1 :
イシュトヴァーン :
2001/08/19(日) 16:57 ハンガリーについてのスレがなかったから、建ててみたよん。 2000年はハンガリー建国1000年。 みんな、ハンガリーについて語ってくれ。
2 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:01
ハンガリー人、つまりマジャール人と日本人とは、同族です。 マジャール人の祖先がアジアに住んでいたころ、東に行ったのが日本人で、西に行ったのがマジャール人なのです。 それゆえにハンガリー語と日本語とはくりそつです。
3 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:01
3よ。おまえがしね。 おれの理論的な説明に対抗できないからといって、意味のないカキコをするな。
5 :
ヨーナ・ラウッカ :2001/08/19(日) 17:11
同族の定義って言語族レベルの話だろ?
人種と混同する馬鹿がいるから注意しろよ
>>4 それくらい知ってると思う
6 :
ヨーナ・ラウッカ :2001/08/19(日) 17:12
7 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:14
現代ハンガリー人のDNAは他の東欧諸国となんら変わりない 言語ルーツが同じだからと言って親しむのは結構だが あっちはそうでも無いことを言っておこう。
8 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:14
ハンガリー料理って日本で食える場所アル?
9 :
2(参考) :2001/08/19(日) 17:16
フィンランド人が「アジア系」であると言われるようになった理由は、 単純明解である。まず,同じくアジア系とされるハンガリー語や, フィンランド湾の対岸のエストニア人の話すエストニア語とともに, フィンランド語がウラル系と呼ばれる言語のグループに属しているこ と,ウラル系の言語は,トルコ語やモンゴル語が属するとされるアル タイ系の言語グループと親戚関係にあると考えている学者がいること ,この2点はよく知られている。ちなみに,日本語もアルタイ系だと する説があって,もしこれが正しければ,フィンランド語やハンガリ ー語が日本語の遠い親戚である可能性もゼロとは言えない。アルタイ 系のトルコ語やモンゴル語は,もちろん「アジア系」の言語であるか ら,親戚関係にあるウラル系の,フィンランド語も,当然,「アジア 系」ということになる。かくして,「アジア系」の言語を母語とする フィンランド人は,「アジア系」の民族であるという結論にたどりつ く。 要するに「アジア系の言語を母語とするから,民族としてもアジア 系だ」というのが,「フィンランド人アジア系」説の根拠となってい ると考えてよかろう。さて,この「言語がアジア系だから,民族もア ジア系」という,この一見もっともな理屈を世界の他の地域にもって いって当てはめてみると,いささか滑稽なことになる。たとえば,イ ンド人の多くが話すヒンディー語は,系統的には,英語・ドイツ語・ フランス語といった西ヨーロッパを代表する言語と同じインド・ヨー ロッパ系の言語であることがわかっているが,では,ヒンディー語を 話すインド人は,「ヨーロッパ系」の民族なのだろうか。また,イン ド・ヨーロッパ系の言語の代表であるサンスクリット語は,インドの 言語であるから,「アジア系」の言語である。したがって,サンスク リット語と同じ系統にあるフランス語や英語は,「アジア系」の言語 であり,ゆえに,イギリス人やフランス人は「アジア系」の民族とい うことになるのだろうか。これは,私たちがふつう抱いている考え方 と比べると,ずいぶんと突飛な結論である。
10 :
2 :2001/08/19(日) 17:17
よって2のDQNぶりが証明された。
11 :
2じゃんくて俺は3だ :2001/08/19(日) 17:19
よって先の9・10は常識ある俺3の答えだ。
お馬鹿な
>>2 は死ね
12 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:19
西欧人と東欧人のDNAって違うの?
13 :
3 :2001/08/19(日) 17:22
ここで,いや,ヨーロッパ人とアジア人は人種が違うから,肌の色とか 髪の毛を見れば,インド人がヨーロッパ系でないことや,フランス人が アジア系でないことは明らかだとする反論がありうるが,この理屈は 「フィンランド人アジア系」説には,圧倒的に不利である。なぜなら, どんなに頑固な人でも,フィンランド人を一目見たら,ヨーロッパ系と 認めざるを得ないからだ。ちなみに,遺伝子研究でも,フィンランド人 の多くは,日本人が典型的な欧米人と考える北ヨーロッパ系の白人と人 類学的にいちばん近いことが明らかにされている。つまり,フィンラン ド人は,人類学的に紛れもないヨーロッパ人でる。さらに,宗教の点で も,フィンランドの住民のほとんどはプロテスタントだから,文化の面 でも,正真正銘のヨーロッパ人と結論せざるをえず,「フィンランド人 アジア系」説は成り立たなくなってしまう。 「フィンランド人アジア系」説の根拠となっている「フィンランド語 はアジア系」という考え方は,歴史的には,言語の優劣,さらには, その言語の話し手であるフィンランド人の民族としての優劣の問題と結 びつけて論じられることが,少なくなかったから,ことはやっかい。
14 :
2 :2001/08/19(日) 17:24
いいじゃねーか。 信じようぜ。 ハンガリーと日本人とは同族だって。 ほんとだって。
15 :
8 :2001/08/19(日) 17:25
ハンガリー料理って美味いの?
16 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:26
ハンガリー人ほアジア人が嫌いだと聞いたが。
17 :
3 :2001/08/19(日) 17:28
3よ。おまえがしね。 おれの理論的な説明に対抗できないからといって、意味のないカキコをするな。 プ
18 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:29
>>14 信じる信じないの問題じゃないんだが、、、、
19 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:35
20 :
自転車小僧 :2001/08/19(日) 17:36
あの〜。皆さんはハンガリー語を学習したことあるんですか? それから、ハンガリー人に会ったことあるんですか? ハンガリー語と日本語が同族と言っている時点でハンガリー語を 知らないことが丸分かりです。 まず、日本語とハンガリー語で共通する語彙なんて物は偶然の一致くらいにしか存在 しません。 語順もSOVとヨーロッパの他言語と同じ、人称変化や目的語を含む動詞変化、時制、 単数・複数の概念など日本語とはかけ離れたものばかり。 それに、ウラル=アルタイ語族というのは今では存在を否定されています。 ウラル語族をいまはフィノ=ウゴル語族と言うのが普通。 納得いかないようでしたら、後で例文を書きますが。
21 :
2 :2001/08/19(日) 17:37
やはり3は駄目人間。日本語も解していない。
22 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:39
23 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:43
24 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:44
┌─────────┐ │ 自転車小僧警報が | │ でています。 | └―――──――――┘ ヽ(´ー`)ノ ( へ) く
25 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:45
┌─────────┐ │ 自転車小僧警報が | │ でています。 | └―――──――――┘ ヽ(´ー`)ノ ( へ) く
26 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:45
27 :
2 :2001/08/19(日) 17:47
例文出してみろ。
28 :
2 :2001/08/19(日) 17:48
語順違うじゃねーか。 ヨーロッパ語の語順 わたし 行く へ 大阪 I go to Osaka ハンガリー語の語順 わたし 大阪へ 行く En Osakara megyek.
29 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:52
フィンランドでは現在、自国語を恥ずかしい言葉だと思っている
30 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:53
>>29 なんで?
31 :
ソース :2001/08/19(日) 17:58
Suomen kieli kuuluu uralilaiseen kielikuntaan, ja sen sukukieliä ovat muiden muassa viro ja unkari. Nämä kolme ovat samalla ainoat uralilaiseen kielikuntaan kuuluvat kansalliskielet Euroopassa. Uralilaiset kielet ovat rakenteeltaan agglutinoivia, ja ne poikkeavat selvästi indoeurooppalaisista kielistä, joita puhutaan joka puolella niiden naapureina. Suomen kieli on Suomen tasavallan ehdoton enemmistökieli, jota puhuu äidinkielenään 93 % kansalaisista. Suomen lisäksi suomen kieltä puhutaan sen kaikissa naapurimaissa ja muiden muassa USA:ssa, Kanadassa, Australiassa ja Saksassa. Ruotsissa suomella on virallisen vähemmistökielen asema. Yhteensä suomen puhujia on eri puolilla maailmaa noin 5,5 miljoonaa.
32 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 18:06
わかんない。
33 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 18:17
34 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 18:19
35 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 18:23
34へ。 自転車小僧はもういないと思われ。
36 :
世界@名無史さん :2001/08/19(日) 18:57
ハンガリー人が馬を操っているのを見ると、アジア系遊牧民族だったんだなと 思うね。 あと、僕があったハンガリー系カナダ人は、なんかインド人のような雰囲気の 顔つきしてた。モンゴロイドとコーカソイドの混血だという感じがするね。
モンゴロイド?
>>28 曖昧な記憶だが、ラテン語は語順自由で基本語順はSOVだったはず。
絶対SVOじゃなきゃいけないのは英語とかフランス語とかのほうが例外なんじゃ?
>>37 コーカソイド。
39 :
自転車小僧 :2001/08/20(月) 20:35
>2 おみゃ〜さん、言語学も歴史学も知らんようですな。 >わたし 行く へ 大阪 >I go to Osaka S V (前置詞句) >ハンガリー語の語順 >わたし 大阪へ 行く >En Osakara megyek. S (後置詞句) V 普通、語順の比較をするときには自動詞文ではなく他動詞文の語順で比較するの! 例文:(En) olvas-ok egy konyv-et. 私(主格)読む-1人称単数現在 不定冠詞 本-対格語尾 S V O Level-et ir-ok neki 手紙-対格語尾 書く-1人称単数現在 彼に (S) O1 V O2 純粋にSVOとは言いにくいが、日本語と語順が違うことは分かると思う。 *長音記号やウムラウトは省略してます。 古代ハンガリー語の研究書を読んだが、やはり日本語ともモンゴル語とも 似ても似つかんものだったのを覚えている。 >31 在外フィンランド人からのメールですか? 何かインドヨーロッパ語族がどうの、フィンランドは93%フィンランドでしか 話されないの、フィンランドは550万人しか話さないのと余り意味のない内容 ですね。これがフィンランド人全体の意識とは思いませんが。 サーミ人はサーミ人であることに誇りを持っているし、サーミ語を話すことを 誇りに思っているようだが・・・。 >34 そうとも言う。ウラル語族と言う言い方をしない学者もいるのであえてそうした だけ。 >38 その通り、ラテン語はSVOでもSOVでも、へたすりゃVSOでも良い。 ここでまじレス ハンガリーはフン族の子孫と言う意味でHungaryと呼ばれるが自称はMagyarて、 皆知ってるか。 アジアとの関係で言えば、匈奴が西へ行ってフン族になりその子孫がMagyarに なったと言う説があるが、未だ証明されていない。 アジア系と言えば、ブルガリアもモンゴル系?のブルガル族が西へ移動し、スラ ブとの混血でブルガリア人になったそうだ。 ところで、匈奴は日本へ来たのかな?>2
40 :
世界@名無史さん :2001/08/20(月) 20:40
フィンランド語はウラル語族に属し,エストニア語およびハンガリー語と同族である。 ウラル語族のうち上記の3言語のみが,ヨーロッパでは国語としての地位をもつ。 ウラル語族は特性として膠着語であり,近隣諸国の印欧語族言語とは著しい相違点をもつ。 フィンランド共和国人口の93%が母国語として使用しているフィンランド語は同国では 圧倒的な優位言語である。隣接する諸外国でもフィンランド語人口は存在し, さらに,アメリカ合衆国,カナダ,オーストラリア,ドイツでもフィンランド語人口 が存在する。スウェーデンではフィンランド語は少数派の公用語である。これら フィンランド語人口は世界各所でおよそ550万人に達する。
41 :
世界@名無史さん :2001/08/20(月) 20:45
42 :
名無し :2001/08/20(月) 21:33
アヴァール人てイコールフン族なんですか? >8.15 寂しい・・・。
43 :
世界@名無史さん :2001/08/20(月) 22:25
ハンガリー料理というとグラーシュスープとかかな? トマト風味のやや利いた、汁気たっぷりのビーフシチュー。 オーストリアに旅したときに食べただけですけど、 日本でハウスとかのルーでよく作るアレに すごく似てるので、ある意味懐かしい感じの料理でしたよ。
44 :
世界@名無史さん :2001/08/20(月) 22:57
煮込み料理が多いって言うよね・・・
45 :
世界@名無史さん :2001/08/22(水) 20:39
19世紀末のブダペストは面白そうだ。 電話でニュースを聞かせてくれる商売があったらしい。
46 :
自転車小僧 :2001/08/22(水) 21:20
ハンガリーはボールペン、ルービックキューブ、電動式エレベーター?を発明した 国でもあります。
47 :
世界@名無史さん :2001/08/22(水) 21:29
数学者がらみで、結構、いいコンピュータ・エンジアニア輩出してるよ。 ハンガリー。 あとヴィルモス・ジグモントとか、56年がらみで逃げてきた芸術家も 多いな
48 :
世界@名無史さん :2001/08/22(水) 21:35
http://www.asahi-net.or.jp/~SJ7S-FKY/Pages/Japanese_Pages/Daigaku/Too_Koosu/Toooo_Koosu.html >ユーラシア大陸で最初の地下鉄が走ったのは地下鉄で有名なパリでも、
オーストリア=ハンガリー二重君主国の帝都であったヴィーンでもなく、
ハンガリーのブダペストでした。
ノーベル賞受賞者が子供時代を過ごした町で一番多かったのもブダペストです。
ボールペンを発明したのも、操縦可能なヘリコプターを発明したのも、
ラジオや電話交換機を発明したのもハンガリー人です。
敦煌を発見した探検家のシュテイン・アウレール(サー・オーレル・スタイン)、
初めてチベットに潜入してチベット仏教を研究し、最初のチベット語英語辞書を著した
ケーレシュ=チョマ・シャーンドル、非ユークリッド幾何学の創始者ボーヤイ・
ヤーノシュもハンガリー人でした。アメリカが日本に原子爆弾を投下するための
マンハッタン計画に携わっていた主要科学者達(テッレル・エデ、シラールド・レオー、
ヴィーグネル・イェネー、ナイマン・ヤーノシュ)もハンガリー人科学者達でしたし、
第二次世界大戦後水爆を開発したのもハンガリー人科学者のテッレル・エデ
(エドワード・テラー)でした。我々が日頃悩まされている「ストレス」を発見した
シェイェ・ヤーノシュ(ジョン・セリエ)もハンガリー人ですし、
皆さんのクレジットカードに印刷されているホログラムを発明してノーベル賞を
もらったガーボル・デーネシュ(デニス・ガバー)もハンガリー人です。
コンピューターの父と呼ばれているナイマン・ヤーノシュ(ジョン・フォン・ノイマン)
もハンガリー人ですし、プログラム言語BASICを開発したケメーニ・ジェルジュ
(ジョージ・ケメニー)も、そして現在世界中のパソコンの頭脳であるCPUを
製造しているインテル社の会長のグローフ(グローブ)氏もハンガリー人です。
現在世界の経済を動かしている投資家のショロシュ・ジェルジュ(ジョージ・ソロス)
もハンガリー人ですね。
49 :
47 :2001/08/22(水) 22:28
そうだそうだ。BASICのその人
50 :
世界@名無史さん :2001/08/23(木) 00:40
>>8 やや亀レスだが、東京の自由ヶ丘の、自由ヶ丘デパートの3Fに、
「カントリー」という店がある。結構歴史がある店らしい。
51 :
世界@名無史さん :2001/08/23(木) 02:47
>>39 小僧さんえ?よ、自転車さん、ひさしぶりだなあ?
>ハンガリーはフン族の子孫と言う意味でHungaryと呼ばれるが自称はMagyarて、
>皆知ってるか。
これはまったくの俗説で間違いであることが言語学大辞典にものっています。
あなたはご覧にならなかったのでしょうか?
もともとラテン語だかなにかで川の名前の「オンガル」だかなんだか忘れま
したが、それがもとになって後世になってHの音がくっついて「HUN」に
なったのを、たまたまフン族とこじつけたのが、始まりの俗説。
>アジアとの関係で言えば、匈奴が西へ行ってフン族になりその子孫がMagyarに
>なったと言う説があるが、未だ証明されていない。
これは、最近の歴史学では否定的な意見が主流です。あなたこそ歴史学を
知らないだけですね。
52 :
世界@名無史さん :2001/08/23(木) 04:21
ハンガリー出身のアメリカ人までハンガリー人に含めるなよ。
53 :
世界@名無史さん :2001/08/23(木) 04:30
というか、それらのほとんどがユダヤでしょ?
54 :
○ :2001/08/23(木) 07:08
>>53 同意。学問の世界で成功したハンガリー出身者の大半はユダヤ系ですね。
55 :
梵阿弥 :2001/08/23(木) 09:14
>>51 他でも書いたけど、今は南ウラルに住むオノグル人の一部がドニエプル下流から
パンノニアに定着したのがマジャル、他称ハンガリですな。
頭にHが付くのは、俗ラテン語はHを発音しなくなったことと関わるようです。
マジャルの名はモンゴルと関わるようです。
56 :
世界@名無史さん :2001/08/23(木) 14:15
友人のハンガリー人に聞いた話。 共産党政権の崩壊後総選挙が行われ初の民主的議会では、 国章に王冠を入れるか入れないかで大モメして審議ストップしたそうな。 約1年に渡って国章問題で他の問題そっちのけ。 おかげで経済ガタガタになったそうな。 ちなみに最終的に王冠が入ったって。
57 :
世界@名無史さん :2001/08/23(木) 16:58
所詮オスマン・トルコやハプスブルクの属国
58 :
世界@名無史さん :2001/08/24(金) 00:42
>51 おっしゃるとおりマジャール人はフン族の末裔ではありません。しかし、彼らの 民族伝承では彼らをパノニア平原に導いた族長アールパードはフン族の大王であ るアッチラの末裔だということになっているそうです。中世の年代記等でもそう いう記載になっているそうで、アールパード家の王たちは自分たちはアッチラの 子孫と信じていたのでしょう。 ちなみに現在のハンガリーでアッチラという名はけっこうポピュラーですが、こ れは中世のそれとは関係なく近代になってハンガリーらしい名前ということで名 づけるのがはやりになった名残だそうです。 >57 モハーチの敗戦以後はおおせのとおり。しかしアンジュー家のカーロイ・ロベル ト王やラオシュ大王の時代は強国でしたし、有名なマチャーシュ・コルヴィヌス 王はウイーンを攻略したりもしています。
59 :
世界@名無史さん :2001/08/24(金) 02:12
トカイワインは(・∀・) イイ!ミュージアム、いつか飲んでやる!
60 :
世界@名無史さん :2001/08/24(金) 05:15
2のアホや言語知識の自慢好きな自転車小僧のアホ のせいでせっかくの場が台無し寸前になったね。 でも、他の方々のおかげでようやく仕切りなおし できたみたいね。 ハンガリーといえば、東欧革命! 現代史に対する貢献度は高い。
61 :
↑ :2001/08/24(金) 13:43
ハンガリーといえば僕たちにとっては反スターリン主義の労働者評議会成立だったけど。 ブダのモスクワ広場の建物には、まだ1956の銃弾跡が残っていた・・・・。 広場の下にはロマ?かどうか知らないが貧しい露天市が。スラブ人村にいく電車はここで乗り換えるのよね。 それから、チェコなら「抵抗のプラハ」だろうけど、ハンガリーなら「ハンナ」かな。 ファシスト政権がハンガリー。緑色インターのひとつの帰結だな。
62 :
世界@名無史さん :2001/08/24(金) 14:26
>>56 ポーランドでも同じ事があった。しかし、ワレサが第二代大統領になった時、
国章に王冠を持たない統一労働者党の政権からでなく、王冠を持つロンドンの
亡命政権から政府を引き継いだという形式をとったので、この場合正当性があった。
このときロンドンの政権は公式に活動を停止した。
63 :
梵阿弥 :2001/08/24(金) 16:41
ナジ・イムレ首相の顔写真を見たら、頭まん丸顔のっぺりで。 首相を出すような家の人は東方の血が濃かったのではないか。
64 :
maro' :2001/08/24(金) 17:12
大戦中の矢十字党やミキ・ホルティについて突っ込んで 調べるには何か良い本はありますか?
65 :
世界@名無史さん :2001/08/24(金) 17:14
>>64 日本語に訳されている読みものはロスチャイルドの「現代東欧史」かな?
66 :
世界@名無史さん :2001/08/24(金) 17:30
>>65 のは東欧諸国の相互関係がつかめてよろしい。
67 :
世界@名無史さん :2001/08/25(土) 00:58
>61 昨年ハンガリーを訪れたときちょうど1956の革命記念日だった。 そのとき戦った老兵たちが花束を手に国会前に集まっていた。 カメラを向けるのがはばかられるような厳粛な雰囲気だった。 >64 ハンガリーのコルヴイナ出版のサイトでフリーブックがダウンロード できるが、その中にその時代を扱った本があるはず。 英文なのでまだなんとかなるのでは。
68 :
世界@名無史さん :2001/08/25(土) 01:15
ハンガリー建国に関する面白い本はありますか?
69 :
世界@名無史さん :2001/08/25(土) 12:36
>68 ハンガリー史については残念ながら恒文社のハンガリー史がほぼ唯一の存在。 国内ではあとは断片的な記述をあちこちから拾うしかないのでは。 英文の書籍なら>67のいうコルヴイナのサイトで読めます。 スピリット・オブ・ハンガリーとかいう本が読み物的には面白いと知人から聞いた ことがある。
70 :
世界@名無史さん :01/08/27 11:20 ID:l3yEErQQ
日本人の東欧関係の知識の貧弱さは、少し深刻かもしれない。 いみじくもヒトラーが国内へのプロパガンダに使用した「東欧の若い国々の民族には 堕落した西欧にない活力がある。これからは東欧の諸民族が台頭してくる。」と いうようなことが、現実に今、起きている。 EU加盟後のEU議会における議席数は既に候補国各国ごとに決定されているが、 その数字を見れば、東欧の政治力と、教育レベルの高さから来る潜在的な経済力が 巨大であることが判る。
71 :
世界@名無史さん :01/08/30 00:54 ID:qpZeCa4k
>69 恒文社の「トランシルバニア」コッシュ・カーロイ著にも初期のハンガリー についての記載がある。 あとはいろいろな書籍から記述を拾うか、英文書籍に挑戦かしかなかろう。
72 :
酔鯨ジョーカー :01/08/30 08:35 ID:4jHydex2
ハンガリー人のポルノ女優やヌードモデルは国際的に活躍しているよ。
73 :
世界@名無史さん :01/08/31 01:03 ID:dWi0yiNk
>72 例のチッチョリーナもそうだっけ? マジャール人て美人が多いのか?
74 :
世界@名無史さん :01/08/31 13:41 ID:idJWorC6
>>73 チッチョリーナがハンガリー系かどうかしらんが、
彼女を美人だと思う君はかなりイタイ。
75 :
世界@名無史さん :01/09/01 00:36 ID:ST8FULGc
>74 73だが、誰も美人とは思っていないよ。 いくらなんでもそこまで悪趣味ではないぞ。。
76 :
世界@名無史さん :01/09/01 01:17 ID:5/11zh8k
チッチョリーナは旧ユーゴ出身のはず。 若い頃は、村一番の美人で、近隣地域でも評判だったらしい。 で、「先進国イタリア」(<ユーゴからみりゃ、すごい先進国)に 行って、ポルノ女優になっちゃった。 白人の美人は、若い頃はウソみたいに美しいけど、 そんな人でも年を食ったら「魔女」になっちゃう(笑) ちなみにシルヴィア・セイント(ポルノ女優)はチェコ人だよね。 ハンガリーの隣国。
チチョリーナも、イロナ・スターラとして池田満寿夫の 「エーゲ海に捧ぐ」に出演してた頃は、それなりに若く て綺麗だった。 世界史に関係ないので、sage。
78 :
Cavabien :01/09/01 08:28 ID:7O3o5/qQ
ハンガリー史という事なら 恒文社「ハンガリー史」 白水社文庫クセジュ「ハンガリー」 の2冊でしょうか。 後者は価格的に入手しやすいと思います。
79 :
世界@名無史さん :01/09/02 00:25 ID:oUyE0a8Q
>76 魔女以外にトドになるという道もある。 なんであんなに変身してしまうのか・・・・。 >78 たしかにそうなんだけど内容が簡単すぎるように思う
80 :
Cavabien :01/09/02 00:29 ID:Ft3A7Ye6
ええ、実際簡単です。
>>79 サン
まぁ初心者も見るであろうと言う事で・・。
81 :
世界@名無史さん :01/09/02 01:00 ID:hi8hVml.
でも枠をハンガリーで区切った通史ってそれくらいしかないんじゃない? 山川世界各国史(新版)だと「ドナウ・ヨーロッパ史」に入れられてるし。
82 :
世界@名無史さん :01/09/03 00:47 ID:RR74Evjo
>81 そのとおり。チェコなんかクセジュ以外通史もないのであるだけマシかも。 ルーマニア史も絶版だし。
83 :
世界@名無史さん :01/09/07 01:41
>81 そういえばまともな辞書もない。唯一あるのははるか昔の焼き直しで しかも価格は4万円
84 :
世界@名無史さん :01/09/07 06:18
>>83 大阪外語大のハンガリー語専攻ではどうやって勉強してるんだろ?
その辞書使うのかな?
85 :
世界@名無史さん :01/09/07 11:20
>>81 -82
恒文社のがあるんじゃないか?
現地の学者が書いた奴の翻訳シリーズ。
印刷がセコイ癖に1万円ぐらいする高いやつ。
86 :
トルコの駆逐 :01/09/07 16:50
モハーチの戦い(1526)以来、ハンガリーに侵入したオスマン・トルコ軍は、 その余勢を駆って、ハプスブルク軍と戦いを交えると共に、ウィーン攻略を企図したが、 成功しなかった。1682年、メフメト4世のトルコ軍20万は、 大宰相カラ・ムスタファ・パシャの指揮の下に、ハプスブルク帝国内部の紛争に乗じて 攻撃を開始した。1683年7月、トルコ軍はウィーンを包囲したが、 ヤン・ソビエスキーの率いるポーランド軍およびその他の国々からの援軍により、 9月12日トルコ軍は撃退せられ、ベオグラードまで退くの止むなきに至った。 そこでカラ・ムスタファは敗戦の責任を問われて処刑された。 1684年、ローマ法皇インノケンティウス11世の提唱により、オーストリア、 ポーランド、ヴェネツィアおよびロシアの神聖同盟が形成せられ、オーストリアと フランスとは20年間の平和条約を締結する。トルコ軍はこれらの連合軍によって 西部のオーストリア国境の到る処で撃破せられ、1686年の夏にはブダ、 1687年にはトランシルバニアが、それぞれトルコから解放された。 1697年、ゼンタの戦いで、トルコ軍は大敗を喫し、1699年1月28日 カルロヴィッツ条約が調印された。この結果、オーストリアはトランシルバニアを領有し、 テメスヴァル州はトルコ領にとどまった。斯くしてハンガリーのほぼ全域が ハプスブルク家の領土となり、ヴェネツィア、ポーランド、ロシアも若干の領土を獲得した。
87 :
酔鯨ジョーカー :01/09/07 21:00
ハンガリーはトルコのバルカン上陸の際にもブルガリアと共にトルコと戦ったよね(敗れたけど)。それはそうと、ハンガリー人のマンコはデカいよ。
88 :
世界@名無史さん :01/09/07 21:22
王国なのに王が存在せず 内陸国なのに摂政が海軍提督だった ハンガリー万歳!
89 :
世界@名無史さん :01/09/08 01:17
>85 あります。その本以外にないか?という話なのですよ。 内容も古いし新しい本がほしいけど売れないのでしょうな。 >87 ヴァルナとコソボの戦いですな。 しかしベオグラードでは大勝して、いまでも勝利を記念して教会は正午に鐘を ならします。 >88 悪い冗談みたいだけど事実なんだよね。 ホルティって旧オーストリア・ハンガリー海軍の司令なんですよね。 トラップ大佐の上司になるのか。
90 :
世界@名無史さん :01/09/08 18:08
もうシメオン2世の組閣は終わってるんだろうけど、 どういう人事になったのかな?
91 :
世界@名無史さん :01/09/08 23:45
>90 それはハンガリーじゃないよ
92 :
世界@名無史さん :01/09/09 22:56
ホルティの子孫ってどこでどうしてるんだ? 本人は亡命したはずだが、ブルガリアみたいに帰ってこいよ〜
93 :
世界@名無史さん :01/09/09 23:52
遊牧民族が単一民族・人種であることは有り得ない フンやアヴァールやモンゴルも色々な部族・人種の混じりあった両同体なのだ
94 :
世界@名無史さん :01/09/09 23:55
フンに族していた者の末裔がマジャールになったりしていたとしても不思議ではない
95 :
世界@名無史さん :01/09/10 00:23
>94 そういう者がいても全く不思議はない。 そもそも、パンノニアに入ってきた時点でも根拠地を襲撃されての 逃亡だったので男所帯だったとかいう話もある。 後にもクマン人を領域内に受け入れているし、モンゴルの侵攻後は 荒廃した国土に移民を積極的に受け入れている。 王にしたところでアールパード家断絶後は外国から迎え入れている ので、くっついてきた家臣も多かろう。 純粋に元からのマジャール人が今どのぐらいいるのだろうか。
96 :
世界@名無史さん :01/09/10 00:32
クマン人だけじゃなくアバール人や カバール人(ハザール人の支族)も 含まれていると思われ。
97 :
世界@名無史さん :01/09/10 11:23
基層住民(平民)と王族が、侵略した遊牧民のマジャール人。そこに農耕を知っていたスラブ人が 多く同化し、マジャール人と共に士族(貴族)階級および平民を形成した。そのため マジャール人はパンノニアに定住し、多くが農業を覚えていった。
98 :
世界@名無史さん :01/09/11 00:57
>94 貴族にしてもクロアチア人(ズリーニ家)ドイツ人(バートリー家) スロベニア人(ツィレイ家)ルーマニア人(フニャディ家)等いろいろ。
99 :
世界@名無史さん :01/09/11 01:04
キンスキー家についてご存知の方いましたら御教授願います!
100 :
世界@名無史さん :01/09/12 00:47
>99 プラハに館のあるキンスキー家かな? ハンガリー貴族じゃないはずだが。
101 :
世界@名無史さん :01/09/17 21:06
ハプスブルク家はまだ国籍は取得してないの?
102 :
カウニッツ@99 :01/09/17 22:30
>>100 さん、キンスキー家って、ハンガリー貴族ではなく、ベーメン貴族だったんですか。
どうもです。
103 :
世界@名無史さん :01/09/18 00:59
>101 ハンガリー在住の方もおられるはず。先日、どなたかにお子さんが生まれた という話がありました。
104 :
世界@名無史さん :01/09/18 01:43
105 :
世界@名無史さん :01/09/25 06:40
106 :
世界@名無史さん :01/09/27 01:38
>105 はて?ハンガリーの左翼運動ですか・・・・。
>1 :イシュトヴァーンさん > 2000年はハンガリー建国1000年。 > みんな、ハンガリーについて語ってくれ。 正確には、“ハンガリー建国”一千周年ではなく、“ハン ガリー王国成立”一千周年ですね。西洋社会では「王」 (rex) という称号は勝手に名乗れず、ローマ法王からその 称号を授けられる必要があるわけです(だから、ヨーロッ パには未だに君主国なのに王国ではなく大公国とか公国と かがあるわけですね。歴史的な日本語の用法に従えば、こ れらはすべて「王」となります)。で、ハンガリー公国の イシュトヴァーン公(イシュトヴァーン、すなわちラテン 名ステパノは霊名であり、本名はヴァイクと称した)が、 めでたくローマ法王から王冠を授けられて、教会法上めで たく「王国」に格上げされたイシュトヴァーン公の戴冠式 が行われたのが、(第一千年紀である)9世紀の紀元1000 年12月25日の水曜日(長保2年11月21日)または(第二千 年紀である)10世紀の紀元1001年1月1日の水曜日(長保2 年11月28日)だったわけです(要するに1週間しか違わな いのですが、世紀としては1世紀、千年紀としては1千年 紀の差になるわけです (^^;))。だから正確には“王制一 千周年”なのかな? で、日本の外務省なんかは1995年にハンガリーで“征服定 住 (honfogalala's) 一千百年祭”を祝ったのを「ハンガ リー建国一千百年祭」と訳してしまったものだから、2000 年になってまたまた「ハンガリー建国一千年祭」となって (しかも百年も若くなってしまっている!)困ったわけで す。実際にはハンガリー人は紀元895年以前からカルパチ ア盆地(領土が現在のように3分の1になる以前の歴史的 ハンガリー)に侵入を始めていたらしく、最初のハンガ リー人がカルパチア盆地に登場した年については諸説があ り、ラースロー・ジュラなどという考古学者は、騎馬民族 のフン族が建国したフンニア王国滅亡後、ハンガリー人の 征服定住以前に、ここに建国したやはり騎馬民族のアヴァ ル人のアヴァリア王国のアヴァル人もハンガリー人と同系 のマジャル人であったのではないかという“二重征服定住 説”を唱えています。 とりあえず、紀元895年から1920年のトリアノン条約まで のハンガリーの領土(カルパチア盆地全域)を“歴史的ハ ンガリー”と呼びます。
2 :世界@名無史さん > ハンガリー人、つまりマジャール人と日本人とは、同族 > です。 これまで日本人とハンガリー人が同族だと証明された事実 は1度もありません。ちなみにハンガリー人の自称である magyar は短母音なので“マジャール”と表記するよりも “マジャル”と表記した方がより適切かと思われます。 (しかし、“ハンガリー人”=“マジャル人”なのですか ら、あえてマジャル人と呼ぶ必要もないでしょう。) > マジャール人の祖先がアジアに住んでいたころ、東に > 行ったのが日本人で、西に行ったのがマジャール人なの > です。 それは誰かの創作ですね。 > それゆえにハンガリー語と日本語とはくりそつです。 ハンガリー語と日本語が文法的には恐ろしく(かつ嬉しい ことに)酷似していることは事実ですが、両言語が酷似し ていることは言語類型論の問題であって、両民族の系統の 問題には関係はありません。正確には何も証明されており ません。“他人の空似”でも、似ていればいいじゃああり ませんか (^o^)♪ “遠い親戚よりも近くの友人”です よ。
5 :ヨーナ・ラウッカさん > 同族の定義って言語族レベルの話だろ? > 人種と混同する馬鹿がいるから注意しろよ 言語学のレベルでも日本語とハンガリー語の同族関係は全 く証明されていません。 面白いことに言語(ソフト)の移動は、もちろん実際にそ の言語を話す人間(ハード)が移動することによって起る わけですが、人種の方は比較的早く周囲の人種に同化され てしまうので、マクロ的に見ると、ユーラシア大陸の人種 分布は一切変わらず、人種というハードの上を言語という ソフトだけが流れて移動しているように見えます。スカン ジナヴィアに移住したフィンランド人(スオミ人)は色白 の金髪が多いですが、中央ヨーロッパに移住したハンガ リー人は、人種的には西ハンガリー人はドイツ人的、北ハ ンガリー人は金髪の多いスロヴァキア人的、トランシル ヴァニアのハンガリー人はルーマニア人的、南ハンガリー 人はセルビア人のようなディナール型の人種が目立ちま す。
7 :世界@名無史さん > 現代ハンガリー人のDNAは他の東欧諸国となんら変わり > ない 中東欧のDNAですね。ゲルマンのDNAもだいぶ 入っていますから。(西ハンガリーでは“Yes”にあたる “igen”「イゲン」を“ja”(“ja'”ではない) 「ヤー」と言いますから (^^;)。)ただし、周囲のDNA とは違う遺伝子を持ったハンガリー人も結構います。トラ ンシルヴァニア東部に居住するセーケイ人と呼ばれるハン ガリー人の一派にはバルト人種等も多いです。時々モンゴ ロイド的な特徴を示すハンガリー人も見かけますが、彼ら の多くはカルパチア盆地を征服定住したマジャル人の DNAを持っているというよりは(多分、そういう人もい るのでしょうが)多くはハンガリーの一部がオスマン・ト ルコに占領されていた時期の名残か、ハンガリー国王の庇 護を求め、ハンガリー中央部に定住を許されたトルコ系の クマン人のものでしょう。時々ハンガリーを旅行した人が 「ハンガリー人はアジア人のはずなのに白人ばかりが目立 つ。しかし、よく見ると、色の浅黒い裸足で物乞いをして いる人間に出会うので、あれがマジャール人だろう」なん て本を書く人がいますが、それはジプシー人(ロマ人)で す (^^;)。 > 言語ルーツが同じだからと言って親しむのは結構だが > あっちはそうでも無いことを言っておこう。 言語ルーツ自体、同じだということは証明されていません が、ハンガリー人が親日的であることは事実です。戦前ハ ンガリーで流行ったツラン運動では、日洪同系論が盛んで したからね。ただし、ハンガリーに限らず、概ねロシア、 東欧は親日的です。
13 :3 さん > ここで,いや,ヨーロッパ人とアジア人は人種が違うか > ら,肌の色とか髪の毛を見れば,インド人がヨーロッパ > 系でないことや,フランス人がアジア系でないことは明 > らかだとする反論がありうるが,この理屈は「フィンラ > ンド人アジア系」説には,圧倒的に不利である。なぜな > ら,どんなに頑固な人でも,フィンランド人を一目見た > ら,ヨーロッパ系と認めざるを得ないからだ。ちなみ > に,遺伝子研究でも,フィンランド人の多くは,日本人 > が典型的な欧米人と考える北ヨーロッパ系の白人と人類 > 学的にいちばん近いことが明らかにされている。つま > り,フィンランド人は,人類学的に紛れもないヨーロッ > パ人でる。 ちなみに、フィンランドに大量に居住しているラップ人 (サーミ人)は明らかにアジア人的な風貌をしています。 今のところ、ラップ語人はバルト・フィン化されたサモエ ド人だという説が定説になっていますが、おかしなこと に、ラップ語で区別している母音をフィンランド語で区別 していなかったりします。そこで、実はフィンランド人こ そウラル化されたバルト人ないしゲルマン人なのではない かという説も信憑性を持ってくるわけです。(この説はま だ定説にはなっていません。) > さらに,宗教の点でも,フィンランドの住民のほとんど > はプロテスタントだから,文化の面でも,正真正銘の > ヨーロッパ人と結論せざるをえず,「フィンランド人ア > ジア系」説は成り立たなくなってしまう。 フィンランド人でもカレリア人は正教徒ですし、ま、この 際宗教はどうでもいいことでしょう。大事なのは人種と言 語...。どちらにせよ、例えば類型論的にはほとんど英語 の中国語も“アジア系”の言語ですから、“アジア系”と いう用語にあまり意味はありません。はい。
15 :8さん > ハンガリー料理って美味いの? ハンガリー料理はヨーロッパのメジャーな料理の1つで す。スパイシーで脂っこいので日本人は苦手かなと思って いたのですが、ハンガリー料理を食べた日本人は誰もがと ても美味しいと言いますね。しかし、なぜか日本ではハン ガリー・レストランは成功せず、だいたいどこも潰れてい ます (^^;)。経営能力のある人がハンガリー・レストラン を開業しないみたい...。
16 :世界@名無史さん > ハンガリー人ほアジア人が嫌いだと聞いたが。 それは誤解ですね。もっともハンガリー人が好きなのは “アジア人”ではなく、“日本人”ですね。不思議なこと に日本人は好きですが、中国人や朝鮮人はあまり好きでは ないようです。やはり民族的“ブランド指向”なのか? 日本人は“アジア人”というと日本人や中国人のようなモ ンゴロイドを想像しますが、ヨーロッパに居住しているハ ンガリー人にとってはアラブ人やトルコ人が最も身近なア ジア人ですよね。彼らに対してはそれほどいい印象は持っ ていないでしょう。特にオスマン・トルコには、ハンガ リーの中央部の3分の1程を150年間に渡って占領されて いましたからね。しかし、そうは言っても不思議なこと に、バルカンの住民のようなトルコに対する憎悪はないよ うです。むしろ日本の戦国時代のように、トルコはよきラ イバルだったという感じですかね? 多分、トルコと対等 に渡り合ってきた民族と、バルカンのように一方的に征服 され続けた民族との違いなんでしょうね。
0 :自転車小僧さん > あの〜。皆さんはハンガリー語を学習したことあるんで > すか? あります。 > それから、ハンガリー人に会ったことあるんですか? あります。 > ハンガリー語と日本語が同族と言っている時点でハンガ > リー語を知らないことが丸分かりです。 ハンガリー語を“知ってる”人の間にもそう信じている人 はたくさんいます (^^;)。だいたい、日本人でハンガリー 語を学習したことのある人なら、最初はだいたいどこかで 日本語とハンガリー語は同系だという説を読んで、ハンガ リー語に興味を持った場合が大部分でしょう。ただし、そ の後専門的に研究すれば、そうではないと目が覚めるわけ ですが...。 > まず、日本語とハンガリー語で共通する語彙なんて物は > 偶然の一致くらいにしか存在しません。 探して行くと、実は結構あるように見えます。しかし、言 語学的な検証をするとほとんどが破綻します。また、本当 に同系の語彙もあるのですが、そういう“文化語”と呼ば れるものはほとんど全世界共通だったりします。つまり、 恐らくは太古の時代のハイテク用語 (?) で全世界に借用 語として伝わったものなのでしょうね。 > 語順もSOVとヨーロッパの他言語と同じ、 日本人のよく知っているヨーロッパのメジャーな言語の語 順はほとんどが日本語のようなSOV(主語+目的語+動 詞)ではなく、SVO(主語+動詞+目的語)ですが? ちなみに現代ハンガリー語の語順はSOVでもSVOでも ありません。ただし、分詞構造(関係詞節構造)とか形態 素レベルの並び方を見ると、統語論レベルでのハンガリー 語の語順は恐らくは大昔はSOV(つまり日本語と同じ語 順)がデフォルトだったと考える方がいいと思われます。 [続く]
20 :自転車小僧さん [続き] > 人称変化や目的語を含む動詞変化、 これは日本語との同系が疑われている (?) アルタイ 語族でも一般的ですので、人称活用が日本語にないという こと自体はあまり問題にはならないと思います。むしろ日 本語が特殊で、場合によっては古代日本語でそういう活用 が失われたと考えることも可能です。(あくまでも“可 能”というだけ。) > 時制、 ハンガリー語では日本語と同じで印欧語のような意味での “時制”はありません。日本語では過去・現在・未来に関 らず、その時点で相対的に完了しているのか、完了してい ないのかだけで「た」が付きます。ハンガリー語でも同様 で時制に関りなく、完了しているものには「-ta(/-te/- t)」が付きます。 例えば日本語では「昨日、銀座を“行く”と田中さんに “会った」とか「明日、学校から“帰った”ら、映画に “行く”」のように使いますが(時制は「昨日」とか「明 日」と言った時の副詞で表現している)、ハンガリー語の 場合も全く同じです。 > 単数・複数の概念など日本語とはかけ離れたものばか > り。 日本語の複数形(単数形を2回繰り返す)はアルタイ 系のものではなく、南方の言語の特徴のようですね。多 分、これは日本語が混交言語であることに由来するのだと 思われます。日本語が混交言語である可能性が高い以上 は、あまり日本語がアルタイ語族に属するのかどうかなん ていうことは議論しても意味がないことです。要は日本語 の中のアルタイ的な部分がハンガリー語と同系なのかどう かでしょう。しかし、これは日本語とハンガリー語の比較 の問題ではなく、まず、アルタイ語族の成立が証明されな ければならず、次にウラル語族とアルタイ語族の親縁関係 が証明され、さらに日本語の中にアルタイ語族に属する部 分が存在するということが証明されて初めて、日本語とハ ンガリー語の(部分的)同系説は証明されるわけです。手 順をきちんと踏まないといけませんね。 [続く]
20 :自転車小僧さん [続き] > それに、ウラル=アルタイ語族というのは今では存在を > 否定されています。 正確には、ウラルアルタイ語族の存在が否定されてい るのではなく、ウラルアルタイ語族の存在が証明されてい ないので、そういう用語は言語学では使わなくなっている ということですね。理論上はそれが今後証明される可能性 はありうるわけです。それが実際に証明されるかどうかは 非常に疑わしいですが、少なくとも、日本語とタミール語 やレプチャ語との同系説よりは蓋然性は高いとは思われま す。 > ウラル語族をいまはフィノ=ウゴル語族と言うのが普 > 通。 残念でした。ウラル語族とはフィンウゴル語派とサモエド 語派を統合する上位概念です。言わば、“ウラル語族”は “インドヨーロッパ語族”にあたり、“フィンウゴル”は “ゲルマン”とか“スラヴ”にあたる概念です。で、現 在、ウラル語族の存在を否定する理論は、少なくとも言語 学上ではありません。なお、日本のウラル学やフィンウゴ ル学では“フィノ=ウゴル”という用語は使いません。こ れは何でも英語で言わないと気に済まない英語学の人達が 使っている用語ですね。日本の英和辞典等にも“フィノウ ゴル”と書かれていますが、当の専門家達が一切使わない 不思議な用語です。ちなみに日本語の“フィンウゴル”と いう用語の語源は、ハンガリー語の“finnugor”で、戦前 ハンガリーに留学されていた徳永 康元先生が和訳された ものです。 > 納得いかないようでしたら、後で例文を書きますが。 ぜひ (^^)! 興味あります (^^)!
28 :2さん > 語順違うじゃねーか。 > ヨーロッパ語の語順 > わたし 行く へ 大阪 > I go to Osaka > ハンガリー語の語順 > わたし 大阪へ 行く > En Osakara megyek. (E'n) O'szaka'BA me:gye:k”ですね。 ハンガリー語では「へ」に当たる場所の格語尾には「〜の 中へ」という意味の「-ba/-be」と、「〜の上へ」という 意味の「-ra/-re」の二種類がありますが(本当は「〜の 所へ」という「-hozo/-he:z/-ho:z」もあるが、地名には 用いられない←ちょっと不正確)。で、どの地名がどっち を取るかは地名によって決まってきます。しかし、“外国 の地名”は全て「-ba/-be」を使うということになってい ます。ただし、ここで言う外国には、現在外国領となって いる歴史的ハンガリーの地名は含まれませんが (^^;)。こ れはハンガリーの土地が外国領になったからと言って、そ このハンガリー語の地名の文法が変わるわけではないの で、陶然と言えば、当然ですね。
うーむ、2chらしからぬ懇切丁寧なレスですな…ご苦労様です。 やっぱり実際にハンガリー語を勉強して ハンガリー人とも付き合いのある人の発言が詳しいし説得力あるね。
119 :
世界@名無史さん :01/09/28 15:27
ハンガリーは世界で2番目に革命政権が権力を握った 歴史的に有名な国です。
120 :
いろいろおしえてちょ :01/09/28 15:41
121 :
世界@名無史さん :01/09/29 20:59
>>110 熊襲=クマン人=トルコ系
ということで現在の熊本人はトルコ系と思われる。
>42 :名無しさん > アヴァール人てイコールフン族なんですか? ハンガリー(マジャル)人が征服定住したカルパチア盆地にはいくつもの 騎馬民族が建国しました。その主な民族を歴史的な順序で挙げると、フン人 (フンニア)、アヴァル人(アヴァリア)、ハンガリー人(ウンガーリア> フンガーリア)となります。騎馬民族同士だから互いに何らかの血縁関係も どこかにあったかもしれませんが、基本的にはそれぞれ異民族です。アヴァ ル人はハンガリー人と同系ではなかったのかという学説もありますが、今の ところ、学界で定説となるには至っていません。最後にカルパチアに定住し たハンガリー人は7つの部族の連合体だったと言われており、当時カルパチ アに浸入してきたハンガリー人の人口に関しては13万人から50万人まで、 色々な説があります。(当時は近代的な国勢調査がなかったため、真相は恐 らく永遠に薮の中...。)人種的な構成は支配層の墓の人骨にシノイド(モン ゴロイド)系が多く、平民の人骨にはエウロポイド(コーカソイド)のもの が多く、恐らくはハンガリー人が現在のカルパチア盆地に侵入してきた時点 ですでに人種的には多彩だったと(すなわち純粋に“アジア系人種”ではな かったと)推定されています。アヴァル人とハンガリー人との同系説の根拠 は考古学的な発掘調査で両民族の出土品、その他に有意な差違が認められな いためです。
43 :世界@名無史さん > ハンガリー料理というとグラーシュスープとかかな? 世界的に有名なハンガリー料理の名前は“グヤーシュ”(gulya's) です。 ハンガリー語の“ly”は通常はただの [j] と読まれます。(ただし、一部の 方言では [λ] と発音されたり [l] と発音されたりもします。あと、“y” の部分が古語の“i”の異形である場合には“ly”は [li] と発音されま す。) ちなみに、ハンガリー国外で一般的に“グヤーシュ”(グーラッシュ)と 呼ばれている料理は、多くの場合はグヤーシュではなく、“ペルケルト” (po:rko:lt) というハンガリーの庶民の好む国民食です。
47 :世界@名無史さん > あとヴィルモス・ジグモントとか、 ハリウッドの名撮影監督の名前はジグモンド・ヴィルモシュです ね。ハンガリー語はドイツ語とは違いますから、語末の有声子音が 無声化 (正しくは lenis 化) することはありません。きちんと 「ド」と発音します。また、ハンガリー語の“s”は英語の“sh” の音になり、“sz”が [s] です。 ジグモンドは『未知との遭遇』の撮影監督も務めていましたが、 宇宙人とのコミュニケーションにハンガリー人作曲家で、音楽教育 家でもあるコダーイ・ゾルターンの提唱したコダーイ法(日本では なぜかコダーイ・システムと称される)のハンドサインが用いられ ていますね。
50 :世界@名無史さん
>
>>8 > やや亀レスだが、東京の自由ヶ丘の、自由ヶ丘デパートの3F
> に、「カントリー」という店がある
首都圏では、多分、唯一、自称ハンガリー料理が食べられるレス
トランでしょうね。(味のことは置いておいて、メニューの料理名
の表記がいい加減なことの方が気になりますね。)
数年前までは名古屋にハンガリー人(多分セーケイ人?)の経営
するハンガリー・レストランがあったのですが、残念ながら潰れた
ようです。
あと、最近、新潟県の日本海の海岸沿いを走る国道8号線沿いの
『うみてらす名立』という名の道の駅の中に『パプリカ』というレ
ストランができ、一応、メニューにはグヤーシュもあるという話を
聞いたことがあります。未確認ですが...。
>39 :自転車小僧さん 自転車小僧さんは結構お詳しそうですね。大学か大学院でハンガリー語か 言語学を専攻されれているのではないかとご推察申し上げます。 > 古代ハンガリー語の研究書を読んだが、やはり日本語ともモンゴ > ル語とも似ても似つかんものだったのを覚えている。 どの本でしょうか? 後学のためにぜひ、教えて下さい。 ちなみに、現代ハンガリー語でも“vi'zmosta part”(水が洗った岸)の ような表現は残っています。つまり、通常は形容分詞構文と呼ばれるもので すが(現代ハンガリー語文法ではただの“形容詞”ということにされている が、異議あり)、これは日本語などでは明らかに関係節です。公式のハンガ リー語の文法の説明では分子構文は関係節ではないとされ(明らかに印欧語 族の分析に引きずられている)、分詞となる動詞の主語は埋め込まれ得ない とされているのですが、この構文の vi'z(水)は明らかに主格です。 中世ハンガリー語だと“ha'rom o:ko:r sza'ntotta fo:ld”(3頭の牛が 耕した土地)のような完璧な埋め込み分詞構文も残っており、非常に日本語 的ですよね。 現存している最も古いハンガリー語の句構造は、(ちょっと手抜きで記憶 だけを頼りに引用しますが) “feheru uaru rea meneh hodu utu rea” 白い 城 に 行く 軍勢(の)道 に というのがバラトン湖のティハニュ半島の修道院建立状に残されています。 ハンガリー語は昔に戻れば戻るほど日本語に似て来ます。 なお、現代ハンガリー語では英語のような関係詞節も存在しますが、これ も嬉しくて泣きたくなるほど、日本人が英語などの関係詞節を直訳した形に 似ていますね。例えば、馬鹿みたいな例文ですが、「私はアニコーという名 の少女を知っている」は以下のようになります: Ismerem azt a la'nyt, akit Aniko'nak hi'vnak. (私は)知っている その 少女を (who を)アニコーと 呼んでいる この文は中世ハンガリー語では Ismerem azt a la'nyt, az kit Aniko'nak hi'vnak. (私は)知っている その 少女を その 誰を アニコーと 呼ぶ と表記されました。要するに「私はその少女を知っている」「その誰を(皆 は)アニコーと呼んでいる」という構造なのですね。ハンガリー語の関係節 では通常は必ず先行詞が必要とされますが、これは多分、直訳の名残です。 また英語などとは違い、ハンガリー語では疑問詞と関係詞は語形的に区別さ れ、関係詞は疑問詞に“a-”という接頭辞が付いた形を取ります。これは中 世ハンガリー語では単なる指示代名詞の「その」(az) でした。当初は ki (誰)という疑問詞に対応する関係詞は“az ki”(その誰)のように表記さ れ、後に“a' ki”のように省略されるようになり、発音上区別が付かない ので、現代ハンガリー語では“aki”のように一語として認識されるように なったものと思われます。なお、ハンガリー語の定冠詞の“az”も指示代名 詞の“az”(その)そのままですね。ハンガリー人達が周囲を印欧語族に囲 まれ、だんだんと印欧語族の構文を受け入れていった様子が非常に奇麗に見 うけられます。
>39 :自転車小僧さん > ここでまじレスハンガリーはフン族の子孫と言う意味でHungaryと > 呼ばれるが自称はMagyarて、皆知ってるか。 まじレスで述べさせていただきますが、英語の Hungary、すなわ ち、ラテン語の Hungaria(フンガーリア)はフン族の国という意味 ではありません。フン族の国は「フンニア」(Hunnia) です。(確か ハンガリーの映画会社にもフンニア撮影所というのがあったと思いま す。) ウラル地方から東方からの民族大移動の圧力により黒海の方に避難 してきたマジャル人はトルコ系のオノグル (onogur) 人の庇護を求 め、しばし彼らと行動を共にしておりました。その結果マジャル人達 も周囲から“オノグル人”と呼ばれるようになりました。ハンガリー 人がカルパチア盆地に征服定住した時にもそう呼ばれました。それが 転じたものが、ラテン語の民族名の Ungarus(ウンガールス)で、国 名の Ungaria(ウンガーリア)です。ドイツ語の Ungarn やロシア語 の Vengrija、イタリア語の Ungaria、フィンランド後の Unkari 等 は全てこの語形が語源です。その後、中世になって、西欧諸国で Ungaria の先頭に黙音のHが付く表記が現れ始めました。ラテン語で も Hungaria と書かれるようになりましたが、当初の発音は「ウン ガーリア」のままだったと推定されます。それが後にHも発音される ようになり、これが英語やフランス語等におけるハンガリーの表記に なっていったものと思われます。ですから、語源的にフン族は全く関 係ありません。もっとも西欧で Ungaria の先頭にHがつくように なったのには、多分、フン族との連想も働いていた可能性もありま す。一節には中世フランスの学生の悪ふざけが発端だったとも言われ ています。(このフランス人学生の悪戯説は、むかし、現在の駐日ハ ンガリー大使のお父上のセルダヘイ・イシュトヴァーン先生に聞いた ことです。) > アジアとの関係で言えば、匈奴が西へ行ってフン族になりその子孫 > がMagyarになったと言う説があるが、未だ証明されていない。 狩人のフノル (Hunor) とマゴル (Magor) 兄弟の伝説ですね。2人 で魔法の鹿 (csoda szarvas) を追って行き、最後に現地の娘を嫁に し、フノルの子孫がフン族に、マゴルの子孫がマジャル族になったと いう伝説です。しかし、これは恐らく中世の創作でしょう。
52 :世界@名無史さん > ハンガリー出身のアメリカ人までハンガリー人に含めるなよ。 すみませんねぇ。しかし、“米国籍を取得した者は全て米国人であ る”という国籍至上主義の誤解は、恐らく、イザや・ペンダサンとい うユダヤ人を騙った日本人の著作の『日本人とユダヤ人』の責任だと 思います。 西洋世界では割と厳密に“国籍”と“民族籍”を区別しています。 国籍は別にその人間の民族を規定するものではなく、その人が住んで いる場所で公民権を行使するための登録の問題で、言わば、日本の住 民登録のようなものです。国籍が変わったからと言って、その人の民 族籍まで自動的に変わるものではありません。民族籍は厳密な登録に よるものではなく、本人の主観的な自覚の問題です。日本人は米国籍 の人間は誰でももはや米国人だと信じていますが(また米国の建前で はそうしないと米国人がいなくなってしまう (^^;))、実際には本人 の民族所属意識は簡単に変わるものではありません。ウソだと思うな ら、米国で活躍している有名なハンガリー人に“Are you Hungarian?”と尋ねてみてください。“Yes!”と答えるだけではな く、「あなたはそのことを知っているのか (^^)?」と嬉しそうな顔 をするはずです。 ハンガリー人に限りませんが、通常米国移民は一世は本来の民族意 識が強く、二世は米国に過剰同化しようとして米国人意識が強烈にな り、三世になると、再び自分のルーツに興味を持ち、出身民族の意識 が強まる傾向があるようです。 ちなみに、米国で有名なハンガリー人学者の多くは、すでにハンガ リー在住時代に業績を挙げている人達が多く、中年になってから米国 に迎えられた人が多いです。(ノーベル賞を受賞した“ハンガリー系 米国人”の多くは、その研究のほとんどを本国のハンガリーで行って おり、単に米国に住むようになった時にその業績が認められて受賞し たという場合が結構多いのです。) なお、米国に移民したヨーロッパ人の民族意識を尋ねるにはコツが 必要です。「あなたはハンガリーで生れたけれども、今は米国籍を取 得しているから当然米国人ですよね?」と(誘導尋問的に)尋ねれば 「もちろん、私はアメリカ人です」と答える場合が多いと思われま す。しかし、「あなたは今は米国籍だけれども、本当はハンガリー人 ですよね?」と尋ねれば「もちろんです!」という答えが返ってくる でしょう。 ま、米国籍であれ、どこの国籍であれ、要は本人の意識の問題であ り、我々外国人が勝手に「米国籍なんだからお前はアメリカ人なん だ」と決めつけるべきものではないでしょう。全ては本人次第です。
>53 :世界@名無史さん > というか、それらのほとんどがユダヤでしょ? ほとんではないにせよ、ユダヤ系が多いのは事実です。ただ、ハン ガリー系ユダヤ人の民族意識は非常に特殊で、もちろん、米国では自 分はユダヤ人共同体の一員だという意識が一番強いのですが、不思議 なことに強烈なハンガリー人意識も有している場合が多いのです。理 由はなんなんでしょうねぇ? もしかすると、彼らの母語がハンガ リー語という非常にへんてこりんな言語であることが、その理由の一 端になっているのかもしれません。何しろハンガリー語は文法が日本 語そっくりですから、ハンガリー人(およびハンガリー系ユダヤ人) は日本人と同じで語学が非常に苦手です (^^;)。本当は語学が苦手な んではなく、彼らが学ぶべき国際語である英語やフランス語が異質過 ぎて難しいだけなのですが...。だから外国語が苦手だとされる日本 人もハンガリー語はめきめき上達しますし、ハンガリー人が日本語を 学習してもあっと言う間にマスターしてしまいます。(ですから、ス テレオタイプで日本人向けのハンガリー語学習書の序文で「ハンガ リー語は非常に難しい言葉ですが...」なんて書くことには批判的な のです。「ハンガリー語を学習してみれば、日本人には驚くほど簡単 なことに嬉しくなることでしょう」とでも書くべきだと考えていま す。) 世界の金融界を支配していたハンガリー系ユダヤ人のショロシュ・ ジェルジュ(ジョージ・ソロス)も財をなして、最初にしたことが、 当時はまだ社会主義国だったハンガリー人民共和国にショロシュ財団 を創設し、ハンガリーの研究者達に資金援助をしたことです。その後 彼は中欧大学も創設しました。その後、彼は他の東欧諸国やソ連にも ショロシュ財団を次々と創設し、ソ連東欧圏崩壊の条件を揃えたりも したのです。とにかく彼が最初に設立した財団がハンガリーであった ことも、ハンガリーに対する投資が圧倒的に多いことからも、彼がや はりハンガリー人として“故郷に錦を飾る”的な意識がどこかで働い ていることは事実でしょう。(ユダヤ人は自分が情緒的であると思わ れることを嫌いますので、もし、面と向かってそうなのかと尋ねられ れば、きっと否定するでしょうけどね。でも、行動が証明していま す。) イスラエルの政治家達は、ハンガリー系のイスラエル市民の票田は 無視できないのに、ハンガリー系のユダヤ人に限って公用語のヘブラ イ語が上手に話せるようにならないので、しかたなくハンガリー語を 覚えて、ハンガリー語でも選挙演説をするのだということをイスラエ ル出身のハンガリー系ユダヤ人が誇らしげに語るのを聞いたことがあ ります。ウソかホントか知りませんが。
54 :○ さん
>
>>53 > 同意。学問の世界で成功したハンガリー出身者の大半はユダヤ系で
> すね。
あと気をつけなければいけないのは、通常はユダヤ人は自分はユダ
ヤ人だとは名乗らない場合が多いので、世界的に成功した人物は、周
囲のユダヤ人も非ユダヤ人も彼のことをユダヤ人だと思い込んでしま
う場合が多いのです。
羽場久美子さんは講談社現代新書で音楽家のバルトーク・ベーラや
詩人のアディ・エンドレのこともユダヤ人だったと書いて、ハンガ
リー研究家達の失笑を買っていますが(2人ともユダヤ人ではありま
せん!)、困ったことに一般の読者は彼女の説を信じてしまい、また
あちことでそれを広めることでしょう。
誰がユダヤ人で、誰がユダヤ人でないかということは例えハンガ
リー人の言うことでも信じてはいけません。バルトークのような偏狭
な民族主義を嫌う人間のことはハンガリー人でも、右寄りの民族主義
者は「あいつはユダヤ人に違いない」と信じているからです。ちょう
ど日本の右寄りの方々が「日本人なら日の丸、君が代、天皇陛下を敬
愛するはずだ」と信じているのと同じことです。
55 :梵阿弥 さん > マジャルの名はモンゴルと関わるようです。 初耳です。(ホントかもしれないけど。アルタイ語学は専門外なの で、判断は留保させていただきます。)ちなみに、ハンガリー人に近 い同系のマンシ人のマンシはマジャルと同語源だと考えられていま す。
56 :世界@名無史さん > 共産党政権の崩壊後総選挙が行われ初の民主的議会では、 共産党の一党独裁を支持するものではありませんが(というか、一 党独裁には絶対反対)、1990年にハンガリーで起こったことを“民主 化”と呼ぶことには反対です。客観的に“体制転換”とか“政権交 替”という用語を使うべきだと考えています。“民主化”という用語 は予断を与えます。 むかしの社会主義時代のハンガリーを知っている人ならわかってい ることですが、1960年代以降ハンガリーの共産党(ハンガリー社会労 働党)は率先してハンガリー社会の民主化を進めてきていました。す でに 1968年に市場経済を導入していますし、1970年には選挙の複数 立候補制を導入しています。そして 1989年に東欧圏が次々と民衆の 抗議運動で崩壊して行く中、ハンガリーだけは共産党自らが自発的に ハンガリー社会労働党を解党し、新たにハンガリー社会党を組織し、 自発的に国民に“大政奉還”をしたものでした。 1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは今の日本のマスコミで は到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありま した。 1990年の総選挙でMDF(ハンガリー民主フォーラム)が政権を取 り、日本では民主勢力が政権を取ったと報道されましたが、非常に偏 狭な民族主義的、かつ権威主義的な保守反動政権で、なんと社会主義 時代にすらパージされなかったジャーナリスト達を次々と追放し、汚 職まみれで、国庫を破綻させました。(MDF政権下の4年間でハン ガリーした対外借金は、それまでの40年間に社会主義政権がした借金 よりも多かったと言います。)世界でも有数の生産性を誇ったハンガ リーの農業は破綻し、東欧圏で随一の経済を誇ったハンガリーの経済 はがたがたになりました。 で、その体制転換で国家存亡の危機の時に“民主的国会”がやって いたことは、 > 国章に王冠を入れるか入れないかで大モメして審議ストップしたそ > うな。 という時代錯誤的などうでもいいことだったわけです。で、 > 約1年に渡って国章問題で他の問題そっちのけ。 > おかげで経済ガタガタになったそうな。 という結果になってしまったわけです。 > ちなみに最終的に王冠が入ったって。 ハンガリーは共和国なのにね。
57 :世界@名無史さん > 所詮オスマン・トルコやハプスブルクの属国 ハンガリーは一時期国土の中央部、約領土の3分の1をオスマン・ トルコに占領されていた時期がありましたが、ハンガリーがトルコの 属国になった事実はありません。バルカン諸国と混同されていません か? 当時のハンガリーはまず、大きく、「ハンガリー王国」と「トラン シルヴァニア(エルデーイ/ジーベンビュルゲン)公国」に分裂して おり、ハンガリー王国の南部がトルコの占領下にあったわけです。つ まり事実上ハンガリーは三分割されていたことになります。しかし、 トルコがいた地域はあくまでも“占領地”であり、ハンガリーそのも のがトルコの軍門に下ったわけではありません。 もっとも当時のハンガリー王国はハプスブルク家の王朝でしたの で、ハンガリー史ではハンガリーの重心は専らハンガリー人の民族王 朝のトランシルヴァニアを本来のハンガリーとみなしていますが。 なお、オーストリア=ハンガリー二重君主国成立以降は、政治・経 済の重心は明らかに帝都ヴィーンから、王都ブダペストに移りつつあ りました。(だからこそ、アフロユーラシア大陸最初の ― パリより も古い! ― 地下鉄はヴィーンにではなく、ブダペストに建設された のでした。) ハプスブルク家にとっても、現在、ドイツ選出の欧州議員である オットー・ハプスブルク大公はオーストリアの皇位継承権は有してい ませんが、理論上、ハプスブルグ・オットー大公はハンガリーの王位 継承権は有しています。体制転換後、ハンガリーの民族主義政党の一 部がオットー氏をハンガリーの国王ないし大統領に招聘しようとした のですが、オットー大公は「私はドイツ選出の欧州議員に留まってい ることの方がハンガリーの役に立てる」と拒否したそうです。 オットー氏はドイツ人ですが、帝王学はきちんと学んでおり、ハン ガリー語にも(ドイツ訛りがありますが)堪能です。この前、小田急 線沿線でオットー氏と遭遇したのですが、彼が英語で挨拶してきたの に対してハンガリー語で返事をしたら、彼は驚き、嬉しそうに「お お、あなたも“同胞”[honfita'rsam] でしたか (^^)!」と叫ばれま した。「いえ、生っ粋の日本人です (^^;)」と答えましたが、“同 胞”と言っても、彼だってドイツ人じゃないの (^^;)!
