劉邦ってどんな人だったの?

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1世界@名無史さん
司馬遼太郎の小説によると、
能力的にはなにもない人として
描かれていたので。
ほんとの所がしりたいです
2世界@名無史さん:01/09/07 11:21
彼は相撲で言うと1勝14敗で優勝したスーパーマン。
でも逃げて逃げる戦略はどうも日本人にはウケが悪い。
うちの会社の上司も「結果がこうなったのは偶然、逃げるとは卑怯だ」
と言ってた。日本人は逃げるって思想がないからね・・・。
でも様々な武将が彼についていき、天下統一に尽力したってことは
なんかカリスマがあったんだろうね。
中国じゃカリスマがあるってのも能力のひとつ。
3ななし:01/09/07 11:25
子孫の劉備玄徳を少しヘタレ薄情(よく言えばリアリスト?)にしたタイプ。
4世界@名無史さん:01/09/07 11:32
生産的なことが嫌いだったそうですね。
5あやめ:01/09/07 11:40
カリスマって言っても超絶的な能力を持ってる人は却ってダメみたい。
支那の人気小説の主人公を見ても、「三國志」の玄徳・「西遊記」の三蔵・
「水滸傳」の宋江みんな無能って印象、それでいて多くの有能者に慕われ
助けられ大事業を成し遂げる、こういうキャラが好かれてるみたいです。
劉邦も智慧も武芸もこれといった取柄が全く無し、しかも自分の無能や
だらしないとこサラケ出しまくり。そんな人物が項羽みたいな天才武将を
打倒しちゃうんだから支那の歴史は面白いです。
6世界@名無史さん:01/09/07 11:44
万人の兵を動かせないけど、万人の兵を動かす人間を動かせる能力が
あったのでしょう。
7世界@名無史さん:01/09/07 11:52
どーも。
勉強になります。
8世界@名無史さん:01/09/07 11:54

なんだここの書き込みは?
ガキばかりか?

劉邦は、かなり優秀な指導者だったんだよ。
でなきゃ、天下がとれるか。アホ。小説を真に受けてるんじゃ
ねーぞ。
お前ら、もしかして森前首相はアホだとか思ってたの?
早稲田卒で大新聞政治部、やがて自民党の幹部、そして首相になった
男だぞ。お前らが逆立ちしたって勝てるわけねーよ。

劉邦は、人身掌握から政策遂行、人事登用に至るまで、類まれな
実力をもっていた。だから、天下がとれた。以上。終わり。
9世界@名無史さん:01/09/07 12:12
>8
人身掌握?
人心掌握?
10世界@名無史さん:01/09/07 12:20
史記には、その人となりについて、「色を好む」と書いてあるそうな。
女好きであることは周知であったため、王朝の史書でも隠せなかったのか。
11世界@名無史さん:01/09/07 12:25
生家に対して遺恨があったらしく、建国後も冷たいという話がある。
というか、勘当の身だったのかな。
百姓仕事が嫌いで、酒場で飲んだくれているものだから。
12世界@名無史さん:01/09/07 12:26
英雄色を好むか。
13梵阿弥:01/09/07 12:30
劉邦は他人の建策を実に良く聞いたそうで、「彼のもとでなら俺の策を世に問える」
と、才能を集める柱に成れたのだと思います。彼自身は欲に振り回される面が
強かったのだけどそれも他への寛容として活きたようです。…長男を車から突き
落として逃げたというのは、事実なんですかね(親も見殺しに…)。この辺からは、
ある種の信念も感じますが。
始皇帝が突出した能力で破壊と創造を行い、彼の能力を学んだ人々が増えた辺りで
寛容の象徴が求心力を持った辺りは、織田信長と羽柴秀吉との関係に似てるかも
知れません。
14世界@名無史さん:01/09/07 12:30
想像力をたくましくすると、たぶん不義の子だったんじゃ
ないかな?それで父親からイジメを受けてたとか?
その時代はおおらかとはいえ、自分の子でないから
煙たがってたかも。そんでグレたとか。
15世界@名無史さん:01/09/07 12:34
893の中の893です。
16世界@名無史さん:01/09/07 12:42
項羽の軍の特徴:
 精鋭、峻厳、規律、秩序、項羽の命令絶対、百戦百勝

劉邦の軍の特徴:
 物量、物欲に基づく士気、いい加減、無秩序、部下の勝手気まま、自由、百選百敗

どちらに優秀な人材が集まったか、ということなのでは?
17世界@名無史さん:01/09/07 12:44
>>8
小説を真に受けるより、自分の憶測だけに頼ってものを言うほうがよっぽどガキ。
18世界@名無史さん:01/09/07 12:47
気前がいい。
褒美を与えることが好き。
19世界@名無史さん:01/09/07 12:48
>>16
>物量、物欲に基づく士気、いい加減、無秩序、部下の勝手気まま、自由、百選百敗

そんなこたぁないと思うけど・・。烏合の衆じゃないんだから。
劉邦自身がそうでも下にいた人達が優秀だったんだから・・。
20世界@名無史さん:01/09/07 12:53
劉邦は戦が下手でも、韓信が補って余りあった。
韓信を得たのは劉邦の人徳だ。
21世界@名無史さん:01/09/07 13:00
優秀な部下が自分の才能を自由に働かせる環境があったんだね。
22世界@名無史さん:01/09/07 13:09
>>20
あとで殺されたけどね。
23世界@名無史さん:01/09/07 14:11
項羽軍=松下
劉邦軍=ソニー

ファイナルアンサー?
24世界@名無史さん:01/09/07 14:21
項羽軍=小泉
劉邦軍=亀井

ファイナルアンサー?
25世界@名無史さん:01/09/07 14:35
劉邦ってドキュン?
26世界@名無史さん:01/09/07 14:41
>>23 ビデオの競争していた時はその見立てはむしろ逆だと思う。
項羽=己の技術を信じてシェア獲得に失敗(β方式)
劉邦=技術や性能はイマイチだが、味方を増やしてシェア占有(VHS)

