ドイツ騎士団

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79世界@名無史さん
>>78
>その東方殖民は決して武力による征服というものではなく、むしろスラヴ
>人の経済的利害に合致するものだった。
>東方殖民により後のポーランドになる地域は、多大な利益を得ている

カジミェシュ大王の時代には、ドイツ人は各都市で自治権を求めて暴動を
起こしている。そこで考えた大王はユダヤ人を大量に招きいれ、彼らに
様々な優遇政策を与えた。ドイツ系の住民は、カジミェシュ法典を認めず、
ドイツ法典を基礎にして生活したため、財産権や商権などで他の住民と
多くの問題を起こしていた。ユダヤ人はカジミェシュ法典を遵守した。
問題は、大王が亡くなった後、徐々に宮廷の権力が衰え、各地の大貴族が
自分勝手に権勢を振るうようになってから。
また、ジグムント・アウグスト王は宮廷付きの司祭を殺しているが、この
ドイツ人司祭は、ポーランド宮廷及びグニェズノに大司教座をもつポーランド教会を
混乱させ弱体化させるためにドイツ系教会から送られてきた、今で言うスパイだった。

>要するに時代の変化に押し流されたわけで、どちらが正義・悪という問題
>ではない

しかしグルンヴァルドの勝利の後でも、ポーランド王国は寛容政策を採り、
ドイツ騎士団を臣従させるだけで、解体に着手することは無かった。
後のフリードリッヒ二世は、生涯この時代のことが頭から離れず、自分の王家の
存続は、ポーランドを究極まで弱体化させることでしか保証できないと考え、
対露・対スウェーデン交渉にいそしんだ。彼の遺言には、虫が葉を食いちぎって
行くように、あそこの街ここの村と、ポーランドを次々に侵食すべしという
主旨のことが書かれている。後のナチスまで続くドイツの対ポーランド政策は
この辺りで決定付けられていたのは明らかである。

>1960年代頃から、それまでのナショナリズムやイデオロギーのバイアスが
>かかった固定的な見方に対する見直しが東西ヨーロッパの研究者達により進め
>られており、それらの成果は日本にも紹介されてきているようです。

これらにも多分に現代の政治的要素が含まれていることをお忘れなく。
単なるリベラリズムや客観主義への模索とは言えない。