58 :世界@名無史さん > >51 > おっしゃるとおりマジャール人はフン族の末裔ではありません。 > しかし、彼らの民族伝承では彼らをパノニア平原に導いた族長アー > ルパードはフン族の大王であるアッチラの末裔だということになっ > ているそうです。 そうなんですか (^^)? 寡聞にして存じません。 > 中世の年代記等でもそういう記載になっているそうで、 中世の歴史書は現代の歴史学的な文献とは違います。ハンガリーに 限りませんが、当時の歴史書はどこの国民のものでも限りなく文学作 品に近く、概ね、彼らの居住地にかつて居住していた名門民族 (?) を自分らの直接の先祖だとすることが一般的でした。(現代でもルー マニアの“ダキア=ローマ史観”なんていうのはその典型ですね。) > アールパード家の王たちは自分たちはアッチラの子孫と信じていた > のでしょう。 そう信じていた王様もきっといたことでしょうね (^^)。やはりフ ン族のアッチラ大王は偉大でしたから、自分のご先祖様だったら嬉し いですものね。 > ちなみに現在のハンガリーでアッチラという名はけっこうポピュ > ラーですが、 Attila というハンガリー語の名前の読みは、困ったことに、 “アッティラ”ではなく“アティッラ”(atilla) なのですね。あま り知られていない事実ですが...。 > >57 > モハーチの敗戦以後はおおせのとおり。しかしアンジュー家のカー > ロイ・ロベルト王や カーロイ・ローベルト (Ka'roly Ro'bert) ですね。“ロー”と伸 びます。 > ラオシュ大王の時代は強国でしたし、 Lajos の読みは「ラヨシュ」です。
>58 :世界@名無史さん > 有名なマチャーシュ・コルヴィヌス王は フニャディ・ヤーノシュの次男、オペラにもなった悲劇の長男フ ニャディ・ラースローの弟、フニャディ・マーチャーシュ王ですね。 ハンガリーの“水戸黄門”で、ハンガリー・ルネサンス文化を花開か せた、ハンガリー最高の国王です。コルヴィヌスというラテン語名は フニャディ家の家紋に大烏(カラス)が使われたいたために、ラテン 語ではマティアス・コルヴィヌスと名乗ったものです。(そこでポー ランドで生れた非嫡出子にはコルヴィンという姓が付けられていま す。)ルーマニア人はフニャディ・ヤーノシュをヤンク・デ・フネド ワラというルーマニア人貴族で、マーチャーシュ王はマテイ・コル ヴィンというルーマニア人の国王だと主張していますし、セルビア人 も彼はセルビア人だったと主張しています。本当のことは調べようが ありませんが、元々トランシルヴァニア出身だったので、彼にルーマ ニア人の血が一部交じっていたとしても不思議ではありません。(た だルーマニア人貴族というのは存在しなかった。)当時はまだフラン ス革命による民族意識の登場の前でしたので、当時の人間は自分のこ とは自分が所属する国家の国民だと考えるのが普通で、仮にマー チャーシュ王にルーマニア人やセルビア人の血が混じっていたとして も、本人の意識はハンガリー人だったことでしょう。 > ウイーンを攻略したりもしています。 一時期、マーチャーシュ王はヴィーンを占領して、ハンガリー王国 の首都と宣言しましたね。彼はトルコとの戦いをおろそかにし、専ら ヴィーン攻略に熱心だったために、一部の家臣に暗殺されそうになり ました。「敵はトルコなのに、なぜオーストリアを攻略しようとする のだ?」というわけです。しかし、どうやらマーチャーシュはハンガ リー一国では到底巨大なオスマン・トルコには勝てないと判断し、自 らが神聖ローマ帝国の皇帝になり、全欧州を率いてトルコと対決しよ うとしていたのだと思われます。残念ながら、彼はヴィーンで客死し てしまいました。(一節では王妃ベアトリックスに雇われた刺客が マーチャーシュが大便をしていた便槽の中に潜んでおり、真下から剣 で突き刺したのだという話も聞いたことがありますが、ほんとかなぁ (^^;)?) マーチャーシュ王は欧州最大の図書館、コルヴィン文庫を作った り、中央集権化のために独自の傭兵部隊の黒軍(フェケテ・シェレ グ)を作ったりと、非常に先進的な国王で、日本の水戸黄門と豊臣秀 吉、織田信長を併せたような傑出した人物でした。彼が夭逝しなかっ たらハンガリー史や欧州史は変わっていたかも...。
59 :世界@名無史さん > トカイワインは(・∀・) イイ! ハンガリーの誇る貴腐ワインのトカイ・アスーは、英国王室やロー マ法王庁御用達のワインで、フランスのルイ十四世は「トカイこそ諸 王のワイン、ワインの王なり!」(Vinum regnum, rex vinorum) と絶 賛せしめたワインですね。 しかし、そのトカイ・ワインも今ではサントリーの支配下にありま す...(-_-;)。非常に憂欝ですね...。日本人なのに、日本の資本が買 収したということを素直に喜べないことが悲しい...。 > ミュージアム、いつか飲んでやる! やはりトカイ町(村ではない!)のワインケラーで飲むトカイは (雰囲気もあり)最高ですね (^^)! 通常、ワインのような醸造酒はたくさん飲み過ぎると二日酔いにな ると言われていますが、トカイ・アスーの場合は、翌日、絶対に二日 酔いにはならないんだそうです。残念ながら、そこまで大量のトカイ を飲む財政的な余裕がないために、自分では実験できないでいますが (^^;)。いつか、試してみたいですね (^.^;)ゞ。
60 :世界@名無史さん > ハンガリーといえば、東欧革命! > 現代史に対する貢献度は高い。 ハンガリーの体制転換はハンガリー社会労働党(共産党)自らが、 率先して国民に大政奉還した歴史的事件ですが、世界史上、一度共産 党が政権を奪取した国で自ら自発的に政権を手放した最初で、唯一の 例ですよね。無血でハンガリーの大政奉還を実現させた当時の共産党 の改革派達の努力には頭が下がります。特に、ハンガリーの改革のポ ジュガイ・イムレは最大の功労者で、本来ならば新生ハンガリーの初 代大統領になるべき人物でした。しかし、改革者の常として、最後は ゴルバチョフ同様に石を持って追われました。非常に悲劇的な人物で す。あと数十年経てば、必ずやハンガリー史は彼の貢献を再評価する でしょうが、失意のポジュガイには何の慰めにもなりませんね...。 ポジュガイはハンガリーの政治家に過ぎませんが、ゴルバチョフと 並んで世界史を替えた男だと考えています。そういう意味ではもっと 注目されていい。 ハンガリーがハンガリーに流入した東ドイツ人難民を同盟国である 東独政府の抗議にも関らず、西側へ出国させました。これがきっかけ となって、東独政府はベルリンの壁を開放せざるをえなくなり、東独 の崩壊へと繋がりました。東独が崩壊することで、チェコスロヴァキ アではビロード革命が勃発し(こっちはだからハンガリーとは違って 本物の革命ですね)、チェコの共産党政権が倒れ、その影響でルーマ ニアでハンガリー人牧師のテーケイ・ラースロー師弾圧事件の絡みで ティミショワラ(テメシュヴァール)の虐殺事件が起こり、最終的に はチャウシェスク体制が崩壊し、ブルガリアにも波及し...。ソ連東欧 圏の崩壊の条件を造ったのはゴルバチョフでしたが、実際にそのドミ ノの一突きをしたのがハンガリーでした。 ハンガリーが同盟国東独の市民の亡命を認めざるをえなかったの は、ハンガリーが国際難民条約に社会主義国としては唯一加盟してい たからで、条約の履行義務があったからです。ではなぜハンガリー政 府が難民条約に加盟せざるをえなかったのかと言えば、それはルーマ ニアから大量の同胞の難民がハンガリーに亡命してきており、ハンガ リー系住民の母国としては彼らを保護せざるをえなかったからです。 で、なぜルーマニアから大量の亡命者が発生したかと言えば、血迷っ た独裁者チャウシェスクが、トランシルヴァニア全土を更地にして、 ハンガリー人の歴史的・文化的遺産を抹殺しようとしたからでした。 ソ連東欧圏崩壊の直接の切っ掛けはだから、トランシルヴァニアのハ ンガリー系住民弾圧問題に端を発していたのでした。日本では全然報 道されていないけれども...。
61 :↑ さん > それから、チェコなら「抵抗のプラハ」だろうけど、ハンガリーな > ら「ハンナ」かな。 「ハンナ」とは?? > ファシスト政権がハンガリー。 戦前のハンガリー王国のホルティ政権のことをおっしゃっているの でしょうか? それならば、正しい評価とは言えないでしょう。ナジ バーニャの勇爵、海軍提督ホルティ・ミクローシュ執政はどうしよう もない保守的で権威主義的な元首でしたが、保守本流の政治家とし て、中欧および東ヨーロッパがファシスト化して行く中で、チェコと 並んで最後までブルジョワ民主主義を守った政権でした。(チェコの 方がハンガリーよりはずっと民主的でしたが。それでも当時の欧州の 状況の中ではハンガリーは相対的に非常に民主的な国家でした。この ことはきちんと評価されてしかるべきでしょう。)ハンガリーにファ シスト政権が誕生したのは、終戦間際になって、ハンガリーがナチ ス・ドイツに占領された時にドイツの傀儡として政権に就いたサーラ シ総統率いる矢十字党政権の、ごくごく短期間だけでした。(それで も十分な害毒をたれ流しましたけど。)
71 :世界@名無史さん > >69 > 恒文社の「トランシルバニア」コッシュ・カーロイ著にも初期のハ > ンガリーについての記載がある。 ハンガリーの博学者(本当は建築家)のコーシュ・カーロイです ね。彼はトランシルヴァニアの中心都市、コロジュヴァール(クル ジュナポカ)の出身で、トランシルヴァニア芸術家ギルド (Erde'lyi Sze'pmi'ves Ce'h) の主宰者でもありました。また、トランシルヴァ ニアがルーマニア領に組み込まれてからは、トランシルヴァニアに居 住する諸民族の融和を謳ったトランシルヴァニア主義を標榜しました が、これは未だにダキア=ローマ史観に基づくルーマニアのルーマニア 人至上主義に抵触するので、ルーマニアでは御法度の危険思想です。 (国民国家であるルーマニアにおいて少数民族もルーマニア人と平等 であってはルーマニアが国民国家である意味がないという考え方から です。それが現在のルーマニア人民族主義者らの反EUの標語「我々 は決してヨーロッパにはならない!」に繋がっているわけです。) 彼はコロジュヴァールから東のトランシルヴァニアの入口の王ヶ峠 (キラーイ・ハーゴー)に至るカロタセグ(ゾナ・カラテイ)地方を 独立させて「カロタセグ共和国」を樹立するという夢を抱いていまし た。 建築家としての彼はアールヌーヴォー様式とハンガリーの民家の様 式を融合させた建物を多く建てております。特にカロタセグのケーレ シュフェー(イズヴォル・クリシュルイ)村の木造教会は有名です ね。まだご存命中にコロジュヴァールの実家でお目に掛かったことが あります。
73 :世界@名無史さん > >72 > 例のチッチョリーナもそうだっけ? イタリア上院議員だった(今もそうかな?)チチョリーナ(スター レル・イロナ)はハンガリー人です。世界で活躍しているハンガリー 人のことは自慢するハンガリー人達ですが、彼女のことはあまり自慢 したくないようです (^^;)。ハンガリー居住時代には女給をしてい て、警察のたれ込み屋をやっていたとか (^^;)。で、ちょっと警察関 係でヤバくなったので、イタリアに亡命したのだと言うことです。 (本当は違うかもしれませんが。) > マジャール人て美人が多いのか? 少ないです (。_?B)☆\バキ。しかし、チチョリーナは逆立ちして も美人ではないでしょう...(^^;)?
76 :世界@名無史さん > 白人の美人は、若い頃はウソみたいに美しいけど、 > そんな人でも年を食ったら「魔女」になっちゃう(笑) よく言われますが、ただの俗説ですね (^^)。日本人でも白人でも、 歳をとっても驚くほど若々しく、魅力的な女性はたくさんいます。 > ちなみにシルヴィア・セイント(ポルノ女優)はチェコ人だよね。 > ハンガリーの隣国。 惜しい! 残念ながらハンガリーとチェコは国境は接していませ ん。ハンガリーの隣国はスロヴァキア(旧北ハンガリー)です。
79 :世界@名無史さん > >76 > 魔女以外にトドになるという道もある。 > なんであんなに変身してしまうのか・・・・。 日本人の場合でも同じですが、インテリの女性の場合は中年になっ ても太らない場合が多いですね。
86 :トルコの駆逐さん > 1687年にはトランシルバニアが、それぞれトルコから解放され > た。 トランシルヴァニアがトルコ領であった史実はありません。 > テメスヴァル州はトルコ領にとどまった。 用語の問題ですが、Temes va'rmegye はテメシュ城県と訳した方が よろしいでしょう。あるいは「テメシュ県」。ドイツ語では Komitat と訳されていたかな? 英語から入る人は megye が county と訳され るので何も考えずに「郡」と訳す人が多くて困っています。また外国 の行政単位を自動的に「州」と訳してしまうのも困りものです。ハン ガリーの行政機構をきちんと調べれば、megye は「県」と訳し、その 下の「ja'ra's」を「郡」と訳すのが適切だとわかるでしょう。で、 「va'ros」は「市」で、「nagyko:zse'g」が「町」、「ko:zse'g」が 「村」ですね。あとセーケイ地方では va'rmegye に当たる行政組織を 「sze'k」と呼んでいますが、僕はこれは「席」と訳しています。 なお、Temesva'r は「テメシュヴァール」です。ルーマニア語では 「ティミショワラ」(Timis,oara) ですね。ちなみに、ルーマニア語で は「ティミショヴァラ」ではなく「ティミショワラ」となっているこ とから、むかしのハンガリー語では「v」は「w」と発音されていたこ とがわかります (^^)。「(ナジ)ヴァーラド」(Nagyva'rad) が「オラ デァ」(Oradea) とルーマニア語に音訳されていることも、やはり同じ ことの証明です。
87 :酔鯨ジョーカーさん > それはそうと、ハンガリー人のマンコはデカいよ。 それはあなたのが小さいということでもあります (^^)。 要するに、人の生殖器は人種ごとに最適化されていますから、大 柄の白人と小柄の日本人ではサイズの不一致が起るわけです。です から、よく日本人男性が「白人女性は大味だよ」なんて(自分が白 人女性と寝たことを)自慢しますが、むこうは「日本人男性は小味 だわ」と思っていることになります。 ちなみにハンガリーでは娼婦が書いた本が出版されていますが、 日本人男性の評判はいいようです。日本人男性は前戯も何もせず に、さっさと挿入し、しかも、早漏ですぐ果ててしまい、金払いも よく、短時間に効率良くこなせるいいお客なんだそうです。ただ し、日本人とのセックスは全然楽しくないということのようでし た。日本人男性の1人としては情けない思いですが...。僕自身は 「女は買わない」主義ですから、日本人男性の名誉回復ができない が残念ではあります (^^;)。
>88 :世界@名無史さん > 王国なのに王が存在せず 戦前のハンガリー王国は憲法上元首は「国王」(kira'ly) ではな く、「執政」(korma'nyzo') ということになっていましたが、これは ハンガリー王国が教会法上、「使徒王国」(apostoli kira'lysa'g) と いうカトリック国家であったために、新教徒のホルティは国王になれ なかったためなんですねぇ。ちなみに korma'nyzo' を「摂政」と訳す のは、元々国王はいないし、ホルティはお公家さんでも、王族の一員 でもないので不正確だと思います。 > 内陸国なのに摂政が海軍提督だった 残念でした。オーストリア=ハンガリー二重君主国の連邦を構成する ハンガリー使徒王国にはフィウメ (Fiume) というアドリア海の海港が ありました (^^)! フィウメは現在はクロアチア領のリエカ (Rieka) ということになっていますが。 それから、ホルティはオーストリア=ハンガリー海軍少将であったわ けで、何ら矛盾も、問題もありません。現在のハンガリーから過去の ハンガリーを想像してはいけません。トリアノン条約までのハンガ リーは欧州でも屈指の大国だったのですよねぇ...。
92 :世界@名無史さん > ホルティの子孫ってどこでどうしてるんだ? どうなってるんでしょうね。この8月長男がちょこっとニュー ジーランドに行っていたのですが、そこの学校の若い女性の先生 が、息子がハンガリー人との混血児だと知って「実は私も父親がハ ンガリー系なの。ハンガリー語は全然できないけど...。よく知らな いんだけど、なんでもお爺さんはハンガリーでは有名な人だったそ うよ」と言われたのだそうです。お爺さんの名前を聞いたら「ホル ティ・ミクローシュと言うんだって」と言われたそうです (^^;)。 ほんとかなぁ...(^^;)? むかし、ハンガリーの大学の音声学の教授がイタリアを旅行した 時に、駐車場のおばさんが「私もご先祖様は有名なハンガリー人 だったのよ (^^)」とイタリア語で話しかけられたそうです。で、そ の名前を聞いたら「なんでも、コシュート・ラヨシュとか言ったそ うよ」と言われて仰天したとか。彼女の家に晩ご飯に招待されて 行ったら、お爺様がご健在で、「本当にコシュートそっくりだっ た!」と先生はおっしゃっていましたが、う〜ん、これもどうなん だろう (^〜^;)?
>93 :世界@名無史さん > 遊牧民族が単一民族・人種であることは有り得ない > フンやアヴァールやモンゴルも色々な部族・人種の混じりあった > 両同体なのだ おっしゃる通りだと思います。非常に大事な視点ですよね。
>101 :世界@名無史さん > ハプスブルク家はまだ国籍は取得してないの? ハプスブルク家当主のオットー・ハプスブルク大公殿下はドイツ 連邦共和国の国民です。 ハプスブルク家の人間は旧支配地(オーストリアやハンガリー) への入国は禁じられていたのですが、どうしてもハンガリーを訪問 したいというので、80年代だったかな?、当時の社会主義政権が人 道的措置として、オーストリアとの国境の町のショプロン(エーデ ンブルク)を訪問することを認めた経緯がありました(やはり首都 のブダペストはまずいだろうという政治的配慮がありました)。も ちろん、継承国達は「ハンガリーの領土的野望の復活だ!」とまた また大騒ぎしましたが...。 現在ではもちろん、自由にハンガリーに入国できますし、その 後、オーストリアも訪問したんじゃなかったでしたっけ? オットー大公がハンガリーに対して非常に愛着を抱いているとい うのは事実のようです。(前にも書いたように、僕のことを“同 胞”だと誤解したということは、彼の意識の中では自分はハンガ リー人でもあるという意識があることの現れでしょう。実際、オッ トー氏は日本と ― ドイツではなく ― ハンガリーの友好のため に、色々精力的に活動をされて?「います。)
これで、だいたいこの掲示板の主な発言には全てコメントを付け たと思います。2チャンネル的な文体ではなく、皆さんをしらけさ せてしまったと思いますので、その点は申し訳けありませんでした m(._.)m。こういうスタイルには慣れてないもので (^.^;)ゞ。 性格的に、どうしても長文になる傾向があり、皆さんもうんざり なさったと思います。「2チャンネルのルール違反だぞ (`0';)!」 という声が聞こえてきそうでです。しかし、自分なりに短くまとめ ようとしたために(効果が見られない (^^;))、結構乱暴な説明 や、本当は微妙に違うのだが、そこまでは言及していない部分もた くさんありました。すみません。 2チャンネルの掲示板は、恐らく、アクティブな方々以外に、そ の何百倍、何千倍ものROMの方々がいらっしゃるだろうと考えて いますので、検索エンジンなどで「ハンガリー」で検索した場合 に、ここを覗くハンガリーに興味のある人もたくさんいるだろうと 思い、あえて無粋な書き込みをさせていただきました。不愉快に感 じられた点がありましたら(絶対にあったはず (^^;))、申し訳け ありませんでした m(._.)m。これからもハンガリーのことをよろし くお願いします!
>>150 しい坊さま、どうもお疲れ様でした。
ちなみに、「マジャール」ではなく「マジャル」であるのと同様に、
ここも「2チャンネル」ではなく「2ちゃんねる」ですので念のため。
これからもどうぞ宜しく。
152 :名無しさん
>
>>150 > ちなみに、「マジャール」ではなく「マジャル」であるのと同様に、
> ここも「2チャンネル」ではなく「2ちゃんねる」ですので念のため。
おっと、失礼しました m(._.)m! 今後、気をつけます。
> これからもどうぞ宜しく。
こちらこそ、よろしくお願いします。
発音のツッコミはちょっと厳しすぎるって。 それくらいおおらかに見てあげないと、 2chの書き込みは突っ込まなきゃいけないところだらけになる。 いま話題の「タリバン」はターリバーンもしくはターレバーンにしろ、とかね。
>>131 しい坊さん頼もしいですね。さてマジャルとモンゴルの名の繋がりはなんかで1度読んだ事が
あるだけで書き込んでおきながらちょっと頼りない。マジャルの語源は今のところ不明ですか?
>>146 トリアノン条約後は海軍は無くなっていたのではないのですか。だったら元提督の方が良いと
思うのですが。リエカは河の意だそうです。フィウメもそうでしょうか。
156 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/03 00:15
しい坊さま 51です。歴史好きの友人(ご主人はハンガリー人)から聞いた話ですので 正確ではないかも知れませんがハンガリーの建国伝説におけるアッティラ関 連の件です。 それによれば、フン族とマジャール族はもともとひとつの民族だったいうこ とになっております。 その当時の彼らの王(族長のことでしょう)ニムロードの息子のフノルとマ ジャールが狩りに出かけて牡鹿に出会い、その後を追ってたどり着いた土地 現地の娘と結婚して住み着きました(ドンの河口あたりのことだそうです)。 やがて、その地も手狭となり新天地を求めて旅立つかが一族の中で議論され ましたした。その結果、フノルの子孫であるフン族は神の剣の飛んでいった 西の方角へと向かい、マジャールの子孫はドン川の河口の地に居残ってフン 族からの知らせを待つことになったそうです。 西に向かった当時のフン族の長の息子がアッチラとブダです。 フン族はドナウとティサの間の地に落ち着きその地で神の剣を見つけます。 そしてその神の加護の元に「世界征服」をしたことになっています。 古い年代記(たぶんゲスタ・ウンガロルムのことでしょう)ではこの伝説を 基にアールパード(後に残ったマジャールの子孫)達の「フンニア」(ドナ ウの東)征服を正当化しているのだそうです。つまりフンニアはアッチラが 神の剣を見つけた土地でフン族とマジャール族にとっては神に約束された土 地ということになるのだそうですです(フン族の征服した土地ともみれるが、 一般にはドナウの西のパンノニアに対してドナウの東)。>> さて伝説ではアッチラにはアラダールとチャバの二人の息子がいて跡目を巡 りフン族を二分して凄惨な争いをしたといいます。流血の闘争の結果はチャ バがアラダールを殺して勝利を得ましたが、一族のうち生き残ったのは数千 人という悲惨な状況になってしまいました。ここにおいてチャバはマジャー ル族を呼びに戻ることを決意します。マジャール達の力を加えてアッチラの 領土を取り戻そうとしたのです。そこで東の果てのセーケイに一族のうち3 千人を残しマジャールの住む祖先の地に向かって出発しますが、出発に際し 儀式を行い、セーケイに残る一族に危険が迫ればすぐさま駆けつけることを 誓ったのです。ここにおいてチャバはマジャールの地へ出発しかけましたが セーケイが敵に襲われ3度戻る破目になりました。そして4度めに出発して その後戻ることはなかったのです。百年後、再びセーケイが敵に襲われたと きチャバ達は当然もうこの世にはいなかったのですが、天から舞い戻ってき てセーケイの危機を救ったといわれています。セーケイに残ったもの達がト ランシルバニアのセーケイ人の祖先になったと言われているわけですが、彼 らにとってチャバは誓いを守りセーケイを救う勇者なのだそうです。 東に向かったチャバ達ははマジャールの住む地に無事にたどり着き肥沃で美 しいフンニアのことを語り旅立つことを勧めました。マジャールの若者たち は出発に乗り気でしたが、長老たちは今はその時ではないと時が満ちるのを 待つように言い、すぐには出発しませんでした。 そして4百年後にマジャール達は「約束の地」に向かったのです。 因みにチャバがアールパードの一族の先祖となるのだそうです。 全く余談ですが第二次大戦中のハンガリー軍の対空戦車はニムロード、 装甲車はチャバの名がつけられています。 余談ついでですが王宮の丘にあるハンガリーの昔のトーテムであるト ゥルル(鷲の怪獣みたいな想像上の生き物)が守っている剣が伝説の 神の剣を表しているのだそうです。 素人が伝聞を元にして書いてますのでご笑覧ください。 教えてくれてTさん感謝。
>155 :梵阿弥さん
>
>>131 > マジャルの語源は今のところ不明ですか?
magyar「マジャル」は古語では mogyer「モジェル」で、ウ
ゴル語ないしフィンウゴル語時代の複合語 (magy-ar) だろう
と考えられています。前半分の magy- ないし megy- はハンガ
リー語に一番近いと言われているヴォグル語の自称であるマン
シ (måńś) と同源で「人」の意味だった
と推定されています。もしかすると、印欧語族の *manu「人」
(英語の man)と同系かもしれないという意見もあります。後
半の -ar ないし er は embër「人」の後半の ër
や férj「夫」の ér と同源の *er「人」とさ
れています。(つまり、語源的には「人間人」という意味だっ
たのか (^^;)?)
magyar<mogyer の再構形は *mańć3「マン
チャ」で「モーシュ人」という意味だったと考えられていま
す。
>155 :梵阿弥さん
>
>>146 > トリアノン条約後は海軍は無くなっていたのではないのです
> か。
トリアノン条約以降はハンガリーは軍隊を持つことを禁止され
ましたが、実際には「自衛隊」という呼称の戦力を有しておりま
した(どっかで聞いた話だ (^^;))。海港を失ったために、「海
軍」(haditengërészet) はなくなりましたが、「水
軍」とも言える「河川軍」(folyami er?) は有しておりまし
た。
> だったら元提督の方が良いと思うのですが。
オーストリア=ハンガリー海軍の少将 (ellentengërnagy)
であった本人が海軍提督 (tengërnagy) を名乗っていたの
で、難しいところです。アフガニスタンの北部同盟の“マスード
司令官”なんていう称号も、本人が勝手に名乗っているもので
しょうが、新聞はその通りに報道しています。(アフガニスタン
の用語は個人的には「司令官」よりは「大将」、「戦士」よりは
「武士」と呼んだ方がいいのではないかと考えていますが...。)
米国でも大統領経験者は退任後も「大統領閣下」と呼ばれます
し、確か欧州でも退役軍人も退役前の階級で呼ばれる習慣があっ
たはずだと思います。
基本的には海軍が無くなった後でも、本人は海軍提督を名乗っ
ておりましたし、ハンガリー政府も公式に海軍提督と呼んでおり
ましたし、周辺諸国も海軍提督として扱っておりましたから、
こっちで勝手に「元海軍提督」なんだから「元海軍提督」という
呼称にすべきだと勝手に変えてしまうべきではないのではないか
と思います。(そうしてしまうと西洋文化の大切な部分が見えな
くなってしまうかもしれません。)
> リエカは河の意だそうです。フィウメもそうでしょうか。
Fiume はハンガリー唯一の海港で、ハンガリー王国直轄の自由
都市でしたが、住民の大半はイタリア人でした。ですから、この
町の名前はイタリア語で、意味は「川」です。クロアチア語の
Rijeka も同じ意味です。
>>158 政府が提督と呼んだというのも面白いですね。提督といえば公務員な訳ですがまさか國家から
俸給を受けていた訳ではないでしょう?海をよこせ(フィウメを租借させろとか)という無言の
意思表示でしょうか。
故アマド・シャー・マスド氏はれっきとした国防相でしたよ。ラバニ政権の支配域は國土の10%
でしたが。國連の議席は持っています。國防相を司令官と呼ぶのがいいのかどうかは
解りませんが。
文字化けのための訂正です 特殊文字を使った表示はやはりむずかしいですね。 一応、修正してみましたが、今度はどうでしょうか? >157 :しい坊 :01/10/04 13:30 > magyar「マジャル」は古語では mogyer「モジェル」で、ウ > ゴル語ないしフィンウゴル語時代の複合語 (magy-ar) だろう > と考えられています。前半分の magy- ないし megy- はハンガ > リー語に一番近いと言われているヴォグル語の自称であるマン > シ (måńś) と同源で「人」の意味だった > と推定されています。もしかすると、印欧語族の *manu「人」 > (英語の man)と同系かもしれないという意見もあります。後 > 半の -ar ないし er は embër「人」の後半の ër > や férj「夫」の ér と同源の *er「人」とさ > れています。(つまり、語源的には「人間人」という意味だっ > たのか (^^;)?) > > magyar<mogyer の再構形は *mańć3「マン > チャ」で「モーシュ人」という意味だったと考えられていま > す。 magyar「マジャル」は古語では mogyer「モジェル」で、ウ ゴル語ないしフィンウゴル語時代の複合語 (magy-ar) だろう と考えられています。前半分の magy- ないし megy- はハンガ リー語に一番近いと言われているヴォグル語の自称であるマン シ (måńś) と同源で「人」の意味だった と推定されています。もしかすると、印欧語族の *manu「人」 (英語の man)と同系かもしれないという意見もあります。後 半の -ar ないし er は embër「人」の後半の ër や férj「夫」の ér と同源の *er「人」とさ れています。(つまり、語源的には「人間人」という意味だっ たのか (^^;)?) magyar<mogyer の再構形は *ma&ńć3「マン チャ」で「モーシュ人」という意味だったと考えられていま す。 >158 > トリアノン条約以降はハンガリーは軍隊を持つことを禁止され > ましたが、実際には「自衛隊」という呼称の戦力を有しておりま > した(どっかで聞いた話だ (^^;))。海港を失ったために、「海 > 軍」(haditengërészet) はなくなりましたが、「水 > 軍」とも言える「河川軍」(folyami er?) は有しておりまし > た。 これは正しくは、 トリアノン条約以降はハンガリーは軍隊を持つことを禁止され ましたが、実際には「自衛隊」という呼称の戦力を有しておりま した(どっかで聞いた話だ (^^;))。海港を失ったために、「海 軍」(haditengërészet) はなくなりましたが、「水 軍」とも言える「河川軍」(folyami erő) は有しておりまし た。 です。
>159 > 提督といえば公務員な訳ですがまさか國家から俸給を受けてい > た訳ではないでしょう? どうなんでしょうね? 我が家に戦前の公務員の俸給表があっ たんですけど、ちと、見つけられません。海軍少将として俸給を 受けていたかどうかは別にして、先も書きましたように、職業軍 人(特に将官)が退役した後は、退役前の最後の階級で呼ぶのが 一般的ですから。多分、米国でも同じではありませんでしたっ け? > 海をよこせ(フィウメを租借させろとか)という無言の意思表 > 示でしょうか。 違うと思います。単なる儀礼だと思います。また、当時のハン ガリーに「フィウメを“租借”させろ」という意志はなかったで しょうね。“租借”ではなく“返還”でしょう (^^;)。(日本政 府も北方領土の“租借”は要求していませんよね?) > 故アマド・シャー・マスド氏はれっきとした国防相でしたよ。 > ラバニ政権の支配域は國土の10%でしたが。國連の議席は持っ > ています。 なるほど! > 國防相を司令官と呼ぶのがいいのかどうかは解りませんが。 文民ではなかったのでしょうか? また、他の軍閥 (?) のリー ダー達も日本では「司令官」と呼ばれていますよね。彼らもかつ てのラバニ政権下では実際に将官ないし、部隊の隊長だったので しょうか?
156 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > 歴史好きの友人(ご主人はハンガリー人)から聞いた話ですの > で正確ではないかも知れませんがハンガリーの建国伝説におけ > るアッティラ関連の件です。それによれば、フン族とマジャー > ル族はもともとひとつの民族だったいうことになっておりま > す。その当時の彼らの王(族長のことでしょう)ニムロードの > 息子のフノルとマジャールが狩りに出かけて牡鹿に出会い、そ > の後を追ってたどり着いた土地現地の娘と結婚して住み着きま > した(ドンの河口あたりのことだそうです)。 はい、それは、いわゆる「フン・マジャル伝説群」で伝えられ ている伝説です。いつ頃からそういう“伝説”が騙られるよう に、違った、語られるようになったのかは不明ですが、ハンガ リー人がフン族と親縁関係にあるという話はすでにアノニムスの 歴史書『ゲスタ・フンガロールム』に記述があります(13世紀に 著された、現存する最古のハンガリーの史書です。ただし著者は 歴史学者ではなく、13世紀の欧州の状況を過去に投影するなど、 内容に信憑性がないことはわかっています)。フン・マジャル同 系説はケーザイ・シモンやカールティ・マールクが表わした『年 代記』には詳しく記述されています。ただ、現在の研究では、こ れらがハンガリー人のカルパチア盆地への征服定住前の伝説を含 んでいるという考えは否定されています。恐らくは中世の歴史家 達がハンガリー人の歴史を偉大なものに見せるために、パンノー ニアのゲルマン人やハンガリー王国の都市に居住するドイツ人市 民、ドイツ人移民等の諸伝説や、吟遊詩人 (Spielmann) が歌い伝 えたニーベルングの歌に含まれている西欧世界のフン伝説等や、 スロヴェニア人の仲介で伝えられた東ゴート人のアッティラ伝説 等から創作したものではないかと想像されています。言わば、大 和政権が征服した多くの地方豪族等の伝説を自らの伝説に統合し た『古事記』のようなものだと考えればよろしいでしょうか? 楽しい話ですが、学術的には完全に史実ではないと証明されて いると言ってよいでしょう。しかし、楽しい話ですから、当然、 今のハンガリー人達は色々なものの名前にそれらの登場人物の名 前を使ったりします。我々日本人も伊弉諾(いざなぎ)や伊弉冉 (いざなみ)の話や、素戔嗚(すさのお)の話は血湧き肉踊るも のがあり、アニメなどにもなっていますが、本気でそれを史実だ と信じている人は、一部の「新しい日本史を考える会」の人達位 なものでしょう (^^;)。ハンガリー人もだいたい同じスタンスで す。 この一連の「フン・マジャル伝説群」は史実ではありません が、ハンガリーを研究する者であるならば、当然、常識として 知っていなければならないということは言うまでもありません。 ちょうど日本史を研究する外国人の研究者も『古事記』は知って いなければならないように。しかし、誰も『古事記』の記述を史 実だと主張はしませんよね?(『古事記』の物語は好きだという 人は多いでしょうけど。)
163 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/05 00:12
しい坊さま ありがとうございます。私もこれが事実とは思っておりません。 ただ、ハンガリー人の考え方の中にこのような伝説があるという ことは承知しておくべきことと考えます。 一方で西欧諸国では悪魔の如く恐れられるアッティラの末裔を自 称し、また一方では初代国王イシュトヴァーン1世に対してロー マ教皇が王冠を授ける際に使者に対して「汝らの首長は真の使徒 なり。」と言ったという使徒王国(これも伝説さそうですが)の 伝承を信じているというあたりが非常に興味深い部分です。 伝説といえばマーチャーシュ王の世直し伝承も面白いですね。 周囲の人間にとっては織田信長の如き理解不能の人物だったように 思えるのですが、どういった経緯であのようなお忍びで国内を回った という伝承が生まれたのか興味のあるところです。 フニャディ家ですがフニャディ・ヤーノシュシュの父の代にワラキア から逃れてきたワラキア貴族だそうでフニャディの姓はフニャドの地 を領地として与えら時に授かったものだそうです。人種的な問題を究 明するならばアルバ・ユリアのフニャディ家の墓の骨を調べたらと思 いますが、当時の彼らはおっしゃる通りイシュトヴァーン王冠に属す る領土の貴族である以上、ハンガリー人だとしか思ってなかったので しょうね。
>163:ギシュクラ・ヤーノシュさん > 一方で西欧諸国では悪魔の如く恐れられるアッティラの末裔を自称し、ま > た一方では初代国王イシュトヴァーン1世に対してローマ教皇が王冠を授 > ける際に使者に対して「汝らの首長は真の使徒なり。」と言ったという使 > 徒王国(これも伝説さそうですが)の伝承を信じているというあたりが非 > 常に興味深い部分です。 “使徒王国”に関しては“伝説”とまで言い切ってしまっていのかどうか はわかりません。要するに、ヴァチカンにその資料が現存していないという ことで、今となっては本当かどうか確認のしようがないということのようで す。(中世のハンガリー人達の捏造である可能性も大いにありえますね。) > 伝説といえばマーチャーシュ王の世直し伝承も面白いですね。周囲の人間 > にとっては織田信長の如き理解不能の人物だったように思えるのですが、 > どういった経緯であのようなお忍びで国内を回ったという伝承が生まれた > のか興味のあるところです。 マーチャーシュ王の全国漫遊は(例えば、農民の若者の姿に身を窶して悪 人をこらしめた『コロジュヴァールの悪代官』物語とかですが)、水戸黄門 の全国漫遊同様、史実ではないようです。このマーチャーシュ王の伝説は後 世の農民達が作り出したようですが、実際にはマーチャーシュ王の時代に は、国王専属の傭兵部隊である黒軍(フェケテ・シェレグ)の維持費や、コ ルヴィナ文庫の充実費用、その他のために、非常に高額だったと言われてい ます。それなのにマーチャーシュの人気が高いのは、彼の黒軍等による中央 集権化により、(彼の治世下だけの一時期ですが)下克上の群雄割拠の戦国 時代にピリオドを打ち、農地が荒らされることも、戦乱で命が脅かされるこ ともなくなったためだと分析されています。高い年貢を支払っても十分見返 りがあったということで、要するに、現代の北欧のような“高福祉高負担” 社会を実現したためだと考えられています。(想像するに、ギシュクラ・ ヤーノシュさんはこのことはご存じだろうなと思います。多分、ハンガリー 史がご専門なのでは?)
>163:ギシュクラ・ヤーノシュさん > フニャディ家ですがフニャディ・ヤーノシュシュの父の代にワラキアから > 逃れてきたワラキア貴族だそうでフニャディの姓はフニャドの地を領地と > して与えら時に授かったものだそうです。人種的な問題を究明するならば > アルバ・ユリアのフニャディ家の墓の骨を調べたらと思いますが、当時の > 彼らはおっしゃる通りイシュトヴァーン王冠に属する領土の貴族である以 > 上、ハンガリー人だとしか思ってなかったのでしょうね。 フニャディ家の出自に関しては色々な説があります。当時のハンガリー人 歴史家のヘルタイ・ヤーノシュはフニャディ・ヤーノシュはジグモンド王と ルーマニア人農民の娘との間に生まれた非嫡出児だったと書いています(こ れは彼が非嫡出児だと貶めるためではなく、国王の御烙印であったと彼を誉 め称えるための記述です)。デーチ・シャームエルは、フニャディ・ヤーノ シュはジグモンド王とマーリア王妃の間にダルマチアで生まれた嫡出児だと 主張しています。他の記述によればヴェロナの Scaliger 一族の血を引いて いるということだし、コルニデス・ダーニエル等によればポーランドのコル ヴィン一族の末裔だということです。別の意見ではホッローシュ(大烏の) ないしフニャディ=セーケイあるいはフニャディ=オラー(オラーはルーマニ ア人という意味)という姓の一族の末裔だと主張しています。プライ・ジェ ルジュはルーマニア人公が先祖だと主張しています。トゥローツィやガレ オッティ、トベロ、アエナス・シルヴィウスはトランシルヴァニアのルーマ ニア人だったのではないかと 考えています。 近代になってテレキ・ヨー ジェフ伯爵は、周到な反証を挙げてこれらの仮説を否定しました。彼はブダ イ・フェレンツやカズィンツィ・フェレンツ、ペーツェイ・ヨージェフらと 同じように フニャディ・ヤーノシュは 無名のハンガリー人貴族の出身だっ たと考えていました。 ナジ・イヴァーンも同じ考えです。 その後レー ティ・ラースローとチャーンキ・デジェーは、フニャディ家は恐らく、アル バニア人、ルーマニア人、ブルガリア人、セルビア人等の血が混ざったルー マニア人の家系の出身だったのではないかと主張しています。ま、未だにフ ニャディ家の出自は決着は付いていないのですが(要するにフニャディ家の 出自に関する文書の証拠が何も無いので、推測するしかない)、少なくとも ハンガリー側の研究では ハンガリー人にとっては 全く嬉しくはないはずの ルーマニア人の血が入っていたという可能性は否定されていないということ ですね。 [続く]
>165 [続き] フニャディ家についてわかっている(=文書の残っている)一番古い先祖 はシェルブないしショルブと、ラドゥルという兄弟です。(ラドゥルの方は いかにもルーマニア人的な響きの名前ですね。)シェルブないしショルブは トランシルヴァニアのヴァイダ(太守かなぁ...?)として国王から城を賜 ります(だからここから記録が残っているのでしょうが。フニャディ家はこ のとき突然ハンガリー史に登場します。フニャディ家のそれ以前の歴史は全 くの謎です)。その城がフニャドヴァール (Hunyad-vár) ないしフ ニャド・ヴァーラ (Hunyad vára) です。(vár は「城」 で、vára は「の城」です。)ヴァイダのフニャド城があるというの で、この村はヴァイダフニャド (Vajdahunyad) と呼ばれるようになりまし た。この地名のルーマニア語名はフネドワラ (Hunedoara) です。当時のハ ンガリー語のvの発音が実はwだったということがわかります。つまり、当 時のハンガリー人は「フニャド・ワーラ」と発音していたのですね。で、 シェルブないしショルブの子どもが、長男のマゴシュ(ハンガリー語で「高 い」という意味です)、次男のヴォイク(ヴァイクと同じでハンガリーの初 代国王イシュトヴァーンの幼名と同じです。これはハンガリー人の名前。 ヴォイクにはブティという別名もあったらしい)、三男のラドゥルでした。 で、次男のヴォイクはモルジナイ・エルジェーベト(後に彼女はチョルノコ シ・ヤロスラーヴの妻となります。夫と死別したのかな?)と結婚して、彼 らの子どもが長女(名前不詳。成年後セーケイという姓の男性の下に嫁い だ)、長男ヤーノシュ(後にハンガリー摂政、マーチャーシュの父)、次男 ヤーノシュ(後にセレーニュシェーグの太守)、次女マーリア(成年後アル ジェシ・マンズィッラに嫁ぐ)でした。で、この長男のヤーノシュがシラー ジ・エルジェーベトとの間に設けた子どもが長男ラースロー(ベルグラード [ベオグラード]長官)と次男マーチャーシュ(後に国王)でした。マー チャーシュは最初ポディーブラット・カタと結婚しますが、後にナポリ国王 の娘、ベアトリーチェ王女を妃にします。で、マーチャーシュは嫡男に恵ま れず、ポーランドのヴロツワヴ市のブルジョアの娘との間に設けたヤーノ シュだけが唯一の息子です。息子はコルヴィン・ヤーノシュと名付けられ、 後にクロアチア=スラヴォニア=ダルマチア太守、オッペルン公爵になりま す。彼はフランゲパン・ベトリックスと結婚し、長男クリシュトーフと長女 エルジェーベトの2児を設けますが、2人とも幼く夭逝しています。これで フニャディ家の血は途絶えます。 フニャディ・ヤーノシュがジグモンド王の御烙印だという伝説は、それま で全く無名の一族だったフニャディ家がヤーノシュの代になって、ジグモン ド王の厚い信頼を得て、あっと言う間に出世し、なんと最後には国の副王、 摂政にまでなってしまったので、実は国王の隠し子だったのではないかとい う勘繰りが生まれたためでした。もちろん、真相はそうだったのかもしれま せん。またルーマニア人出身説を取れば、ルーマニア人側は「それは当然 ルーマニア人だったから客観的に彼は優秀だったから出世したのだ」と主張 するでしょう (^"^;)。
167 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/05 13:48
しい坊さま 詳細なレス感謝です。 私はハンガリーの歴史を趣味で調べているだけの一介の素人です。 フニャディ家の時代は非常に興味のある部分でご教示感謝いたします。 ヤノシュ・フニャディのジグモンド(神聖ローマ皇帝ジギスムント) のご落胤説というのは彼の在世中からあったそうですね。そうとでも 考えないと理解不能の出世ぶりだったのでしょうね。 マーチャーシュ王の時代に御用学者がフニャディ家をローマ貴族の末 裔だとかいう系図を作ったらしいですが、秀吉が天皇のご落胤という 話を作らせたのと通じるところがありますね。 ところでハプスブルクのエリザベート皇后(シシー)の侍従でフニャ ディ伯爵なる人物がいますし、戦前のハンガリーを旅行したイギリス 人の旅行記にもフニャディ伯なる人物が登場しますが、これはヤノシュ の兄弟の末裔でしょうか。オーストリアのスケート選手にフニャディ姓 の人物もいますね。 ベアトリーチェ王女 なんか物凄く評判の悪い人物ですね。私はマーチャーシュ王を毒殺した という俗説を聞いたことがありますし、コルヴイィン・ヤーノシュも彼 女に殺されたという俗説があるそうです。 フェケテ・シェレグ 私は黒衛軍の方が語感が良くて好きですが・・・。 非常に興味深い軍隊ですね。チェコのフス派の強硬派であるターボル派 の残党を主力にしてるのですね。 おそらくはマーチャーシュに降参した今のスロバキアを実質的に支配し たチェコ貴族出身の傭兵隊長ヤン・イスクラ・ズ・ブランディサの軍団 が主体なのでしょうが、クセジュのチェコ史ではもう一つのフス派の残 党であるペトルのアクサミットの配下の軍団を撃破し指揮官を処刑して 配下に収めたと書かれています。 マーチャーシュ王の死後、大貴族連が黒軍を解体(というかだまし討ち) にしてなければモハーチであの有様にはならなかったようにも思います。
168 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/05 13:54
しい坊さま マーチャーシュ王も「ヨー・キラーイ」(正義の王?)と 言われてますが「イシュトヴァーン・ヨー・キラーイ」という ロックオペラがありますね。 私は全くハンガリー語がわかりませんがビデオやCDで楽しんで ます。
ハンガリーよりルーマニアのほうが モンゴル顔が多くないですか?
170 :
世界@名無史さん :01/10/05 22:23
>>169 ハンガリーは混血でほとんどアジア人の血は残ってないでしょう。
でも向こうの人と話したら俺達にはアジアの血が流れている、と
言ってましたけど(それは俺が日本人だから合わせたのかな?)
ブタペストの王宮の辺りにある戦前の旧国防省を見た。
弾丸だとかの後だらけで、ボロボロなのね。
他は修復したけどここだけは戦争を忘れないために残してあるんだって。
171 :
世界@名無史さん :01/10/05 22:53
とても親日的な人がいてあったかいよ。
172 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/05 23:24
>170 あの建物をどうするかは結論が出ていないようですね。 私の聞いた話では撤去してもあの場所は処刑場の跡だし 復元するのも問題があるしとのこと。 昨年行ったら旧首相官邸が工事中でした。 私の印象ではハンガリー人はアジア人が嫌いなようです。 ブダペストの住人である知人は結構不愉快な目にあって いるようですよ。
173 :
世界@名無史さん :01/10/06 00:28
日本好きでも中国、韓国人嫌いは多い。
174 :
ウスタシャ :01/10/06 01:16
リエカを"返還"しろとは全くキミはアタマのイカれた大ハンガリー主義者な のかい? そりゃラヨシュは確かにラヨシュだがよ。ラオシュくらい見逃すのが人間の 寛容ってもんだろう。 っていうかもうちょっと周り見て書き込もうや。 発音のツッコミは厳し過ぎる、とか読む気しねえ、とか言われてんじゃん。 あんまり自己中だと周りの民族に嫌われるよ。 まあ、書き込むのは自由だから、あえて直せとか言わん。好きに書くがいいさ。 俺は、一言言いたかっただけだ。 スラブ人なんかの味方しちゃった。あ〜ヤダヤダ……。
>167 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > マーチャーシュ王の時代に御用学者がフニャディ家をローマ貴族の末 > 裔だとかいう系図を作ったらしいですが、秀吉が天皇のご落胤という > 話を作らせたのと通じるところがありますね。 封建時代には多分、世界共通の現象なのでしょうね。ある人物が優秀だとする と、それは偶然ではない、やはり、そういう高貴な血が流れていたんだというこ とで、皆も納得するのでしょう。支配者本人も自分でも「やはり俺は只者ではな かったのか」と納得するでしょうし...。現代でも、例えば米国のパウエル現国 務長官(なんで外務大臣って訳さないのかは謎)が共和党の大統領候補として取 りざたされた時に、黒人である彼のルーツが色々なマスコミで調査されて、報道 されましたが、その報道が事実ならば、確か、ユダヤ人の血も、英国王室の血も ちゃんと入っていたそうです (^^;)。(記憶違いだったらごめんなさい。) ちなみに、血統って、調べてみると、相当有名な家系とでも、探せば、意外と 少ない親等数で誰もが繋がっているものなのですよねぇ...。多くの場合は単に ミッシングリンクの部分に関する情報が見つからないだけで。(だから人類皆兄 弟 (^^;)!)
>167 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > ところでハプスブルクのエリザベート皇后(シシー)の侍従でフニャ > ディ伯爵なる人物がいますし、戦前のハンガリーを旅行したイギリス > 人の旅行記にもフニャディ伯なる人物が登場しますが、これはヤノシュ > の兄弟の末裔でしょうか。オーストリアのスケート選手にフニャディ姓 > の人物もいますね。 歴史の方は全然専門外なので、詳しくないのですが、一応、マーチャーシュ王 のフニャディ家は Hunyadi と書かれることが多く(実際には当時は揺れがあっ た)、後世のフニャディ家は Hunyady と書かれることが多かったと思います。 (y は i の古形です。音価はただの [i]。) エルジェーベト・アマーリア・エウゲーニア王妃(エリザベート皇后)の侍従 の件は存じあげないのですが(すみません)、他のフニャディ家には1607年にル ドルフ王から貴族の称号を受けたフニャド城県出身のナジ・アンドラーシュの末 裔の“ケートヘイ伯爵”(あるいは“キシュクレスチェン貴族”)であるフニャ ディ家があります。おそらくフニャド城県の出身だったために(あの名門フニャ ディ家にあやかる気持ちもあって)フニャディ姓(「フニャドの」の意味)を名 乗ったのではないでしょうか?(もちろん、同県出身者ですから、親戚関係にも あったかもしれませんが、それに関する資料はないようです。)ハンガリー王国 の中央政界でも錚々たる人物を輩出している一族です。多分、侍従の方はこっち の一族なんでしょうね。調べれば分かると思いますが...。すみません、手抜き で。どちらにせよ、マーチャーシュ方のフニャディ家は血統が絶えていることは 間違いないと思います。
>167 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > ベアトリーチェ王女 > なんか物凄く評判の悪い人物ですね。私はマーチャーシュ王を毒殺した > という俗説を聞いたことがありますし、コルヴイィン・ヤーノシュも彼 > 女に殺されたという俗説があるそうです。 まぁ、ベアトリックス王妃はナポリ王アラゴニアのフェルディナンドの娘で あったわけですから、当時、ルネサンス文化の中心地であった先進地域から、ハ ンガリーのような野蛮で辺鄙な国に輿入れさせられたベアトリックスは不幸だっ たのではないでしょうか? マーチャーシュはルネサンス文化の導入に熱心でし たが、所詮はブダ山の王宮の中だけであり、一歩王宮の外に出れば、ただの田舎 でしたからね。しかも印欧語族であるイタリア語を母語とするベアトリックスに は、日本語のようなハンガリー語は苦痛だったのではないでしょうか (^^;)? (夫とはラテン語で会話していたのかしら?)しかも、子宝に恵まれず、亭主は ポーランド人の町娘との間に勝手に御烙印を作ってしまうし...。正室としての ベアトリックスがコルヴィン・ヤーノシュを憎んだというのもわかります ね...。非常に美しかったので、マーチャーシュは完全に尻に敷かれていたとい う説もありますが (^^;)。
>167 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > フェケテ・シェレグ > 私は黒衛軍の方が語感が良くて好きですが・・・。 別に Feketesereg (legio nigra) だけではなく、外国の用語の訳語はむ ずかしいですよね。それぞれが色々な試みをされているのだと思います。 日本語の語呂の問題もありますから、もしかすると「黒衛軍」の方がいい かもしれませんね。ただ僕が「黒衛軍」としなかったのは、「〜衛軍」は 通常“〜 őrség”とか“〜 gárda”の訳に当てて いるからです。悩むところです。日本語としての語感を大切にするか(日 本語である以上は最も重要視しなければなりません)、意味の正確さを大 切にするか(無理矢理日本語で自然に訳してしまうと、文化の大切な違い が見えなくなってしまう)、永遠の課題ですね。 戦前の文芸誌の Nyugat についても僕などは『西』とだけ訳してしまい ますが、ハンガリー史の田代 文雄さん等は確か『西方』と訳されていたと 思います。徳永 康元先生は『西洋』だったかな? お2人が2文字にこだ わるのは、1文字だと日本語として座りが悪いからです。確かにそうだと 思うのですが、ハンガリーは西洋の国ですから『西洋』と訳してしまって は、当時のハンガリーの“西欧を見習え”という意識は伝わらないと思い ます。また『西方』も、ちと違うなぁと感じるんです。でも『西』では確 かに座りが悪いし...。一番いいのは2文字で「西」の意味の単語があると いいんですけどね。 ハンガリーの政党の Kisgazda 党も、日本のマスコミ等では「小地主 党」と訳されることが多いのですが、スラブ研究センターの家田 修さんな んかは「kisgazda は小規模の自作農で不在地主とは違う」というので確か 「小農業者党」とか、何とかいった訳語をあてられていたと思います。確 かに概念としての訳語はこれが正確なのですが、これでは kisgazda とい うハンガリー語では日常語の、言わば、日本語では大和言葉に当たる用語 の大切なニュアンスが失われてしまいますよねぇ。それに対しては僕は結 構アレルギーなんです。何がいいんでしょうね?「百姓党」かな (^^;)? Feketesereg の訳語についても、今後考えて行きたいと思います。やは り座りの問題から一番いいのは2文字で「黒」だけの意味の熟語があると いいんですけどね。
>167 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > 非常に興味深い軍隊ですね。チェコのフス派の強硬派であるターボル派 > の残党を主力にしてるのですね。 > おそらくはマーチャーシュに降参した今のスロバキアを実質的に支配し > たチェコ貴族出身の傭兵隊長ヤン・イスクラ・ズ・ブランディサの軍団 > が主体なのでしょうが、クセジュのチェコ史ではもう一つのフス派の残 > 党であるペトルのアクサミットの配下の軍団を撃破し指揮官を処刑して > 配下に収めたと書かれています。 全身黒づくめの制服 (?) であり武器も黒かったので「黒軍」と呼ばれた とも言われていますが、なんか、かっこいいですねぇ。マーチャーシュが コルヴィヌス(オオガラス)王を名乗ったこともあり、イメージ的にもま さにマーチャーシュの軍隊でした。欧州史上でも(シャルル七世の常備軍 と並んで)最も初期の常備軍だったんですよね。トルコに対抗する目的 と、戦争が終わって野党集団になっていた元傭兵達を雇用することで国内 治安も達成するという一石二鳥を狙ったもののようですね。 > マーチャーシュ王の死後、大貴族連が黒軍を解体(というかだまし討 > ち)にしてなければモハーチであの有様にはならなかったようにも思い > ます。 マーチャーシュ王の後を継いだウラースロー二世の治世下では国庫が逼 迫し、黒軍維持のための年間40万金フォリントの費用が捻出できず、黒軍 の兵士達は略奪を開始したために、黒軍総大将のキニジ・パールが彼らを “成敗”せざるをえなくなったものですね。専らチェコ人からなる反乱黒 軍はこの会戦で4〜5百名の戦死者を出したそうです。首謀者は処刑さ れ、勅令で黒軍は解体されましたよね。降伏した黒軍の兵士の内、優秀な 者は、その後、国王軍、副王軍、トランシルヴァニア太守軍に仕官し、 残った黒軍の残党はオーストリアやモラヴィアで「黒軍」の名で略奪を繰 り返し、1493年の戦いで破れてからは「黒軍」という呼称は歴史から消え たと言われています。さらにその残党はフランスに渡り、そこで傭兵とな り、「hommes d'armes」や「bandes noires」の部隊に加わったようです ね。 モハーチの会戦では、例え黒軍がいても、破竹の勢いのオスマン・トル コ軍に対抗できたんでしょうかねぇ? できたかもしれませんが。最大の 問題は、マーチャーシュが亡くなってから、ハンガリーが再び群雄割拠の 時代になってしまい、ウラースロー二世は全国を掌握できず、ハンガリー の貴族達が一致団結できなかったということの方が大きいような気もしま すが。 いずれにせよ、マーチャーシュ王の時代はハンガリー史において最も輝 いていた、エキサイティングな時代ですよね。
167 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > 私はハンガリーの歴史を趣味で調べているだけの一介の素人です。 僕も専門はハンガリー語でハンガリー史の方は専門ではありませんの で、実は詳しくはありません。聞きかじりとか、むかしどこかで読んだ記 憶とかに基づいて書いていますので、おそらく、時々、とんでもない勘違 いなどを書いて、みなさんの顰蹙を買うこともあるかと思います。ギシュ クラ・ヤーノシュさんの書き込みは非常に詳しいので、勉強になります。 これからもよろしくお願いします。
169 : さん > ハンガリーよりルーマニアのほうが > モンゴル顔が多くないですか? 格別そう感じたことはありませんが...。ルーマニア人は典型的なバルカ ン人種に見える人が多いように感じています。(処刑されたチャウシェス ク元大統領の顔が典型的なルーマニア人男性の顔のように思われます。) もっとも、ルーマニア人で日本語を研究している人の中では有名なエミ ル・ポプさんなんかは、どうみても、日本人かモンゴル人にしか見えませ んが (^^;)。
172 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > 私の印象ではハンガリー人はアジア人が嫌いなようです。 > ブダペストの住人である知人は結構不愉快な目にあって > いるようですよ。 アジア人一般が嫌いということではなく、ここ10年位、中国人が異常に 増えているため、(彼らの生活習慣等もあり)ハンガリー人の反感を買っ ていることはあるようですね。日本人や韓国人のビジネスマンがスキン ヘッズに襲撃されたというような事件も発生していますよね。経済事情が 悪いと、どこの世界でもそういう輩は登場するようで...。しかし、一番腹 が立つのは、こちらを侮辱したり、襲撃しようとした連中が、こっちが日 本人だとわかると、ものすごく狼狽し、平謝りになることなんですよね。 そっちの方が腹が立ちます。全てではありませんが、多くのハンガリー人 の中では“日本人”というのは特別な存在のようです。
174 :ウスタシャさん > リエカを"返還"しろとは全くキミはアタマのイカれた大ハンガ > リー主義者なのかい? そういう具合に取られてしまいましたか。ちょっと驚きましたが、 全ては僕の文章力の不足の問題だと思います。申し訳けありませんで した。 僕は「フィウメをハンガリーに返還すべきだ」等とは一度も書いて いなかったつもりですが? 単に、第一次世界大戦後の失地回復主義 時代の、つまり大ハンガリー復活主義時代のハンガリーがフィウメを “租借”するつもりなどはさらさらあるはずがなく、あったとすれば “返還”要求だろうといった、当時のハンガリーの時代感覚を分析し たまでですが? 大ハンガリー主義者は当時のハンガリー政府であっ て、「当時のハンガリーは大ハンガリー主義だった」と事実を記述し た人間が大ハンガリー主義者なわけではありません。(ちょうど誰か が「ビンラディンはテロリストだ」とか「ビンラディンは米国人を皆 殺しにせよと主張している」と書いても、その人間がテロリストであ るわけでも、彼が米国人の皆殺しを主張しているわけでもないのと同 じことです。) なお、個人的には大ハンガリー主義にもハンガリーのナショナリズ ムにも批判的です。例の国章問題でも王冠には反対でしたし、ハンガ リー人の民衆文化が大好きなくせに、政治的には民衆派には批判的 で、ユダヤ人に対しても批判的ではありません。ですから、ハンガ リーに関っている人々の間では「あんであんたがそんな態度を取るん だ!?」といつも批判されています。「こいつはいつもハンガリーのこ とを書いているから大ハンガリー主義者に違いない」という先入観で 僕の発言を読んでしまわれると、そのように受け取れるのかもしれま せんね。繰り返しますが、僕の文章能力の問題です。努力はします が、是非とも大目に見てやってください。 [続く]
174 :ウスタシャさん [続き] > そりゃラヨシュは確かにラヨシュだがよ。ラオシュくらい見逃 > すのが人間の寛容ってもんだろう。 なるほど。すみません。2ちゃんねるのあり方について全く慣れて いないもので。ここでそういうことを書き込むと「ツッコミ」とか 「イジメ」とか「批判」と取られてしまうのでしょうか?(意図的に はいつも「ツッコミ」ではなく「コメント」のつもりでいます。)僕 は好奇心が旺盛な人間なので、自分が知らないことを教えてもらった り、自分の勘違いや間違いを指摘されると、「おお、これでまた1つ 勉強になった (^^)!」と嬉しくなってしまう性格なもので、自分で はツッコミの意識は全くなく、単にサービス (?) のつもりで、より 適切だと思われる表記法をご紹介したまでです。2ちゃんねるは全世 界に向けて(オーバーな (^^;))公開されている掲示板ですから、ハ ンガリーに興味のある人が検索エンジンで「ハンガリー」を検索する と、きっとここがひっかかるんだろうなと考えています。ならば、 ちゃんとした (?) 情報も載せておいた方がいいかな、...と。 僕にツッコミの意図はないと言っても、「人それぞれだから、そう 捉えて、不愉快になる人間もいるんだ」というご主張があると思いま す。確かにその通りです。申し訳けありませんが、その場合は、とに かくこちらの意図はそうではないということをご理解いただきたいと 思います。 > スラブ人なんかの味方しちゃった。あ〜ヤダヤダ……。 スラヴ人がお嫌いなのですか?