>>24
亀井に人徳があるとは思えない…劉邦の徳は身近ではないところにより大きく伝わる
ので、その意味では小泉の方が劉邦的だと思う。
項羽から人心が離れたのは、項羽が自らの権益を守ることばかりに目をやっていたからで、
その意味己の塩付け株ばかり守ろうとしている亀井は項羽的。
27世界@名無史さん :01/09/07 15:22
俺の印象だけど、項羽は自分に正直すぎた結果皆が離れたんじゃないのかな。
周りからみればワンマンでわがままにみえたけど、それは潔癖でまっすぐ
過ぎたんだと思う。
一方、劉邦は人身掌握術は長けているが、人の上にたつ器、知略、血統
など総合して考えるとやはり項羽よりは劣っていたのではなかろうか。
28( ´D`)ノ:01/09/07 17:13
劉邦のものすごいところというか恐ろしいところは、
晩年猜疑心が深まるにつれ、股肱の臣、というか沛県でチンピラ
やってた頃からの仲間であった樊[口會]すら疑いはじめたところ
なのれす。
劉備が張飛を疑うようなもんれす。もし劉備が天下統一してても、
さすがにここまでにはならなかったであろうと思われるのれす。
猜疑心の強さでいったら洪武帝とドッコイドッコイなのれす。
29世界@名無史さん:01/09/07 17:23
>>28
劉備のすごいとこはやっぱ死ぬ間際、孔明に
息子の劉禅が不肖であれば取って替れって言った
ことだよね。スレ違いですが・・。スマン。
30世界@名無史さん:01/09/07 17:30
>27
器・知略の点で項羽の方が上というのはどうかと。
むしろ器(って定義は曖昧だが)は劉邦の方が上では?
項羽は人情もろい反面好き嫌いが激しく、結果、范増すら使いこなせなかった。
司馬遷だったかは、婦女の仁と言い捨ててましたっけ。
結局項羽が勝っていたのは、軍の司令官としての能力だけだったと言えるのでは?(三国志でいえば呂布のようなイメージ)
>28
猜疑心の強さは確かに洪武帝とドッコイドッコイですな。
元勲クラスで疑われなかったのは張良だけですね。
31ななし:01/09/07 17:33
平時の名君としての資質には、猜疑心をどのレベルで歯止めを掛けられるかだとおもう今日このごろ
32世界@名無史さん:01/09/07 17:59
>>30
でも、張良も身の危険を感じて引退しちゃったしね。
33世界@名無史さん:01/09/07 18:08
>>28
創業の皇帝が功臣を粛清するのはありがちな話だね。
始皇帝だってそうだったし。
劉邦以外ににも、隋の楊堅や明の洪武帝だってそうだね。
新しいところでは毛沢東なんかもそうだ。
3433:01/09/07 18:09
>>28
あと、北朝の皇帝たちもかなり酷いね。
35世界@名無史さん:01/09/07 18:11
>>33
ニシ社長?
3630:01/09/07 18:22
>32
疑われる前に引退した張良は最後まで賢かったということですな。

創業の功臣を粛清する皇帝のパターンとしては、たたき上げタイプが多いのかな?
始皇帝も代々続いた秦の後継者とはいえ、不義密通の子らしい上、幼児期は趙の人質状態。
たたき上げ皇帝に分類しても可でしょう。
隋の楊堅は凄まじい粛清をしたとは思えませんが?
37世界@名無史さん:01/09/07 18:54
劉邦による粛清を肯定的に評価しようとすると、
統一国家が根付いていなかった中国に、統一国家を根付かせる
要因の一つとなったことかな? 粛清しなければ下手をすれば
劉邦が死んだら戦国時代に逆戻りなんてこともありえましたしね。
38世界@名無史さん:01/09/07 22:07
劉邦は人々の意見をよく聞いた、というのはみんな知ってることだが、
劉邦の能力はその意見を適確に取捨選択できたことだ。
(意見を鵜呑みにしてるだけなら傀儡にすぎない)
まあ、タマに失敗して関を閉じて項羽を怒らせて窮地に陥ったりしてるが。
39世界@名無史さん:01/09/07 22:30
劉邦って正式な名前じゃなくて、通称だって聞きましたが、本当ですか?
40毛無しさん:01/09/07 22:52
>お前ら、もしかして森前首相はアホだとか思ってたの?
思ってるよ(w
>早稲田卒で大新聞政治部、やがて自民党の幹部、そして首相になった
早稲田にはスポーツ推薦という名のコネ入学。新聞社に入社するときは
「オレをテストするとはケシカラン」と白紙で入社試験の解答用紙を提出。
父親のコネで入社(本人談)。小渕首相死亡時には、自民党の五人組に
「あいつならオレ達の思うがままになるだろう」ということで首相に。
親のナナヒカリと厚かましさだけが取り柄。
>男だぞ。お前らが逆立ちしたって勝てるわけねーよ。
確かに、能力がなくとも出世できるという才能にはかなわないな(w
411:01/09/07 22:52
邦てのがあにいって意味らしい。
字が季らしいけどこれも次男って意味

ちなみに長男は仲。
42世界@名無史さん:01/09/07 22:55
どーでもいいけど劉邦って本当に実在してたの?
43世界@名無史さん:01/09/07 22:55
負けたときの逃げ足が速い。
これも才能だ。
44世界@名無史さん:01/09/07 22:56
それをいうとキリストもブッダも同じ。
45世界@名無史さん:01/09/07 22:58
匈奴の単于との戦いでも事実上の負けだね。
だから低姿勢消極外交に徹している。
46世界@名無史さん:01/09/07 22:59
>>45
内戦が終わったばっかの時だから
かなり国内が疲弊していたからだよ。
47世界@名無史さん:01/09/07 23:01
>>40
俺もユーとほぼ同意見だが、
ともかく清和会のボスになれたってのが気になる。
派閥の長になるぐらいだから、何か取り柄があったと見るのか、
あるいはバカが領袖になれるほどのバカの集まりだったのか。

