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(歴史教科書 インドより)第12章 1919年から第二次世界大戦までの世界より

 (■)アジア・アフリカにおける民族運動(続き)

 イギリス政府は19世紀にアフガニスタンに対して多くの戦争を行っている。これらの
戦争の結果、アフガニスタンの独立は大きな制約を受けていた。アフガニスタンの外交
関係はイギリスの統制下におかれた。1919年にアフガニスタン国王が暗殺され、その息子
アマヌッラーが王となった。あまぬっらーはアフガニスタンの完全独立を求めた。
この独立はソヴェエト連邦によって承認され、他の国々の承認がこれにつづいた。

 アラブ諸国ではイギリス、フランスに対する反感が高まった。アラブ諸民族は第一次
世界大戦中、オスマンの支配者に対して戦うよう連合国側から要請された。
しかし戦争が終わっても、アラブ諸国の独立という結果にはならなかった。これらの国々は
莫大な量の石油資源を蔵していることが知られてから、従来以上の重要さを増していた。
イギリスとフランスはこれらの国々に対して、保護領および『委任統治領』としてその
統制力を拡大した。エジプトではイギリスに対する蜂起が起り、1922年にイギリスは
エジプトの独立を承認せざるを得なくなった。とはいえ意義知る軍隊は引き続きそこに
駐留していた。

  シリアは戦後フランスの手に譲られた。しかし最初からフランスはそこで激しい反対
に出くわした。1925年に広範な反乱が起り、フランス政府はテロ支配に訴えた。フランス
軍隊が空から集中砲火を浴びせ、銃砲を用いて市内を砲撃したときには、反乱の中心地である
ダマスカスの町は廃墟と化した。ダマスカスの爆撃・砲撃でおよそ2万5,000人の人々が
殺された。しかしこうした虐殺にもかかわらず、フラン支配への抵抗は続いたのである。