることはない。
何日もフトオアゲハに対する執着心から、体に無理をしてまで山に篭ったがとうとう
捕まえられなかったのだが、あまりに欲しいが故に「捕獲した」と思い込んでしまったのではないだろうか。
三角罐を開けた途端にゴキブリが飛び出して来たのを見て、動揺したあまりその翅が
オナシモンキアゲハのものである、とまでは気付けなかったのではないだろうか。
と考えた。
________________________________________________________________________________

国語の試験問題を作る人なら、オナシモンキアゲハがここで出てきた事をこう捉えるだろう
「赤い紋を持ち巨大な尾状突起を持つフトオアゲハに対し、白い紋を持ち尾状突起の無い
オナシモンキアゲハを捕まえたのは、丁度対照的な形態のチョウを捕まえてフトオアゲハを
求める気持ちを抑えるためであった」と

オナシモンキアゲハもあまり普通にいる種ではない。ややマダラチョウ擬態の種にも思えるので
擬態コピー種が個体数が多いと困るw
それで採集人の'彼'が仕事上捕まえたのだろうが、捕まえた時だけ満足し、その後で不満だったか

虫好きの北氏の作品ゆえ、多少価値のある種類を捕まえてその瞬間だけ安らいだ、という描写に過ぎないのだろうか?
ここに文様と形態の対比まで意味を込めていたのかなあ?というと、ちょっと無理がある

しかし北氏は元精神科医ということで、ここまで考えるべきかも知れない。
178名無虫さん:2008/05/12(月) 13:46:54 ID:AVpk2QiB
徹子の部屋出演記念上げ
娘さんは北氏の同年代ごろにちょっと似てるかも?

先輩作家の阿川家は子世代が出まくり
179名無虫さん:2008/07/28(月) 20:47:13 ID:???
ニイニイゼミが都市部の土壌の乾燥に弱く絶滅寸前と言われたが
あまりにも乾燥が長引いたため乾燥に強い個体が選抜され
爆発的に増えているという
かく言う自分も数匹見掛けて驚いたw

北氏の父親の茂吉は、芭蕉の静けさや岩にしみ入る蝉の声 を
これでニイニイゼミだったらあまりにもストレートだろうと逆に
アブラゼミ説を引っ張り出したが、芭蕉がここを訪れた時は
まだアブラゼミの鳴かない季節なので違う、と指摘され、
茂吉自らが山に入り、地元の人に標本まで採ってもらったが
アブラゼミの個体数が少なく、悔しいが負けを認めたというw

このネタも昆虫記にある
180名無虫さん:2008/10/16(木) 22:16:22 ID:???
人類学者の畑中幸子氏とタヒチでお会いしておられる
ケロッっと交通の不便な離島への調査に行く女史に脱帽したというが、
そこはさすがに文明との隔絶が大き過ぎて最初辛かったとも言う

畑中氏は後に作家の有吉女史とニューギニアに行ったが、有吉女史は
足の爪がぼろぼろになって立ち上がる事も出来なくなってしまい
パンツを縫うだけになってしまった
181名無虫さん:2008/10/18(土) 17:13:42 ID:???
ttp://www.geocities.jp/technopolis2719/hima/kk_ck8.htm
北氏がドクターとして参加したディラン峰(そのときは失敗)の初登頂は
1968年にオーストリアのわずか3人の登山隊が達成してしまった

7200m台とカラコルムでは極度に高い訳ではないのだが天候が崩れやすく
当時はともかく、1980年代以降では雪崩によりキャンプが潰される事態も
多く発生していて登頂は難しい
182名無虫さん:2008/11/30(日) 10:18:14 ID:???
www.wink.ac/~ogaoga/himaraya2.html
中央アジア探検の大谷隊もこの辺りを通ったのか

北氏は「自分が加わったディラン登山隊と同等の荷物を運ばせて
箱根山に登る人が出ても、笑う気にはなれない」と書いているw
まあ多くの人が協力して上って行き、更にあれが無いこれが無いの
トラブルも多く見舞われたから言える台詞だろうか

しかし、1965年の日本隊はあと73mで到着できなかった。アタックキャンプがそれまでより低いだけでなく
各キャンプ間が標高差500mと短い。無理をしない計画だったといえば美しいが、強い人だけの
超精鋭隊ではなかった。隊長も無理を押し通す人ではなかった
しかし、6500mにアタックキャンプを作りたかったのが誤算になってしまった

だがもし各キャンプ間が1000mの標高差だったら、北氏は第1キャンプに到着できなかっただろうw
現実にはベースから600m上った第1キャンプに行き、更に4200mまで一応登って日本にない高度を味わっている