他の皆さん、スレ違い御免。
48世界@名無史さん:01/09/07 23:05
漢は基本的に内政重視じゃないかな?
武帝が例外的存在で。
49アマノウヅメ:01/09/07 23:07
>>41
長兄は伯、次弟は仲、叔で、末っ子が季のはずですが。
5041:01/09/07 23:08
ああそうでした。ごめん
51世界@名無史さん:01/09/07 23:09
劉邦って何人兄弟だったの?
52根拠はないけど:01/09/07 23:13
武帝以前の歴史、つまり前漢は司馬遷の捏造だと思うんだけどなぁ
53世界@名無史さん:01/09/07 23:18
劉邦の奥さんって異常者?
54世界@名無史さん:01/09/07 23:19
呂后こわい。
55世界@名無史さん:01/09/07 23:20
どの辺が捏造なの?
呂后の専横?
56アマノウヅメ:01/09/07 23:22
宮刑にまであって、捏造しますか?
ある種の人間には使命感というものがあるんです。
57 :01/09/07 23:25
だって司馬遷以前の歴史はすべて伝聞なんだもん。
中国の常識から言って、劉邦が頭とった時点で過去の歴史を編纂したりするもんでしょ。
58世界@名無史さん:01/09/07 23:27
呂氏一族にしてみたら劉邦は「婿養子」みたいな感覚だったのでは?
初期の劉邦に金銭的援助を施してたのは多分呂氏だっただろうしな。
普段息子達をちょっと頼りなく思ってた任侠の呂后の父は、金一万銭と書いた
木管を宴会に持参してずうずうしく上座に座った劉邦を「コイツはイイ」と
気にいって自分の跡取りにしようと娘婿にしたのでは?結果として任侠の跡取り
どころか皇帝になったんだけど。
59世界@名無史さん:01/09/07 23:27
使命感の割には「出来すぎた」話も多いような気もしますが、現王朝の欠点や、宮刑に遭わせた武帝について恨むだけでなく評価するところを記しているのはりっぱだと思う。
60世界@名無史さん:01/09/07 23:34
確かに伝聞に基づく記述だが、司馬遷自身が現地取材で得た伝聞情報などもあり、司馬遷なりの努力はしていると思う。
61世界@名無史さん:01/09/07 23:47
後方支援担当の文官である蕭何を建国第一の功臣と賞したところに劉邦の人を見る目の確かさがあるような気がする。
62世界@名無史さん:01/09/07 23:51
その蕭何が呂后と協力して、王朝のとって後で危険な存在となる可能性のある韓信を死に追い込んだのだ。
冷徹な計算がある分、蕭何の方が怖い。
63世界@名無史さん:01/09/08 00:00
蕭何と劉邦の関係は興味深い、役所づとめのころは
劉邦のことをにがにがしく思っていたようだし・・。

でもただの地方の木っ端役人が国の宰相になれるなんてね。
これも劉邦の人徳のおかげかもしれないね。
劉邦がいなければただの地方役人のままで一生を終えたの
かもしれない。
64世界@名無史さん:01/09/08 00:54
前漢を実質的に建国したのは武帝で、それ以前は
単于に中原地区の支配を任された匈奴の一服属国に
すぎなかったってマジですか?
65世界@名無史さん:01/09/08 08:19
匈奴に頭を下げたけれど、服属国とまで言い切れるかどうか。
66世界@名無史さん:01/09/08 08:28
武帝前は領内の大半を諸王に封じた地方分権型国家。
武帝は中央集権国家に再編した。
そのまま現代まで通じる体制の出来上がり。
67世界@名無史さん:01/09/08 08:39
通説では中央集権化を急いだ秦の始皇帝の失敗を教訓に劉邦が封建制度を残したことになっている。
郡国制度とかいう用語を覚えさせられたぞ。
68世界@名無史さん:01/09/08 08:48
明の洪武帝の粛清政治は、劉邦の功臣粛正を手本にしていると思う。しかもさらに徹底的に残虐に。
明の2代目建文帝政府もそれに見習って、諸藩王を圧迫しようとしたら、北方の叔父が怒って、返り討ちにされた。
69世界@名無史さん:01/09/08 08:55
劉邦亡き後、未亡人の呂后宛てに、匈奴の単于から手紙が来て、結婚しようよと言ってきたんだって。
それに対し、私は高齢だから無理と返事をしたそうな。
もし呂后と単于がいっしょになっていたら、どっちが食われたかな?
70世界@名無史さん:01/09/08 09:04
実は劉邦は蕭何に操られていたのだ。
全てのお膳立ては蕭何が行っていた。
劉邦は蕭何の指示通りに動いて、祭り上げられていただけなのだ。
71世界@名無史さん:01/09/08 09:11
単于を毒殺して、匈奴を乗っ取る呂后ってかぁ?
そしたら呂氏大帝国の出来上がり。

でも遊牧民帝国って、優れた指導者を欠くと、すぐにバラバラになってしまうよ。
本国も疲弊しているし、遊牧民もまとめられない。
72世界@名無史さん:01/09/08 09:22
>70
それは違うと思うぞ。蕭何の意見も全て劉邦に採用されたわけではない。
蕭何もそれを知ってるから例えば韓信を推挙するとき劉邦が窮地に陥って
自分の意見が採用されやすいタイミングを見計らって韓信を大将軍にするよう
意見している。好調なときにどこの誰かも知れない韓信を「大将軍に」なんて
蕭何が言っても劉邦は一蹴していただろう。蕭何は意見を述べるタイミングを
計る能力に長けていたから劉邦に多くの意見を採用されたのだろう。>>38
述べてるように劉邦は決して傀儡ではない。
73現役SE>60:01/09/08 09:29
司馬家は元々は秦の史官だった一家です。
従って秦の史書(史料)や秦が征服し押収した諸国の史書類が
司馬家に伝わっており、それが史記の執筆に使われたとされています。
また秦から漢に直接引き渡された史書もあるようです。

