1 :
maro' :
2001/08/17(金) 20:21 日本ではあまり研究対象になっていないんですが、 1943年9月から45年の4月末まで北イタリアに600日 存在したムッソリーニの親独政権(RSI)のことです。 ただ、調べると非常に面白いイタリア現代史の縮図の ような所でもあります。 以前からこのイタリアの内戦状態を判りやすく70年代の ベトナム戦争にたとえると サロ共和国(RSI)=南ベトナム軍、駐留独軍=米軍、 対してパルチザン=ベトコン、連合軍=北ベトナム軍 という図式になります。 しかもこの RSI軍はを相当な戦力を持っており独軍と協力して45年まで連合軍と対峙できていました。 これはあまり日本人の知らないところです。 イタリアの戦争は43年の休戦で終わったと思われている ようですが、実際は凄惨な戦いは45年5月まで続き 更には戦後もパルチザンによるファシスト狩りは凄惨を 極め45年末までに万単位が同じイタリア人に殺害されて います。 この辺りの話の判る人はいますかね?
2 :
クラレッタ・ペッタッチ :2001/08/17(金) 22:02
結構有名だと思いますが。
3 :
世界@名無史さん :2001/08/17(金) 22:08
「ソドムの市」の原題は「SALO'」
4 :
世界@名無史さん :2001/08/17(金) 22:20
木村裕主の著書しか読んだことないからなぁ
5 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/17(金) 22:27
正式名称がイタリア社会共和国である事、ムッソリーニが大統領(元首)であった事、その生き残り達が極右・ネオファシスト政党「イタリア社会運動」を結成した事、その位しか知らないなぁ。(何回か更迭・交代は有ったかも知れんけど)首相は誰だったの?
その名を聞くとパゾリーニの映画を思い出すから ヤメレ。しばらく飯がまずかったよ、、、、。
7 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/18(土) 19:46
あの監督ホモの三角関係でホモ青年に殺されたんだよね。陰謀説も有るけど・・・
8 :
世界@名無史さん :2001/08/18(土) 20:27
清沢洌が『暗黒日記』でムッソリーニの王制否定宣言を引用して 怒ってるんだよな。国体否定だ、こんなのと日本は結ぶのかって。 実際ムッソリーニは「逆賊」だろ?
9 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/18(土) 21:25
ヒトラーも君主制を復古せず、それどころか卓上談義を読むと大の王室嫌い・貴族嫌いだからね。
10 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/18(土) 21:49
イタリア全土を統治するイタリア社会共和国と、西ドイツ地域やオーデル・ナイセ以東も統治するドイツ民主共和国をキボーン。
11 :
コメリカンテ :2001/08/19(日) 02:03
サロってどう表記するの?伊語で。
12 :
世界@名無史さん :2001/08/21(火) 18:14
サロはSALO'と表記します。3と同じ。
13 :
世界@名無史さん :2001/08/21(火) 18:29
パゾリーニはあの映画を撮ったおかげで、元ファシストの怒りを かって消されたんだな。表向きはホモの愛人に刺されたことに なってるけど。
14 :
アマノウヅメ :2001/08/21(火) 19:15
>>13 美少年の俳優にしつこく言い寄って車でひき殺されたと
当時報道されてましたが、真偽はいかに?
ジャン・ジュネが裏切ったホモの愛人を交通事故で殺すため
毎日、車で探し回っている紳士を知っていると
『泥棒日記』に書いてたのを読んだ後だっただけに
妙に印象に残ってるんですが。
15 :
maro' :2001/08/21(火) 23:53
5について 戦後サロ共和国(RSI)のファシストの生き残りはネオファシスト党 MSIを結成し現在に至る。確か現ベルルスコーニ政権の中で MSI党首は副首相の要職に就いているハズ。 また、一部の元ファシストとネオファシストは戦後冷戦時代に CIAと手を組んでグラッディオ(短剣)という地下組織を創り 対共産テロの防波堤として暗躍した。このグラッディオは、 70年代初頭には元RSIのデチマMAS部隊司令官ボルゲーゼ公が 元空挺部隊フォルゴレの隊員達と内務省を占拠した幻のクーデータ に関与した噂もあるが事の真相は明らかではない。
16 :
コメリカンテ :2001/08/21(火) 23:59
SALOじゃ伊和辞典(小学館)にゃ出てないな。 それだけタブーってこと? 原義は?
17 :
maro' :2001/08/22(水) 00:56
サロはガルダ湖畔にある小都市の名でここに共和国政府を立ち上げ たことに由来します。いわゆる『サロの600日』はこの短命な政権 を示す言葉としてイタリアで知られています。
18 :
maro' :2001/08/22(水) 00:59
19 :
コメリカンテ :2001/08/22(水) 01:39
20 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/22(水) 08:51
RSIはナチス・ドイツの傀儡としてだけ、DDRはソビエト・ロシアの傀儡としてだけで片付けられる傾向が強い。
21 :
maro' :2001/08/22(水) 12:20
確かに欧米では歴史的な一般認識としてRSIを単なるナチスドイツ の傀儡政権として捉える、あるいは無視する傾向が強かった。 我が国でもしかり。 今までドイツや米英の戦史・歴史書でしか語られることが 無かったからでしょう。 現在ではイタリアを中心にその歴史的背景の見直しが進んできています。 日本にはほとんど入ってきていませんが、昨今は相当数の RSI関連書籍が本国では出版されています。 ファシズムへの回帰とナショナリズムの台頭も一部には 関連あるのでしょう。
22 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/22(水) 13:30
>21 そうなのですか、どうも有難う御座います。 反ファシズムなのは良いのだけど、今までの左派系学者は、 単純に定義付ける傾向が強過ぎましたからね。 又、スレの主題から脱線してしまいますが、 DDR(ドイツ民主共和国=東ドイツ)についても やっと少しづつ実証的・客観的な研究が進められて いるようです。
23 :
maro' :2001/08/22(水) 16:06
21の補足 RSIに関しては戦後のイタリア人自身が負の歴史として あまり積極的に語りたがらなかったという側面があることも 付け加えておきます。 つまり戦後体制ではパルチザンやバドリオ側の左派政権にとって イタリアはあくまでも43年以降連合軍と共に戦った戦勝国である という認識(これが戦後イタリア人のアイデンティティーの崩壊に 繋がっているのだが)があり、またすぐ隣国にバリバリの武闘派 共産主義国家ユーゴスラビアがあるという地政学的な側面から (実際RSI各部隊も44年〜45年にかけてドイツE軍集団と共に チトーパルチザン相手に血みどろの戦いをしている)アメリカに とってイタリアは冷戦構造時下での防波堤の意味からもRSIは 無かったことにしてしまいたいという意図があり、イタリア人 自身がこの歴史を黙して語らずという傾向がしばらくあったよう です。 また、イタリア国内でRSIの話題がタブー視されていることも厳然 とした事実で私がミラノでイタリアの友人達と レストランで食事 をしていてもこの話題は避けています。なぜなら隣の席で聞き耳を たてている老人が元パルチザンかそのシンパである可能性が50%を 超えるからで、そういう状況を目の当たりにすると私にとって ミラノはサイゴンにほかならないのです。 話が脱線しましたが、最近になってようやくRSI軍の ヴェテラン達が相次いで自らの部隊史を書きその全貌が 明らかになってきています。 近ごろも本国でイタリア武装親衛隊の決定版といえる本が 出版されて一部で話題になってます。
24 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/22(水) 16:13
>23 ミラノやボローニャ―確か、ミラノはサロと共にRSIの 政府機関が有ったのかな?―など北イタリア・中部イタリア には左翼民主党(旧共産党)や共産主義再建党が強力ですからね。 パルチザン闘争も北イタリアが中心でしたし。 イタリア武装親衛隊とは、共和国親衛隊とは別なのですか?
25 :
世界@名無史さん :2001/08/22(水) 18:54
イタリア武装親衛隊とはSS第29師団のことを指します。 これは編成上ドイツ将校指揮下のドイツにとっていちSS外人義勇 歩兵師団なのですが、やはりイタリア戦線という特殊な状況下で どちらかというと警察治安系部隊とした独自の動きをとってます。 始まりは旅団規模以下の義勇軍でしたが、アンツィオ・ ネットゥーノ戦に於いて実に52%におよぶ死亡率を出しながら 連合軍に果敢に攻撃を仕掛け、ドイツ軍部隊の包囲網突破を助ける などの戦果をあげ、44年の夏以降師団規模にまで昇格したものです。 その後はドイツ軍警察部隊などと協力してパルチザン掃討戦に 従事しています。確かに編成の面では共和国軍と一線を画してますが 基本的にはRSIの一部隊として活動していたと言えます。 共和国親衛隊とは?確かに43年まではモスケッテリ・デル・ドゥーチェ という統帥護衛大隊がありましたが、(チャーノもこの制服を着た 写真がある)RSI時代には親衛隊と言いきれる部隊はありません。 しいて上げれば先の統帥護衛大隊のメンバーなどが中核になった タリアメント大隊や9月9日大隊などのいわゆるM師団と言われるぶたいでしょうか。9月9日大隊は44年末に東プロイセンに派遣され ソ連軍相手に奮戦しています。
26 :
名無的発言者 :2001/08/22(水) 19:27
国旗は三色旗の中央にローマの斧みたいなのがついてたらしい..
27 :
maro' :2001/08/22(水) 20:23
正確には黄色い斧(ファシス)を掴んだ黒鷲が描かれてます。それまではサヴォイア家の楯の紋章が入る。 RSI時代に入ると即席でその紋章を切り取ったりして いましたが、44年頃からこの旗を国旗と定めています。 この斧に枝を束ねたファシスの紋章はローマ帝国の 護民官のシンボルにまで遡り、映画グラディエイターの 中での皇帝の背後にも巨大なそれが見受けられます。 そういえば、このRSIの国旗を前回のワールドカップ フランス大会のイタリア対オーストリア戦のNHK中継で イタリアサポーターが振っているのを見て腰を抜かす ほど驚いたことがありました。たぶんフランスだから OKだったんだろ〜な〜。あれがハーケンクロイツの旗を 振り回すのと同じぐらいインパクトがあることをNHKの ディレクターは夢にも思っていなかったのだろうが…。
28 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/22(水) 21:48
>25 昔、ある戦争物の雑誌にイタリア社会共和国軍を、 共和国親衛隊と書いてあったもので。 >27 ファッショの紋章はフランス革命でもフランス共和国が 用いましたよね。両者共、古代ローマを理想としていたからかな?
29 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/22(水) 22:01
サルート・ドゥーチェ!
30 :
酔鯨ジョーカー :2001/08/22(水) 22:11
裏切り者サヴォイア王家晒し上げ!
31 :
maro' :2001/08/22(水) 22:24
斧を枝で縛った武器から始まったファッショの紋章は 2千年以上の歴史が有り、この形から由来する団結・ 結束の意味をこめて戦闘ファッショが一次戦直後から 使用したのがファシストのシンボルとなったものです。 これをハーケンクロイツと同一視はできないのは、 この歴史性と普遍性にあるところに大きいようで 未だにミラノの中央駅の白亜の外壁側面には このファショの巨大なレリーフを見ることができます。ご丁寧にファシスト歴でANNO IX(1931年)と駅の製作 年までつけて。ミラノの隠れた名所です。 ドイツではこれは無いでしょう。それこそマンホールの 蓋至るまで全ての削り取った国ですから。 このイタリアの鷹揚というか懐が深いというか いいかげんというか…な所がタマリません。
32 :
世界@名無史さん :2001/08/23(木) 17:22
ムッソリーニの最後って銃殺なんだよね?
33 :
maro' :2001/08/23(木) 19:38
ムッソリーニの死の謎については木村裕主著『誰がムッソリーニ を殺したか』で詳しく検証されています。 事実としては45年4月28日にドンゴ村のある山荘前でパルチザンの 手によって愛人のペタッチと共に銃殺されその後ミラノの ロレート広場に吊るされました。 この銃殺命令に関しては、旧イタリア共産党幹部(戦後の書記長 ・イタリア首相クラスも含む)の関与も取りざたされて いますし、チャーチルの密命を受けた英国情報部の影も チラホラ見受けられます。 ただ、ドイツ軍高射砲部隊と行動を共にし、なおかつお目付け役 のSS将校まで付いていながらなぜむざむざとムッソリーニが パルチザンに引き渡されたかが個人的にも謎が残ります。 このドイツ軍部隊とスイスでOSS(後のCIA)と休戦の密約を 交わしていたSS将校ヴォルフとの間でなんらかのやりとりが あったのではないかという説を聞いた事もあります。 つまりムッソリーニは休戦のカタとして売られたのではないか、 という事ですが真相は謎のままです。 未だ発見されていない彼が死の直前まで携えていた書類には 連合軍側にとって戦後世に出てはマズイ話もいっぱいあった ようですし。
34 :
世界@名無史さん :2001/08/24(金) 22:02
age
35 :
酔鯨ジョーカー :01/08/26 15:09
裏切り者SS晒し上げ! パルチザン晒し上げ!
36 :
酔鯨ジョーカー :01/08/26 15:43
イタリア社会共和国のどこが悪いと言うのだ?>ブサヨク
37 :
世界@名無史さん :01/08/26 18:27 ID:Dza7d2y.
‖‖‖‖ ==== ‖‖‖/ /\ ‖‖/‖ ) | ‖/‖‖レ | /‖‖‖ / ====\/ ‖‖‖/ ‖‖/‖ ‖/‖‖ /‖‖‖
38 :
◆bqSlE39o :01/08/26 19:55 ID:UKqBAOr.
アメリカの日系人部隊はこいつらと戦ったのか?
ID出ちゃった(笑)・・sage
40 :
酔鯨ジョーカー :01/08/27 16:20 ID:tuSQ2/cs
>38 私も知りたい。アメリカ陸軍日系人部隊はイタリア戦線でも 戦ったそうだからね。
41 :
酔鯨ジョーカー :01/08/27 19:12 ID:niXtoFMk
パルチザン晒し上げ! サボイア王家&パドリオ晒し上げ!