現実には第2次アタックは中継地のキャンプ4が雪崩にやられて中止になったが、小説では強引だが不注意な男と
やや周囲に振り回されがちな男が第2アタックにあたり、最後に強引な男が転落したのを示唆した???内容で終わっている
誰も死ななかったのだがそんな内容になった

次のオーストリア隊は3人だけの精鋭で、最初は標高差900mペースでキャンプを設営、最後はアタックキャンプを6200mと先の
日本隊より低く作ってしまったもののそこから一気に登り、ついに登頂してしまった。その後数隊が登頂に成功し、
日本からも成功した人達が出ている。そして、精鋭が登頂する極地法でなく全員が登頂するアルパイン法が主流になったため
最後まで登れる人しか参加できない時代になってしまったか?

最後まで行けない体力、特に高所で通用しない呼吸循環器系の人は清掃登山でもやるしかないのか
183名無虫さん:2008/11/30(日) 10:25:55 ID:???
むしろ極地法で途中まで参加することにより体力を徐々に上げていって
その経験を生かして、将来登頂できるメンバーに加わることが出来る、などとも各サイトに書いてある

清掃登山の評価についてもあれこれと
184名無虫さん:2008/12/05(金) 18:08:52 ID:m3RqePMA
無駄に名前が頭の中に残ってウザい
185仔まんぼう:2008/12/28(日) 18:08:08 ID:6PJfF8xe
ことし開催された「どくとるマンボウ昆虫展」見た人いますか?
1都5県8箇所で開催され、松本会場では北さん本人のほか喜美子夫人や娘の由香さんまで見に来られたそう。NHKニュースでもやっていましたね。 
186仔まんぼう:2008/12/28(日) 18:14:19 ID:6PJfF8xe
NHK−BS「私の1冊 日本人の100冊」でも12月16日に取り上げられていましたね。
187名無虫さん:2009/07/03(金) 09:44:53 ID:???
 作家の北杜夫さん(82)と故辻邦生さん(1925〜99)が若き日に東京―パリ間で交わした往復書簡が見つかった。
北さんが文壇で脚光を浴びる直前の59年5月から61年2月にかけて交わされた38通で、厚い信頼関係や文学に情
熱をささげる息づかいが伝わる貴重な資料だ。

 北さんと辻さんは旧制松本高校で同じ寮に暮らして以来、親交を育んだ。書簡が交わされたのは、水産庁調査船の
船医として欧州に赴いた北さんが帰国した直後から、「どくとるマンボウ航海記」(60年)が一躍ベストセラーとなり、
「夜と霧の隅で」(同)で芥川賞を受けた時期にあたる。辻さんはパリに留学中で、63年に「廻廊にて」でデビュー、近代
文学賞を受賞する。

 北さんは当時、十二指腸潰瘍(かいよう)を患ったため「夜と霧の隅で」が難航、それまで純文学のみで勝負しようとし
ていたが「航海記」を書くことにした。書簡では〈なにぶんバカげたものなので「どくとる・まんぼう(魚の名)航海記」としよ
うかと思っています。ただマンボに似ているのが困る〉(59年12月)。また、〈辻の原稿、評論の方、埴谷(雄高)さんに見
せ、「近代文学」にのることになりました〉(60年5月)と、掲載の世話をした記述もある。

 辻さんは〈冬景色のユーウツなパリに、宗吉(北さんの本名)の手紙は煖炉(だんろ)のようにあたたかい〉(59年11月)
と友情をつづる。一方で〈日本の文学は日本に居なければ書けないということはないし、日本のものだけを書くのが日本
文学だとも思えない……僕たち一人々々のなかに、その土着の風土のなかでは描ききれない何ものかをもっているから
だ〉(同年10月)と、ローマ帝国を描いた代表作「背教者ユリアヌス」(72年)などのバックボーンとなる文学観を書き記している。

 往復書簡は、7日発売の「新潮」8月号に全文が掲載される。(小山内伸)

■引用元:asahi.com(朝日新聞社) 2009年7月2日
http://book.asahi.com/news/TKY200907020062.html
188名無虫さん:2009/08/21(金) 13:43:50 ID:???
スズメガの一種で羽を広げると13センチほどになる「クロメンガタスズメ」=写真、
県生態系保護協会提供=が17日、北本市の県自然学習センター内の公園で
見つかった。同センターによると、県内で生息が確認されたのは初めて。