>>183-184 真面目なレスにつまらない煽りをするのが「2ちゃんねるのあり方」だ。
煽りは無視すべし。
168 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > マーチャーシュ王も「ヨー・キラーイ」(正義の王?)と > 言われてますが「イシュトヴァーン・ヨー・キラーイ」という > ロックオペラがありますね。 > 私は全くハンガリー語がわかりませんがビデオやCDで楽しんで > ます。 『国王イシュトヴァーン(イシュトヴァーン・ア・キラーイ)』で すね。「ヨー・キラーイ」ではなく。おそらくあのロックオペラを最 初に日本に紹介したのは僕だったと思います(1985年2月13日)。と ても好きなロックオペラの1つです。(ちなみに、クラシック・オペ ラは好きではないのですが、唯一、バルトーク・ベーラの『青髭公の 城』だけは大好きなオペラです。) おそらくお気づきでしょうが、『国王イシュトヴァーン』はアメリ カのロックオペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』と瓜二 つの登場人物と構成です。ウソみたいに似ています。音楽の構成まで ね。反乱を起したコッパーニュは1956年ハンガリー動乱のナジ・イム レに、イシュトヴァーンはカーダール・ヤーノシュに擬せられるので はないか。イシュトヴァーンもコッパーニュもどちらが正義かという 問題ではなく、2人とも正しいということに悲劇があるのだというの が僕の考えですが、作詞者のブローディ・ヤーノシュ(“ハンガリー のジョン・レノン”ですね (^^;))も「そうなんだ。しかし、誰もそ のことを気付いてくれないんだよね。ハンガリーでは誰もがコッパー ニュが正義でイシュトヴァーンが悪役だと捉えてしまっているん だ...」と嘆いていました。 ちなみに、彼に「『国王イシュトヴァーン』は『ジーザス・クライ スト・スーパースター』のパロディーと言っていいのか?」とも尋ね ましたが、彼は「いや、パロディーのつもりはない。ただ、人間はい つになっても変わらないものだということを表現したかったんだ。だ から、最初は映画の始めに“そしてその一千年後...”というテロッ プを入れようと思っていたんだよね。『ジーザス・クライスト・スー パースター』の一千年後、また歴史は再びそっくり同じことを繰り返 すという意味でね。結局、止めたけど...」と言っていました。
187 :
世界@名無史さん :01/10/06 13:58
>マーチャーシュがコルヴィヌス(オオガラス)王を名乗ったこともあり、 質問です。 コルヴィヌスってラテン語ですか? それともハンガリー語ですか? -usならラテン語みたいだけど。
>185 :世界@名無史さん > 真面目なレスにつまらない煽りをするのが「2ちゃんねるのあり > 方」だ。 そうなんですか! じゃあ、ウスタシャさんも本当はわかってい て、あえてああいう具合にお書きになられたのですね? そうすると、ここでは僕も真面目に (?) ああいう具合に他人の発 言について煽るのが礼儀なんでしょうかねぇ? う〜ん、むずかしい なぁ。性格的にできないですよね。どうやら、僕はせっかくの「2 ちゃんねる」の雰囲気を壊してしまっているようですねぇ。申し訳け ありません。 > 煽りは無視すべし。 無視しちゃうんですか (^^;)? なーんか、それって、礼儀に欠け るような...。性格的に、つい、レス付けちゃいますね (^.^;)ゞ。何 事も修行ですな...。
>187 :世界@名無史さん > コルヴィヌスってラテン語ですか? それともハンガリー語です > か? > -usならラテン語みたいだけど。 ラテン語です。Corvinus。ハンガリー語風に言うときは Korvin と 書きますね。マーチャーシュ王を偉大なルーマニア人の国王だとする ルーマニアではマーチャーシュは(Iancu de Hunedoara の次男) Metei Corvin と表記されることが多いようですが、ハンガリーでは (Hunyadi János の次男)Hunyadi Mátyás が 一般的ですね。で、彼の息子は Korvin János です。 中世の欧州の公用語はラテン語でしたから、通常はマーチャーシュ 王も(ここはうろ覚えなので綴りに自信がない...)Rex Matthias Corvinus のように表記されていたのではないでしょうか?
>しい坊さん やっぱりラテン語でしたか。 ありがとうございます。
191 :
世界@名無史さん :01/10/06 15:18
しい坊さん、なんにも質問ありませんが、詳しくて感激です。 マンセー
192 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/07 01:11
>186 しい坊さま そうでしたか。ハンガリー語がわからなくても無抵抗の人民を弾圧するイシュトヴァーン の外人騎士団はソビエト軍の象徴なんだろうなと思いました。 祝勝宴会の場面で俗物が喜ぶのを見てイシュトヴァーンが「こんなことのために戦ったの ではない!」と苦悩する場面が痛々しいですね。あれはカーダルを象徴していましたか。 私のお気に入りは預言者のトルダです。彼が神々に祈る場面は名場面ですね。 あとご質問ですがドージャ・ジョルジ、モハーチ戦、ラコーツィ、コッシュートが 登場する曲がありますが、トルダは何を言おうとしているのでしょう。 >ウスタシャさま リエカを返還しろ!というのは戦前のハンガリー政府のスタンスだと思います。 別にしい坊さまが大ハンガリー主義者という訳ではないということは文脈から 読み取れると思いますが。 しい坊さま >黒軍 貴重な情報をありがとうございます。ハンガリー史では補給も持たずに トルコ戦に送られて略奪をはじめたのでヴァンデリュウム(旗軍)に討 伐されたとありますね。 フス派特有の戦法に車陣がありますがトルコでこれを「ターボル」とい うそうで黒軍壊滅の後にトルコに逃れた連中がいたのではと想像してい ます。 >モハーチ戦 貴族がてんでに動いているのでは黒軍がいても勝てないでしょうね。 大体、数の少ない側がモハーチみたいな平地で大軍を迎え撃っては マーチャーシュが指揮していても勝てないでしょう。 モハーチへ行ってきましたがなんでこんなところで戦ったのかと思 いました。当時は今と湿地が点在していたらしいですが、それにし ても、という地形ですね。
193 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/07 01:22
しい坊さま キニジ・パールという人も面白いですね。 元は粉屋の親父でマーチャーシュが喉が渇いて水を所望したら石臼で 水を差し出したとか。両手で大剣を自在に操り、雄たけびは雷鳴のよう。 トランシルバニアでのトルコとの戦闘ではバートリー・イシュトヴァーン の軍勢の危機を救い、戦勝の後トルコ兵を両手にぶら下げ、さらに口に 咥えて踊りを踊ったとか・・・。ほとんど怪獣ですね。 この人の奥さんは彼の腰の高さぐらいまでしかなかったそうですが、唯一 彼が恐れたのが彼女だったとか・・・・。
194 :
世界@名無史さん :01/10/07 01:23
しい坊はハンガリー検定1級習得
196 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/07 23:06
しい坊さま コッパーニュの反乱ですが、たしか当時のハンガリーでは一族中の最年長者 が首長の座を継承するという決まりだったと思います。 大公ゲーザの死んだ時点ではヴァイク(後のイシュトヴァーン1世)の叔父 であるコッパーニュが首長の座につくのが筋だったのでしょう。 確かロックオペラでも「古の法によれば・・」とかコッパーニュが言ってま せんでしたっけ。 コッパーニュはゲーザの未亡人シャルロタ(でしたっけ)と結婚して首長の 座に着こうとして拒否され、ヴェスプレームに攻め寄せますが、ロシア・イ タリア・ドイツといった外国騎士を主体とするイシュトヴァーンの軍とチャ ータルヘイジで交戦してあっけなく敗北してしまったのでしたね。 彼の側からすればヴァイクの側の方が国を私物化するとんでもない輩に見え たのではないかと思います。
>192 :ギシュクラ・ヤーノシュさん >186 > そうでしたか。ハンガリー語がわからなくても無抵抗の人民を弾 > 圧するイシュトヴァーンの外人騎士団はソビエト軍の象徴なんだ > ろうなと思いました。 ドイツ騎士団はソ連軍の戦車部隊だと思います。ただし、人民は 無抵抗なのではないですね。詳しい分析は後程。 > 祝勝宴会の場面で俗物が喜ぶのを見てイシュトヴァーンが「こん > なことのために戦ったのではない!」と苦悩する場面が痛々しい > ですね。あれはカーダルを象徴していましたか。 あは。俗物と言うか、彼らは典型的なハンガリー貴族という設定 でしたが、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のユダヤ僧 の役回りですね。イシュトヴァーンはカーダールだと思います。 > 私のお気に入りは預言者のトルダです。彼が神々に祈る場面は名 > 場面ですね。 僕が好きなのはその前のコッパーニュのアジ(テーション)[煽 動]です。群集に向かって「ワシはお前がなぜ孤児なのかは尋ねな い。運命ががお前に対して非情であったことをわかっている」と、 民衆の心を揺さぶり、最後は1848年の三月革命のペテーフィ・ シャーンドルのアジ詩の「囚人となるか、自由となるか?」という 言葉でしめます。無意味に民心を煽り、戦へと導くことに対しては 僕は批判的ですが、それでもぐっと来ます (^^;)。 [続く]
>192 :ギシュクラ・ヤーノシュさん [続き] > あとご質問ですがドージャ・ジョルジ、モハーチ戦、ラコー > ツィ、コッシュートが登場する曲がありますが、トルダは何を言 > おうとしているのでしょう。 彼はキリスト教的な預言者ではなく、アニミズム信仰の祈祷師で す。で、彼には未来が見えるのです。恐らくはこの戦で敗北するこ とをも。だから、彼は例の、イシュトヴァーンの怒りを買った2人 のハンガリー人貴族がコッパーニュ側に寝返ろうとしたのを、「俺 は正々堂々とイシュトヴァーンと戦うのだ!」と言って追い払った ことに対しても、「勝てば官軍だ。この戦には何がなんでも勝たね ばならぬ。手段を選んではいけない」とコッパーニュを諭します。 しかし、陰謀を巡らすことができない一本気なコッパーニュはその 時点で勝者となることはできないことが運命付られていたわけで す。(純粋であるという点ではイシュトヴァーンも同様。イシュト ヴァーンの独白も素晴らしい。「どちらの道も炎に至る別れ道で私 はどちらを選べばいいのか? 主よ、イエスは剣を手にする者は剣 によって滅びると教えられいます。しかし私はあなたを守るために 剣を手にしなければならない!」) 話をトルダに戻します。(コッパーニュが敗北する歴史はすでに 決まってしまっている)「もしも、お前がここでイシュトヴァーン を打ち破れば(歴史が変わるから)(農民一揆で破れて処刑された セーケイ人の)ドージャは国王となり、ラーコーツィは世界を征服 し、コシュートでドナウ連邦は成就することになるのだ!」と励ま します。しかし、現実はコッパーニュが敗北したために、ハンガ リーの歴史はそうはならなかった(つまり、なったようになった) というわけです。コッパーニュとトルダは歴史の必然に対して戦い を挑んだのです。(ちなみに、些細なことですが、Kossuth は実際 には Kosút と発音されますので、「コシュート」と表記し た方がよろしいでしょう。「コッシュート」のように促音で表記す るのはハンガリー語を学ばれた方に多いようです。ちなみに英語か らの翻訳では「コサス」という表記にもお目に掛かったことがあり ました。最初は、誰のことかと考えてしまいましたが (^^;)。) (なぜか今、我が家では『国王イシュトヴァーン』のCDも、 LPも、DATも、MDも見つかりません (^^;)。どこかにあるの ですが...。そういうわけで、引用は正確ではないことをお断りして おきます m(._.)m。)
>192 :ギシュクラ・ヤーノシュさん >黒軍 > 貴重な情報をありがとうございます。ハンガリー史では補給も持 > たずにトルコ戦に送られて略奪をはじめたのでヴァンデリュウム > (旗軍)に討伐されたとありますね。 Vではなく、Bで、「バンデーリウム」(bandérium) です ね。城県や領主の自前の軍勢ですが、そう言えば、面白いのは “zászlós úr”という表現ですね。殿の一大 事の時には背中に旗をさして、家来を引き連れて馳せ参じるので、 そう呼ばれたわけですが、まさに日本語の「旗本」ですね (^^)!
>192 :ギシュクラ・ヤーノシュさん >モハーチ戦 > 貴族がてんでに動いているのでは黒軍がいても勝てないでしょう > ね。 当時は、日本の戦国時代と同じでまだ国民国家意識がなかった時 代ですからね。 > 大体、数の少ない側がモハーチみたいな平地で大軍を迎え撃って > はマーチャーシュが指揮していても勝てないでしょう。 ハンガリーの貴族の軍勢は丘の上から(だったっけかな?)国王 の軍隊がトルコと孤軍奮闘しているのをお手並み拝見で見物してい て動かなかったそうですが、まさに関ヶ原の戦いの西軍と同じです な (^^;)。 > モハーチへ行ってきましたがなんでこんなところで戦ったのかと > 思いました。当時は今と湿地が点在していたらしいですが、それ > にしても、という地形ですね。 いいですねぇ。僕はとうとう1度もモハーチ (Mohács) に は行けませんでした(むかし講談社の本にはモハックスと書いてあ りましたが (^^;)。)モハーチはぜひ1度行きたかったんですよ ねぇ。何しろ、僕がハンガリーと関りを持つ切っ掛けになったの が、中学生の時に最初にエスペラント語で文通した相手がモハーチ の女の子だったんですよ (^.^;)ゞ。結局、彼女にも会わずじまいで した。
>194 :世界@名無史さん > しい坊はハンガリー検定1級習得 ありがとうございます (^^)。
>195 :名無しさん
> なんかこんなスレが立ってますね。そっちもよろしく。
> [世界史板] オーストリア=ハンガリー二重帝国
>
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1002297042/ そっちまでは、ちょっと手が回りません (^^;)。悪しからず。
>>194 > 仮にそういう検定があったら、しい坊さんは面接の試験官でしょ
> う。
そういう役回りは多分、絶対に僕には回ってこないでしょうか
ら、ご安心を (^^;)。(世の中、そういう仕組みになっているもん
です。)
> で、広い e と狭い e が区別できなかったら落とす、とか。
いいですねぇ (^^)。もっとも、そんなことしたら受かる者はいな
くなっちゃいますね (^^;)。実際には僕は落すということはあまり
できない性分です。人を切るのがダメなんです (^.^;)ゞ。岩崎 悦
子さんも切るのは苦手そう...。ま、厳しい試験は真面目でお美しい
みか先生にお任せするのが一番かと...。
203 :
世界@名無史さん :01/10/08 00:13
ハンガリーについては全く知らなかったので、興味深く読みました。 ところで質問です。ある本に「ハンガリー王妃イザベラはハンガリー水のため 美しく、70歳を越えてポーランド王に求婚され結婚した」とあるのですが、 本当の話なのでしょうか?
>196 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > コッパーニュの反乱ですが、たしか当時のハンガリーでは一族中 > の最年長者が首長の座を継承するという決まりだったと思いま > す。 ハンガリーの、というか、騎馬民族の掟てだったんでしょうね。 騎馬民族は戦(略奪)をしながら移動して行くわけで、王は経験が 豊富でなければいけなかったからでしょうね。ゲーザ(当時の発音 ではジェイチャ?)公はハンガリーをヨーロッパ世界に受入させる ためにはヨーロッパの文明世界の制度を導入しなければならないと 考え、先進的 (?) な王権の世襲制を導入するために存命中に族長会 議で(彼らを剣で脅し)息子のヴァイクを次の王として認めさせた のでした。(かつての偉大なフン族もアヴァル族も痕跡もなく歴史 の部隊から消え去ってしまったのは、彼らがヨーロッパ世界から “文明の敵”だと看做されたからだと考えたのでした。ヨーロッパ で生きて行くためにはキリスト教に帰依し、文明人として振る舞わ なければならないのです。) > 大公ゲーザの死んだ時点ではヴァイク(後のイシュトヴァーン1 > 世)の叔父であるコッパーニュが首長の座につくのが筋だったの > でしょう。確かロックオペラでも「古の法によれば・・」とか > コッパーニュが言ってませんでしたっけ。 その通り。だからこそ、ロックオペラでは、イシュトヴァーンは コッパーニュが王座を要求した時に「あなたは1度自分の立場を受 け入れたはずではなかったのか? それとも臆病風に吹かれてそう 言っただけだったのか?」と反論します。 > コッパーニュはゲーザの未亡人シャルロタ(でしたっけ)と結婚 > して首長の座に着こうとして拒否され、ヴェスプレームに攻め寄 > せますが、ロシア・イタリア・ドイツといった外国騎士を主体と > するイシュトヴァーンの軍とチャータルヘイジで交戦してあっけ > なく敗北してしまったのでしたね。 ロックオペラでは国論は完全に二分しますね。イシュトヴァーン の祈りはいい。「私が守りたい民族が私に武器を持ってはむかい、 外国から私の民族を守るために、まさにその外国の助けを借りなけ ればならないとは...!」との苦悩です。しかし、コッパーニュの主 張する民族の誇りを大切にすべきだという考えはいくら正論では あっても、それを選んだらハンガリー人はヨーロッパ世界から確実 に抹殺されてしまうでしょう。ハンガリー人は生き長らえるために は、どんなに苦しくても魂を売り渡さなければならなかったので す。 [続く]
>196 :ギシュクラ・ヤーノシュさん [続き] > 彼の側からすればヴァイクの側の方が国を私物化するとんでもな > い輩に見えたのではないかと思います。 ロックオペラではそういう設定ではありませんでしたね。イシュ トヴァーンはコッパーニュをよく理解していた。しかし、コッパー ニュは正義感で頭に血が上って、自分が何をやっているのかは見え なかった(どこかの国の首相みたいですが (^^;))。 コッパーニュの主張は基本的に正しい。しかしそれではハンガリー 人は滅ぼされてしまう。どんなに辛くても為政者には国民を守る義務 がある。そのためにイシュトヴァーンは魂を売ったのでした。(1956 年のカーダールの苦悩が目に浮かぶようです。彼はハンガリー革命の 成果を守るためにも、自分が支持するナジ・イムレを裏切らなければ ならなかった...。その結果、ハンガリーは東欧で最も自由で先進的な 国になることができたのでした。イシュトヴァーンは民族の魂を売 り、その結果、ヨーロッパに侵入した騎馬民族としては唯一 ― 国土 はだいぶ減りましたが ― ハンガリー人だけが未だに存続しているわ けです。)辛い話です。でも、まさに悲劇の条件が全て揃っている作 品です。(僕に『国王イシュトヴァーン』の話をさせたら止らなくな るぞ (^^;)。)
■ イシュトヴァーンの立場 コッパーニュの立場ははっきりしています。ハンガリー人としての 民族の誇りと、民族の独立です。 その点、イシュトヴァーンの立場はややこしい。すでにフン族やア ヴァル族のような、それまでにカルパチア盆地に征服定住した騎馬民 族は全て滅ぼされてしまいました。どんなに強くても、ヨーロッパと いう文明世界から睨まれたら生き残れない。(果してビンラディンの 運命は?) そこでゲーザはハンガリー人を無理矢理キリスト教に帰依させよう とします。抵抗する者は残虐な手法で処刑して行きました。民族を守 るためには他には選択肢はないのです。民衆が話してわかってくれる なら問題はなかったのですが、古来、民衆というものは先を考えず、 かつ保守的なものです。そういう意味では時代は違いますし、一見 やったことは正反対ですが、江戸幕府が徹底して切支丹を弾圧したの も日本という国家を守るためだったわけです。ハンガリー人がヨー ロッパで存続し続けるためにはどうしてもキリスト教徒にならざるを えなかった。同様に日本が欧州列強の植民地とならないためにはどう してもキリスト教の布教を押え込まなければならなかった...。両方と も為政者としての苦悩の、責任ある決断だったのだと思います。 ロックオペラのイシュトヴァーンはコッパーニュに言います。 「ローマを受け入れよ。全ての道はローマに至る。ローマさえ受けれ れば王座はあなたのものだ。ひとつの国、ひとつの民族の運命が私た ちの手の中にあるのだ」と自分は権力にこだわらないとコッパーニュ に手を差し伸べています。しかし、コッパーニュはうさん臭い坊主ど もがハンガリーを徘徊し、外国の軍勢が駐留するようなハンガリーを 認めることはできなかったのです。
207 :
世界@名無史さん :01/10/08 00:34
一方、音楽において ベラ=バルトークは、原始主義 民族主義の高まりから生じた「国民楽派」の系譜に位置しながら、 20世紀の作風の、一つのフォルムを形成しました。 これは、フランツ=リストのラプソディーにも聴かれるものですが、 ハンガリー(フン族の国)のもつパトスなくして、派生しない運動でしょう。
208 :
世界@名無史さん :01/10/08 00:36
>>192 トルコ語で円陣(戦列)を指す言葉は「タブル」tabur。
辞書によると、「タブルする」という言い方で「隊列を組む」という意味になります(なるそうです)。
フス派と関係あるのかもという推論は面白いですが、
車陣は中央アジアの遊牧民族にも見られる戦法らしいので、
そちらが起源ではないかと思います。
■ レーカ姫 コッパーニュの娘、レーか姫は多分創作です。間違っていたらごめ んなさい。繰り返しますが、歴史は専門外なので、全く詳しくはあり ません m(._.)m。 で、ロックオペラではレーか姫はキリスト教徒だという設定になっ ています。映画でレーか姫の役を演じているのは、コーシャ・フェレ ンツ監督の『ゲルニカ』のヒロイン役を演じた民族舞踊ダンサーのコ ヴァーチ・オッティリアです。いや、奇麗ですねぇ。オッティリアは 物静かで、近寄りがたい雰囲気があります。むかし、ハンガリー国立 民族舞踊団が初来日した時に彼女も来日しています。一緒にツアーに 参加しましたが、ちょっと声は掛けがたかったですね。 実際に歌っているのはオッティリアではありません。『ゲルニカ』 でもヒロインの声は別の有名な女優がアテレコしています。理由は、 オッティリアはとても奇麗で、雰囲気もあるのですが、発声がよくな いのですね (^^;)。(『マイ・フェア・レディー』のヒロインのオー ドリー・ヘップバーンみたいですね。あれも歌は確か、『ウェストサ イドストーリー』でナタリー・ウッド演じるマリアの声を演じた女優 のはずです。)実際にレーか姫の声を歌っているのは、日本でも人気 のあるシェベシュチェーン・マールタです。マールタは非常にいい声 をしています。ただしヒロインとするにはちと美貌の点で難があるわ けです (^^;)。 エトヴェシュ・ロラーンド大学(ブダペスト大学)の『大学劇場』 (Egyetemi Színpad) で民族音楽のシェベー社中のコンサート があったときに、「発掘された才能」というので、マールタが初めて 紹介されました。偶然、その時はテープに録音しておりました。モノ の録音ですが、まだどこかにあるはずです。その後、マールタは一時 期、法学部の学生のセルダヘイ・バラージュと付き合っていました。 バラージュは今の駐日大使のイフャッブ・セルダヘイ・イシュト ヴァーン(ピシュティ)の兄です。実はピシュティの父上であるイ デージュブ・セルダヘイ・イシュトヴァーン(ピシュタ)が僕にお小 遣いを稼がせてあげようと、中学生のバラージュに日本語を教えてく れるように頼んだのでしたが、父親の言いつけで日本語を勉強させら れたバラージュは日本語が進歩せず、その場にいた小学生のピシュタ がどんどん日本語ができるようになったのでした (^^;)。人間の運命 なんてどうなるかわらかない...。
>203 :世界@名無史さん どうやら、「世界@名無史」さんというのは複数おられるようです ね。 > ある本に「ハンガリー王妃イザベラはハンガリー水のため > 美しく、70歳を越えてポーランド王に求婚され結婚した」とあるの > ですが、 > 本当の話なのでしょうか? 確かに、どこかで聞いたことがありますね。そう言えば日本の民放 のクイズ番組だったかな (^^;)? すみません。事の真偽のほどは専 門外のために知りません m(._.)m。
211 :
世界@名無史さん :01/10/08 01:05
>しい坊さん >どうやら、「世界@名無史」さんというのは複数おられるようですね。 ここ「世界史@2ch掲示板」では名前を空欄のまま書き込むと 自動的に「世界@名無史さん」になるんですよ。
207 :世界@名無史さん > 一方、音楽において クラシック音楽の方はまったく専門外です (^^;)。 > ベラ=バルトークは、 やはり、せっかくハンガリー人は日本人と同様に姓名の順で名乗っ ているのですから、バルトーク・ベーラと言いたいですね (^^)。ちな みに下の名前の方も Béla ですから、「ベーラ」と伸びます。 (僕がわかるのは言葉のことだけ...(;_;)。) > 原始主義 > 民族主義の高まりから生じた「国民楽派」の系譜に位置しながら、 > 20世紀の作風の、一つのフォルムを形成しました。 > これは、フランツ=リストのラプソディーにも聴かれるものです > が、ハンガリー(フン族の国)のもつパトスなくして、派生しない > 運動でしょう。 (やはり、リスト・フェレンツですね。)ハンガリーが“フン族の 国”という意味ではないという事実と、実際のは「ハンガリー」とい う言葉の語源の説明と、血統的にハンガリー人とフン族とは無関係で あるということは、すでにこの掲示板で述べてあります。 リストはハンガリー人意識は非常に高かったのですが、果してハン ガリー語ができたのかどうか...。ドイツ系の家柄であることはわかっ ていますからね。で、リストが、彼の愛するハンガリーのレストラン や居酒屋のジプシー楽師の音楽(ジャンルとしては「ノータ」(n& oacute;ta)と呼ばれる「演歌」です)をハンガリーの民族音楽だと錯 覚したのを批判したのがバルトーク・ベーラとコダーイ・ゾルターン の2人だったのだと思います。彼らは「ハンガリー人の民族音楽は都 会の演歌にではなく、農民の民謡の中にある!」と膨大なハンガリー 民謡を採集し、彼らの音楽にも反映させたのだったのですよね。 ハンガリーの演歌と言えば、世界大恐慌の時代に世界的に大ヒット し、その暗さのあまり、自殺者が続出したので、世界中で発禁になっ た、日本ではフランス人歌手のダミヤの歌うシャンソンとして知られ ている『暗い日曜日』も、本当はハンガリーの『悲しい日曜日』 (Szomorú vasárnap) ですよね (^^)。
>211 :世界@名無史さん > >どうやら、「世界@名無史」さんというのは複数おられるようです > >ね。 > ここ「世界史@2ch掲示板」では名前を空欄のまま書き込むと自動的 > に「世界@名無史さん」になるんですよ。 おお、そうだったんですか! また、ひとつ勉強になりました。 「2ちゃんねる」では名乗るのはルール違反なのかしら?
214 :
211の世界@名無史さん :01/10/08 01:24
>「2ちゃんねる」では名乗るのはルール違反なのかしら? 違反じゃないけど少数派です(固定ハンドル、略して「コテハン」と言います)。 しい坊さんのように、ひとつのスレに集中して書きこむなら コテハンのほうがかえってわかりやすくていいと思いますよ。
>214 :211の世界@名無史さん > >「2ちゃんねる」では名乗るのはルール違反なのかしら? > > 違反じゃないけど少数派です(固定ハンドル、略して「コテハン」 > と言います)。 > しい坊さんのように、ひとつのスレに集中して書きこむなら > コテハンのほうがかえってわかりやすくていいと思いますよ。 ううむ。そうなのですか。でも、誰が発言しているのかわからない というのも、ちょっと不便ですねぇ...。多分、ここの発言者の中には 僕の知り合いも多数、それとなく参加しているはずだと思うのです が。
>>177 >しかも印欧語族であるイタリア語を母語とするベアトリックスに
>は、日本語のようなハンガリー語は苦痛だったのではないでしょうか (^^;)?
>(夫とはラテン語で会話していたのかしら?)
しい坊さん、ニフティのFLMとAGORA以来お久しぶりですね。
ところで、上の文にはかなーーり疑問があります。
近代国民国家以前の段階では、そもそも「王様も農民も同じハンガリー人」という
意識など存在しません。身分・階級格差こそが重要であって、したがって当時は
王族から農民までが使う「ハンガリー語」なるものが存在しなかったのではない
か?つまり身分によって言語がまったく違っていたのではないか?(英国で
庶民が話すコックニーといわゆるRPが違うことを思い出せば、昔の状況の
一端がかいまみられると思いますが)
そもそも、ベアトリックスが輿入れしても、「ハンガリー」(なんて概念その
ものがなかったわけだし)の農民と会話する必要がないでしょう。農民と王族が
同じ人間だという観念は希薄だったでしょうから。
当時のハンガリー王国は、人民が主権者である近代的な共和国じゃなくて、王国、
つまり土地と農民は王の家産だったわけです。身分・階級こそが重要な要素であ
って、農民と王族はまったく別世界。
農民は王族の家産ですから、農民が何を話していようが、王族の関心の対象外
だったでしょう。
宮廷ではそもそもラテン語を使っていたでしょう。どうしても庶民と話す必要が
あるときは通訳を介したでしょう。そもそも王族が庶民と直接話せるわけが
ありませんからね。
逆にいえば、「王族・貴族」という身分なら、いわば「国境をまたいで」通婚する
ことができた。欧州の王族が親戚関係でつながっているのは、決して国際的
な関係ではなく、あくまでも家産時代の身分関係の名残りです。
>>212 > ハンガリーの演歌と言えば、世界大恐慌の時代に世界的に大ヒット
>し、その暗さのあまり、自殺者が続出したので、世界中で発禁になっ
>た、日本ではフランス人歌手のダミヤの歌うシャンソンとして知られ
>ている『暗い日曜日』も、本当はハンガリーの『悲しい日曜日』
>(Szomorú vasárnap) ですよね (^^)。
昨年、サラ・ブライトマンが出したアルバムにもありましたね。歌詞は英語
だけど。
219 :
世界@名無史さん :01/10/08 13:42
203です。あやめさん、しい坊さんありがとうございます。 ローズマリーのローションなんですね。 私も皺が増えてきたから使ってみようかな。
>217 名前:世界@名無史さん > >177 > しかも印欧語族であるイタリア語を母語とするベアトリックスに > は、日本語のようなハンガリー語は苦痛だったのではないでしょう > か (^^;)? (夫とはラテン語で会話していたのかしら?) > しい坊さん、ニフティのFLMとAGORA以来お久しぶりですね。 お久しぶり (^_^)/~...って、誰だ (^^;)?(後でメールくださ い。) > ところで、上の文にはかなーーり疑問があります。 そうでしょうとも (^^)。前にも書いたように、できるだけ文章を短 くするために、重要な部分をはしょっていますから。でも、それでも こんなに長い文章になってしまっています (^.^;)ゞ。 > 近代国民国家以前の段階では、そもそも「王様も農民も同じハンガ > リー人」という意識など存在しません。 近代国民国家としての“民族”を基盤とした“ハンガリー人”意 識、つまり国民意識は19世紀にならないと形成されなかったでしょ う。しかし“国”(くに)、すなわち居住“地域”としての“ハンガ リー人”意識はあったと思います。かつてローマ帝国の版図に居住し ていた者は、誰もが誇りを持って“ローマ人”だと名乗りました。こ れは国民国家としてのローマ人という意識でも、民族としてのローマ 人意識でもありませんでしたよね。でも、(その実態がなんであれ) 一応“ローマ人”という概念自体はあったわけです。 ですから、国王や貴族(現代では「国民」と訳されている natio も 当時は王 [király]・華族 [főnemes]・ 士族 [köznemes]・聖職者 [pap] といった支配階級しか含まな かったわけです)が当時の“国民”としての“ハンガリー人”であっ たにせよ、ハンガリーに居住していた人達はみな“ハンガリー人”と いうか“ハンガリー国人”[magyarországi] 意識はあったと思 いますよ。「ここは何という在所かね?」「ハンガリーだよ」と言っ たレベルでのことですが。また、近代的国民意識とは質が違います が、ある種の部族意識としての“マジャル人”[magyar]、“ルーマニ ア人”[oláh]、“セルビア人”[rác]、“スロヴァキア 人”[tót] のような自覚も確かに存在していたはずです。もっ とも、当時は“ルーマニア”とか“スロヴァキア”といった国家が存 在してわけではありませんから(これらの国家が登場するのは19世 紀、20世紀になってからです)、厳密には、“ロムン人”とか“スロ ヴァク人”と呼ぶべきなのかもしれませんが、う〜ん、そうすると、 日本語は屈折語になってしまう (^^;)。 [続く]
>217 名前:世界@名無史さん [続き] > 身分・階級格差こそが重要であって、したがって当時は王族から農 > 民までが使う「ハンガリー語」なるものが存在しなかったのではな > いか?つまり身分によって言語がまったく違っていたのではない > か?(英国で庶民が話すコックニーといわゆるRPが違うことを思 > い出せば、昔の状況の一端がかいまみられると思いますが) 支配階級と被支配階級で共通した近代的な国民意識がなかったから と言って、彼らの母語が違っていたわけではないでしょう。公文書は 当時のカトリック世界での公用語であるラテン語で記述されていまし たが、実際に日常で使われていたのはハンガリー語のはずです。(す でにあの時代にラテン語を母語としていた人は存在していなかったは ずです。←ロマンス語の問題も専門外 (^^;)。)ハンガリー語の場合 は世界の言語の中でも驚くほど方言差が小さい言語です。一番異なっ ているのは現在の東北ルーマニアにあるモルドヴァのチャーンゴー人 [csángó] の方言ですが、それでも他の言語の方言の差 違とは比べ物にならない。ですから、当時のハンガリーでは支配階級 と被支配階級の言語はほとんど変わりがなかったはずです。 実際、ポーランドのヤゲウォ家のラースローがハンガリー国王に なったときは、ハンガリー語がわからず、家臣が何を尋ねても、ポー ランド語で「ドブジェ」(良きに計らえ)としか答えなかったと言う ので、馬鹿にされています (^^;)。つまり、ハンガリー人の家臣は国 王に母語であるハンガリー語で話しかけ、国王は母語であるポーラン ド語で答えていたという事実が伺えます。本当に意思疎通が必要で あった時には共通語であったラテン語でたどたどしく会話したものと 想像されます。 19世紀からヨーロッパで熱病のように広まった国民国家の原理は非 常に重要な要素ですが(日本人はしばしばその重要性を認識できな い)、同時に、それを絶対視してしまうのも問題だと思われますが。 (現実に国民国家以前もそれぞれの国内居住諸民族は自分らの民族名 を名乗っていたわけですしね。あれらの民族名称は別に近代になって できたわけではありません。) [続く]
>217 名前:世界@名無史さん [続き] > そもそも、ベアトリックスが輿入れしても、「ハンガリー」(なん > て概念そのものがなかったわけだし)の農民と会話する必要がない > でしょう。農民と王族が同じ人間だという観念は希薄だったでしょ > うから。 「ハンガリー」という概念は強固にあったと思いますよ。単に国王 や貴族と農奴達が同じ“ハンガリー国民(ナーツィーオー)」という 意識がなかっただけで。しかし何もなかったわけでもないでしょう。 事実、マーチャーシュの父君であるフニャディ・ヤーノシュは、当時 のハンガリー南端のナーンドルフェヘールヴァール(現在のベオグ ラード)の会戦では、当時の欧州としては初めて、領地の農奴達に武 器を渡して「祖国のために一緒に戦おう!」と訴えて(もちろん、戦 に参戦した者は自由農にするとかご褒美を用意しましたが)勝利を収 めています。だから、なんらかの共通意識はあったはずです。 > 当時のハンガリー王国は、人民が主権者である近代的な共和国じゃ > なくて、王国、つまり土地と農民は王の家産だったわけです。 その通り。 > 身分・階級こそが重要な要素であって、農民と王族はまったく別世 > 界。 その通り。そのことは日本人にはなかなか理解しにくい事実です が、同時にあまり過大評価しすぎるのも問題だと思います。 [続く]
>217 名前:世界@名無史さん [続き] > 農民は王族の家産ですから、農民が何を話していようが、王族の関 > 心の対象外だったでしょう。 まさにマーチャーシュ王の漫遊伝説を見ても、必ずしも無関心で あったわけではないようです。やはり上手に国家を運営して行くため には民意は重要ですから。 封建時代の支配階級が単に強欲な簒奪者で、民衆をただの財産とし かみなしていなかったというのは、近代史学の偏見ではないかと危惧 しています。日本の江戸時代でもそうでしたが、西洋でも貴族が特権 を享受しているのは、民衆のよき生活に対して責任があるからという 思想からだったと理解しています。農民はお国のために年貢を納め る。貴族は年貢は収めないが、お国の一大事の時には逸早く国王陛下 の下に馳せ参じて、自らの“青い血”でお国のために“血税”を払う ものだと考えられていたはです。それがなければ、庶民の国王に対す る熱烈な敬意・慕情の念等は説明がつかないでしょう。実際、1918年 にハンガリー評議会連邦共和国の成立前のハンガリー人民共和国の初 代大統領となったカーロイ・ミハーイ伯爵もその回顧録で大貴族とい うものが、一般に信じられていたように私利私欲の塊ではなく、いか に民草の幸福を願って努力していたかということが説明されていま す。彼の回顧録にある欧州の大貴族(華族)のネットワークや、様々 な貴族文化の話は、結構“目から鱗”的なことが書かれており、非常 に面白いです。 > 宮廷ではそもそもラテン語を使っていたでしょう。どうしても庶民 > と話す必要があるときは通訳を介したでしょう。 それは全くの誤解だと思います。ラテン語はあくまでも仲介語で す。それはヴァチカン市国でも公用語はラテン語ですが、日常的には ヴァチカン市民はイタリア語を話しているのと同じことです。現在ス ロヴァキアでも公用語はスロヴァキア語だけですが、実際には市長か ら市会議員までハンガリー人しかいない自治体も多く、この前までは 討論もハンガリー語で行い(だってハンガリー人しかいないのですか ら)、議事録もハンガリー語で作成し、その後、国家の公用語である スロヴァキア語版も作成されていました。スロヴァキアの国語法では それを禁じ、討論も議事録もスロヴァキア語以外は認めないというこ とになり、EUでも問題視されましたが...。(その後どうなったんで しょうね?) [続く]
>217 名前:世界@名無史さん [続き] > そもそも王族が庶民と直接話せるわけがありませんからね。 日本の帝(みかど)と違い、実際はそんなでもなかったようです よ。 > 逆にいえば、「王族・貴族」という身分なら、いわば「国境をまた > いで」通婚することができた。欧州の王族が親戚関係でつながって > いるのは、決して国際的な関係ではなく、あくまでも家産時代の身 > 分関係の名残りです。 “通婚することができた”ということではなく、日本の天皇家と同 様に、貴族となる家柄が決まっていたということなのではないでしょ うか? だから、ヨーロッパの新興国家も国王を自民族から出さず、 欧州の名門王家に頼んで、国王になってもらうことが一般的だったわ けです。
226 :
ウスタシャ :01/10/08 19:48
君たちが言っていることは全て瑣末的な問題だ。 「租借でなく返還」などと言った時点で、「テメエ殺す」と言われても仕方 がないという覚悟をしてるんだろうな? と言っているのだよ。 つまりそういう、遠慮も配慮も覚悟なく無神経に領土問題や民族問題に触れ てしまうことを以って「ハンガリー贔屓が自己中を振り回している」と判断し、 一筆計上したのだ。 だから、「歴史上存在した大ハンガリー主義者に彼が適合しているかどうか。 大ハンガリー主義者とは何か」なんて、もうほんと〜にどうでもいい瑣末なこ となんだよ。
>226 :ウスタシャさん なるほど。ウスタシャさんは、いま、“あの”ウスタシャを演じる ことを楽しまれているのですね! > 君たちが言っていることは全て瑣末的な問題だ。 > 「租借でなく返還」などと言った時点で、「テメエ殺す」と言わ > れても仕方がないという覚悟をしてるんだろうな? と言っている > のだよ。 まったくそういう覚悟はありませんが? > つまりそういう、遠慮も配慮も覚悟なく無神経に領土問題や民族 > 問題に触れてしまうことを以って「ハンガリー贔屓が自己中を振り > 回している」と判断し、一筆計上したのだ。 当時のハンガリーが失地回復主義を信奉していたという単なる歴史 的事実を記述することが(それも他の発言をお読みいただければおわ かりのように、僕はそれを批判的に分析しているはずです)、どうし て“遠慮も配慮も覚悟もない無神経”なことになるのか、申し訳けあ りませんが、理解できません。「フィウメはハンガリーに返還されて しかるべきだ!」と言ったのならともかく。 では、どのように記述すればよろしかったのでしょう。後学のため に、ぜひ、教えてください。もしかすると、“目から鱗”のよきアド バイスをいただけるかもしれませんから。すみません。呑み込みが悪 くて m(._.)m。 > だから、「歴史上存在した大ハンガリー主義者に彼が適合してい > るかどうか。 > 大ハンガリー主義者とは何か」なんて、もうほんと〜にどうでもい > い瑣末なことなんだよ。 では瑣末ではない本質的なこと、大事なこととはどういうことなの でしょう? お手柔らかにお願いします。
228 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/09 00:51
しい坊さま ロックオペラの解説感謝いたします。長年の疑問が氷解しました。 あとはこれを生で見たいですね。最近でも時々上演されてますね。 日本で上演というのは無理でしょうね。 >ハンガリーの貴族の軍勢は丘の上から(だったっけかな?)国王 >の軍隊がトルコと孤軍奮闘しているのをお手並み拝見で見物してい >て動かなかったそうですが トランシルバニアのサポヤイ・ヤーノシュの部隊は高みの見物というよ りはるかティサ側の堤防上で停止して戦闘に参加していません。 彼は王位に野望を抱いていたのでヤゲヴォ王家のラヨシュ2世の敗北を 望んだと言われています。私の知人に言わすと「ラヨシュ2世が陣没し ていなければサポヤイが彼を殺しただろう。」とのこと。ちょっと極論 すぎのように思いますが・・・・。あとクロアチアからのフランゲパン 率いる軍団とオーストリアからの援軍はハンガリー軍の指揮官だったカ ロチャの大司教トモリ・パールが功をあせったのか到着を待たずに戦端 を開いたと言われています。前夜の作戦会議で指揮官の一人ペレニ司教 はトモリの作戦を評して「明日は2万のハンガリー人が殉教することに なるだろう。」と言っていますが、結果はそれ以上の惨劇になってしま いました。トモリの心中は湊川へ出撃する楠正成のようだったのでしょ う。 ヤゲウォ家のラースロー ヴワディスワフ(ウラースロー)王ですね。王としてはウラースローなんですが 「ドブジェ・ラースロー」というあだ名なのは何故でしょうね。 あだ名の言われはハンガリー語がわからなかったためなんですね。 類似の話ですがフニャディ・ラースローがブダの王城でラディスラウス王に逮捕 された時、ラディスラウス王は傍らにいた傭兵隊長ヤン・イスクラ(ギシュクラ ・ヤーノシュ)にチェコ語で指示を出したのでラースローは何のことか判らず、 抵抗も出来ず捕らえられたという話を読んだことがあります。 >バンデリュウム ご指摘感謝いたします。こちらで正しいですね。 >宮廷で何語を話していたのか キニジ・パールのように元粉屋の親父というような人物を登用してますし、 あと彼の恋人は市民出身だったはずでまさか通訳を介してということはな いように思います。ハプスブルクの皇帝たちは多国の原語を操る人が多い ですがマーチャーシュ王たちもある程度君主のたしなみとして話すことが 出来たのでは・・・と想像しています。 もっと以前の、イシュトヴァーン王の時代にイギリスの亡命王子がハンガ リー宮廷にいたりしていますが、一体どうやって意思疎通をしていたのか、 謎です。
>228 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > あとはこれを生で見たいですね。最近でも時々上演されてますね。 僕もぜひ観てみたいですね。残念ながら生では見ていません。 > 日本で上演というのは無理でしょうね。 絶対に不可能でしょうね (^^;)。少なくとも、オリジナルの規模で は絶対に無理...。ブロードウェーで成功すれば、日本でも可能性がな いわけではないでしょうが、そうなると、多分『キング・スティー ブ』とかのタイトルになってしまい、スティーブ王とコパニーの戦い になってしまうでしょうね (^^;)。祈祷師はトーダで、映画はス ティーブとジゼラの結婚式から始まると...。見たくない (^^;)! で、当然米国ミュージカルの評論家か何かが、適当なあること、な いことの解説を書くんでしょう (-_-;)...。う〜む、想像だにしたく ない...。 > >ハンガリーの貴族の軍勢は丘の上から(だったっけかな?)国王 > >の軍隊がトルコと孤軍奮闘しているのをお手並み拝見で見物して > >いて動かなかったそうですが > トランシルバニアのサポヤイ・ヤーノシュの部隊は高みの見物とい > うよりはるかティサ側の堤防上で停止して戦闘に参加していませ > ん。 そうでしたね。 > 彼は王位に野望を抱いていたのでヤゲヴォ王家のラヨシュ2世の敗 > 北を望んだと言われています。私の知人に言わすと「ラヨシュ2世 > が陣没していなければサポヤイが彼を殺しただろう。」とのこと。 > ちょっと極論すぎのように思いますが・・・・。 十分ありえただろうと思います (^^;)。 [続く]
>228 :ギシュクラ・ヤーノシュさん [続き] >ヤゲウォ家のラースロー > ヴワディスワフ(ウラースロー)王ですね。王としてはウラース > ローなんですが「ドブジェ・ラースロー」というあだ名なのは何故 > でしょうね。 多分、ラースローとウラースローは同じ名前だからではないでしょ うか (^^;)? どうして2つの形があるのかは後で調べてみたいと思 います。ヤゲウォ家のラースローは(ドブジェ・ラースローの場合は ウラースロー二世ですね)、いずれもウラースローと表記されるのが 一般的ですから、もしかすると、ポーランド語の影響かも (^^;)? どうしてもラースローと発音できなかったとか (^^;)? > あだ名の言われはハンガリー語がわからなかったためなんですね。 そういう具合に習いました。 > 類似の話ですがフニャディ・ラースローがブダの王城でラディスラ > ウス王に逮捕された時、ラディスラウス王は傍らにいた傭兵隊長ヤ > ン・イスクラ(ギシュクラ・ヤーノシュ)にチェコ語で指示を出し > たのでラースローは何のことか判らず、抵抗も出来ず捕らえられた > という話を読んだことがあります。 そうだったんですか。それは知らなかった。しかし、別にチェコ語 で話さなくても、ポーランド語で話せば、チェコ人も理解できたはず だと思いますが。 で、ギシュクラ・ヤーノシュのハンドル名をお使いなわけはなんな んでしょう (^^)? >宮廷で何語を話していたのか > キニジ・パールのように元粉屋の親父というような人物を登用して > ますし、あと彼の恋人は市民出身だったはずでまさか通訳を介して > ということはないように思います。 やはり、日常的にフランス語を話していた英国王室やロシア皇室と は違うと思います。 [続く]
>228 :ギシュクラ・ヤーノシュさん [続き] > ハプスブルクの皇帝たちは多国の原語を操る人が多いですがマー > チャーシュ王たちもある程度君主のたしなみとして話すことが出来 > たのでは・・・と想像しています。 どうでしょう (^^;)? ハンガリー語はもちろんできたはずです し。(父親のフニャディ家の出自はともかく、母親のシラージ・エル ジェーベトは完全なハンガリー人ですからね。)仮にフニャディ家が ルーマニア人系貴族の出身であったと仮定しても、ヤーノシュの時代 にまだルーマニア語を解していたかどうかはわかりません。できたか もしれないし...。異民族間の混血児の場合は通常は子どもは母親の方 の言葉を覚えるものです。ラテン語は当然教養語としてできたはずで す。ドイツ語はできた可能性が高いですね。あと、多分、ポーランド 語も片言ぐらいは? ハプスブルグ・オットーさんは前にも書きましたように、貴族訛り のハンガリー語を話されました。ハンガリー語の会話は全く問題なく できました。 > もっと以前の、イシュトヴァーン王の時代にイギリスの亡命王子が > ハンガリー宮廷にいたりしていますが、一体どうやって意思疎通を > していたのか、謎です。 マーチャーシュの宮殿にも多くのイタリア出身のルネサンス学者や 芸術家が滞在しておりましたから、イシュトヴァーンの時代でもおそ らく当初はラテン語で意思の疎通を図っていたのではないでしょう か? その内、ハンガリー語も覚えたでしょうし。
>>221 どうやら、しい坊さんは政治学は苦手のようですね。
>しかし“国”(くに)、すなわち居住“地域”としての“ハンガ
>リー人”意識はあったと思います。かつてローマ帝国の版図に居住し
>ていた者は、誰もが誇りを持って“ローマ人”だと名乗りました。
それは粗雑な議論です。
だから、そうした意味で「ハンガリー人」とか「ローマ人」とか考えてる
集団の境界が(1)明確かどうか、(2)帰属意識が単一かどうか
をいっているんですが?
そりゃ中世にも「ハンガリー人」という漠然とした意識を持った集団は
存在したでしょうが、それが「ハンガリー王国」の「領域」全体にひろがって
いたわけではありませんし、ひろめようという民族主義的な意思も統治者
にはなかったでしょう。また、「ハンガリー人」という意識を統治階級が
持っていたとしても、それが農民にも共有されていたわけではない。
>こ
>れは国民国家としてのローマ人という意識でも、民族としてのローマ
>人意識でもありませんでしたよね。でも、(その実態がなんであれ)
>一応“ローマ人”という概念自体はあったわけです。
だから、それが今の民族概念とはまったく違うのだから、そこに民族概念を
投影して語るのは無意味だといっているのですよ。
>当時の“国民”としての“ハンガリー人”であっ
>たにせよ、ハンガリーに居住していた人達はみな“ハンガリー人”と
>いうか“ハンガリー国人”[magyarországi] 意識はあったと思
>いますよ。
ずばりいって、そんなものはないでしょう。
あなたはフランス革命以降の近代意識で過去を見ようとしているだけです。
そもそも「同じハンガリー人」と考えるための前提条件としては、同じ
人間であるという意識が必要です。
ある一定地域の人間が、身分の違いを超えて「同じ人間」だと考える
ことが必要なのです。
ところが、古代ローマにしても、中世ハンガリーにしても、身分こそが
絶対的であって、それを超えた「貴族も農民も同じ人間」という意識は
無いか、きわめて希薄だったのです。
身分の違いに関係なく同じ人間だ、という思想は、まさにフランス革命
前夜の段階のヒューマニズムの基本的な思想であって、中世には
そんなものはないのです。
>「ここは何という在所かね?」「ハンガリーだよ」と言っ >たレベルでのことですが。 ソースはありますか? 近代意識で過去を投影してはいけません。 >また、近代的国民意識とは質が違います >が、ある種の部族意識としての“マジャル人”[magyar]、“ルーマニ >ア人”[oláh]、“セルビア人”[rác]、“スロヴァキア >人”[tót] のような自覚も確かに存在していたはずです。 自覚があったのなら、どうしてハンガリーの民族国家形成があんなに 遅かったのですか?なぜ東欧の民族的自覚の形成にヘルダーが存在する 必要があったのですか? >もっ >とも、当時は“ルーマニア”とか“スロヴァキア”といった国家が存 >在してわけではありませんから(これらの国家が登場するのは19世 >紀、20世紀になってからです)、 民族意識も民族主義も民族国家も、すべて19世紀の産物です。 >厳密には、“ロムン人”とか“スロ >ヴァク人”と呼ぶべきなのかもしれませんが、 だから、スロヴァク人という意識を持った人間が、現在、スロヴァキア人と されている人間のすべてを包摂していたわけじゃないといっているんですが?
>>222 > 支配階級と被支配階級で共通した近代的な国民意識がなかったから
>と言って、彼らの母語が違っていたわけではないでしょう。
違っている可能性のほうが高いのです。
たとえば、英国。11世紀には農民がアングル語やサクソン語で、支配者が
ノルマン語。13世紀ごろには支配者がオイル語。
英国にしてからがそうですから、人間移動や侵略活動が激しかった欧州大陸
では支配層と被支配層では母語がまったく違っていたでしょうね。
>公文書は
>当時のカトリック世界での公用語であるラテン語で記述されていまし
>たが、実際に日常で使われていたのはハンガリー語のはずです。
そもそも「ハンガリー語」という概念そのものが近代の産物ですから、
14世紀の段階で「ハンガリー語」という概念を持ち出しての意味が
ありません。
>(す
>でにあの時代にラテン語を母語としていた人は存在していなかったは
>ずです。←ロマンス語の問題も専門外 (^^;)。)
であれば、オイル語かゲルマン系の言語の可能性がありますね。
すくなくとも王家がハンガリー語を話す必然性はありません。
>ハンガリー語の場合
>は世界の言語の中でも驚くほど方言差が小さい言語です。
現在の話を持ち出して、過去を投影しても意味がありません。
そもそも方言差が少ないのは「本来はハンガリー民族を構成すべき人達の
母語のうち、通じないものを捨象して、さらに、アッチラ伝説によって
ハンガリーという言語孤島の国家をつくったことで、方言差が少なくなる
方向に動いていった結果だともいえるはずです。、すくなくとも朝鮮語など
そうして「方言差が少ない言語」ができた例がありますから。
>ですから、当時のハンガリーでは支配階級
>と被支配階級の言語はほとんど変わりがなかったはずです。
地域方言の差が少ないから、社会方言の差が少ないとは、これまたいかに?
そもそも現在「方言」とされているものはロマン主義運動の結果、それぞれの
地域の農民の言語を「方言の標準」と規定したものであって、支配層がかつて
どういう社会方言を使っていたかは現在残っている文献だけでは
判断できないことが多いのです。
> 実際、ポーランドのヤゲウォ家のラースローがハンガリー国王に
>なったときは、ハンガリー語がわからず、家臣が何を尋ねても、ポー
>ランド語で「ドブジェ」(良きに計らえ)としか答えなかったと言う
>ので、馬鹿にされています (^^;)。
これって、ロマン主義運動で「国民の歴史」を作っていったときにできた
作り話です。
そもそもラースローの母語はポーランド語ですらなかったわけですから。
>つまり、ハンガリー人の家臣は国 >王に母語であるハンガリー語で話しかけ、国王は母語であるポーラン >ド語で答えていたという事実が伺えます。 そもそも母語が何で、身分が違うものが意思疎通が必要だというしい坊さんの 思いこみは、近代ロマン主義思想の産物であって、中世にはそれこそ王族内や 貴族同志でも「母語」が異なっていたでしょう。 だからこそ媒介として書面語としてのラテン語が重要だったわけですから。 >本当に意思疎通が必要で >あった時には共通語であったラテン語でたどたどしく会話したものと >想像されます。 通訳を介したでしょう。これは歴史学では常識になっています。 > 19世紀からヨーロッパで熱病のように広まった国民国家の原理は非 >常に重要な要素ですが(日本人はしばしばその重要性を認識できな >い)、同時に、それを絶対視してしまうのも問題だと思われますが。 おやおやしい坊さんは政治学とか社会学が苦手ですね。読み取りができていない ようです。私は絶対視しているんじゃなくて、民族原理で中世を解釈する あなたのやり方に疑問を投げかけているんですよ。なんでも民族主義で 解釈しているのはしい坊さんのほうです。 ある土地に住む人間がすべて「同じ***人」という意識を昔から 持っている、母語は同じはずだ、というあなたの主張はまるっきり 近代国民国家の原理を中世にも投影する。それは誤りだといっているん です。 >(現実に国民国家以前もそれぞれの国内居住諸民族は自分らの民族名 >を名乗っていたわけですしね。あれらの民族名称は別に近代になって >できたわけではありません。) きわめて粗雑な議論です。 民族(nation)と部族(tribe)の違いを混同したうえに、時代の前後関係を 転倒させていますね。 ナショナリズムがどういう風に形成されたかをご存知ないみたいですね。 いいですか? 過去のある支配集団が名乗った「部族名」は確かに存在した。そして、ロマン主義 運動によって、それを近代の民族名として流用し、その民族が歴史的に古くから 連綿と存在することにしてしまった。それが、あなたのいう「近代になって できたわけではない」という主張の実態です。前後関係を転倒させては いけません。
>>223 > 「ハンガリー」という概念は強固にあったと思いますよ。単に国王
>や貴族と農奴達が同じ“ハンガリー国民(ナーツィーオー)」という
>意識がなかっただけで。しかし何もなかったわけでもないでしょう。
何もなかったでしょう。
すくなくともロマン主義運動によって作り出された農民を理想化した
ナショナリズムに直接つらなる意識は存在しなかったでしょう。
後でむりやり歴史としてくっつけたことは事実ですが。
>事実、マーチャーシュの父君であるフニャディ・ヤーノシュは、当時
>のハンガリー南端のナーンドルフェヘールヴァール(現在のベオグ
>ラード)の会戦では、当時の欧州としては初めて、領地の農奴達に武
>器を渡して「祖国のために一緒に戦おう!」と訴えて(もちろん、戦
>に参戦した者は自由農にするとかご褒美を用意しましたが)勝利を収
>めています。だから、なんらかの共通意識はあったはずです。
そもそも「祖国」なんて概念はフランス革命で初めて形成された概念なのであって
そういう概念を18世紀以前に使った、なんていう話があるとしたら、それは
すべて後世の創作だと言えるでしょうね。
つまり創作された話をもとにして「事実」の証拠にしても無意味なわけ
です。
> その通り。そのことは日本人にはなかなか理解しにくい事実です
>が、同時にあまり過大評価しすぎるのも問題だと思います。
でも、近代以前に身分を越えた何らかの「祖国意識」があった、などと
あくまでも強弁するしい坊さんは、ハンガリーなどにみられる、強烈な
ナショナリズム史観に毒されているだけでしょう。
>>161 執政ホルティ・ミクロシュ提督、の提督は役職名ではなくて敬称と考えればよいのですかね。
彼は爵位なんかはあったのでしょうか。サラシ伯爵、という方もいましたね。
故マスド國防相はゲリラ戦の名人で生粋の現場指揮官、といった印象があったので國防相と聞いて
ちょっと意外な感じがしたものです。元々彼の属していた少数民族タジク人を束ねるラバニ氏の派
が軍閥として勝ち抜いて共産政権崩壊後ブルハヌディン・ラバニ氏が大統領、故マスド氏が國防相
と成ったものの、最多数民族のパシュトン人と和解できず内乱が続き在パキスタン難民を組織した
タリバンがヘクマチャル派他パシュトン人組織を吸収しながら都を攻めたのでタジク人居住域の
北東部に篭り今に至るわけです。従って官僚組織がどうのこうのより力量のある人が様々な役を
兼ねる方が能率的なのでしょう。故マスド氏はおそらく國軍最高司令官も兼ねていたでしょうね。
そのラバニ派にラシド・ドストム将軍率いるウズベク人勢力、中央高地に歴史的に追い込まれた
シーア宗のハザラ人勢力等が食客的に合流したのが北部同盟です。
238 :
世界@名無史さん :01/10/09 13:07
>>224 > まさにマーチャーシュ王の漫遊伝説を見ても、必ずしも無関心で
>あったわけではないようです。
あのね。それは近代の頭で理解しようとするから、そういう風に読めるだけの
こと。
>やはり上手に国家を運営して行くため
>には民意は重要ですから。
こういう思想は、まったくの近代の、社会契約説の発想。
近代以前には「民意」など必要がなかった。しい坊さん、あなたは「家産」
という言葉の意味がわかっていないんじゃないの?
> 封建時代の支配階級が単に強欲な簒奪者で、民衆をただの財産とし
>かみなしていなかったというのは、近代史学の偏見ではないかと危惧
>しています。
こういう議論の発展のさせ方が粗雑だといっているのです。
国家が民意によって成り立っているという発想こそが近代社会契約説の思想
です。
中世には中世の流儀があるということが、「中世は領主が人民を収奪している
だけの暗黒社会だった」と私がいっているという議論のすり替えはやめて
くれませんか?
家産制で、民意など必要とせず、身分が重要だった、というのは、当時の社会の
事実を説明しているだけであって、それを悪いときめつけているように
解釈してしまうあなたの発想こそが、まさに共産党史観に毒されています。
>日本の江戸時代でもそうでしたが、
それは誰のトンデモ学説ですか?(わら
>西洋でも貴族が特権
>を享受しているのは、民衆のよき生活に対して責任があるからという
>思想からだったと理解しています。
これは全然違います。これは、近代になって、社会契約説が発達して、領主が
人民を家産として支配することができなくなったが、なおかつ階級が
保存されたことの代償として生まれた「ノーブレスオブリージュ」の思想
であって、中世にはそんな発想はありませんでした。そもそも人民は主権者
ではなかったわけだから、領主が人民に責任を果たす必要などありません。
239 :
世界@名無史さん :01/10/09 13:08
>農民はお国のために年貢を納め >る。 ここでいう「お国」とは、領主とその家族のことです。観念的な国家のこと ではありません。 >それがなければ、庶民の国王に対す >る熱烈な敬意・慕情の念等は説明がつかないでしょう。 社会契約説を前提にすると、そういう説明しかできないでしょう。 前提が間違っているのですよ。 >実際、1918年 >にハンガリー評議会連邦共和国の成立前のハンガリー人民共和国の初 >代大統領となったカーロイ・ミハーイ伯爵もその回顧録で大貴族とい >うものが、一般に信じられていたように私利私欲の塊ではなく、いか >に民草の幸福を願って努力していたかということが説明されていま >す。 1918年なんて近代の話。それが中世にもそうだったという証拠には まったくなりません。 >彼の回顧録にある欧州の大貴族(華族)のネットワークや、様々 >な貴族文化の話は、結構“目から鱗”的なことが書かれており、非常 >に面白いです。 貴族文化そのものが、近代になってから構造転換していることが 分からないと話になりません・ > それは全くの誤解だと思います。ラテン語はあくまでも仲介語で >す。 そんなことありません。貴族にとってラテン語でも会話することは常識でした。 あなたはDlugossiの記録とか読んだことはありませんか? 国王も農民とおなじ言語を母語として使っていた、というあなたの説こそが まったく誤解ですな。 >それはヴァチカン市国でも公用語はラテン語ですが、日常的には >ヴァチカン市民はイタリア語を話しているのと同じことです。 同じではありません。ヴァチカンといってもしょせんは近代社会に 組み込まれているのですから、14世紀のハンガリーと比較するのは間違って います。 >現在ス >ロヴァキアでも公用語はスロヴァキア語だけですが、実際には市長か >ら市会議員までハンガリー人しかいない自治体も多く、この前までは >討論もハンガリー語で行い(だってハンガリー人しかいないのですか >ら)、議事録もハンガリー語で作成し、その後、国家の公用語である >スロヴァキア語版も作成されていました。 だから、それはあくまでも近代、現代の話ですね・。 中世とは何の関係もありません。
おっ。ひょっとしてアンパサンド氏の登場ですね。 しい坊さんを相手にどのような議論が展開されるのか、 しばらくはこのスレから目が離せませんねえ。
241 :
世界@名無史さん :01/10/09 13:15
>>225 > 日本の帝(みかど)と違い、実際はそんなでもなかったようです
>よ。
もし同じ「ハンガリー語」に属するとしても社会言語の違いを無視しては
いけないでしょう。
しい坊さんは、ロンドンのコックニーと英語標準語が同じ英語だと
思われますか?(わら
> “通婚することができた”ということではなく、日本の天皇家と同
>様に、貴族となる家柄が決まっていたということなのではないでしょ
>うか?
同じことです。
だから、なんでも「母語が通じるかどうか」で考えるしい坊さんの思考が
意味がないといっているんですが?
> だから、ヨーロッパの新興国家も国王を自民族から出さず、
>欧州の名門王家に頼んで、国王になってもらうことが一般的だったわ
>けです。
だから、母語が通じるかどうか、同じ民族かどうかなんて、意味がないって
ことなのよ。わかる?
242 :
世界@名無史さん :01/10/09 13:22
>>228 >キニジ・パールのように元粉屋の親父というような人物を登用してますし、
>あと彼の恋人は市民出身だったはずでまさか通訳を介してということはな
>いように思います。
その「まさか」があるんだよな。
あなたが「まさか」といって、あくまでも母語が同じだったと思いこむのも、
近代になっての常識で判断しているだけのこと。
歴史書では「通訳を介した」なんていちいち記述しないものだから、
あなたが分かっていないだけで、実際には通訳をいちいち介していたことが
歴史学では常識になっているんだよ。
そもそも中世世界は寡黙な世界だったわけで、今ほどは口頭による
意思疎通が重要じゃなかったわけ。
母語が同じで意思疎通しないといけないという観念はフランス革命になって生まれた。
それ以前には、身分が違えば言語が違って当たり前。意思疎通したいなら、
ラテン語筆記か、通訳を通せばいいだけのこと。
>ハプスブルクの皇帝たちは多国の原語を操る人が多い
>ですがマーチャーシュ王たちもある程度君主のたしなみとして話すことが
>出来たのでは・・・と想像しています。
そもそも標準語という発想がない時代にどうやって多言語を学ぶんでしょうか?