42 :
世界@名無史さん :01/08/27 19:25 ID:KxyNWuSs
43 :
maro' :01/08/28 11:56 ID:DlYoqrcQ
>>38 残念ながら米日系人部隊442大隊がイタリア上陸後にこれらRSIの
部隊と交戦したという記録は未だ見たことはありません。
モンテ・カッシーノ戦でドイツ軍空挺部隊と共に特殊部隊系の
イタリア第10突撃空挺部隊の一部が戦った、という話をその
ヴェテランの人から直接聞いたことがあるので可能性はあります。
44 :
maro' :01/08/28 13:21 ID:DlYoqrcQ
残念ながら米日系人部隊442大隊とRSI軍が交戦した記録は未だ みていません。ただ、激戦地区のメンテ・カッシーノにおいて ドイツ空挺部隊と特殊部隊系のイタリア陸軍第10突撃空挺部隊の 一部が共同で戦ったという話を当時のその部隊にいた ヴェテランから聞きましたので、可能性派あります。
45 :
世界@名無史さん :01/08/28 15:13 ID:87sdtN46
>>31 ファッショ・リットリオの起源は古代エトルリアまでさかのぼるそうです。
46 :
maro' :01/08/28 17:35 ID:DlYoqrcQ
>>45 エトルスキまで遡りますか!それでは、ローマ皇帝の12人の
親衛隊が担いでいたファスケスは当時既に儀礼的な意味合いが
強いものだったんでしょう。確かに武器としてはあまり役に立つ
様には見えないし。
>>41 イル レ(国王)に忠誠を誓ったが為にどれだけのイタリア将兵が
無駄な血を流したことか!
とりわけ悲惨なギリシア・チェファラニア島のドイツ軍による
1943年休戦直後、イタリア・アックィ師団将兵大虐殺の模様は
日本で9月22日公開のニコラス・ケイジ主演「コレリ大尉のマンドリン」
の中で詳しく描写されています。
47 :
45 :01/08/29 00:13 ID:Q/8E4/BU
>>46 「エトルスキの頃から“権力のシンボル”として使用されていた・・・」
というような記事が、一年ぐらい前にイタリアの雑誌「FOCUS」の増刊号に載っていました。
ちょっと曖昧なソースでスマソ。
48 :
酔鯨ジョーカー :01/08/29 18:41 ID:DoQjLY4E
RSI万歳!
49 :
世界@名無史さん :01/08/29 20:28 ID:DciKel/U
‖‖‖‖ ==== ‖‖‖/ /\ ‖‖/‖ ) | ‖/‖‖レ | /‖‖‖ __/ ==== ‖‖‖/ ‖‖/‖ ‖/‖‖ /‖‖‖
50 :
maro' :01/08/30 14:54 ID:NNlKVq2I
>>48 Viva la RSI !
ところで、ドゥーチェはなぜイタリア休戦以降もドイツの傀儡政権
としての位置に甘んじても北イタリアに RSI政府を興したのか?
という動機についてあまり論議が聞かれず、単に歴史の成り行き
のように扱われているのだが、いかがなものか。
ロマノ・ヴルピッタ氏の著書「ムッソリーニ」の中ではドゥーチェ
とそのファシスト支持者達は『イタリアの名誉の為に』の標語と
共にこの RSIという(刹那的ではあるが厳然とした)存在を通して
敗北を超越する道徳的遺産を残すためだった、と記している。
つまり、負けは百も承知のうえでのハナシということになる。
日本人が知る以上に名誉についてこだわったのが当時ファシスト側
イタリア人達であり、休戦という汚名を晴らすというのが
モチベーションになっているようだ。
戦後イタリアでのMSI等ネオ・ファシストの合法的な政治活動や
政治の流れを見るとこのムッソリーニ達の考えはイタリア社会の
底に今なお生きているように思われます。
51 :
酔鯨ジョーカー :01/08/30 21:08 ID:mbnWznXc
>50 ヴィバージャイアンツ〜♪輝ける男たちよ〜♪ っていう番組が有りましたね。20年位前に読売テレビで。 そんな事より、ムッソリーニも単に権力にしがみ付きたかっただけや、 ヒトラーに圧力に抗せなかっただけではないのですね。
52 :
世界@名無史さん :01/09/07 05:53
age
ageられついでに。 この夏、日本では靖国問題が白熱していたがイタリアにおけるRSI の聖地と呼ばれる所は、戦後捕虜収容所があったコルターノや ガルダ湖畔のペスキエラにあるピッコラ・カプレラなど数ヶ所あり 慰霊祭などが行われてきたが、世代交代とともに若いネオ・ファシスト も大挙して押し掛けるようになりやや問題になっている。 ただ、日本と違って祖国への歴史認識や問題意識は強いのは 救いか。ピッコラ・カプレラの慰霊祭にRSIヴェテランの孫や ひ孫の子供の姿まで見受けられるのは、イタリアの伝統的な 家族主義の現れだろうか?靖国での帝国海軍の慰霊祭にも参加 したことがあるが、私のような世代をついぞ見かけたことはない。
54 :
世界@名無史さん :01/09/08 06:24
55 :
世界@名無史さん :01/09/10 01:12
age!
Grazie 54 ! ところでどなたかMSIの歌をMP3から落とせるサイトを御存知 ない? 歌詞は、 "Siamo nati in un cupo tramonto di rinuncia, vergogna e dolore, siamo nati da un atto d'amore riscattando l'altrui disonore. Siamo nati nel nome d'Italia, e' risorta la nostra bandiera, e' tornata con noi Primavera, s'e' riaccesa la fiamma nei cuor. Italia, sorgi a nuova vita...." と続きます。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=oversea&key=989493951&ls=50 より
777 名前:va fa in curo italia di merda :01/09/18 09:13
このスレはっきり逝ってむかつく。
なぜなら、イタリアに観光旅行でちょっと遊びに来たぐらいの奴が、うんちくたれてっから。
お前らに、在伊歴10年のオレが、まず、イタ公とはどんな人種だか教えてやるよ。
・馬鹿
・低能
・教育水準低い
・恥知らず
・世界の非常識
・閉鎖的
・嫉妬深い
・田舎者
・筋が通ってない
とまあこんな感じ。
イタリア料理にしても、あんなものが上手いって逝ってる奴は、日本でドッグフードでも
食べてるんじゃねーかと思うよ。めーさませ。
気がついたら↑なレスが入っていたが程度の低い偽物野郎と判明。
別スレでも書いたが、先日朝日フォーラムにおいて日伊 協会主催の「二つのイタリア 20世紀の記憶の場の検証」 という講演会があり、そこでローマ大教授モンサグラーティ氏による 講演で北イタリアにおける北部同盟(レーガ・ノルド) の解説があったが、教授も新連邦制へのその思想の 発生過程は興味深いが多分に北部同盟が南部に対する 北イタリア人のもともとあった感情論から発生しているのは残念、 というコメントがあり判りやすかった。 RSIの本拠地であった北イタリアの一部のネオ・ファシストは 我こそはイタリアの本流であるという自負と南部への敵愾心から この北部同盟にシンパを感じているとも言われている。 この北部同盟の連邦制主義はリソルジメント当時の イタリア統一を目指すための連邦制制度に向けた動きとは 正反対の性質を持つが、反グローバリズムの動きと相まって 今のイタリア社会の底辺を流れる南北対立に影響している。 ただ、ドゥーチェの目指した精神的な遺産を残すという 考えには相容れない話のように思われるが…。
60 :
世界@名無史さん :01/09/28 14:13
age
61 :
世界@名無史さん :01/09/29 22:08
何で西洋史のこんなマニアックなスレばっか立つんだろう・・・ 東洋史は全くふるわんのう
62 :
世界@名無史さん :01/09/29 22:14
>>57 イタリアと言えば、塩野七生。塩野と言えば、ハンサム息子。
否定するやつは、証拠を(以下略)
>>61 たまに立つと思えば、朝鮮スレ、、、、ご愁傷さま。
63 :
世界@名無史さん :01/09/29 22:37
>>57 =62=62
どうでもいいけどいいかげん妨害やめてくれない?
ウザイんだよ
64 :
世界@名無史さん :01/09/29 22:45
>>63 うぷぷ
62の自作自演ね。
凸\_________/,凸、 ∧∧
ノ´⌒`ヽ三三三三三三三i三.ノ´⌒`ヽ、 ∩(゚Д゚ )_
[二ノ´金`ヽ二]二二二二二二i仁ノ´劵`ヽニフ o――――l∠ ̄〆/ ̄ ̄ ̄ ̄\\
,.-┴―┬┴┐鬨鬩鬨鬩鬨鬨鬩鬨  ̄ ̄ ̄  ̄|` ̄|| ./ タリバン \λ __
/ΛΛ // Λ||L匳匳||卅||匳匯||匳||  ̄ ̄\_____ >} ‐=</ )、
/_(゚д゚_//_゚Д゚,,)| |丗卅丗卅丗卅丗卅丗 / ̄ ̄ ====  ̄ ̄\^ ○/)|
_,,,.-―''''"_,,,.-―''''"|コ ̄ ∪i  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| _/_/⌒N / /0 __\/ )|
i゙(}[王i王]I()0コ ―― |―――=|――――――――――〕 ∠__ /]  ̄  ̄ ̄ ∠___/ )λ
|_∈口∋ ̄_l_l⌒l ノ ノ ___l⌒l_ソ |==== |――――――――|==== | )λ
 ̄ ̄`ー' ̄ `ー' ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄`ー' `ー' \===\ _______\===\/
>>38 日系人部隊と交戦したかとの過去レスがありましたが、どうやら
交戦していたようです。
ポー・バレー作戦(1945年4月15〜5月2日)においてドイツ軍の
ゴシックラインを突破のためにマーク・クラーク将軍が第100/442日系人
連隊合同軍に出動を要請。4月5日にフォルゴリト山の攻撃し
連合軍が6ヶ月かかっても落とせなかった要塞を二日で陥落させ、
さらに米陸軍第5軍の先頭に立ってジェノバ、トリノと転戦。
この間RSI軍とも交戦していたようで枢軸側イタリア軍の捕虜を
連れてきても誰もえらいとほめてくれなかったとある日系人兵士
の証言もあります。
66 :
世界@名無史さん :01/10/12 21:04
タリバンはT34/76を使ってたのね。
67 :
世界@名無史さん :01/10/25 15:15
age
68 :
世界@名無史さん :01/11/05 19:23
RSIも大隊規模では戦車を保有して北イタリアで展開していた。 (ドイツ軍の比では無いが) 保安部隊系のGNRのレオネッサ部隊があり41型中戦車やセモベンテ 突撃砲や各種装甲車両を数十両装備していたが都市部の治安維持 と対パルチザン戦に始終していたようだ。 ドイツ軍のパンツァーユニフォームを模した黒のダブルの短ジャケットと 黒のベレーに髑髏の記章がカッコ良くて個人的には好きなんですけど、 パレードの写真以外この部隊の戦闘写真を見たことがないのは残念。
69 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 :01/11/05 19:42
北イタリア・中部イタリアにRSIを再建しよう! でも、北部同盟と国民同盟(旧イタリア社会運動)は 余り仲がよくないし、北部・中部は左翼民主党(旧共産党) が強いからなあ・・・
70 :
グラツィアーニ :01/11/05 19:53
ドイツから送られたM師団て結局どうなったんですか?活躍したの?
>>69 北部同盟(レーガ・ノルド)はMSIの流れを汲む右寄りの思想から
出発しているので、国民同盟とはウマがあいそうなんだけどやはり
地域性に根差し過ぎているためか。
>>70 M師団と言われている部隊は
>>25 でガイシュツの”9月9日大隊”
と思われるが木村さんの本以外で本国の資料ではM師団という紹介の
され方はしていないのだが…。あれは何から引用したのか?
Battaglione 9 settembreは、ドイツ国防軍の精鋭アグレッサー部隊から再編成された
”ブランデンブルグ師団”のいちユニットとしてほぼドイツ軍部隊のごとく
北イタリアからはては東部戦線まで出張って活躍してます。
東部戦線での防衛戦ではブランデンブルグ師団長から感状も授与されている。
赤Mに黒フィアンメの襟章付きのMVSNの軍服にドイツ国防軍の
鷲章を右胸に付けさらにカフタイトルを2級鉄十字章の位置に着用した
RSI軍の中でも独特な軍装からもその部隊の位置づけがうかがえる。
これに類した部隊でセニオで闘ったD'Assalto Forliなどもほとんど
ドイツ軍と言えるだろう。
D'Assalto Forliはイタリア本国の資料本では警察系特殊戦闘部隊として 扱われているが、成り立ちが空軍部隊を作ろうとして転用され 使用小火器もモーゼル98kやMG-15地上戦型軽機関銃などを 装備しているところを見るとドイツ空軍=ゲーリング元帥 の息がかかっているような所も見受けられる。 そうだとすると、イタリアで第二の(いや正確には第三か) ヘルマン・ゲーリング師団を作ろうと目論んでいたのか! (この辺ちょっと妄想)
73 :
世界@名無史さん :01/11/06 00:28
すみません、このスレで質問させてもらいます。 サロ共和国とは関係ないことだと思いますが、ここにはイタリア史に詳しい方が多いと思いまして・・・・。 イタリアの街の通りの名で、「via ]] Settembre」というのがありますが、9月20日は何の記念日なのでしょうか? 大都市には必ずと言っていいほど、via ]] Settembreはありますね。 イタリア史上、重要な日なのでしょうか? 教えて君でスミマセン。
70です。
>>71 さん、情報ありがとうございます。自分も木村さんの本
で見ただけだったんですが、M師団が正式名称ではなかったんですね。
勉強になります。
76 :
世界@名無史さん :01/11/06 06:04
副首相は、ネオファシストだねえ。 実際は、首相も隠れネオファシストだそうだね。 いいねえ、イタリアは。
78 :
ジェンティーレ :01/11/06 18:06
ムッソリーニの最終目的ははカエサルの偉業を20世紀に再現することであり、 政治的には古代地中海帝国の復活であったのである。
79 :
世界@名無史さん :01/11/06 19:12
>>78 そのへんでリビア、エチオピアに侵攻したのだが、30年代の国力では
荷が重すぎたようだ。
アルバニアどまりでやめておけば良かったんだろうが…。
はっきり言ってスペイン内乱への関与は国力を疲弊させるだけでその後の
対フランス、ギリシャ戦の腰砕けを招いている。
あまりに早急に地中海帝国復活を急ぎすぎたツケなのか。
>>74 ありがとうございます。統一記念日だったんですね。
81 :
世界@名無史さん :01/11/07 01:03
>79 些細なことですが、リビアはジョリッティの時代からイタリア植民地 でしたよ。 スペインには不干渉だったほうが良かった、というのには全く同意。 ただ、どれだけ待っても、イタリアが列強相手の戦争に耐える状態に なったかどうかは大いに疑問。むしろフランコのように断固中立を 保てば、ファシスト体制が維持された可能性はあると思う。 良し悪しは別にして。
82 :
世界@名無史さん :01/11/07 04:22
ややスレ違いですが
ムソリーニがガルダ湖にぶち込んだ宝箱ってまだ出てこないですか?
