王国、帝国、共和国の違いって

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137あやめ
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「親**王」と「親王」の間には何の関連もない別物です。「親+朝名+官
爵名」という形式は後漢末から見られるます。外臣に与えられる官印の
文式は「漢(または魏などの朝家名)+官爵名+印(または章)」とされ、ま
た官爵名の中には蛮夷の族名や「率善」や「帰義」などの文字を含むこ
とも多く、「印」字を欠いている例も少なからずあります。現存してい
る印璽の実例としては最も有名な「漢委奴國王」をはじめ「漢匈奴悪適
尸逐王」「漢保塞烏桓率衆長」「新西國安千制外羌佰右小長」「魏屠各
率善仟長」「晉盧水率善仟長」など夥しく伝世しています。この形式の
外に「親**王」が存在するわけで両者の区別は微妙なものがあります。
以前には「親魏倭王」と似た「親魏大月氏王」の存在から推考して、魏
では倭を大月氏に比肩する大国と誤認したのだろうなどという説もあり
ましたが、「親+朝名+官爵名」形式は明らかに小勢力の蛮夷にも与えら
れており、外臣の勢力に対する評価とは全く関係はないもののようです。
「後漢書」には烏桓の「親漢都尉」とか車師の「親漢侯」が見えており、
「魏志」にも鮮卑の「親漢王」があり「晉書」にも鮮卑の「親晉王」が
あります。その性格についてどう理解すべきかは確信が持てませんが、
「中國」にとって支配関係がやや薄弱な場合であろうかと考えています。
劉淵が中原に勢力を拡大していた際に胡族の部大(有力者)の張ハイ(勹
の中に背)督を「親漢王」に封じ、石勒を「平晉王」に封じたという記事
が「十六國春秋」に見えます。この場合は蛮夷であるからということで
はなく、直接支配していない勢力に対しリーダー的立場から協力関係を
樹立することを狙ったものでしょう。後趙の石氏政権もやはり勢力拡大
手段としてこの種の官印をばら撒いていたらしいことは、伝世する「親
趙侯印」や「歸趙侯印」から窺がえます。「親+朝名+官爵名」が何時ま
で用いられていたかというと、北魏に実例があったように記憶しますが
今ちょっと検出できませんでした。