実際に史記の春秋戦国期の記事には他国の史書をそのまま引き写したとしか
思えない個所がいくつかあります。
74世界@名無史さん:01/09/08 11:14
蕭何の意見で劉邦が却下したものって、どんなものがあるんでしょう?
75世界@名無史さん:01/09/08 11:24
蕭何に限らず却下した意見なんて、よほどドキュソなものでないかぎり
歴史に残ってないのでは?
76世界@名無史さん:01/09/08 11:52
劉邦は法三章の3条以外の煩雑な秦の法を廃止した。
法は簡素な方が良い。
やたらと細かい校則を作りたがる教職者は劉邦に見習え。
77世界@名無史さん:01/09/08 11:58
蕭何,張良,韓信といった個性の強い異能の人材を使いこなしたところに劉邦の偉大さがある。
というのが、組織のトップはどうあるべきかを示すビジネスマン向けの教訓話として、よく使われるだろうね。
78世界@名無史さん:01/09/08 13:17
>>76
諸葛亮も言っていますが、それは秦の法律が苛酷過ぎ、民も暴政に疲れていたので
簡素な法にしたのです。
今のドキュソ厨房共は甘やかされすぎ。厳格な校則・体罰は必要悪。
79あやめ:01/09/08 20:10
>>39
劉邦の名前について書きます。
「邦」という彼の名は「史記」にも「漢書」にも出てきません。後漢の末になって
成書した荀悦の「漢紀」になってやっと明記されました。そして「史記」には「字
(あざな)は季」としているので、彼にはまともな名が無かったんだという説が出て
きました。
そんな後世になって書かれた情報は信用できない、彼は下層農民の出身で学問教養
などに無縁の人間だから、はなから鹿爪らしい名など付けてもらえなかったんじゃ
ないか、通称の「季」で呼ばれとおしたのであろうというのです。唐の司馬貞撰の
「史記索隠」は「案ずるに『漢書(漢紀の誤り)』には『名は邦、字は季』とせるに、
此(史記の高祖本紀)には単に字と云へるは亦又た疑ふ可し、按ずるに漢の高祖の長
兄の名は伯、次は仲にして別名を見ざれば、則はち季も亦是れ名也」と説き、季は
名そのものだとしています。
「史記」が「字は季」としたのは彼が人前でそう呼ばれていたので、通称といった
程度のニュアンスで「字」としたものでしょう。「季」というのは「字」としても
お手軽過ぎる、項籍なども字は「羽」ということで然るべき文字を択んでいます。
「伯・仲・季」は「行」つまり兄弟順を表すもので字そのものでなく、字の上に添え
「仲尼」とか「季歴」とかの呼称に用いるのが普通です。もっとも項羽の例に見る
ように当時の楚人の字は一字であったようです。例えば「楚辞」の屈平の字は「原」
の一字です。そこで清の梁玉縄の「史記志疑」には「季は乃なはち是れ行にして、
高祖の長兄の伯と次兄の仲も亦た行也、『史記』の季を以て字と為せるは、『索隠』
の季を以て名と為せると、並びに非なり」と断じています。
では劉邦は天子の尊をもってして「末っ子」という通称で生涯してしまったと理解
すべきでしょうか? それはやっぱり納得しがたいものがあります。「史記索隠」は
項岱の説を引いて「高祖の小字は季にして、即位して名を邦と易(か)ふ、後に因りて
邦を諱みて季を諱まず、季布(項羽の将)の猶ほ姓を称する所以也」と述べています。
つまり劉邦は若いときの字は「季」であったが、皇帝の位に即いた時点で「邦」と
改名したのだ、その後に「邦」は避諱とされたのだが、「季」は避けなくても構わず
季布の姓もそのまま表記できたのだというわけです。        続きます。
80あやめ:01/09/08 20:16
「史記索隠」に引かれた項岱の説では「邦」の名は天子になったので、偉らそうな
文字を択んで名付けたのだという解釈です。そのばあい改名前の彼は現在では不明
となってしまった「名」があったのか? それともやっぱり「季」という通称だけ
しかなかったのか些か曖昧です。
あやめとしては劉邦は即位以前から当然の習いとして何らかの「名」を称していた
ものと考えます。下層農民だって割りとちゃんとした名前を持っていたに相違あり
ません。「中国の大盗賊」で高島俊男さんは当時の百姓は碌な名前なんかないとか
書いてたように記憶します(まちがってたらごめんなさい)が、尊敬する高島さんの
「お言葉ですが」従えません。朱元璋なんかそうだったみたいだし、現代でも女児
なんかナンバー呼びが少なくないらしいです。でも漢初も同じ状況かということに
なると大いに疑問があります。「史記」に出てくる楚漢争覇時期の人物は、陳勝を
始めとして下層農民が多いけど皆が皆なちゃんとした名前で、兄弟順で済まされた
例なんか見当たらないみたいです。
劉邦は儒者の被り物におしっこしちゃうような人なので、てっきり目に一丁字ない
無学者と思われてるようですが、「史記」の「盧綰傳」に「高祖・盧綰の壮なるに
及び、倶もに書を學べり」とあって、ともかくも丸きりの文盲ではありません。
そりゃそうでしょう、だって彼は亭長という下級ながらもお役人になってるんだ
もの。「高祖本紀」には「壮なるに及んで試みられて吏と為る」とはっきり記載
されてます。コネやモグリでなったんじゃないのよ、ちゃんとテスト受けて合格
したんですからね。亭長といえば木っ端役人にもせよ報告文書作成した上サイン
なんかもしてるはず。当然その時点では「季」じゃない名前を称してるはずです。
「邦」なんてデカク出た名前だけど、彼のことですから大いに有りえたと思われ
ます。皇帝になる前からの名が「邦」だったと結論しときます。
「邦」という名が「史記」「漢書」に明記されなかった事情は、司馬遷も班固も
漢の史臣なので皇室に対し遠慮したものだろう、という清の王鳴盛の見解に追従
しておきます。王氏は劉邦ばかりではなく歴代の皇帝が全て「史記」「漢書」に
名も字も伝えられていない点も指摘しています。
なお漢初に「邦」の字が避諱されているのは、それまで「相邦」と呼ばれていた
官名が「相國」に改められたことで確認できます。高祖の名が「邦」であったの
は疑いないところでしょう。
81世界@名無史さん:01/09/08 21:37
朱元璋に比べると、まだ上層の農民の出というわけか。
朱元璋の名前は重八でしたっけ?朱家は由緒貧しき貧農出身で、元璋は口減らしに寺に入れられ坊主になって、字を覚えたのかな。
82世界@名無史さん:01/09/08 23:21
その当時の中国の農民が字を覚える必要があったかどうかだな?
識字率ってどうだったんだろう?
83世界@名無史さん:01/09/09 01:20
あやめの長文はいつ見ても浮いてるなあ・・・
84sage:01/09/09 01:45
それ以前に>>41みたいにドキュソな知識しかないヤツがたてたスレに
ageでレスをつけるのはアホらしくないか?
8584:01/09/09 01:46
ドキュソは漏れだった…。
回線切って首釣って氏脳…
86世界@名無史さん:01/09/09 09:32
あやめさん素敵。うっとり…
87世界@名無史さん:01/09/09 14:28
勉強になるよ。うっとり。
88世界@名無史さん:01/09/09 14:36
紙はまだ発明されていない時代だからね。
長文が書かれたものを読む必要はないかもしれない。