>>79 >>80 良し悪しは別にしてですけど
スペイン内乱への干渉は戦略的判断から正しかったと思います。
大陸最大国家フランスに大陸経営の主導権を握られないように
独伊西がカール5世代、ルイ14世代、革命期に
協力してる事を考えるとごく自然と言う気がします。
その後ファシズムが大陸でわがまま放題になってったし
実際フランスはその後人民戦線を作り、イギリスと軍事協力は緊密になり
挙句、ヒトラーのフランス侵攻も成功するし。
この干渉は大成功だったと思うんですけどねえ。
>>82 あのトランクは戦後チャーチルの命を受けてイギリス情報部が
必死に追跡していたのでもう見つけられて闇に葬られていた可能性も。
サロ共和国駐在大使の日高氏もムッソリーニから重要書類や資金を
預かっていたという説もあるが、戦後も黙して語らずで亡くなっている。
その筋系の話ではスイスの隠し口座に資金が残っているという話も
ある。
まぁ“M資金”みたいなファンタジーだと思うのだが。
スペイン内乱出兵に関して言えば、イタリアは時代の流れに乗せられて
しまったということでしょうか。
フランコ側もその後ドイツ側に兵を送り東部戦線でブラウ師団として
活躍しているし、RSI側にも若干の兵員を供出しているが大勢には
影響は無かった模様。そういう意味では帳尻は合わないが。
>>82 ドイツの対仏戦の成功に、スペインが貢献したとは思えないんですが…。それに
フランコ支援ならドイツだけで事足りたと思います。
むしろ、エチオピア遠征で冷却していたイギリスとの関係が決定的に悪化したこと
を考えれば、失ったものの方が大きかったのでは。
うう、ごめんなちゃい…前の文見たら脊髄反射的に書いてて
無駄に長尺の上、しかも誤りぼろぼろ。自主訂正します。
>実際フランスはその後人民戦線を作り、イギリスと軍事協力は緊密になり
>挙句、ヒトラーのフランス侵攻も成功するし。
正しくは
内乱後、ファシズムを警戒してイギリスとの軍事協力は緊密になるし。
1.フランスの人民戦線は36年にできてた。(あさにゃ政権も36年成立)
2.
>>81 氏の言う通り、スペイン内乱が対仏戦の主要な勝因ではないです。
ただフランコ支援によって大陸国際関係で
アクターとしてのイタリアの役割は大きくなったと思う。
内戦中の38年はアルバニアに侵攻し、ミュンヘン会談参加、復活祭協定と
ほんと短い間ではあるものの自立的な外交政策を展開できた。
イギリスとの関係悪化は確かだけど、数多いファクターに過ぎないのでは。
三国同盟もそうだし、街娼イーデンの存在もあろうし、アルバニアもある。
復活祭協定に見るようにイギリスとの仲が単線的に悪化していった訳ではないし
ヨーロッパ政治で大きな地歩を築いた訳で、得たものの方が大きいと思います。
フランコをもしヒトラーと肩を並んで支援しなかったら
その後のフランコとヒトラーの勝利によって
ヒトラーが一気に大陸の主導権を一人で握ったでしょう。
またファシスト創始者としての権威も地に落ち
ナチスドイツの政策に従属的な衛星国家に成り下がってしまったのでは?
実際その後ヒトラーの後追いで従属国家になってきてしまったし。
スレ違いごめんなさい、故にsageます。
86 :
世界@名無史さん :01/11/08 13:44
逆にスペインとの中途半端な同盟関係が枢軸側に痛手を与えている ようにも思えるが。 ドイツ・イタリアが緒戦でジブラルタルを押さられれば、地中海の 英軍は袋のネズミでその後のアフリカ戦の敗北を回避できたし、 戦局がかなり違ったものになっていたのでは。
87 :
世界@名無史さん :01/11/08 15:10
ファシズムの本家も最後にはドイツの傀儡になっちゃったのね。
RSIは、南ベトナム政府のような傀儡という意味ではその通りだが、 当時のフィルム、資料を見る限りでは死に体ではなかったと思う。 むしろ戦中においてのファシズム運動の復古が見受けられる。 つまり、淘汰されて本物だけが残りそこに新しい世代が入って行った ということ。600日の命ではあったが。
>88
なるほど…。たしかにそう言えるかもしれませんね。目からウロコでした。
ファシスト体制の崩壊が誰の目にも明らかな状態で、なおその旗の下で戦おう
とするからには、相当の覚悟と信条があってのことでしょうからね…。前までは
ただの敗残勢力としか見ていませんでしたが、そう考えるとサロ政権への認識が
変わります。
>82
説得力のある説明ありがとうございます。こちらも補足させて頂きます。
イタリアが単独で内戦に介入していたのなら、事態はまた違ったかもしれません。
しかし、ドイツと共に介入することで、ドイツとの接近を余技なくされたことが
大きかったと思います。介入に伴って、それまでは英仏〜独の間で、付かず離れ
ずの外交をしてきたイタリアが、注意深く避けてきたドイツとの軍事同盟を結ば
ざるを得なくなった。そして、ファシスト=ナチ、と見なされるようになってし
まったのが致命的だったと思います。
あるいは、内戦がもう少し早く終息していても、事情は違ったと思います。36年
の蜂起から39年3月のマドリード陥落まで続いたことを考えると、その間を通じ
て英仏国内に良くない印象を与え、またイーデンの対伊強硬論に力を与えたこと
も確かだと思います。
>>82 さんの言う通り、対英関係ではイーデンの街娼辞任(w)と復活祭協定もあり
ました。その時期がイギリスと和解する最後のチャンスだったと思いますが、すで
にムッソリーニはドイツと抜き差しならぬ関係になっており、もう引き返せなく
なっていた。そういう状況に追い込まれてしまったのは、エチオピア以来、スペイ
ン内戦を通じて、数年間ともに戦ってきたという事実があればこそだったと思いま
す。
結局、自ら復活祭協定を反故にしてしまうアルバニア侵攻という事件は、独伊−英
仏という対立構図の原因になったのではなく、その結果だったと言えるのでは。
もし、このときイタリアがドイツと同じ船に乗っていなかったら、バルカンをドイ
ツの手から守るための予防措置、と強弁できたかもしれません。
また、イタリアがドイツの従属的立場になったのは、ドイツと組んだからに他なら
ないと思います。もしイタリアがドイツの侵略を受ける立場だったら、イタリア人
は死に物狂いで抵抗したのではないでしょうか。
長文スマソ
90 :
世界@名無史さん :01/11/09 19:26
閑話休題。
ちょっと旧聞ですが、大日本絵画から先日出版された高橋慶史氏の
労作『ラスト・オブ・カンプグルッペ』にてRSIの精鋭デチマ・マス
陸戦海兵師団の章で同師団の戦史が詳細に述べられております。
今までは、43年以前のデチマ・マス海上特攻部隊しか日本ではほとんど
紹介されていませんでしたが、(昨今の腕時計メーカー・パネライの
紹介記事で知名度が上がったりもしているが)RSI側の同部隊の日本語で
読める記述としては貴重。
司令官ボルゲーゼ皇
>>15 の私兵的な意味合いが濃い同部隊史はRSIを
知る手掛かりになるでしょう。
個人的には終戦間際にヴォルフSS中将がボルゲーゼ指令官を訪ね、
ムッソリーニにも知らしていないドイツC軍集団の降伏交渉を告げ
戦闘意欲旺盛なデチマ・マス師団が裏切り者としてドイツ軍を攻撃しないよう
要請したというくだりが興味深かった。
>90 >>25でガイシュツの29SSはヴォルフ中将と降伏しなかったのですか? それとも最後まで戦ったのでしょうか? そのへんのところ御教示ください
92 :
世界@名無史さん :01/11/10 05:04
93 :
maro' = 90 :01/11/13 12:46
コテハン書き忘れてました。
>>91 トレフレッチェ氏(29SSらしいハンドルネームですな)からの
ご質問ですが、結論から言えばケースバイケースのようです。
'45年4月最終週の北イタリアには 29SSは広範囲に展開していました。
コモ地方…約2,500人
バルテリーナ…約100人(29SS砲兵連隊及び対戦車中隊)
バルカモニア…約300人(82SS擲弾兵連隊第2大隊)
ピアチェンツァ…約1,500人(カンプグルッペ”ビンツ”)
ロデーニョ、サイアーノ…約700人(カンプグルッペ”ガルディーニ”)
ミラノ、ベルガモ、クレモナ…約700人(司令部要員&PK中隊)
などで、たとえばカンプグルッペ”ビンツ”のI/81デビカとII/81ネットゥーノは4/26米第755戦車大隊のシャーマンやプリーストに
パンツァーファーストや重迫撃砲で立ち向かい多数を撃破するも
戦線を突破されポー川に後退したところ、翌4/27に米軍の爆撃に
見舞われ多大な損害を被り最終的に4/30にゴルゴンゾーラ近郊で
500名のトルキスタン兵なども含めて米34歩兵師団に降伏した。
因に米34歩兵師団とはアンツィオ戦で闘った因縁がある。
イタリアのドイツC軍集団は4/29に降伏文章に調印して5/2に全面停戦
しているが、イタリア29SSの将兵は各地で散発的にパルチザンと
戦闘をしつつ残虐な彼らの報復を避けつつ米軍側の戦線にたどり
着こうとしていた。
米軍に降伏できた幸運な兵士を除くと悲惨な話が数々ある。
カンプグルッペ”ガルディーニ”のターラーSS少佐は5/2に降伏後
パルチザンによって銃殺されている。
また、82SS擲弾兵連隊第2大隊はオーストリアまで後退戦をしつつ
5/5にようやく武器を置いた。
94 :
コレリ大尉のマンドリル :01/11/13 13:05
RSIなら、空軍だ! カプロニ・レッジアーネRe2005〜2007最高! どうして、同じセヴァスキーPー35から発展したのに、Re2005とP−47とはかくも違うのか? 国民性がよくわかります。しかも、Re2007なんてジェット戦闘機ですよ! リパブリックFー84よりず〜〜〜とイカス!!
ちょっと数を打ち間違い。
× ミラノ、ベルガモ、クレモナ…約700人(司令部要員&PK中隊)
○ ミラノ、ベルガモ、クレモナ…約100人(司令部要員&PK中隊)
でした。
>>90 で書いたデチマ・マス師団について詳しく知りたい方はこちらへ
http://www.decima-mas.net/ >>94 最近RSI空軍の歴史的な見直しも進んでいますな。
大日本絵画からこの前出たイタリア空軍のエースの列伝は
日本の空モノマニアに一石を投じたでしょう。
96 :
世界@名無史さん :01/11/13 20:55
スレ違いだが同じ大日本絵画からドイツ夜間戦闘機のエース達本が 今日本屋に並んでいた。コレも買い。
97 :
こんなのいかが? :01/11/14 09:09
NJG1(だったか?)にヒットラー少尉(Hittlerでtが多い)というパイロットがいて、 He219Aでランカスターを数機落としたこと書いているかな?
またスレ違いだが
>>96 の本にイタリア空軍もLWの手ほどきを受け
北イタリアに夜間戦闘機部隊を創って43年の休戦間際にドルニエ夜戦で
ランカスターを落とした、という話を読んでちょっとオドロイた。
99 :
こんなのいかが? :01/11/14 14:43
>98 アレたった一枚の写真を元に1/144で作ったことある。色がわからんので ファシストらしく全面「黒」にしたけど、ほんとはボトル・グリーンだったようね…。(w それから、フィアットCR42に長〜〜〜い消炎排気管を付けてドイツ軍が夜間戦闘機 として使用した奴も小生かつてモデライズしました。結構ユニークでしょ?
そのCR42の写真は知らなかった。
何に掲載されてる?
>>99
101 :
関係ない話で悪いが :01/11/15 00:35
イタリア軍の師団にそれぞれ固有名詞がついているのは古代ローマ軍団からの伝統だろうか?
‖‖‖‖ ==== ‖‖‖/ /\ ‖‖/‖ ) | ‖/‖‖レ | /‖‖‖ __/ ==== ‖‖‖/ ‖‖/‖ ‖/‖‖ /‖‖‖ ファッショイ! ファッショイ!!
103 :
カッチャ・ノットュルノ :01/11/15 11:22
現在資料が手元にないですが、アルベルテーリ社のイタリア航空戦史の本土防衛戦写真集に掲載されていたカラー図面を 使用しました。 それにしても、休戦までのイタリア機の公式カラー写真集「Air in Italia」級の写真がRSI空軍に無いのは寂しい。 サロ共和国のヴィデオにも空軍は入っていなかった…。 写真で割と有名なアルプス上空を飛ぶMC205VとBf109Gや「ディアヴォリ・ロッシ」のG.55Iなんかは、 おそらく動画からのカットと推測されるのだが…。入手可能でしょうか?
