西ローマ帝国について

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52世界@名無史さん:02/02/04 23:09
アエティウスって、末期西ローマの最重要人物かなって思います。
アヴィトゥス帝、マヨリアヌス帝といった皇帝達はアエティウスの部下だし。
ついでに言えば、リキメールも。
53世界@名無史さん:02/02/04 23:16
>>51
「汚れ」だと、つい「よごれ」って読んじゃうね。
普通は「穢れ」でしょうね。
まぁ、汚れでも「けがれ」と読むことができるみたいだけど。
54世界@名無史さん :02/02/05 23:58
結局西ローマ皇帝の中でまともな死に方が出来た(と言われている)のは
ホノリウス・コンスタンティウス3世・グリュケリウス・ロムルスの四人だけ?
ネポスは退位後、修道院内でグリュケリウスに殺されたんだっけ?
55世界@名無史さん:02/02/06 01:15
>54
ロムルスなんかも、生死不明だけどね。
ローマの皇帝の死因を見たら、特に西ローマ帝国の皇帝達だけが
無惨な死を遂げてるわけではないのが分かると思います。
五賢帝時代の終了からセヴェルス朝の断絶までは、比較的安定した
時代だったのに、セプティミウス・セヴェルスを除いて、死に方は
悲惨なのばっかりです。

<参考>
コンモドゥス・・・宮廷陰謀で暗殺死
ペルディナクス・・・同上
ディディウス・ユリアヌス・・・元老院の命令で処刑死
セプティミウス・セヴェルス・・・病死
ゲタ・・・カラカラが暗殺
カラカラ・・・マクリヌスが暗殺
マクリヌス・・・内戦で敗北して、反乱で殺される
エラガバルス・・・宮廷陰謀で暗殺死
アレクサンデル・セヴェルス・・・前線での反乱で殺される
56世界@名無史さん:02/02/11 22:00
age
57中華@名無史さん:02/02/28 20:25
アエティウス萌え〜!
58世界@名無史さん:02/03/16 23:50
アラリックって、有能なのか無能なのかよく分かんないです。
59世界@名無史さん:02/03/17 04:16
>>37
マヨリアヌスを馬鹿にするな〜(;_;)
僕はマヨリアヌスは西ローマ皇帝の中で一番カコイイと思うてます。
仲間に裏切られなかったら、リキメールに暗殺(?)されてなんだら、
絶対にガイセリックを討ち負かしていたでしょう。
その才能はかのアエティウスさえ恐れていたほどでする。

>>52
アエティウスは重要ですよね〜。
カタラウヌムでアッティラに生涯唯一の敗北をさせた男。
でも、もとはフン族に近く、アッティラとも面識があったんですよね?
で、一時失脚してたのをフン族の武力を背景に復帰したような(・・・うろ覚え。違う人かも)
この視点からいうと、やはりアッティラこそ最重要人物では。
最後の皇帝モミュロス・アウグストゥルスことロムルスアウグストゥスの父ちゃん
オレステスも、オドアケルの父ちゃんエデコもアッティラの部下ですしね。
なんか、すべてはアッティラに帰るってかんじで。
そういや幽閉先からアッティラに求婚したデムパ皇女ホノリアってどうなったんですか?
60世界@名無史さん:02/03/19 01:15
>59
私個人としては、ヴァンダル王ガイセリックが一押しですね。
ローマ帝国から独力でアフリカを奪い取り、東西両ローマ帝国と外交の駆け引き
を有利に進め、チャンスと見るとローマ市を占領して皇族を連れ去りローマとの
血縁関係を強弁するといった、蛮族達の王の中の王だと思います。

東ゴート王国のテオドリック1世の方が一般的には評価は高そうですけどね。
6158:02/03/19 13:12
>>60
でも、ガイセリックってなぜかイメージ悪いっす。
ローマとの戦いにしても旗色が悪かったらヘコヘコして
時間稼ぎしたり、相手の寛容さにつけ込んで汚い裏切りや
約束破りしたり。
それも相手の譲歩を引き出すのにかなり卑屈になったりしてるし。
でもそれができてしまうところがガイセリックのすごいところなのかもしれませんね。