同センター内の北本自然観察公園にある休憩施設で、屋根裏に止まっているところを
職員が発見した。

スズメガ科で体長は約6センチ。背中に人の顔のような模様があるのが特徴だ。
米国の映画「羊たちの沈黙」に登場したことで知られる。

インドや中国、台湾など南方で生息し、日本では琉球列島などで発見されている。
しかし、近年生息分布が北上し、幼虫による農作物被害なども報告されている。
2007〜08年には神奈川県内で確認された。

県内の昆虫に詳しい「埼玉昆虫談話会」顧問の牧林功さん(76)は、
「飛ぶ力が強いので、温暖化の影響で北へ分布を広げたのだろう」と話している。


ソース:読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20090818-OYT8T01142.htm
画像(蛾が嫌いな人、閲覧注意):クロメンガタスズメ
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20090818-377065-1-L.jpg

天の蛾 に出てくる
おどろおどろしさに満ち満ちた一節が続く
ミツバチの巣に入り蜜を盗んだり、ミツバチの攻撃で死んでそのまま巣内で蜜に固められ死んだ個体の話なども続く
「甘い蜜に包まれて自らの故郷に帰ってゆく」
189名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 13:41:04 ID:???
 世界の文明と民族文化を独自の視点で解明し、戦後日本の指針を示してきた人類学者、比較文明学者で
文化勲章受章者の梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんが3日午前11時7分、老衰で亡くなったことが分かった。
90歳だった。告別式は親族で済ませた。喪主は妻、淳子(じゅんこ)さん。後日お別れの会を開く。
連絡先は大阪府吹田市千里万博公園10の1、国立民族学博物館。

 京都帝大在学中の1942年に、旧満州(中国東北部)の大興安嶺(だいこうあんれい)を探検するなど
アジア、アフリカ各地で生態学、民族学調査を行った。55年には、戦後初の本格的海外調査となる
京都大カラコラム・ヒンズークシ(アフガニスタンなど)学術探検隊に参加。この経験をもとに57年、
「文明の生態史観序説」を発表。敗戦で自信をなくしていた日本を西欧と並ぶ文明と位置づけ、反響を呼んだ。

 京都大人文科学研究所の教授に就いた後、70年の大阪万博開催にも尽力、佐藤栄作首相の
あいさつなどを起草した。閉幕後、跡地利用として、民族学の拠点・国立民族学博物館の建設を提唱、
初代館長として民族学、人類学の共同研究を指揮した。

 この間、学術調査で得たデータから新しいアイデアを生み出すテクニックを分かりやすく解説した
「知的生産の技術」がベストセラーとなった。著書は、ほかにも「モゴール族探検記」「東南アジア紀行」
「情報の文明学」など多数。

 86年、ウイルス感染で失明したものの口述筆記で著作を発表。91年に文化功労者、94年文化勲章を受章。

 2004年には肺と胃にがんが見つかり、2度の手術をしたが、08年6月に大阪で開かれた
米寿を祝う会で元気な姿を見せ、今春まで、自宅から近くの同博物館に通っていた。

 哲学者の梅原猛さんの話「これほど悲しいことはない。梅棹さんは京都学派の若手から1950年代、
さっそうとマスコミ界に登場した英雄。最初に会ったのは互いに40代のころだが、仏文学者の
桑原武夫さんが常々『梅棹は天才だ』と言われていて、凡才の私には発奮材料だった。
ずっと目標としていただけに、ショックでなりません」

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100706-OYO1T00708.htm
http://www.jiji.com/news/photos/photo_news/images/450/view9591878.jpg
190名無しさん@そうだ選挙に行こう
北氏は思いっきり寒い内容(今の感覚だと)になっちゃったアポロ計画での月乞食が
係員に追い出された事に関して「こんなヒッピーだらけのアメリカでも国威発揚の場で
ガチガチになるのか」と文明論もどきを書いている
その最後に、梅棹氏の「人間もっと遊びの部分が必要」論が出てくるわけだ

アリは2割しか有効に働いていないとか、人間の実質労働時間は
事務処理に関して言えば2割程度だとか話題になる
また日本人の7割が、精神病理学的に言えば病的という状態になるとの事

だが、書かれた1970年頃はともかく、北氏はその僅か7年ほど後ですら「今の若者は子供過ぎる」
論に刷り替わってしまった
まあ反ベトナム戦争とかに明け暮れた時代が終わって、70年代末から若者が一気に政治からも哲学からも
引いていってしまったのだ
当時北氏は劇画に対して「安易な表現手段に哲学を込めるな」と書いていたか

その後に社会がどう流れ、歪み、現状に繋がっているかは、もう北氏関連では扱い切れないものだ