でも秦の官僚制は行政の文書化を進めており、地方の役所でも大量の木簡が作られていたんじゃないかなぁ?
だからこそ蕭何のような人物が活躍できるわけだ。

字を読み書きできるだけでエリートかもしれないが。
89世界@名無史さん:01/09/09 14:48
漢代の西域の遺跡では、役人の勤務表とか、休暇届なんかの木簡があったらしい。
今も昔も宮仕えの身は辛いのさ・・・。
90ジョーカー:01/09/09 14:52
劉邦は侠客つまりヤクザです。
91世界@名無史さん:01/09/09 14:52
役人と言っても、「官」と「吏」とでは差があるんじゃないかなぁ?
官はキャリア。吏はノンキャリア。
92世界@名無史さん:01/09/09 14:56
旗揚げ時の劉邦党は蕭何を除けば、ほぼ全員、任侠道実践者でしょう。
任侠とは何かという論点が欲しいなぁ。
93世界@名無史さん:01/09/09 15:02
昔から中国では、任侠道の結社のネットワークが中国全土に張り巡らされている。
歴史書の表面に現れてこない地下社会に注目すべきだね。
94ジョーカー:01/09/09 15:04
よく古代中国や近世日本の仁侠の徒はヤクザとは違うという方もいますが、実際には彼らは略奪・恐喝・強姦を行い大抵は民の敵でした。ただ、中国の反乱においては、仁侠集団(更に19世紀からはその秘密結社)が大きな役割かを果たしましたが。
95世界@名無史さん:01/09/09 15:09
常にノンキャリアが実権を握る。
96ジョーカー:01/09/09 15:16
でも、昔の中国の吏は薄給か無給だが、副業(本業?)をもっていて、勤務地が地元ということもあり、地元の情報に詳しく、また、ヤクザや盗賊との関係もあった。
97世界@名無史さん:01/09/09 15:17
数百年もの歴史を誇る任侠結社なんて、ざらに存在するよね。
馬賊、匪賊、遊賊、塩賊とかで呼ばれる盗賊団の中には先祖代代続く由緒あるものがある。
村人全員が結社の成員ということも多い。
恐るべし、黒社会。
98世界@名無史さん:01/09/09 15:23
官と吏の区別は科挙が行われる前からあったの?
99世界@名無史さん:01/09/09 15:28
日本にやってくる中国人犯罪者集団も歴史が古いのかしらん?
日本のヤクザですら、恐れる凶暴さだぞ。
いきなり発砲するわ、青竜刀を振り回すわ。
100世界@名無史さん:01/09/09 15:45
>>100
カコイイ!
101世界@名無史さん:01/09/09 15:59
地域の自治会みたいな「父老」たちとの話し合いを劉邦は重視しています。
父老からの要望に耳を傾けることにより、地域全体からの支持を集めることに成功しました。
劉邦の任侠の顔役としての性格が幸いしたものと思われます。
102世界@名無史さん:01/09/09 16:17
話のわかる親分だったんだね。
103世界@名無史さん:01/09/09 18:41
蕭何は代々役人だったのかな?
だとすると楚か斉の支配地域だったはず。
そういう亡国の民の意識ってあったのかな?
劉邦も含めて・・。
104世界@名無史さん:01/09/09 21:38
江蘇省沛県の人。するとどこの支配地域になるでしょう。
項羽は楚の色が強いが、劉邦党はあまり楚色を感じない。
105世界@名無史さん:01/09/09 21:49
張良は代々韓の宰相だった。
韓が秦に滅ぼされると,その仇として始皇帝を暗殺しようとして失敗している。
亡国意識があった人物といえよう。
106世界@名無史さん:01/09/09 22:16
陳勝・呉広が乱を起こすと、沛県の父老はこれに加わることを決めた。
劉邦は沛の王陵や梁の張耳など任侠の元締めのもとに寄食していたに過ぎないが、沛の父老は,劉邦には吉祥が多いとして彼を沛公に推したてた。
だから沛県には秦への反発心が強いものがあったのだろう。
なぜか劉邦はそれに乗っかってしまったわけだ。
107世界@名無史さん:01/09/09 22:23
反乱に加わった後、まもなく陳勝・呉広は戦死してしまう。
本来は劉邦ではなく、陳勝が天下を獲るはずなのに…。

その後も秦の最強の軍団とは項羽が戦い、その分、劉邦は手薄なところを攻め入って、しまいに真っ先に関中まで手中に収めやがった。
劉邦の本質は盗っ人だぜい。
108世界@名無史さん:01/09/09 22:27
目の前に転がり込んでくる機会を逃さないというのも才能だよ。
単なる盗っ人じゃない。
109世界@名無史さん:01/09/10 03:55
敵軍勢の手薄な所へ攻め込んで勝利を得るのは軍略の常道なり。
孫子も述べてるし、戦略的勝利を見失うなかれ。
太平洋戦争のようなヘッポコな戦いで大被害を出すのは勘弁な。
110世界@名無史さん:01/09/10 04:01
毛沢東も偉大な盗人の一人。
111世界@名無史さん:01/09/10 05:44
そうだよねえ。
かの毛沢東も劉邦など過去の英雄達の伝記に詳しく、
かつ参考にしたから、天下を取れたしね。
中原で鹿を盗むのも悪くないな‥‥
112世界@名無史さん:01/09/10 09:26
負けたときの逃げ足が速いという才能もある。
負け上手。

