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あやめ:
清朝にまで続く「親王」が現れるのは北朝の齊と南朝の陳からのようです。
天子の親族に対する封爵としては皇弟・皇子を郡(魏では縣)に王として封じ
るのが普通です。これを「郡王」とか「國王」とか称しており世子が相続し
た場合は「嗣王」と称します。「蕃王」というのもあって恐らく嗣王の兄弟
などが王爵を蒙った者かと思います。
「隋書」の「百官志」には陳制を述べた条に「親王の起家(最初の任官)は侍
中となる」とあるのが、正史に「親王」の文字が見られる初出例のようです。
また北齊についても唐の杜佑の「通典」に「王は大司馬の上に位するが親王
でないと三公の下に列せられる」とあります。これ以前の官制では「皇弟皇
子府の王」などと長たらしく表記していたので、このころは通称として「親
王」で通用することになったものでしょう。「隋書」の「百官志」には隋に
なってから爵制が整備され「國王・郡王・國公・郡公・縣公・侯・伯・子・男」の
9等にランクされたことを述べ、「皇伯・叔・昆・弟・皇子を親王とする」と明
記されています。ここで注意すべきことは「國王」と「郡王」が区別されて
いる点です。北周では周禮に典拠した制度の改革があり周代の古國名を親王
に対する封爵に用いるようになり、1ランク落ちる王には郡名を用いるよう
になりました。後世になって前者は「一字王」後者は「二字王」と俗称され
ることもあります。「杞王」は前者「河間王」は後者の例で一字の郡名では
「梁郡王」のように表記します。公爵以下も同様です。それまでの「蕃王」
は「郡王」に吸収されたもののようです。唐も皇兄弟皇子を「親王」として
「親王府」を置きました。
州をもって郡を統することは漢から始まって久しく行われていましたが、州
が零細化し規模において郡との区別がなくなり、唐初には州を廃して郡に一
本化したり逆に州に一本化したりを反復していましたが、粛宗のとき最終的
に郡は廃止されてしまいました。しかし封号用としてヴァーチャルな郡が存
在するかのように明代まで扱われていました。序でながら唐宋時代に郡王の
最高位は東西南北の「四平郡王」とされました。例えば朱全忠は「東平王」
でした。
清代の封爵については明日書きます。