104 :
maro' :01/11/15 12:42
>>101 やはり伝統でしょうか。ただ休戦以前は陸軍は基本的に編成地名で
MVSNは創設やファシスト運動にちなんだ月日の部隊名が多かった
のですが、RSI以降は様々な理由づけで部隊名が付けられててます。
たとえば独立治安部隊”エットレ・ムーティ”は休戦直後に銃殺された
ファシスト員の名前に因んで。デチマ・マス師団の”バルバリゴ”大隊は
かつての潜水艦名からとか。これは休戦前からですが空挺師団などは
”フォルゴレ”(電光)大隊、”ネンボウ”(黒雲)大隊、後は
RSI以降に創られた”アズッロ”(青空)大隊など空に因んだ名前も
あります。
>>103 Nino Arenaの名著『Aeronautica Nazionale Repubblicana』にも
表紙ぐらいしかカラーの写真は無かった様な…。ただビデオは最近
続々と本国ででているのでいずれ空軍モノも出回るかもしれません。
105 :
maro' :01/11/15 14:50
>>68 で書き込んだRSI唯一の"レオネッサ装甲部隊"について補足
します。
同部隊は、MVSNから休戦後創設されたGNRの赤M系部隊の一独立
ユニットとして'43年10月ブレッシアのモンティキアーリにて大隊
規模にて編成され中型戦車やセモベンテ突撃砲及び各種装甲車両を
数十両装備して北イタリア都市部の治安維持 と山岳地帯の対パル
チザン戦に従事した。
車輌編成(年時不祥)
M13/40 & M15/42中戦車 × 35
L3豆戦車 × 16
65/17セモベンテ突撃砲 × 4
ABR41 4輪装甲車 × 18
ゼルビーノ型装輪装甲車 × 10
S40 & S20型装輪装甲車 × 8
SPA/43装甲ジープ × 18
重装甲トラック × 3
軽装甲トラック × 4
各種輸送トラック × 170
オートバイ × 60
連絡車輌 × 48
牽引戦車 × 4
SPA37トラクター × 8
75/27砲牽引車 × 4
フィールドキッチン × 8
etc.
部隊編成('45年春)
◎ピエモンテ州
・司令部
・サービス部隊
・第1戦車中隊
・第2戦車中隊
◎ロンバルディア州
・ミラノ分遣隊
・ベルガモ分遣隊
◎エミリア・ロマーニャ州
・オートバイ部隊
・偵察部隊
・第3戦車中隊
・第4戦車中隊(ピアチェンツア防衛任務の為第3戦車中隊
に第1と第2中隊の小隊を加えて編成)
レオネッサ装甲部隊は、例のイタリアSS第29師団と因縁深く'44年
7月-8月の"Nachtigall"(さよなき鳥)作戦でもトリノ西方のバル
キソーネ等山岳地帯でのオッソラ解放戦区に陣取るパルチザン掃討
戦にもイタリア第81SS擲弾兵連隊と共に出動し、フォルゴレ空挺師
団第2大隊"ネンボウ"やLW警備部隊や雑多なドイツ/イタリア警察系
部隊と共にパルチザン勢力を一掃した。
また、'45年4月25-28日にイタリアSSカンプグルッペ"ビンツ"が
ポー川を越える際にも第3戦車中隊はイタリア第81SS連隊第1大隊
"デビカ"に協力して米軍の追撃とパルチザンの包囲を突破した。
その際しんがりとしてピアチェンツア防衛に就いた第4戦車中隊は
米755戦車大隊と交戦の後4月26日に全滅している。
106 :
熱海政府と軽井沢政権 :01/11/15 17:22
九五式軽戦車でシャーマンに立ち向かった皇軍のようで不憫なり。アーメン
>93 御教示有り難うございます そういえばカルストイエーガーも最後は悲惨だったようですね RSI空軍といえばかなりドイツ側から信頼されてたようですね なんせMe262を供与しようとしたぐらいですから もう少し長引けばファシスを描いたMe262が見れたでしょう やみくもに傀儡の弱い軍隊と思っている人が多いですが この辺りのことはもっと紹介しないと理解してもらえないんですかね でもまあ他の枢軸国もあまりよくいわれてないからなー
108 :
お世っ界市民 :01/11/16 11:19
>107
Me262については知りませんでしたが、1944年に第1Gr.CT.から
Me163コメートの乗員を訓練させたことは知っていました。
大戦末期にウジーネにAr234やMe262の偵察型が進出していましたね。
空物はまだ出ていませんが、英語の枢軸軍資料はこのサイトがお勧め…。
http://www.axiseuropa.com
109 :
maro' :01/11/16 12:33
>>107 大戦末期に創設されたSS山岳師団カルストイェーガーにもメラーノや
ボルツァーノなどのチロル系イタリア人(たぶんアルプスのスペシャリスト:
ほとんどドイツ語系の住人)が多数動員されたと聞くが、
その辺についてははご存知でしょうか?
110 :
世界@名無史さん :01/11/16 23:03
>>106 M4シャーマン=31トン vs L3タンケッテ=軽自動車並
確かにこれは勝負以前の問題かも。
でもまさかこのカードの直接対決はなかったでしょう?
>108 逆にコメートの話は初めて聞きました興味深いです Me262については飛行訓練を受けさせる計画があったのです 飛行場も二ケ所用意されていた様ですが... >107補足 RSI空軍戦果 撃墜破226 損失137 相手が強敵だったことを思えば 十分評価される数字だと思います
112 :
maro' :01/11/17 16:02
>>109 でアルト・アディジェ地方の出身者が多しと書いたがどうやらスロヴェニア近くの
フリウリ地方のエスニック・ドイツ系イタリア人も多く含まれているようです。
ゴリッツィアやウディネで作戦行動を展開していたようなのでデチマ・マス師団と
同様にチトーパルチザン相手の山岳戦だったようです。
余談ですが、元SS『フルンズベルク』指揮官のハインツ・ハルメルの指揮下にも
この24SS山岳旅団『カルストイェガー』が入っていて英軍側への降伏を彼が指揮
していたそうです。
>109 チロル系イタリア人との表現ですがイタリア系チロル人の方がいいと思います チロル人の歴史も古いので... イタリアという言葉ができる前にいたのではないでしょうか まあローマに支配を受けてはいましたがあの辺りは独自性の強い 地域なので
>112 ハインツ・ハルメルSS少将て45.4.27に罷免されたんでしたよね? そのあと撤退するドイツ軍を支援していたと何かで読みましたが ここにいたのですね
115 :
あるぺんいえーがあーー :01/11/18 00:28
>112 >114 24SSについてはアーマーモデリング誌23号の SS最貧師団列伝18回で高橋慶史氏が詳しく書いています 手に入る資料としてはこれが一番でしょう とりあえず日本語で読めるし...
116 :
あるぺんいえーがーー :01/11/18 01:14
>113 19世紀以降のチロルの状況 これまでのハプスブルグ帝国から変わって ナポレオン側のバイエルンに支配された (チロル軍は戦いには勝っていたのだがオーストリアが負けたため) これに不満のチロルの英雄アンドレアス・ホーファー決起するも鎮圧され銃殺 第一次世界大戦のあとはイタリアに支配された(南チロルを割譲) (これまたイタリアには負けていないのだがドイツ・オーストリアが負けたため) このへんの流れでドイツ系やイタリア系と呼ばれる人たちが現れたのだと思いますが 元々のチロルの人々はずーっといるんでしょうね 余談ですが南チロルの人は独伊両方の言葉を話せる人が多く地名も二つ呼び方があったりします >109ででたメラーノやボルツァーノもドイツ語ではメランとボーツェンと呼びます
117 :
お世っ界市民 :01/11/18 09:03
2Gr.CTのマリオ・ベッラガンビ大尉ってスーパーマリオそっくり! もしかしてモデルか?
118 :
GEACS プロジェクト :01/11/18 21:16
来る12月7日、パラオ、バングラデシュ等世界の日の丸起源の国旗を世に知らしめた 名越二荒之助先生の講演会があります。 「正論」12月号に小さく広告があるだけなので、ここに紹介します。 大東亜戦争開戦60周年記念講演会(入場無料!!) と き 12月7日(金)午後6時より ところ 九段会館大ホール(間違って「昭和館」に逝くなよ〜〜!) 講 師 名越二荒之助(高千穂商科大学元教授) *「昭和の戦争記念館」1〜4卷好評発売中!まだ会員募集中だぞ〜〜〜! 大東亜戦争における大日本帝国の同盟国についての基礎資料この板の方必薦!!
119 :
ムシャムシャ :01/11/18 22:59
南チロル産のりんごは美味いのう
120 :
maro' :01/11/19 10:33
>>117 情報ありがとうございます。
最近AM誌はご無沙汰だったので、気がつきませんでした。
バックナンバー探してみます。
121 :
GEACS プロジェクト :01/11/19 16:15
>118 あと残すところ第5巻のみ!! ・ムッソリーニが会津若松に贈った「白虎隊顕彰碑」 ・ダヌンツィオと日本詩人の交流秘話 ・最近のムッソリーニの本国での再評価等話題満載!
>>121 買う!買います第5巻!
残念ながら12/7は仕事で行けそうにないので、
通販で申し込みたいのですが問い合わせ先の住所か
HPアドレスをこのスレにアップしてください。
ダヌンツィオと下位春吉とのエピソードは調べている
最中だったのですごく有難いです。
今検索で調べたら4巻までしか既刊してないのね。 であれば、5巻はいつ出るんだろう?それともネタ?
124 :
あるぺんいえーがあー :01/11/19 19:16
>121 ムッソリーニが会津若松に贈った白虎隊顕彰碑 ですが所在地どなたか御存じでしたら教えていただけないでしょうか 前からいってみようと思っているのですが (ファシスがくっついているそうですね)
125 :
あるぺんいえーがあー :01/11/19 20:52
>116の補足 メラーノはインスブルックに移るまでのチロルの首都だったところです 昔ここに住んでいた豪族がローマ帝国より領地をもらって ティリオスだかティオリスとかいう名前(すいません忘れました昔読んだ本に書いてあったことなので) の要塞から名前をとってチロル伯爵と名乗ったのが始まりらしい
126 :
maro' :01/11/19 22:09
>>125 の蛇足
RSI話に振るとメラーノのチロル系イタリア人はドイツ・
ポリッツアイ部隊の地方組織スィクレッツァ・メランとして
'44-'45年に対山岳パルチザン戦に参加いたようだが、
意識としてはほとんどドイツ人だったのだろうか?
因にローマのラッセラ街爆破事件で犠牲になった"ドイツ軍"と
伝えられる組織は(日本の書籍の中では武装親衛隊としている
物もあるが)実はスィクレッツァの部隊だと聞く。
つまりイタリア人の悲惨な同士打ちであった。
127 :
GEACS プロジェクト :01/11/20 11:37
>121−122
失礼!誤解されたようで121のカキコは既刊の内容についての紹介です。
第5巻は、シリーズ最終巻でその内容等は現在のところ不詳ですが、来る
12月7日に話される内容が多く含まれることが予想されます。
イタリア・ドイツとの交流については、第3巻にかなり詳しく出ております。
なお、展転社は
http://www.znet.or.jp/~tenden/です 。よろしく!
128 :
あるぺんいえーがーー :01/11/20 14:48
>126 ドイツの部隊ならばイタリア国内に住むチロル系ドイツ人という可能性もあるのでは 一般論ですが南のチロル人は当時イタリア人に対しては良い感情を持っていなかったようです 一次大戦の時ドイツ、オーストリアと同盟にあったはずのイタリアがチロル割譲をみやげに せまったイギリスについたという背景があるので それにしてもこのあたりは(このあたりもか?)ややこしいはなしです そういえば>116にかいたチロルの英雄アンドレアス・ホーファーの名を冠した山岳部隊が SSにありましたがあの部隊はイタリアと関係ないのでしょうか私も今調べているのですが 御存じでしたら教えて下さい
ああ。いやだいやだ・・・。
>128 アンドレアス・ホーファーってチロルのガウライターだったSSの高官が組織したやつでしょうイタリアとは関係ないのでは
131 :
世界@名無史さん :01/11/22 14:08
先日RSI軍の装甲部隊として治安維持系部隊GNRの"レオネッサ"について 書きましたが、実はRSI陸軍にも若干の装甲部隊が存在しますので 補足させて頂きます。 その1:"サン・ジウスト"装甲部隊 前身は、第19騎兵連隊に'34年創設のL3豆戦車学校が母体となり "サン・ジウスト"装甲部隊が設立される(L3×4個中隊、定数61台)。 その後第2軍団に所属し、'41-'43年にかけてユーゴに駐留。L6偵察 軽戦車を加えてダルマチア海岸部に展開(L3×2個中隊、L6×2個中隊、 AB41装甲車×1個中隊)。イタリア休戦後チトーパルチザン防衛に就き ゴリツィア方面まで後退、その後'43年9月スパラートにてRSI陸軍 装甲部隊として編成。 ◎戦車騎兵中隊(L3豆戦車、L6偵察軽戦車、M13/40中戦車、M15/42 中戦車、定数不祥) ◎突撃砲騎兵中隊(セモベンテM42 DA75/18、定数不祥) そこそこの戦力を有してゴリツィア、ウディネ、トリエステで ドイツ軍と共にチトーパルチザンと戦う。'45年3月になっても ヴェネツィア・ジューリア州に留まり、'45年5月3日にイギリス 第8軍に降伏している。 その2:"レオンチェッロ"装甲部隊 ロシア戦線で武功をたてた元第5騎兵連隊ノヴァーラのズッカーロ 大尉の指揮の元にグラツィアーニ将軍の協力も得て'44年9月にガルダ湖畔 近郊のポルペンナーゼにて編成。将来のRSI陸軍第1戦車連隊新設を 目指していたようだが、主にブレッシア - ヴェローナ間のドイツ軍 警備の手薄な所での対パルチザン戦に従事する。 (部隊マークは後ろ足で立ったライオンがファシスを掴んでいる) "レオンチェッロ"装甲部隊車輌編成 ◎司令部中隊(SPA40装甲ジープ×4、セモベンテM43 DA105/25×1、 20mm機関砲×4、通信車×1、トラック8、連絡車輌×4) ◎"M"戦車騎兵中隊(M13/40中戦車×4、M15/42中戦車×3) ◎"L"戦車騎兵中隊(L3豆戦車×12) 編成で目立つのが'45年2月に手に入れた105mm砲装備のセモベンテ 1輌ぐらいで、戦力的にはあまりパッとしないものであった。 '45年4月に"M"戦車騎兵中隊はミラノに"L"戦車騎兵中隊はロニゴに 展開して4月28-29日にかけて降伏している。 という訳でやはりRSI軍のまあ使える装甲部隊は"レオネッサ"ぐらい という結論になります。後イタリア軍の編成上で面白いのは、砲兵 部隊扱いではなく騎兵部隊でセモベンテ(突撃砲)がついて回る ことでしょうか。
132 :
世界@名無史さん :01/11/24 10:32
田宮のセモベンテ再販キボンヌ!