兵は失われるが、失われた分をすぐに蕭何が補充してくれるから、何度でも挑戦できる。
113世界@名無史さん:01/09/10 09:30
個々の戦闘で弱くても、「戦略ロジ」で優位にたつ。
ビジネス戦略に通じるものがある。
114世界@名無史さん:01/09/10 10:01
蕭何の家って地元では結構インテリだったのかな?
115世界@名無史さん:01/09/10 10:19
蕭何が沛県の有能な中級役人で、秦の中央へ栄転する話もあったが、誘いを蹴って、沛県に居続けたというぐらいの話は聞くが、蕭何の家柄については、あまり聞いたことがないですね。
116世界@名無史さん:01/09/10 10:23
皇帝になった劉邦はあまりにも有能な蕭何をも疑いだす。
慌てた蕭何は一族の人間を戦いの最前線に出すなどして、劉邦の猜疑心を打ち消すのに必死だった。
何とか無事に収まったわけだが、劉邦は人が変わってしまったようだ。
117世界@名無史さん:01/09/10 10:24
晩節を汚したね。
118アマノウヅメ:01/09/10 10:43
功臣を粛清するのは権力を手にした者の宿命みたいなものですから。
劉邦は早めに死んで、側近殺しは奥方がやってくれたので、まだマシです。
119世界@名無史さん:01/09/10 10:49
共に苦しみを分かち合うことはできるが、共に楽しみを分かち合うことはできない。
120世界@名無史さん:01/09/10 11:15
もっと早く死ねばよかった。
121世界@名無史さん:01/09/10 11:16
>>115
あ−そういえば史記にそういうことありましたね。
中央へ栄転の話があったってことは蕭何はかなり
優秀だったてことかな?現代の日本でいうと地方の税務署職員から
大蔵省国税局査察部に栄転になったマルサの女みたいなもんか。
122世界@名無史さん:01/09/10 11:38
優秀な蕭何が何故に劉邦ごときに従ったのかが謎だ。
123世界@名無史さん:01/09/10 11:46
沛県ってのは楚でも辺境地で斉に属したり楚に属したり
結構そこの住民ってしたたかなとこあったんじゃないかな?
124世界@名無史さん:01/09/10 11:47
都市に攻め入ったとき、他の諸将は財宝の略奪に血眼になるが、蕭何は財宝には目もくれずに、役所の文書(木簡や竹簡)蔵を接収して、悦に入っていたため、気味悪がられていたらしい。
本当に価値があったのは、面白みのない公文書の方だったのだが。
125世界@名無史さん:01/09/10 11:59
蕭何=文書ヲタ
126世界@名無史さん:01/09/10 12:14
沛県は各種ヲタが集まっていたのだ。
12730:01/09/10 13:20
劉邦スレって結構育ちますなー。
やはり中国史上、初めて庶民から皇帝に成り上がった人ですからな。
長い中国の歴史でも、庶民出身の皇帝は劉邦と朱元璋くらいのもんですからね。

どっかに史記の記述を疑う旨があったけど、史記の記述の正確さは研究家の誰もが認めるところでしょう。
まだ周以前が伝説時代だった頃、殷墟の発見は史記の正確さを裏付ける発見となりました。
また一時、史記にのっている殷のある王の実在(2人くらいだったか?)を疑われた時期もあったようですが、
別の遺跡からその王の実在を裏付ける証拠が出て、改めて史記の正確さが裏付けられたようです。
殷の前の夏王朝も、歴史学上は伝説時代に属しますが、史記の正確さからみて、
実在を疑う人の方が少ないように思います。(実在を裏付ける遺跡が出てこないだけ)
128世界@名無史さん:01/09/10 14:29
文字の話が出ていたが、よく始皇帝が統一を果たすとバラバラだった文字を統一した。それが篆書であるというように考えられる場合がある。
最近は考えが変わってきたらしい。戦国時代の各国の交流は盛んで、統一前から相互に影響しあいながら文字の略字化が進んでいた。
そのため国ごとの文字の違いは意外と小さかったらしい。
国ごとにバラバラという誤解を招くことになったのは、秦の儀式用文字と楚の竹簡の行政用文字とが違っていたためらしい。
これを国が違うために字体が違うと思い込んでしまったわけだ。
実際は儀式用文字と行政文書用文字の違いに過ぎなかった。
秦でも行政文書用文字が用いられていたのだった。
同じ国でも使い方や時代により字体が大きく変わることに気づくのが遅かったのである。
さらに漢代からと思われていた楷書の先駆に当たる隷書は秦でも使われていたことがわかっているらしい。

始皇帝が文字統一したのは六国の篆書を廃止し、秦の篆書にしたことだが、篆書自体の違いは少ないという。
129世界@名無史さん:01/09/10 14:49
文献と遺跡とが一致すれば完璧なんですがね。

史記の記述で誇張ではないか思われていた阿房宮や始皇帝陵の巨大さは、記述以上の規模であることがわかってきた。
史記には書かれていない兵馬俑も出てきたし。

秦の都を残した劉邦と、すぐに阿房宮を焼いた項羽の違いが、天下人の器量の違いを表しているね。
130世界@名無史さん:01/09/10 15:08
>すぐに阿房宮を焼いた項羽
でも、革命の際には、前王朝の宮殿を焼いて新しい宮殿を建てるのが
中華の伝統でしょ。
清は(たぶん、異民族だったせいもあって、焼くのはもったいないと
思ったのだろう)明の紫禁城をそのまま使ったけど。
13130:01/09/10 15:08
>122
蕭何がいくら優秀でも、それはあくまで官吏としての才能。
乱世で一旗あげる能力とは別もんです。
13230:01/09/10 15:27
>130
いや、そんな伝統はないと思われ。焼かなかった例も山ほどあります。
ちなみに明を滅ぼしたのは、あくまで李自成です。(清ではない)
133世界@名無史さん:01/09/10 15:41
「赤龍王」史観の奴っているのかな…
134世界@名無史さん:01/09/10 16:25
「赤龍王」はどう描写されているの?
135世界@名無史さん:01/09/10 22:30

