旧約聖書ってどこまで史実を伝えてるの?

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10ごーる
古事記や日本書紀と同程度でしょう。

私は聖書の権威を信じるクリスチャンですが、従来のキリスト教の立場とは異なります。
「聖書は文字通りすべて事実であると信じなければならない。」と解釈するのは、かえって聖書の精神に反します。
パウロが「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と語っています。旧約をそのまま史実とするのではなく、物語の背後に史実があると考えるべきでしょう。
その物語のどこまでが史実であるかは、信仰の問題ではなく、歴史学問題です。そして、あるところは史実であるとされ、あるところは史実ではないと判定されるでしょうが、
史実でないと判定されたところも、現代の私達が読むとき、そこから多くの教訓を得ることが出来ますから、別に聖書の権威については問題はありません。

たとえば、創世記5章にアブラハムの系図がありますが、その人たちはみな800歳とか700歳まで生きています。
「そんな長生きするはずがない。おかしい。」と思う方もいるでしょうし、「聖書は神の言葉だからこれをそのまま信じなければならない。」と考えるクリスチャンもいるでしょう。
しかし、正しい解釈は、「この系図が作られた時代、まだ暦がなかったので、人々は年齢を数えることが出来なかったことを示している」ということです。私達が自分の年齢や誕生日を言えるのは、
カレンダーがあるからであって、かなり高度な文化・文明を前提にしていることを知っているでしょうか。日本では江戸時代まで、自分の年齢を正確に言えない人が沢山いましたし、ましてや誕生日を言える人はほとんどいませんでした。暦が普及していなかったからです。
創世記5章から、「年齢を正しく計算できるだけでも大変なことだ」と言うことを学ぶことができるなら、私達の人生観も少しは変わるのではないでしょうか。

聖書解釈とはそう言うものなのです。