階級によって、地域によって様々な方言があったんですが?
>もっと以前の、イシュトヴァーン王の時代にイギリスの亡命王子がハンガ
>リー宮廷にいたりしていますが、一体どうやって意思疎通をしていたのか、
>謎です。
通訳に決まっているじゃん。
243 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/09 22:37
しい坊さま ハンドルネームの所以。 ごく単純にイスクラという人物に興味があるのです。で、ハンドルネームに 使っているのです。 >228 当時、ハンガリー人という概念はないという訳ですね。貴族の場合はイシュト ヴァーンの王冠に属するという認識はあるでしょうが、農民の場合にそれはな いだろうと。 >242 宮廷でどんな言葉を話していたのかというのは非常に興味のある部分です。 本当かどうかは知りませんがマーチャーシュのやや後の時代のハプスブルク家 のマクシミリアン1世はブルグント公になった際、フランス語もフラマン語も 話せず難渋したとか、その後フランス語・フラマン語・英語・スペイン語・イ タリア語・チェコ語を話せるようになったとか書いてあるのを読んだことがあ ります。おっしゃるとおり後世の創作かも知れませんが・・・。 ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カレル4世は自伝で成人してボヘミアに戻 ってきた時、チェコ語を完全忘れていて廷臣と意思疎通が出来ず困ったこと、 その後チェコ語を再び習い全てのボヘミア人と同じようにこの言葉を話し、理 解出来るようになった、またフランス語、イタリア語、ドイツ語およびラテン 語をも習って、流暢に読み、書き、話し、理解することが出来たと書いています。 息子の皇帝ジギスムントもチェコ語のほかドイツ語・フランス語・イタリア語・ ラテン語・ハンガリー語・ポーランド語を習得したと言われています。ハンガリ ー語はラヨシュ1世の宮廷に預けられている時に、ポーランド語はラヨシュ1世 によってポーランドへ派遣されている当時に習得した由です。 話せないより話せたほうがいいのはもちろんですね。ラースロー・フニャディの 場合なんかは言葉がわからないばかりに災難に見舞われるというお話(創作かも しれませんが)です。
244 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/10 00:29
しい坊さま ハプスブルク家の話は中世を念頭に置いての書き込みです。 上記のマクシミリアン1世もそうですし、その息子のフェルディナンドと ハンガリーのヤゲヴォ家のアンナは子供たちにドイツ語・チェコ語・ポー ランド語・ラテン語を学ばせたそうです。(ただし、これも邦文の本から の情報です。) >282 歴史学の常識ですか。そうかもしれませんね。当方は素人の趣味の域を出ま せんもので。後学のためにわかりやすい文献をご教示いただけると幸いです。
>232 :世界@名無史さん > > >221 > どうやら、しい坊さんは政治学は苦手のようですね。 はい、政治学は専門ではありません (^^)。すでにこの掲示板で述べ ているように、歴史学も専門ではありません。ついでに言ってしまえ ば、社会学も、地理も、考古学も、心理学も(超心理学も)、数学 も、物理学も、化学も、民俗学も、民族学も、人類学も、文学も、音 楽も、どれも専門ではありません。僕が唯一責任を持って発言できる のはハンガリー語のことのみです。 > > しかし“国”(くに)、すなわち居住“地域”としての“ハンガ > > リー人”意識はあったと思います。かつてローマ帝国の版図に居 > > 住していた者は、誰もが誇りを持って“ローマ人”だと名乗りま > > した。 > それは粗雑な議論です。 すみません、粗雑で (^.^;)ゞ。粗雑なのは重々承知しております。 前にも何度か書いておりますが、できる限り、文章を短くしたいと考 えており、あえていくつかのことには目をつぶって、はしょって書い ている場合が多いからです。 > だから、そうした意味で「ハンガリー人」とか「ローマ人」とか考 > えてる集団の境界が(1)明確かどうか、(2)帰属意識が単一か > どうかをいっているんですが? ありゃ? すでにご発言なさっているのですか? どうも、ここは 皆さん、「世界@名無史さん」だらけなので、どなたがどなたなの か、さっぱりわかりません。失礼があったとしたら、お許しくださ い。 > そりゃ中世にも「ハンガリー人」という漠然とした意識を持った集 > 団は存在したでしょうが、 いたはずだと思います。それが実態としてどういう集団を指してい たのかは別にしてですが。 [続く]
>232 :世界@名無史さん [続き] > それが「ハンガリー王国」の「領域」全体にひろがっていたわけで > はありませんし、 ここら辺はどうなんでしょう。恐らく、当時は今のように厳密に民 族と国籍 (?) を区別していなかったので、いわゆるマジャル族に属す る人々がハンガリー人を名乗ったこともあるでしょうし、自分が住ん でいる国からハンガリー人を名乗った場合もあると思います。あまり 区別は厳密ではなかったのだろうと想像しています。(ちょうど今の 米国で、移民が自分をアメリカ人だと名乗ることもあるし、ハンガ リー人だと名乗ることもあるようなものではないかしら? 時代も、 背景も全然違いますが。) > ひろめようという民族主義的な意思も統治者にはなかったでしょ > う。 いなかったと思います。(もっとも僕がそう思っているだけで、本 当のことは知る立場にはありませんが。) > また、「ハンガリー人」という意識を統治階級が持っていたとして > も、それが農民にも共有されていたわけではない。 貴族達が、自分らをハンガリー人だと名乗っていたのと同じ意味で は共有されていたはずはありませんね。最初から農民を排除する概念 だったのですから。 > > これは国民国家としてのローマ人という意識でも、民族としての > > ローマ人意識でもありませんでしたよね。でも、(その実態がな > > んであれ)一応“ローマ人”という概念自体はあったわけです。 > > だから、それが今の民族概念とはまったく違うのだから、そこに民 > 族概念を投影して語るのは無意味だといっているのですよ。 “現代の民族概念”を投影するという意味ではおっしゃる通りで す。でも、現在の民族概念を投影しているつもりはないのですが。要 するに、問題は、当時のああいう集団のことを表わす適切な現代用語 としてのターミノロジーが存在しないことなのではないでしょうか? だからそれぞれが自分の定義で理解して、意見が違うと主張し合う事 になってしまう...。(世の中の多くの学術的な論争の多くは、この定 義の問題に過ぎないような気もします。特に文系の場合は。) [続く]
247 :
世界@名無史さん :01/10/13 21:02
ブダペストはパリより美しいって本当かい
>232 :世界@名無史さん [続き] > > 当時の“国民”としての“ハンガリー人”であったにせよ、ハン > > ガリーに居住していた人達はみな“ハンガリー人”というか“ハ > > ンガリー国人”[magyarorsz?i] 意識はあったと思いますよ。 > > ずばりいって、そんなものはないでしょう。 それは考え方の相違だと思います。 > あなたはフランス革命以降の近代意識で過去を見ようとしているだ > けです。 そのつもりはないんですけどねぇ...。と言うか、むしろ、日頃は、 フランス革命で形成された国民とか民族とかいう概念を過去に投影す べきはないと主張しているつもりなんですけど。この掲示板ではそう いう発言はしていなかったかもしれませんが。それは、単にその必要 性を感じなかっただけだったからですが。基本的にはこの掲示板は 「ハンガリーってどうよ?」―「こうよ」というやりとりの場だと考 えていました。 > そもそも「同じハンガリー人」と考えるための前提条件としては、 > 同じ人間であるという意識が必要です。 > ある一定地域の人間が、身分の違いを超えて「同じ人間」だと考え > ることが必要なのです。 > ところが、古代ローマにしても、中世ハンガリーにしても、身分こ > そが絶対的であって、それを超えた「貴族も農民も同じ人間」とい > う意識は無いか、きわめて希薄だったのです。 > 身分の違いに関係なく同じ人間だ、という思想は、まさにフランス > 革命前夜の段階のヒューマニズムの基本的な思想であって、中世に > はそんなものはないのです。 おっしゃりたいことはよく理解できているつもりです。しかし、そ れこそ、近代的な歴史学の概念ではないのでしょうか? ひとつの制 度、あるいはシステムとしてはそういうことだったのだと思います。 しかし、現実の日常生活の中では、そういう具合に割り切れなかった のではないと素人としては個人的に感じているのですが? ダメです か?
>233 :世界@名無史さん > >「ここは何という在所かね?」「ハンガリーだよ」と言っ > >たレベルでのことですが。 > > ソースはありますか? ありません。個人的な想像です。でも、個人的にはそういう“感 覚”は多分、あったと思います。人間って、時代や文化や宗教が違っ ても、本質的な所ではそんなに変わらないものだと思っていますか ら。 > 近代意識で過去を投影してはいけません。 そのつもりはありません。結果としてそれがうまくいっているのか どうかは(お互い?)自信はありませんが...。 > >また、近代的国民意識とは質が違いますが、ある種の部族意識とし > >ての“マジャル人”[magyar]、“ルーマニア人”[olá]、 > >“セルビア人”[rác]、“スロヴァキア人”[tót] > >のような自覚も確かに存在していたはずです。 > > 自覚があったのなら、どうしてハンガリーの民族国家形成があんな > に遅かったのですか? それは、フランス革命の影響を受けるまでは、ハンガリー王国のハ ンガリー人達がハンガリー人を主体とする国民国家を作ろうとはして いなかったからでしょう。で、同時に影響を受けた他の諸民族も、ハ ンガリー人同様に、自分達を中心とする国民国家を作ろうという熱病 に浮かされてしまった。ハンガリー王国は元々多民族国家であったた めに、国民国家を作ろうとしたときに収拾がつかなくなってしまった のだと思います。
>234 :世界@名無史さん
>
>>222 > > 支配階級と被支配階級で共通した近代的な国民意識がなかったか
> >らと言って、彼らの母語が違っていたわけではないでしょう。
>
> 違っている可能性のほうが高いのです。
> たとえば、英国。11世紀には農民がアングル語やサクソン語で、
> 支配者がノルマン語。13世紀ごろには支配者がオイル語。
> 英国にしてからがそうですから、人間移動や侵略活動が激しかった
> 欧州大陸では支配層と被支配層では母語がまったく違っていたで
> しょうね。
英国は元々住民の侵入や移動が特に多かったはずだと理解しており
ますが?(そのことが本来屈折語であった英語の孤立語化にも影響を
与えていたと考えられているのでは?)
で、例えばハンガリーの場合ですが、では、実際にはハンガリーで
はどういう言語が話されていたのでしょうか? 僕はハンガリー語
や、ドイツ語、ルーマニア語、セルビア語、スロヴァキア語、その他
だったと(要するに、現在もあの地で話されている言語ですが)考え
ていますが?
> >公文書は当時のカトリック世界での公用語であるラテン語で記述さ
> >れていましたが、実際に日常で使われていたのはハンガリー語のは
> >ずです。
>
> そもそも「ハンガリー語」という概念そのものが近代の産物ですか
> ら、14世紀の段階で「ハンガリー語」という概念を持ち出しての
> 意味がありません。
ん? 14世紀? 何の話をしているのかわからなくなってしまいま
した。それはともかく、“ハンガリー語”というのが近代の概念だと
いうのは初耳です。じゃあ、ハンガリー語は突然、19世紀になって
降って沸いたのでしょうか? 少なくともハンガリー語はウラル祖語
時代から綿々と続いていたはずですよ。別に「それをハンガリー語と
呼ぶな!」とおっしゃるのであれば、それはそれでも構いませんが、
ならばどう呼べばいいのでしょう? ちなみに、ハンガリー語の自称
である magyar が古来の呼称であることは、ハンガリー語に一番近い
ヴォグル人が自らを manysi と呼んでいるのと同じ語源だと考えられ
ていますが?
別にそれを「ハンガリー語」と呼ぼうが、「マジャル語」と呼ぼ
うが、それが今のハンガリー語に当たる言語であるという事実は変わ
りないと思いますけど?
[続く]
>234 :世界@名無史さん [続き] > >(すでにあの時代にラテン語を母語としていた人は存在していな > >かったはずです。←ロマンス語の問題も専門外 (^^;)。) > > であれば、オイル語かゲルマン系の言語の可能性がありますね。 > すくなくとも王家がハンガリー語を話す必然性はありません。 ハンガリー人系王朝の王達がハンガリー語を話さなかったと考える 積極的な理由は僕には見当たりません。同様に、ハプスブルク家の王 朝がドイツ語を母語としていたであろうことも別に疑う必然性も感じ ません。実際、オーストリアはすでに18世紀頃から帝国の公用語をラ テン語からドイツ語にしようと画策しておりましたからね。 国王であれ、農民であれ、誰であれ、いずれかの言語は母語であっ たはずで、農民は当然、自分らの所属する民族の言語を母語として話 していたでしょうし、王族の場合も、やはり自分の出身世界の言語を 母語としていたはずです。もちろん、米国の例を見ればわかるよう に、出身民族の言語と本人の母語が同じとは限りませんが。そのこと 自体は理解しているつもりですけれども? > >ハンガリー語の場合は世界の言語の中でも驚くほど方言差が小さい > >言語です。 > > 現在の話を持ち出して、過去を投影しても意味がありません。 > そもそも方言差が少ないのは「本来はハンガリー民族を構成すべき > 人達の母語のうち、通じないものを捨象して、さらに、アッチラ伝 > 説によってハンガリーという言語孤島の国家をつくったことで、方 > 言差が少なくなる方向に動いていった結果だともいえるはずで > す。、すくなくとも朝鮮語などそうして「方言差が少ない言語」が > できた例がありますから。 朝鮮語のことも専門外なので何とも言えませんが(なんと“専門 外”の多いことよ (^^;)!)、なんでここに唐突に“アッチラ伝説” が登場するかさっぱりわかりません。また、おっしゃる通り、ハンガ リー王国にも国民国家意識がむかしはなかったわけで、そこで言語の 統一のような力が働いたとも思えませんが? 現にハンガリーでは少 数民族の言語もそのまま残って共存していましたしね。ルーマニアの モルドヴァ地方で話されているチャーンゴー方言は、チャーンゴー人 が一度もハンガリー王国に帰属していたことがなかったために、最も 現在のハンガリー語の標準語とは遠い言語なのですが、それでも十分 に現在のハンガリーの言語と意思の疎通ができます。 [続く]
>234 :世界@名無史さん [続き] > >ですから、当時のハンガリーでは支配階級と被支配階級の言語はほ > >とんど変わりがなかったはずです。 > > 地域方言の差が少ないから、社会方言の差が少ないとは、これまた > いかに? そうではなくて、ハンガリー語の内部では地域の方言差がほとんど ないように、社会方言の差もほとんどなかったと考えるのが妥当であ ろうということです。 誤解があると困りますので、念のために申し添えておきますが、僕 はハンガリーの宮廷でハンガリー語だけが使われていたと主張してい るのではありません。(ただ、ハンガリー語が多数派だったろうとは 考えています。)ですから、あくまでもハンガリー語内部での社会方 言の差のことを言っているのです。もちろん、「ハンガリー語等がハ ンガリーの宮廷で使われていたはずはない」と断言されるのであれ ば、この問題に関してはこれ以上議論しても平行線をたどると思いま すが。 > そもそも現在「方言」とされているものはロマン主義運動の結果、 > それぞれの地域の農民の言語を「方言の標準」と規定したもので > あって、支配層がかつてどういう社会方言を使っていたかは現在 > 残っている文献だけでは判断できないことが多いのです。 その点はおっしゃる通りだと思います。
>235 :世界@名無史さん > >つまり、ハンガリー人の家臣は国王に母語であるハンガリー語で話 > >しかけ、国王は母語であるポーランド語で答えていたという事実が > >伺えます。 > > そもそも母語が何で、身分が違うものが意思疎通が必要だというし > い坊さんの思いこみは、近代ロマン主義思想の産物であって、 すみませんねぇ。 > 中世にはそれこそ王族内や貴族同志でも「母語」が異なっていたで > しょう。 それはその通りだと思います。異論はありません。 > だからこそ媒介として書面語としてのラテン語が重要だったわけで > すから。 それも、その通りだと思います。 > >本当に意思疎通が必要であった時には共通語であったラテン語でた > >どたどしく会話したものと想像されます。 > > 通訳を介したでしょう。これは歴史学では常識になっています。 そうなんですか。(別に通訳を使っていたとしても不思議ではあり ませんが。でも、当時の貴族達は多くがラテン語はできたはずですよ ね? ならば、どうしてわざわざ通訳などが必要だったのでしょ う?)とにかく歴史学は専門ではありませんので、そのような“歴史 学上の常識”があれば、これからもどんどん教えてください。感謝し ます。 [続く]
[続く] >235 :世界@名無史さん [続き] > > 19世紀からヨーロッパで熱病のように広まった国民国家の原理は > >非常に重要な要素ですが(日本人はしばしばその重要性を認識でき > >ない)、同時に、それを絶対視してしまうのも問題だと思われます > >が。 > > おやおやしい坊さんは政治学とか社会学が苦手ですね。 だから、政治学も社会学も専門外だってば (^^;)! 最初から言っ てるではありませんか?(でも、これまで、一番苦手だったのは数学 だった (^^;)。) > 読み取りができていないようです。 あ、日本語も専門外だったのかな (^.^;)ゞ? > 私は絶対視しているんじゃなくて、民族原理で中世を解釈するあな > たのやり方に疑問を投げかけているんですよ。なんでも民族主義で > 解釈しているのはしい坊さんのほうです。 そうしているつもりは全くないのですが...。う〜ん、困りました ねぇ。かと言って、僕がいくらそのつもりはないと言っても「そんな ことはない!」とご主張されるのでしょうから...。ま、解釈の相違と いうことで、ご納得いただけませんでしょうか? [続く]
>235 :世界@名無史さん [続き] > ある土地に住む人間がすべて「同じ***人」という意識を昔から > 持っている、母語は同じはずだ、というあなたの主張はまるっきり > 近代国民国家の原理を中世にも投影する。 まだ誤解があるようです。僕が言っているのは「○○人」という意 識を共有している集団は同じ母語を話していただろうということで す。この「○○人」というのは、例えばハンガリーにおいては“ハン ガリーに居住している住民が全てハンガリー人であって、ハンガリー 語を母語としていた”と主張しているのではありません。ハンガリー にはハンガリー人だけではなく、ドイツ人やルーマニア人も居住して いましたから、ハンガリー人達は自分らの村ではハンガリー語を話し ていたでしょうし、ドイツ人達は自分らの村ではドイツ語を話してい ただろう、ルーマニア人達は彼らの村ではルーマニア語を話していた だろうということに過ぎません。だから、近代の国民概念を過去に投 影しているつもりは全くないのですが? 彼らは自分らがハンガリーに居住している住民だという意識はあっ たでしょうが、自分らをルーマニア人だと思っている人間達がドイツ 語を母語としていたようなことがあるとは到底思えませんが? > >(現実に国民国家以前もそれぞれの国内居住諸民族は自分らの民族 > >名を名乗っていたわけですしね。あれらの民族名称は別に近代に > >なってできたわけではありません。) > > きわめて粗雑な議論です。 > 民族(nation)と部族(tribe)の違いを混同したうえに、時代の前 > 後関係を転倒させていますね。 ああ、わかった! 用語の使い方の違いですね! 僕は「民族」は nationality の訳語として使っています。nation には「国民」の用語 を当てています。異論はおありでしょうが、とにかく僕が使っている 「民族」は nation のことではないということだけはご理解くださ い。これらの訳語はそれぞれが色々悩んでいることだと思います。も しかすると「歴史学では nation は 民族 と訳すのが常識だ」とご主 張されるかもしれませんが、確か、色々な訳語の試みが存在していた はずだと思いますし、要するに、こういう話し合いの時は、互いにそ の用語の定義さえ了解していれば、済むことだと思います。(「俺の 定義以外で用語を使うことは許さない」と言われてしまえば困ります が...。) [続く]
[続く] >235 :世界@名無史さん [続き] > ナショナリズムがどういう風に形成されたかをご存知ないみたいで > すね。 歴史学は専門外ですが、一応はある程度は理解しているつもりです が (^^;)? > いいですか? > 過去のある支配集団が名乗った「部族名」は確かに存在した。そし > て、ロマン主義運動によって、それを近代の民族名として流用し、 > その民族が歴史的に古くから連綿と存在することにしてしまった。 > それが、あなたのいう「近代になってできたわけではない」という > 主張の実態です。前後関係を転倒させてはいけません。 つまり僕の用語を使って書き直せば、 > 過去のある支配集団が名乗った「民族名」は確かに存在した。そし > て、ロマン主義運動によって、それを近代の国民名として流用し、 > その民族が歴史的に古くから連綿と存在することにしてしまった。 > それが、あなたのいう「近代になってできたわけではない」という > 主張の実態です。前後関係を転倒させてはいけません。 ということになりますね? 不本意かもしれませんが。これで話が見 えてきました。で、失礼ですが、やはり僕の言っていることと矛盾は ないように感じられます。 あと、おっしゃられていることは西欧における展開だと思います。 東欧の場合はそうはならなかった。つまり、ハンガリーに居住してい る者や、ルーマニアに居住している者が“ハンガリー人”だったり、 “ルーマニア人”となったわけではないのです。これらの国々では現 在でも nation とはその国を構成する諸民族の中の支配的な民族 (nationality) を指し、その国家に居住する民族は全て nationality として区別されています。ですから、現代でもハンガリーにはハンガ リー人という、おっしゃられる意味での nation が存在し、それを過 去に遡って投影して、過去から現在まで続いているという解釈はなさ れていないのです。そういう意味では東欧諸国は未だに西欧的な国民 国家ではないのです。
>236 :世界@名無史さん
>
>>223 > > 「ハンガリー」という概念は強固にあったと思いますよ。単に国
> >王や貴族と農奴達が同じ“ハンガリー国民(ナーツィーオー)」と
> >いう意識がなかっただけで。しかし何もなかったわけでもないで
> >しょう。
>
> 何もなかったでしょう。
何かはあったはずだと思いますけどね。少なくとも自分が居住しい
てる土地が“ハンガリー”と呼ばれている所だ、自分は“ハンガリー
の住民だ”という程度の意識はあったことでしょう。さもなければ、
地名などというもの自体、存在しないはずですから。“ハンガリーと
いう国がある”という意識がなかったはずはないと思いますよ。
> すくなくともロマン主義運動によって作り出された農民を理想化し
> たナショナリズムに直接つらなる意識は存在しなかったでしょう。
だから同じことを言っているんですよ。そんなものは当時あったわ
けがない。どうやら、世界@名無史さんは、natio のご自分の解釈に
こだわって僕の文章をお読みになられているようですね。繰り返しま
すが、僕が使っている「民族」という用語は近代国民国家の nation
の意味ではありません。
> 後でむりやり歴史としてくっつけたことは事実ですが。
それはその通りです。
[続く]
>236 :世界@名無史さん [続き] > >事実、マーチャーシュの父君であるフニャディ・ヤーノシュは、当 > >時のハンガリー南端のナーンドルフェヘールヴァール(現在のベオ > >グラード)の会戦では、当時の欧州としては初めて、領地の農奴達 > >に武器を渡して「祖国のために一緒に戦おう!」と訴えて(もちろ > >ん、戦に参戦した者は自由農にするとかご褒美を用意しましたが) > >勝利を収めています。だから、なんらかの共通意識はあったはずで > >す。 > > そもそも「祖国」なんて概念はフランス革命で初めて形成された概 > 念なのであってそういう概念を18世紀以前に使った、なんていう > 話があるとしたら、それはすべて後世の創作だと言えるでしょう > ね。つまり創作された話をもとにして「事実」の証拠にしても無意 > 味なわけです。 当然、色々な民族の歴史には「創作」や「捏造」それから「願望に よる推定」などがたくさん入っていると思います。どの民族でもね。 問題は日本語の「祖国」という明治になって人工的に作られた用語に もあるのです。古里や母国を表わす“haza”という用語は昔からある わけで、同様にラテン語の“patria”という用語も昔からあるのだと 思います。恐らく、世界@名無史さんがおっしゃっている、そんな概 念はなかったという「祖国」は近代国民国家としての「祖国」でしょ う? しかし、それまでも人々は自分の生まれ育った土地に対して何 らかの愛着心や所属意識を持っていたはずです。で、実際、17世紀末 に亡命していたラーコーツィ・フェレンツ二世は本国に“Pro Patria”と書いた旗を置くって、対墺独立戦争(自由戦争)の呼びか けを行っています。 [続く]
>236 :世界@名無史さん [続き] > > その通り。そのことは日本人にはなかなか理解しにくい事実です > >が、同時にあまり過大評価しすぎるのも問題だと思います。 > > でも、近代以前に身分を越えた何らかの「祖国意識」があった、な > どとあくまでも強弁するしい坊さんは、 別に“強弁”などしていませんよ。近代的な意味での祖国意識など なかったに決まっているわけですから。だからこそ“なんらかの”と いう修飾語を付けているのです。僕が問題にしている時代の“祖国意 識”というものは、別に現代のような“ハンガリー語を”話す“ハン ガリー民族”に属する人々の祖国という意味ではなく、単なる国と領 土の意味です。だから民族的(nationality の方の意味ですね。 nation ではなく)には当然ルーマニア人やドイツ人もいたはずです。 でも、自分が住んでいる国はハンガリーなんだという自覚ですね。何 かはあったと思います。もちろん、それがどういうものだったのか は、タイムマシンがない以上は検証の方法はありませんが。ただ、 「それに類するものはいっさいあったはずがない」と言われてしまう と、歴史学の素人としては、「う〜ん、そんなことないと思うけど なぁ (^^;)」としか思いようがないわけです。もちろん、そんな感情 が一切存在しなかったというのが歴史的事実であるのであれば、それ はそれでいいんですけれども。大事なのは真理の方ですから。 > ハンガリーなどにみられる、強烈なナショナリズム史観に毒されて > いるだけでしょう。 自らの歴史を情けなく、だらしないといつも嘆いているハンガリー の史観、いわば、“自虐史観”ですが、それが“強烈なナショナリズ ム史観”だとも思えないんですけどねぇ (^〜^;)。少なくとも周辺諸 国の史観と比べるとずっと穏健だと思いますよ。ハンガリー国歌自体 がものすごい自虐的な歌詞ですしね (^^;)。もちろん、世界@名無史 さんがお読みになったハンガリー史の本がそういう強烈な民族主義的 な歴史書だった可能性は否定しませんが。歴史の本はたくさんありま すからね。しかし、「新しい日本史を考える会」の史観が日本で最も 一般的な歴史観でもないでしょう。
>237 :梵阿弥さん
>
>>161 > 執政ホルティ・ミクロシュ提督、の提督は役職名ではなくて敬称と
> 考えればよいのですかね。
う〜ん、なんなんでしょうねぇ (^^;)? ま、敬称だと考えてもい
いのかも?
> 彼は爵位なんかはあったのでしょうか。
なかったので、「勇爵府」(Vitézi Rend) というのを勝手に
作って、自分は「勇爵」(vitéz) を名乗りました (^^;)。その
後、ハンガリーの右翼達の間では勇爵を名乗る者が増えました。もち
ろん、勝手に名乗るわけにはいかず、勇爵府に列せられる必要があっ
たのですが...。
> サラシ伯爵、という方もいましたね。
矢十字党のサーラシですか? 伯爵だったっけかなぁ...?
> 故マスド國防相はゲリラ戦の名人で生粋の現場指揮官、といった印
> 象があったので國防相と聞いてちょっと意外な感じがしたもので
> す。[...]
タイムリーな興味深いお話し、ありがとうございます。勉強になり
ます。
>40 :名無しさん > おっ。ひょっとしてアンパサンド氏の登場ですね。 あの方はアンパサンドさんとおっしゃるのですか? > しい坊さんを相手にどのような議論が展開されるのか、 > しばらくはこのスレから目が離せませんねえ。 目を離していただいて結構です (^^;)。僕は歴史学者ではありませ んから、専門家の方と歴史学の論争をするつもりはさらさらありませ ん (^^)。ネットでの論争はもう10年位前に十分し飽きました。(昔は 元気があったんですけどねぇ (^〜^;)。)ここは僕のメインの活動の 場ではありませんので(失礼!)、基本的には直接ハンガリーに関る 情報の問題に絞って発言を続けて行きたいと思っております。ま、他 の分野の専門の方との議論は勉強になってためになるのですが、とに かく本業の方が忙しくて、ここも暫く覗けていなかったのですが、そ うしたら、たくさんレスがあって、びっくりしちゃいました。これか らはもっと忙しくなるので、レスもなかなか付けられないようになる かもしれませんが、悪しからず。(個人的にはある発言を意図的に無 視するということはありません。ただし、その発言に気付かなかった り、物理的にコメントが付けられなくなる可能性は大いにありま す。ビル・ゲイツ君のように億万長者だったらいいんですけど ねぇ...。)
241 :世界@名無史さん
>
>>225 > > 日本の帝(みかど)と違い、実際はそんなでもなかったようです
> >よ。
>
> もし同じ「ハンガリー語」に属するとしても社会言語の違いを無視
> してはいけないでしょう。
無視しているつもりはありませんが?
> しい坊さんは、ロンドンのコックニーと英語標準語が同じ英語だと
> 思われますか?(わら
定義のしかたによると思います (^^)。ロンドンのコクニーとクイー
ンズ・イングリッシュを同じ英語とみなすことも可能ですし、違う言
語だとみなすことも可能でしょう。問題は、「コクニーとクイーン
ズ・イングリッシュは同じ英語だ」と言った場合の「英語」と「コク
ニーとクイーンズ・イングリッシュは同じ英語ではない」と言った場
合の「英語」では、同じ「英語」という用語を使っていても、指して
いるものが違うのです。ですから「コクニーとクイーンズ・イング
リッシュは同じ英語か?」という質問は無意味です。先に、その質問
者が自分の理解している「英語」の定義を示した上でないと、答えよ
うはありません。
> > “通婚することができた”ということではなく、日本の天皇家と
> >様同に、貴族となる家柄が決まっていたということなのではないで
> >しょうか?
> 同じことです。
>
> だから、なんでも「母語が通じるかどうか」で考えるしい坊さんの
> 思考が意味がないといっているんですが?
なんでも“母語が通じるかどうか」で判断しているつもりはありま
せんが? 18〜19世紀のヴィーン在住のハンガリー人華族の多くの母
語がドイツ語であったことは周知の事実ですから。前にも書きました
けれども、強烈なハンガリー人民族意識を持っていた音楽家のリス
ト・フェレンツだってハンガリー語はろくに喋れなかったはずだと書
いています。
> > だから、ヨーロッパの新興国家も国王を自民族から出さず、
> >欧州の名門王家に頼んで、国王になってもらうことが一般的だった
> >わけです。
>
> だから、母語が通じるかどうか、同じ民族かどうかなんて、意味が
> ないってことなのよ。わかる?
だから、それは近代的な国民国家の話でしょう?
263 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/14 01:14
しい坊さま 現在の「国民」という意味とは違いますが、ハンガリー人=ハンガリー王国に 在住する人という意味でならではフニャディ将軍の当時もあったと私は思って います。 その意味でルーマニアの人たちのいうマーチャーシュ王がルーマニアの王だと いう説には同意しがたいです。 農民にその意識があったかということでは今の国家意識ではないでしょうが、 フニャディ将軍と一緒に戦った人たち自分たちの住むところを守るという思い はあったでしょう。同様の思いをもって集まって、世直し一揆の様相を呈して 悲劇になったのがドージャ・ジョルジ達の農民軍ですね。 >ギシュクラにチェコ語で指示 指示した王様はハプスブルク家のラディスラウス(ラースロー5世)です。 この人はハプスブルク家からきたアルベルト王とジギスムント王の娘である エルジェベートの息子さんで父上が対トルコ戦に出陣して赤痢で死亡されて 以後に生まれているので「遺し腹のラディスラウス」なんていう異名があり ます。(アルベルト王はスイカの食べ過ぎで亡くなったという伝説があるそ うです。なんか情けないです。) アルベルト王の次がヤゲヴォ家からきたヴワディスワフ(ウラースロー1世) でしてこの人はトルコと戦ってヴァルナで戦死します。 その後がラディスラウス(ラースロー5世)でしてポーランドの人ではないの です。 傭兵隊長ギシュクラは父の死後、彼を王位につけようとした母エルジェベート が呼んできた人でスロバキアを占拠して半ばイスクラ王国のような状態にした チェコのフス派の出身の人物ですね。この人はフニャディと4回交戦して一度 も負けなかったという相当な戦上手です。あとドラキュラのモデルになったブ ラド・ツェペシュをマーチャーシュ王の命で逮捕したりもしています。 >217 マーチャーシュ王に国民の福祉とかいう意識があったかというと疑問ですが、 税を生み出す農民を過度に疲弊させてはいけないという考えはあったようで す。貴族連の農民の移動の自由を制限しようとする考えに反対してますし、 自分の寵臣に対しても「農奴を苦しめるのを止めなければドナウ川に投げ込 む。」と言ったとか、他にもこの種の話はあるそうで、それがマーチャーシ ュ王のお忍び世直し行伝説の元になっているそうです。とは言え、彼が農民 のことを考えたわけではないでしょう。 >近代以前には「民意」など必要がなかった 全く無視では農民が逃げていくか、あるいは大反乱でしょう。 現にマーチャーシュ王の死後そういう事態になってますね。 >そもそも標準語という発想がない時代にどうやって多言語を学ぶんでしょうか? 階級によって、地域によって様々な方言があったんですが? 商人に関して言えば会話の練習のためのテキストが現存してるそうですよ。 (ドイツとイタリアの例ですが) あと手元の本では英仏の例で12世紀には教養ある君主は外国語の素養も なければならないとされていたと書かれておりイングランド王のヘンリー 2世・神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世他何人もの人物の名が上げられ てます。ハンガリーの例は見当たりませんが他国の言葉を話す君主がいた のは事実のようです。まあ素人の持ってる本ですので程度は知れてますが。
>247 :世界@名無史さん > ブダペストはパリより美しいって本当かい パリにはパリの美しさがあり、ブダペストにはブダペストの美しさ があると思います (^^)。(都市の格から言ったら絶対にパリやロー マ、ヴィーンの方が上でしょう。)ただし、“ドナウ川流域の(大)都 市の中で”という限定付きならば、多分、ブダペストは文句なしに一 番美しい都市でしょうね。プラハはとても美しい町ですが、ドナウ川 流域の町ではないし、ヴィーンは非常に雰囲気のある素晴らしい古都 ですが、残念ながらドナウ川が全然景観に活かされていないと思いま す。 かつてのハンガリーの首都だったこともあるポジョニュ(独名プレ スブルク、スロヴァキア語名プレシュポロク、改め、現在はブラティ スラヴァ)も美しいいい町ですが、小さな地方都市ですよね。 何年か前、中欧研修旅行をしたときに、プラハにしか興味がなかっ た男子学生が、ブダペスト(全然興味がなかった)のゲッレールト山 (断じて“ゲレールトの丘”等ではない!)から城山(これも“王宮 の丘ではない!)とドナウ川を臨んで、「うっそだろぉ〜!」と、呆 然と立ち尽くした姿が忘れられません。彼は本当に感動してしまった ようです。 個人的には、自分が青春を送った町ですから、よく知っております し、好きです。しかし“自分の町”ですから、格別他と比べて美しい とか、そういうことは感じませんね。ちょうど自分の母親や妹のこと に関しては美しいとか、美しくないとかいうことは無関係なように。
265 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/15 00:31
しい坊さま 美しいということで言えばプラハのしっとりとした美しさも捨てがたいですし、 史跡が山とあるウイーンは面白い。でもブダ・ペストは不思議な魅力を持って いますね。最初はこんなところは2度と行かんぞと思ったのにいつのまにかど っぷり魅力にはまって毎年行ってます。今年も行くつもりですよ。で、フニャ ディ家の史跡を巡ってルーマニアまで足を伸ばす予定です。 ここはお勧めというようなアドバイスがあれば頂戴したいのですが。
>265 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > 美しいということで言えばプラハのしっとりとした美しさも捨てが > たいですし、史跡が山とあるウイーンは面白い。 どちらも素敵な町ですよねぇ。まさに「中欧三都物語」ですね! ちなみに、意外なことに、この三都の内、一番大きいのがブダペスト なんですよね。普通は誰もがヴィーンだと思うもんですが。 > でもブダ・ペストは不思議な魅力を持っていますね。 はい。ヴィーンのように王侯貴族の宮殿がたくさんあるわけでもな いのにね。不思議ですね。カフェが昔から非常に多い町ですよね。 > 最初はこんなところは2度と行かんぞと思ったのにいつのまにか > どっぷり魅力にはまって毎年行ってます。今年も行くつもりです > よ。 羨ましい。僕にはとてもそんなお金はありません (;_;)。ああ、ま たこってりしたスパイシーなハンガリー料理が食べたい...。トカイも オーフルミントなんてのも美味しいですよ。エゲル産のシェリー酒の ヘーリオスとかも。洋梨のパーリンカもいいですねぇ (^^)。肉と野菜 と果物の香りがあって美味しいこと! さすがは“食い倒れ”の国を 自称するだけはありますな。 > で、フニャディ家の史跡を巡ってルーマニアまで足を伸ばす予定で > す。 > ここはお勧めというようなアドバイスがあれば頂戴したいのです > が。 おお、それも羨ましい。トランシルヴァニアに行くのであれば、や はり、中心都市である古都コロジュヴァール(クラウゼンブルク/ク ルジュ・ナポカ)は行っておく必要があるでしょうね。あと、日本で は「横浜黄昏」で盗用されて有名になった (?) 詩人アディ・エンドレ が活躍したブルジョワの都市、ナジヴァーラド(グロスヴァルダイン /オラデァ)や、宗教上の聖都、ジュラフェヘールヴァール(ルーマ ニア語名バルグラド改めアルバ・ユリア)、ザクセン人の都市、クロ ンシュタット(ブラッショー/ブラショヴ)、ザクセン人の中心都 市、ヘルマンシュタット(ナジセベン/スィビウ)、かつてのハンガ リー自治州の州都、マロシュヴァーシャールヘイ(ルーマニア語名 トゥルグ・セクイェスク改めトゥルグ・ムレシュ)、セーケイ地方 (セーケイフェルド/セクイメ)の重要都市(と言うか、町)のチー クセレダ(ミェルクレァ・チュク)とシェプシセントジェルジュ(ス フントゥ・ゲオルゲ)。ルーマニアに入るとそこはまだトランシル ヴァニア(エルデーイ/ウルトラシルヴァニア改めトランスシルヴァ ニア改めトランシルヴァニア/ジーベンビュルゲン/アルデァル)で はなく、ハンガリー大平原で、ビハル(ビホル)山地の王ヶ峠(キ ラーイハーゴー)を越えるとトランシルヴァニアですが、そこからコ ロジュヴァールに至るカロタセグ(ゾナ・カラテイ)地方は最もハン ガリー人の民族衣装が絢爛豪華な地方です。コロジュヴァールから北 に向かうと、メゼーシェーグ地方で有名な、タタール人の襲来以来女 性が喪服を着ているセーク(スィク)村があります。ムジカーシュの 音楽はこのセーク村の音楽が多いですね。アニメ『おもひでぽろぽ ろ』にも登場しますよね。セーケイ地方に行けば、そこの神聖な森の 中の湖、聖アンナ(アナ)湖もいいですよ。いや、数え上げたら切り が無い (^^;)。
267 :
世界@名無史さん :01/10/15 12:34
>>259 しい坊さんへ。なんか噛み合わないな。
一度、ナショナリズム論に関するゲルナーとかホブズボウムとかの
論著を読まれたらどうですか?
あなたのいう「近代以前にもなんらかの土地への愛着があった」
「なんらかの祖国という意識があった」というのが、まさに
近代人であるあなたの願望に過ぎないことが分かるはずですが・。
あなたのいうnation、nationalityなるものは、近代以前には
存在しないのですよ。
> 別に“強弁”などしていませんよ。近代的な意味での祖国意識など
>なかったに決まっているわけですから。
あなた、わからんちんだな。
>だからこそ“なんらかの”と
>いう修飾語を付けているのです。
ところが、そういう限定をつけたにしても、あなたが「祖国」という言葉、
nationalityという言葉で指し示そうとしているものが、あなたが知らず
知らずにうちに近代意識に毒されている、ということなんです。
たとえば、あなたが挙げた逸話で「祖国のために戦おう」なるセリフも、
そもそも国王と貴族と、農民の間では、話している口語も違えば(社会方言
の違いなり、言語そのものの違いもある)、帰属意識が違う以上、
「祖国」という言葉で、「ハンガリーに住むハンガリー人」すべてが呼応する
わけではないということです。
>僕が問題にしている時代の“祖国意
>識”というものは、別に現代のような“ハンガリー語を”話す“ハン
>ガリー民族”に属する人々の祖国という意味ではなく、単なる国と領
>土の意味です。
あなた、もう一度、領土という用語の意味を、ちゃんと法学や政治学で
勉強したほうがいい。
「領土」というからには、一定のものでなければならないし、複数の
所属であってはならないのです。
中世ハンガリー王国の実態は、「領土」なんてものが存在しないのです。
つまり、あなたの論理の混乱は、近代以前の「土地に対する愛着」のあり方は
近代以後と違うことは認めながら、相変わらず近代以降に登場した概念を
つかい、そしてそれに内包される意味が、まさに近代によって汚染されている
点なのです・
268 :
世界@名無史さん :01/10/15 12:35
>だから民族的(nationality の方の意味ですね。 >nation ではなく) そんなものは近代以前にありません。 >には当然ルーマニア人やドイツ人もいたはずです。 そんなものよりも身分の違いのほうが重要だったんだよ。わかる? そもそも「ドイツ人」なんて、グリムが作り出した概念なんだよ。 >でも、自分が住んでいる国はハンガリーなんだという自覚ですね。 そんなものはありません。大体、教育もない、メディアもない時代に、 どうやって「住んでいる土地」の「境界がどこまでひろがっているか」 を認識できるんですか?そして、身分が、人間の質そのものが違う 国王・貴族と農民が、どうして「同じ共同体に属する」と認識できるんです か? >何 >かはあったと思います。 そういう風に思いたがるところが、あなたがロマン主義にどっぷりとりつかれ ているってだけのこと。 ホブズボウムやゲルナーやアンダーソンでも読んだら? >もちろん、それがどういうものだったのか >は、タイムマシンがない以上は検証の方法はありませんが。 歴史学はSF小説とは違います。検証できないような「近代を投影した 倒立像としての中世における民族の存在」なんてのは、SF小説としては 面白いけど、学問的ではありません・。 あなたの理論は、今や政治学や歴史学では非常識とされるものです。
269 :
世界@名無史さん :01/10/15 12:36
>ただ、 >「それに類するものはいっさいあったはずがない」と言われてしまう >と、歴史学の素人としては、「う〜ん、そんなことないと思うけど >なぁ (^^;)」としか思いようがないわけです。 専門研究による成果が往々にして素人の思いこみやロマンとは反する事実が 提示されるってことを、学者のあなたが理解できないとは驚きです。 これでは、あなたはハンガリーをフン族の子孫だと思っている素人と何も変わらない ってことです。 少なくとも、現在のナショナリズム論の主流は「近代以前には nationalityなんてものもなかった」というものです。 まれに、スミスのように、近代以前にもエスニーという概念が存在し、 それが発達して近代以降のネーションやエスニックグループ概念に なったという説もありますが、それでもあなたの空想とはずいぶん隔たり があります・ >もちろん、そんな感情 >が一切存在しなかったというのが歴史的事実であるのであれば、それ >はそれでいいんですけれども。大事なのは真理の方ですから。 ナショナリズム論の蓄積をいっさい知らずに、ロマンに固執するあなたは 幼稚です。ネーションのことを語るなら、ナショナリズム論の基本くらいは 勉強したらどうですか?
270 :
世界@名無史さん :01/10/15 12:52
> 自らの歴史を情けなく、だらしないといつも嘆いているハンガリー >の史観、いわば、“自虐史観”ですが、それが“強烈なナショナリズ >ム史観”だとも思えないんですけどねぇ (^〜^;)。 これはお笑いです。 自虐的だったら、ナショナリズムとして穏健で弱いなんて まさに、つくる会のだれかさんたちに毒された妙な 思いこみですね。学者らしくない発言だな。 だったら、朝鮮や中国のナショナリズムって強烈じゃないわけ? 自らの歴史が情けなくだらしがない、ということは、「強くありたい」 という願望が根底にあって、コンプレックスの裏返しとしての 強烈なナショナリズムというべきものです。 同じような言説は、中国の孫文や朝鮮の呂運亨などもしきりに 言っていますから、「自虐的だから、強烈じゃない」なんてことには 到底ならないのですよ。 >少なくとも周辺諸 >国の史観と比べるとずっと穏健だと思いますよ。 これも訳がわからないセリフですね。 >ハンガリー国歌自体 >がものすごい自虐的な歌詞ですしね (^^;)。 自虐的なのは、悲劇型ナショナリズムと呼ばれるもので、 いかに自分たちが外来勢力によって踏みにじられ、かわいそうで、 だらしがなかったかを訴え、それによって民族の興奮を呼び起こし、 強い民族になろうと願望する、ナショナリズムの典型的な一つの パターンであって、抗日時期の朝鮮、中国、ホセリサールらの フィリピン、現在の台湾などでも典型的にみられるものであって、 自虐的だからナショナリズムとして弱いと考えるあなたは、 結局、ハンガリーのことしか見えていないだけだと思います。
271 :
世界@名無史さん :01/10/15 12:53
>もちろん、世界@名無史 >さんがお読みになったハンガリー史の本がそういう強烈な民族主義的 >な歴史書だった可能性は否定しませんが。歴史の本はたくさんありま >すからね。 自虐的なものも強烈なナショナリズムの一類型。 イシュトヴァーンに始まる、現在のハンガリーと呼ばれる土地で 展開された業績を「ハンガリー人の歴史」として記すことも ナショナリズムの所為なのです。 だって、イシュトヴァーンがほんとうに現在のハンガリー人に 遺伝的に連なる集団に属していたか定かじゃないし、 彼が現在のハンガリー語と呼ばれる方言集団に歴史的につながる なんらかの口語を話していたという証拠もないしね。 すべては「過去の栄光」を現在と結びつけて、過去の栄光にも かかわらず、近代以降はいかに自分たちが悲惨な目に遭ってきたかを 書くことで、栄光を創造しようとする強烈なナショナリズムに 裏打ちされたものです・ >しかし、「新しい日本史を考える会」の史観が日本で最も >一般的な歴史観でもないでしょう。 あなたはアホだね。ナショナリズムは左右対立以前の問題・。 私からみれば、戦後のサヨク自虐史観もすべて日本ナショナリズム を根底にしているナショナリズム史観だといいたいんだが? だってサヨク史観だって、源氏物語を書くくせに、懐風藻には 言及しないでしょう。あたかも平安時代にすでに日本が 中国と対抗するネーション意識があったかのような描き方は、 右翼もサヨクも変わりませんよ・。 あなたは単純にナショナリズムというと右翼だと思っているようだけど、 それが間違いなんだよ。
272 :
世界@名無史さん :01/10/15 13:10
>>262 > 定義のしかたによると思います (^^)。ロンドンのコクニーとクイー
>ンズ・イングリッシュを同じ英語とみなすことも可能ですし、違う言
>語だとみなすことも可能でしょう。問題は、「コクニーとクイーン
>ズ・イングリッシュは同じ英語だ」と言った場合の「英語」と「コク
>ニーとクイーンズ・イングリッシュは同じ英語ではない」と言った場
>合の「英語」では、同じ「英語」という用語を使っていても、指して
>いるものが違うのです。ですから「コクニーとクイーンズ・イング
>リッシュは同じ英語か?」という質問は無意味です。先に、その質問
>者が自分の理解している「英語」の定義を示した上でないと、答えよ
>うはありません。
であれば、これまであなたが何の定義の留保もつけずに書いてきた、
「ハンガリー宮廷ではハンガリー語が多数だった」「ラヨシュが
ハンガリーに来たときにハンガリー語が分からず、ポーランド語で
「よきにはからえ」と応えた」などの俗説を持ち出しても
意味がない、といっているんだよ!!
そもそも中世に「ハンガリー語」として意思疎通が可能で、なんらかの
共有された意識があるところの言語共同体があったとおもってんの?
それがまさに近代ハンガリー民族史観による捏造じゃないかといっている
わけ。
そもそもいわゆるハンガリー語が、ハンガリー語なる名称のもとに
一つにまとめられたのは近代以降のこと。
近代以前には、そもそもラテン語文語だけが言語であって、それ
以外の俗語・口語はすべて地域、身分によってばらばらな方言であって、
ハンガリー語の標準語なんてそもそも存在しないし(文法書もない)、標準語が
ない言語を「ハンガリー語」などという統一概念で呼ぶわけには
いかないでしょう。
ハンガリー語は中欧地域では、異色の言語ですから、言語の境界が
はっきりしているから、あなたに今の説明が今一つ分かりにくく
感じられるでしょうが、ハンガリー語をチェコ語、スロヴァキア語、ポーランド語
に置き換えてみてください。
ハンガリー語を除けば東欧のすべての言語・方言は、方言連続体であって、
チェコ語とスロバキア語をわける意味はないし、スロヴァキア語とポーランド語を
わける意味もそれほどないはずです。
つまり、西スラブ系の社会・地域方言群が存在して、中世にはそれぞれ方言
がばらばらに存在したのを、近代になって、チェコとスロヴァキア
とポーランド語にそれぞれわかれてしまった。
だから、ラヨシュがポーランド語で「よきにはからえ」といった、というのは
ナンセンスな話で、それをポーランド語と類型化することはあくまでも
近代になってからの分類を投影しているだけで、ラヨシュがたとえ
オイル語やラテン語じゃなく、ポーランドの農民と同じような言葉を
話していたとしても、それをポーランド語というのはおかしい、なぜ
チェコ語やスロヴァキア語と分けて考える必要があるかという
ことなのです・
>>244 ギシュクラ・ヤーノシュさん
>上記のマクシミリアン1世もそうですし、その息子のフェルディナンドと
>ハンガリーのヤゲヴォ家のアンナは子供たちにドイツ語・チェコ語・ポー
>ランド語・ラテン語を学ばせたそうです。(ただし、これも邦文の本から
>の情報です。)
これは後世になってからでっちあげられた俗説ですね。
そもそも、中世の段階ではラテン語以外には言語は存在せずに、すべてが
空気とともに消える意味のない「俗語」であって、したがって文法も
存在しないという考え方でしたから、俗語どうしが通じないから、
それを「外国語」として学ぶという発想は希薄でしょう。
だからこそダンテが画期的だったんだよ。
ラテン語こそが文法をもった言語であるとかんがえ、もし通じない俗語が
あったとしてもそれを文法をもった「言語」と認識するという意識がない
のが中世。
だからこそダンテが画期的だったわけ。そして、ダンテのように俗語も
ラテン語と対等な言語として認識するという運動が、徐々にひろまった
結果が近代になるわけ・
あなたのいっている逸話は、あくまでも近代的な言語観をもった人間が
でっちあげた創作。
>>251 >なんでここに唐突に“アッチラ伝説”
>が登場するかさっぱりわかりません。
ナショナリズムによる「過去の伝統のでっちあげ」の好例としてもちだしの
ですよ。
>また、おっしゃる通り、ハンガ
>リー王国にも国民国家意識がむかしはなかったわけで、そこで言語の
>統一のような力が働いたとも思えませんが?
だったら、「ラヨシュがハンガリー語がわからずポーランド語で答えた」という
逸話はナンセンスですね。
言語統一の力もないのに、さまざまな方言を糾合した「ハンガリー語」なる
統一概念は存在しえません。
そもそもポーランド語って何?西スラブ語の諸方言というべきじゃないの?
> 現にハンガリーでは少
>数民族の言語もそのまま残って共存していましたしね。
だれも国民国家における国民統合の話をしているんじゃないんだよ。
方言を糾合して言語名称を冠することと、その言語を共有しない国内の
異民族を国民統合していくことと、実際に異民族を同化できるか
どうかということは、時代も次元もまったく違い問題なんだよ。
あなたはそれをごっちゃにしてしまっている。
問題はハンガリーの少数民族を同化させる話じゃなくて、どうして
現在ハンガリー語と呼ばれている言語集団が構成され、それををハンガリー語
と呼ぶことになったのか?どうしててんでばらばらの方言に境界線を
もうけて「ここからここまでがハンガリー語で、あれはそうじゃない」という
区別を設けたのか?そしてそういう区別や境界は中世にはなかっただろう、
という話をしているのね。
あなたはハンガリー語とかハンガリー民族そのものが、自明の存在だとおもって
いるようだけど、自明じゃないといっているのよ・
>ルーマニアの
>モルドヴァ地方で話されているチャーンゴー方言は、チャーンゴー人
>が一度もハンガリー王国に帰属していたことがなかったために、最も
>現在のハンガリー語の標準語とは遠い言語なのですが、それでも十分
>に現在のハンガリーの言語と意思の疎通ができます。
チャーンゴー人はハンガリー民族の一員なの?そうじゃないの?
一員なら、なぜそうなの?いつそうなったの?
それから、そもそも言語の境界って「意思疎通ができるか否か」になっているの?
そうじゃないでしょう・
意思疎通ができるくせにチェコ語とスロヴァキア語は別の言語になり、
アラビア語やシナ語の「方言」は意思疎通ができないくせに同じ言語と分類される。
それが、いつ、どのようにしてできたのかって話。
近代になってからの線引きが中世にも存在するというあなたの説明が
おかしいといっているのね・。
>>253 > そうなんですか。(別に通訳を使っていたとしても不思議ではあり
>ませんが。でも、当時の貴族達は多くがラテン語はできたはずですよ
>ね?
>ならば、どうしてわざわざ通訳などが必要だったのでしょ
>う?)
ラテン語だけで会話が成り立っていたとでも?(わら
まずラテン語をどうやって発音するかが問題でしょ?エラスムス以前には
ラテン語の統一した読み方すらなかった。
第二に、ラテン語で会話するといっても、ラテン語はそれこそ高度な
内容の討論などには適していて、そういう方向に発達させられた言語
だけど、日常的なちょっとしたことを会話するには不向きだったでしょう・
かといって、俗語は方言でばらばらで標準化されていないし、統一化しよう
という意識もなかった時代だから、俗語でも通じない。だから、通訳が
必要になるわけ。
>とにかく歴史学は専門ではありませんので、そのような“歴史
>学上の常識”があれば、これからもどんどん教えてください。感謝し
>ます。
そもそも、あなたは中世の時代に、国王と貴族、国王と庶民が直接
同じ言語で会話をしていたなんてアホな想定をして、それにしがみついて
いることが問題なのです。
そもそも中世って現代とは違って、すごく寡黙な社会だったって
知らないんじゃないの?
会話はごくちかしい人どうしで行うもの。身分が違えば基本的には
会話なんか必要ない。どうしても意思疎通が必要なら、
ラテン語の文書で書けばいいし、通訳をつければよい。
そもそも社会階層で言語が違うのだから、必要性があまりない他の身分の
社会方言や言語をすべて覚える必要などなかったんだよ。
とにかく、中世は時間の流れが緩慢だから、同じ言語で会話して議論して
みんなの意見を調整する、なんて必要などなかったんです。
それを、「パン屋のせがれも宮廷にとりたてられていたから、同じ言語が
通じただろう」とか、貴族どうしが議論するときには同じ言語が必要だろう
などと「推定」するのは、近代的な言語コミュニケーションのあり方を
中世に投影した誤った推定です。
もう一度いおう。中世と近代では、コミュニケーションのあり方、社会の
仕組みが違うんだよ!
>267 :世界@名無史さん
>>259 > しい坊さんへ。なんか噛み合わないな。
お互い(多分)専門分野が違うんだから、しかたがないんじゃない
でしょうか (^^)? 「267 :世界@名無史さん」は多分、歴史学がご
専門ないしご専攻なのですよね?
分野が違えば、異なる考え方や見方があるわけでしょう。だから、
お互い面白く、役に立つのではないですか? もしも、「267 :世界
@名無史さん」が「俺は歴史学の人間だから、俺のターミノロジー、
俺の土俵の上でのみ話せ」とおっしゃるのであれば、全ての話し合い
は無意味で、不毛だと思います。
だって、「こっちの方ではこう考えてるんだぜ」「ほほう。でも、
こっちではこう言われているよ」「そりゃ、違うだろう?」「でも、
こういう具合に考えると、こうなるでしょう?」「あ、そうか。で
も、ちょっと違うような...」といった具合にやりとりを進めること
で、ものごとって、より多面的に理解できるようになるのではないで
すか?
もしも、そうではない、そんなのは認めないとおっしゃるのでした
ら、なぜ「267 :世界@名無史さん」がここで僕に対してコメントを
付けられておられるのか、理解できません。「267 :世界@名無史さ
ん」のご意見を、すぐそのまま受け入れることなどできない、わから
んちんの唐変木等を相手にするのは、「267 :世界@名無史さん」の
貴重なお時間の無駄ですから、お止めになられた方がよろしいでしょ
う (^^)。
「267 :世界@名無史さん」が歴史学の学究の徒としてどの程度コ
ンピタンスをお持ちの方かは、歴史学が専門でない僕には判断のしよ
うがありません。ただ、僕自身はここでは1度も歴史学者ないし歴史
学を専攻した者の立場で発言してないのですから、いくら「お前は歴
史学の基本がわかってない」とおっしゃられても、困ってしまいま
す。言わば女性に「あんたは男だ。どうして女の立場で話をしな
い?」と抗議されても、困ってしまうのと同じでしょう。もちろん、
最初に女のフリをして女性の会話に参加していたのが、後で男が化け
ていたということがわかったのであれば、そういう女性の抗議は理解
できますけれどもね。
で、僕が歴史学の研究者でない以上は、いくら「お前は歴史学の基
礎を知らない!」と指摘されようが、それで歴史学の基礎が身につく
ものではありません。それに対して、もしも「267 :世界@名無史さ
ん」が「ならば何で歴史学を学ばない?」とおっしゃるのであれば、
それと同じことを政治学や言語学、音楽、化学、物理学の専門家も要
求しだすでしょう。でも、この世の全ての分野を全て学ぶことなんて
不可能ですよね?
[続く]
>267 :世界@名無史さん [続き] 「267 :世界@名無史さん」が歴史学者だとして、「あなたはこう こうおっしゃっているけれども、それは歴史学ではこういう具合に説 明されているんですよ」とおっしゃられれば、それは相手にとっても 役に立つでしょう。しかし、最初から歴史学者ではないとわかってい る相手に対して何度繰り返して「お前は歴史学がわかってない」と罵 倒しても、それで何も変わらないと思いますし、不毛になると思いま すよ (^^)。僕だってこれまで1度も「267 :世界@名無史さんはハン ガリー語学をわかっていない」等とは言っていませんからね。 僕は「267 :世界@名無史さん」のご意見の中に「なるほど! 勉 強になった (^^)!」と思う部分もあるし、「えー、それは違うだろ う?」と感じる部分もあります。普通はそういうものだと思います が。でも、「267 :世界@名無史さん」の方では僕の意見に対して 「あ、それもあるな」とか「そういう見方かをすれば、確かにそれは そうだ」と感じられているような部分は全くないように感じられま す。ならば僕のようなわからんちんを相手にしていても、「267 :世 界@名無史さん」のお時間を無駄にするだけでお気の毒です。どうや ら僕は「267 :世界@名無史さん」にとって役に立つような有益な情 報は一切提供できていないようですから。ならば、“こんなヤツ”つ まり僕のことですが、こんなヤツを相手に時間を無駄にするのはお止 めになられた方が「267 :世界@名無史さん」の精神衛生上もよろし いのではないかと思います (^^)。 僕は歴史学の素人ですから、「その解釈は歴史学では違っていま す。その理由はこれこれこれで...」とご説明いただければ、役に立ち ますし、感謝もします。しかし、一方的に「歴史学ではこうなんだ。 わからんのか?」という具合に(少なくとも「267 :世界@名無史さ ん」にとっての)歴史学のパラディグマを押しつけられても、対応の 方法がありません。(で、昨日も書きましたように、最近、仕事が忙 しくなって倒れる直前なので、申し訳けありませんが、歴史学論争を 続けるつもりはありません。だって、僕にはそのコンピタンスがない ですから。) [続く]
>>276 わたしは歴史学者ではなく、専門は政治学と社会言語学です。
でも、政治学も歴史学から派生した部分もあるので、歴史学にも関係
します。
> 「267 :世界@名無史さん」が歴史学の学究の徒としてどの程度コ
>ンピタンスをお持ちの方かは、歴史学が専門でない僕には判断のしよ
>うがありません。ただ、僕自身はここでは1度も歴史学者ないし歴史
>学を専攻した者の立場で発言してないのですから、いくら「お前は歴
>史学の基本がわかってない」とおっしゃられても、困ってしまいま
>す。
それなら、「中世にもハンガリー語があったし、ハンガリー語をつかって
王族と貴族と庶民が通じた」などという歴史学および社会言語史の領域に
踏み込んだ発言は、やめたほうがいいといっているんですよ・
要するに、あなたは歴史やナショナリズム論の基本的な知識がないばかりに、
間違った憶測で物をいっている。その点ではハンガリー人をアジア人だと
考えている素人と何も変わらない、学者なら専門外のことに口をはさまない
ほうがいいと忠告しているんだよ。
> 分野が違えば、異なる考え方や見方があるわけでしょう。だから、 >お互い面白く、役に立つのではないですか? 分野が違うから、あなたが「中世時代の言語環境」について、 発言するのはおかしいといっているんだよ・ >もしも、「267 :世界 >@名無史さん」が「俺は歴史学の人間だから、俺のターミノロジー、 >俺の土俵の上でのみ話せ」とおっしゃるのであれば、全ての話し合い >は無意味で、不毛だと思います。 「中世の国王が何語をしゃべっていたか」は、まさに歴史学の 分野の話なんだけど? 現在のハンガリー語について言語学的に研究しているからといって、 中世の言語環境についても知っているといわんばかりの態度が 良くないといっているのですよ・。
>267 :世界@名無史さん [続き] > 一度、ナショナリズム論に関するゲルナーとかホブズボウムとかの > 論著を読まれたらどうですか? 彼らの論は「論」であって、あくまでも彼らの解釈であり、仮説で あるわけでしょう? 高名な研究者が何かを書いたからと言って、そ れがそのまま真理になるわけではないでしょう。(ちなみに、僕は彼 らの論を否定しているのではありません。←ここの部分、ちゃんと通 じてるかしら?) 我々は過去の歴史を分析するにあたっては、構造的に有意なものを 抽出して、1つのモデルを考え出します。エティック的ではなく、エ ミック的な手法を導入するわけです。そのことによりわかりやすい、 かつ本質的な構造が見えるようになってきます。1つのパラディグマ の構築が可能になります。しかし、例えば音韻論の例を出してみれ ば、日本語の「チ」は明らかに chi ではなく ti であるけれども、そ れでも実際には [ti] と発音されるわけではないでしょう。実際には やはり [t∫i] と発音されているわけです。「267 :世界@名無史さ ん」の論は「チ」は ti なのだから、発音上も [t∫i] と発音された はずだと主張なさるようなもののように思えるのですが? 現在の学術ターミノロジーは、全て既存の用語や概念を再定義した ものです。例えば、「水の中に住んでいる動物」を昔は「魚」と提議 していたものを、系統論が発達してきて、学者達が「鯨は魚類ではな く哺乳類とする」と勝手に再定義したものでしょう? だから「魚」 という概念が近代になるまでは存在していなかったわけではなく、む かしもありましたし、むかしもその用語の指し示す意味の大部分は現 代のものと重なり合っていたはずです。少なくとも魚に関してはね。 歴史学の用語の多くもそのような再定義によるものが多いわけで、そ れらの定義が厳密に現代のものとは違うと言っても、だから、むかし はそういう語彙や、概ね一致する概念が存在していなかったというわ けではないはずです。 > あなたのいう「近代以前にもなんらかの土地への愛着があった」 > 「なんらかの祖国という意識があった」というのが、まさに近代人 > であるあなたの願望に過ぎないことが分かるはずですが・。 別に願望のつもりはありませんが。単に何かがあったであろうと 言っているだけです。一切、何もなかったと断言してしまうのは乱暴 過ぎると思いますよ。あくまでも思うだけですが。 人は(他の動物だって)自分の住んでいる土地(縄張り)に戻って くればホッとするものです。そこには愛着があります。村意識もある でしょう。古里意識は絶対にあったはずです。そういう素朴な意識の 存在すら否定してしまうのはいかがなものでしょうか? [続く]
>267 :世界@名無史さん [続き] > あなたのいうnation、nationalityなるものは、近代以前には存在し > ないのですよ。 現代人が現代のターミノロジーを使って話をするのは自然でしょ う。 > > 別に“強弁”などしていませんよ。近代的な意味での祖国意識な > どなかったに決まっているわけですから。 > > あなた、わからんちんだな。 あら、“近代的な意味での祖国意識がなかった”と言っても“わか らんちん”なんですか (^^;)!? 本当に「267 :世界@名無史さん」 はわからなくなりました。 > >だからこそ“なんらかの”と>いう修飾語を付けているのです。 > > ところが、そういう限定をつけたにしても、あなたが「祖国」とい > う言葉、nationalityという言葉で指し示そうとしているものが、あ > なたが知らず知らずにうちに近代意識に毒されている、ということ > なんです。 単に、より適切な用語が見つからないからだけなんですけど? も しも、もっと適切な用語を教えていただき、その定義を僕が納得でき れば、今後はそれを使いますよ (^^)。また1つお利口さんになれるわ けだし (^^)。もっとも、「267 :世界@名無史さん」が、「一切そう いう感覚は存在しなかったのだから、それを示す用語もない!」と おっしゃるのであれば、仕方がありませんが。僕はこれまでの用語を 使い続けさせていただきます。 > たとえば、あなたが挙げた逸話で「祖国のために戦おう」なるセリ > フも、そもそも国王と貴族と、農民の間では、話している口語も違 > えば(社会方言の違いなり、言語そのものの違いもある)、帰属意 > 識が違う以上、「祖国」という言葉で、「ハンガリーに住むハンガ > リー人」すべてが呼応するわけではないということです。 “「祖国」という言葉で、「ハンガリーに住むハンガリー人」すべ てが呼応するわけではないということです。”ということはその通り で、別に異論はありませんが? [続く]
>267 :世界@名無史さん [続き] > >僕が問題にしている時代の“祖国意>識”というものは、別に現代 > >のような“ハンガリー語を”話す“ハンガリー民族”に属する人々 > >の祖国という意味ではなく、単なる国と領土の意味です。 > あなた、もう一度、領土という用語の意味を、ちゃんと法学や政治 > 学で勉強したほうがいい。 もっといいターミノロジーを教えてください (^^)。で、人間、教養 があれば、あった方に超したことはありませんが、この世に存在する 全ての学問を勉強することは不可能です。他人に自分の専門分野の学 習を強要することは止めましょうね (^^)。僕だって他人に「あなた、 ハンガリー語を勉強した方がいい」等とは言いませんからね。もちろ ん、勉強してくれたら嬉しいけど (^^)。 > 「領土」というからには、一定のものでなければならないし、複数 > の所属であってはならないのです。 そりゃそうですね。もっとも、現実にはあちこちで係争があります が。 > 中世ハンガリー王国の実態は、「領土」なんてものが存在しないの > です。 ほう。では何と呼ぶのが正しいのでしょうか? ぜひ、教えてくだ さい。「版図」? 本当に、そっちは専門外ですから。 > つまり、あなたの論理の混乱は、近代以前の「土地に対する愛着」 > のあり方は近代以後と違うことは認めながら、相変わらず近代以降 > に登場した概念をつかい、そしてそれに内包される意味が、まさに > 近代によって汚染されている点なのです・ 汚染されているのであれば、ワクチンをください (^^)!