133 :
Visconti :01/11/24 13:50
イタリアは枢軸国で国土が戦場だった期間が最も長かったのに最も犠牲者が少なかった。 「最初の一兵」で降参したパンテレリア島守備隊なんか結果的には最良の選択だったのかも…。
134 :
maro' :01/11/27 15:08
島で思いだしたが最近イタリア大統領が「コレリ大尉のマンドリン」で 日本でも知られるようになったギリシアのチェファロニア島を訪れて '43年夏の虐殺にあったアックィ師団将兵の墓参をしたそうだが、 同時にこのバドリオ側の将兵と同様にRSI側の戦没者も国がきっちり 管理して慰霊をするようにしたいというコメントがあったそうだ。 これもイタリアにおけるRSIの歴史的な見直しの一環か。
135 :
世界@名無史さん :01/11/30 20:26
バドリオ>エチオピア戦での毒ガス使用
136 :
勝てば官軍 :01/12/04 11:23
枢軸ファンはもう居らぬのか!? 今度やるときは、ナチ野郎は抜きでやろうぞ〜〜〜! アラーリ、アラーリ、ジョヴィネッツァ!
>>112 そういえばフリウリ人という少数民族が居るそうです。
138 :
maro' :01/12/05 13:11
>>137 フリウリ人ですか、知りませんでした。ありがとうございます。
先日、憂国忌でのロマノ・ヴルピッタ教授の講演後にヴルピッタ氏と
RSIについてのお話を聞く機会があったのだが、教授はサロ共和国の
成り立ちは有る意味、休戦後から終戦までの限られた時間と北イタリアという
限定空間の中でのムッソリーニを含めたファシスト達による壮大な
ファシズム再生の実験場であったとも言えるのではないか、という
説をされてなるほどという感がありました。
そういう意味ではすでにRSI自体がネオ・ファシストであったという
べきなのでしょうか。その遺産を戦後のMSIを含めたネオ・ネオ・
ファシスト運動に引き継がれていると思えば、イタリアでの定着ぶりが
納得いきます。
139 :
Axis Collaborator :01/12/06 22:04
「朝日新聞」昭和19年10月7日付より 独、本国要塞に立籠る 日本と呼応「一億総決起」 8月から9月にかけて、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドが相ついで驀進する「大ドイツ特急」から飛降りて瀕死となり、 今なおドイツとともに戦っているスロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、イタリア共和国の四ケ国にも赤軍や米英軍の切先が 綿々と伸び、仏白、ポーランドの戦局をおもい合わせると、今やドイツは本国に集約された戦力だけで戦争を継続せねばならぬ 状態である。 前大戦の末期、独が休戦提議をした直前においても、実は遠くウクライナ、エストニア、西はベルギー、フランス領内に独軍が 布陣し、バルカンは同盟国オーストリア・ハンガリーが抑えた上、ブルガリア、トルコまで独の味方であったことを思えば、本 国を「要塞」と固めて戦い抜かんとする今次戦争の独の態勢には悲壮なものがある。… 根こそぎ動員令によって欧州回天の挙を決せんとする独国民現在の数は正に一億、奇しくも盟邦日本の合言葉「一億総決起」に 相通ずるものがある
140 :
M・アキラ :01/12/12 11:55
もうすぐクリスマスでもって、「X^MAS(デチエ・マス)」についてカタローネ。 枢軸軍の中でも有数の精鋭部隊で「イタリア軍の誇り」 でも何で「Xマス」?
141 :
あるぺんいえーがー :01/12/12 14:49
>140 Xa MASと書いてデチマ・マス Xa は10番目という意味で MASは駆潜艇の略です イタリア語では... maroさんヘルプ書き込みお願いします というわけでクリスマスとは何の関係もありません でもベテランの方からのクリスマスカードには 百も承知でクリスマスとひっかけたお遊びがかいてあったりしますけど(笑) イタリア人の師と食事した時に「イタダキデチマ・マス!」 と言われた時もあったので(どこで調べたんだかこの手のお遊びが好きだなー) (オヤジギャグというなかれ!) 話がそれましたがデチマに関しても紹介されることのなかった沢山のすばらしいエピソード がありますよ >maroさん バトンタッチします続きお願い!
142 :
世界@名無史さん :01/12/12 16:02
XMASについては、 「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」(高橋慶史 大日本絵画) でかなり詳しく編成、戦歴などが紹介されてますね。 この部隊の奮戦ぶりを読むとイタリア軍=ヘタレのイメージが大きく覆されます。 あと部隊記章(大きなXの上に薔薇?を咥えた髑髏)はかっこよすぎ。
143 :
maro' :01/12/12 23:37
おお、デチマ・マス話ですか(嬉々)。
>>141 MASとはMotobarca Armata SVANの略で、日本で言う水雷戦隊
の小型攻撃ボートのことで第一次大戦から対オーストリア海軍相手
に奮戦しています。私も日本名の『駆潜艇』から最初は、
Motobaraca Anti Sommergibile (sommergibile=潜水艦)
だと思い込んでいました。
>>142 薔薇をくわえた髑髏のシールドはこの部隊のシンボルですが、
たしか由来はマルタ戦で特攻ボートで壮烈な戦死したトダーロ指令
官が残した“死は薔薇の香りの如く”というイタリア人らしいキザな
セリフが受け継がれたというハナシだったと思いますが。
ラ・スペッツィアの海軍博物館でMAS特攻ボートとマイアーレ人間
魚雷の展示の傍らにそっとトダーロ指令のブロンズ胸像を見た時は
感動したなぁ…。
実はこのMAS話は世界史板や軍事板の住人より腕時計板のパネライ
マニアの方々の方が詳しかったりするのが昨今の日本。
で、なんでそんな海上特攻専門の部隊がRSI時代に強力な陸戦部隊
を有したかは、高橋さんの『ラスカン』上巻で詳しく紹介されて
おりまする。
144 :
maro' :01/12/13 17:42
>>143 補足&訂正
MASとはMotobarca Armata SVAN(SVAN=ヴェネチア発動機付船舶会社)の略だと
書き込みましたが家に戻ってMAS本をひっくり返した所、第一次大戦頃から海軍内
でもMotobarca Anti Sommergibile(対潜水艦船)の名称が一般化していった
ようです。
また、トダーロ指令はマルタ島攻撃にて戦死と書きましたが、実際はチュニジアで
戦死でして、同島攻撃時に目標艦直前に無念の爆死を遂げたテセオ・テセイ隊長と話をごっちゃにしてしまってました。訂正いたします。
145 :
宮崎駿はイタリア機違い :01/12/14 15:57
1944年、ラ・スペチア軍港に侵入して重巡「ヴォルツァーノ」を撃沈したのも、 元MAS隊員であろうか?けしからん裏切り者だ!!
146 :
maro' :01/12/14 20:13
>>145 元MAS部隊員も'43年の休戦以降に北(RSI側)と南(連合軍側)に
思いっきり別れちゃったから、仕方がないといえば仕方がない。
南に行った連中は、イギリス海軍にマイアーレ人間魚雷のノウハウを
そっくり伝授して英海軍も同型のチャリオットという人間魚雷を
作り、ノルウェーのドイツ艦隊攻撃をしたりしてもうワヤな話に
なってますが、私の中では南に行った連中は無かったものにして
蓋してます。
アレキサンドリア軍港で人間魚雷攻撃をかけて英戦艦ヴァリアント
を沈めたド・ラ・ペンネも休戦後は南側なのがなんとも残念。
>145 空母「アキーラ」も攻撃されたんであ〜〜る。 裏切り者は、チアーノしか処刑できんかったのは残念至極!!
148 :
世界@名無史さん :01/12/17 19:40
149 :
maro' :01/12/18 12:18
150 :
世界@名無史さん :01/12/20 02:39
X MAS age
151 :
世界@名無史さん :01/12/20 06:24
休戦後のバドリオ側の軍備はどの程度のものだったんでしょう?
152 :
Visconti :01/12/20 18:22
初期はイタリア軍の装備のママ、次第に米英のお古が供与されるようになった。 ベルP−39エアラコブラは、ソ連空軍での評価が異常に高い戦闘機であるが、 連合軍に寝返ったイタリア、フランス空軍では、至宝というべき名パイロット、 テレジオ・マルティノーリ大尉、ピエール・ルグラーン中尉を同機の事故で失っ ている。前車輪式の離着陸は、かえってベテランにとって難しかったようだ。
153 :
maro' :01/12/21 19:02
>>151 地上部隊は順次英軍装備になって行った模様で、ボローニャを解放
した南側のベルサリエリ・レニャーノ部隊の写真を見ると上から
下まで英軍兵士の軍服姿で唯一ベルサのシンボルの羽飾りを英軍の
皿ヘルメットに付けていてようやく判別できるほどです。
>152 [テレジオ・マルティノーリ大尉]間違い階級は[○曹長]でした。 故・坂井三郎氏でも終戦時は中尉にまでなっていたので、勘違いしました。深謝! やっとオスプレイ日本語版「イタリア空軍のエース」入手しました。 なかなかの力作ですが、載っていないものもかなりあります。 この調子で他の枢軸諸国ハンガリー、ルーマニア、スロヴァキア、ブルガリア等も 出して欲しいものですが、売れ行きが心配されます。がんばれ大日本絵画!!!
155 :
世界@名無史さん :01/12/24 17:01
ちょっとスレの趣旨とは違いますが、質問させてください。 ベルサリエーリ、アルピーニ、カラビニエーリの起源って何だったのでしょうか? サルディーニャ王国の部隊? 「ベルサリエーリ」「カラビニエーリ」は直訳すると「狙撃兵」「カービン銃兵」ですよね?
156 :
世界@名無史さん :01/12/27 14:45
>>155 Xa MASぼけで書き込みに気づいてませんでした。
アルピーニの部隊の歴史は以外と浅く、1872年にジュゼッペ・
ドメニコ・ペルケッティ大尉の発案で山岳地帯の国境線防備には
地元の山岳スペシャリストの兵に任せようというのが始まりでした。
1873年3月に7地区(クネオ・トリノ・ノヴァーラ・コモ・ブレッシア・
トレヴィーゾ・ウディネ)15個中が編成され、1875年には大隊規模に
そして1882年に6個連隊へと拡大されていきました。基本的には
山岳防衛戦に重点を置いていたので、外地への攻撃型部隊としての
編成はあまり考えられていなかった模様。そのぶん郷土防衛軍として
の意識が強く、現在でも3代続けてアルピーニという家柄もあります。
現在では、レバノン、ソマリア、湾岸戦争やユーゴやコソボにも
出動してイタリア地上軍の第一線部隊としての役割を担っています。
一部にはモンテ・チェルビーノ大隊のような空挺山岳スキー部隊も
特殊部隊として存在しています。アルピニ帽の左側にカラスの羽を
付けるのが創立当時よりの伝統で今もナッピーネ(飾りポンポン)
と共にフリッツ型ヘルメットに着用しています。
ベルサリエレはアルピーニよりやや古く、1836年アレッサンドロ・
ラ・マルモーラ大尉(後に少将、第二師団長)の発案により義勇兵
部隊として誕生し、トリノで7月1日に最初の中隊が編成されている。
「狙撃兵」部隊としての名称はたぶんにプロパガンダ的な意味合い
が強いようで、当時のプロシア軍のシュッツェン、オーストリア軍の
フェルドイェーガー、イギリス軍のライフルメンやフランス軍の
ズァーヴィに相当するように位置づけられた命名のようです。
旧ソ連もただの歩兵師団を狙撃兵師団と名付けていたように。
ベルサは攻撃型の部隊で1800年代からアフリカ・中国に派兵され、
1900年の義和団が独公使を殺害し北京の各国公使館を包囲した際に
も出動して一戦交えていたりする。黒のつば帽の右側に雄鶏の尾羽
の束を付けるのが創立当時よりの伝統で今もアルピーニ同様に
フリッツ型ヘルメットに頑固に着用しています。ナイトキャップの
ような赤いフェズの略帽も同様。これはトルコ軍に打ち勝って以来の伝統のようです。
>サルディーニャ王国の部隊?
とありましたが、これはサルディニヤの伝統的なグレナトーレ
(擲弾兵)部隊のことを指しているのでは?
カラビニエーリもベルサと同様ナポレオニック後の創設だと思いましたが、
今度調べておきます。
157 :
maro' :01/12/27 17:56
158 :
maro' :01/12/30 16:44
昨日久しぶりにデ・シーカ監督「ひまわり」を観たらストーングレーカバーを かけたイカ太郎帽を冠ったカラビニエリが自転車で狂人の振りをするマストロ ヤンニを追い掛けまわすシーンがありましたが、考えてみればあの珍妙な帽子 (現在も正帽として着用されているが)もナポレオニックからの名残りなんで しょうな。それにしてもイタリア軍の冠りものは頑固に変わらないものです。
159 :
世界@名無史さん :01/12/30 17:13
あのナポレオンがイイ!
160 :
カブール伯爵 :01/12/30 17:20
ところで、皆さん! トリノ・ユベントスの初代オーナーでFIAT社の創立者の子息 アニエッリJrが、「紅の豚」登場する唯一の実在の人物アルト ューロ・フェラーリン少佐の操縦する飛行艇の事故で1935年 7月30日に死亡したことを知っていますか? 宮崎駿だったら知っていると思うけど…。 機種が知りたい!マーキング等細部が解ればもっと良い!!