ちなみにガイセリックがアフリカ奪ったのって
アエティウスが政敵(名前忘れた。仮名ポンペイウス)を失脚させるために
ポンペイウス(仮名)がアフリカでローマに対し
挙兵せざるを得ない状況に仕組んだことが発端ですよね。
で、ポンペイウス(仮名)がそのときはまだイベリア半島にいた
ガイセリックを仲間に引き入れるためにアフリカに呼んだところ
そのままいつかれたという・・・。
ようするにガイセリックがアフリカに来たのはアエティウスが悪いと。
しかも事が露見して失脚したあとフン族率いて復帰してるし。
ある意味亡国の徒かもアエティウス。
62世界@名無史さん:02/03/20 00:08
>61
ガイセリック侵入時のアフリカ総督はボニファティウスですね。
ローマ末期の属州アフリカは半独立国の様な状態だったみたいですね。テオド
シウス1世〜ホノリウスの頃も現地の有力者ギルドーが国王の如く振る舞って
いたようです。(最後はスティリコが謀略で殺害してます)
このボニファティウスも、ヴァレンティニアヌス3世即位時に反乱を起こした
りと、中央政府のガラ・プルケリアやアエティウスと政権の主導権を巡って確
執が深刻な状態にあった時に、ヴァンダル侵入を受けています。
ガイセリックのアフリカ侵入はボニファティウスの手引きというよりも、西ゴ
ート族も再三に渡ってアフリカ侵攻を企図していたように、蛮族が求めていた
肥沃な土地(でありながら、弱体な軍事力しかない)だったということだと考
えるのが自然だと思います。
6361:02/03/20 00:13
>>62
なるほどなるほど。勉強になります。
64世界@名無史さん:02/03/20 14:21
>蛮族達の王の中の王だと思います。

なんかこの表現、「最強の蛮族」と感じてワラタ
65世界@名無史さん:02/03/20 23:13
ガイセリックってアリウス派キリスト教徒ですよね?
アタナシウス派を正統とするローマと宗教上の対立ってなかったんでしょうか。
66世界@名無史さん:02/03/21 00:32
>59
アエティウスが一時失脚したのは、アフリカから召還されたボニファティウスと
ガラ・プラキディアとの政争に敗れたからです。
が、ボニファティウスはアエティウスとの私闘の際の刀傷が原因で死亡。フン族
の後ろ盾を得たアエティウスはまもなくローマに帰還しています。
67世界@名無史さん:02/03/22 01:25
>67
宗教上の確執はあったようです。ヴァンダル族に対するマイナスイメージは
当時のキリスト教史家がアタナシウス派だったためらしいです。実際にどの
時代にまで、使われていたのかは知りませんが、ヴァンダリズムという、野
蛮人といった意味の侮蔑的な言葉もあります。
68世界@名無史さん:02/05/10 20:31
age
69世界@名無史さん:02/05/15 17:06
西ローマに対し、ゲルマン人はただ攻撃を仕掛けるだけだったのでしょうか?
ゲルマン人たちと西ローマが共存することはできなかったのでしょうか?
70世界@名無史さん:02/06/01 20:42
age
71世界@名無史さん:02/06/02 04:59
>>67
ヴァンダリズムの語は70年代〜80年代の欧米で使われましたね。
当時の意味は、校内暴力とか、若いストリート・ギャングとかの
いわゆる“理由無き”集団暴力に使われていました。
72世界@名無史さん:02/06/02 15:43
>>69
>西ローマに対し、ゲルマン人はただ攻撃を仕掛けるだけだったのでしょうか?
いつの頃の話かによるけど。
ただ攻撃を仕掛けてただけってわけでもないが。
でも武力制圧も攻撃に含めるなら、ずっと攻撃的だったかな。