283 :
世界@名無史さん :01/10/15 15:38
>>277 >しかし、最初から歴史学者ではないとわかってい
>る相手に対して何度繰り返して「お前は歴史学がわかってない」と罵
>倒しても、それで何も変わらないと思いますし、不毛になると思いま
>すよ (^^)。
これは詭弁。だったらなぜ歴史学者じゃないのに、歴史学の領域に侵入
してあれこそ議論するの?って話。そんな資格はないでしょ?
>僕だってこれまで1度も「267 :世界@名無史さんはハン
>ガリー語学をわかっていない」等とは言っていませんからね。
私はハンガリー語そのものについて、一度も口を挟んだことがありません。
だから、そういう切り返しは無意味です。
284 :
世界@名無史さん :01/10/15 15:40
>>276 >最初に女のフリをして女性の会話に参加していたのが、後で男が化け
>ていたということがわかったのであれば、そういう女性の抗議は理解
>できますけれどもね。
あなたがやっていることはそういうことです。
あなたはたしかに現代ハンガリー語には詳しい。言語学の理解も私なんかよりは
ずっと深いことは分かります。だから、それについては何もいっていないし、
私の専門でもないから言えるはずもない。
私が物言いをつけたのは、あなたが「中世のハンガリー国王は、ハンガリー語を
話していたのは当然だ」「王族と庶民も同じハンガリー語を話して、通じた
はずだ」といったことに対するものです。
いくら現代ハンガリー語や現在のハンガリー人の物の考え方に詳しくても、
これは明らかに身のほど知らずで則を超えた発言です。
それを注意したのです。
現在のハンガリー語が分かっていても、中世のハンガリー王国の言語環境が
分かるわけがないのです。だからあなたはしょうもない逸話みたいなものを
根拠に挙げることしかできなかった。お笑いです。近代になって近代的な
言語意識で創作された話を「当時の言語環境を示す証拠」として挙げられても
あほらしいだけです。
> で、僕が歴史学の研究者でない以上は、いくら「お前は歴史学の基
>礎を知らない!」と指摘されようが、それで歴史学の基礎が身につく
>ものではありません。それに対して、もしも「267 :世界@名無史さ
>ん」が「ならば何で歴史学を学ばない?」とおっしゃるのであれば、
>それと同じことを政治学や言語学、音楽、化学、物理学の専門家も要
>求しだすでしょう。でも、この世の全ての分野を全て学ぶことなんて
>不可能ですよね?
あなたには学問とは何かという基本的な思考が欠落しているようだ。
不可能なら、専門以外の領域について発言しないこと。あるいは間違いを指摘され
たら素直に認めることです。
人間は何でも知ることなんかできっこない。あなただってハンガリーのすべて
が分かっているわけじゃない。そりゃ、総体としては私より詳しいだろうけど、
あなたの政治についての説明もおかしなところがある。(別の機会に述べる)
あなたは現代ハンガリー語の語法研究・教育が専門でしょう?だから、
それ以外のことについては素人並の知識しかないことが往々にして
ある。
その典型が中世の言語環境についての知識。
あなたの意見は専門家からみたらおかしいと思われることがままある
わけ。ちょうど、あなたが「ハンガリー人がアジア系」と思いこんでいる
素人がおかしいと思うように、あなたが専門を超えて発言していることは
おかしなことが多いのです。
>270 :世界@名無史さん すみません。繰り返しになりそうな部分は飛ばしました。 > > 自らの歴史を情けなく、だらしないといつも嘆いているハンガ > >リーの史観、いわば、“自虐史観”ですが、それが“強烈なナショ > >ナリズム史観”だとも思えないんですけどねぇ (^〜^;)。 これはお笑いです 「270 :世界@名無史さん」はこういう表現がお好きですねぇ。 > 自虐的だったら、ナショナリズムとして穏健で弱いなんてまさに、 > つくる会のだれかさんたちに毒された妙な思いこみですね。学者ら > しくない発言だな “歴史”学者ではありませんから (^^)。 > だったら、朝鮮や中国のナショナリズムって強烈じゃないわけ?自 > らの歴史が情けなくだらしがない、ということは、「強くありた > い」という願望が根底にあって、コンプレックスの裏返しとしての > 強烈なナショナリズムというべきものです そのことは理解しますが? > 同じような言説は、中国の孫文や朝鮮の呂運亨などもしきりに言っ > ていますから、「自虐的だから、強烈じゃない」なんてことには到 > 底ならないのですよ まったく同意見です。(お願いですから、混乱なさらないでくださ いね (^^)!) > >少なくとも周辺諸国の史観と比べるとずっと穏健だと思いますよ > > これも訳がわからないセリフですね すみませんねぇ。ぜひ、周辺諸国の史観とお比べください。 [続く]
>270 :世界@名無史さん [続き] > >ハンガリー国歌自体がものすごい自虐的な歌詞ですしね (^^;) > 自虐的なのは、悲劇型ナショナリズムと呼ばれるもので、いかに自 > 分たちが外来勢力によって踏みにじられ、かわいそうで、だらしが > なかったかを訴え、それによって民族の興奮を呼び起こし、強い民 > 族になろうと願望する、ナショナリズムの典型的な一つのパターン > であって、抗日時期の朝鮮、中国、ホセリサールらのフィリピン、 > 現在の台湾などでも典型的にみられるものであって、自虐的だから > ナショナリズムとして弱いと考えるあなたは、 通常の自虐的史観はそうでしょう。(あまり好きな言葉ではありま せんけどね。)中国や朝鮮の自虐史観もそうだと思います。でも、ハ ンガリー国歌の歌詞は、単なる諦めで、「もー、どーしよーもねえ や、俺達」で、とても強い民族になろうとなどとは思えない歌詞なん ですよねぇ。あんな歌詞で「おっし、頑張ろう!」なんて思うとは到 底思えません。「そうなんだよねぇ...(-_-;)」と納得してしまう歌詞 です。 > 結局、ハンガリーのことしか見えていないだけだと思います 専門はハンガリーですから (^^)。物理学者に「あなたは物理学しか 知らない」と言ってもしかたがないのと同じことでしょう (^^)。
287 :
イシュトヴァーン :01/10/15 15:52
すごかスレたい!!
>271 :世界@名無史さん > だって、イシュトヴァーンがほんとうに現在のハンガリー人に遺伝 > 的に連なる集団に属していたか定かじゃないし、彼が現在のハンガ > リー語と呼ばれる方言集団に歴史的につながるなんらかの口語を話 > していたという証拠もないしね つながっているわけはないではありませんか。民族や言語は意識と か言語というソフトの問題であり、遺伝学的な肉体のハードは、当 然、ゲルマン人だったり、スラヴ人だったりするわけですから。ヴァ イク(イシュトヴァーン)自体はマジャル人の遺伝子を持っていたで しょうけど、今のハンガリー人にマジャル人の遺伝子はほとんど残っ てないはずですよ。 まだマジャル族のジェイチャ(ゲーザ)の息子であったヴァイク (イシュトヴァーン一世)が現代のハンガリー語に繋がるハンガリー 語を話していなかったと考える合理的根拠は全くないと思います。 > >しかし、「新しい日本史を考える会」の史観が日本で最も > >一般的な歴史観でもないでしょう > > あなたはアホだね。ナショナリズムは左右対立以前の問題・ その通りですが? でも、「271 :世界@名無史さん」って、普通 の言葉遣いがおできにならないのでしょうか?(ま、そういう乱暴な 言葉を使うことを楽しんでおられるのでしょうが (^^)。きっと気持ち いいんでしょうね。僕にはそういう願望は全くありませんけどね。そ ういうのが楽しい方は僕には永遠の謎です。) > 私からみれば、戦後のサヨク自虐史観もすべて日本ナショナリズム > を根底にしているナショナリズム史観だといいたいんだが? おかしいなぁ。僕もそう考えていますけど? [続き]
>271 :世界@名無史さん [続き] > だってサヨク史観だって、源氏物語を書くくせに、懐風藻には言及 > しないでしょう。あたかも平安時代にすでに日本が中国と対抗する > ネーション意識があったかのような描き方は、右翼もサヨクも変わ > りませんよ・ 近代的な国民国家意識があったはずはありません。日本という国よ りもそれぞれの国(藩とかね)の方が大切だった。でも、やはり 「唐」に対する意識はあったはずだと思いますよ。(ナショナリズム という意味ではありません。念のため。)現在の“日本人”とか“日 本国”とかいう意識とは全然違いますが。 > あなたは単純にナショナリズムというと右翼だと思っているようだ > けど、それが間違いなんだよ。 困りましたねぇ。僕はナショナリズムが右翼の専売特許だなどと 言ったことは1度もありませんよ。「271 :世界@名無史さん」は以 前からそうですが、僕が言っていないこと(あるいは、まさに正反対 の考え方をしているのに)に対して反論されています。「271 :世界 @名無史さん」は多分、「こいういうことを言うヤツは、裏ではこう いうことを考えているに違いない」という予断を持って話されている のではないのでしょうか? どうせならもっと前向きの話をしません か (^^)?
290 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:17
>>276 >最初に女のフリをして女性の会話に参加していたのが、後で男が化け
>ていたということがわかったのであれば、そういう女性の抗議は理解
>できますけれどもね。
あなたがやっていることはそういうことです。
あなたはたしかに現代ハンガリー語には詳しい。言語学の理解も私なんかよりは
ずっと深いことは分かります。だから、それについては何もいっていないし、
私の専門でもないから言えるはずもない。
私が物言いをつけたのは、あなたが「中世のハンガリー国王は、ハンガリー語を
話していたのは当然だ」「王族と庶民も同じハンガリー語を話して、通じた
はずだ」といったことに対するものです。
いくら現代ハンガリー語や現在のハンガリー人の物の考え方に詳しくても、
これは明らかに身のほど知らずで則を超えた発言です。
それを注意したのです。
現在のハンガリー語が分かっていても、中世のハンガリー王国の言語環境が
分かるわけがないのです。だからあなたはしょうもない逸話みたいなものを
根拠に挙げることしかできなかった。お笑いです。近代になって近代的な
言語意識で創作された話を「当時の言語環境を示す証拠」として挙げられても
あほらしいだけです。
> で、僕が歴史学の研究者でない以上は、いくら「お前は歴史学の基
>礎を知らない!」と指摘されようが、それで歴史学の基礎が身につく
>ものではありません。それに対して、もしも「267 :世界@名無史さ
>ん」が「ならば何で歴史学を学ばない?」とおっしゃるのであれば、
>それと同じことを政治学や言語学、音楽、化学、物理学の専門家も要
>求しだすでしょう。でも、この世の全ての分野を全て学ぶことなんて
>不可能ですよね?
あなたには学問とは何かという基本的な思考が欠落しているようだ。
不可能なら、専門以外の領域について発言しないこと。あるいは間違いを指摘され
たら素直に認めることです。
人間は何でも知ることなんかできっこない。あなただってハンガリーのすべて
が分かっているわけじゃない。そりゃ、総体としては私より詳しいだろうけど、
あなたの政治についての説明もおかしなところがある。(別の機会に述べる)
あなたは現代ハンガリー語の語法研究・教育が専門でしょう?だから、
それ以外のことについては素人並の知識しかないことが往々にして
ある。
その典型が中世の言語環境についての知識。
あなたの意見は専門家からみたらおかしいと思われることがままある
わけ。ちょうど、あなたが「ハンガリー人がアジア系」と思いこんでいる
素人がおかしいと思うように、あなたが専門を超えて発言していることは
おかしなことが多いのです。
291 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:19
>>280 > 彼らの論は「論」であって、あくまでも彼らの解釈であり、仮説で
>あるわけでしょう? 高名な研究者が何かを書いたからと言って、そ
>れがそのまま真理になるわけではないでしょう。
失礼ないい方ですね。
私が高名な学者の学説をそのまま真理だとうのみにしているだけだろとでも?
君に聞いているのは、ナショナリズムについて議論するときに、それらの
基本書を読んで基本的な概念が押さえられているのかどうかきいてんの。
高名な学者のが真理じゃない?でも、君は基本書も読まずに何を根拠に
「真理」なんていえるの?
そんな偉そうなことを言う前に、あんたがそれらをちゃんと読んだことが
あるのかい?って聞いているの?
答えは一つ。読んだか、読んでいないか?どっち?
仮説なんて簡単にいっている時点で、あなたがナショナリズム論の蓄積が
分かっていないだけ。
仮説と一口にいうけど、そこには特定地域の歴史的事象についての深遠な
理解と、論理構築が背後にあるのであって、あなたみたいに逸話を安易に
もちだして「だから中世もこうだっただろう」なんていっているのとは
蓄積が違うんだよ。
>(ちなみに、僕は彼
>らの論を否定しているのではありません。←ここの部分、ちゃんと通
>じてるかしら?)
否定しているもいないも、読んでもいないんでしょ?私が挙げたのはナショナリズム
とかネーションを語る上では基本的な図書なのね。
それが絶対真理なわけじゃないし仮設だけど、逸話にもとづいたあなたの素人の
空想ではとても真理には近づけないよね。
292 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:22
> 我々は過去の歴史を分析するにあたっては、構造的に有意なものを >抽出して、1つのモデルを考え出します。エティック的ではなく、エ >ミック的な手法を導入するわけです。そのことによりわかりやすい、 >かつ本質的な構造が見えるようになってきます。1つのパラディグマ >の構築が可能になります。 何を気取っているの?あんたのいっていることが真理に近くて、ホブズボウムより 偉いといいたいわけ?何もわかっていないくせにさ。 あなたには、ネーションとは何かという基本的な思考が欠けているから、 単なる「近代になってから捏造された国民の歴史」の後塗りをしている だけになっている。 真理、真理なんて空虚な用語に繰り返す時点で、あなたは学問的な修養が なっていない。何様? 中世の言語状況について語りたいなら、最低限、中世と近代との社会構造の 違い、言語なるものが近代の産物であることくらい押さえてから議論したら どうよ? >しかし、例えば音韻論の例を出してみれ >ば、日本語の「チ」は明らかに chi ではなく ti であるけれども、そ >れでも実際には [ti] と発音されるわけではないでしょう。実際には >やはり [t∫i] と発音されているわけです。「267 :世界@名無史さ >ん」の論は「チ」は ti なのだから、発音上も [t∫i] と発音された >はずだと主張なさるようなもののように思えるのですが? 全然とんちんかんな比喩ですね。 あなたがいかにナショナリズムのなんたるかが分かっていないことが 暴露されていますね。 > 現在の学術ターミノロジーは、全て既存の用語や概念を再定義した >ものです。例えば、「水の中に住んでいる動物」を昔は「魚」と提議 >していたものを、系統論が発達してきて、学者達が「鯨は魚類ではな >く哺乳類とする」と勝手に再定義したものでしょう? だから「魚」 >という概念が近代になるまでは存在していなかったわけではなく、む >かしもありましたし、むかしもその用語の指し示す意味の大部分は現 >代のものと重なり合っていたはずです。少なくとも魚に関してはね。 重なっているからといって、違いに気づかないのがおかしいんだよ。 さらに重要なことは、その違いにはどういう意識の違いが出発点になっている かが問題なんだよ。 「魚は昔からあったし、現代の魚の定義はそれを援用しただけだ」という 態度では、とてもじゃないけど、「何をもって魚と呼ぶか」の定義や 出発点の違いが分からないんじゃないの?
293 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:26
>歴史学の用語の多くもそのような再定義によるものが多いわけで、そ >れらの定義が厳密に現代のものとは違うと言っても、だから、むかし >はそういう語彙や、概ね一致する概念が存在していなかったというわ >けではないはずです。 これも詭弁の一種ですね。魚がそうだから、他の用語もそうだ。 なんて、どういう粗雑な思考をしているんでしょう。 たとえば、社会とか国家とか経済という用語一つとっても、それらが 現在の学問で使われている用語の意味は、 その典拠になっているシナの古典における用語の意味とは全然 違っています。 それと同じように、nationとか祖国とか国という用語は、昔から存在するけど、 それに含まれる意味内容がぜんぜん違っているんだよね。 近代の用語を中世にあてはめるときに危険なのは、 たとえば「祖国「という用語に含まれる派生的な概念、国旗・国歌とか 三権分立とか、主権・領土・人民からなる三位一体の構成要件だとか そうした近代になってからできた「国家」のあり方がそのまま中世にも 存在したかのように錯覚しがちだということです。 あなたのいう「中世にもハンガリーがあった「というときに、さすがに 三権分立は含まれていないようだけど、領土・主権・人民がその 構成要件としてあるとどことなく思っている節がある。それがおかしいと いっているのだよ。 そういうことに気がつかないで、「似ている」なんて、そりゃあなた偽りの 友で誤訳する失敗の元だよ。 > 別に願望のつもりはありませんが。単に何かがあったであろうと >言っているだけです。 あくまでも「あっただろう」というのは願望です。「あって欲しい」という。
294 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:27
>一切、何もなかったと断言してしまうのは乱暴 >過ぎると思いますよ。あくまでも思うだけですが。 乱暴なのは、何かあったと考えるあなたのほうが乱暴なのです。 昔からあったから、今があるなら、早い話が、ハンガリーなんて近代国家は 存在してはいけないことになるんです。ハンガリーなど東欧の国家は すべて近代になってからの意識でできた国家であって、歴史的に根拠が あるわけではありませんから。 それともハンガリーの大学教育って、みんなにネーションは昔から あるだろうという幻想しか植え付けないような程度の低いものなのでしょうか? それは問題ですね・ 「創られた伝統」という概念を知っていますか? あなたが伝統だと思っているものの多くは実は、近代になってから 創造されたものが多いっていうナショナリズム研究の基本概念ですが、 あなたは見事、「今あるものが、昔から何らかの形であるに違いない「 という近代ナショナリズムの神話に見事だまされているわけです。 > 人は(他の動物だって)自分の住んでいる土地(縄張り)に戻って >くればホッとするものです。そこには愛着があります。村意識もある >でしょう。古里意識は絶対にあったはずです。そういう素朴な意識の >存在すら否定してしまうのはいかがなものでしょうか? だったら、そういう素朴な意識のままで、国家なんて存在する必要など ないんですよ。あなたそういう基本的な疑問も持たないんですか? 村落共同体意識があったから、それが拡大されて国家意識につながった なんていうのは、完全にヒトラーの言説と同じ危険思想です。 村落共同体意識はあったのは事実です。しかし、国家という意識は 自明の存在でも自然に成立したものではない。 あくまでも資本主義が勃興して、人間を集中的に効率良く作業させる ために、西欧の一部で発生し、それが帝国主義侵略とともに、世界 全体にひろまっただけのことで、村落共同体があるからそれが自然に 国家に拡大発展するわけじゃないのです。
295 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:39
>>286 > 通常の自虐的史観はそうでしょう。(あまり好きな言葉ではありま
>せんけどね。)中国や朝鮮の自虐史観もそうだと思います。でも、ハ
>ンガリー国歌の歌詞は、単なる諦めで、「もー、どーしよーもねえ
>や、俺達」で、
だから、何度もいっているように、その「ハンガリーだけが特別だ」
という発想、なんとかなりませんか?
「おれらはどうしょうもない」なんてのは、ごくありふれた自虐的、
悲劇型ナショナリズムであって、ハンガリーだけが特別じゃありません。
>とても強い民族になろうとなどとは思えない歌詞なん
>ですよねぇ。あんな歌詞で「おっし、頑張ろう!」なんて思うとは到
>底思えません。
だったら、なんでハンガリーなんて国が存在しているの?バカも休み
休みにいったら?
それはあくまでも日本人であるあなたの感覚や判断であって、ハンガリー人が
そうだとは限りません。
民族が違えば論理展開が違いますからね。
もし、あなたの判断が正しければハンガリーなんて国家はとっくに消滅していた
はずです。
>「そうなんだよねぇ...(-_-;)」と納得してしまう歌詞
>です。
それでも、ハンガリーは国家をつくって、戦後も国家そのものは維持して、
東欧でまっさきに民主化を果たした。バルトは戦後50年も存在を消されていた
し、たくさんの民族が国家をもてないでいるというのにね。
いくら自虐的でも、その底には「強い国」への願望があるからこそ、
ハンガリーは消滅しなかった。それが、国家をもてないか消滅された
民族との違いです。
ハンガリーのナショナリズムはやはりかなり強烈なものだといえるでしょう。
> 専門はハンガリーですから (^^)。物理学者に「あなたは物理学しか
>知らない」と言ってもしかたがないのと同じことでしょう (^^)。
であれば、中世ハンガリー王国のことに口を出すのは専門外でおこがましい
ってことです・
だって、中世ハンガリー王国と今のハンガリーでは構成要件がまったく
違いますから、現代のハンガリーをいくら知っていても、中世に
ついて発言する権利はないことになりますから・。
それでも発言してしまうあなたは、結局は現代ハンガリーのナショナリズム
史観に毒されていて、中世も「同じハンガリー」だと思いこんでいる
だけのことでしょう。
>272 :世界@名無史さん
>>262 > > 定義のしかたによると思います (^^)。ロンドンのコクニーとク
> >イーンズ・イングリッシュを同じ英語とみなすことも可能ですし、
> >違う言語だとみなすことも可能でしょう。問題は、「コクニーとク
> >イーンズ・イングリッシュは同じ英語だ」と言った場合の「英語」
> >と「コクニーとクイーンズ・イングリッシュは同じ英語ではない」
> >と言った場合の「英語」では、同じ「英語」という用語を使ってい
> >ても、指しているものが違うのです。ですから「コクニーとクイー
> >ンズ・イングリッシュは同じ英語か?」という質問は無意味です。
> >先に、その質問者が自分の理解している「英語」の定義を示した上
> >でないと、答えようはありません
>
> であれば、これまであなたが何の定義の留保もつけずに書いてき
> た、「ハンガリー宮廷ではハンガリー語が多数だった」「ラヨシュ
> がハンガリーに来たときにハンガリー語が分からず、ポーランド語
> で「よきにはからえ」と応えた」などの俗説を持ち出しても意味が
> ない、といっているんだよ!!
本当に、なんで「272 :世界@名無史さん」はそういう乱暴な文体
でしかお書けにならないのでしょう?「272 :世界@名無史さん」の
ご意見には傾聴に値する有益なものが多いのですが、今後、このよう
な乱暴な文体が続くようであれば、ご発言に対するレスは控えさせて
いたくことになります。だって、楽しくないもの (^^)。別にレスを付
けなきゃいけない義務があるわけでもないでしょうし。ここではもっ
と楽しく、かつ友好的に話ができませんか?(まぁ、それじゃあ、匿
名で罵詈雑言を浴びせられる「2ちゃんねる」の楽しみがなくなりま
すか (^^)?)
で、別に言語学や歴史学の論文を書いているわけじゃあないんです
から(「272 :世界@名無史さん」はそうなんですか?)、ここでは
別に普通の書き込みに厳密な定義なんかで話を始める必要はないと思
います。だいたいの言葉は「阿うん」でお互い共通認識できていると
いう前提で話をしています。その時「その定義(用法)はおかしいん
じゃないか?」という意見が出てきて、初めて、そっちの方に話題が
移行するんではないですか?(もっとも、“ハンガリー史”のこの板
で歴史学用語の定義の論争をするのはいかがなものでしょうか? こ
こはもっと単純かつ楽に「キニジ・パールってどういう人だったの
さ?」とか、「魔法の鹿伝説にはどういうバリエーションがあるんで
しょう?」とか言った話題を書くべきなんじゃないですか? 歴史学
用語の問題に関しては、そっちの専門の板でやるべきなんじゃないか
なぁ? と言っても、僕は忙しいから、そっちに呼ばれても、そっち
には行きませんが (^^)。でも、こっちでもそろそろこの話題に乗るの
は控えようかと思っています。仕事に差し支えますしねぇ。代わりに
給料を払ってくれるわけでもなし (^^;)。)
[続く]
>272 :世界@名無史さん [続き] > そもそも中世に「ハンガリー語」と > して意思疎通が可能で、なんらかの共有された意識があるところの > 言語共同体があったとおもってんの?それがまさに近代ハンガリー > 民族史観による捏造じゃないかといっているわけ 「272 :世界@名無史さん」はまだ僕の質問にはお答えになられて いませんよね。中世にハンガリー語が存在していなかったとして、現 在存在しているハンガリー語は、いつ、どうやって降って湧いたので しょう? 最初から、中世のハンガリーで住民全員が民族的にハンガリー人で あって、ハンガリー語を話していたなどとは1度も言っていないので すからね。ハンガリー人達は現代のハンガリー語に列なるハンガリー 語を話していたと言っているに過ぎませんから。 > そもそもいわゆるハンガリー語が、ハンガリー語なる名称のもとに > 一つにまとめられたのは近代以降のこと 標準語が確立されたのはそうです。19世紀末です。しかし、ハンガ リー語を話す者はそれ以前にも(方言的には別の言葉を話しながら も)それぞれが“ハンガリー語”を話していたと自覚していたはずで す。こういう方言、ああいう方言、みなハンガリー語です。 > 近代以前には、そもそもラテン語文語だけが言語であって、それ以 > 外の俗語・口語はすべて地域、身分によってばらばらな方言であっ > て、ハンガリー語の標準語なんてそもそも存在しないし(文法書も > ない)、標準語がない言語を「ハンガリー語」などという統一概念 > で呼ぶわけにはいかないでしょう ああ、これに関しては逆に言語学的なお考えがおできになっていな いようですね。ラテン語だけが“言語”というご主張には驚きまし た。成文法があろうなかろうが、言語は言語です。また、記述された 成文法が存在しなくても文法のない言語などは存在しません。文法が なかったら、言語そのものが成立できませんからね。言語学では“標 準語”などはどうでもいいのです。目の前に現実に存在する言語、そ れが研究対象です。例えば岩手方言と茨城方言は微妙に発音や文法が 異なっています。しかし、それらはやはり「日本語」として括ること ができます。日本語という標準語が存在するかどうかという問題とは 関係ありません。そっちは多分政治学的、あるいは歴史学的な問題で すよね。 > ハンガリー語は中欧地域では、異色の言語ですから、言語の境界が > はっきりしているから、あなたに今の説明が今一つ分かりにくく感 > じられるでしょうが、ハンガリー語をチェコ語、スロヴァキア語、 > ポーランド語に置き換えてみてください だから、誰もチェコ語やスロヴァキア語の話しなんてしてないで しょう? [続く]
>272 :世界@名無史さん [続き] > ハンガリー語を除けば東欧のすべての言語・方言は、方言連続体で > あって、チェコ語とスロバキア語をわける意味はないし、スロヴァ > キア語とポーランド語をわける意味もそれほどないはずです その通りですよ。スロヴァキア語なんて極めて政治的に作られた概 念です。しかし、彼らがスラヴ語であるという事実は存在します。だ から、“スラヴ”という国民国家が存在しなくても、スラヴ語という 概念を使うことには問題はないでしょう。問題はチェコ語やスロヴァ キア語、ポーランド語の問題は単に方言とするのか、独立した言語と するのかという問題でしょう。それこそ近代国民国家の問題です。ハ ンガリー語の場合は、チェコ語とスロヴァキア語程度の方言差すら存 在しないし、かつてハンガリーに別の政治主体が複数存在して、それ ぞれが別の言語を話しているという意識も存在していなかったので、 “ハンガリー語”という用語を中世にも使うことは全く問題はないと 思いますよ。 > つまり、西スラブ系の社会・地域方言群が存在して、中世にはそれ > ぞれ方言がばらばらに存在したのを、近代になって、チェコとスロ > ヴァキアとポーランド語にそれぞれわかれてしまった 政治主体が別れましたからね。 > だから、ラヨシュがポーランド語で「よきにはからえ」といった、 > というのはナンセンスな話で、それをポーランド語と類型化するこ > とはあくまでも近代になってからの分類を投影しているだけで、ラ > ヨシュがたとえオイル語やラテン語じゃなく、ポーランドの農民と > 同じような言葉を話していたとしても、それをポーランド語という > のはおかしい、なぜチェコ語やスロヴァキア語と分けて考える必要 > があるかということなのです・ だから、適当な言葉がないから(西スラヴ語の場合は)とりあえ ず、一応ポーランドという国家が存在したのでポーランド語と呼んで いるのであって、別の用語でも構わないのです。とにかく、何か言葉 がないと話せませんから。「ダメだ」ではなく、ならば「○○語」と いう用語を使うべきだと前向きのご提言をいただきたいと思います。 しかし、ハンガリー語の場合は、上の西スラヴ語のような問題はな いと思います。
299 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:49
>>281 :しい坊さん
> 現代人が現代のターミノロジーを使って話をするのは自然でしょ
>う。
その場合の危険性は、中世について語っているのに、知らず知らずに
現代の用法を中世にも投影しがちな点です。
たとえば、中世についても国家だの領土だの民族だのと呼んだとたん
中世の国家も領土・主権・人民が構成要件になっていると錯覚したり
するようなものです。
だから、現代の用語で中世を説明するときには特別の注意が必要なんです・
> あら、“近代的な意味での祖国意識がなかった”と言っても“わか
>らんちん”なんですか (^^;)!?
あなたが、「近代的ではない意味で」国家意識があったといっている
点で、わからんちんなんだよ。
どうしても国家意識みたいなものが昔からあったと思いたいのは、
素人のよくある間違いですけどね。
> 単に、より適切な用語が見つからないからだけなんですけど? も
>しも、もっと適切な用語を教えていただき、その定義を僕が納得でき
>れば、今後はそれを使いますよ (^^)。
適当な用語がない、といって、安易に現代の用語を援用したら、
あなたは中世に近代を投影してしまった。
そういうことです。
で、正確な用語?そもそも家産体制である中世王国に「領土」なる近代
概念やそれに類似したものがあったと想定すること自体が無意味だと
いっているわけ。
どうしても、そういう概念や発想に固執することがおかしいといっている
のです。
なわばりみたいなものはあったかも知れないが、同じ土地が同じに
複数の君主に所属することは普通にありましたから、それを
「領土」などというのは誤りです。
300 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:52
>もっとも、「267 :世界@名無史さん」が、「一切そう >いう感覚は存在しなかったのだから、それを示す用語もない!」と >おっしゃるのであれば、仕方がありませんが。僕はこれまでの用語を >使い続けさせていただきます。 用語はない・あるわけがない。 それなのに、領土などという用語をあいかわらず使いつづけるあなたは 歴史を歪曲していることになります。 あなたにとって学問的真理よりも、ご自分の面子や民族のロマンのほうが 重要なんですね?それじゃ、つくる会とはどこも変わらないことに なりますね。 > たとえば、あなたが挙げた逸話で「祖国のために戦おう」なるセリ > フも、そもそも国王と貴族と、農民の間では、話している口語も違 > えば(社会方言の違いなり、言語そのものの違いもある)、帰属意 > 識が違う以上、「祖国」という言葉で、「ハンガリーに住むハンガ > リー人」すべてが呼応するわけではないということです。 “「祖国」という言葉で、「ハンガリーに住むハンガリー人」すべ てが呼応するわけではないということです。”ということはその通り で、別に異論はありませんが
>>295 > バルトは戦後50年も存在を消されていた
一応、亡命政府が独立回復まで存在していました。
独立回復後の政権は亡命政府から政権を引き継ぐという
手続きを取っています。
アメリカの政策は承服しかねること至極なのですが、
バルトのソ連併合を最後まで認めなかったのはなかなか。
…などという戯言をちょいとね。
# &氏の毒舌は割り引いて。
302 :
世界@名無史さん :01/10/15 16:58
>>298 >“スラヴ”という国民国家が存在しなくても、スラヴ語という
>概念を使うことには問題はないでしょう。
それは、民族以前の総称ですから、問題はない。、
しかし、ハンガリー語といった場合は、民族国家のまとまりを
前提にしたものであって、それが存在しない中世に
適用するのは誤り。
>ハ
>ンガリー語の場合は、チェコ語とスロヴァキア語程度の方言差すら存
>在しないし、
中世は違うでしょう。
>かつてハンガリーに別の政治主体が複数存在して、それ
>ぞれが別の言語を話しているという意識も存在していなかったので、
そういう記述こそが、近代国家のあり方を過去に投影している
誤った記述です。
だったら、1385年ごろの混乱した状況はどうなるの?
そもそも中世ハンガリー王国が、現在のハンガリーにつらなる
中世ハンガリー語を使っていたの?ハンガリー語という
概念があったの?
>“ハンガリー語”という用語を中世にも使うことは全く問題はないと
>思いますよ。
問題です。
だって、中世ハンガリー王国は、中世リトアニア王国と同様に、
近代国家とたまたま同じ名称を使っていても、内実が
まったく別の政治実体ですから。
そもそもハンガリー語は農民が話すさまざまな方言群で、それを
結びつける「想像の共同体」としての国家も、民族意識も、
言語名称もなかったんですから・
>273 :? さん
ハンドルが変わりましたね。
>
>>244 ギシュクラ・ヤーノシュさん
> >上記のマクシミリアン1世もそうですし、その息子のフェルディナ
> >ンドとハンガリーのヤゲヴォ家のアンナは子供たちにドイツ語・
> >チェコ語・ポーランド語・ラテン語を学ばせたそうです。(ただ
> >し、これも邦文の本からの情報です。)
「273 :? さん」のコメントはギシュクラ・ヤーノシュさん宛て
のものですが、最後に (?) こちらにもコメントを付けておきます。
(今後コメントを付けるかどうかは、忙しさと、文体に応じて決めさ
せていただきます。)
> これは後世になってからでっちあげられた俗説ですね
後世の創作である可能性は否定し切れないと思います。しかし、同
時に何らかの根拠があったかもしれない可能性も否定し切れないと考
えます。現実にはかの地ではそれぞれの言語が話されていたわけで、
別に支配者がそれらの言葉を修得してもおかしくはないと思います。
別に学校や教師に付いて習ったというのではなく(そうかもしれな
い)。色々な親戚や何かがいましたからね。幼年時から自然に身につ
いた言語もあったかもしれません。なかったかもしれないけど。どち
らにせよ、この問題に関しては“断定”できる立場にある人はいない
と思います。
[続く]
>273 :? さん [続き] > そもそも、中世の段階ではラテン語以外には言語は存在せずに、す > べてが空気とともに消える意味のない「俗語」であって、したがっ > て文法も存在しないという考え方でしたから、俗語どうしが通じな > いから、それを「外国語」として学ぶという発想は希薄でしょう “外国語”という意識はなかったでしょうね。だって、自国の領民 の言葉だったんだから。(ハンガリーにおいてもすでに書いています が、ハンガリー語以外にドイツ語や、ルーマニア語、セルビア語等を 母語とする住民が居住していましたからね。これらは近代的な国民国 家の標準語ではありませんが、別に“現在のドイツ語に列なる諸方 言”と言い直しても繁雑なだけで、同じことです。共通理解があるこ とに対して、異論を出してもためにする反論になってしまい、意味が ないと思います。)言葉に関しては“国”という意識はなかったはず です。だから“外国語”という用語は不正確でしょう。いい日本語が ありませんが、要するに“異言語”でしょう。中世において(なんで “中世”にこだわるのかわかりませんが)ラテン語のみが“まっとう な”言語だと認識されていたのは事実ですし(教養語としてはギリシ ア語もありましたねぇ...)、ラテン語以外の言語が“百姓達の言葉” として軽蔑されていたことも事実ですが、だからと言って当時の貴族 や王たちの母語がラテン語であったというわけではないでしょう。す でに中世の文献でも「○○は百姓の言葉を使って〜と話した」という ような記述は見られていたと記憶しています。(すみませんが、出典 は忘れました。)それらの民族語には文法も存在しなかったというよ りは(文法はもちろん存在したのですが)、文法など構築する(研究 する)に値しないと軽蔑されていたのが事実でしょう。だから、それ らが言葉であるという意識自体がなかったということではないと思い ます。 [続く]
>273 :? さん [続き] > ラテン語こそが文法をもった言語であるとかんがえ、もし通じない > 俗語があったとしてもそれを文法をもった「言語」と認識するとい > う意識がないのが中世 意識しようがしまいが、現実には人々は自分らの母語を話し、操っ ていたのです。(それでも地球は回る!) 当時はラテン語のみが真っ当な言語だと考えられていたということ は事実ですが(本当のことは知る立場にないので、正しくは“事実で しょうが”と書くべきでしょうね)、ラテン語以外の言語は存在しな かったというご主張は受け入れることはできません。我々は現代人な のであって、我々が当時を記述し、分析するに当たって、何も当時の 中世人の意識に戻って論を進める必要はないでしょう。と言うか、す でに歴史学自体が、現代の分析法を過去に投影しているわけですか ら。(さもなければ歴史学なんて存在しえないでしょう。) > だからこそダンテが画期的だったわけ。そして、ダンテのように俗 > 語もラテン語と対等な言語として認識するという運動が、徐々にひ > ろまった結果が近代になるわけ・あなたのいっている逸話は、あく > までも近代的な言語観をもった人間がでっちあげた創作。 ダンテは画期的な意識の転換をもたらしたわけですが(そんなこ と、ギシュクラ・ヤーノシュさんだってご存じのことでしょう)ダン テの母語は非常にラテン語に似通っていたわけですから、そこに意識 の転換が革命的だったのではないのですか? ハンガリー語の話者な どは最初からラテン語とハンガリー語が同じ言葉だとは考えることす ら不可能なほど離れていたわけですからね。もしかすると、最初の聖 書の民族語訳がなぜドイツでできたのかということも考えてみる必要 がるかもしれませんね。外してるかもしれませんが。
306 :
世界@名無史さん :01/10/15 17:34
>>297 > 「272 :世界@名無史さん」はまだ僕の質問にはお答えになられて
>いませんよね。中世にハンガリー語が存在していなかったとして、現
>在存在しているハンガリー語は、いつ、どうやって降って湧いたので
>しょう?
ヘルダーらのロマン主義運動により、今でいう「ハンガリー」に住んでいる
一部の知識人や一部農民が「ハンガリー語を話すハンガリー人」という
意識を持ち、それを様々な手段で宣伝・浸透させていったから。
> 最初から、中世のハンガリーで住民全員が民族的にハンガリー人で
>あって、ハンガリー語を話していたなどとは1度も言っていないので
>すからね。
「住民」などといっていない。あなたは「住民全員」と勘違いしている
から、「ルーマニア人もいる」などといっているが、それがおかしい。
そもそも今、ハンガリー人だという意識を持っている人たちの先祖が、
農民だとして、そいつらがハンガリー人だという意識を持ったのは
いつごろか?近代以降じゃないのか?といっているわけ・。
>ハンガリー人達は現代のハンガリー語に列なるハンガリー
>語を話していたと言っているに過ぎませんから。
だから、そのハンガリー人って何?といっていの!わからん人だね・。
ハンガリー人というのをどうも自明だと思っているようだけど、
全然そうじゃないでしょ?
19世紀のナショナリズム運動は何よ?
農民が話していたのは、現在ではハンガリー語の方言とされている
言葉だったでしょう。でも、ハンガリー人という意識などなかったのです。
だからヘルダーとそれに連なるハンガリー貴族が活躍したんでしょう?
そして、ハンガリー人意識を最初に提唱した人間は、農民の言葉は
話せなかった。
ようするに、東欧の民族運動というのは、民族意識を最初に持った知識人が、
実は彼等が理想とするところの「民族の純粋な言葉=農民の言葉」を
話せなかったというちぐはぐなものだった。それを合体させたのが、
民族文化啓蒙運動であり、最終的には民族国家の建設だったわけ・
あなたがハンガリー語と呼ぶものは、中世には「ハンガリー語」という
概念があったわけではないし、貴族が農民が話すハンガリー俗語が
理解できたわけではないのです。
307 :
世界@名無史さん :01/10/15 18:27
>>297 > 「272 :世界@名無史さん」はまだ僕の質問にはお答えになられて
>いませんよね。中世にハンガリー語が存在していなかったとして、現
>在存在しているハンガリー語は、いつ、どうやって降って湧いたので
>しょう?
ヘルダーらのロマン主義運動により、今でいう「ハンガリー」に住んでいる
一部の知識人や一部農民が「ハンガリー語を話すハンガリー人」という
意識を持ち、それを様々な手段で宣伝・浸透させていったから。
> 最初から、中世のハンガリーで住民全員が民族的にハンガリー人で
>あって、ハンガリー語を話していたなどとは1度も言っていないので
>すからね。
「住民」などといっていない。あなたは「住民全員」と勘違いしている
から、「ルーマニア人もいる」などといっているが、それがおかしい。
そもそも今、ハンガリー人だという意識を持っている人たちの先祖が、
農民だとして、そいつらがハンガリー人だという意識を持ったのは
いつごろか?近代以降じゃないのか?といっているわけ・。
>ハンガリー人達は現代のハンガリー語に列なるハンガリー
>語を話していたと言っているに過ぎませんから。
だから、そのハンガリー人って何?といっていの!わからん人だね・。
ハンガリー人というのをどうも自明だと思っているようだけど、
全然そうじゃないでしょ?
19世紀のナショナリズム運動は何よ?
農民が話していたのは、現在ではハンガリー語の方言とされている
言葉だったでしょう。でも、ハンガリー人という意識などなかったのです。
だからヘルダーとそれに連なるハンガリー貴族が活躍したんでしょう?
そして、ハンガリー人意識を最初に提唱した人間は、農民の言葉は
話せなかった。
ようするに、東欧の民族運動というのは、民族意識を最初に持った知識人が、
実は彼等が理想とするところの「民族の純粋な言葉=農民の言葉」を
話せなかったというちぐはぐなものだった。それを合体させたのが、
民族文化啓蒙運動であり、最終的には民族国家の建設だったわけ・
あなたがハンガリー語と呼ぶものは、中世には「ハンガリー語」という
概念があったわけではないし、貴族が農民が話すハンガリー俗語が
理解できたわけではないのです。
308 :
世界@名無史さん :01/10/15 18:30
> 標準語が確立されたのはそうです。19世紀末です。しかし、ハンガ >リー語を話す者はそれ以前にも(方言的には別の言葉を話しながら >も)それぞれが“ハンガリー語”を話していたと自覚していたはずで >す。こういう方言、ああいう方言、みなハンガリー語です。 バカなこといいなさんな。ハンガリー語という概念と用語が近代になって 生まれたのに、それ以前に「こういう方言もああいう方言もみな ハンガリー語」なんて意識が、とくに農民層に存在するなんて 考えている時点で、あなたは、ダンテ以降の俗語運動の重要性、 ヘルダー以降の言語ロマン主義の問題がまったくわかっていないことに なる。 「どういう方言を話そうが、みな同じハンガリー語を話すハンガリー人」 なんて概念はそれこそ19世紀に生まれた概念なんだよ。
309 :
世界@名無史さん :01/10/15 18:32
> ああ、これに関しては逆に言語学的なお考えがおできになっていな >いようですね。ラテン語だけが“言語”というご主張には驚きまし >た。成文法があろうなかろうが、言語は言語です。 いいかげんにしてください。 中世はそういう思考が一般的だったという歴史的な説明を、私の主張だと 誤解している。ずいぶんと頭が悪い人だね。あなたは・ だれかが大ハンガリー主義についてのあなたの説明をみて、あなたの 主張だと誤解したのと同じ粗忽さをあなたも持っていることに なりますね。いいかげんにしてください。 私の説明は、「中世人はラテン語だけが言語だという意識を持っていた」 だから「ダンテの運動が画期的だった」といっているわけで、 私がラテン語以外が言語じゃないなんていっていない・ >また、記述された >成文法が存在しなくても文法のない言語などは存在しません。 バカだね。私も言語学では多数の論文を書いているんだよ。 そんなことは分かっていること。 ちゃんと説明を読みなさいよ。 中世の人達は、「ラテン語だけが言語で、ラテン語だけが文法がある」 と考えていた、と「説明」しているのであって、私がラテン語だけが 言語で、方言には文法がないなんて主張しているわけではありません。 >文法が >なかったら、言語そのものが成立できませんからね。 だから、それが現代言語学の考え方であって、中世にはそんな考え方が なかったといっているのね。 >言語学では“標 >準語”などはどうでもいいのです。 ハンガリー語などという言語名称で呼んでいる時点で、標準化を前提に している。 あなたこそ社会言語学を分かっていませんね。 >目の前に現実に存在する言語、そ >れが研究対象です。 だったら、農民と王族が「同じハンガリー語を話していた」などという 発想はやめなさい。 「同じ**語」という思想は、しょせんは民族とか標準語を前提とした 発想。標準語による読み書きを共有することではじめて「同じ言語」という 信念が確立するものです。 低地ドイツ語地域における、書面言語としてのオランダ語と高地ドイツ語 の分化を考えてみてください。
310 :
世界@名無史さん :01/10/15 18:36
> だから、誰もチェコ語やスロヴァキア語の話しなんてしてないで >しょう? これじゃ堂堂巡りだね。頭が悪いね、あなた・。 だから、なぜチェコ語の例まで持ち出したか理由をちゃんと 書いているでしょうが! ハンガリーってそんなに特殊な国なの?あんた、どこか おかしいんじゃない? 東欧の民族言語のあり方はどれも似たりよったりです。 あなたはどうやらハンガリー語が言語島であることをいいことに、 昔からハンガリーだけが特別に言語意識があったと思いこんでいる から、言語の境界線や概念そのものが近代の産物であることを 出すためにチェコ語の例を出したのです。
311 :
カウニッツ :01/10/15 18:47
そのうち議論に参加させてもらいます。 ハンガリーもハプスブルクと縁が深いですしね。
>>301 >一応、亡命政府が独立回復まで存在していました。
これは違いますね。
亡命政府といっても、駐米大使館があっただけ。
88−91年の独立運動においては、何の役割も演じていない
し、ソ連との交渉の手前、亡命政府を持ち出すわけにも
いかなかった。
>独立回復後の政権は亡命政府から政権を引き継ぐという
>手続きを取っています。
これも違いますよ。
あくまでもラトヴィアの話に限定すると、法的手続きとしては、
ソ連体制下で選ばれた各共和国の最高会議がかつて停止された
憲法の一部条項を復活して、失われた主権を回復したという形を
とった。
また、法的には戦前憲法の復活であっても、戦前の権威主義的な体制
とは決別して、民主国家としてまったく新しい国をつくるという
意味のほうが強かった。
それに、実際の機構やシステムも亡命政府は関係なく、ソ連構成共和国
時代のものをかなり継承しています。
というわけで、亡命政府は関係ないよ。
>アメリカの政策は承服しかねること至極なのですが、
>バルトのソ連併合を最後まで認めなかったのはなかなか。
法的な併合を認めなかったのは、何も米国だけじゃなくて
オーストラリアや英国など多くの西欧・白人諸国がそうでした。
もっとも法的には認めなくても、いわゆるデファクトとしては
認めていたんだよね、米国だって。
だから、亡命政府の大使館もほとんど有名無実だったし、
バルトの独立運動が展開されたときも、米国は独立運動を
厄介物扱いしていたのが現実だった。
313 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/15 19:09
>>304 > “外国語”という意識はなかったでしょうね。だって、自国の領民
>の言葉だったんだから。
あのね、括弧をつけてあるんですが、それを読み取れない?
>(ハンガリーにおいてもすでに書いています
>が、ハンガリー語以外にドイツ語や、ルーマニア語、セルビア語等を
>母語とする住民が居住していましたからね。
だから、それらの違いと、それぞれの「母語集団」がほんとうにそれぞれで
まとまった「同じドイツ語だ」という意識をほんとうに持っていたのか?
って話。
ちなみに、ルーマニア語って何よ?あれは、20世紀になって、むりやり
ロマンス系言語として創作されたものであって、中世の段階では、
スラブ系の方言群だったんだが?
>これらは近代的な国民国
>家の標準語ではありませんが、別に“現在のドイツ語に列なる諸方
>言”と言い直しても繁雑なだけで、同じことです。
同じではありません。少なくとも方言が異なる話者が「同じドイツ語を
話している」という意識がなかったのに、それを後世の分類にしたがって
「ドイツ語」などと呼んでしまうことが問題なのです・。
>共通理解があるこ
>とに対して、異論を出してもためにする反論になってしまい、
共通理解がありません。
少なくとも、あなたが中世について「ハンガリー語」の存在が自明だと考える
ことは、私には理解できないことなので。そもそもハンガリー語って何?
現代のハンガリーとその民族言語の概念やあり方をもって、過去をながめても
意味がないんだけど?
314 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/15 19:10
>だから“外国語”という用語は不正確でしょう。 だから括弧でくくったわけ。あなたが「ハンガリーという国があった」 というものだから、ハンガリーという国の意識がない人の言葉は つまり「外国語」になる。いくらハンガリー王の臣民であったとしても、 「同じ領内」にいたとしても「我等同じハンガリー人」に属しない人は 「外国人」だから。 >いい日本語が >ありませんが、要するに“異言語”でしょう。 であれば、今やハンガリー語の方言とされているブダから離れたところで 中世に話されていた、あまり意思疎通ができない(今は方言差が少なくたって 中世だったら意志疎通ができなかった可能性が高いからね)方言は、 「同じハンガリー語」だと見なされたのか、はなはだ怪しいわけ。 >中世において(なんで >“中世”にこだわるのかわかりませんが) 中世と近代では、社会の仕組みや「言語」のあり方がまったく違うから。 それがわからないで、あくまでも昔からハンガリー人は民族主義的な 集団だったと思いたがっているあなたがおかしいわけ。 >だからと言って当時の貴族 >や王たちの母語がラテン語であったというわけではないでしょう。 「母語」というのも、きわめて近代的な認識なんだよ。 田中克彦の著書なんか読むとわかるけどね、「母語」という概念は、 ドイツロマンティークの用語としてできたものであって、それ以前には 「母語」を意識することもなかったし、母語が同じかどうかなんて、 たいした意味がなかったわけ。 >す >でに中世の文献でも「○○は百姓の言葉を使って〜と話した」という >ような記述は見られていたと記憶しています。 はいはい、一部の文献だけに出てくる極めてまれな記述が、どうして 普遍的な原理だったと考えられるんでしょうか? あなたのSF並のぶっとんだ発想はとてもじゃないけど、学者とは 思えません。
315 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/15 19:12
>それらの民族語には文法も存在しなかったというよ >りは(文法はもちろん存在したのですが)、文法など構築する(研究 >する)に値しないと軽蔑されていたのが事実でしょう。だから、それ >らが言葉であるという意識自体がなかったということではないと思い >ます。 言葉であるという意識があったからといって、「これは同じ言葉だ」「これは 違う言葉だ」という意識ができるとは限らないんだよ。 いいですか?今はブダの方言も、ペーチの方言も、すべて「ハンガリー語の 方言」だと認識されているからといって、中世にも同じように認識されている というあなたの思いこみがどこから出てくるのかということです。 しかも、1380年代前後にはハンガリー王国は、今のノヴィグラードあたりも 「なわばり」にしていたことになっていますが、これは今のクロアチアですね。 あなたの母語といういいかたを援用するなら、ホルヴァート一族は、クロアチア 語を母語とする農民を支配しながら、なおかつハンガリー王国の国政に関与して いたし、反乱も起こしていたから、彼等はハンガリー語を話していたんですか? それともやはりクロアチア語? 貴族もハンガリー語だとしても、当時のアンジュー家が使っていた家族方言と ホルヴァート一族が使っていた家族方言が、「同じハンガリー語だ」という 意識があったんですか?そしてなおかつ通じたんですか? 私にはあの時代の歴史を読んでいると、どうもそうは考えられません。 そもそも「言葉が同じだから、同じ民族だ」「同じ民族だから同じ言語だ」 というあなた発想って、きわめて近代的です。 そもそもホルヴァート一族とアンジュー王家が、直接口語を使って意思疎通 する必要なんてあったんですか?
316 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/15 19:31
>>305 > 意識しようがしまいが、現実には人々は自分らの母語を話し、操っ
>ていたのです。(それでも地球は回る!)
どうも話がずれているな。
だから、問題は、自分が話している母語が、隣の村人が話しているそれや、
身分が違う王家が話しているそれと比べて「同じ言語だ」という認識が
できたかということでしょ?
言葉そのものがなかったなんていっているわけじゃありません。失語症なら
ともかく。
繰り返すと、問題は中世のハンガリーという土地で、農民と王族が「同じハン
ガリー語を話す人」とお互いに認識していたかってこと。
そんなことはないでしょうといっているのです。
あなたは、どうやら論理の基本がなっていないようですね。
> 当時はラテン語のみが真っ当な言語だと考えられていたということ
>は事実ですが(本当のことは知る立場にないので、正しくは“事実で
>しょうが”と書くべきでしょうね)、ラテン語以外の言語は存在しな
>かったというご主張は受け入れることはできません。
そんなことは言っていません。
ラテン語以外に言語がないと考えられていた、といっているのです。
あなたは私のことを歪曲しているというけども、議論を歪曲してるのは
あんたのほうですよ。
>我々は現代人な
>のであって、我々が当時を記述し、分析するに当たって、何も当時の
>中世人の意識に戻って論を進める必要はないでしょう。
どうして?
>と言うか、す
>でに歴史学自体が、現代の分析法を過去に投影しているわけですか
>ら。(さもなければ歴史学なんて存在しえないでしょう。)
最新の分析法を使うことと、現代の用語や概念をそのまま投影して歪曲しても
いいこととは違う問題です。
あなたこそ、学問というものの基本がまったくできていませんね。単なる
言語オタク。
317 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/15 19:32
> ダンテは画期的な意識の転換をもたらしたわけですが(そんなこ >と、ギシュクラ・ヤーノシュさんだってご存じのことでしょう)ダン >テの母語は非常にラテン語に似通っていたわけですから、そこに意識 >の転換が革命的だったのではないのですか? そもそもこの議論はおかしい。 まず「母語がラテン語に似通っている」とはどういう意味? 「似通っている言語だったから、違うものと意識することがより 困難だった」なんてことが普遍的な命題だといえるか? あなたは。イタリア語とラテン語を学んだことがありますか?あれがどうして 「似ている」といえるわけ?そりゃ、現代語としてはイタリア語が ラテン語に最も近いとはいえるけど、ラテン語の多くの活用形が イタリア語からは全然推定できない以上、それを「近い」などといって しまうあなたは、英語とドイツ語だって似通っているというんじゃないの? めちゃくちゃだよ。 それに、母語が近かったから、ダンテがラテン語とイタリア語の違いの認識が 遅れたような書き方ですが、ダンテが最初にラテン語と俗語との違いを 認識して、俗語の文法化を図ったんだよ。それを忘れているね。 >ハンガリー語の話者な >どは最初からラテン語とハンガリー語が同じ言葉だとは考えることす >ら不可能なほど離れていたわけですからね。 ハンガリーにおけるラテン語運動を知らないの?名称を忘れたけど。 それから、言語の遠近関係が遠かったから、ハンガリー語とラテン語の 違いが認識できた?何をいっているの?だったら、なぜハンガリーが 一番最初に母語とやらで文学作品を書かなかったわけ?どうして 19世紀になってもラテン語にこだわる人が多かったわけ? 母語の文法化ということに関してはハンガリーが欧州でも最も遅れていた ことを知らないの? >もしかすると、最初の聖 >書の民族語訳がなぜドイツでできたのかということも考えてみる必要 >がるかもしれませんね。外してるかもしれませんが。 外しています。 民族語で文章を書いたのはダンテが最初なのですよ。あなたはダンテがルター より後に生まれたと思っているのですか?
318 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/15 19:43
>>303 > 後世の創作である可能性は否定し切れないと思います。しかし、同
>時に何らかの根拠があったかもしれない可能性も否定し切れないと考
>えます。
創作かも知れないあやふやなものを、同じ言語だという意識の
証拠として断定して、持ち出してきたのはあなたなんだよ。
>現実にはかの地ではそれぞれの言語が話されていたわけで、
>別に支配者がそれらの言葉を修得してもおかしくはないと思います。
どうして?主権在民じゃない時代に、どうして支配者が臣下の
言葉を学ぶ必要があるの?
あんた、大統領選挙とかがある民主主義のあり方しか知らない
んでしょ?
>別に学校や教師に付いて習ったというのではなく(そうかもしれな
>い)。色々な親戚や何かがいましたからね。幼年時から自然に身につ
>いた言語もあったかもしれません。
親戚がいても、同じ身分だから、結局は、農民の言葉なんか
習得できないのね。
それがどういう意味か分かる?
中世の身分制社会では、「同じハンガリーという土地にいる」
人どうしなんて意味がなくて、あくまでも同じ身分同志が
意思疎通をしていたわけ。
だから、たとえラヨシュ大王が「ハンガリー語」をできたとしても
それは宮廷語であって、農民には通じなかっただろうし、
ラヨシュ大王は宮廷オイル語や宮廷スラブ語はできた
だろうけど、それが農民たちのオイル語やスラブ語とは
違っていただろうということ・。
大体、国民統合がスムースだった日本ですら、江戸時代の
京都では、公家と僧侶と商人と庶民とで言葉が通じなかった
らしいから、身分制がさらにはっきりしていて、人口移動も
激しかったハンガリーなんてさらに通じないでしょう。
>どち
>らにせよ、この問題に関しては“断定”できる立場にある人はいない
>と思います。
断定できない「資料」や逸話を証拠として持ち出してきたのは
どなた?
すっごい書き込み量ですね (^^;)。とてもフォローし切れません。 申し訳けありませんが、仕事を抱えている身ですし、堂々巡りが続くよう ですし、どうやら文体の変更もされるおつもりはないようですので(議論を するなら楽しくやりましょう (^^)!←もっともこの板には議論をしにやって きたのではありませんが。喧嘩はしたくありませんので)、今後、この話題 についてのレスは控えさせていただきます(何本分かはレスを書いたのです が、切りが無いので、自分で破棄します)。残念ながらどなたがどなたのか は判断しかねますので、どれを同じ話題とみなすかは、僕の独断と偏見で行 わせていただきます。 歴史学でのご研究のご健闘をお祈り申し上げます。
320 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/16 00:21
うーん、読む側のことも考えて書いてほしい。 ここ数日、何がどうなっているのか良くわからない!!。 しかし、多言語を操る人物が君主にいたというのは全部でっちあげですか? ルクセンブルク家のカレル4世とかの話は「ルクセンブルク家の皇帝たち」 というチェコ史の研究をされておられる方の本からなんですが。 そうなると市販の本に書かれているその手の話は全て後世の創作ということ になるようなんですが、我々のような歴史趣味の人間には大いに困ったこと ですね。何を信じていいのやら判らないですよ。 あと領土の件ですがハンガリー王国の広がりを表現するのに適当な用語はな んでしょう。一般的にわかるような表現というのをご提示いただきたいです。 「ハンガリー王国は土地の境界を巡ってチェコ王国と抗争した。」というよ うな表現ならいいのですか? しい坊さま いや貧乏旅行です。トランシルバニアについてのご教示感謝です。 マルタ・シェベスチェーンのCDを買いこみました。
321 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/16 00:55
& ◆Fa8bZ.l6 さま 318で大意を理解しました。 私が不勉強なのでしょうが大体の人は市販の本ぐらいしか読めませんので、 (仕事が終わって帰宅後のささやかな楽しみ)多言語をあやつる君主とい う話を信じている方は多いと思いますよ。(特にハプスブルク関連) 研究者の方々は一般に対する啓蒙にも力をいれて欲しいと市井に住む人間 としては思います。 できればここをそういう場として活用していただけたらと思いますが。
322 :
世界@名無史さん :01/10/16 09:38
ちょっと素人質問を
>>294 >村落共同体意識はあったのは事実です。しかし、国家という意識は
>自明の存在でも自然に成立したものではない。
んじゃ、古代国家は全て村意識だけで、自らをその国家に従属してる意識は無かったと?
>>306 >ハンガリー語は、いつ、どうやって降って湧いたのでしょう?
>それを様々な手段で宣伝・浸透させていったから。
質問の意味わかってないのか、答えになってないが??
>>317 >イタリア語とラテン語を学んだことがありますか
現代伊語とラテン語じゃだめでしょう
でも、ダンテの時代はどうでしょうか??
確かこの辺りの言語って分かれてから1000年程度と聞いています
その時代なら比較的似ていると言えるのでは??
中世と近代のハンガリーが異なると言うのはおおむね同意できるが
どうも感情的なり過ぎて読みにくい
あと、言語に関しても平行線で見苦しいな
どちらにも決定打が無い以上、どこかで妥協したほうが良いと思われ
324 :
世界@名無史さん :01/10/16 12:19
ハンガリーという国家意識でなくとも、 「聖イシュトバン王の王冠の地」という観念が、 中世から支配層に有ったのでは?
325 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 12:31
>>322 >んじゃ、古代国家は全て村意識だけで、自らをその国家に従属してる意識は無かったと?