161 :
maro' :02/01/05 08:21
>>160 の飛行艇は知りませんが、イタリア空軍・海軍共に一次戦から
飛行艇・水上機には割と力が入ってようで「紅の豚」にもその辺が
描かれてましたね。現在東京フィルムセンターで行われている
『イタリア映画大回顧』で先日観た'42年制作の「Alfa Tau」という
潜水艦の劇映画の中で空軍所属の3発の飛行艇(Z506アイローネか
RS14)が登場し、内部から翼上から側面まで非常にクリアーな
接写で観れて感動しました。また、以外とデカイという印象を受けました。
このネオ・リアリズモの先駆的映画ではイタリアのバリラ級潜水艦は
言うに及ばず、ドイツのUボートもクルー出てるし、(当然全部
オリジナル)映画としてもちゃんとエンターテイメントしていた
ので日本語字幕まで付けているのにこのフィルムセンターの企画での
3回上映だけではいささかもったいない感じでした。
どっかでDVD化して貰えないものでしょうか?
なんか殆ど軍事板スレと化している・・・ ところで、何故なんで彼らはサロなんていう小都市に 首都をおいたんでしょうか? 数十キロ以内にはヴェローナやらブレシアやらもっと 大きな都市があるのになぜ?特にブレシアなんか 大商業都市のうえ、たしか軍需産業が盛んな町なのに。
163 :
maro' :02/01/09 13:33
>> なんか殆ど軍事板スレと化している・・・ スルドイ突っ込み有り難うございます。(W 確かに、何故サロのような田舎にわざわざ政府機関を置いたのか は謎ですね。ヒトラーは、隔離したような環境に傀儡政府を作って ムッソリーニをコントロールしやすく意図したのでは、という 憶測はできますが…。 後、ユーゴ国境側やロンバルディア、ピエモンテ山岳地帯はパルチザン に押さえられていたという地理的な条件下でサロのあるガルダ湖辺りが 適当だったのかも知れません。
164 :
「世界制服」ってか…? :02/01/15 22:13
ヴィシー政権は「日本国熱海政権」 サロ共和国は「日本軽井沢共和国」 って考えたらいいんでないかい?
165 :
世界@名無史さん :02/01/17 12:08
戦時中、旧軽井沢にはドイツ人もいっぱい疎開してました。イタリア人は 神戸あたりにも多かったのでは。
166 :
世界@名無史さん :02/01/17 17:54
たしかサロ共和国の大使館(領事館?)は神戸にあったと聞いたが。
167 :
maro' :02/01/18 12:22
>>124 あるぺんいえーがあー氏へ
先日千葉の教授からの寒中見舞いに書いてあったのだが、例の
イタリア白虎隊記念碑にあった戦後米軍に撤去されたファッショの
紋章の鋳型は現在もローマ市庁舎の倉庫に保管されているそうだ。
まだそれが現存するのならばローマ知事が国民同盟側の今のうちに
ファッショ紋章復活運動でも起こしましょうか。
もちろん会津若松市民の承諾あっての話なのですが…。
168 :
あるぺんいえーがあー :02/01/18 18:18
>167 maro様 それはビッグニュース! よく保管されていましたね それとも気付かなかっただけ? どっちにしても朗報です
169 :
maro' :02/01/19 01:28
170 :
M・アキラ :02/01/20 17:40
>白虎隊が眠る飯盛山の墓前広場の右手に、大ワシが載る高い石柱がある。 >これは昭和3年(1928年)、イタリーのムッソリーニが政権をとったファシスタ暦第6年、 >「ローマ元老院及び市民」の名で贈られた記念碑である。この石柱はベスビオス火山の噴火で >埋没した古代都市、ポンペイの宮殿から発掘したばかりの赤色の岩の円柱である。柱頭にはマ >サカリをもった大ワシが羽を広げていた。表面には、「文明の母たるローマは白虎隊勇士の遺 >烈に不朽の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表す『ファシスタ』党章のマサカリを飾 >り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」 裏面には、「武士道の精華に捧ぐ─── ローマ >元老院及び市民より」と刻まれていた。ローマの彫刻家デュリオ・カンペロの設計になるもの >であった。敗戦後の昭和20年8月、若松に進駐したアメリカ陸軍ニューヨーク部隊が、全体 >主義であるファシスタ党を嫌い、ローマ字の全文と台座のマサカリをはずしている。 グラッチェ・ドューチェ! ヴィーヴァ・ファシスティ・イアリアーナ!
171 :
maro' :02/01/20 19:24
私は裏面に彫られた"ALLO SPIRITO DEL BUSHIDO">『武士道精神に捧げる』 の文言にシビレましたね。 しかし、こんな国宝級の遺物を送って来たドゥーチェの日本への最大級の賛辞 には心打たれます。
172 :
世界@名無史さん :02/01/21 01:18
ファッショ紀元あげ
源氏の嫡流は、摂津源氏だったが、いつのまにか義家らの河内源氏になった。 本家:摂津源氏:イタリア・ファッショ 分家:河内源氏:ドイツ・ナチズム
174 :
maro' :02/01/23 19:46
175 :
Axis Collaborator :02/01/24 18:22
>174 貴重な写真をコレクションに感動しました。 やはり本家の出典確かな物は価値が高いものです。 ところで、元祖「未来派芸術家」F・T・マリネッティの晩年について解ることはありませんか?
176 :
世界@名無史さん :02/01/24 19:26
実際ムッソリーニ自身親日だったらしいね
177 :
世界@名無史さん :02/01/24 23:50
ムッソリーニさんage
178 :
maro' :02/01/25 21:32
>>175 確かマリネッティは戦争末期の44年に亡くなったと聞きましたが。
ファシスト運動初期の段階でムッソリーニとは袂を分かったようなので、
戦前ぐらいまでしか残念ながらこの『未来派芸術家』の消息は判りません。
179 :
Axis Collaborator :02/01/26 18:29
私の乏しい知識では、ロシア戦線に自ら駆って出て泥濘の悲惨を体験し、病を得て帰国、 1944年のクリスマス前後に亡くなったそうです。
180 :
世界@名無史さん :02/01/29 04:14
181 :
maro' :02/01/29 07:39
182 :
世界@名無史さん :02/01/31 01:45
ファッショage
共和国にとって最後の頼みの綱は、唯一ドイツで再教育されたイタリア人部隊であったから、 ムッソリーニ自らもドイツ訪問の際にムンツインゲンを訪れて閲兵している。五万七千の勇士 の内訳は、主に一万三千人がギリシャ戦線で逃亡してドイツ軍の手に落ちた捕虜であり、残り は十九歳から二十一歳の元パルチザン及び脱走兵の改心組から成り立っていた。山岳部隊の 「モンテローザ師団」、「サン・マルコ師団」、志願兵を含む「リットリオ師団」、「イタリ ア師団」等である。「朝の五時から午後七時まで」「ドイツのラーガー」で、「規律厳格の下」 で鍛えられた「アドルフ・ヒットラー総統に忠誠」を誓い、「ドイツ軍最高司令部の指揮下で 総統のイタリア・ファッシスト共和国と大ドイツ帝国の共通の敵」と戦う用意が出来ていたの であった。こうした期待を担った彼等ではあったが、「国境までは整然と」来たのも束の間で、 疲れた不信感のある国民」に「汚染されて」、直さま「隊には不機嫌が充満し」、「その多く は到着した時のあの熱気はどこへやら」となり、戦線ではなくパルチザン退治の山狩りに出さ れると、再びドイツ送りになるのが恐いから、「山ほどの機銃を抱えて逆賊になったり」、 「抵抗もせずに多くの資材を敵に渡した」のであった。 ドイツ帰りにも銃殺、強制労働の刑を科したが功を奏せず、「イタリアの警察によるドイツ 軍配下の脱走兵捜索は全く駄目であるから」、親衛隊がその任に着き家族への報復で臨む外な くなったのである。グラツィアニはラーンに対して、その一〇から一五パーセントに当たる 「合計五千人の脱走」を認めているが、ドイツ軍の計算では四分の一に相当するから、最後の 決戦用の一万人の確保さえ怪しい雲行きとなったのである。エルバ島の守備隊は連合軍が上陸 する以前に白旗を掲げ、刑務所の政治犯を釈放し、連合軍をブラス・バンドで歓迎したのであ った。「イタリア軍は何ともならん。一切の信用をなくした」と今更嘆いても遅く、「イタリ ア人の弱さは民族の血だ」からヒットラーを始めドイツ軍は重々承知していたのである。 *伊東章・著「ムッソリーニ夜話 二十世紀を作り損ねた男の素顔」日本図書刊行会より やっぱし伊太公はヘタレだった。
>>183 もう少し読みやすくしてくれ。段落ごとに一行あけるとか・・・・
185 :
世界@名無史さん :02/02/01 19:40
>183の引用文 >>イタリア人の弱さは民族の血だ いや、これが彼らの“強さ”だと思うのだが。
186 :
maro' :02/02/02 21:51
どうも日本だけでは無いのだが、
>>183 のように乏しい知識・資料を鵜呑みにして
ステレオタイプなイタリア=ヘタレ説を展開する御仁(おそらく酔狂なドイツ軍
マニア)が後を絶たないようだが、世の中果たしてそんなに簡単な事なのだろうか?
冷静に考えてほしいがイタリア本土に展開するドイツC軍集団だけでRSI抜きでどうやって
連合軍に2年も抜かれずに防ぐことができたのでしょうか?西部戦線はDデイから1年
持たなかった事実はなんでしょうか。確かに'43年以前の国王の軍隊時代ではイタリアは
士気・装備共に今ひとつの感があるが、RSIからの殊に志願・義勇系のデチマ・マス海兵師団
やフォルゴ―レ空挺師団あるいは第29SS師団等においては一線部隊としてドイツ軍と共に
祖国防衛に奮戦している。因みに
>>183 の挙げた資料には物の見事にこれらの部隊名は
外れている。この辺が日本におけるRSI史への低い意識の現れでしょうか。
大体ドイツ本国が戦っている最中に真っ先に降伏を画策し、OSSにムッソリーニを交渉の
切り札として使おうとしたのは他ならぬドイツ軍だったではなかっただろうか?
高橋さんの新刊『ラストオブカンプグルッぺ』にも武装親衛隊のヴォルフが降伏前に
デチマ・マス海兵師団に対してドイツ軍を裏切り者扱いをして攻撃しないよう要請して
いた件があるが、大半の読者はおそらく読み飛ばしているのでしょう。チャーチルも
戦争終了後のドサクサに紛れてチトーがイタリアに侵入する事を恐れてマス師団をうまく
使おうとしていたりもします。
とりあえずRSI史についての流れを知りたいのであれば、伊藤何某などの本など読まずに
中央公論新社から出ているロマノ・ヴルピッタ著『ムッソリーニ』ぐらいは読んでほしい
ものですが…。あと、ツオいイタリアRSI軍に関しては過去レスを読みませう。
187 :
世界@名無史さん :02/02/02 23:57
長文うざいなあ。
188 :
世界@名無史さん :02/02/03 00:06
>>187 ん、坊やはハン板の子かい、それとも思想板か極東板の子かな。
よちよち、読解力のない子にはちょっと難しい板なんだね、ここは。
186くらいで長文に見えるようじゃ、この板ではとてもやっていけないんだ。
あきらめて、およその板に移りなさい。
ここでぐずぐずしていると、そのうちにあやめ小母さんが戻ってくるんだよ。
へたれ坊やが、あの旧漢字真黒長方形レスを見たら目がつぷれちゃうよ。
189 :
世界@名無史さん :02/02/03 00:10
プ。たった一行に逆切れ。内容のないカキコ、よく続けるよな
190 :
世界@名無史さん :02/02/03 00:13
なんだ、人種論で逃亡した「プ」か。 ま、へたれに違いはないな。
191 :
世界@名無史さん :02/02/03 00:15
この手の方向の奴って、なんで2chなんかで長文かくんだろうね? 失業者かロリコンかな?
世界史板で荒れてるところを久しぶりに見た
なんか、もう強引
>>191 つーか、ここは2chと言っても、世界史板なんだから30行ぎりぎりの長文は
普通だよ。
単にきみがここの住民じゃないってことだろ。どの板も同じと考えるほうが変。
195 :
23 marzo :02/02/04 04:24
このスレには始めてカキコしますが このスレは中々良質なもんだと思いますので(世界史板も含めて) 少々荒れたと言っても他の板に比べれば穏やかで安心できます!! やはり資料は多面的に見て判断しないといけないと思いました。 でもRSI軍がちゃんと連合軍と戦闘したのは44年前半だけだと思いますが その辺いかがなものでしょうか?
196 :
世界@名無史さん :02/02/04 12:21
午前4時。失業者か学生か? 小説かけよ。小説。RSIネタにさ >大体ドイツ本国が戦っている最中に真っ先に降伏を画策し、OSSにムッソリーニを交渉の >切り札として使おうとしたのは他ならぬドイツ軍だったではなかっただろうか? >高橋さんの新刊『ラストオブカンプグルッぺ』にも武装親衛隊のヴォルフが降伏前に >デチマ・マス海兵師団に対してドイツ軍を裏切り者扱いをして攻撃しないよう要請して >いた件があるが、大半の読者はおそらく読み飛ばしているのでしょう。チャーチルも >戦争終了後のドサクサに紛れてチトーがイタリアに侵入する事を恐れてマス師団をうまく >使おうとしていたりもします。 よくわからんが、文盲でないかぎり読み飛ばさないぜ。資料きちんと読めよ
197 :
世界@名無史さん :02/02/04 14:55
よくわからんが、>196の言うきちんと読めるRSI資料ってナ二? それが>183の本ってこと?
198 :
シーマ・ロシータ :02/02/04 18:18
ジュリアーノ・ジェンマ主演「コルバリ」に萌え! RSIは敵役だが…。
>午前4時。失業者か学生か? 海外からかもしれん
200 :
シーマ・ロシータ :02/02/04 20:28
>198 ついでですが、ハンガリーの「矢十字党」が出てくる映画には「ハンナ・セレシュ」があります。 これも敵役だが、良心的ファシストも出てきてちょっと救われる。(腕章の付け方が反対だが) デンマーク映画の「第二十七戦車隊」はヴァッフェンSSのパロディだが、結構笑えてよい。 ハリウッド映画だが「スウィング・キッズ」は、大戦初期のジャズ少年の悲劇、痛い。 なんか「WW2枢軸軍物」の面白い映画ないですか?