>ゲルマン人たちと西ローマが共存することはできなかったのでしょうか?
僭称帝を擁立したり、イタリア半島を武力制圧したりすると、東ローマがちょっかいかけてくるから(武力行使だけでなく、外交攻勢なども)、平和共存は結局無理だったと思うけどな。

>>69のイメージは、そういう話と違うのかな??
73世界@名無史さん:02/06/19 09:00
あげてみる
74世界@名無史さん:02/06/19 22:57
西ローマ帝国、東ローマ帝国なんていうのは後世に作られた言葉だよね?
当時の連中はお互いになんて呼び合ってたんでしょう。
75世界@名無史さん:02/06/19 23:45
これ、英語で言うとイースタン、ウエスタンなんだよ。
イースト、ウエストだと2つある何々の東何々、西何々。
イースタン、ウエスタンってのは1つの何々の東側、西側。
つまりお互いに「ローマ」を主張した東の政権と西の政権。
「東のローマ」「西のローマ」じゃないんだね。
76世界@名無史さん:02/07/19 16:06
西ローマの帝冠はどこにあるのでしょうか?
77世界@名無史さん:02/08/07 22:09
>>76
たぶんオーストリア、シェーンブルン宮。確証はない。途中壊れて作り直しているはず。
78世界@名無史さん:02/08/07 23:09
>>75
本願寺みたいだな。
79世界@名無史さん:02/08/08 06:13
>>75 >>78
東本願寺、西本願寺はそれぞれ独立した寺院。
むしろ左派社会党、右派社会党。
80ねこが好き:02/08/10 17:48
興味深い文章を見つけたので紹介させて。
朝日新聞社刊 地域からの世界史13 西ヨーロッパ上
P62−63
「教皇レオ3世が西暦800年・・・・フランク国王カール1世(大帝)
を・・・・戴冠したとき、西ローマ皇帝が蘇った。この事件はいくつかの点
で興味深い。ひとつは、歴代のメロヴィング王朝の国王が、皇帝の称号を帯びる
ことなくローマの支配の自然な継承者の意識を持ちつづけてきたのに対して、
8世紀の・・・・カロリング家の国王は、ローマは遠く・・・・認識していた。
(中略)ゲルマン民族の侵入が西ローマ帝国を倒したとする、今日でも通用している
見方はカロリング期に書かれた歴史書によって初めて唱えられるのである。
すでにのべたように、現実には少なくともガリアでは、「侵入」とは長期にわたる
融合の過程でしかなかった。メロヴィング期の史書はいずれもそのように事態を
理解していた。(後略)」ゴメンネ引用長くて。

(シロウトである)私も同感なんだ。高校で476年西ローマ帝国滅びると
教えてもらったが、ピレンヌさんの言うように、行政(徴税)組織はそのまま、
貿易や手工業もそのまま。トップだけが替わっただけ。皇帝の簒奪と同じ。

だから今ではローマが滅びたという考えはしていない。時代による変貌と思う。

で、
疑問1)
リコメル、スティリコ、メロバウデス、ガイナス、フラウィッタ、
アルボガスト、バウト、シルウァヌスなどゲルマン人が最高位(コンスルなど)に
ついている。(たぶん、部族長や王族出身とおもう。)これ等の人々と、出身部族
との関係がわからない。アラリック、ガイゼリック、テオドリック、クローヴィス、
グンドヴェックなどとどのような親戚関係なのだろうか?

次、
疑問2)
司教座とよばれる独特の権力組織がある。末期ローマ帝国時代のどのような
位置づけなのか?帝国地方行政長官として都市伯(コメスキウィタティス)が置かれた
そうだが、それとの関係?