古代に国家なんてものは存在しないんだよ。素人くん。
あなたは用語の使い方が粗雑ですね。
古代には「国家」なるものはありません。あれは、君主を主体とする家産
支配体制というべきもので、人民と領土が固定したものは存在しません。
そもそもどこからどこまでが領土なのかも明確じゃない。
人民の意思が反映されるわけではありませんし、人民が支配体制に帰属意識を
持っていたわけでもありません。
現代人は「国家」というと、どうしても主権があって、人民がいて、領土があ
って、人民の意思がある程度反映されていて、という近代国家の形態を思い
浮かべがちですから、古代の政治支配機構について、「国家」というと、
あなたやしい坊さんがそうであるように、妙な誤解を持ってしまうので、
現在の政治学などでは、古代については「古代国家」という用語を避けるように
なっています。何と呼ぶか?だから先にも書いているでしょ。「政治支配
機構」とか「支配体制」というんですよ。
従って「古代国家はどうなのか」というあなたの質問は愚問です。
>>ハンガリー語は、いつ、どうやって降って湧いたのでしょう?
>>それを様々な手段で宣伝・浸透させていったから。
>質問の意味わかってないのか、答えになってないが??
あんた、バカ?ネーションの起源なんて正確にわかると思っているの?
それはね、元の質問(しい坊の)が漠然としているからだよ。
そもそも現在存在する国家のネーション意識の起源なんて、正確には
つかめないことが多い。だからこそ、これだけネーション論についての
研究があるのに、ネーション意識については16世紀に萌芽が芽生えて、
19世紀に定式化された、という漠然とした時代しか分かっていない。
徐々に創られたものだからね。
はっきりしていることは、絶対に中世には存在しないし、まして古代に
も存在するはずがないのね。
ま、歴史学とか政治学とか社会学をまともに勉強すれば、こんなことは
基本的知識なんだけど、あなたはそういう基本的知識も知らないみたいだね?
326 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 12:35
>現代伊語とラテン語じゃだめでしょう >でも、ダンテの時代はどうでしょうか?? ダンテの時代のトスカーナ方言と、現代イタリア語では、それほど大きな差は なかったはずですが? それに、あなたはどうやら、現代イタリア語の古語がラテン語だと勘違い しているようですね。頭が単純過ぎる。あなたは社会方言(階層による 言語の違い)とか基層とか混合という考え方はないのですか? >確かこの辺りの言語って分かれてから1000年程度と聞いています >その時代なら比較的似ていると言えるのでは?? バカだね。君はローマ時代のラテン語に階層差があったことなんて 知らないんだろうね。 俗ラテン語を知っていますか? ラテン語といっても中世にかけて書面標準語とされたものの規範は キケロなどのいわゆる古典期の知識人の言語にあったわけで、 知識人とイタリア中部の庶民、イベリア半島の庶民では、同じように 「ラテン語」と呼ばれていても、基層言語を反映して、それぞれ異な った言語を話していたわけ。 ダンテのトスカーナ語は、いってみれば、トスカーナ地方の商人 クラスの言語で、それはキケロのラテン語の子孫ではなく、 正確にはキケロの時代の庶民のラテン語の子孫だったわけです。 だから、ダンテの時代のほうが、より古典ラテン語に近いなんてことは ありえません。 >中世と近代のハンガリーが異なると言うのはおおむね同意できるが >どうも感情的なり過ぎて読みにくい 別に感情的になっていないさ。しい坊さんが、歴史考証として間違った ことを書いているので、指摘しているだけのこと。それに、大量に 書いているから、推敲しているヒマはないからね。 >どちらにも決定打が無い以上、どこかで妥協したほうが良いと思われ 決定打はこちらにあるのね。 それを勉強不足のくせに、専門以外の領域で間違ったことを書きこんだ しい坊さんに責任があるわけ。 彼はハンガリー語学では地位を築いているから、彼の意見がすべて正しいと 見なされがちだけど、彼だって歴史とか政治については、かなり間違った ことを書いているんだよ。素人さんは気づかないだろうけど。
327 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 12:45
>>324 >ハンガリーという国家意識でなくとも、
>「聖イシュトバン王の王冠の地」という観念が、
>中世から支配層に有ったのでは?
中世「から」ではなくて、中世「には」というなら、その
通りです。
そもそも「中世から」なんて、あなた、これまで私のいっている
ことをまったく無視しているね!
中世には「イシュトヴァーン王の王冠の地」という意識が
あった。でも、それと近代以降のハンガリーという国家の
意識とはまったく関係ない別物なんだよ。
大体、ノヴィグラードも「王冠の地」なんだが、これは
ハンガリーというんですか?
あなたにとってはクロアチアもハンガリーなの?とんでもない
大ハンガリー主義者だな!
そう。いってみれば、中世ハンガリー王国は、今のハンガリーとは
実は何の関係もない外国の話なのね。
そもそも君主がフランスから来たりしているし、王国の
公用語(宮廷用語)も中世農民が話すハンガリー語ではない。
領域も確定していないし、貴族が必ずしも時の国王に帰属意識を
持っていないし、庶民が複数の領主に従属していることも
珍しくない。
つまりだ。名前が同じ「ハンガリー」を冠しているからといって、
中世王国と近代民族国家が直接のつながりがあり、支配層の
意識も継承されていると思ったら、大間違い。
現在あるハンガリーという民族国家は、完全に19世紀になって
からの民族運動で新たに創られたもの。ところが、それでは
格好が悪いと考えた民族主義者たちが、名前を拝借した中世王国
が自分たちの先祖であると無理やりくっつけただけのこと。
そして、それを信じ込んでいるのが、しい坊とかあなた。
まとめ:
中世ハンガリー王国は、現在のハンガリー共和国にとっては、
外国である!
328 :
世界@名無史さん :01/10/16 13:08
>325 んじゃ、ギリシャとかは?? 国家「みたい」なものでないの? 都市と言う領土が有って、人民が直接選挙で動かしてたんでしょ? なんか、言葉遊びに近いな 確かに学問的な言い方はそうなんだろうけど
329 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 13:56
>んじゃ、ギリシャとかは?? >国家「みたい」なものでないの? そう来ると思った。 ところが、現在のあんたの懐いているギリシャのポリスの イメージというのは、トクヴィルらによって理念形として理想化 されたものであって、実態とは違うんだよ。それがわかっている? >都市と言う領土が有って、人民が直接選挙で動かしてたんでしょ? 違います。都市というのはあくまでも都市であって、 大体、「演説の声がとおる範囲」だけだったのね。そんなものは 学校の生徒会とおんなじで領土とは言わない。 人民?それは正確には貴族というべきで、膨大な数の奴隷が いたことを知らないの?あんたはほんとうにバカだなあ。 >なんか、言葉遊びに近いな 言葉遊び?それが用語の正しい使い方というんだよ! オマエの粗雑な頭で理解できないだけ。 言葉遊びというなら、あなたの歴史の知識って小学生並じゃん。 イメージと空想の域を出ていない。勉強不足の厨房は逝って良し! >確かに学問的な言い方はそうなんだろうけど というか、あなたが物事を知らなさすぎるだけ。
330 :
世界@名無史さん :01/10/16 14:04
>>326 >推敲しているヒマはないからね。
推敲もしないで書いてる時点で感情的と思うよ?
で、また素人質問
どうやって当時の各階層の口語が異なると証明できるんですか?
文章と違って残るものが無いと思うですが
331 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 14:16
>>320 ギシュクラ・ヤーノシュさん
>しかし、多言語を操る人物が君主にいたというのは全部でっちあげですか?
そうじゃなくて、中世において「言語」ってナンですかという
話。ラテン語以外はすべてが文字になっていない方言であって、
現在なら「ハンガリー語」として一括される方言が地域だけじゃ
なくて社会階層ごとにばらばらで、意思疎通は不可能だったのね。
同じ「***語」ですら意思疎通ができないのに、それを
あたかも一つの標準語があるかのごとく一つの言語として数えて、
「何言語ができる」といっても意味がないんですよ。
>ルクセンブルク家のカレル4世とかの話は「ルクセンブルク家の皇帝たち」
>というチェコ史の研究をされておられる方の本からなんですが。
東欧各国史の研究者は、まず、ダメです。
というのも、彼等はそれぞれの対象国のナショナリズムに毒されて
いて、ナショナリズムから離れて歴史を見ることはできない
から(そんなことしたら、そもそも「チェコ」史研究の
存在意義がなくなるから)。
>そうなると市販の本に書かれているその手の話は全て後世の創作ということ
>になるようなんですが、
当たり前です。
>我々のような歴史趣味の人間には大いに困ったこと
>ですね。何を信じていいのやら判らないですよ。
要するに、あなたは歴史を趣味とすることで単にロマンを求めたい
だけなんですか?
歴史に過剰のロマンを注入するのは、歴史と真面目に取り組む
時のありかたとしては失格です。
332 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 14:18
>あと領土の件ですがハンガリー王国の広がりを表現するのに適当な用語はな >んでしょう。 だから、あなたはあくまでも近代の領土観念に固執していて、 中世以前の「なわばり」を理解しようとしていないだけです。 いいですか?広がりといっても「明確な境界」がないもので、 「ああ、あのあたりはなわばりのはずだが、よく分からない」 といったいいかげんなものだったんだよ、近代以前の王国は。 そりゃ、隣接した王国との家産がどっちに帰属するかの争いは たまに起こりましたが、大抵は家産が複数に所属していても 気にしないし、自分のrealmがどこまで境界かなんて気にして いなかったんです。 中世社会の人間の思考は現在人とは違うんだよ。境界とか 国家とかの意識があると思っている時点であなたは歴史を ロマンとして見ているだけで、実際の歴史を見ようとしていない わけ。 時代が違えば、思考の根本も違う。 現代からみたらばかばかしいことも中世には真面目に信じられていた。 現代人が想像がつかないことを中世人は考えていた。 それを知ることが歴史を知ることです。 現代人の思考を過去に押し付けるのは傲慢というものです。 >一般的にわかるような表現というのをご提示いただきたいです。 一般的にわかる表現をした時点で、すでに歴史を歪曲して、 歴史を理解しないことになります。 まず、君は現代人としての常識を捨てることです。歴史を ロマンとして語りたいだけなら、小説でも読んでいなさい。 >「ハンガリー王国は土地の境界を巡ってチェコ王国と抗争した。」というよ >うな表現ならいいのですか? 「家産の一義的所有権がどちらにあるかをめぐって争った」 というべきでしょう。 でも、複数の君主に従属している農民って多かったんだよ。 現代の国民国家では基本的にありえないこと。 だから農民は年貢を納めるのが大変だったわけ。わかる?
>>325 >現代人は「国家」というと、どうしても主権があって、人民がいて、領土があ
>って、人民の意思がある程度反映されていて、という近代国家の形態を思い
>浮かべがちですから
本当にそうなのですか?私や周りの方々や2chの皆さんはそうでも無い様に思いますが。
334 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 14:34
>推敲もしないで書いてる時点で感情的と思うよ? 大量に匿名掲示板に書きこむのに推敲なんかするか? こっちは物書きのプロだから、金をもらうおんじゃなかったら、 推敲なんかしない。 >どうやって当時の各階層の口語が異なると証明できるんですか? >文章と違って残るものが無いと思うですが それがね。残っているんだよ。 それこそ近代になって言語標準化をするときの文献に たくさん「階層でも通じない」という記述があるのね。 フランス革命といい、東欧の民族主義運動といい、なぜ 「国民教育」とか「言語の標準化」が必要だったか分かる? なぜ、ハンガリーの民族運動の人達が、農民の言葉を「純粋な 言葉」として理想化して、民族言語の標準化をしていったのか 分かる? 中世から近代に移行する時点で、「同じ**人」の間にも、 地域のみならず階層で言葉が通じないことが問題になったんだよ・ そこで標準語を制定していった。そしてその標準語の下に 地域・社会方言を包摂し、包括的名称として「**語」なる 名称をつけたんだよ。 だから、しい坊が「言語学は標準語なんて関係ない」という のは、そうした「言語の名称」にひそむ「標準語-方言」の 階層構造に気がつかない、典型的な言語専門バカの発想。 言語学者がこれまで体制の侍女として体制に利用されてきた 過去がたくさんあることが分かっていないようだ・ これだから内的言語学だけやって社会言語学をやっていない やつはアホだというんだよ!
335 :
& ◆Fa8bZ.l6 :01/10/16 14:39
>本当にそうなのですか?私や周りの方々や2chの皆さんはそうでも無い様に思いますが。 現にそうじゃん。しい坊さんなんかが典型。 ハンガリー王国にはハンガリー語が存在し、王族から農民まで 話が通じた。これなんか近代国家の思考パターンだよ。 あなたもそれをおかしいと思わない時点で、 無意識のうちに「近代の概念」で中世を見ているに 違いない。 無意識だから、それが間違っていることに気がつかないだけ、 罪が重いんだよ。 分かる?
336 :
世界@名無史さん :01/10/16 15:14
>>334 >こっちは物書きのプロだから
物書きのプロならそれなりの文章ってもんがあるだろ??
こんなみっともないもん良く書けるよ
ま、匿名だからっていう開き直りなんだろうけどさ
>>文章と違って残るものが無いと思うですが
>それがね。残っているんだよ
それだって標準語を作り始めた頃の回顧録だろ??
中世当時に書かれたって訳じゃない以上、一部の地域だけで
全体ではない可能性だって捨て切れないと思うが
っていうかさ、ごちゃごちゃ言ってないであんたのいう「決定打」ってやつを
公開すれば終わりでないの??
「あれとこれを読め!」ってなカンジでさ
そんな簡単なことにも頭回らんのか?
だから、感情的だっていってるの
>>289 謡曲によく「粟散辺地の小國にて」なんて言い回しが出てきます。天竺・唐・本朝とか
三國一なんて言葉もある。やはり何らかの帰属意識があったことは間違い有りません。
で、今の國家観とぴったり重ねる人もそんなにいないと思いますがね。
今の西アフリカにあるような「王国」をイメージすると わかりやすいのかなあ。はずしていたら御免。 # 感情うんぬんの話はつまらないので、中身の話をしましょうよ。
このスレでハンガリーについて詳しく述べることが出来る人間は いなくなり、& ◆Fa8bZ.l6の罵詈雑言のみが書き込まれるスレに堕 したとは悲しいですね。たしかにしい坊さんの話って極端かも知れな いけどそれにいちいち食って掛かって追い出してしまって何の得があ るんでしょうか。あなたがしい坊さんに代わってハンガリーについて なんか話せるの? はっきり言って& ◆Fa8bZ.l6の話って歴史学の本なんかを読んでる 人間なら誰でも心得てることでつまんないんだよね。ちょっとアクが 強いけど実際にハンガリーの大学で高等教育を受けた人間が書きこん でるんだから彼らがどういう考えをしてるかを知るせっかくの機会だ ったのに。相手の間違いは間違いとして認識しておいて、情報として 有用な部分はしっかり聞いておくってのが何事も基本じゃないの。少 なくともここは2チャンネルなんだから、食って掛かりたければ学会に でも出席してえらそうにしてる教授共に直接論争ふっかければイイじゃ ない、君には無理か(プププ ◆Fa8bZ.l6は研究者志望か崩れみたいだけど、他人のちまちまし た間違いにいちいち突っ込んでるようじゃ学者としては大成しそうにな いですね。一生ライターで精進されることを祈ってます。(・∀・)
340 :
世界@名無史さん :01/10/17 00:29
セーケ人の話すハンガリー語には、 特別の特徴があるの?
341 :
困ったもんだ :01/10/17 01:06
>大量に匿名掲示板に書きこむのに推敲なんかするか? >こっちは物書きのプロだから、金をもらうおんじゃなかったら、 >推敲なんかしない。 無礼も極まる・・・。 貴殿はプロという言葉の重みを判っていないように思う。 報酬があろうがなかろうが文章を生業としてるという以上 推敲なんかしないというのは論外だ。
342 :
世界@名無史さん :01/10/17 03:49
>>268 >ホブズボウムやゲルナーやアンダーソン
検索してみたが、
・創られた伝統
・極端な時代
・想像の共同体
・言葉と権力
・イスラム社会
・民族とナショナリズム
と言ったところなんしょか、和訳されたのは。なんせ表記の揺れのため
抜けやすいので。
ところで"プラノ-カルピニのジョン修道士の旅行記(1245-47年)"
"ルブルクのウィリアム修道士の旅行記(1253-55年)"はヨーロッパから
モンゴルのハーンに会いに行った時の記録なわけだが、
(「カルピニ、ルブルク 中央アジア・蒙古旅行記」護 雅夫 訳 桃源社)
カルピニのほうに"バスカルトすなわち大ハンガリー"(P38)、
ルブルクのほうに"パスカトゥル人はハンガリー人と同じ言葉を使い"(P191)
"のちにハンガリー人として知られるに至ったフン人は、このパスカトゥル人
の地域からやって来ました。これが大ハンガリーのおこりです"(P191)
てな記述があり。バスカルト、パスカトゥルは今のバシュキルであり、現在は
トルコ系言語を話しているが、当時はウラル系言語が残っていたと見られる。
ルブルクらにとって"ハンガリー人""同じ言葉""おこり"というのはどんな感覚
だったのかのー。ちなみにダンテ(1265‐1321)より昔。
ラテン語以外の文語
教会スラブ語(8XX年-)
ヤン・フス(1370頃-1415年) 聖書のチェコ語訳 チェコ語正字法を作る
最初のハンガリー語聖書もフス派による
ハンガリー王マーチャーシュ1世コルヴィヌス(1440-90年)。
イタリアなどから知識人・芸術家など招き、ラテン語でハンガリー史
作ったりコルヴィナ文庫作ったりしたと聞く。
343 :
世界@名無史さん :01/10/17 06:13
気楽に逝こうよ、2chなんだからさ(苦笑
コダイやバルトクがマジャルの民謡を集め、源流を辿るとトランシルバニアを経てウォルガ〜 ウラルにたどり着いた。マリ人やチュバシ人です。と、書くと「梵阿弥はパンノニア〜ウラル に跨る民主的、官僚的、均質的な國家が在ったと思い込んでる。馬鹿だね」と書かれてしまうのか。
345 :
世界@名無史さん :01/10/17 19:42
346 :
世界@名無史さん :01/10/18 00:00
>342 また後世のでっち上げだといわれますよ。 >344 たぶんそうなるでしょう。
347 :
世界@名無史さん :01/10/19 00:52
>大体、ノヴィグラードも「王冠の地」なんだが、これは >ハンガリーというんですか? クロアチアはハンガリー王の「縄張り」の内だけど、シュ テファン王冠に属する地の範囲でしたっけ?? ハンガリー王はクロアチア王を兼任するという形だったと 思いますが・・・。 >あなたにとってはクロアチアもハンガリーなの?とんでもない >大ハンガリー主義者だな! そういう乱暴な用語の使い方は止めましょう。 原文を書いた人間はクロアチアについて言及していないはずです。
グラゴル文字、キリル文字、中世マジャル(マジャル ルーン)文字なんて在りますね。
349 :
世界@名無史さん :01/10/20 01:43
いや〜。狂犬一匹でせっかくのスレが廃墟と化しましたな。 実際、困ったもんですな。
350 :
世界@名無史さん :01/10/20 05:21
狂犬とはいえ、なんか重大な資料を持ってる口ぶりだったから それを発表して欲しかった...
351 :
世界@名無史さん :01/10/20 20:42
& ◆Fa8bZ.l6 さんに言わせれば、 ローマ帝国も「国家」とは言わないのだろうか? 首都ローマの貧民には、食料が配給されていたそうです。 つまり、奴隷じゃない自由民には、一応、社会政策が有ったと 言えるのでは・・・?
352 :
世界@名無史さん :01/10/20 21:40
何を言っても聞く耳もたんでしょう。 それにしてもハンガリーのスレなのにそれ以外の話ばかりですな。 2chには& ◆Fa8bZ.l6 氏のおっしゃるところの言語の使い方 の粗雑なスレなんざ山ほどあるのだから言うのであれば他のとこ にも言いに行けばいいのにね。
地域や身分によって言葉が「異なる」というのと「通じない」というのは同じ状態ではありま せんからねえ。私は無学なりにとり合えず「中世マジャル諸語」くらいに捉えていましたが。 …現代の國家にも色々在るのだし。
>339 :でしい坊さんは抜けられた訳だがさん 別に抜けてはいませんよ (^^)。単に最近(普段もそうなのですが、 ここ暫くは特に)目茶苦茶忙しくなっていることと、別段コメントを 付けるべき発言が見当たらないということだけです。それに普通の対 話ができない人とは議論してもつまりませんからね (^^;)。「袖触れ 合うも何かの縁」、「親しき仲にも礼儀あり」とも申します。前にも 申しましたが、内容的には誤りや勘違いの指摘は大歓迎です。しかし 僕は喧嘩は嫌いなので、喧嘩することが目的の人や“聞く耳を持たな い”人とはやりとりしたくはありません。これは普通のことなのでは ないでしょうか (^^)? > このスレでハンガリーについて詳しく述べることが出来る人間は > いなくなり、 と言うわけで、別にいなくはなっていませんが、忙しいので、あま りレスは付けられないと思います。 > & ◆Fa8bZ.l6の罵詈雑言のみが書き込まれるスレに堕したとは悲し > いですね。たしかにしい坊さんの話って極端かも知れないけど 普通の常識とは違うことを言うので、“意外”だと感じられる方は いらっしゃると思いますが(だって誰もが知ってることを書いても意 味がないでしょう?)、“極端”ではないと考えています (^^)。 (もっとも書いている人間は誰でも自分は“普通”だと思っているも のですが (^^;)。) > それにいちいち食って掛かって追い出してしまって何の得があるん > でしょうか。 暴れたいだけでしょう (^^;)? 元々 (?)「2ちゃんねる」ってそう いう方々の巣窟なのではありませんか (^^;)? > あなたがしい坊さんに代わってハンガリーについてなんか話せるの? ハンガリーそのものがご専門ではないようですが、ある程度はハン ガリー史についてもお詳しいとお見受けしましたが? 少なくとも普 通の方々よりは知っていると思います。ただし、 [続く]
>339 :でしい坊さんは抜けられた訳だがさん [続き] > はっきり言って& ◆Fa8bZ.l6の話って歴史学の本なんかを読んで > る人間なら誰でも心得てることでつまんないんだよね。 ということはあると思います。僕自身は歴史学は素人ですが、あそこ に書かれていたような程度までは理解しているつもりです。(だから 「あんたこうこうことを知らないね?」と言われても困ってしまいま す。)ただ、あの方は割と一般的に(現在)定説とされている理論の みに依拠して論を進められているように感じます。理論(仮説)とい うものは、それそのものが真理なのではなく、事実の中から有意なも のを抽出して行く作業です。そうすると“ある種”の真理とか、仕組 みがよく見えるようになるわけです。でも、“現実”は(特に社会と いうものは)、そのような純粋なエミック的な骨格だけで構成されて いるものではなく、様々な付随物、不純物がくっついているもので す。そういう時に大切なのは、素朴な感覚、直感というものだと思い ます。あまり素朴な直感に頼りすぎると科学としては問題になります が。事実の集合から帰納的に抽出された作業仮説(理論)を現実に優 先させてしまってはいけないと思います。 ちなみに僕は一連の発言の中では意図的に「国」(ország) という言葉を使ってきており、「国家」(állam) とは区別して いたのですが、ご理解いただけないようでした。 現在の「ハンガリー」という国家とかつての「ハンガリー王国」の 国家としてのありかたや、自らを「ハンガリー人」だと名乗る人々の 実際の遺伝子的な構成や現代「ハンガリー語」とむかしの「ハンガ リー語」が必ずしも全く同じものではないということを念頭に置いて おくことは大切ですが、それで「ハンガリー人」とか「ハンガリー 語」とか「ハンガリー」という“国”が過去に存在していなかったと いうことにはならないはずです。中世に話されていたハンガリー語が 現代ハンガリー語のように規範文法を持ったものではなく、標準語も 存在しなかったという事実は、ハンガリー語が存在しなかったという こととは同じではありません。別の方に「ハンガリー諸語」というご 意見もありましたが、“諸語”と言えるほどの差違もなかったはずで す。単に統一的な標準語(規範文法)が存在しなかったということか ら“ハンガリー語”というものが存在しなかったと結論づけるのは乱 暴です。むかしのハンガリー語を“ハンガリー語”と呼ぶこととナ ショナリズムの問題とは全く別の次元の問題です。 当時のハンガリー宮廷の人々が(特に国王が)必ずしもハンガリー 語を介しなかったであろうという事実と(それは誰も否定していませ ん。もちろんハンガリー語ができた人も多かったはずです)、本当に 貴族達が magyar 語を解さず、農民と同じ magyar 語で意思の疎通が できなかったと想定することとは同じではありません。当時の社会で は意思の疎通が(あまり)必用がなかったと考えることと、本当に物 理的に互いの言語が理解できなかったと想定することは同じではあり ません。 [続く]
>339 :でしい坊さんは抜けられた訳だがさん [続き] そう言えば別の誤解(曲解?)もありました。「ハンガリーなどと いう国家がないのにハンガリー語などがあったはずがない」というご 意見もありましたが、これは日本語に引きずられた考え方ですね。日 本語や中国語は先に国の名前があり、そこから民族名や言語名を派生 しています。しかしご存じの方も多いと思いますが、西洋の言語の場 合は多くは、民族名や言語名から国の名前が派生されています。従っ て「ハンガリー語」という用語は magyar nyelv の訳語であって、 「ハンガリー」という国家の言語という意味は全くありません。ハン ガリーという国家の存在は想定しておりません。(否定もしていませ ん。)別に国がなくても言語は存在するわけですから。言語を国民国 家の公用語と規定すれば、確かにそういうものは存在しなかったとい うことにはなるでしょうけれども、それは歴史学(あるいは政治 学?)の問題であって、言語学(あるいは民俗学)の問題ではありま せん。アイヌ人はアイヌ国という国家を持っていまんせんでしたが、 アイヌという民族は確かに存在しますし、アイヌ語という実態は確か に存在します。近代的な国民意識とは違っても、自分らが magyar で あるという意識は確かに存在したはずですし(それが現在の民族意識 と同じだとは誰も主張していません)、ハンガリー語は断絶すること なく、ウラル地方にハンガリー人の先祖達(ウラル人?)が居住して いた時から連続して、途切れることなく存在し続けていたはずです。 恐らくはハンガリー人農奴やルーマニア人農奴達はお互いの連帯感の 方が貴族達に対するものよりは強かったと思いますし、現在のような (“ハンガリー人だから”とか“ルーマニア人だから”といった)民 族対立はなかったはずですが、magyar 語を話す住民は自分らを magyar と呼んでいたし、自分らの言葉を magyar と呼んでいたのは間 違いないと思います。そして言語史料を見ても、現在の方言の差違を 考慮しても、例えば、現代人の我々がタイムマシンで中世のハンガ リーに行って、そこの農民や地方貴族と現代ハンガリー語で話しかけ ても(時代が違いますから一部通じない語彙があるにせよ)意思の疎 通にそれほどの問題はなかったはずです。少なくともハンガリー語に 関しては。(ハンガリー王国の臣民であるルーマニア人に話しかけた ら通じなかったかもしれませんが (^^;)。) > ちょっとアクが強いけど すみませんねぇ (^.^;)ゞ。アクが強いつもりはないんですけどね。 と言うか、ここに書き込まれている皆さん、どうしてどうして、どな たも強烈な個性の持ち主ばかりではないのですか (^^)? [続く]
>339 :でしい坊さんは抜けられた訳だがさん [続き] > 実際にハンガリーの大学で高等教育を受けた人間が書きこんでるん > だから 劣等生だった可能性もあります (^^;)。 > 彼らがどういう考えをしてるかを知るせっかくの機会だったのに。 確かに1つの貴重な情報源だとは思いますが(自分で言うなってか (^^;)?)、注意しなければいけないことは、ある国に留学していた り、ある国に長く住んでいた、ないし、今も住んでいる人間の知識が 必ずしも、完璧であるとは限らないし、彼の意見や主張が必ずしもそ の国で一般的な意見を代表しているものとは限らないということです ね。ですから「俺は本当のことを知ってるんだぞ (^^)!」という人が いれば、彼に対して「じゃあ、ここはどう説明できるのですか?」の ように自分の疑問をぶつけることは、いい意味の検証作業になると思 いますし、お互いに有意義なことだと思います。 > 相手の間違いは間違いとして認識しておいて、 すみません。少なくともこれまで書いていた部分では明白な“間違 い”はなかったと考えています。もちろん、そういう部分があった可 能性はありえますが、今のところ、“解釈の違い”や“認識の違い” の域を出るものはなかったんじゃないかなぁ?(だいたい用語の定義 に関しては“歴史学”が絶対なのではなく、各分野によって微妙に、 場合によっては大幅に違っているものです。だから、どの使い方が正 しいとかどうとか言っても無意味なのであって、あくまでもここでは こういう定義で使っているということさえわかっていればいいのでは ないかと思っています。さもなければ、特に学際的な意見交換なんて できるはずはないでしょう。と言うか、大事なのは、相手が何を言い たいのかをきちんと理解し、お互いの知識を深めることでしょう?) > 情報として有用な部分はしっかり聞いておくってのが何事も基本 > じゃないの。少なくともここは2チャンネルなんだから、 「2ちゃんねる」だからこそ、噛みつく(噛みつける)のではない のでしょうか (^◇^;)? 自分の正体を秘匿して、自分は安全圏にい て、自由に相手に罵詈雑言を浴びせかけられるのですから、ある種の 人々にとっては、これは快感だと思いますよ。罵詈雑言を浴びせかけ れば、一見、自分は有意に立ったように、自分自身では錯覚すること が可能ですからね。でも、多分、外の世界ではそういうやり方は通用 しないでしょう。そういう意味では「2ちゃんねる」で普通の冷静で 有意義な意見交換や議論をやりたいと思う方が間違っているのかもし れませんね。 [続く]
>339 :でしい坊さんは抜けられた訳だがさん [続き] > 食って掛かりたければ学会にでも出席してえらそうにしてる教授共 > に直接論争ふっかければイイじゃない、君には無理か(プププ 学会に出席している学者達が偉そうにしているというのは偏見では (^^;)? 確かにそういう学者さんもいらっしゃいますが、学者って、 (エンジニア系の方々もそうですが)多くは謙虚な方が多いですよ。 僕は違うだろうけど (^.^;)ゞ。違うというのは“謙虚”という意味の 方です。偉そうにしている連中は僕も嫌いです。はい。 > ◆Fa8bZ.l6は研究者志望か崩れみたいだけど、 別に“崩れ”とは限りませんね。残念ながら、大学のポストは絶望 的に少ないので、必ずしも本当に有能な研究者が大学で教えられるわ けではないのです。だから、“在野”であっても優れた学者はたくさ んいます。欧米ではそれでも学者として認められるのですが、所属社 会の日本では大学に在籍していないと“素人”とか“ディレッタン ト”とか“町の研究者”とか差別的に呼ばれてしまい、非常に不公平 だと思っています。(あの方の学者としての実力・能力は、あの方の 論文を読んだことはないし ― だいたいどなたなのかは存じあげませ んし。向こうは顔見知りであることをほのめかしていますが ― 、僕 自身歴史学者ではありませんから残念ながら判断できる立場にはあり ませんが。) ちなみに、必ずしも在野の方とは限らないと思います。場合によっ ては、どこかの大学の若手の教官という可能性も否定し切れないので はないでしょうか? 若手の研究者は結構 agressive な方もいらっ しゃいますからね。やっぱり、若いから、気負いもあるし、権威に対 しては怒りを感じるものですから。(僕なんかは残念ながら全く権威 者とは見られておりませんので、権威だとみなされて噛みつかれても 困ってしまうのですが...。)あとは(例えば都下にある某有名国立大 の)院生とか、その院の終了者とか...。 どちらにせよ、あまり相手の人格攻撃はよくありませんね。自分自 身を相手のレベルと同じ所まで貶めてしまいます。(ま、確かに、あ そこまでやっちゃうと、批判されてもしかたがないような気もします が (^^;)。) [続く]
>339 :でしい坊さんは抜けられた訳だがさん [続き] > 他人のちまちました間違いにいちいち突っ込んでるようじゃ学者と > しては大成しそうにないですね。一生ライターで精進されることを > 祈ってます。(・∀・) う〜ん。優秀な方だと思いますから、個人的には何かの分野で大成 していただきたいと考えてはいますけどね。ためにする議論ではなく (相手が何を言っても、相手が本当は何を言いたいのか理解しようと 務めるのではなく、どこに自分が攻撃できると思えるポイントがある かということを探すことだけを目的とするのではなく)、相手の意見 に耳を傾け、互いの考え方の共通認識部分と異なる部分を見極め、互 いの意見をすりよせていけば、とても有意義な議論が可能になると思 いますけどね。相手を「馬鹿だね」と断罪しても、それで新しい情報 は誰も得ることはできませんから。全てが無意味で虚しい。相手が本 当に馬鹿なのかどうかは、一連の議論を進めていけば、自ずから読者 自身が判断できることでしょう。(もちろん、その結論・判断自身が 間違いである可能性も大いにありますが (^^;)。) とにかく、これからも僕は消えたわけではありません。今後も「ハ ンガリーのここの所はどうなっているの?」というようなご質問があ り、それに対して僕が答えることが可能であれば、時間の許す限りコ メントは付けるつもりではおりますが(ただ、本当に最近は時間が許 さない...(;_;))、攻撃的な文章や非常識な文体の文章にはコメント は一切つけませんので、ご了解ください。 あ、それから、この一文は、単にちょうどいいから「でしい坊さん は抜けられた訳だがさん」のご発言に対するコメントの形を取らさせ ていただいただけであって、「でしい坊さんは抜けられた訳だがさ ん」に対する反論では全くありませんので、誤解なさらないよう、お 願い申し上げます m(._.)m。>でしい坊さんは抜けられた訳だがさん
>359 僕はここを抜けたわけではありませんが、僕の活動の場は別にあり ます(←ネットのことです)。ですから、今後も、あのような乱暴な 発言ばかりが続くのであれば、将来は抜けることもありえます。歓迎 されないのにいてもしょうがありませんからね。(僕は普通の神経を 持った人間であって、マゾではありません (^^;)。)別にあえて不愉 快な思いをする必要はありませんから (^^)。(僕の発言に対する異論 を封じるものではありません。誤解なさらないようお願いします。) せっかくハンガリーのことが語り合える場ですから、このスレッドが 正常なものであり続けることを祈っております。それでは今後ともよ ろしくお願いします m(._.)m。
ハンガリー国内の少数民族の状況はどうですか? 東部にユグノーを受け入れたのは知っているけれども、 なぜスラブ人村が観光地なのかとか。
>361 > ハンガリー国内の少数民族の状況はどうですか? “あからさま”な(あるいは政策的な)少数民族弾圧や抑圧はない と言っていいと思います。ハンガリーは周辺諸国に大量のハンガリー 人少数民族を抱えておりますから、彼らの保護のためにも周辺諸国と 良好な関係を維持して行くことが(国家としてと言うよりは)民族的 な利益にかないますので、政策的には戦後は相当な少数民族保護政策 が取られてきていました。しかし、現在のハンガリー領に居住する少 数民族の絶対数が非常に少ないので、周辺諸国の関心はあまりないよ うです (^^;)。(彼らの母国は彼らの運命に対して驚くほど冷淡で す。たかだか数万の同胞のために、国内の数百万のハンガリー人の待 遇改善を要求されてはたまらないというところでしょうか?) 政策的な保護とは人口比に対して、より重点を置いた少数民族学校 (母語による教育)の設立とか、遠方の居住者に対する寄宿舎の設 置、母国 (?) への大学留学の援助、少数民族言語による書籍や新聞発 行に対する援助、少数民族言語における放送、少数民族居住地域にお ける複数言語表示の推進等です。もちろん、これらの政策の裏には、 単なる人道的な動機だけではなく(人道的な動機は当然あります)、 対外的にハンガリーの少数民族政策の良さをPRする目的もありま す。(1980年代末までは周辺諸国は露骨に過酷なハンガリー人抑圧を 実施していましたから、それに対する抗議の意味もあったでしょ う。)しかし、いくら政策的に彼らを保護してはいても、絶対数が非 常に少ないので(1920年のトリアノン条約で引かれた国境線は大幅に ハンガリー人居住区域に食い込んでいたために、現在のハンガリー国 内にはほとんど少数民族が残らなかったのです)、事実問題として は、ハンガリーの少数民族が不利なのはどうしようもなく、様々な不 満も当然出てきます。政府がいくら母語による教育を進めても、自分 らの居住している村を一歩出れば、ハンガリー語しか通じない社会で すから、親達はあまり民族学校に子供らを行きたがらせません。(場 合によってはハンガリー政府が自分らの子弟に対して民族学校に進学 することを勧めること自体が差別だと受け取られかねません。)人口 2万程度の少数民族(ルーマニア人の場合)に対して高校までは作れ ても、まさか民族大学まで作ることはできません。(そこで少数民族 出身者は母国の大学に留学することになります。留学といっても、日 本と違い、陸続きですから、日本の地方の大学生が別の都道府県の大 学に下宿して通うようなものです。)ドイツ人はルーマニア人よりも 多いですが、やはり大学までは無理でしょう。(ドイツ人の場合はド イツ政府が国外のドイツ人に対して様々な援助政策を実施しています から、そっちに頼る方が現実的です。ハンガリー国内のドイツ人がそ れらのサービスを受けることは妨げられません。) スロヴァキアとの間では社会主義時代から、国境地域の住民は互い に母国に通勤したりできていました。旧ユーゴスラヴィアは当時は少 数民族保護が進んでおり、ハンガリーもユーゴも良好な関係でした。 オーストリアのハンガリー人政策も良好で、両国の関係は鉄のカーテ ンで分断されていた時代にも良好でした。(常に最大の問題はルーマ ニアとの問題でしたし、現在もそうです。) [続く]
>361 [続き] 実際に深刻な少数民族問題は国を持たないジプシー人(ロマ人)問 題でしょう。(ジプシー人問題は同時に社会階層問題でもありま す。)ジプシー人の問題は、彼らの利益を代表する知識人がほとんど いないことなのですが(彼らの大学進学などでは国も相当な支援策を 取っているのですが、色々問題があります)、最近はジプシー人団体 も活動が盛んで、一部ではジプシー語による教育なども始まっている ようです。彼らは元々は文字を持たなかったのですが、現在は僕の友 人がジプシー語の『聖書』の翻訳を進めています。(彼は、やはり聖 典は古臭くないといけないと、わざわざ中世ジプシー語を自分で創造 しながら訳出しております (^^;)。) 政策的な少数民族抑圧はないと言いましたが、周辺諸国でハンガ リー人が抑圧されている国と同じ民族の場合は、残念ながら差別的な 扱いを日常生活で受けることはあるようです。特にルーマニアでのハ ンガリー人抑圧は目に余っていたので、ハンガリー国籍のルーマニア 人が地方の長距離バスに乗り込んできたときに運転手が「ルーマニア 人は国に帰れ!」なんて罵倒されたのを友人が目撃しています。ま た、ルーマニア政府が国民が外国人を自宅に泊めることを禁じ (1973 年だったかな?)、ドルを持たない社会主義国の国民も含め、ドル以外 による支払は認めなくなった事件があったときに、ハンガリー国内で ルーマニアの旅券を持った旅行者がルーマニアのレイをハンガリーの フォリントに交換しようとしたときに、窓口の担当者が交換しなかっ たというようなこともありました (1979年)。ハンガリーをルーマニア 旅券を持って旅行している人の大部分は本当はルーマニアで抑圧され ていたハンガリー人だったんですけどね。でも、一般庶民にとっては ルーマニアの旅券を持っている奴らはハンガリー人をイジメている ルーマニア人だということになってしまうわけです。(ちょうど、日 本人は当時、社会主義国の人間達は共産党政権に抑圧されていて可哀 想だと思いながら、僕の家内がハンガリー人だとわかると、露骨に 「私はアカは嫌いだ!」と多くの日本人が吐き捨てるように言ったの と似ています。) ま、そんなこんなで、ハンガリーに居住している少数民族にとって はハンガリーは最高の天国とは言えませんし、色々不満も訴えると思 いますが、深層では、客観的にそんなに不満は抱いていないと思いま す。(少数民族と知り合って、色々話し始めると、最初は不平不満を たらたら言いますが、もっと親しくなって、色々話すようになると、 結構、本国人に対して自分はハンガリー国民だという優越感のような ものも持っているのがわかって面白いです。普通はなかなかそこまで の仲にはなれないでしょうが。) [続く]
>361 [続き] > 東部にユグノーを受け入れたのは知っているけれども、 > なぜスラブ人村が観光地なのかとか。 色々あるので、どの村の話をされているのかはわかりませんが、名 所旧跡や観光地は、歴史があったり、風光明媚だから観光地になるの であって、別に住民が何系であるかは関係ないと思います。(スラヴ 人の町や村だからと言って観光地にすることを許さなかったら、それ こそ民族差別でしょう (^^;)。また、少数民族の居住地なのに、その 言語によるパンフレットの作制を禁じたり、そこのパンフレットで少 数民族の村であることに言及しなければ、それも抑圧だということに なります。少数民族の村なのに、その言語によるパンフレットで村の 名前をハンガリー語で表記させるのも抑圧になりますね。実際のとこ ろはどうかわかりませんが、僕の所有しているスロヴァキアで出版さ れた書籍や新聞の地名は全てスロヴァキア語表記になっていますし、 身分証明書でも名前のスロヴァキア語風表記が義務付けられていまし た。例えばスューチ・エーヴァ [Szűcs Éva] という 女性はエーヴァ・スュチョヴァー [Éva Szűcsová] という表記にされています。)日本の「なまはげ」そっくりのお祭り のある南ハンガリーのモハーチ市は南スラヴ人の町ですが、ハンガ リーでは最も有名なお祭りの1つです。南ハンガリーの美しい都市、 ペーチ(ピエンチ/フュンフキルヒェン)市も南スラヴ人の多い町で すね。ブダペストの北にあるこぢんまりとした美しいセンテンドレ市 等は、元々はセルビア人が多数派だった町ですが、誰も「なんで墓の 文字がキリル文字なんだ?」とかは怒りませんし、「ここにセルビア 人等はいなかった」とも主張しません。(ただし、センテンドレは環 境のいいベッドタウンなので、現実にはハンガリー人住民が圧倒的で す。)西ハンガリーのショプロン(エーデンブルク)市やジェール (ラープ)市、ケーセグ(ギュンツ)市などはドイツ人が多い町です が、やはりハンガリーの観光地です。
365 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 :01/10/22 22:50
ハンガリー人はムスリムになりなさい。
366 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/23 00:42
しい坊さま お戻りいただいたのでさっそくご質問させてください。 ハンガリーの英雄物語で「トゥルディ」というものがありますが、どういった 内容のお話なのでしょうか。 また、前に出てきたキニジ・パール将軍についてなにかエピソード(伝説)を ご存知でしたらご教示ください。 質問ばかりで申し訳ないです。
367 :
世界@名無史さん :01/10/24 20:41
そういえばハンガリーの昔トルコが占領していた区域にはモスクの建物は 残存しているけれどムスリムの信仰を持ちつづけた人たちというのはいる のだろうか???
>366 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > ハンガリーの英雄物語で「トゥルディ」というものがありますが、ど > ういった内容のお話なのでしょうか。 Tuldi ではなく、Toldi ですから、単に「トルディ」ですね。 > また、前に出てきたキニジ・パール将軍についてなにかエピソード > (伝説)をご存知でしたらご教示ください。 トルディに関してもキニジに関しても、多分、ギシュクラ・ヤーノ シュさんのご存じないような情報は提供できないような気もしますが (^^;)? 今月は(土・日も含めて)絶望的な忙しさなので、ご返事はもう暫く ご猶予ください m(._.)m。
>367 :世界@名無史さん > そういえばハンガリーの昔トルコが占領していた区域にはモスクの建 > 物は残存しているけれどムスリムの信仰を持ちつづけた人たちという > のはいるのだろうか??? 本当に不思議ですよねぇ。ハンガリーは、あくまでも国土の一部(3 分の1)がトルコに占領されていただけで、実質的なハプスブルク領 だった(名前だけの)「ハンガリー王国」と(名前は違うけれども)実 質的なハンガリーであった「トランシルヴァニア公国」も存在していた わけですから、ハンガリー以南のバルカン諸国(諸国というよりは諸地 域か?)とはだいぶ事情が違ったようですけれども。 イスラムやバルカンは全く専門外なので、お詳しい方がいらっしゃっ たら、ぜひ、ご教示いただきたいのですが、とりあえず僕が習った範囲 でお答えしますと、オスマン・トルコは占領地においては宗教的には非 常に寛容だったと言われています。自分らの信仰のためにモスクは建て ましたが、キリスト教徒の住民にイスラムを強制するようなことは一切 (?) なかったようです。要するに税さえちゃんと収めれば、あとは自由 にさせておいてくれたようです。ですから、ハンガリー人のイスラム教 徒というのは全く存在しておりません。バルカンの(ハンガリーはまだ バルカンには含まれません)セルビア人やクロアチア人、アルバニア人 の間にはイスラム教徒も多いようですから、その違いがなぜ発生したの かは存じません。ここら辺(なぜハンガリーではイスラム化が行われ ず、バルカンではある程度のイスラム化が進行したのか)ぜひ知りたい ところです。 ちなみに、“バルカン”の範囲に関しても難しい問題があるようで す。セルビアがご専門の柴田さんは旧ユーゴスラヴィアの版図からクロ アチア、スロヴェニアまでバルカンに含められているようですが、歴史 的にオーストリアに支配 (?) されていたスロヴェニアと、(オースト リアに支配されていた)ハンガリーに支配されていたクロアチアはバル カンには含まれないのではないかというのが僕の考え方なのですが。 ま、これなんかは典型的な研究地域の違いによる見解の相違なんでしょ うけどね。真相はどっちの要素もあるということなんでしょうけ ど...。 それからバルカンの諸民族の間ではトルコは単に憎まれているだけで すが、確かにハンガリーでもトルコとの戦いによる被害は甚大だったの ですが、先程も述べましたように、トルコは宗教的に寛大で、しかも風 呂好きのトルコ人はハンガリーのあちこちに狂ったように温泉を堀まく り、今では温泉大国ハンガリーの貴重な観光資源ともなっております。 また“薔薇愛でるパシャ”として有名だったブダの統治者ギュル・ババ もハンガリー人には愛されており、『ギュル・ババ』というオペレッタ は人気があります。ブダペストの高級住宅地の薔薇ヶ丘はギュル・ババ の薔薇栽培地に由来しております。
>>369 そういえばオスマン朝トルコ帝國に攻められて現スロヴァキア共和國の
コシツェを都としていた時期もあったようですね。
>368 > セルビアがご専門の柴田さんは旧ユーゴスラヴィアの版図からクロア > チア、スロヴェニアまでバルカンに含められているようですが、 すみません、「柴田」さんじゃなくて、「柴」さんでした。どうて勘 違いしたんだろう (^.^;)ゞ?(僕はよくこういううっかりミスをしま すので、ご容赦を (^^;)。)
372 :
世界@名無史さん :01/10/25 14:40
>>369 ハンガリーがなぜちっともイスラム化しなかったかは確かに不思議ですね。
私もそっちが専門というわけではないので、推論でお答えします。
まず、ハンガリー人イスラム教徒が全くいなかったわけではありません。
所謂「デヴシルメ」でもって宮廷や軍に入り改宗した人々がいます。
また、強制ではなく改宗した人々もいるにはいたようです。
たとえば、ペーチ出身の歴史家ペチェヴィー・イブラヒムとか、
トランシルヴァニア出身でイスラム史上初めて活版印刷を始めた
イブラヒム・ミュテフェッリカなどが知られています。
ところが、以上挙げたような人々はみんなイスタンブールに行っていて、
「オスマン人(トルコ人、ではありません)」に混じり込んでいるから、
おそらくその子孫はハンガリーに残らなかったのだと考えられます。
逆にいえば、バルカンのうち旧ユーゴやアルバニアにイスラム教徒が多いのは、
土着の農民層に(土着のままの)自発的改宗者が出たために、
イスラム教徒が残ったのだと言えます。
ではなぜハンガリーでは農民層に改宗者が出なかったのか?
うーん、なんででしょう。(笑)
支配者としてのイスラム教徒の流入が少なかったこと、
オスマン支配下にあった時代が比較的短かったこと、
などが考えられるかもしれません。
あるいは、「バルカン」のオスマン領諸地域では
キリスト教徒の貴族階層は消滅してしまうのですが、
(なぜ消滅したかは議論の余地があります)
ハンガリーではハプスブルク支配地域に逃れたり、
トランシルバニア公国(オスマン宗主権下で存続していた)に逃れたり、
あるいはオスマン支配を受け入れたりして、
貴族が消滅しなかったことも関係あるのかも。
>セルビア人やクロアチア人、アルバニア人の間には
>イスラム教徒も多いようですから
セルボ・クロアート語を話すイスラム教徒たちは
とうとう「ボシュナク人」というひとつの民族になってしまいましたけどね。
現代において言葉だけでなく宗教でもって民族を分けた結果として、
興味深い事例になってしまったんじゃないでしょうか。
>ギュル・ババ
この名前、知りませんでした。
トルコ語でギュルは「薔薇」、ババは「父」ですから
おそらく「薔薇好きのとっつぁん」ってあだ名でしょうね。
>372 :世界@名無史さん
楽しい話になってきましたね (^^)。
>>369 > まず、ハンガリー人イスラム教徒が全くいなかったわけではありま
> せん。
それはそうだと思っていました。
> また、強制ではなく改宗した人々もいるにはいたようです。
ちょっと言葉は悪いですが、イスラムは“感染力”が強いですから
ね。でも、イスラムもキリスト教も言っていることはほとんど同じな
のに、どうしてこうもイスラムは人気が出るのでしょう? 今でも米
国では特に黒人の間でイスラムがどんどん普及しているようですが、
僕には謎です。(あ、宗教学も専門外ですので (^^;)!)
> たとえば、ペーチ出身の歴史家ペチェヴィー・イブラヒムとか、ト
> ランシルヴァニア出身でイスラム史上初めて活版印刷を始めたイブ
> ラヒム・ミュテフェッリカなどが知られています。
元の世俗名(ハンガリー人名)はなんだったんでしょうね?
> ところが、以上挙げたような人々はみんなイスタンブールに行って
> いて、「オスマン人(トルコ人、ではありません)」に混じり込ん
> でいるから、おそらくその子孫はハンガリーに残らなかったのだと
> 考えられます。
なるほど!
> 逆にいえば、バルカンのうち旧ユーゴやアルバニアにイスラム教徒
> が多いのは、土着の農民層に(土着のままの)自発的改宗者が出た
> ために、イスラム教徒が残ったのだと言えます。
>
> ではなぜハンガリーでは農民層に改宗者が出なかったのか?
>
> うーん、なんででしょう。(笑)
ハンガリーの方が国家の仕組みが強かったのかも? それから、ハ
プスブルク家はカトリックの守護者を自任していましたから、もしか
すると、ハンガリーのトルコ占領地域を解放したあと、猛烈な再改宗
政策を実施したのかもしれませんね。でも、もしも、そうであった
ら、通常の(高校程度の)ハンガリー史の授業でも言及がありそうな
ものだけど...。
[続く]
>372 :世界@名無史さん [続き] > 支配者としてのイスラム教徒の流入が少なかったこと、オスマン支 > 配下にあった時代が比較的短かったこと、などが考えられるかもし > れません。 150年は短くはないですが、バルカンと比べると圧倒的に短いです よね。しかもハンガリー王国とトランシルヴァニア公国がすぐ隣に あったということも大きかったかもしれませんね。言わば東西両ドイ ツのような関係かも?(とは言え、当時は国民国家ではなかったわけ だから...。) > あるいは、「バルカン」のオスマン領諸地域ではキリスト教徒の貴 > 族階層は消滅してしまうのですが、(なぜ消滅したかは議論の余地 > があります)ハンガリーではハプスブルク支配地域に逃れたり、ト > ランシルバニア公国(オスマン宗主権下で存続していた)に逃れた > り、あるいはオスマン支配を受け入れたりして、貴族が消滅しな > かったことも関係あるのかも。 消滅しなかったようですねぇ。不思議ですねぇ。ま、オスマンもそ れを認めていたようですが...。もしかすると占領された時代の差か も? ハンガリーがオスマンに占領された頃はもうオスマンの全盛期 を過ぎていましたからね。政策も変わったのかしら?(オスマンのこ とは全く知りません。) あとトランシルヴァニアの地位ですが、日本では一般的にトルコの “属領”のように理解されているようですが(一部の日本で刊行され ている世界史地図ではトランシルヴァニアはオスマン・トルコとして 存在すらしない (^^;)。同様にドイツ史系の世界史地図を見ると、ハ ンガリー全土はオーストリアになっていて、ハンガリーは存在しない (^^;)。)、個人的には恐らく、旧ソ連東欧圏時代の東欧諸国のよう な位置づけだったのではないかと想像しています。社会主義時代のハ ンガリーもそうでしたが、外交問題ではソ連と協調しても、独立性は 非常に強かったと思いますよ。トランシルヴァニアにオスマン軍の進 駐もなかったようですし。だから上限関係のある“同盟関係”(言わ ば今の日本と米国の関係のようなもの?)なんじゃないのかしら? 実際にトランシルヴァニアの国内史や外交史を見てもそう思えるので すが。ここら辺は当時のトランシルヴァニア史を研究されている方の ご説明があると助かりますね。 [続く]
>372 :世界@名無史さん [続き] > しい坊> セルビア人やクロアチア人、アルバニア人の間には > しい坊> イスラム教徒も多いようですから > > セルボ・クロアート語を話すイスラム教徒たちはとうとう「ボシュ > ナク人」というひとつの民族になってしまいましたけどね。 > > 現代において言葉だけでなく宗教でもって民族を分けた結果とし > て、興味深い事例になってしまったんじゃないでしょうか。 本当に僕らの目の前で1つの新しい民族が成立したわけですから、 感慨深いものがありました。 > しい坊> ギュル・ババ > > この名前、知りませんでした。 > > トルコ語でギュルは「薔薇」、ババは「父」ですからおそらく「薔 > 薇好きのとっつぁん」ってあだ名でしょうね。 そうだと思います。ハンガリー人からは愛されている存在です。
376 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/10/25 23:47
しい坊さま トルディについてはそういう英雄もの物語があることしか知りませんでした。 キニジ・パール将軍についてもちょっとだけ知ってる程度です。 なんせ日本で出ている本と英語の本をちょろちょろ読む程度なもので・・・。 お時間のあるときで結構ですのでよろしくお願いいたします。 >ギュル・ババ 霊廟が今ものこされてますね。また確かブダの丘にトルコ兵の墓も残 っているそうですね。とことん嫌っていたら根こそぎ破壊しそうなも のですが、どうもそうではなさそうなところが興味深いです。 ハンガリー人ついでですがコンスタンチノープルの城壁を破壊した巨 砲の製作者もオルバンかウルバンという名前のハンガリー人だったそ うですね。
間違えてしまいました。>370で遷都したのはブラチスラヴァでした。
378 :
372の名無しさん :01/10/26 14:40
>>373 しい坊さん
>元の世俗名(ハンガリー人名)はなんだったんでしょうね?
うーん、そういうことについては資料がなくて、よくわからないです。
ただ、イブラヒム・ミュテフェッリカは、
若いころはキリスト教の聖職者だったと言われています。
>それから、ハプスブルク家はカトリックの守護者を自任していましたから、
>もしかすると、ハンガリーのトルコ占領地域を解放したあと、
>猛烈な再改宗政策を実施したのかもしれませんね。
ありえますね。
「解放」は1699年とかなり古いですし、
実際にハンガリーを占領したのはカルロヴィッツ条約の何年前だから、
講和条約までの長い戦争中にハンガリーに居られなくなって
オスマン領に逃げて、トルコ人に同化しちゃった人もいたかもしれません。
>消滅しなかったようですねぇ。不思議ですねぇ。
遠隔地だから直接支配が及ばなかったんじゃないですかね。
エジプトやアラビア半島でも土着の貴族的階層は温存されていますから。
(ナポレオンにコテンパンにされたので有名なマムルークとか、
今もクウェートなんかにいるような「首長」のことです。)
オスマン帝国はトランシルヴァニアを
そんなに厳しく支配してはいなかったと思いますよ。
公も、地元の貴族が選挙で決めた者を追認してますし、
ポーランド王を兼ねた公(バートリ・イシュトヴァーン)もいたでしょう。
あんまり無茶な行動してる公(ラーコツィ・ジェルジュ)が出ると
武力で抑え込んでるわけですが…なんだかナジ・イムレみたいですね。
オスマン史ではラーコツィの廃止からオーストリアに奪われるまでは
トランシルヴァニアは属国から属領になったと言ってると思います。
379 :
372の名無しさん :01/10/26 14:44
>ギュル・ババ ちょっと調べてみました。 この人、パシャ(将軍)ではないです。 ベクターシュ教団という神秘主義教団があるんですが、 ギュル・ババはそこに属する戦士。 神秘主義教団というのは言ってみれば修道会みたいなもので、 中でもベクターシュはキリスト教と教義の類似点が大きいと言われています。 メフメト2世の時代、つまり15世紀後半にバヤズィド皇子と親交があり、 このバヤズィドが次のスルタンになると、 イスタンブルに招かれてオスマン宮廷に仕えることになりました。 そのときに、このギュル・ババがスルタンに献策して、 イェニチェリの新兵のための学校(ガラタ・サライ)を作りました (おかげでイェニチェリはベクターシュ教団と深い関係を持つことになります)。 こうして軍隊で「ババ(父)」として敬愛を集めた彼はずいぶんと長生きして、 バヤズィドの孫であるスレイマン1世の時代まで活躍します。 1541年、スレイマンはハンガリー遠征に向います (ようやく話がハンガリーにやってきました)。 ギュル・ババはこれに従軍、そしてオスマン軍はブダに囲みます。 このブダ攻略の戦いで、ギュル・ババは戦死を遂げました。 軍中の敬愛を集めていた彼の死はスルタン以下をおおいに悲しませ、 ブダ郊外に盛大な墓廟を建立して彼に報いました…。 宗教関係の人なのでちょっと伝説的ですが、 トルコではこのような人物として記憶されているようです。
380 :
世界@名無史さん :01/10/26 16:37
381 :
世界@名無史さん :01/10/27 22:29
オーストリアの ブルケンラント州も ハンガリー王国だったような… 音楽家ハイドンの殿様 エステルハージ家の領地。 マジャール語は、どのていど残ってるのでしょう?
>381 :世界@名無史さん > オーストリアの ブルケンラント州も ハンガリー王国だったよう > な… はい、ブルゲンラント州は 1920年に人為的に作られた、オースト リアでは最も新しい州です。本来ならば州都になれるような都市は ショプロン市(エーデンブルク市)位しかなかったのですが、協商国 側の嫌がらせで、ドイツ人住民が多数派のショプロン市はハンガリー 領に留め置かれました。その結果、キシュマールトン(アイゼンシュ タット)市が州都になりました。 > 音楽家ハイドンの殿様 エステルハージ家の領地。 エステルハージ家の城は確かにブルゲンラント州に残っています ね。大学の方言採集旅行の時に行ったことがあります。(エトヴェ シュ・ロラーンド大学のハンガリー語ハンガリー文学科では毎年春学 期に“国境外のハンガリー語方言採集旅行”が、秋学期に“国内のハ ンガリー語方言採集旅行”がありました。) > マジャール語は、どのていど残ってるのでしょう? 一番ハンガリー人人口が多いのがエールシェーグ地方のフェル シェーエール(オーバーヴァルト)村ですね。ブルゲンラント州全体 でハンガリー人人口は8千人位だったかしら?
しい坊さん戻ってこられて良かった。フィウメへの当時の國民感情、の辺りから何か荒れて きてしまったので、ちょっと悲しかったのです。
384 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 :01/10/30 22:18
ところで、パンノ二ア定住当時のマジャール人が、 コーカソイドだったのかモンゴロイドだったのか、 その中間ないし混血だったのかは、当時のマジャール人の 骨格や(頭髪や骨から採取される)DNAで判らないのでしょうか?
385 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 :01/10/30 22:45
そういえば、ロシアのウゴル系民族モルドビン人も、 もろ白人だからねぇ。因みに、モルドビン人はロシア正教徒。
>384 :【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋さん > ところで、パンノ二ア定住当時のマジャール人が、コーカソイド > だったのかモンゴロイドだったのか、その中間ないし混血だったの > かは、当時のマジャール人の骨格や(頭髪や骨から採取される) > DNAで判らないのでしょうか? DNA鑑定は今では多分やっているのでしょうねぇ。僕の留学して いた時代には、専ら当時の墓から出てきた骨格の形質人類学的評価し かありませんでしたが...。 僕が習った範囲では(今は変わっている可能性もありますが)マ ジャル族の墳墓を調べた結果では、高貴な人々の骨はシノイド (sinoid) で、平民の骨格はエウロポイド (europoid) だったそうで す。つまり、支配階級がモンゴロイド(それも漢民族に近い)で、住 民の多数派は(すでに当時においてさえ)白人だったようです。
377 :梵阿弥さん > 間違えてしまいました。>370で遷都したのはブラチスラヴァでし > た。 確かに、現在のスロヴァキア共和国の首都になっているブラティス ラヴァ市は、19世紀にはハンガリーの国会のあった所で、ハンガリー の立法上の首都でもあったわけです。 ちなみに、ハンガリー語ではポジョニュ市と言いますが、ドイツ語 ではプレスブルク市で、元々はドイツ人が住民の多数派だったのでは ないかしら? 次に多かったのがハンガリー人で、当時、果してスロ ヴァキア人がいたのかどうか...。現在のスロヴァキア語の“ブラ ティスラヴァ”は1918〜1920年頃に、「むかし、ここら辺にブラティ スラヴァという町があったらしい」という伝説に基づいて命名された ようで、後日、全然別の場所からブラティスラヴァの遺跡が発見され たということを聞いたことがあります(真偽のほどは定かではありま せん)。どちらにせよ、現在のスロヴァキア共和国の首都のブラティ スラヴァ市は、チェコスロヴァキアが建国されるまではスロヴァキア 人達は“プレシュポロク”と呼んでいました(当然語源はドイツ語名 のプレスブルクだと思います)。 なお、現在の西ハンガリーである地方をハンガリー語ではドゥナー ントゥール(ドナウの彼岸。ラテン語訳は Transdanubia)と呼んで いますが、通常の解釈ではドナウ川が南北に流れる地域(首都ブダペ ストのある地域)から見て、「ドナウ川のあちら側」と解釈するのが 自然ですし、ハンガリーでも一般的にはそう説明されていますが、実 は、首都のあったポジョニュ(ブラティスラヴァ)から見てドナウ川 のあちら側、すなわち南岸という意味でそういう名前が付いたのだと いう説も聞いたことがあります。真偽は定かではありません。
>388 ちなみに、どなたかお詳しい方に是非ともご教示願いたいのです が、“スロヴァキア人”といった民族意識や“スロヴァキア”という 地域意識が形成されるのはいつ頃なのでしょうか? 歴史上、スロ ヴァキアという国家が存在したことは1920年(←確立した年。宣言は 1918年)までは1度もなかったわけですから。 “スロヴァキア人”という呼称自体は1458年には登場しているらし いですが(ハンガリー語における初出は1828年です)、これが今のス ロヴァキア人を指すものかどうかは不明なようです。スロヴァキア人 というのは、西スラヴ人が居住していた地域にハンガリー王国が、彼 らを分断する形で成立し、一千年間ハンガリー王国内に居住している 内に(つまり、それぞれが別々の国家に居住するうちに)段々と周辺 の他の西スラヴ人とは区別されるようになって成立したものだと理解 しているのですが...。確か、スラヴ人達の間でも、まだ19世紀頃に はスロヴァキア人という独自の民族が成立するのか、それともチェコ 人やウクライナ人の中の単なるエスニック・グループに過ぎないのか といった議論がされていたように認識しています。(誤解があるかも しれません。)スロヴァキア人という呼称が現在のスロヴァキア人を 意味するようになったのはいつからなのか、また、スロヴァキア人が スロヴァキア人(という、他の西スラヴ人とは異なる民族だという) 意識を持ったのはいつ頃なのか。非常に興味があります。スラヴ関係 は全く専門外なので、詳しくないのです。
390 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 :01/11/01 20:37
>しい坊さん ありがとうございます。平民は先住のスラヴ人に限らず、 マジャール人を含めてですよね?