「エーゲ海の天使」(原題MEDITERRANEO)
202 :
23 marzo :02/02/04 21:43
>高橋さんの新刊『ラストオブカンプグルッぺ』にも武装親衛隊のヴォルフが降伏前に >デチマ・マス海兵師団に対してドイツ軍を裏切り者扱いをして攻撃しないよう要請して >いた件があるが、 その件に付いては存じておりますが、やはり米軍や英軍と正面で戦ったのは 44年前半でその後はパルチザン戦などで後方やフィウメなどへ回されてしまい あまり米軍や英軍の前に姿を表さないような気がするのですが?
203 :
世界@名無史さん :02/02/04 22:11
アフリカのフォルゴーレ空挺物だと『砂漠の戦線エル・アラメイン』がお勧めです。RSI絡みだと『無防備都市』や『サン・ロレン
ツォの夜』等がビデオリリースされてますが、やはり何と言っても
>>200 前述の『特攻大戦線(コルバリ)』が一番当時の雰囲気が
あって良いのでは?TV放送時ではカットされているラストシーン
は、秀逸。やはりあのRSI側の指揮官は、デチマ・マス部隊の司令官
ボルゲーゼ中佐を意識してるのでしょうか。
後、デ・シーカが主演している『ロベレ将軍』もRSI物としてたびたび
噂を聞きますが、残念ながら未見です。誰か見てます?
204 :
世界@名無史さん :02/02/04 22:23
イタリア軍が出てくる映画と言えば 砂漠のコマンド たしか南アフリカ映画? 好敵手 65年のイギリス映画 の二つがお勧めです なんせ舞台が東アフリカ!!
やっぱり「ソドムの市」ははずせないでしょ!
206 :
maro' :02/02/04 22:41
>>202 の話はどの資料からかは判りませんが、RSI軍はドイツ軍と
共に'44年後半以降も結構最期まで連合軍と戦ってますよ。
頭に浮かぶだけでも、フォルゴーレ空挺の3個大隊はドイツ第5山岳
師団と共に'44年暮れから終戦までフランス国境側アルプス線に展開して
米・仏山岳部隊と最期まで戦闘をしているし、GNR装甲部隊レオネッサは
'45年4月に米軍と闘って壊滅しているし、
>>105 デチマ・マス師団の
中核はセニオ川を後退してからも英第8軍と終戦まで退却戦を続けて
いるし、同師団のフルミネ大隊はスロヴェニアでチトー軍と交戦して
いたし、同師団の特攻ボートは'45年の4月になっても仏駆逐艦を
攻撃して大破させたし、M系9月9日大隊は'45年初頭に独ブランデン
ブルグ師団と共に東プロシアでソ連軍相手に奮戦していたりと色々
とありますが…。
ただ、この辺の話は残念ながらまったくと言っていいほど日本語の
資料はありません。伊語と格闘する覚悟があるのでしたら、やはり
一番のお勧め資料はGiorgio Pisano著“GLI ULUTIMI IN GRIGIO
VERDE Vol.1-4”(グレーグリーンを着た最期の者たち)でしょう。
写真とエピソードはテンコモリにあります。
207 :
maro':訂正 :02/02/04 22:56
208 :
23 marzo :02/02/04 23:22
>206様 そのような状態だったとは!! 全く心が洗われました!! このスレに来て良かったです。 自分の無知を深く反省する次第です!! 有難う御座いました。
209 :
あるぺんいぇーがー :02/02/05 01:13
>200 国内で現在発売されているDVDだと 無防備都市、サン・ロレンツォの夜、ひまわり、 砂漠のライオン、マレーナ、特別な一日 等があります。 >202 私はドイツ陸軍の山岳部隊を中心に調べていますが、44年9月にWestalpenに来た5.Geb.Div.のGJR100の連中はよく伊空挺や伊山岳兵(Alpini)と一緒に写真に収まっています(公文書館出の写真でよく見かけます) 45年だと具体的には Kampfgruppe Aosta(Ital.Alpini.Reg.3(第1大隊は除く),II/GJR100, Pz.Jag.Abt.85), GJR85 (I./Fallschirm-Rgt.3(Folgore)を含む)、 GJR100 (第2大隊は除く)(I/Ital.Alpini.Reg.3)などの部隊です 同様に独空挺は伊空挺と同じフレームに収まっていたりしますが意外とみんな気が付いていないだけかも知れませんよ 服装や装備も同じだったりすることが結構あるし、キャプションが無ければ全く気が付かないものもあります (独空挺メットに独空挺スモック、独空挺ズボン、LWのバックルで独装備とくればもはや識別するのは難しいはず) あと地味な部隊ですがオストプロイセンにいたガス戦の部隊とか西部戦線のLW麾下のFlakの部隊等もあります イタリア戦線に限って言えば45年の最後まで戦ったのはRSIの将兵達ですよ
210 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:28
1939 4月12・13日アルバニア併合 伊独鋼鉄同盟成立 9月 1日ドイツ、ポーランドに侵入。イタリアは中立に 1940 6月10日イタリア参戦 10月28日ギリシャ侵攻 1941 12月8日真珠湾攻撃、日本対米英参戦 12月11日イタリア・ドイツ、アメリカに参戦 1942 12月11日ソ連軍の反撃始まる 1943 3月 FIATなどの北部労働者のストライキ 5月 チェニジア放棄 7月 連合軍シチリア島上陸 7月24日大評議会ムッソリーニ不信任案可決 7月25日国王ムッソリーニ逮捕 バドリヨを首相に任命 9月 8日連合軍と休戦協定
211 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:29
9月9日降伏 9月9日国民解放委員会(CLN)設立 バドリヨ、ブリンディシに政府移転 9月12日ムッソリーニ、ドイツ軍に救出される 9月23日ムッソリーニ、北イタリアでサロ共和国を樹立 9月28日対ドイツ抵抗運動「ナポリの四日間」 10月 イタリア対独宣戦 10月 最初のパルチザン編成 1944 1月 サロ共和国、チミノ元外相らファシスト幹部 ムッソリーニに処刑される。 1月28日反ファッシ、バーリ会議で政府と対立
212 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:29
3月23日ローマ郊外でナチの「フォッセ・アルデアティーナの虐殺」355人銃殺 4月 共産党トリアッティによる妥協体制成立「サレルノの転換」 6月 8日ボノーミ内閣成立 8月22日フィレンツェ解放 1945 4月25日ミラノ解放、イタリア解放され戦争終結 4月28日ムッソリーニ、北イタリアでドンゴで逮捕、銃殺処刑
213 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:29
6月 パルチザンの武装解除 6月19日パルリ内閣誕生 12月 第一次デ・ガスペリ内閣誕生。連合軍の占領体制終わる。 1946 3・4月 地方選挙で社会・共産ブロックと DC(キリスト教民主党)が優位に 6月 2日制憲議会の国民選挙、 君主制度廃止決定
214 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:30
6月10日イタリア共和国誕生 6月28日エンリコ・デ・ニコラ初代臨時大統領に。 7月 第2次デ・ガスペリ内閣 12月26日ネオファシスト、イタリア社会運動(MSI)ローマで結成 1947 1月9日社会党分裂、民主社会党(PSDI)結成 1月13日デ・ガスペリ、アメリカ訪問 2月10日パリ講和条約調印 5月 社共を排除し第4次デ・ガスペリ内閣誕生 12月21日新憲法制定 1948 1月1日新憲法発効 4月18日解放後最初の総選挙 5月11日初代大統領、ルイジ・エイナウディ 5月24日第5次デ・ガスペリ中道内閣 7月14日トリアッティ共産党書記長,暴漢に襲われ重傷 8月 5日DC労組CGILを脱退CISL(自由伽惘労働総同盟)を結成。 1949 3月 4日政府NATO承認、社会・共産反対 5月4日トリノで飛行機墜落,サッカーチーム選手団が全員死亡 1950 1月 第6次デ・ガスペリ内閣 5月 シーラ法 イタリア南部、カラブリア地方の農地改革法制定 8月 南部開発公庫設置 cassa per il mezzogiornno 10月 ストラルチョ法土地開発農地改革 1951 7月 第7次デ・ガスペリ内閣 11月ポー河流域で大洪水,89人死亡 1952 1953 2月 ENI(炭化水素公社)設立 3月 新選挙法、過半数最高得票に 議席の65%を与える。 6月 7日総選挙。DC過半数を取れず 後退。デ・ガスペリ退陣 7月 第8次デ・ガスペリ内閣1ヶ月で辞任。 8月 ペッラ内閣誕生 [奇跡の成長」高度成長始まる。 1954 2月 シェルバ内閣 10月 5日ロンドン協定、トリエステ領土問題 1955 7月 第一次セーニ内閣 12月 バノーニ財務大臣10年計画(公共投資) 12月14日国際連合に加盟 ジョバンニ・グロンキ(DC)社共の支持で大統領に当選 1956 2月 ソ連共産党20回党大会 10月 ハンガリー動乱 12月 共産党第8回党大会・構造改革路線 国家持ち株省設立 1957 2月 ベネチア党大会社会党共産党と離反 民主社会党に接近
215 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:30
3月25日EEC(欧州共同市場)誕生、ローマ条約 5月 ゾーリ内閣 1958 5月25日総選挙 7月 第2次ファンファーニ内閣成立、 左の意向を表明 10月28日法王ヨハネス13世即位 1959 詩人クワジーモド、ノーベル 文学賞受賞 2月 ファンファーニ首相辞任。 アルド・モーロDC書記長に就任 2月16日DC単独のセーニ第2次内閣PLI・MSI・王党の閣外協力 1960 3月 タンブローニ内閣MSI(イタリア社会運動)の支持で成立 6・7月 政府MSI容認政策から 反ファシズム運動おきる DCタンブローニの辞任を決定
216 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:31
7月 第3次ファンファーニ内閣 8月25日ローマオリンピック開催 フェリーニの「甘い生活」カンヌ映画祭グランプリ 1961 2月 国内の移住を禁止したファシズム時代の法律が禁止される 5月15日法王ヨハネス23世の回勅 「マテール・エト・マジストラ」発表。 教会の社会的役割 1962 1月27日DCナポリ大会、左展開に 2月 第4次ファンファーニ内閣、社会党協力
217 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:31
10月 イタリア炭化水素公社(ENI) 総裁エンリコ・マッテイが 飛行機事故で死亡 10月11日第二バチカン公会議 12月 電力産業国有化法設立 1963 4月10日ヨハネス23世回勅 「パチェム・イン・テリス」発表、法王没 4月28日総選挙、DC後退、PCI(共産党)進出 6月21日パウロ6世誕生
218 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:32
6月22日第一次レオーネ内閣 10月9日北イタリアロンガローネでダム決壊2千人近く死亡 10月24日社会党大会、左派の反対 を押さえ政府参加を決定。 12月 第1次モーロ内閣、社会党参加 、初の中道左派内閣 1964 1月 社会党分裂、プロレタリア統一社会党(PSIUP)誕生 。 6月 モーロDC書記長辞任 7月 第2次モーロ内閣 8月 トリアッティ、ヤルタで没す。 12月 大統領選挙、サーラガト共産党の支持で当選
219 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:33
1965 アメリカ、北ベトナムで北爆開始 1966 2月 第3次モーロ内閣 モンテカティーニとエディソン大型企業合弁モンテエディソン誕生 10月 社会党(PSI)と民主社会党(PSDI)の合同 中国文化大革命(67年まで) 1967 4月15日喜劇俳優トト死去 チェ・ゲバラ、ボリビアで死亡 1968 1月15日シチリアのベリチェで大地震245人が死亡 学園紛争拡大、議会外新左翼展開 5月19日総選挙、社会党後退 6月 第2次レオーネ内閣 9月23日現代の聖人パードレ-ピオ神父が死去.81歳 12月 ルモール内閣 1969 「熱い秋」労働・学生闘争/全国労働協定改定 7月 社会党分裂 8月 第2次ルモール内閣 12月12日ミラノで右翼によるフォンターナ広場前,銀行爆破テロ 1970 3月 第3次ルモール内閣 6月 州制度導入による州議会選挙 7月 レッジョ・カラブリアでネオファシストの暴動 8月 コロンボ内閣 11月 モーロ外相訪日 12月 1日離婚法制定 1971 南部開発法制定 6月13日部分地方選挙でMSI南部躍進 12月27日レオーネMSIの支持で大統領に就任 1972 2月 中道左派の内部対立激化
220 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:33