      //
     //
     |:| Λ_Λ  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     |:|( ´Α`)< 項王!秦の兵は一人残らず埋め殺しました!
     |:|_):∵:(   \_____
     \:∵:∴:\
       |∴:∵ l::|
       |∵:∴ |::|
      /∴:∵/|::|
      |ii;∵;i/ |:|
      |llll||lll|  U
      |llll||lll|
      /ll/ |ll|
     /l/  |ll|
     /l/  |ll|
    /l/   |ll|
   ν    ν
136世界@名無史さん:01/09/10 23:11
項羽は投降した秦兵20万を生き埋めにしたり、都の宮殿を焼いたりと、報復意識丸出し。
一方、劉邦は秦の都を落としたとき、投降する秦王を助命し、女好きを自制して、宮殿の女たちに手を出さなかった。
秦の民衆からの信頼と支持を勝ち得ることに成功したのが、大きい。
137135:01/09/10 23:19
         ∫
   ∧,,∧ ∬ 136がワシの言いたかった事をハッキリかいてくれたなぁ〜
   ミ,,゜Д゜ノ,っ━~
_と~,,,  ~,,,ノ_.∀
  .ミ,,,/~),  .| ┷┳━
 ̄ ̄ .し'J ̄ ̄|.. ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
138世界@名無史さん:01/09/10 23:32
あの女好きが自制したのはおかしい。野心があるからだ、と項羽に進言する者がいたが、項羽は取り合わなかったとか。
139アマノウヅメ:01/09/10 23:41
>>138
人の意見を聴かないのが項羽の最大の欠点でしょう。
聴いてくれなければ優秀な人材は集まらないし、一人で考えられる事は
たかが知れているというのが分かっていないと最終的には勝てません。
140世界@名無史さん:01/09/11 01:29
>>28,30
洪武帝よりはマシでしょ。
劉邦は彼みたいな万単位での粛正はしてないし。
貧乏時代からの友人(徐達)や姉の息子(李文忠)まで殺したりする洪武帝なんかと一緒にしたら、劉邦が可哀想。
141世界@名無史さん:01/09/11 09:46
項羽は楚国への帰属意識が大きすぎたと思う。
劉邦はさっさと本拠地を関中に移して、旧秦人の支持を取り付けている。
秦帝国の遺産を事実上継承できたのではないか。
滅んだとはいえ旧秦の底力は他の旧六国を凌駕しているはずだ。
恐らく沛県は楚への帰属意識がほとんどないのだろう。
一方、項羽は都を焼いただけで満足してしまい、故郷へ引き返してしまった。
旧秦人の恨みを買った上で。
滅亡は項羽自らが招いたものだ。
142世界@名無史さん:01/09/11 09:49
>>138
秦のハーレムには美女がいっぱいいたのにね。
143世界@名無史さん:01/09/11 10:10
劉邦の産まれたときってもう秦によって統一されていたのですか?

どういう社会状況だったのでしょうか?
1.遊侠を養えるくらいの余裕は都市にはあった。
2.統一によって交通の便や治安がよくなり経済が活発になっていた。
3.地方にはまだ反政府的な組織が存在した。

統一後すぐは結構社会は安定してたんじゃないかな?
144世界@名無史さん:01/09/11 11:46
>劉邦の産まれたときってもう秦によって統一されていたのですか?
劉邦の生まれた年は不明だが、項羽よりずっと年長だし、項羽も劉邦も始皇帝の行幸を見物しているぐらいだから、劉邦が生まれたときに秦の統一ができているとは考えられない。
始皇帝即位年と漢高祖即位年の年表を見てくれ。余り差がないはずだ。

>1.遊侠を養えるくらいの余裕は都市にはあった。
侠客の話が多いので、Yes。

>2.統一によって交通の便や治安がよくなり経済が活発になっていた。
不明。
統一を望む声があったことは確かだが、統一の成果が出る前に大崩壊してしまった。

>3.地方にはまだ反政府的な組織が存在した。
Yes
何度も始皇帝暗殺未遂があるぐらいだから、いくらでもあった。
145世界@名無史さん:01/09/11 12:55
侠客はもっと昔からいたと思うから劉邦云々とは関係が浅いんではないかと。
秘密結社的なものがあれば侠客もいると思う。
146世界@名無史さん:01/09/11 13:01
じゃりんこチエのテツみたいな人だった。
14730:01/09/11 14:05
>>138
女好きの劉邦は宮女を前にして、しっかり目の色を変えてました。
止めたのは、張良の意を受けた「はんかい」に止められました。

>>144
2に関して。各国ごとに違った軌(車輪の軌道)を統一したことにより、交通の便は増したのでは?
始皇帝存命時、秦軍の強大な力で治安そのものは悪くなかったでしょう。(現代とは比べ物にならないかもしれないにしろ)
むしろ秦軍の主力は対匈奴に向けられていましたし。国内情勢は悪くなかったかと。
また、経済状態も詳しくはわかりません。巨大工事(長城・阿房宮等)により、疲弊していたと意見もありますが、
始皇帝自体は民力を考えて、できる範囲での大工事を行っていたのだと思っています。
バランスを考えずに無茶したのが二世皇帝かなと。
情勢が荒れだすのは、3に関して、「反政府組織」とまではいかないかと思いますが?
暗殺自体も、あくまで旧六国の遺臣の個人的復讐というニュアンスが強いかと。
148世界@名無史さん:01/09/11 14:25
始皇帝暗殺未遂って、「けいか」や張良が起こした有名なものから、正体不明の一団に襲われたものまでいろいろあるみたいね。
暗殺を恐れて、幾百もある宮城建物の地下をトンネルで結んで行き来し、今夜はどこを寝所とするかを秘密にしていたんだって。
モグラ生活の始皇帝さんだこと。
149世界@名無史さん:01/09/11 14:28
>>147
>始皇帝自体は民力を考えて、できる範囲での大工事を行っていたのだと思っています。
同意
始皇帝は必要以上に悪者にされていると思う。
巨大工事にしても失業対策で流民が増えるのを防いでいたとか?
出稼ぎ的な意味もあったんじゃないかな?
中央政府が地方を搾取って単純な構造でもなかったんじゃないかな?
150世界@名無史さん:01/09/11 14:33
始皇帝が恐れていたのは、強大化した自軍ではないかという説がある。
天下統一を成し遂げた後、肥大化した軍の使い道をどうするか。
放っておけば、すぐにエネルギーが爆発するかもしれない。
そこで自軍の力を消耗するために万里長城の建設を始めたのではないかという説。