>390 :【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋さん > 平民は先住のスラヴ人に限らず、マジャール人を含めてですよね? ...と言うか、この墓の発掘の場合はマジャル人の墓のみのことだ と思います。つまりマジャル人の平民 (?) の人種構成です。先住民 族のスラブ人とマジャル人の場合は集落とか副葬品等から区別できる はずですから。(もっとも考古学も僕の専門ではありませんので、記 憶違いという可能性もありえますが。) ハンガリー人の場合は最初から騎馬民族としてカルパチア盆地に侵 入してきたということがわかっているために、民族史観としてもハン ガリー人の先住性を主張する必要もなく(cf. ルーマニア人のダキア =ローマ史観)、民族的利害が関っていないこともあり、ハンガリー の考古学は比較的客観的だと考えてもいいと思います。実力的にも 敦煌発掘のシュテイン・アウレール(サー・オーレル・スタイン卿) やチベット潜入のセーケイ人、ケーレシュ=チョマ・シャーンドル (アレクサンダー・チョマ)等を輩出しているわけですから...。 なお、カルパチア盆地に征服定住したマジャル人の人口と、すでに カルパチア盆地に定住していたスラヴ人の人口に関しても諸説ありま す。僕の記憶では征服定住したハンガリー人の数は13万人〜30万人程 度だったようで、当時はカルパチア盆地には専ら(どこの国家にも所 属しない)スラブ人(の農民と牧畜民)が居住していたものの、その 人口は意外と少なかったのではないかと想像されております。何しろ 後からやってきたマジャル人がスラヴ語化されずに、先住民たちがハ ンガリー語化されてしまったこともありますし...。 ちなみに、謎と言えば、19世紀末はまだペシュト・ブダの住民の圧 倒的多数はドイツ人で、ドイツ語が母語だったのに、20世紀になると ドイツ語を母語とするブダペストの住民はほとんど消滅してしまって いたことです。ドイツ人の方が先進民族ですから、通常は彼らがハン ガリー人に同化するとは考えにくいのですが、約半世紀程の極めて短 い間に言語的にはドイツ語を母語とする住民は(ブダペストにおいて は)全く消えてしまっています。
>365 :【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋さん > ハンガリー人はムスリムになりなさい。 なぜでしょう?
某板から来て一気読みしました。(治安の悪いスレからなのでキャップ付き) 痛いレスが真ん中あたりに・・・・・・読みにくい(難解)論にはついていけませんね。 歴史学の本を丸暗記しただけの人のようでした。 何で分かり易く書けないかな?簡単なのに・・・・と思ってましたよ。 もう少しロムしてから書き込みます。色々と知りたいこともありますし
394 :
世界@名無史さん :01/11/02 21:11
いきなり現代史ですが、ライク・ラースローについて詳しい人いたら教えてください。 経歴とか。 参考文献などもあればキボンヌ
395 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 :01/11/02 23:06
>しい坊さん なるほど。同じマジャル人でも、支配層がモンゴロイドまたは それに近い人達で、被支配層はコーカソイドまたはそれに 近い人達だったというのは面白いことです。 私も、マジャル人が先住のスラブ人と大規模な混血の 結果、コーカソイド化したのであれば、マジャル文化ことに 言語が失われていたと思います。また、マジャル人とスラブ人 とでは鼻の形も違いますし。 マジャル人の王侯貴族(当初は部族長とその家族)もキリスト教化・ 農耕化の過程で、他国の貴族・王族や平民と結婚してコーカソイド化したの ですかね。 ムスリム云々は何の意味もございません。
396 :
世界@名無史さん :01/11/03 02:19
オーストリア ハンガリー 帝国の成立について 詳しくおしえてください。
394 :世界@名無史さん > いきなり現代史ですが、ライク・ラースローについて詳しい人いた > ら教えてください。 > 経歴とか。 > 参考文献などもあればキボンヌ ライク・ラースローについては詳しくないですね。きっとここの読 者には詳しい方がいらっしゃるはずですが、多くの研究者はROMを 決め込んでいらっしゃいますからね (^◇^;)。 ライク・ラースローはスターリン主義時代のでっち上げ裁判の犠牲 者で、ある種の英雄的な人物とみなされていますが、実態は、共産党 が政権奪取した当時の内相であり、しかも確か強烈な反ユダや主義者 でもあり、それ程誉められた人物ではなかったのではないかと思いま す。1956年のハンガリー動乱の責任を取らされて処刑された“正統政 府”のナジ・イムレ首相と並んで悲劇のヒーローとされていますが、 ナジ・イムレにしても、共産党の政権奪取当時は(『貧窮問答歌』を 髣髴とさせる)徴発大臣として農民弾圧・収奪の責任者でしたから、 彼もそんなに偉い人物ではなかったのではないかな。だいたい国内が 混乱する中でソ連によって事態収拾のために首相にされた人物でもあ りますからね。本来はモスクワ派だったのでしょう。チェコ事件の時 のドゥプチェク書記長と同じで、本来は保守派だったのが、民衆の革 命的動きをコントロールできなくなり、その内、自分もそれらに流さ れ、事実の事後追認を続けているうちに、自分が革命の推進者だと思 い込んでしまったことに悲劇があるのだと思います。単に2人とも、 最終的には処刑されたことで、殉教者として英雄に祭り上げられただ けではないのかしら。 ライク・ラースローは無実の罪で処刑されたということで1956年以 降は名誉回復されたわけで、その息子は1980年代ハンガリーを代表す るサミスダットの出版に従事しておりました。サミスダットと言う と、過激な地下出版物というイメージが作られていますが、実際は、 単に文部省の出版監理総局から定期刊行物としての登録をしていな かっただけで、中には「新しい定期購読者名簿」とか「販売場所」と がちゃんと公開されており、サミスダットという言葉を使ってしまう とイメージだけが先行してしまう恐れがあります。時々、ガサ入れを されて、嫌がらせをされていたようですが(編集部員が殴られたとか いう噂もありました)、所詮はその程度で当局からは黙認されていた ようです。やはりスターリン主義時代に不当に処刑されたライクの息 子ということで、当局も手を出しにくかったのでしょうし、息子の方 もそれを意識して利用していたようです。体制が転換してから、なぜ か雨後の筍のように「共産主義時代には自分らは地下活動をしてい た」と主張する人物やら団体らが登場してきましたが、実際は社会主 義時代のハンガリーには地下活動と言えるものは存在していなかった と思います。(理由は地下に潜る必用がなかったからですが。)
396 :世界@名無史さん > オーストリア ハンガリー 帝国の成立について > 詳しくおしえてください。 これに関しては日本語でも多くの専門書が出ていると思いますよ。 手軽なものでは恒文社から出ている『ハンガリー史』(2巻本)、そ の他がありますが。この掲示板では、そういう物を読んだ後で、個別 的な疑問等についてご質問なさったほうが効率がよろしいのではない でしょうか? 「オーストリア=ハンガリー二重君主国」皇帝を元首とするオース トリア“帝国”と国王を元首とするハンガリー“王国”の連邦国家 だったので“君主国”と呼ばれているわけですが、それの形成にあ たっては1948年三月革命の指導者であったコシュート・ラヨシュ (コッシュートではない)の「ドナウ連邦構想」が影響を与えていま すが、コシュートがドナウ連邦構想を打ち出したのには、その前に ルーマニア人のバルチェスクがハンガリーとトランシルヴァニアとモ ルドヴァとワラキアによるドナウ連邦構想をコシュートに提案したこ とが叩き台となっています。コシュートはバルチェスクの提案をにべ もなく拒否したのですが(ハンガリー革命政府はオーストリアに対し て独立闘争を行うと同時に、ハンガリー国内における少数民族による 革命蜂起を鎮圧しています)、革命の雲行きが怪しくなったときに、 慌てて焼き直しのドナウ連邦構想を国内の少数民族たちに提示したの ですが、もはや誰からも相手にされなかったのでした。しかし、それ がオーストリア=ハンガリー二重君主国の実現にあたっては影響を与 えていたはずです。で、第二次世界大戦後、オットー・ハプスブルク (ハプスブルグ・オットー)等が欧州統合を推進し、現在のEU等に も繋がっていると言われていたと思います。
:【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋さん > なるほど。同じマジャル人でも、支配層がモンゴロイドまたはそれ > に近い人達で、被支配層はコーカソイドまたはそれに近い人達だっ > たというのは面白いことです。 アールパードにより率いられ、カルパチア盆地に征服定住したマ ジャル人たちは7つの部族からの連合体だったと言われていますが、 実際にはマジャル人以外の部族も含まれていたようです。 > 私も、マジャル人が先住のスラブ人と大規模な混血の結果、コーカ > ソイド化したのであれば、マジャル文化ことに言語が失われていた > と思います。また、マジャル人とスラブ人とでは鼻の形も違います > し。 ユーラシア大陸の人種分布を見ると、単純化して言えば、東に行け ば行くほど黄色人種度が増し、西に行けば行くほど白人種度が増して います。この人種の遺伝子の大海は余りにも広大なために、民族移動 があっても、マクロ的に見ると、その地域の人種の遺伝子に呑み込ま れてしまっているようです。ですから、ウラルの辺りからハンガリー 人の先祖が西方に移動を始めた時には、ハンガリーに入ってから初め て白人化したのではなく、その時その時に滞在していた地域の人種に 同化しつつ移動していったと考えた方がいいかもしれませんね。マク ロ的に民族移動のアニメを作ってイメージ化してみると、人種という ハードはそのまま、その人種のハードの上を言語というソフトだけが 滑って移動していると見たほうが実態に合っているのではないかと考 えています。 > マジャル人の王侯貴族(当初は部族長とその家族)もキリスト教 > 化・農耕化の過程で、他国の貴族・王族や平民と結婚してコーカソ > イド化したのですかね。 やはりハンガリーが民族存続のために欧州の制度を導入し多段階 で、急速に欧州の支配階級の血に同化して行ったことと思います。前 に話題になったロックオペラ『国王イシュトヴァーン』はドイツ人の ギゼラとの結婚式の場面で始まりますからね。
>>355 言語学で「諸語」と言えば、似ているものの交流によるものかも知れず、系統が同じとは証明
されていない言語郡、と言った意味なのでしょうね。迂闊でした。私はあらゆる意味で専門家で
ないので漢字本来の意味を組み合わせて使ってしまったのです。…マジャル語群とでもして
おけば良かったでしょうか。なんか険悪になっていたのでついおせっかいを企てまして。
401 :
熱海政府と軽井沢政権 :01/11/15 19:37
イタリアのポルノ女優で国会議員になったチチョリーナってハンガリー人でしたよね?
402 :
世界@名無史さん :01/11/18 00:59
>401 その話は以前に出てましたが・・・・。 ハンガリー人だそうです。
403 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/11/20 00:10
しい坊さま ロックオペラのCDを複数枚購入してきました。 友人どもを洗脳してやりまする!! 最近ポーランドの歴史映画で「パンタデウシュ」が上映されましたが ハンガリーの歴史物の映画ってビデオですら日本に入りませんね。
404 :
世界@名無史さん :01/11/23 18:30
age
405 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/11/24 20:41
しい坊さまがいらっしゃらないとどうしようもない・・・。 ベーラ3世の頭骨から顔を復元したものが本に出てましたが、アジア人顔と いうのでもないし、なんかよく漫画で見るスペインの王様みたいな感じです ね。 アルバ・ユリアの大聖堂でフニャディ家の棺を見ましたが、戦前に徒歩旅行 をしたイギリス人の記録だと地下の納骨堂に収まっていたはず。その本だと 他のトランシルバニア候の棺も収められていると書かれていたのだけれど、 ルーマニア系のフニャディ家のもの以外はどうなったのか気になります。 地下にそのままあるなら問題ないのですが・・・。 オラデア(ナジバラード)にはラースロー1世のお墓があるはずなんですが これもどうなったのやら・・・。
406 :
世界@名無史さん :01/11/27 03:02
>>401 >>76 チェコ人シルヴィア・セイント(ポルノ女優)にハァハァ
これわかる俺ってネットポルノ中毒なのか
407 :
世界@名無史さん :01/11/27 15:17
いずれにせよ、東欧人と日本人は血がつながっているのは本当らしい。 東欧人にも蒙古班があるそうだし。
408 :
世界@名無史さん :01/11/28 00:09
マリー・アントワネットの側近にエステルハ−ジ姓の人物がいますが、これって あのハイドンのパトロンのエステルハ−ジの一門の人間ですか?
409 :
【^▽^】東夷ジョーカー@穢土 :01/11/28 00:36
ハンガリー人とチェコ人はポルノ業界で大活躍!
410 :
世界@名無史さん :01/11/28 01:49
デカプリオ!!映画の歴史ね。
411 :
世界@名無史さん :01/12/03 23:57
>407 東欧人はというよりマジャール人の一部には現在も蒙古斑が見られる というのが正しいのでは。
>>405 昔のお札で、キヨソネの描いた神功皇后の絵がありますが、白人ぽいです。見たこと無い
人を描くときは画家の出自も影響するようです。
413 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/12/05 22:51
梵阿弥さま それはあるかも知れませんね。逆にマジャール人の昔の生活の復元図で 西洋人からみた中国人の姿そのものというような図も見たことがあります。
414 :
世界@名無史さん :01/12/09 17:31
>405 しい坊氏以外に答えることが出来る人はないのかなぁ・・・・。
415 :
世界@名無史さん :01/12/12 17:00
>405 「ベーラ3世の頭骨から顔を復元したものが本に出てましたが、」という のはなんという本に載っていたのでしょうか?
416 :
世界@名無史さん :01/12/12 18:00
あのぅ、オスマン帝国に入ってた方のハンガリー王国の王位は誰が持ってたんでしょうか?もしかしてスルタンが兼ねてたとか?
417 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/12/12 23:34
>415 ハンガリーで出版されている本です(小冊子のようなもの) 「KINGS&QUEENS OF HUNGARY PRINCES OF TRANSYLVANIA」 CORVINA出版 英語・独語・フランス語・ハンガリー語版があります。 >416 半可通の説明で申し訳ないのですが・・・。 トルコは当初は対立王であるサポヤイ・ヤーノシュを王 ととして支援していました。 彼の息子のヤーノシュ・ジグモンドの代にハプスブルク 家の攻勢を受け、トルコの来援を請うた際、トルコ軍は 国の中央部を占拠し、これ以降、ハンガリー領がハプス ブルク・トルコそしてトルコ保護下のサポヤイ家の3分 割状態になるわけです。その後ヤーノシュ・ジグモンド はハプスブルク家との協定でハンガリー王の称号を辞し てトランシルバニア公兼ハンガリー分離地区宗主の称号 を得ています。トルコの支配地域については王位という ものは基本的に誰も称していないはずです。 専門の方の解説をお願いいたします。
418 :
プリンツ・オイゲン :01/12/12 23:53
正統な王位はハプスブルク家のものだったYO!
419 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/12/13 09:58
>418 はい、正統の王位はラオシュ2世の戦死により、ハプスブルク家のフェル ディナンド1世のものでした。で、対立王と書いたわけです。 これはハプスブルク家とヤゲヴォ家の協定によるものです。 一方、サポヤイは外国人統治者の選出を除外する「ラーコシュ原」の決議 というものを根拠にして王を称しているわけです。 この決議自体、ヤゲヴォ家の先代のヴワディスワフ(ウラースロー1世) の時代に当時の副王サポヤイ(サポヤイ・ヤーノシュの父)が中小貴族を 先導してブワディスワフの退位とサポヤイの即位を要求させた結果、妥協 の産物として出来たものだそうです。
皆さんを博識兼良識な方々と見込んで質問があります。 ハンガリーの民話・伝説を読んでいて思ったのですが彼の国の妖怪にはどんなものが いるのでしょうか。また関連書籍についても知りたいのですが。
> 132 > 共産党の一党独裁を支持するものではありませんが(というか、一 >党独裁には絶対反対)、1990年にハンガリーで起こったことを“民主 >化”と呼ぶことには反対です。客観的に“体制転換”とか“政権交 >替”という用語を使うべきだと考えています。“民主化”という用語 >は予断を与えます。 同感です。ハンガリーの体制転換過程を理解していればチェコや東独と比べ物にはなりません。 > むかしの社会主義時代のハンガリーを知っている人ならわかってい >ることですが、1960年代以降ハンガリーの共産党(ハンガリー社会労 >働党)は率先してハンガリー社会の民主化を進めてきていました。す >でに 1968年に市場経済を導入していますし、1970年には選挙の複数 >立候補制を導入しています。そして 1989年に東欧圏が次々と民衆の >抗議運動で崩壊して行く中、ハンガリーだけは共産党自らが自発的に >ハンガリー社会労働党を解党し、新たにハンガリー社会党を組織し、 >自発的に国民に“大政奉還”をしたものでした。 ちょっと読者のかたがたに誤解を与えそうな記述です。これについて異論がありますので問題を提起させていただきます。 1.1970年代の複数立候補制はあくまで「複数政党制」ではありません。ハンガリー社会主義労働者党(以後MSZMP)の意向 を反映した候補者が複数出馬してきたからといって「民主化である」とはいえないのでしょうか。同様の例はハンガリー に限ったことではありません。結局反体制党は生まれませんでした。(だから体制党が改革を独占できた) 2.1968年の新経済メカニズムの導入では個人営業の自由という観点からは評価できるがこれは何も民主化を主眼としたもの ではなく、経済的な効率性を優先したものである。その結果は官僚主義の弊害と無理解から失敗に陥り、対外債務が増大 した。政府は国民の要求する西側並の生活・消費水準を維持するため、これ以後多額の負債を抱えることになる。 3.MSZMPは自発的に民主化を率先したのではなく、自己の権力保持と社会主義経済システム(先の経済改革も含めて)の破綻 をうけて、解体を余儀なくされたのである。しかも保守派の頑強な抵抗とともに分裂した。 4.しい坊さんは「大政奉還」といわれるが、徳川慶喜はこれによって名(幕府将軍職)を捨てて実(無傷の洋式軍隊と最大の領地) を手にする戦略であっただけのこと。来るべき自由選挙をひかえ、自己の権力基盤を保全するには時流にのった政策を採るのが合理的でしょう。 「大政奉還」の意味を「旧権力者による権力維持の苦肉の策」と解すれば駿府への蟄居を余儀なくされた最後の将軍とポジュガイの扱いは仕方がない でしょう。 (私は個人的に同氏に対しては後述の政治家よりは高い評価を置いています。) 5.国民を民主化へ先導して大政奉還をおこなった人々。 Nemeth Laszlo(首相):56年動乱について、「最初は人民蜂起であったが、後に右翼暴動へと転化した」と発言。 Horn Gyula(外相、後に首相):56年動乱時に労働者防衛隊(共産党武装組織)の一員として西駅周辺の一般市民との間に おきた銃撃戦に参加。現在この件について法廷に証人として出席を余儀なくされる。 6.ホルン社会党政権下では旧体制時代の党組織に関する情報の開示を禁止する法律が制定されました。この情報が全面的に開示 されれば民主化へと国民を導いた体制党の人々でお困りの方がいるはずでしょう。 >1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは今の日本のマスコミで >は到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありま >した。 共産主義体制のガス抜きプロパガンダであるとどうして理解されなかったのでしょうか? ラジオ局は国営です。責任者は党の幹部、少なくとも息のかかった人間です。体制側がより 多くの国民の支持を得ようとします。とくにハンガリーのような動乱を経験した国ならば権力 者が国民に対してソフトに立ち振る舞うのは当然です。自己の管理下で自己批判をやらせるのは パターナリステックな権力機構の常套手段です。同時期のハンガリー映画にもよく青年たちの逸脱行動、 家族問題、権力への反抗、国民の遠慮のない政治討論シーンが出てきます。 しい坊さんは身をもって体験されているのが他の人にない強みです。反論もあわせてご意見お聞かせください。
422 :
ELET学生 :01/12/18 00:30
ハンガリーにもう1年以上留学してますが、観光するのと住むのとはやはり随分違うと感じます。 ハンガリーでも観光地はすごくきれいですがそこを外れるとすごく汚い場所が多いです。 しかし逆に観光地だけみて帰るのは、主に王制時代にできた歴史的建築物などが中心になるので まさにハンガリーの歴史と伝統の史跡めぐりとなり非常にすばらしい思い出になると思います。 もしハンガリーもオーストリアのように共産主義化されなければウイーンのような全体的にきれいな町 になっていたことを考えるとソ連共産主義が与えた影響は非常におおきいと感じます。 また共産主義時代はまともに外国旅行もできなかったり、秘密警察がいたりと さまざまな自由の制約があったことを知り非常にショックを受けました。 しかしついに真の自由を手に入れたハンガリー人に今は祝福を贈りたいと思います。 しかしブタペストのBKV(切符検札員)の態度のでかさと無礼さにはいつも腹が立ちます。 共産主義精神が彼らにはまだまだ非常に残っているようですのでハンガリーに旅行にきたときは 皆さん非常にきおつけてください。観光客には何かといちゃもんをつけてきますので。 彼ら盗人と同じですのでからまれたら1500Fをわたして退散してください。 拒否したり抵抗するとBKV直属の警備員を呼んで裏へ連れたりするのできおつけましょう! 罰金もやたら跳ね上がります。彼らポケットに入れてしまいますが。。。 まともな西側の感覚ではまだ接しないほうがいいでしょう! まだ頭の中が共産主義のままの人間もたくさんいますのできおつけましょう! はやくEUに加盟して指導取締りして欲しいものです。 ハンガリーがさらによくなることを祈って!
423 :
世界@名無史さん :01/12/30 00:20
見事に廃墟になってしまった。 滅茶苦茶書いた某氏は目的達成でさぞやうれしかろう。
424 :
世界@名無史さん :01/12/30 00:26
>>422 90年代の半ばにヴィシェグラード諸国を長期旅行したときのことですが、
役人たちが一番横柄で官僚的だったのはハンガリーでした。
チェコも結構それに近いものが。
スロバキアは横柄な人に会わなかったが、やはり官僚的でした。
一番好感度が高かったのはポーランドでした。
ハンガリーについてはかなりアジア的マッチョの国といった
イメージを持っていたのですが、意を強くしました。
最近もブダペストに行きましたが、あまり進歩していないようです。
警察官の信頼度もハンガリーが最低でポーランドが最高でしたね。 ポーランドの警官はちょっとフランクすぎて警戒心なさ過ぎな感じも ありましたが、ハンガリーの警官はこっちのことを初めから犯罪者だと 思ってるのか、いい金づるだと思ってるのか… でもハンガリーは表面をさっとなでるように旅行するなら 満足度の高い国です。チェコと同じ。逆にあんまり長居したくない。
426 :
世界@名無史さん :01/12/30 03:38
>424 私はルーマニアとの国境の係りに悪印象を持ちました。 警官という人種はどこの国でも同じなのか・・・。
>>423 > 見事に廃墟になってしまった。 >滅茶苦茶書いた某氏は目的達成でさぞやうれしかろう。 残念ながらうれしくはないね。まとまりなく一挙に書いてしまったのは こちらの不手際。すまん。端的にまとめるよう努力する。2chビギナーなもので。。 それにしてもしい坊さんはどうしたのだろう。あれだけ自説をのべて後はトンヅラか。。。
428 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :01/12/31 17:49
>ABCさま ハンドル名を変えられたのですか?おひさしぶりです。 上の方でハンガリーの妖怪変化についての質問が出てますがなにかご存知 ないですか? 吸血鬼の類の本を見るとマジャール人にはその手の伝承がないという話が 出てました。あとブダペストに住んでる知人の話だと所謂怪談話というの はないそうで・・・。 歴史や政治をご専門にされておられる方にお聞きする内容かどうかとは思 いますが、もしご存知でしたら。
429 :
世界@名無史さん :02/01/04 19:20
>>391 当時のパンノニアには親フランクのスラブ系政権はあったはず。
当時のフランクは辺境領を創設して東進してた。
なにせブルガリアと紛争起こすくらいだからね。
430 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :02/01/05 02:01
>429 所謂、モラビア王国というやつですか。 ハンガリーの伝説でこの国の王がマジャール人にたばかられて 敗北しドナウ川に入水するという内容のものがあるそうです。
>>430 あ、ごめんごめん。
モラビアもパンノニア領有してたっけ。
俺が言いたかったのはプリビナ公のこと。
そういう豪族層が存在したってことね。
>>375 の言い方だと、(フリースラントやスイスのような)村落共同体しかないみたいな書き方だったから。
あ、あとニトラ公領って何だっけ?
単語だけ思い浮かぶのだが、、、
432 :
世界@名無史さん :02/01/05 04:37
>428 寧ろ豊富だと思ってました。隣国ルーマニアでは今でも狼男の噂が立つそうですし、 吸血鬼なら人口30万人位のアイスランドにもいますし。
434 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :02/01/05 15:37
>429 すみません、たまたまモラビア公についての伝承だけ覚えてい たもので。 プリビナ公もありましたね。 ニトラ公領というのは名前だけは本でみたことがありますが・・。 というより、よろずその程度の知識しかないのです。 >山野野衾さま ハンガリーというよりマジャール人に吸血鬼伝承というのは ないようです。詳しくは「吸血鬼伝承」平賀英一郎 中公新書 をお読みください。 ハンガリー在住の友人の言では所謂怪談話のようなものは聞か ないとのことです。これが一般論かどうかは判断いたしかねま す。
435 :
世界@名無史さん :02/01/05 20:49
ハンガリーの王制って、正式にはいつ廃止されたの? 第1次大戦後は空位とされて、その後は?
436 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :02/01/06 18:22
>435 ハンガリー史の年表で見ると1946年2月1日に共和国宣言が出されている のでこの時にハンガリー王国が正式に無くなったのではないでしょうか。
437 :
世界@名無史さん :02/01/06 22:29
超自然的存在が身近なのはケルト・スラブ・ゲルマンなどもともと 森林地帯に住んでいた人々です。上記には含まれなくともルーマニアも 森林地帯が出自の諸民族を先祖としていますし。夜の森は怖かった。 開けた草原地帯の遊牧民族には森の民ほどには具体的な超自然的存在を 創造しません。
成る程、民話本等読んでいる限りはそうでもなさそうだったのですが・・・ありが とうございます。 言われてみれば、モンゴルや中近東などそうかも知れないという気がします。
439 :
世界@名無史さん :02/01/07 00:56
狼男はもともと古代のスラブ人やバルト人の伝説というか、風習です。 一年のある時期、男達が本物の狼に変身するのです。 ネウロイ人(古代スラブ人の一部族とされる)の人狼の風習について ヘロドトスも言及しています。 ところで、古代の異教時代のマジャール人には現在のモンゴルなどで 見られるオボー(小石やごみを積んだ聖なる塚)の風習の ようなものはありましたか?
440 :
世界@名無史さん :02/01/07 10:43
スレ違いかもしれんが ローマ帝国時代、ドナウ左岸と右岸で別れていましたよね。 それが、ブタとペストになったと思うのですが、この右岸と 左岸で歴史的な差異は現在までなかったのでしょうか?
441 :
世界@名無史さん :02/01/09 08:07
>440 差異って?どんな?
442 :
世界@名無史さん :02/01/10 17:16
もともとスラヴ系とバルト系は同じだったんだよ。
443 :
世界@名無史さん :02/01/11 18:24
スラヴ人はハンガリー人のこと「ウゴル」って呼んでたみたいです。
444 :
世界@名無史さん :02/01/12 01:54
>>442 そうとも言いきれない。
今でもバルト語と古代スラブ語の縁戚関係は学会で承認されていない。
445 :
世界@名無史さん :02/01/12 19:48
446 :
世界@名無史さん :02/01/13 09:51
>401 熱海政府と軽井沢政権さん > イタリアのポルノ女優で国会議員になったチチョリーナってハンガ > リー人でしたよね? 明けましておめでとうございます (^^)。>ALL チチョリーナこと、シュターレル・イロナ女史は、今度はハンガ リーで衆議院選挙に無所属で打って出るつもりのようですね。
>403 :ギシュクラ・ヤーノシュさん 昨年の年末は忙しさに忙殺されており、ご無沙汰いたして おりました (^^ゞ。暫く覗けないでいたら、結構、色々発言が あったんですね。(しかし、まだまだ忙しさからは逃れられそ うもありません...。) > ロックオペラのCDを複数枚購入してきました。 ほう、何をご購入なさったのですか (^^)?(結局、『国王 イシュトヴァーン』を越えるものは出てないような...。) > 友人どもを洗脳してやりまする!! 頑張ってください (^◇^;)。当方は、Apple の MP3プ レーヤーの iPod を手に入れて、さっそく片っ端からCDを入 れましたら、なんと、半日 (!) で、iPod の5GBのハード ディスクが満杯になってしまいました (^^ゞ。1000曲って意外 と入らないものだ...。それにしても、CD1枚のMP3変換が 9分位で終わり、そのデータの FireWire (IEEE1394) ケーブル を介した iPod への転送が1分も掛からないなんて感激です ね。ちなみに、現在、iPod はパンパンですが、『国王イシュト ヴァーン』のCDとコンツ・ジュジャの全CDが入っておりま す (^^)♪(曲名がハンガリー語で表示されるのも感激!) > 最近ポーランドの歴史映画で「パンタデウシュ」が上映されまし > たがハンガリーの歴史物の映画ってビデオですら日本に入りませ > んね。 歴史物だけではなく、ハンガリーの映画はほとんど手に入 りませんよねぇ。(それに最近ではDVDじゃないと買わなく なったし...。)でも、たまにハンガリーの映画が出ても、字幕 を見ると、その酷さ加減にうんざりします。今度、またハンガ リーの映画が1本輸入されそうですが、新日本映画社じゃ、ま たセリフを改竄・捏造するんだろうなぁ...。(間違いよりも質 が悪い...(-_-;)。) (追伸:よろしかったらメールください。>ギシュクラ・ヤー ノシュ様)
4>08 :世界@名無史さん > マリー・アントワネットの側近にエステルハ−ジ姓の人物がいま > すが、これってあのハイドンのパトロンのエステルハ−ジの一門 > の人間ですか? 多分、そのはずです。現代ハンガリー文学を代表する作家 のエステルハージ・ペーテルも確か、エステルハージの公爵家 の直系です。(エステルハージ家には色々な分家がありま す。)彼は、体制転換後、新政府が旧華族の称号の復活を打診 した時に断ったのだそうです。理由は、「貴族の称号なんて馬 鹿らしいし、僕の名前を見れば、誰だって僕が公爵家の者だっ てわかるじゃないか」というものでした(本人談)。彼は電子 メールなどは絶対に持たないと断言していたのですが、とうと う最近、hotmail ドメインのメールアカウントを取得した模様 です (^^)。ちなみに、彼の弟、確か、ラヨシュと言ったかな? 彼は80年代のハンガリーのサッカー界を代表する選手でし た。後にギリシアのチームに移籍しましたけど。確か、リーグ 一部のホンヴェード(国防軍)チームに所属していたんじゃな いかな? エステルハージの小説は日本語でも未知谷(みちたに)か ら出版されています。
>411 :世界@名無史さん > >407 > 東欧人はというよりマジャール人の一部には現在も蒙古斑が見ら > れるというのが正しいのでは。 形質人類学は詳しくはないのですが、“マジャル人の蒙古 斑”については慎重に扱う必要があると思います。 まず「ヨーロッパ人の中ではハンガリー人に蒙古斑の出現 率が非常に高い」という記述ですが、具体的な数字は失念しま したが、例えば、欧州人の場合は平均で1%(←適当です)位 の人間に蒙古斑が出現するのにハンガリー人の場合は6%(← これも適当です)位に出現するので、統計学上有意にハンガ リー人には蒙古斑の出現率が高いと述べているだけで、日本人 のようにほぼ 100 % に蒙古斑が出現するのとは意味が違うとい うことです。 もう1つ大きな違いは、日本人の蒙古斑は非常に鮮やかな 青いあざですが、ハンガリー人の蒙古斑は、「よく見ると、お 尻の部分の皮膚の色が周囲よりも少し濃くなっているように見 えるかも?(ちょっと茶色がかって見える)」という程度のも のを蒙古斑と見なしておりますので、遺伝子的な強さが全然違 います。従って、形質人類学の専門かでもない限り、普通のハ ンガリー人は“蒙古斑”という言葉すら知りません。 つまり、遺伝学的に言えば、確かにハンガリー人のアジア 人的な要素は他の欧州人よりは高そうだが、ほとんど意味がな い程度のレベルの差違ということになるのだと思います。日本 では“ハンガリー人の蒙古斑”が実態以上に強調され、注目さ れ過ぎているように思えます。
>420 :山野野衾さん > ハンガリーの民話・伝説を読んでいて思ったのですが彼の国の妖> 怪にはどんなものがいるのでしょうか。また関連書籍についても> 知りたいのですが。 トランシルヴァニアのコロジュヴァール市(クルジュナポ カ市)在住の民俗学者のナジ・オルガ (Nagy Olga) 女史の著書 で“Hősök, csalókák, ördögök” (『英雄・妖怪・鬼』)(1974) という本があります。確か、ク リテリオン出版 (Kriterion Kiadó/Editura Kriterion) から出版されていたと思います。
452 :
世界@名無史さん :02/01/14 04:57
>421 :ABCさん (1) ABC> > 132 ABC> しい坊> むかしの社会主義時代のハンガリーを知っている ABC> しい坊> 人ならわかっていることですが、1960年代以降ハン ABC> しい坊> ガリーの共産党(ハンガリー社会労働党)は率先し ABC> しい坊> てハンガリー社会の民主化を進めてきていました。 ABC> しい坊> すでに 1968年に市場経済を導入していますし、 ABC> しい坊> 1970年には選挙の複数立候補制を導入しています。 ABC> しい坊> そして 1989年に東欧圏が次々と民衆の抗議運動で ABC> しい坊> 崩壊して行く中、ハンガリーだけは共産党自らが自 ABC> しい坊> 発的にハンガリー社会労働党を解党し、新たにハン ABC> しい坊> ガリー社会党を組織し、自発的に国民に“大政奉 ABC> しい坊> 還”をしたものでした。 ABC> ABC> ちょっと読者のかたがたに誤解を与えそうな記述です。こ ABC> れについて異論がありますので問題を提起させていただきま ABC> す。 ABC> ABC> 1.1970年代の複数立候補制はあくまで「複数政党制」では ABC> ありません。 その通りです。 ABC> ハンガリー社会主義労働者党(以後MSZMP)の意向を反映 ABC> した候補者が複数出馬してきたからといって「民主化で ABC> ある」とはいえないのでしょうか。 もちろん、完全な民主主義ではないですが、やはりこれは 民主化と言っていいのだと思います。ハンガリーではご存じの 通り、すでに1956年にソ連軍の軍事介入を受けて、甚大な人的 被害を受けています。また、1968年にはワルシャワ条約機構軍 がチェコの改革に対して軍事介入しました。ブレジネフは“制 限主権論”というイデオロギーを持ち出してきて、ソ連が兄弟 諸国に反革命が芽生えようとしている時には、兄弟国を救援す る義務と権利があると主張しておりました。そういう国際的な パワーポリティックスの環境の中では全ての改革は慎重に押し 進める必要があったと思いませんか? 急進的なことをやって 軍事介入されて、よりスターリン主義的な傀儡政権が樹立され てしまっては元の木阿弥だし、政治としては本末転倒でしょ う。
>421 :ABCさん (2) 面白いことにハンガリーの民主化を目指す改革は日本では 『讀賣新聞』のような保守的な新聞が高く評価しておりました が、『朝日新聞』のようなリベラルな新聞は『天声人語』など でも執拗に「これは下からの民主化ではない。本物ではない」 と批判を繰り返しておりました。しかし、当時の民主化の程度 において、ハンガリー以外の国はハンガリーの足元にも及ばな かったことは ABC さんもお認めになるでしょう? 僕は当時、 『朝日新聞』の記事には非常に腹を立てていました。自分らは 安全圏にいて勝手に言いたいことを言っている。どうして彼ら がソ連に介入されないように必死で民主化の努力をしているこ とを評価できないのだとね。当時の世界情勢でハンガリーが複 数政党制などを導入できたわけがないのですから。 すでにハンガリー社会労働党は70年代には党の実権を少し ずつ本来の、憲法で“国権の最高機関”と提議されている国会 (衆議院)に移しつつありました。当時のハンガリーの党の指 導者たちはソ連の顔色を窺いながら、かつソ連に軍事介入の口 実を与えないように、必至で綱渡りをして、少しずつ民主化の 改革を断行していっていたのです。(日本の政治家たちと違っ て、彼らは言葉通り“命を懸けていた”のです。)そういう意 味で僕はあのプロセスを“民主化”と呼ぶことにためらいはあ りません。 なお、野党の存在は認められてはいませんでしたが、選挙 に立候補するには選挙区の有権者らからなる候補者指名集会で 立候補者として認められればよく、実際に党員以外の候補者も 立候補しました。しかし、これらの“無所属”議員が国会の多 数派を占めることはありえず、また、立候補してもどうせ当選 しないだろうというので、複数の候補者がいた選挙区はどんど ん少なくなっていってしまったために、ハンガリーは、確か 1980年頃だったでしょうか、再び選挙法を改正して、複数の立 候補を義務付けたのでした。これも、まだ野党が認められてい ない以上は“真の民主主義”とは言えませんが、ソ連からの軍 事介入を避けながら、少しずつではありましたが、民主主義の 実現の方向へ進んでいっていた証しだと考えます。 ABC> 同様の例はハンガリーに限ったことではありません。結 ABC> 局反体制党は生まれませんでした。(だから体制党が改 ABC> 革を独占できた) そういうことの積み重ねで、結局、80年代末には野党が復 活したではありませんか? 最初の野党であるMDFの設立に あたってはポジュガイら、ハンガリー社会労働党内の改革派が 参加していたことは ABC さんなら当然ご存じでしょう?(固有 名詞をど忘れしましたが、“何とかの集会”と呼ばれている歴 史的な会合のことですね。)MDFは“真の民主主義には対抗 政党が必要だ”というハンガリー社会労働党の改革派たちに よって設立が助けられたのです。
>421 :ABCさん (3) ABC> 2.1968年の新経済メカニズムの導入では個人営業の自由と ABC> いう観点からは評価できるがこれは何も民主化を主眼と ABC> したものではなく、経済的な効率性を優先したものであ ABC> る。 考え方の違いでしょう。ハンガリー社会労働党の改革派は まず“外堀”から埋めることを考えていたのだと思います。経 済の効率化は受け入れられやすい目標だったから、まず、手始 めにそこから導入したと考えるべきでしょう。現にハンガリー の経済モデル(社会主義的市場経済)を導入した中国でもだん だんと自由になってきているではありませんか。 ABC> その結果は官僚主義の弊害と無理解から失敗に陥り、対 ABC> 外債務が増大した。政府は国民の要求する西側並の生 ABC> 活・消費水準を維持するため、これ以後多額の負債を抱 ABC> えることになる。 これは明らかに異論があります。ハンガリーの対外債務が 増大したのは 1973年の石油ショックのためです。世界中で物価 が高騰した時に社会主義国ではその価格差を価格に転化しな かったために、その差額(逆ザヤ)を政府が負担することにな り、雪だるま式に対外債務が増大していったのです。問題は、 新経済メカニズムの導入の失敗によるものではなく、石油 ショックによる世界的な超インフレに脅えた党が新経済メカニ ズムの推進に尻込みをしてしまったことにあったと思います。 しかし、ハンガリー政府は70年代末になると、再び新経済メカ ニズムのアクセルを大きく踏込むことになりました。 なお、1980年代を通じて、東欧諸国における国民1人辺り の対外債務はハンガリーが一番多かったのですが、西側の銀行 団の融資においてはハンガリーに対する条件は非常に良かった のです。ハンガリーは債権国としては世界の中でも非常に高い 評価を受けておりました。その理由は、ハンガリーは債務を常 に完全に履行していたからです。例え物価が上がることになっ ても、外国からの借金はきちんと返さなければいけないという 考えは国民一般にも浸透していたと思います。
>421 :ABCさん (4) ABC> 3.MSZMPは自発的に民主化を率先したのではなく、自己の権 ABC> 力保持と社会主義経済システム(先の経済改革も含め ABC> て)の破綻をうけて、解体を余儀なくされたのである。 これはSzDSz(自由民主連盟)等、体制転換後政権に 就いたグループの主張ですね。しかし、これは明らかな誤りで す。政権奪取を試み、実現した政党がそのように主張すること は当然ですが、我々第三者は、特に研究者は80年代のハンガ リー社会労働党内の権力のメカニズムをきちんと把握し、理解 しなければならないと思います。 MszMP(ハンガリー社会労働党)の中にスターリン主 義的な者はほとんどいなかったと思います。基本的には(ソ連 の圧力さえなければ)民主化することに異論はなかったと思い ます。しかし、その程度と限度に関して“温度差”がありまし た。改革派のポジュガイ・イムレやネーメト・ミクローシュ、 コーシャ・フェレンツらに対してしばしばベレツ・ヤーノシュ らは“保守派”と呼ばれていますが、これはあくまでもポジュ ガイらとの比較の上の話であって、彼らとて、例えばソ連のブ レジネフのような保守派とは違っておりました。恐らく両派の 最大の違いは、“複数政党制および政権交代無くして民主主義 無し”と考えるか、“共産党の一党支配だけは確保しなければ ならない”と考えるかの程度の違いだったと思います。要する に、“完全な民主主義”か“コントロールされた民主主義”か という思想の違いだったと言っていいでしょう。 ABC> しかも保守派の頑強な抵抗とともに分裂した。 これも明らかに事実とは異なっています。“保守派の頑強 な抵抗とともに分裂した”のではありません。事前に周到に準 備されていた作戦によって、“保守派に頑強に抵抗させて” “離党させた”のでした。ここら辺の経緯は非常にスリリング で面白いものでした。
>421 :ABCさん (5) ABC> 4.しい坊さんは「大政奉還」といわれるが、徳川慶喜はこ ABC> れによって名(幕府将軍職)を捨てて実(無傷の洋式軍 ABC> 隊と最大の領地)を手にする戦略であっただけのこと。 徳川慶喜は日本が欧米列強の植民地とならないためには早 急に国内を民主化・近代化しなければならず、また薩長との内 戦をすれば、無用な血を流すことになるだけではなく、欧米列 強に付け込まれる危険が高いと考え、日本の体制転換のリー ダーシップをとって、自らが大統領になろうと考えたのだと思 いますが、それのどこがいけないのでしょうか? 優れた政治 家であるならば、自分がその改革を実行したい(また、自分な らそれができる)と思うのは当然でしょう? 僕は彼のおかげ で日本は救われたと考えています。 ABC> 来るべき自由選挙をひかえ、自己の権力基盤を保全する ABC> には時流にのった政策を採るのが合理的でしょう。 そこに根本的な勘違いがあるのです。自由選挙を“来るべ きもの”にしたのは党内改革派たちだったのですから。ご存じ だとは思いますが、ハンガリーにはポーランドのような反体制 運動グループなどは存在しておりませんでした。それはハンガ リーの民主主義が不完全なものではありながら、多くの国民は ハンガリーが置かれた状況を理解していたのと、そこまでの抵 抗運動を組織するほど絶望的な抑圧体制ではなかったからで す。現在政権を取っている政党の指導者たちは、自分らが旧体 制中にずっと反体制運動で戦ってきていたと主張しています が、それはウソです。彼らは反体制的な思想は持っていたで しょうが、基本的にはほぼ全員が“体制内反体制派”でした。 ハンガリー人らはハンガリーの状況に満足しきっていたので す。(腹立たしいほどに!)世界中どこでも、政権を取った勢 力は、それまでの、旧体制下注の自分らの行動を美化するもの なのはご存じでしょう。 だからこそ、反体制運動というか、批判勢力は、ハンガ リー社会労働党の中の改革派らがお膳立てしてやらなければな らなかったのです。ポジュガイらが必死で彼らを守り、マスコ ミの報道の自由を確保したのではなかったですか? しかし、 一度政権を取ったからには「我々は、我々が打倒した共産党の お蔭で政権に就けた」等と告白するわけにはいかないではあり ませんか?
>421 :ABCさん (6) ABC> 「大政奉還」の意味を「旧権力者による権力維持の苦肉 ABC> の策」と解すれば駿府への蟄居を余儀なくされた最後の ABC> 将軍とポジュガイの扱いは仕方がないでしょう。 ABC> (私は個人的に同氏に対しては後述の政治家よりは高い ABC> 評価を置いています。) 体制転換や革命のような事態において、ポジュガイや徳川 慶喜のような功労者たちが(ゴルバチョフも含みます)、この ような理不尽な扱いを受けることは、よくあることで、仕方が ないことだとは思っています。しかし、その時の評価が理不尽 なものであることには変わりはありません。 ポジュガイやネーメトたちが“風見鶏”で、自分らの権力 が危うくなったときに、改革者のフリをして、権力の維持を 狙ったというのはウソです。これはSzDSzが雇った米国の 大籐両選挙などでも活躍している広告会社の戦術でした。 1989年春の段階で、ポジュガイのことを“風見鶏”だと考 えている国民は1人もおりませんでした。(厳密に言えば、 きっとそういう国民も多少はいたに違いありませんが。)それ が、米国の広告会社の宣伝の結果、1989年の秋には圧倒的多数 の国民が「ポジュガイは汚い協賛主義者のくせして、世の中の 風向きが変わると、さっさと改革派面をするようになった権力 欲の亡者だ」と信じるようになりました。これはおかしい。 だって風向きを変えたのはポジュガイだったのですから。春の 段階ではポジュガイの一挙一動に国民は感激し、心配していた ものです。「よく言った!」、「そこまで言ってしまって大丈 夫?」、「頑張れ!」それが、秋になると誰もそのことを覚え ていなかったのです! これには僕も驚き、呆れました。春に は熱烈なポジュガイ支持者だった者達も、秋には口汚くポジュ ガイを罵りました。僕が「春には君はこう言っていたじゃない か?」と言っても、誰もが「自分はそんなことは思ったことも 言ったことも絶対にない!」と言い張ったものです。 ポジュガイの民主主義指向は筋金入りのものです。彼は 1970年代半ばに文部大臣になったのですが、その時若手の研究 者らを集めて、研究プロジェクトを発足させました。細かいこ とは忘れましたが、社会状況だったか、カリキュラムに関する ものだったかの調査研究でした。その時ポジュガイは研究者ら を集めて、「調査報告は遠慮ないものにして欲しい。党に遠慮 することはない。党に津郷が悪いことでも正直に書いてくれ。 私が知りたいのは真実のみだ。諸君らの報告書は私以外は読ま ないことを約束する。安心して報告してくれたまえ。」と告げ たのでした。当時、僕の大学の学寮で同室だった有人はそのプ ロジェクトに参加していたのですが、その晩、熱くポジュガイ に心酔したことを僕に語ってくれました。まだポジュガイの地 位が磐石ではなかった時代です。その結家、党の政策担当のア ツェール・ジェルジュの逆鱗に触れ、彼の策謀で、ポジュガイ は実権のないハンガリー愛国人民戦線の議長に祭り上げられて しまったのですが、ポジュガイはそれにもめげず、愛国人民戦 線を実質的な民主化の組織として再編成し、機関紙であった日 刊『マジャル・ネムゼト』を最もリベラルで、評価の高い新聞 にしたのでした。
>421 :ABCさん (7) 僕自身が最所にポジュガイに直接会ったのは彼が来日した 時でした。確か 1983年か84年のことだったと思います。まだ誰 もがソ連東欧圏の崩壊を予想していなかった時期です。2人だ けになった時に彼はこう言いました。「私は昔は敬虔な共産主 義者だった。共産主義こそ正しい思想だと信じて疑わなかっ た。しかし、1960年代になると色々な矛盾に気付き、悩むよう になっていった。しかし、1970年代はまだ共産主義は本当は正 しいのだが、その実現方法が間違っていると考えるようになっ ていた。だが、今では確信を持って共産主義の思想そのものが 誤っていると考えるようになった。私は間違っていたのだ。共 産主義は非倫理的な思想だ。このような体制が存続するのを許 すわけにはいかない。私はこの体制を変革するために全力を尽 くす覚悟だ。このような非倫理的な体制は恐らく21世紀まで生 き残ることはできないだろう。21世紀には世界にはもはや共産 主義国家は残っていないはずだ」と。彼ははっきりと明言しま した。もちろん、ハンガリー国内で政治家である彼はこのよう な明言はしておりません。そんなことをしたらたちまち失脚し て、彼の改革の夢は挫折するからです。彼がなぜ初対面の僕に そんなことを打ち明けたのかはさっぱりわかりませんが、彼は 僕を信用していたのでしょう。最初に会ったときに「前からあ なたにはお目にかかりたいと思っていたんです」と言って手を 握ってきましたから、何らかの情報を持っていたのでしょう ね。(どういう情報なのか、ちょっと興味がありますが。) その後彼は野党の組織化に手をつけます。まず、ドナウ川 に建設予定のダムが環境を破壊すると主張する環境保護市民運 動を実現させます。(社会主義国でこのような徒党を組むこと は御法度でした。)やがて環境保護運動のような市民運動が容 認されるようになると、手をつけたのが政治的な反体制運動の 組織化でした。その最初の“作品”がMDF(ハンガリー民主 フォーラム)だったのです。東欧の多くの野党(現与党)が 「党」という名前ではなく「フォーラム」とか「運動」とか 「クラブ」とかいった名前であるのは、「党」と名乗ると弾圧 される恐れがあったからです。
>421 :ABCさん (8) ポジュガイらはネーメト首相らと手を携えて、次々と民主 化政策を打ち出していきました。ついにポジュガイは1956年の ハンガリー動乱を、公式には“反革命”とされていたのを“革 命”と宣言しました。国民は拍手喝采をしながら「これでポ ジュガイも終わりか?」と心配したものです。彼の盟友で映画 監督のコーシャ・フェレンツらは1989年の春の段階でポジュガ イに離党を強く勧めました。コーシャは主張しました。「お蔭 様で野党がどんどん力をつけてきている。しかし君がこのまま 社会労働党に留まっていては、やがて君も共産主義者として国 民から切られてしまう恐れがある。それよりは今、離党して、 新しい政党を作って民主化を指導すべきだ」と。 それに対してポジュガイは「政治家としての私の運命はど うでもいい。些細なことだ。それよりも大事なのは、いかに流 血なしでこの国を民主的な国家に軟着陸させるかだ。政府は改 革派の手にあるが[首相はネーメトでした]、党はまだ保守派 が握っている。また労衛隊[武装した党の民兵組織]はまだ武 装解除されていない。いまここで党を割って出ては労衛隊が武 力鎮圧に出るかもしれない。ハンガリー人同士が血を流しあう ことは絶対に避けなければいけない。だから私は党に留まる」 と答えたのでした。「また、今党を割って改革派が出ては、 せっかく改革派の手にある政権を保守派に引き渡すことになっ てしまう。また党は膨大な資産を持っているが、これは本来は 国民の財産だ。それまでも保守派に渡してしまうことになる。 それは避けなければならない。」(ここら辺のやりとりはポ ジュガイとコーシャから直接聞いたものです。) そこでポジュガイやコーシャ、ネーメトらはある策略を巡 らします。彼らが党を割ってでるのではなく、保守派が党を 割ってでるように仕向けようと言うものです。それが秋の党大 会でした。改革派の慎重な根回しで、ハンガリー社会労働党の 党大会では突然、ハンガリー社会労働党の解党と、ハンガリー 社会党の新設が議決されたのでした。そしてハンガリー社会党 は共産主義ではなく、西欧的な社会民主主義を標榜する政党と なったのでした。突然のことで怒り狂ったそれまでの党の書記 長たちは(名前をど忘れして思い出せない (^◇^;)! なんと か・カーロイだったかな? あとベレツですね)先を考えず に、党を離党して、新たにハンガリー社会労働党を組織したの でした。 これは劇的な無血宮廷クーデターの勝利だったのです。そ して私の言う、史上初めての共産党自らの“大政奉還”が実現 したのです。
>421 :ABCさん (9) ABC> 5.国民を民主化へ先導して大政奉還をおこなった人々。 ABC> Nemeth Laszlo(首相):56年動乱について、「最初は人 ABC> 民蜂起であったが、後に右翼暴動へと転化した」と発 ABC> 言。 これはハンガリー社会労働党の公式見解です。別にネーメ トのものではありません。また、このような発言は“いつ” “どのような”環境においてなされたのかをきちんと判断して からでないといけません。 例えば、ポジュガイが必死で守ったマスコミですが、ここ は自由民主連盟の支持者が多く、ポジュガイがマスコミに介入 できないことを逆手にとって、物凄い量のえげつない反ポジュ ガイ・キャンペーンを行っておりました。例えばポジュガイが “風見鶏”であり、本当は民主主義者ではなく、がちがちの共 産主義者だと国民に印象づけるために連日のように“数年前” (=まだこのような民主化の気運が高まっておらず、共産党の 支配が磐石であった時代)にラジオの記者がインタビューした 「あなたは共産主義者ですか?」「...そう...です...」という 内容を繰り返し報道し、ポジュガイが嘘吐きだという印象を与 えていました。しかし、ちょっと考えてみればわかるように、 当時のネーメトやポジュガイが「56年は革命だった」とか「私 は共産主義者ではない」等と発言できたはずはないのです。 ABC> Horn Gyula(外相、後に首相):56年動乱時に労働者防衛 ABC> 隊(共産党武装組織)の一員として西駅周辺の一般市民 ABC> との間におきた銃撃戦に参加。現在この件について法廷 ABC> に証人として出席を余儀なくされる。 一般的には西側ではホルンもネーメトらと同じ改革派の リーダーとみなされていますが、個人的にはちょっと疑問に感 じています。彼こそ“風見鶏”だったのではないかと考えてい ます。ちなみに、ポジュガイも、ネーメトも、ベレツさえも (!) 非常に気さくな人柄ですが、ホルンは権力者の臭いをぷん ぷんさせており(個人的に会ったときの印象です)あまり好き ではありません。 ただし、彼の56年当時の行動は別に批判される筋合いのも のではないと思います。56年動乱当時は非常に混乱しており、 実際に右翼勢力が暴動を煽っていたのは事実です。そして街で は蜂起者による虐殺が横行していました。(警官が建物の上の 赤い星に串刺しにされて晒されていたり、逆さ吊りにされて殺 された党員の焼け焦げた死体に唾を吐きかけている写真等は日 本でもよく目にすることができます。)従って、真面目な青年 が労働者が主人の社会を守ろうと銃を取って“反革命”の者達 と戦ったとしても、それはそれで理解できることでしょう。
>421 :ABCさん (10) ABC> 6.ホルン社会党政権下では旧体制時代の党組織に関する情 ABC> 報の開示を禁止する法律が制定されました。この情報が ABC> 全面的に開示されれば民主化へと国民を導いた体制党の ABC> 人々でお困りの方がいるはずでしょう。 当然“困った”人は多かったと思いますが、個人的にはそ うすべきだった(=開示すべきではなかった)っと思います。 憎しみの連鎖は断ち切らなければなりません。ハンガリーにお いては国民全員が“共犯者”だったのですから。(不思議なこ とに1990年以来すっかり人々の記憶から消えてしまっています が、ハンガリーの社会主義体制が崩壊するまではハンガリー人 たちはいかに自国を誇りに思い、自惚れていたことか!) 全てを公開した東独では国民の過半数がシュタージの協力 者だったということになって、東独市民の大きなトラウマに なっています。しかし、秘密警察のスパイがそんなにいたはず はないのです。恐らくは、相手が秘密警察の者だとは知らずに 付き合っていて、茶飲み話等で話した内容が報告書に記載さ れ、警察の記録上は(本人は全然気付いていなかったのに) “協力者”とされていたような場合が大部分ではないかなと個 人的には想像しています。弱みを握られて、情報提供を強制さ せられた人もいるでしょう。また、(そういう強制で)協力者 だと自覚していても、あえて当たり障りのない情報のみを手渡 して、友人・知人を守った人達もきっと多いでしょう。しか し、一方的にこのような情報を公開してしまっては、友人や知 人・親戚の間の疑心暗鬼を増幅し、人間関係を壊すだけです。 50年後とかに公開を義務付けるようなことはあってもいいと思 いますが、何でもかんでも出してしまえばいいというようなも のでもないでしょう。原理主義的な民主主義、原理主義的な情 報公開は必ずしも人々の幸福につながるわけではないはずで す。
>421 :ABCさん (11) ABC> しい坊> 1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは今の ABC> しい坊> 日本のマスコミでは到底あり得ないような辛辣な体 ABC> しい坊> 制批判の報道番組もたくさんありました。 ABC> ABC> 共産主義体制のガス抜きプロパガンダであるとどうして理 ABC> 解されなかったのでしょうか? ちょっとびっくり。日本や米国も含めて、どんな体制でも マスコミの報道の自由はガス抜きだと権力が判断できる範囲で のみ保障されているのではなかったのですか? そんなことは どこでも同じことです。別に社会主義体制下でも、資本主義体 制下でも同じことだというのは常識でしょう? 湾岸戦争の時 に『イマジン』が英国で放送禁止になったのは有名な話ではあ りませんか? あるいは今回のニューヨークの世界貿易ビル事 件でも、米国ではさっそく放送禁止曲がリストアップされまし たよね? また、日本でも、今日でも報道されない、できない ニュースがどれ程あることか! 当然、東欧諸国では程度の差こそあれ、西側よりは制限が きつかったのは事実です。しかし、それでも日本よりもずっと 立派な報道番組が多々あったのです。例えば社会問題を扱った ドキュメンタリーは、日本では単にその個人の悲劇として描写 されることがほとんどです。本当はその裏には社会制度、すな わち体制の問題が潜んでいるのですが、今の日本ではそのこと には触れることはできません。(60年代まではそういう良質 な、本質に迫るドキュメンタリーもたくさんありました。)し かし、ハンガリーのドキュメンタリーの場合は、その問題が制 度上の構造的な問題だという結論まできっぱり述べていたので すよ。別に“ガス抜きのプロパガンダ”だとおっしゃっても結 構ですが、なら、それよりも情けない日本の報道の現状はどう おっしゃるのでしょう? 強調しておきますが、僕はハンガリーでは報道や言論の自 由が素晴らしく保障されていたなどとは一言も言っておりませ ん。制限はあった。しかし、その制限は多くの日本人が、冷戦 構造の下、西側における反共プロパガンダのステレオタイプに 描かれているようなものとは違っていたという事実のみを述べ ているに過ぎません。
>421 :ABCさん (12) ABC> ラジオ局は国営です。 “国営”という用語をどのような意味で使っておられるの でしょうか?(“国営”と“国有”も違いますしね。)BBC やNHKを“国営”と呼ばれるのであれば、確かにハンガリー の放送局は“国営”と言えたと思いますが。しかし、ヨーロッ パでは西欧も含めて、ほとんどがそうでしょう? ハンガリー の放送局の制度をどの程度理解した上でそうおっしゃっている のでしょうか? それとも「社会主義国だから放送は国営のは ずだ」→「社会主義国の放送は国営だ」という論理なのでしょ うか? ABC> 責任者は党の幹部、少なくとも息のかかった人間です。 国営放送に限らず、事実上の国営の特殊法人である某国の公共 放送のN●Kの会長が某自●党の息の掛かった人物であること は公然の秘密でしょう? 例えば、大河テレビドラマの『徳川 慶喜』が放映された理由は? 今回のアフガニスタン空爆報道 にしても、自衛隊派遣問題にしても、様々な問題を抱えた件に 関して、他の民放と比べて、某国営放送の姿勢だけが突出して 与党よりだということは衆目の一致することですよね? 別に どちらが正しいとか言っているわけではないのです。“国営放 送”というのは所詮、そんなものなのです。 ABC> 体制側がより多くの国民の支持を得ようとします。 より多くの国民の支持を得ようとしない体制があれば、ぜ ひ教えてください (^◇^;)! ABC> とくにハンガリーのような動乱を経験した国ならば権力者が ABC> 国民に対してソフトに立ち振る舞うのは当然です。 西側ではもっとソフトに立ち振舞っていますね。つまり単 により“上手”なだけですが...。でも、やはりライオンの尻尾 を踏むと、その時は...。で、ハンガリーと同じように 1968年 を体験したチェコの体制はどうしてハンガリーのようにソフト には立ち振舞わなかったのでしょうか? ということはハンガ リーの事例は全然“当然”ではないということになりはしませ んか?