ご存知の方、ご教示願う。
長々とゴメン。(まだまだ疑問はいっぱいあるんだ)
81素人ヲタ:02/08/25 23:37
ローマ貴族の家系はもうほとんど存在しないのであろうか?
以前、現代イタリアのマッシモ家というのは古代ローマにさかのぼれる
という話を聞いたが・・

ローマ貴族の血をなんらかの形でひいている人間はいろいろいるだろうが
家系図的にちゃんとたどれる人はもうほとんどいないのかな。
(イタリア、ガリア、ヒスパニア、ギリシアなど全部ひっくるめて)

イタリアでは、多くの家系は、ユスティニアヌスの対東ゴート戦争とランゴバルト族の
侵入で没落したのだろうが・・
82世界@名無史さん:02/09/10 22:57
age
83 :02/09/10 23:45
>>74 >>75
というか、同一のローマ帝国の分担統治という意識があったんだよ。

ロムルス・アウグストゥルスが退位したのは、東皇帝から見れば
(東からは正確にはネポスまでが正統皇帝だが)、西半分を担当していた
皇帝がいなくなって、西半分も東皇帝の担当領域になったという認識
だったでしょう。
だから、名目上は、オドアケルもテオドリクも、コンスタンティノポリスの
皇帝の代官ということになっていた。
皇帝の権威をイタリアで認めなくなったのはランゴバルト王国から。
84世界@名無史さん:02/09/17 08:26
age
85アマノウヅメ:02/09/17 08:33
>>81
インチキなローマ貴族の末裔がごろごろいるんじゃないかと思いますが。
私の実家は清和源氏ってことになってるし。
86世界@名無史さん:02/09/17 08:40
>>81
西ローマ帝国が崩壊するよりも前に、
贅沢淫乱享楽的な生活によって、
子どもを作らなくなり、家系が絶えた家が多い。
本来いた土着ローマ市民の血統は絶えて、
連れてこられた異民族出身奴隷が
ロマンス語・キリスト教化し(さらに侵入した諸民族と混合し)、
現在のイタリア人になった。
87世界@名無史さん:02/10/04 22:14
ローマ元老院って西ローマ滅亡後も存続したと聞くけど、
いつ頃まで続いてたんですかね。
東ゴート王テオドリックの頃には存在を確認できるけど
その後はどうなったんですかね。
ユスティニアヌスに解散させられたんですかね。
88世界@名無史さん:02/10/04 23:09
>>87 コンスタンティノポリスの陥落(1453)まで存続した。
89世界@名無史さん:02/10/04 23:15
いまだにアメリカに・・・
90世界@名無史さん:02/10/04 23:50
>>87
>ユスティニアヌスに解散させられたんですかね。

ユスティニアヌス時代のローマ市奪回の戦争などで、ほとんどのローマに残っていた
元老院議員たちは没落した
91世界@名無史さん:02/10/19 00:55
age
92 ◆cRTasLFUB6 :02/10/19 08:47
歴代ローマ皇帝をマターリと語ろう
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1029005317/
93世界@名無史さん:02/10/19 14:20
ローマ帝国末期には、ストア学派や新プラトン主義が広まってますよね。
たとえば新プラトン主義の哲学者プロティノスは、肉体を持っていることを恥じ、
肉体自身が魂の模像であるのに、摸像の摸像である肖像画を描かせることなど
馬鹿げているとし、決して肖像画のモデルになることを許さなかったとか。

こういう下地があったからこそ、キリスト教がローマ帝国に広まったのかな。
94世界@名無史さん:02/11/02 00:47
age
95世界@名無史さん:02/11/15 09:06
age
96世界@名無史さん:02/11/30 15:51
age
97世界@名無史さん:02/12/21 03:11
関連スッドレ

西ローマ滅亡後のゲルマン人国家とその王たちを
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1030897172/l50
98世界@名無史さん:02/12/21 08:18
あげ
99あぼーん:あぼーん
あぼーん
100総督:03/01/03 03:54
>>88
それは驚いた
101山崎渉
(^^)