スレ違いで失礼。
151世界@名無史さん:01/09/11 14:40
秦代の治安に関して。
役所の木簡の中に、盗難事件の捜査記録があったんだって。
どの家のどこから賊が侵入し、何をどれだけ盗んだかが詳細に記録していたらしい。
法治を進めた秦らしいお話でした。
152世界@名無史さん:01/09/11 14:52
秦の交通事情は想像するしかありませんが、
昔、NHKで始皇帝が作った道路跡の映像を見たことがあります。
ヘリか航空機から撮った映像で、荒野の中を延々と続いていました。

全国行幸に使った道路は幅70メートル、中央に幅7メートルの高い道があり、そこを始皇帝が通り、残りの端を一般が使ったという記述を読んだこともあります。
古代世界とは思えない雄大な規模の話です。
153世界@名無史さん:01/09/11 14:58
>>152
その道があったから劉邦も容易に関中に入れた。
154世界@名無史さん:01/09/11 15:05
始皇帝の行幸を見学した劉邦と項羽。二人の反応の違いが史記に載っているね。
項羽は自分も必ずああなってみせると考え、劉邦はああなりたいなぁと考えた。
どちらにせよ、始皇帝の行幸は見る人に大いなる野心を抱かせてしまった。
始皇帝は自分の偉大さを全土に知らしめるために行幸したはずだが、かえって反乱の種を蒔いていたのである。
155世界@名無史さん:01/09/11 15:08
>>153
秦軍の移動のための道が反乱軍を招き入れるためになったんだね。
156世界@名無史さん:01/09/11 20:42
始皇帝は、焚書坑儒をやったので後世の儒家から必要以上に悪くいわれて
いる面は確かにあるけど、でもやっぱり焚書は非難されるべきことじゃ
ないかな?
157世界@名無史さん:01/09/11 21:03
>>156

焚書は確かに批判すべきことかもしれない。
しかし、漢が焚書をしなかった証拠はどこにもないのも確か。
自分達の都合の悪い書物を焼いてそれを始皇帝のせいにした
可能性も否定できない。
158世界@名無史さん:01/09/11 22:39
劉邦論からしだいに始皇帝論に移ってきた。
どうしても関連するね。
159梵阿弥:01/09/12 11:28
焚書はどうも民間のを焼いて、宮廷での知識の独占を図ったらしいともいわれる。
160世界@名無史さん:01/09/13 17:55
始皇帝が焚書したおかげで劉邦も全国統治しやすかったんじゃ
ないかな?
161世界@名無史さん:01/09/13 18:58
>>156
焚書坑儒は後世の儒家の誇大妄想。
始皇帝が儒家を排斥したのを僻んで、殊更に悪く言い立てたものに過ぎない。
そもそも当時の儒家の教えなど、国家経営には無用の長物だったのだから、排斥されて当然なのだが。
162世界@名無史さん:01/09/13 19:32
水曜日の夕方六時にテレビ東京みれ
163世界@名無史さん:01/09/14 01:35
>>162
チョトワラタ
164世界@名無史さん:01/09/14 10:43
ここにその時代のこと書いてあるよ。↓
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/ryuhou.html
165世界@名無史さん:01/09/14 12:00
 結局、中国で政権を握るのは、兵や民衆を食わせられるか
どうかで決まるっていう、いい見本でしょ。
 劉邦の軍は、スポンサーの確保がうまかった。
 負け続けたのも、ほぼ計算のうちでしょ。でなければ、
負け続けの軍に金を出す連中などいない。
 項羽は、強かったが、兵を食わせ続けることが出来なかっ
た。だから負けた。そういうことでしょ。
166世界@名無史さん:01/09/14 12:05
スポンサーってどこ?
16730:01/09/14 15:08
>>165
>結局、中国で政権を握るのは、兵や民衆を食わせられるか
どうかで決まるっていう、いい見本でしょ。

それはその通りだと思いますが、それ以降は正確さに欠くのでは?
劉邦が食料を確保し続けた要因は、
1.ごう倉、けいよう(漢字忘れた)などの、旧秦の食料基地を優先的に確保した
2.戦場にならなかった関中の地で、蕭何が良い民政を行い、食料を安定供給した事
の2点に尽きると思います。
そもそも貨幣経済が一般的ではない当時、金の有無と食料の有無は別ものでは?
168梵阿弥:01/09/14 15:24
>>167
刀銭とか貨幣はありましたがそれほど流通していなかったのですか。
16930:01/09/14 17:14
>>168
実は正確なところは知らんのです。言葉の綾というか・・・。
ただ秦末の動乱により、貨幣経済は麻痺状態だったと思うんですわ。
また当時の人口の多くは農民で、租税は穀物の直納(田租)が圧倒的に多かったと思うんです。
そういう意味で、豊富な資金力をバックに食料を買いあさったわけではなく、
食糧倉庫をキープ+関中からの食料(租税でまきあげた分)だと言いたかったわけです。
170世界@名無史さん:01/09/18 12:23
下がってたのであげ。

劉邦ってやっぱドキュン?
171:01/09/24 02:53
劉邦の死に方は好きだなぁage
172世界@名無史さん:01/09/24 07:46
>171
医師の診察を拒否したこと?
173:01/09/24 13:50
皇帝になったのも今自分が死のうとしてるのも天命だ、って言ってるあたり
174世界@名無史さん:01/09/24 23:41
>>173
同意
175世界@名無史さん:01/10/13 18:51
    
176世界@名無史さん:01/10/13 19:08
「劉氏にあらずば、人にあらず」って言ったのは本当?
田中芳樹によれば、平家はそれを真似しただけだっていうけど。
177世界@名無史さん