>421 :ABCさん (13) ABC> 自己の管理下で自己批判をやらせるのはパターナリステック ABC> な権力機構の常套手段です。 しかし、ハンガリーよりもずっと家父長主義的だったソ連 や中国ではそれほどの自己批判すら許されてきませんでしたよ ね? 矛盾しませんか? ちなみに共産主義体制は一般的には(当の社会主義国で も!)“家父長主義的”と見なされていますが、ハンガリーの 社会労働党体制の場合は多少違っていたと思いますよ。何し ろ、日常生活で党は全く前面に出ていませんでしたからね。街 を歩いても、日本人が想像するような横断幕や標語、指導者の 写真等は一切掲示されていませんでしたしね。組織や企業の幹 部になるためには党員でないと難しいという一般認識はありま したが、実際には、それはある種の都市神話で、党員でない幹 部というのは結構いました。 しかし、「報道による体制批判が禁じられていた」と書け ば「それは共産主義体制の常套手段です」となり、「報道によ る体制批判も許されていた」と書けば、やはり「それは共産主 義体制の常套手段です」となるわけで、要するに結論が先にあ るということなわけですね? ABC> 同時期のハンガリー映画にもよく青年たちの逸脱行動、 ABC> 家族問題、権力への反抗、国民の遠慮のない政治討論シーン ABC> が出てきます。 だから? 何がおっしゃりたいのかさっぱりわかりません が? ABC> しい坊さんは身をもって体験されているのが他の人にない ABC> 強みです。反論もあわせてご意見お聞かせください。 別に自分が体験したこと、知っていることを書いているだ けで、議論をするつもりも、反論するつもりもありません。例 え「そんなのはウソだ」、「私は信じない」、「そんなことは ありえなかった」とおっしゃられようと、それで僕の体験が過 去に遡って変わるわけでもありませんし、この掲示板の読者に 信じてもらえなければ困るというようなこともありません。単 に「あ、そうだったんだ!」とか「ふ〜ん」と感じて下さる方 がいらっしゃれば、それだけで満足なのですから。
>422 :ELET学生さん (1/2) おや、僕の後輩さんのご登場ですね (^^)! > もしハンガリーもオーストリアのように共産主義化されなければ > ウイーンのような全体的にきれいな町になっていたことを考える > とソ連共産主義が与えた影響は非常におおきいと感じます。 さて、それはどうでしょうか (^◇^;)? ヨーロッパは西から東にかけて段々と生活水準や政治的な 民主主義の成熟度が落ちていく傾向がありますが、これは第二 次世界大戦前も、社会主義国になってからも、社会主義体制か ら資本主義に転換した後でも変わっていないと思います。 ドイツからオーストリアに入ると、少し薄汚れた感じにな りますし、オーストリアからハンガリーに入ると、更に汚くな ります。そしてハンガリーからルーマニアやユーゴに入ると、 更に汚くなります (^◇^;)。民主主義も社会主義・資本主義を 問わず、オーストリアの方がハンガリーよりも民主的だし、ハ ンガリーの方がルーマニアよりも民主的でした。 だから、多少の違いはるにせよ、仮にハンガリーが資本主 義国のままであったとしても、やはり汚かったのではないかし ら (^◇^;)? > また共産主義時代はまともに外国旅行もできなかったり、秘密警 > 察がいたりとさまざまな自由の制約があったことを知り非常に > ショックを受けました。 別にショックを受けるようなことでもないと思います。ハ ンガリーが西側旅行を3年に1度(実質的には色々な制度を併 用することで1年に1度)しか認めてこなかったのは純然たる 外貨の問題でした。ハンガリーは極東の島国の日本と違い、人 口は日本の10分の1ですが、外国旅行をする人の比率と、訪れ る外国人の数とでは雲泥の差があります。外貨は貿易に必要な 貴重なもので、国民の行楽のために浪費するには贅沢過ぎたの です。全ては国の経済力の問題で、日本も東京オリンピックま では日本人は海外旅行ができなかったのをご存じですか?(韓 国もソウルオリンピックまでは海外旅行は御法度でした。)ま た 1970年頃までは外国に出掛ける時には許可をもらって、ドル を交換しなければなりませんでした。僕の最初の旅券にもちゃ んと交換したドルの金額と許可の印が押されています。日本人 の海外旅行が自由化されたのは、日本の経済力が大きくなっ て、先進国の仲間入りしてからでした。
>422 :ELET学生さん (2/2) “秘密警察”に関しては注意する必要があります。ハンガ リー人は何も考えずに外国人に“秘密警察”という言葉を使い ますが、実際には“秘密警察”等という特別の組織は存在せ ず、存在していたのは、日本の警察と同じ警察の公安部門でし た。独立した思想警察(日本で言えば、かつての特別高等警 察、特高に当たります)としての国家防衛庁(AVH アー ヴェーハー。国家防衛局 AVO アーヴォー の後身)は 1956年のハンガリー動乱の時に廃止されており、それ以降はハ ンガリーには東独のシュタージやルーマニアのセクリターテの ような秘密警察は実は存在していなかったのです。で、国民の 思想を取り締まる警察組織は、日本でも米国でも英国でも、フ ランスでも、どこにでも存在しています。単に“秘密警察”と 呼ばないだけです。 あと、ハンガリーの若い人たち(例えば大学生)の社会主 義時代のハンガリーに関する知識や認識は、日本人の抱く共産 主義のイメージと非常に近いです。それは体制転換後、徹底し た反共教育が施されたからなのですが、現実の社会主義ハンガ リーの姿はそのイメージとはだいぶ違っていたと思います。 (と言うか、体験者としては全然違っていたとしか言いようが ないのですが。)
>427 :ABCさん ABC> >>423 ABC> > 見事に廃墟になってしまった。 ABC> >滅茶苦茶書いた某氏は目的達成でさぞやうれしかろう。 ABC> ABC> 残念ながらうれしくはないね。まとまりなく一挙に書いてし ABC> まったのはこちらの不手際。すまん。端的にまとめるよう努力 ABC> する。2chビギナーなもので。。 いや、2ちゃんねるの猛者と見たけれども? ABC> それにしてもしい坊さんはどうしたのだろう。 単に忙しくて覗いていなかっただけなのだが...? ABC> あれだけ自説をのべて後はトンヅラか。。。 相変わらず、その性格は治らないようですな...。どうして も(匿名性に隠れて)そのように汚らしい、他人を誹謗する表 現を使わないと気がすまないようで...。やれやれ。 繰り返し強調しておきますが、僕はここに書き込むことで 金をもらって飯を食っているわけではないのです。他の人もそ うだろうけど。だからいつもここを覗けるわけでもないし、覗 く義務を負っているわけでもないはずです。また、覗いたとし ても、レスを付ける義務もありません。で、前にも書きました けれども、不愉快な文章しか書けない相手にはレスは付けませ んので悪しからず。そんな義理も義務もありませんからね。 そろそろ、正々堂々と名乗り出てきてもいいんじゃない の? 僕は名乗ってるんだしさ。発言に責任を持つと言うこと は名乗ることから始まると思うけど?(別に嫌なら名乗る義務 はないけど、僕もレスを付ける義務はないことを確認しておい てね。)
>428 :ギシュクラ・ヤーノシュさん > 吸血鬼の類の本を見るとマジャール人にはその手の伝承がないと > いう話が出てました。 あと、よくドラキュラ(ヴラド・ツェペシュ)に比較され るのがハンガリー人のバートリ・エルジェーベットですよね。 若さと美貌を維持するために村の生娘の生血で湯浴みをしたと か...。実際には彼女は非常に高潔な女性で、多くの苦学生に奨 学金を出したりしていたらしいのですが、反ハプスブルクの貴 族たちを支援していたことから、ハプスブルク家の陰謀によっ てそういう寃罪を着せられて断罪されたらしいです。
>435 :世界@名無史さん > ハンガリーの王制って、正式にはいつ廃止されたの? > 第1次大戦後は空位とされて、その後は? 法制上は #436 でギシュクラ・ヤーノシュさんが書かれて いる通りだと思いますが、ちょっと別な見方をすれば、ミン ツェンティ枢機卿が死亡した時が名実ともにハンガリー王国が 消滅した時期だとも言えると思います。 ハンガリーは“使途王国”という特権を持ったカトリック 王国でした、通常はヨーロッパの国王は国王となるためには ローマ法王の認証を得なければならなかったのです。しかし、 使途王国であったハンガリー王国の場合は、その特権により、 国王をローマ法王の代理人であるハンガリーの主座大司教公 (herceg prímás) が認証することができたのです。 で、ハンガリーの主座大司教公はハンガリー国王が任命するこ とができました。要するにハンガリー国内で互選制を取ってい たのですね。で、戦後の新憲法でハンガリーは共和国となりま したが、ミンツェンティ枢機卿が存命中は教会法上彼がハンガ リー国王を任命することができたわけです。しかし、彼は国王 を任命することなく、亡くなってしまいました。ところが、ハ ンガリーにはもはや主座大司教公を任命する国王がいないの で、主座大司教公を任命することもできなくなってしまったわ けです。実際に、ミンツェンティ亡き後ヴァチカンが任命した ハンガリーの主座大司教には「公」の称号は付いておりません でした。よってこれをもってハンガリー王国は歴史から消滅し たと考えることもできるでしょう (^^)。 ちなみに、現在のハンガリーの王位継承権者は現在ドイツ 選出の欧州議員を務めているハプスブルグ・オットー(オッ トー・ハプスブルク)大公です。彼はハンガリーの国王になる 意志はないようですが、もちろん、もしも必要とあれば、教会 法がどうであれ、ハンガリーは新たに国王を選出することでは ありましょうけど。(ま、現実の政治ってそんなもんで す...。)
>439 :世界@名無史さん > ところで、古代の異教時代のマジャール人には現在のモンゴルな > どで見られるオボー(小石やごみを積んだ聖なる塚)の風習の > ようなものはありましたか? それについては存じあげませんが、ハンガリーの墓は木で 彫った卒塔婆のようなコプャファ (kopjafa) と呼ばれる墓標を 建てます。(「立てます」かな?) あと、民家の破風等には太陽の彫り物をする地域がありま す。古代のハンガリー人の太陽信仰の名残だと考えられていま す。また、トランシルヴァニアのセーケイ地方のチークショム ヨーでは、確か復活祭の時だったかな? 巡行をしてから、丘 の上でカトリックの神父が「太陽の神よ、月の神よ...」とか 言って祈るのだそうです。完全な異教の祭ですな (^◇^;)。ち なみにハンガリーの一部の地域では喪服は日本の死に装束と同 じ、白です。これもアジアからやってきたマジャル人の風習の 名残だと考えられています。
471 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :02/01/14 17:12
しい坊さま おひさしぶりです。 トランシルバニア帰りにブダペストで「国王イシュトヴァン」のCDを 複数購入してきまして、友人に聞かせています。 教えていただいた作者の意図等を説明してやると、友人たちも興味を持 ってくれております。 >468 バートリー・エルジェベートについては友人から同様の内容を聞いてお ります。同時期にハンガリーで何が起こっていたかを調べてみると、ハ プスブルク家によって大貴族のイレシュハ−ジ家がでっち上げの罪状で 所領没収になるという事件が起きています。また、トランシルバニア公 のバートリー・ガーボルをハプスブルク家が暗殺しようとするというよ うな事件もあったそうですね。ハンガリーに大勢力を持つバートリー家 とナダシュディ家、さらに言えば娘の嫁ぎ先であるズリーニ家なんかま で含めて大スキャンダルに巻き込んでやれという意図があっても不思議 ではないような気がします。 おかげで、バートリーというと女吸血鬼ことバートリー・エルジェベー トばかりが有名になってしまいました。 良く考えてみるとハンガリーがらみの歴史上の人物で邦文の伝記がある のはエルジェベートとブラドだけですね。 >470 「太陽の神よ、月の神よ...」 それって「国王イシュトヴァーン」でトルダが群集を前に祈りを捧げて いる時の歌詞に出てくるのと同じですね・・・。
472 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :02/01/14 17:40
>470 「使徒王国」 イシュトヴァーン1世が戴冠する時にローマ教皇がハンガリーの使者に 対して「汝の首長は真のアポストル(使徒)なり。」と言って王冠を手 渡した、というお話は知ってましたが公式な形でそのような制度があっ たとは知りませんでした。 >ハンガリーの映画 ハンガリーとフランスかな?の合作映画で「暗い日曜日」という聞いた 人が続々と自殺してしまったという恐るべきシャンソンの話を題材にした映画 が公開されるそうです。 >エステルハージ・ペーテル 今度はエステルハージ家に関する歴史物を執筆中らしいですね。 翻訳されるかなぁ。 個人的には「エゲルの星」という小説を読んでみたいです。 英訳本が出てるそうですが、根性が無い・・・(泣)
>471 :ギシュクラ・ヤーノシュさん Giskra János> >468 Giskra János> バートリー・エルジェベートについては友 Giskra János> 人から同様の内容を聞いております。同時 Giskra János> 期にハンガリーで何が起こっていたかを調 Giskra János> べてみると、ハプスブルク家によって大貴 Giskra János> 族のイレシュハ−ジ家がでっち上げの罪状 Giskra János> で所領没収になるという事件が起きていま Giskra János> す。また、トランシルバニア公のバート Giskra János> リー・ガーボルをハプスブルク家が暗殺し Giskra János> ようとするというような事件もあったそう Giskra János> ですね。ハンガリーに大勢力を持つバート Giskra János> リー家とナダシュディ家、さらに言えば娘 Giskra János> の嫁ぎ先であるズリーニ家なんかまで含め Giskra János> て大スキャンダルに巻き込んでやれという Giskra János> 意図があっても不思議ではないような気が Giskra János> します。 さすが、ギシュクラさん、お詳しいですね (^^)! Giskra János> おかげで、バートリーというと女吸血鬼こ Giskra János> とバートリー・エルジェベートばかりが有 Giskra János> 名になってしまいました。 残念ながら日本で紹介されているバートリ女史伝は全て “女吸血鬼”説ばかりで、本当の史実に基づいた紹介はほとん ど皆無ですね。 Giskra János> 良く考えてみるとハンガリーがらみの歴史 Giskra János> 上の人物で邦文の伝記があるのはエルジェ Giskra János> ベートとブラドだけですね。 そうですね。あと、確か、今は亡き深見 弾氏がまとめた 『東欧SF傑作集』(上・下)(創元推理文庫、1980)のカリ ンティの短編にマーチャーシュ王が登場していたと思います。
>471 :ギシュクラ・ヤーノシュさん ちなみに、『ハンガリー大百科事典』(アカデミー出版、1994)に はバートリ・エルジェベトは以下のように紹介されています: エチェディ=バートリ・エルジェーベト (ecsedi Báthori Erzsébet)。 1560年、サボルチ県 (Szabolcs vármegye) ニールバートル郡 (nyírbátori járás) ニールバートル村 (Nyírbátor ) 生れ、 1614年8月21日、ニトラ県 (Nyitra vármegye) ヴァーグーイヘイ郡 (vágújhelyi járás) チェイテ村 (Csejte) [現在スロヴァキア共和国東スロ ヴァキア道 (Západoslovenský kraj) トレンチーン郡 (Trenčín okres) チャフティツェ村 (Čachtice)]没。 エチェディ=バートリ・ジェルジュ (ecsedi Báthori György) (1571年以降生) とショムヨーイ=バートリ・アンナ (somlyói Báthori Anna) の娘。バートリ・イシュトヴァーン (Báthori István) (1555〜1605) の妹、ナーダジュディ・フェレンツ (Nádasdy Ferenc) (1555〜1604) の 妻 (1575年より)。 結婚により5人の子供(2男3女)を生む。娘のアンナ (Nádasdy Anna) は高名な詩人のズリーニ・ミクローシュ (Zrínyi Miklós) の叔父のザラ県知事ズリーニ・ミクローシュ (Zrínyi Miklós) の妻となる。娘のカタリン (Nádasdy Katalin) はホモンナイ=ドルゲ ト・ジェルジュ (Homonnai Drugeth György) の妻となる。バートリ・エル ジェーベトは早く夫を亡くし、その後未亡人として城と数百ホルドの領地を含む 荘園を管理し (1 hold=1,600ネージセゲル=約0.57 ha)、外国を渡り歩く学生 らの援助をした。一部の資料によれば1609年にベンデ・ラースロー (Bende László) という名前の貴族との再婚を望んだが、彼女の遺産の自分らの取り分を心配する 親戚らによって妨害されたという。この時から彼女に対する中傷誹謗攻撃が始ま る。従兄弟のバートリ・ガーボル (Báthori Gábor) が彼を失脚させようと 謀るウィーン宮廷の一部の勢力との対立を深め、対ハンガリー戦の準備を進めて いた1610年12月30日にバートリ・エルジェーベトは、彼女がチェイテの城で農奴 の若い娘らを拷問に掛け、一部の者を殺害せしめたという容疑で逮捕された。裁 判の記録によれば彼女は精神に異常をきたし、それらの殺人を行なったというこ とになっている。これらの告訴を最初に考え出したのは副王トゥルゾー・ジェル ジュ (Thurzó György) であった。1611年1月にトゥルゾー副王が裁 判長を務める裁判所は彼女の無実を証明しようとした従僕を断頭の刑に処し、 2人の女中を焚刑に処し、バートリ・エルジェーベト本人はチェイテの居城に幽 閉した。彼女は貴族世論や国王の支持を取り付けて再審を求めたが、副王はこれ に抵抗した。バートリ・エルジェーベトはほどなく不可解な状況の下で死亡し た。その後伝説は彼女を血で湯浴みをする怪物として描くようになった。しかし 最近の推測では遺産相続人のいないまま未亡人となった彼女は政治的な理由によ る思想的な領地裁判の常套手段の犠牲者であり、彼女の密かな反ハプスブルク、 親トランシルヴァニア政策のために幽閉されたものとされる。彼女が犯したとさ れている犯罪のうち、確実に彼女の犯行だと証明されたものは1件もない。 [続く]
[続き] 彼女を描いた有名な文学作品にはファーイ・アンドラーシュ著『2人のバート リ・エルジェーベト』(Fáy András: A két Báthori Erzsébet) (1827)、 シュプカ・G著『呪われた女 (Supka G.: Az átkozott asszony) (1941) などがある。 参考文献:レクサ・D『バートリ・エルジェーベト』(Rexa D.: Báthori Erzsébet) (1908)、ナジ・L『悪名高きバートリ一族』(Nagy L.: A rossz hírű Báthoryak) (1984)、ペーテル・K『チェイテの女城主、バートリ・エルジェーベト』 (Péter K.: A csejtei várúrnő) (1985)、サー デツキ=カルドシュ・I『バートリ・エルジェーベトの真実 (Szádeczky-Kardoss I.: Báthori Erzsébet igazsága) (1994)。 [Magyar Nagylexikon, III. köt., Bah-Bij, Akadémiai Kiadó, Budapest, 1994]
>471 :ギシュクラ・ヤーノシュさん Giskra János> トランシルバニア帰りにブダペストで「国王イシュト Giskra János> ヴァン」のCDを 複数購入してきまして、友人に聞か Giskra János> せています。 教えていただいた作者の意図等を説明し Giskra János> てやると、友人たちも興味を持 ってくれております。 『国王イシュトヴァーン』は歌詞だけではなく、曲もなかなかいいと思 うのですが、ハンガリーのロックを初めて聴く日本人には異質で、何がいい んだかわからないかもしれませんね。 前に書いたと思うのですが、ブローディ(本人談)によると、まず 『ジーザス・クライスト・スーパースター』があって、『国王イシュト ヴァーン』の映画では冒頭に「...そしてその千年後...」というクレジット を入れようかと思ったのだそうですが、考えたら、「ナジ・イムレ」(=イ スカリオテのユダ、コッパーニュ)と「カーダール・ヤーノシュ」(=イエ ス・キリスト、イシュトヴァーン)の話も「...そして更にその千年後...」 というクレジットが付けられるわけですね。人間と歴史的なコンフリクトは 永遠に変わらないということなのでしょうか...。 実は、現在『国王イシュトヴァーン』の対訳を作成中なのですが...。 (彼の歌詞については自由に訳したり利用することの許可を本人から得てい ます。)どこかのロック雑誌にでも掲載できるといいんですけどね。あとブ ローディ・シャーンドルとのインタビューもその内どこかで公開できればい いと思っています。(ポジュガイとのインタビューなんかもいつか公開した いと思っています。ま、取り敢えずはホームページで音源と一緒に公開です かね。ブローディのも。)
>471 :ギシュクラ・ヤーノシュさん Giskra János> >470 Giskra János> 「太陽の神よ、月の神よ...」 Giskra János> それって「国王イシュトヴァーン」でトル Giskra János> ダが群集を前に祈りを捧げている時の歌詞 Giskra János> に出てくるのと同じですね・・・。 そうですね (^◇^;)。ま、キリスト教の祭の多くはキリス ト教以前の異教の習俗が形を変えて残ったものが大部分ですか ら、ハンガリーのこれが特別というわけではないのでしょうけ どね。
>472 :ギシュクラ・ヤーノシュさん Giskra János> >470 Giskra János> 「使徒王国」 Giskra János> イシュトヴァーン1世が戴冠する時にローマ教皇 Giskra János> がハンガリーの使者に対して「汝の首長は真のア Giskra János> ポストル(使徒)なり。」と言って王冠を手渡し Giskra János> た、というお話は知ってましたが公式な形でその Giskra János> ような制度があったとは知りませんでした。 “公式”な制度と言えるのかどうか...。実はハンガリーが“使 途王国”であるという公文書はハンガリーにもヴァチカンにも残って いないのですよね。(そういう具合に聞いています。)同様に、フ ニャディ・ヤーノシュがナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラー ド)の会戦でトルコ軍を打ち破ったことに対するキリスト教世界の感 謝の印として、当時のローマ法王が勅令で、それ以降正午に鳴らす教 会の鐘はハンガリーに対する感謝の意味とするとしたというのはハン ガリーでは有名な話ですが、これも実はハンガリーにもヴァチカンに も(余りにも昔の話なので)公文書は残っていないのです。ですか ら、今ではヴァチカン当局は「そんな昔の史料は残っていないので、 本当のことは知らん (^◇^;)!」とお茶を濁しているらしいです が...。でも、多分、“使途王国”に任じられたこととか、“教会の 正午の鐘の由来”等はハンガリー人にとっては当時は非常に名誉だっ たはずで、だから忘れなかったと考えることの方が自然だと思いま す。ヴァチカンにしてみれば、いかに安上がりに報奨を与えるかとい うことしか念頭になかったはずで、とっくにそんなことは忘れていて 当然でしょう (^◇^;)。 もしも現在もハンガリーが王国であったならば、あるいは、今は 共和国ですが、ハプスブルク家の末裔を招いて王国を復活しようとす れば(個人的にはハンガリーの国王がドイツ人のハプスブルク家にな るというのはどうもねぇ...)、現在ハンガリーに主座大司教公がい ようがいまいが、きっと戴冠式を挙げることでしょう。しかし、もし も主座大司教公が存在していれば、きっと、伝統に則って主座大司教 公が国王を叙任する儀式も行われたことでしょう。ま、慣習法という のは所詮その程度のものだと思います。
>472 :ギシュクラ・ヤーノシュさん Giskra János> >ハンガリーの映画 Giskra János> ハンガリーとフランスかな?の合作映画で「暗い Giskra János> 日曜日」という聞いた人が続々と自殺してしまっ Giskra János> たという恐るべきシャンソンの話を題材にした映 Giskra János> 画が公開されるそうです。 「暗い日曜日」は原題は「悲しい日曜日」(Szomorú vasárnap) といい、ハンガリーの“演歌”(ノータ、nóta)です。当 時、世界大恐慌の暗い世の中で、この曲は世界中で大ヒットしまし た。フランスではダミヤがフランス語に訳された曲を歌ったのです が、日本にはこのダミヤの曲が入り、ヒットしました。それで現代で も日本では「暗い日曜日」はフランスのダミヤのシャンソンだと信じ られているようです。ちなみにハンガリー人はダミヤのヒット曲に なったことは知らず、米国で何とかという歌手が歌ったのが世界的に ヒットしたと信じられているようです。 この曲は、元々世界大恐慌で世界中の人々が鬱状態になっていた 時に大ヒットしたために、世界中で自殺が相次いで(専ら橋から川に 飛び込む自殺が多かったようです)、世界中で発禁になったというい わくつきの歌です (^◇^;)。 ちなみに、日本でヒットしたハンガリーの歌 (?) という点でユ ニークなのは、五木ひろしが歌った「横浜黄昏」が実はアディ・エン ドレの詩の“盗作”だというので、一時期マスコミで騒がれたことが ありましたよね。確かに徳永康元先生の訳詞と瓜二つです (^◇^;)。 当時、週刊誌に“作詞者”の弁明が載っていたそうですが、「原 訳者の徳永氏ご本人の許可を得ている。徳永氏は、詩等の芸術作品は 一度発表されれば、作者の手を離れてしまい、人々が自由に作り替え ても当たり前だとおっしゃってくださいました」と書かれていたそう です(徳永先生談)。徳永先生は「作詞者から承諾の依頼など来たこ とはなかったんだけどねぇ。僕は知らないよ。でも、いかにも僕が言 いそうなことで困っちゃった (^^ゞ」と笑っておっしゃっていまし た。ちなみに、ブローディも同じことを言っています。
>472 :ギシュクラ・ヤーノシュさん Giskra János> >エステルハージ・ペーテル Giskra János> 今度はエステルハージ家に関する歴史物を執筆中 Giskra János> らしいですね。翻訳されるかなぁ。 お、ハンガリーの最新情報にもお詳しいですね (^^)! でも、 まあ、翻訳されないでしょうねぇ...。翻訳しても出版社がありませ ん。かつては(株)恒文社(ベースボール・マガジン社)が東欧関係の 文学作品は一手に出版していたのですが、社長の代が替わり、現在の 出版不況でとてもそんな会長の“道楽”には付き合ってられなくなっ たようです。そういうわけで、現在では東欧の文芸作品を出す可能性 があるのは未知谷(みちたに)だけになってしまいました...。だい たい今では東欧の文学作品だけではなく、書籍そのものが売れなく なってしまっていますからねぇ。雑誌にしても今では見開き2ページ 以上の記事は読まれなくなっていますので...。悲しい現実です...。 Giskra János> 個人的には「エゲルの星」という小説を読んでみ Giskra János> たいです。英訳本が出てるそうですが、根性が無 Giskra János> い・・・(泣) ガールドニ・ゲーザの歴史小説ですか (^^)?(ジュブナイル小 説かな (^◇^;)?)あれは結構分厚いですよぉ (^.^;)。これはハン ガリーでは映画化もされましたね。(『国王イシュトヴァーン』で も、祈祷師トルダが未来を予言するときにこの映画の一場面が登場し ますね。)この映画はエゲルの城壁によじ登るトルコ兵が腕時計をし ているというので有名です \\(;^0^;)//。
481 :
世界@名無史さん :02/01/15 13:18
戦前に「暗い日曜日」の日本語版を歌った歌手には、淡谷のり子や東海林太郎がいました。
482 :
世界@名無史さん :02/01/15 13:20
イシュト( ゚Д゚)ヴアー!ン
483 :
世界@名無史さん :02/01/16 20:20
しい坊すげえ。
484 :
ELTE学生 :02/01/16 21:09
>465 :しい坊 しい坊先生バリバリ左翼ですねえ?ビックリしましたよでも(爆) まあ資本主義を取り入れなかったからハンガリーが汚くなったという理論は 資本主義国でありながらトルコやポルトガルはきたないという事実があるので間違っていることは認めますが、 でもやはりもしイギリスやフランス、日本も含めてもしソビエトに占領支配されていたら汚くなっていたと思いますよ? 経済もここまで絶対に発達しなかったですよ。朝鮮半島、キューバを見れば歴然だと思いますよ? おかしいですよあまりにもしい坊先生!共産支配を擁護しすぎですよ。人それぞれには好き嫌いがあるのでお気持ちはわかりますが。 共産主義では国は発展しませんよ。今のブタペストは西側資本が多く入り、また西側との輸出入も自由になり、 西側資本の大きな新しいモールなどがどんどんできてますし、ハイウエーも随分整備されてきましたし、 5年後には東駅もドイツ資本で改修されてきれいになることですし、どんどんよくなってますよ。 共産主義時代の方がよかったなんてどうゆうことですなんですか???わけがわかりません。 それからハンガリー人がお金がなかったかラ国外に出れなかったというのもおかしいです。 規制していたからですよ。日本と違って国境線の鉄条網でです。ベルリンの壁ですよ。 いくらお金がなくてもオーストリア国境沿いすんでるひとなら車を使えばものの10分で オーストリアまでドライブにいけますよ?お金なんて要りませんよガソリン代だけで住みます。 西側では当たり前の自由を規制していた共産主義を擁護するのは絶対におかしいです。いくら先輩のしい坊先生でもです。 なんか反論してください。僕もまた反論しますから。
>484 名前:ELTE学生さん (1) ELTE学生> しい坊先生バリバリ左翼ですねえ?ビックリしましたよ ELTE学生> でも(爆) 他人にそのような“レッテル貼り”をするのは不毛です。お止め になった方がよろしいと思います。レッテルを貼ってしまうと、全て をそういうフィルターで見てしまい、相手が本当に言いたいことが見 えなくなってしまい、議論をするにしても不毛な議論になってしまい がちです。 ちなみに、僕自身は信奉する政治思想とかイデオロギーとかいっ たものは持ったことはありません。(他人の考え出した思想に追随す るなんて、自分のプライドが許さない (^◇^;)。)だから僕は左翼で もないし、右翼でもないつもりです。恐らく僕の考え方に一番近いの はいわゆる“リベラル主義”なのでしょうが、それにしても通常の理 想主義的あるいは原理主義的リベラリストではありません。恐らく、 左翼の方々から見ると、僕は極めて民族主義者で右翼的に見えてしま うでしょうし、右翼の方々から見ると、極めて左翼的に見えてしまう でしょう。保守的だったり、権威主義的な人達から見るとリベラル過 ぎるように見えるだろうし、リベラリストから見ると、恐らく保守 的・権威主義的過ぎるように見られると思います。その理由は、どの 思想の信奉者から見ても、僕の言動には彼らの主張と合いいれない部 分があるからです。あまりひとつの考え方やものの見方に囚われない 方がいいと思います。強いて言えば、リベラル・プラグマティストか なぁ...? 思想そのものよりも、ある行動を取ったときに、どのよ うな“実際の”結果が得られるかということの方に興味があります し、それに従って行動します。 ELTE学生> まあ資本主義を取り入れなかったからハンガリーが汚く ELTE学生> なったという理論は 資本主義国でありながらトルコや ELTE学生> ポルトガルはきたないという事実があるので間違ってい ELTE学生> ることは認めますが、 でもやはりもしイギリスやフラ ELTE学生> ンス、日本も含めてもしソビエトに占領支配されていた ELTE学生> ら汚くなっていたと思いますよ? 当然、英国も日本も共産化していたら、ずっと汚くなっていたで しょう。でも、きっと同様に共産化された中国よりは清潔だったで しょう。これは別に僕が前に言ったこととは矛盾はしませんが? 僕 が言いたかったのは、ハンガリーが共産圏に組み込まれなかったら、 多分、多少はより奇麗にはなっていただろうけれども、それでも、ど れ程奇麗になっていたかはわからない、恐らくはオーストリアよりは 汚く、ルーマニアよりは奇麗なままであったろうなぁということのみ です。で、本当のことは歴史には「もしも」がないのだから、わから ないということです。 それよりは僕がハンガリーが社会主義国になっていなかった ら...と羨ましく (?) 思ったのは、フィンランドで(『プレイボー イ』のような)フィンランド語の男性誌を購入した時でした。フィン ランド語はハンガリー語と同じウラル語です。奇麗なアート紙に、奇 麗な印刷の写真と、印欧語族では全く解読できないフィンランド語独 特の綴りの文字列を見た時でした。「ああ、ハンガリーが東欧圏に組 み込まれていなかったら、今頃、こういう奇麗な雑誌もウラル語であ るハンガリー語で印刷されていたんだろうなぁ」と思うと感無量でし た。(このことは、ハンガリーで初めて『プレイボーイ』のハンガ リー語版が出された時に『プレイボーイ』日本語版の特集記事で書き ました。)
>484 名前:ELTE学生さん (1) ELTE学生> しい坊先生バリバリ左翼ですねえ?ビックリしましたよ ELTE学生> でも(爆) 他人にそのような“レッテル貼り”をするのは不毛です。お止め になった方がよろしいと思います。レッテルを貼ってしまうと、全て をそういうフィルターで見てしまい、相手が本当に言いたいことが見 えなくなってしまい、議論をするにしても不毛な議論になってしまい がちです。 ちなみに、僕自身は信奉する政治思想とかイデオロギーとかいっ たものは持ったことはありません。(他人の考え出した思想に追随す るなんて、自分のプライドが許さない (^◇^;)。)だから僕は左翼で もないし、右翼でもないつもりです。恐らく僕の考え方に一番近いの はいわゆる“リベラル主義”なのでしょうが、それにしても通常の理 想主義的あるいは原理主義的リベラリストではありません。恐らく、 左翼の方々から見ると、僕は極めて民族主義者で右翼的に見えてしま うでしょうし、右翼の方々から見ると、極めて左翼的に見えてしまう でしょう。保守的だったり、権威主義的な人達から見るとリベラル過 ぎるように見えるだろうし、リベラリストから見ると、恐らく保守 的・権威主義的過ぎるように見られると思います。その理由は、どの 思想の信奉者から見ても、僕の言動には彼らの主張と合いいれない部 分があるからです。あまりひとつの考え方やものの見方に囚われない 方がいいと思います。強いて言えば、リベラル・プラグマティストか なぁ...? 思想そのものよりも、ある行動を取ったときに、どのよ うな“実際の”結果が得られるかということの方に興味があります し、それに従って行動します。 ELTE学生> まあ資本主義を取り入れなかったからハンガリーが汚く ELTE学生> なったという理論は 資本主義国でありながらトルコや ELTE学生> ポルトガルはきたないという事実があるので間違ってい ELTE学生> ることは認めますが、 でもやはりもしイギリスやフラ ELTE学生> ンス、日本も含めてもしソビエトに占領支配されていた ELTE学生> ら汚くなっていたと思いますよ? 当然、英国も日本も共産化していたら、ずっと汚くなっていたで しょう。でも、きっと同様に共産化された中国よりは清潔だったで しょう。これは別に僕が前に言ったこととは矛盾はしませんが? 僕 が言いたかったのは、ハンガリーが共産圏に組み込まれなかったら、 多分、多少はより奇麗にはなっていただろうけれども、それでも、ど れ程奇麗になっていたかはわからない、恐らくはオーストリアよりは 汚く、ルーマニアよりは奇麗なままであったろうなぁということのみ です。で、本当のことは歴史には「もしも」がないのだから、わから ないということです。
>484 名前:ELTE学生さん (2) それよりは僕がハンガリーが社会主義国になっていなかった ら...と羨ましく (?) 思ったのは、フィンランドで(『プレイボー イ』のような)フィンランド語の男性誌を購入した時でした。フィン ランド語はハンガリー語と同じウラル語です。奇麗なアート紙に、奇 麗な印刷の写真と、印欧語族では全く解読できないフィンランド語独 特の綴りの文字列を見た時でした。「ああ、ハンガリーが東欧圏に組 み込まれていなかったら、今頃、こういう奇麗な雑誌もウラル語であ るハンガリー語で印刷されていたんだろうなぁ」と思うと感無量でし た。(このことは、ハンガリーで初めて『プレイボーイ』のハンガ リー語版が出された時に『プレイボーイ』日本語版の特集記事で書き ました。) ELTE学生> 経済もここまで絶対に発達しなかったですよ。 今のハンガリーの経済が1970年代のハンガリーよりもどれだけ発 達しているのかは大いに疑問のあるところです。少なくとも生活水準 が当時よりも下がったということは、多分、衆目の一致するところだ と思います。ま、こういうことを書くと、またまた僕が社会主義経済 を擁護していると誤解されてしまうんでしょうけど、そうではないの です。基本的には僕はハンガリーの経済は浮揚するだろうし、今後は どんどん良くなっていくだろうと予想しています。だから、恐らく10 年後か20年後には社会主義時代よりもずっとよくなっているだろうと 考えています。(本当は1995年頃には社会主義時代よりも生活水準は 高くなっているだろうと予想していたのですが、残念ながら外れまし た...。1990年に政権に就いたMDF政権があんなにもハンガリーの 経済をがたがたにして、それまでのハンガリーの経済的資産を食いつ ぶすとは予想していなかったもので。)もっとも、ハンガリーが社会 主義のままだったとしてあと10年後にどうなっていたかは判断のしよ うがないのは事実ですけれども。 ELTE学生> 朝鮮半島、キューバを見れば歴然だと思いますよ? 全然見当違いです。対外債務が増大していたかどうかは置いてお いて(日本だって東海道新幹線は開発途上国向けの世銀の融資で賄っ たのですから)1970年代のハンガリーは社会主義国で唯一、物不足の ない、“消費社会”を実現していた国家でした。一般的には社会主義 国の農業は非常に効率が悪いと考えられるのが常識ですが、ハンガ リーの農業生産協同組合の小麦生産の効率は確か、米国と世界の一二 位を争っていたはずです。他の社会主義国では食料品が日常的に不足 していましたが、ハンガリーは食料品は潤沢に供給されていました。 これは別に“だから社会主義は優れていた”と主張するために言って いるのではありません。単に当時のハンガリーの現実はそうだったと いう事実を述べているに過ぎません。
>484 名前:ELTE学生さん (3) ELTE学生> おかしいですよあまりにもしい坊先生!共産支配を擁護 ELTE学生> しすぎですよ。 どこを読んでそうおっしゃっているのでしょう? 「共産主義体 制は悪魔の体制であった」と主張しなければ、その人物は共産主義者 だということになってしまうのでしょうか? 恐いですね。僕自身は このスレッドで何度もハンガリーの一党独裁制が崩壊したことを歓迎 しているという発言をしているはずですし、ポジュガイのセリフの中 にも“共産主義は非倫理的だ”という表現を引用しています。(僕自 身は共産主義は非倫理的だとは考えてはいませんけどね。) 基本的に共産主義に対する僕のスタンスはこうです。共産主義は 理想主義のユートピア思想の一種であるので、その点からは非倫理的 とは言えず、むしろ倫理的な思想だと考えています。しかし、共産主 義の思想は必然的に独裁制・専制の生み出すメカニズムを内在してい ると考えています。従って、目的は倫理的かもしれないが、その実践 においては非倫理的にならざるをえないものだと考えています。従っ て、僕は共産党の一党独裁体制を支持しませんし、共産党が日本の与 党になることも歓迎しません。ただし、僕は共産主義者ではありませ んが、反共主義者でもありません。ある種の容共主義者ではありま す。(反共主義者にとっては容共主義者も共産主義者も同じなんで しょうけれども。) ELTE学生> 人それぞれには好き嫌いがあるのでお気持ちはわかりま ELTE学生> すが。 全然わかってないではありませんか。だって僕は別に共産党も共 産主義も好きではないのですから。ただ、単に、世の反共プロパガン ダによって流布されているステレオタイプに対して、事実と違ったも のは違っていると言っているに過ぎません。事実を述べることは別に 共産主義を擁護することとは違うと思います。もしもその違いがおわ かりにならないのであれば、これ以上何を議論しても無駄でしょう。
>484 名前:ELTE学生さん (4) ELTE学生> 共産主義では国は発展しませんよ。 それについては僕は経済学者でもないし、政治学者でもないし、 哲学者でもないので、判断できませんので、判断を留保します。た だ、僕個人としては大事なのは、共産主義者たちが目指すように、と にかく共産主義者界を実現しさえばいいのだとも考えませんし、資本 主義経済の信奉者たちが主張するように経済の発展が速ければいいの だとも考えません。大事なのは結果であって、例え経済の発展が緩や かでもより多くの人々が安心して暮らせ、幸せだと感じられる世の中 がいいのだと考えています。資本主義だろうと、社会主義だろうと、 自由で、民主的で、有意義な人生が送れる社会がいいと考えていま す。多少の不平等があっても、多少の貧富の差があっても、例えばリ ストラにあっても、家を手放したり、一家心中をしなくて済む社会が 理想です。あまり原理主義的にガチガチに平等主義に徹してしまう と、悪平等になり、息苦しくなってしまうでしょう。多少の不正や悪 徳が容認される社会の方が好ましいと考えています。 議論を進める上で注意しなくてはいけないのは、基本的に社会主 義か資本主義かという問題は経済システムの問題であって、民主主義 とか自由の問題、あるいは貧富の差の問題は、それらとは別の次元の 問題だということです。資本主義国でも民主的で社会保障の充実した 国もありますし、専制的な独裁国家もあります。社会主義国でも某国 のように自由もなく、食べ物もない、恐怖政治の行われている国もあ れば、かつてのハンガリーのように比較的自由で、豊かな社会もあり えるわけです。(現在西欧の多くの国で政権を取っている政党は社会 民主主義政党ですから、これは社会主義のバリエーションの1つで しょう。社会主義インターにも加盟していますしね。)要するに住み よい社会がいい社会なのであって、その国のイデオロギーがどうかと いうのはどうでもいいことだと考えています。 ELTE学生> 今のブタペストは西側資本が多く入り、 市場が独占され、例えば廉価で良質なハンガリー産の農産品を流 通させることができなくなりましたよねぇ...。 ELTE学生> また西側との輸出入も自由になり、 西欧との貿易は昔から大規模でしたが? かつてのハンガリーの 最大の貿易相手国はソ連でしたが、2番目は確か西ドイツだったはず です。ちなみに1970年代、学生時代には僕も小物ですが、色々ちまち まと必要なものを個人輸入していましたよ。
>484 名前:ELTE学生さん (5) ELTE学生> 西側資本の大きな新しいモールなどがどんどんできて ELTE学生> ますし、ハイウエーも随分整備されてきましたし、 高速道路が昔よりも整備されてきているのは当然でしょう。それ だけ時間が経っているのですから。しかし、すでに社会主義時代にも 高速道路網はそれなりに整備されていましたよね? 僕の時代はバラ トン湖に到る高速M5号線から始まり、ジェールまでとジェンジェ シュ辺りまでかな? それから時間が経っているのですから、高速道 路が更に伸びているのは別に不思議でも何でもないでしょう? もち ろん、資本主義社会になって、整備の速度がより速くなったというこ とは十分あるとは思いますけど。別にそれは否定しませんが。資本主 義というのはそういうものです。 ELTE学生> 5年後には東駅もドイツ資本で改修されてきれいになる ELTE学生> ことですし、どんどんよくなってますよ。 70年代もそれまでくすんでいたブダペストがどんどん“お色直 し”され、カラフルに奇麗になっていっていました。別に時代と共に どんどん良くなるというのは不思議でもなんでもないと思いますけ ど?(逆に最近のブダペストは落書きが増えて、却って汚らしくなっ ているようにも思えますが?) ELTE学生> 共産主義時代の方がよかったなんてどうゆうことですな ELTE学生> んですか???わけがわかりません。 誰がそんなことを言ったのでしょう? 僕もわけが分かりませ ん。あることに関して「社会主義時代のハンガリーではこうだった」 と述べたり、「○○に関しては社会主義時代のハンガリーの方が良 かった」と述べたりすることは、単に事実を述べているだけであっ て、論理的に「だから社会主義の方が優れている」とか「社会主義時 代の方が良かった」と主張していることにはならないでしょう?(も ちろん、社会主義時代の方が悪かったということにもなりません が。) 社会主義時代にあったものは全て今よりも悪く、社会主義体制の ものは全て悪であり、それを認めないものは全て共産主義者だと断罪 するのは思考停止だと思いますよ。いいものはいい、悪いものはわる い。例えば、仮に「1970年代(偶然社会主義時代だったのですが)の アイスクリームは美味しかったが、最近(偶然資本主義時代なのです が)のアイスクリームはまずくなった」と言ったとしたら、それで社 会主義を美化したことになるのでしょうか? 単にアイスクリームが 美味いか、不味いかという話をしているだけでしょう?
>484 名前:ELTE学生さん (5) ELTE学生> 西側資本の大きな新しいモールなどがどんどんできて ELTE学生> ますし、ハイウエーも随分整備されてきましたし、 高速道路が昔よりも整備されてきているのは当然でしょう。それ だけ時間が経っているのですから。しかし、すでに社会主義時代にも 高速道路網はそれなりに整備されていましたよね? 僕の時代はバラ トン湖に到る高速M5号線から始まり、ジェールまでとジェンジェ シュ辺りまでかな? それから時間が経っているのですから、高速道 路が更に伸びているのは別に不思議でも何でもないでしょう? もち ろん、資本主義社会になって、整備の速度がより速くなったというこ とは十分あるとは思いますけど。別にそれは否定しませんが。資本主 義というのはそういうものです。 ELTE学生> 5年後には東駅もドイツ資本で改修されてきれいになる ELTE学生> ことですし、どんどんよくなってますよ。 70年代もそれまでくすんでいたブダペストがどんどん“お色直 し”され、カラフルに奇麗になっていっていました。別に時代と共に どんどん良くなるというのは不思議でもなんでもないと思いますけ ど?(逆に最近のブダペストは落書きが増えて、却って汚らしくなっ ているようにも思えますが?) ELTE学生> 共産主義時代の方がよかったなんてどうゆうことですな ELTE学生> んですか???わけがわかりません。 誰がそんなことを言ったのでしょう? 僕もわけが分かりませ ん。あることに関して「社会主義時代のハンガリーではこうだった」 と述べたり、「○○に関しては社会主義時代のハンガリーの方が良 かった」と述べたりすることは、単に事実を述べているだけであっ て、論理的に「だから社会主義の方が優れている」とか「社会主義時 代の方が良かった」と主張していることにはならないでしょう?(も ちろん、社会主義時代の方が悪かったということにもなりません が。)
(何度入力しても“ERROR:2重カキコですか??” なるのはなぜ!?)
>ELTE学生 細かいツッコミはしい坊さんがされているからも ういいけどさ >それからハンガリー人がお金がなかったかラ国外に出れな >かったというのもおかしいです。規制していたからですよ >。日本と違って国境線の鉄条網でです。ベルリンの壁です >よ。いくらお金がなくてもオーストリア国境沿いすんでる >ひとなら車を使えばものの10分でオーストリアまでドラ >イブにいけますよ?お金なんて要りませんよガソリン代だ >けで住みます。 あんたがこの程度の日本語能力でどうやって奨学金選考試験 に合格したのか小一時間問い詰めたい。正直交代せえや。
>484 名前:ELTE学生さん (6) ELTE学生> それからハンガリー人がお金がなかったかラ国外に出れ ELTE学生> なかったというのもおかしいです。 おやおや、誰もそんなことは言っていないではありませんか。ハ ンガリー人はお金はありましたよ。単にハンガリーという国家に外貨 準備が不足していたのです。だから外貨を統制していた。で、それは 日本でも1964年までは同じだったと言ったまでです。ちなみに、個人 的には例え外貨が交換できずとも、別に個人が出国する回数を制限す べきではないと考えています。大きなお世話です。しかし、現実には 日本も含めて制限していたわけです。これに関しても単にそういう事 実問題のみで、それ以上でも、以下でもありません。(ちなみにハン ガリー人の対西側旅行の制限はすでに社会主義時代の末期には撤廃さ れていましたよね?) ELTE学生> 規制していたからですよ。 ですから、規制するのは国家の主権行為なんだってば。「無いそ では振れない」ということに過ぎません。で、繰り返し念のために 言っておきますが、僕はそれに対しては批判的です。はい。しかし、 当時のソ連東欧圏ではハンガリーが対西側旅行に関しては最も自由で 寛容だったということも事実です。ハンガリーはワルシャワ条約機構 に加盟させられ、制限主権論という恫喝の下では一国で自由に政策を 決められなかったのです。そういう制限の中では非常によくやってい たと思いますよ。それとも、ハンガリーがそういうソ連などの目を無 視して、完全に西側旅行を自由化して、それでソ連に軍治占領され て、外国旅行は一切禁止されてしまった方が良かったのでしょうか? 何がいいか、あるいはどうあるべきかという理念の問題と、現実の選 択肢の問題は違います。大切なのは、当たれられた条件の中で最善の 方法を選択することなのではないのでしょうか? それが国民に対し て責任を持つという政治家のあるべき姿ではないのですか? ELTE学生> 日本と違って国境線の鉄条網でです。 オーストリアとの国境線は一般的に信じられている鉄条網ではな く、金網が大部分でしたし、国境地帯に別に地雷原もありませんでし た。オーストリアとの国境線はハンガリー側もギリギリまで農地で、 ハンガリー人の農民がオーストリア側の農民とフェンス越しに「ご精 が出ますな」なんてやっていたのです。もちろんフェンスを飛び越え れば、簡単に亡命は出来ましたが、そんなことをする必要はありませ んでした。オーストリアに行きたければ、通境地点で旅券を提示して 合法的に出国すれば良かったのですから。(オーストリアだけではな く、ハンガリーと国境を接する地域の住民は、その隣国と自由に行き 来できるフリーパスを所有していました。ただし、これは相互主義な ので、相手国との交渉により、国境により、その距離は違ってきてい ました。例えば、ルーマニア政府はハンガリー人の入国を好まず、そ の地域をできるだけ短距離にしようとしていました。)
>492 名前:しい坊 しい坊> (何度入力しても“ERROR:2重カキコですか??” しい坊> なるのはなぜ!?) おや、本当に二重書き込みになった! でも、1回しか送信して ないのに変だなぁ (^^ゞ。
>484 名前:ELTE学生さん (7) ELTE学生> ベルリンの壁ですよ。 ベルリンの壁はハンガリーにはありませんでしたし、他の東欧諸 国にもありませんでした。東独は分断国家ですから、非常に特殊な状 況に置かれておりました。恐らく西側に一切旅行できない唯一の東欧 国家だったでしょう。 ELTE学生> いくらお金がなくてもオーストリア国境沿いすんでるひ ELTE学生> となら車を使えばものの10分でオーストリアまでドラ ELTE学生> イブにいけますよ?お金なんて要りませんよガソリン代 ELTE学生> だけで住みます。 だからオーストリアとの国境沿いに住んでいた人達は社会主義時 代にも自由にオーストリアに行けたんだってば。 ELTE学生> 西側では当たり前の自由を規制していた共産主義を擁護 ELTE学生> するのは絶対におかしいです。 誰も擁護していないのにねぇ。(別に非難もしてないけど。) ELTE学生> いくら先輩のしい坊先生でもです。 僕はあなたがどなたか存じあげないし、本当にあなたがエトヴェ シュ・ロラーンド大学の学生さんなのかどうかも知りえる立場にはあ りませんから、それがわかるまでは“先輩”という称号は返上してお きましょう。 ELTE学生> なんか反論してください。僕もまた反論しますから。 ためにする議論などはしたくはありません。ステレオタイプでし かものごとを判断できないのであれば、全ては不毛です。 基本的に僕のスタンスは社会主義時代のハンガリーを擁護するつ もりも、非難するつもりもありません。単に僕が留学していた当時の ハンガリーではこれこれはこうだったという個人の体験談を語ってい るだけです。その時代のハンガリーが社会主義国家だったということ は単なる偶然に過ぎません。ただ、あのある意味で非常に退屈な、何 も起こらない平和な時代にハンガリーに留学できたというのは、ある 意味で、僕自身の持っている社会主義に対する予断や偏見を打ち破る 上では有効だったとは思っています。
>493 名前:世界@名無史さん 世界@名無史さん> >ELTE学生 世界@名無史さん> 細かいツッコミはしい坊さんがされているからも 世界@名無史さん> ういいけどさ 別に返事をしただけであって、“ツッコミ”をしたつもりはない のですが...(^◇^;)。ただ、あまりステレオタイプをガンガン言われ てもねぇ...。 世界@名無史さん> ELTE学生> それからハンガリー人がお金がなかった 世界@名無史さん> ELTE学生> かラ国外に出れなかったというのもおか 世界@名無史さん> ELTE学生> しいです。規制していたからですよ。日 世界@名無史さん> ELTE学生> 本と違って国境線の鉄条網でです。ベル 世界@名無史さん> ELTE学生> リンの壁ですよ。いくらお金がなくても 世界@名無史さん> ELTE学生> オーストリア国境沿いすんでるひとなら 世界@名無史さん> ELTE学生> 車を使えばものの10分でオーストリア 世界@名無史さん> ELTE学生> までドライブにいけますよ?お金なんて 世界@名無史さん> ELTE学生> 要りませんよガソリン代だけで住みま 世界@名無史さん> ELTE学生> す。 世界@名無史さん> 世界@名無史さん> あんたがこの程度の日本語能力でどうやって奨学 世界@名無史さん> 金選考試験に合格したのか小一時間問い詰めたい。 世界@名無史さん> 正直交代せえや。 あれ? ELTE学生さんは、正規のエトヴェシュ・ロラーンド大学 の学生さんではなくて、短期の政府間交換留学生(聴講生)だったの かしら!? 僕はてっきり、通常の5年制課程の学生さんだとばかり 思っていたんだけど...。(短期の聴講生だけで普通“ELTE学生”っ て名乗るものかなぁ...?)で、世界@名無史さん、ハンガリーの公 費留学性の試験を狙っているのですか (^^)? もしもそうなら、頑 張ってくださいね!
498 :
世界@名無史さん :02/01/17 02:53
このスレって読みにくいよね
まあその筋の人が集まっているようなので 仕方ないとおもわれ
500 :
反共ステレオタイプ :02/01/17 06:10
しい坊先生長々とありがとうございました。一学生に真剣にお答えくださり感謝いたします。 ELTEの学生はやめましょう。もうすぐ西側の研究所へ移る予定ですから。 では、共産主義を擁護していないのでしたら、これまで複数見られる例えば冷戦時代オース トリアとの国境沿いにあった鉄条網のようなことをあえて非難しないことは止めてください。 自由に旅行できるのでしたら鉄条網はまったく必要ないです。なぜ作ったんですか?非常に 西側的常識から考えておかしいです。共産主義擁護者に見られてもしょうがないと思いますよ。 オーストリアが鉄条網を作ったことなどないですよ?なぜハンガリー側だけあったのですか? おかしいじゃないですか?共産主義の産物ですよあれは。共産主義擁護者ではないのでしたら このような西側の常識から見たら非人道的なハンガリーでのこれまでの出来事をちゃんと常識 的に非難してください。冷戦時代の共産主義擁護的な書き方はやめてください。誤っていた出 来事はちゃんと非難しなければだめです。非難を忘れていいことばかり書いていては誤解を与 えます。これでは国を存続させるためにドイツに迎合したフランスのビシー政府まで肯定的に 書けることになりますよ。しい坊先生の書き方はそのような書き方です。ペタン元帥はあの状 況でやれるだけのことはしたと。ソ連占領時代はそれがハンガリーのできうる最善の意思表示 抵抗であったと。だから非難されるべきではないと。いいことばかり書いて影の部分をなるべ く覆い隠すような書き方は誤解を与えます。ですから影の部分もしい坊先生は詳しく書くべき です。ナチスドイツ時代にドイツに留学していた日本人は居心地がよかったでしょう?同盟国 ですし思想的に共鳴していた学生が多かったでしょうから。しい坊先生の文面を見ているとそ のような学生とどうしてもダブってしまいます。イギリスからみたような西側的客観性から書 いてください。非難すべきところはちゃんとしてください。そこがしい坊先生のいけないとこ ろです。共産主義擁護的に見られても仕方がないのではないでしょうか?
ABC> あれだけ自説をのべて後はトンヅラか。。。 464>しい坊 相変わらず、その性格は治らないようですな...。どうして も(匿名性に隠れて)そのように汚らしい、他人を誹謗する表 現を使わないと気がすまないようで...。やれやれ。 しい坊さん?! 私は以前には全くお話したことがないビギナーですって。 ハンドル名はABCです。トンズラ発言でカチンときましたね。すみません。お待ちしてたんですよ復帰を。 でも少しナイーブでいらっしゃられますね。「他人を誹謗する表現」なんて。 じゃあ実名を挙げられたこの方の立場は?(^^)? >130 羽場久美子さんは講談社現代新書で音楽家のバルトーク・ベーラや 詩人のアディ・エンドレのこともユダヤ人だったと書いて、ハンガ リー研究家達の失笑を買っていますが(2人ともユダヤ人ではありま せん!)、困ったことに一般の読者は彼女の説を信じてしまい、また あちことでそれを広めることでしょう。 早朝からお昼までご返答有難うございました。すごい情熱ですね!しい坊さんは 私の親の世代にあたる方なので胸を借りるつもりで勉強させていただきます。 それではまた。
とりあえずあんた今度西側とやらへ行くときは国境を無断で 越えて見てくれや。大丈夫なんだろ。自由世界なら無断越境 しても。射殺なんかされないよな。是非やってみな。 それでまだ生きてたら今度はアメリカとメキシコの国境に トライだ。パスポート持って検問くぐるの嫌いみたいだから あんたの脳内では鉄条網の無いらしい自由世界の国同士の国 境をスルーっと逝っちゃって下さい。
503 :
世界@名無史さん :02/01/17 07:48
よくわからんが、軍事板によく 「おれは元傭兵だ。アフガンで戦ってきた」 という経歴の方がくるが・・・・。 あんな感じですか?
>501 ありゃ、あんたいつぞやの荒らしさんじゃ なかったの。いやみんなてっきりあなたが そうだと思ってるはずだよ。ごめんね。
>503 一兵卒としてアフガンで戦っただけ人間が小銭稼ぎにアフガンの政治を語るのと、学者になろうとハンガリーに行った人間がハンガリー社会について語るのは本質的にちゃうでしょ。本職なんだから。
後さっきのしい坊さんの話に対するあんたの言いようを見てると 戦争中に大陸に行ってたじいちゃんが「現地の村人を治療して感 謝された。浄水器も分けてあげたらもっと感謝された。略奪だけ してたわけじゃないんじゃよ」とか言っただけで「侵略戦争を美 化している」とかいうあなたの嫌いらしい左翼と似たような印象 を受けたんだがね。
507 :
真性ヴァカはお前だ :02/01/17 08:23
流れとしては大体メキシコからアメリカへの不法移民がほとんどでしょ。 その逆はあまり聞かないよ。犯罪者ぐらいだよ。 冷戦時代も東から西への流れが主だよね? 富める国へ、自由の国へ人は流れるよ。ハンガリーがほんとに西側よりも 自由で富める国ならどうしてハンガリーへ西側からの人が流れなかったのか? 意味してることは歴然でしょう?射殺も逆流してるやつにはあんましないぜ? スパイと思われたやつ以外はなあ?無断でチェコにはいろうとしたオーストリア人が オーストリアの警備隊に射殺される?ありえんな。西はそんなことしなかったよ。 少しは自分の負を認めるべし。どうしてこんなあたりまえのこと認めて反省しないのかなあ? 浄水器のことも書いたら、アジア人を虐殺したことも書かなきゃいけないね。 でなきゃフェアーじゃない。偏ってる。だから左翼なんだよ。中道的に書くべし。
>>495 しい坊さんが戻ってこられたようで何よりです。
> おや、本当に二重書き込みになった! でも、1回しか送信して
> ないのに変だなぁ (^^ゞ。
よくわかりませんが、この時間帯はなにやらサーバーが不調だった
模様です。
509 :
元ELTE学生 :02/01/17 16:23
422 :ELET学生 :01/12/18 00:30 自分は単にしい坊先生のように自分が実際に体験した経験を書いただけでしたのに この文章の共産主義と汚いという部分がしい坊先生には非常に不快感を与えてしまったようです。 いきなりさとすように反発を受けてしまいました。これがやり取りの始まりです。 地球の歩き方にも批判的にかかれていますBKVにつきましてもさとすようなコメントをお願い致します。 それと自分の経験だけが一番正しいというような反発はやめてください。こちらも不快です。 私はしい坊先生からみると確かに20以上はなれて若輩ではありますが、 しい坊先生のようにここで実際に経験して感じたことを書いただけです。 どうしてそれに対していちいち反共ステレオタイプに犯されている ような書き方(実際にそう中傷もされましたが)をなさるのでしょうか? 非常に卑怯です。自分と感じ方が違う経験をした人間がいてもいではないですか? 僕はこう感じただけなのです。それに対してそこは違うここはこうだと 自分の経験が全て正しいというような書き方は止めてください。 そうかかれれたのでこちらも返事をしたのです。 そのような事もあるのかと、実際の他人の経験は尊重してもいいのではないでしょうか。 主義主張で他人を決め付けているのはしい坊先生ですよ。 私は反共ステレオタイプでもなんでもありません。 ただ普通の日本人留学生(日本でもそんなへんな思想本や団体に入っていたこともありません) として感じたことを書いただけです。 自分の主義主張と相容れない不都合な部分だけ過敏に反応して 自分の経験だけからコメントを勝手にしないでください。 あなたが全て正しいと誰がいえるのでしょうか? そう言えないのでしたら他人の意見も反共ステレオタイプの ようなくくり方を心の中でしないで、コメントしないでもいいのではないでしょうか? 自分と違う経験をした他人を認めるということが先生には足りないです。 ハンガリーにもう1年以上留学してますが、観光するのと住むのとはやはり随分違うと感じます。 ハンガリーでも観光地はすごくきれいですがそこを外れるとすごく汚い場所が多いです。 しかし逆に観光地だけみて帰るのは、主に王制時代にできた歴史的建築物などが中心になるので まさにハンガリーの歴史と伝統の史跡めぐりとなり非常にすばらしい思い出になると思います。 もしハンガリーもオーストリアのように共産主義化されなければウイーンのような全体的にきれいな町 になっていたことを考えるとソ連共産主義が与えた影響は非常におおきいと感じます。 また共産主義時代はまともに外国旅行もできなかったり、秘密警察がいたりと さまざまな自由の制約があったことを知り非常にショックを受けました。 しかしついに真の自由を手に入れたハンガリー人に今は祝福を贈りたいと思います。 しかしブタペストのBKV(切符検札員)の態度のでかさと無礼さにはいつも腹が立ちます。 共産主義精神が彼らにはまだまだ非常に残っているようですのでハンガリーに旅行にきたときは 皆さん非常にきおつけてください。観光客には何かといちゃもんをつけてきますので。 彼ら盗人と同じですのでからまれたら1500Fをわたして退散してください。 拒否したり抵抗するとBKV直属の警備員を呼んで裏へ連れたりするのできおつけましょう! 罰金もやたら跳ね上がります。彼らポケットに入れてしまいますが。。。 まともな西側の感覚ではまだ接しないほうがいいでしょう! まだ頭の中が共産主義のままの人間もたくさんいますのできおつけましょう! はやくEUに加盟して指導取締りして欲しいものです。 ハンガリーがさらによくなることを祈って!
510 :
世界@名無史さん :02/01/17 16:45
このスレって長さの割に伸びないよね
>132 「1.ハンガリー共産党主導の複数立候補制と民主化」 1960年代以降ハンガリーの共産党(ハンガリー社会労働党)は率先して ハンガリー社会の民主化を進めてきていました。すでに 1968年に市場経済を 導入していますし、1970年には選挙の複数立候補制を導入しています。 上記の歴史事象にはこのような事実が隠されていました。 1967年2月15日にカーダールは共産党中央委員会で選挙に臨んで、こんな 発言をしています。「我々の素晴らしい成果は約束されておる。だが、最近 の選挙結果をここ中央で少しばかり不正操作したように勝つのではない! ということを諸君らは多分勘違いしていないことを望む。」 (Feitl Ivan:Partvezetes es orsyaggyulesi valasztasok, 1949-1988. In Foldos Gyorgy – Hubai Laszlo(Szerk.):Parlamenti kepviselo-valasztasok Mo-n 1920-1998. Bp. 1999,279p)
しい坊さんのおっしゃる導入制度は愛国人民戦線という共産党の衛星組織の選挙プログラムに同意を義務づけられた非党員の立候補を可能にするものでした。しかし、候補者リストに記載される時点での共産党による妨害行為が明らかとなっています。(下記参照) 何故制度を作ってまで妨害しなければならないのでしょうか?これも 制限主権論のためでしょうか? スターリン曰く。「問題は誰がどれだけ票を集めるかでなく、誰が票を 数えるか」と。 共産党の「民主主義」概念は西欧や我々のものとは大きく異なります。 制限主権論と56年蜂起という組み合わせはカーダールを民族の悲劇的 英雄にし、そのカリスマ性と権力の正当性の確立に貢献しました。しかし、 その美名の裏では民主化どころか権力維持が優先されていた一面を過小 評価してはなりません。日本の社会的・政治的不正に敏感なしい坊さんが このような政治操作にお気づきになられなかったのは意外です。体制内 改革派の動きはむしろ体制が危機を迎え、党エリートが現体制に希望を もてなくなった85年以降でしょう。必死の綱渡りというのは 「ハンガリーの国益をソ連に対して」というよりは「ソ連を説得しつつ 自国民の望む消費の拡大と経済の効率性を高めることによる権力基盤の 再構築への努力」という意味でしたら納得できるのですが。まあこれは これで。(・v・) (Kozak Gyula (szerk.):Valasztasi almanach, 1985. Bp. 1985, ABC) 引用中、最後のABCは私のハンドル名とは関係ありません。(・v・)
>421 しかし、当時の民主化の程度において、ハンガリー以外の国はハンガリー の足元にも及ばなかったことは ABC さんもお認めになるでしょう? はい。私はポジュガイの英雄行為には異論はありません。すごいですね。 ご面識があるとは。ですから >457(6)以下の反論に対してはお答え しかねます。正直個人的な人脈をお持ちのしい坊さんにはこの問題領域では かないません。私当時まだ義務教育期間中でしたから。ただ、ホルンの動乱時 の行為の正当化には目を疑いました。
>460 (9) ただし、彼の56年当時の行動は別に批判される筋合いのも のではないと思います。56年動乱当時は非常に混乱しており、 実際に右翼勢力が暴動を煽っていたのは事実です。そして街で は蜂起者による虐殺が横行していました。(警官が建物の上の 赤い星に串刺しにされて晒されていたり、逆さ吊りにされて殺 された党員の焼け焦げた死体に唾を吐きかけている写真等は日 本でもよく目にすることができます。)従って、真面目な青年 が労働者が主人の社会を守ろうと銃を取って“反革命”の者達 と戦ったとしても、それはそれで理解できることでしょう まず、この革命の経過を整理したいと思います。 1.平和デモの発生。 2.ゲレーのラジオ演説による挑発。 3.国営ラジオ局へのデモ(民衆はラジオ放送を通じた発表を要求) 4.無差別発砲。(ラジオ局前、議事堂前) 5.市民の武装化と秘密警察との衝突 6.秘密警察の「虐殺」
したがって突然に蜂起者が秘密警察を虐殺することはありませんでした。 しい坊さんは1から5の蜂起が先鋭化する過程を無視しておられます。 平和デモ中の市民に無差別発砲。このときに武器をとり、戦ったのは他 でもない「真面目な青年や労働者でした」。(死者の44%が25歳以下、 58%が肉体労働者)ELTEの学生も大勢死んだり亡命を余儀なくされ ましたね。彼らは右翼の扇動にのせられたのでしょうか?このような 右翼組織のリストとその出典を希望します。なにせ45年以降、 「右翼の謀略説」はことあるごとに共産主義者がでっちあげてました からね。「それはそれで理解」ですか。しい坊さんの留学があと何十年 早かったら答えは果たして同じだったでしょうか。
>460 (9) ABC> 5.国民を民主化へ先導して大政奉還をおこなった人々。 ABC> Nemeth Laszlo(首相):56年動乱について、「最初は人 ABC> 民蜂起であったが、後に右翼暴動へと転化した」と発 ABC> 言。 しい坊>これはハンガリー社会労働党の公式見解です。別にネーメ トのものではありません。また、このような発言は“いつ” “どのような”環境においてなされたのかをきちんと判断して からでないといけません。 それではネーメトが党の公式見解を言ったのでしょう。発言の時期は 89年です。私は党に忠実な氏がただポジュガイと同レベルの改革派と は思わないといいたかっただけです。それにしても。発言がされた時期 は重要ですね。社会労働党の公式見解は時代とともに変わります。はじ めは「ファッシストによる蜂起」でした。次が「労働者不満分子を扇動 した右翼暴動」、そして上記の見解に至ったのが80年代半ばでした。 しい坊さんの見解ですね。そしてポジュガイによる民衆蜂起となるわけ です。革命を煽って民衆を暴徒としたしい坊さんの右翼扇動説はどの資 料をあたったらいいのですか?まさかパムレーニ・エルヴィンの 「ハンガリー史」なんておっしゃられないでくださいよ.
そろそろ容量オーバーになるから 新スレ立てたほうがいいんじゃないすか?