2月 アンドレオッティ一次内閣誕生 5月 7日繰り上げ総選挙、MSIと王党派増大、中道左派両極分解 6月26日二次アンドレオッティ中道右派内閣 1973 第一次石油危機始まる。 2月 リラ変動相場制に移行 5月 ファンファーニDC書記長に中道左派に転換 7月12日中道左派内閣の復活 9月 チリ反革命 10月 共産党ベルリングエル書記長、DC・PSIらと 歴史的妥協路線提唱 10月4日女優アンナ-マニャーニ死亡 1974 スタフグレーションに石油危機が重なり 経済危機はじまる。 5月 国民投票、離婚法廃止ならず 11月14日映画監督ヴィットリオ・デ・シーカ死去 11月23日第4次モーロ内閣成立、 PCI(共産党)暗黙の閣外協力始まる 1975 3月6日選挙を満18歳以上からに拡大 6月15日統一地方選挙、PCI大躍進 7月22日DC全国評議会、ファンファーニ書記長の不信任 10月10日トリエステ領土に関する議定書 ユーゴと調印 10月 詩人エウジニオ・モンターレ、ノーベル文学賞受賞 11月2日 映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニ、 ローマ近郊オスティアで殺害される。 妊娠中絶を求める運動高まる。 12月25日ローマ司教評議会、反共十字軍宣言 1976 1月7日アルド・モーロ内閣総辞職 1月 新左翼諸派からなる プロレタリア統一党結成 2月12日第5次モーロ内閣成立DC単独 3月 ロッキード汚職事件の捜査始まる。 3月 3日社会党ローマ大会始まる 3月17日映画監督ルキノ・ヴィスコンティ死亡 4月 1日中絶禁止法緩和修正案可決 4月14日DC全国評議会長にファンファーニ 5月 5日フリウリ地方大地震 6月20日繰り上げ総選挙 7月10日北イタリアセベソで化学工場が爆発ダイオキシンが流出 7月20日第3次アンドレオッティ内閣 PCI,DC支持 1977 1月 3日教皇パウロ6世 共産党員のローマ市長と会談 6月 3日映画監督ロベルト・ロッセリーニ死亡 9月16日オペラ歌手マリア・カラス死亡 1978 3月11日第4次アンドレオッティ内閣 3月16日DC書記長アルド・モーロ、テロ組織「赤い旅団」に誘拐される。 5月 9日ローマ中心部でアルド・モーロの死体が発見される。 7月 8日社会党のぺルティー二、7代大統領に就任 8月 6日パウロ6世死去 9月28日ヨハネパウロ1世33日で死去 10月16日ヨハネ・パウロ2世ローマ法王即位、初の共産圏出身の法王 1979 1月ローマ法王ヨハネパウロ2世メキシコ訪問。初の外国訪問 左翼によるテロ事件相次ぐ。 3月20日第5次アンドレオッティ内閣 4月10日音楽家ニーノ・ロータ死去 6月 ヨハネ
221 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:42
1月12日文化人ヴィットリオ・ヴァシェレ「赤い旅団」に殺害される。 4月 4日第2次コッシーガ内閣 6月27日シチリアのウスティカ沖でDC9が墜落,ミサイル攻撃を受けた疑惑 8月 2日極右によるボローニャ中央駅爆破事件 10月18日フォルラーニ内閣 11月23日ナポリのイルピニアで大地震 1981 5月 8日フリーメーソンの反共組織P2事件に関する捜査が始まる。 5月 第2次マフィア戦争、コルレオーネ派による一掃作戦 5月13日法王ヨハネ・パオロ2世、トゥルコ・アリ・アグジャによって サン・ピエトロ広場で狙撃され負傷。 5月18日国民投票、堕胎法の否決 5月 フォルラーニ内閣辞職 6月28日スパドリーニ内閣、戦後初の非DC首班誕生(共和党) 1982 8月 脱税防止法案否決を機に スパドリーニ内閣辞職、第2次同内閣 9月 3日反マフィアのパレルモ知事、ダッラ・キエーザ将軍パレルモで 暗殺される 反マフィア法議会で可決 ペルティーニ大統領訪日 12月28日第5次ファンファーニ内閣 1983 3月 共産党、歴史的妥協路線を放棄 6月26日総選挙 8月 4日クラクシ社会党内閣誕生 10月24日マフィアの改ざん者トーマッソ・ブッシェッタ、ブラジルで逮捕 1984 2月18日クラクシ首相によるラテラーノ条約改定 6月11日ベルリングエル共産党書記長パドヴァで死亡 6月17日第2回欧州議会選挙でPCI第一党に 9月29日サンミケーレの電撃作戦 マフィア大量検挙 11月 パレルモ、イニャッツィオ、ニーノ・サルボ、 マフィア関与の容疑で逮捕 1985 3月27日エコノミスト、エツィオ・タランテッリ「赤い旅団」に殺害。 6月 9日国民投票。スカラ・モービレ賃金制度導入。 7月 中曽根首相イタリア公式訪問 法王中南米訪問 6月24日フランチェスコ・コッシーガ8代大統領に就任 10月 7日パレスチナ人による客船アキッレ・ラウロ号乗っ取り事件。 アメリカ人が殺害される。 レオルッカ・オルランド、パレルモ市長に就任。反マフィア市政、 「パレルモの春」始まる 12月27日ローマ、フィウミチーノ空港でパレスチナゲリラによる乱射事件。 1986 2月 1日パレルモの要塞法廷でマフィア大裁判始まる
222 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:43
5月 クラクシ首相、アンドレオッティ外相公式訪日 8月 1日第2次クラクシ内閣 1987 5月 ファンファーニ首相公式訪日 社会党内閣総辞職(戦後最長) 4月17日第6次ファンファーニ内閣、DCのみ 6月14日総選挙、共産党後退、29日ゴリア内閣成立 6月 ベネチアサミット、ローマの米英大使館で日本人奥平 によるロケット弾テロ 11月 8日国民投票、原子力発電所の設置廃止 12月17日パレルモ、マフィア大裁判終わり、342人が有罪判決。 1988 4月13日デ・ミータ内閣誕生。 5月22日MSIの創立者アミランテ書記長死去。 7月22日第6次アンドレオッティ内閣誕生。 1989 1月ENIとモンテジソンによる合併会社エニモント誕生 1990 6月 8日サッカーのワールドカップITALIA90開催、 ドイツ優勝、イタリア3位に。 8月 2日イラク、クゥエート侵攻、6日アメリカ、イラクへの禁輸措置決定。 10月 東西ドイツ統合 10月18日グラディオ事件(反共政策に関与)発覚 11月 イタリア大手銀行、ローマ銀行とカッサ・ディ・リスパルミオ合併 11月 ENIモンテエジソン社の持株を全額買収、合弁の事実的終焉 1991 1月17日湾岸戦争勃発、イタリア介入を下院で可決。 1月31日PCI党大会分裂、PDS(左翼民主党)誕生。残りは共産党再建党 4月 5日第7次アンドレオッティ内閣誕生。 8月 アルバニアから大量難民が押し寄せる。 10月25日DIA(反マフィア委員会)設立。 1992 2月17日老人ホーム汚職に絡んでマリオ・キエーザ園長逮捕 ミラノ検察局、ディ・ピエトロ検事を中心に「清い手作戦 」大量汚職摘発始まる 3月12日サルボ・リマDC議員、パレルモでマフィアにより殺掃 4月 5日ボスニアのサラエボでセルビア人勢力による攻撃始まる。 4月 5日総選挙DCアマート内閣誕生、DC後退30%を割る。 5月23日ジョバンニ・ファルコーネ判事 パレルモの高速でマフィアによりヌ ユ 5月25日オスカー・ルイジ・スカルファロ、9代大統領に就任 7月19日パウロ・ボルセッリーノ判事パレルモの自宅前でマフィアにより爆死 7月25日マフィア対策の為シチリアにイタリア軍派兵 12月 8日イタリア、ソマリア派兵 12月15日クラクシ元首相に対し初の捜査通告 1993 1月15日シチリアマフィアの大ボストト-リイナが逮捕される 1月20日フェデリーコ・フェリーニがオスカー功労賞受賞。 1月23日中村氏がILVAの総裁に就任 2月11日クラクシ、社会党書記長辞任 2月25日カステッラーリ、エニモント汚職事件で捜査中に死体で発見される。 3月16日国会、政治倫理問題をめぐって国会騒然 3月27日アンドレオッティ元首相にマフィア容疑の捜査通告 4月18日国民投票、小選挙区選挙制度導入賛成 4月26日アマート内閣総辞職、専門家集団によるチャンピ内閣誕生 天皇皇后両陛下イタリア訪問 5月 9日ボスニアのモスタルで攻勢始まる。 5月14・27日ローマ、フィレンツェ爆弾テロが相次ぐ
223 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:44
5月15日プローディ再びIRI(産業復興公社)総裁に 6月27日オペラ歌手パバロッティ、ニューヨークでコンサート 7月20日エニモント汚職疑惑でカリアリが自殺 7月23日ガルディーニがエニモント疑惑で自殺 7月27日ローマとミラノで同時爆弾テロ 7月 クラクシ議員などに汚職捜査通告 7月 PPI(人民党)誕生、キリスト教民主党(DC)分裂崩壊。 8月 4日小選挙区比例代表並立制国会で可決 9月13日ワシントンでイスラエル和平合意 9月20日ナポリでポッジョリーニ製薬会社社長が汚職で逮捕、薬害エイズ問題に 10月31日映画監督フェデリーコ・フェリーニ死亡。国葬に 11月15日マフィアのボス、ルチアーノ・リッジョが獄中で死亡 11月21日統一地方選挙、左派勝利 12月11日北部同盟党大会、ボッシー、イタリア3分割案を提唱 1994 1月23日実業家ベルルスコーニ、フォルツァイタリア党誕生。政界進出 1月23日ベルティノッティ、RC(共産党再建党)の書記長に。 1月28日国営放送RAIの取材班がボスニアで爆死。 2月 1日PDSを中心とする中道左派連合「プログレシスティ」誕生。 2月10日フォルツァ・イタリア党と北部同盟が連合に合意。 国民同盟らと右派同盟結成。 2月28日北イタリア、ノバーラで石油施設火災。環境に深刻な影響。 3月23日女優ジュリエッタ・マシーナ死去 3月20日ソマリアで国営放送RAIの女性記者イラリア・アルピらが銃撃により死亡 3月27・28日総選挙、右派連合勝利 4月12日サッカー選手スキラーチ、日本のチームに移籍。 4月22日エニモント汚職でセルジョ・クザーニに有罪判決 4月30日F1ドライバー、アイルトン・セナ、イモラサーキットで事故死 5月10日ベルルスコーニ中道右派内閣誕生 5月15日ヴィチェンツァで初のネオファシストによるデモ。 6月 2日クリントン米大統領訪伊 6月 4日監督、俳優のマッシモ・トロイージ死去 7月 1日マッシモ・ダレーマがPDS書記長に就任。 7月 8日ナポリサミット(先進国首脳会談G7) 7月18日アメリカ、ワールドカップでイタリア準優勝 8月8日セルジョ・カステッラーリ、エニモント汚職容疑で捜査中死体で発見される。 9月 9日ミラノで若者のデモ、警官隊と衝突。 9月10日ヨハネ・パウロ2世クロアチアのザクレブ訪問 10月14日ゼネスト、ローマで大規模な労働者デモ。 11月 1日ピエトロ・パッチャーニ「フィレンツェの怪物」連続殺人事件で無期懲役判決。 11月 5日北イタリア、ポー川流域で大洪水 11月 5日南イタリアでコレラ騒動、生魚禁止令。 11月21日ミラノ検察庁、ベルルスコーニに贈賄容疑の捜査通告 11月24日ロベルト・サヴィ、連続警官殺人「白いウーノ事件」の容疑者として国境で逮捕。 11月30日客船アキッレ・ラウロ号火災。 12月 6日政治的圧力を理由にディ・ピエトロ検事辞任 12月22日ベルルスコーニ内閣辞任 1995 1月17日ディーニによる専門家の内閣誕生 1月27日MSI、国民同盟に改姓、ネオファシストとの決別。 3月27日グッチ、ミラノで暗殺 5月 マフィアの改ざん者ブッシェッタの証言、シチリアで親族の殺人相次ぐ。
224 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:55
9月 アンドレオッティ元首相、パレルモでマフィア容疑の初公判 PPI(人民党)右左に分裂 マンクーゾ法務大臣不信任辞任 ディーニ内閣不信任投票否決 12月 ボスニア紛争停戦合意、イタリア軍救援活動の為ボスニアに派兵 1996 1月 イタリアEU議長国に 1月17日ベルルスコーニ贈賄容疑の初公判 2月 ディーニ内閣辞職 2月 マッカーニコ、首班指名の調整が整わず首相辞任、ディーニ政権継続に 4月21日総選挙、中道左派連合(オリーブの木)、過半数議席を獲得し圧勝 5月 プローディ首相に指名 5月 シチリアマフィアのボス、ジョバンニ・ブルスカが逮捕 5月 プローディ内閣誕生。 11月 ローマでFAO国連食糧サミット ディ・ピエトロ元検事、公共事業大臣を辞任 12月 ブレシャ検察、ディ・ピエトロ元検事を家宅捜査 12月19日俳優マルチェッロ-マストロヤンニ氏がパリで死亡 1997 1月グッチ元夫人がマウリツィオ-グッチ殺害計画の容疑で逮捕 3月アルバニア内紛で大量の難民がイタリアに 3月アルバニアに多国籍軍派遣 9月5日マザーテレサ,カルカッタで死亡 9月中部イタリアで地震 10月演劇家ダリオ・フォがノーベル文学賞を受賞 1998 1月ローマ法王キューバ訪問 2月北イタリア、カバレーゼで米軍機がゴンドラを転落させ20人死亡 2月ナポリでマフィアの抗争激化する 7月サッカー,ベルマーレ平塚の中田がペルージャに移籍 9月有名シンガー,ルーチョ-バッティスティ死去 10月左派の造反によりプローディ内閣不信任,総辞職 10月ダレーマ内閣誕生.史上初の共産党系内閣 1999 1月シンガソングライター,ファブリッツィオ-デ-アンドレ死去 3月コソヴォ問題におけるNATOのユーゴ空爆,イタリアはNATO支持 3月喜劇俳優ロベルト-ベニーニ監督のラ-ビータ-ベッラが外国作品賞受賞 4月イタリア国内で反空爆デモが頻発 5月カルロ-アゼリオ-チャンピ国庫相が10代大統領就任 6月ユーゴ空爆停戦,イタリア軍コソヴォのペチ-ジャコヴァ周辺に展開 6月サッカー,ジュビロの名波選手ベネチアチームに移籍 10月アンドレオッティのマフィア疑惑裁判で無罪確定 12月ダレーマ2次中道左派内閣発足 12月サンピエトロ寺院で大聖年のオープニング,聖なる扉の開門
225 :
世界@名無史さん :02/02/05 03:56
・・・そうか。 フォルツァ・イタリア党と北部同盟て連合に合意してたんですね。
226 :
世界@名無史さん :02/02/05 04:36
>>225 FORZA ITALIA /フォルツァ・イタリア
野党第一党。94年1月の総選挙直前に左翼に対抗する為に結成され急速に支持を増やした中道右派政党。党首はシルヴィオ・ベルルスコーニ。
旧政治勢力の崩壊後多くの主要政党から政治家が流入し、94年選挙では第一党となりベルルスコーニは首相にまた4人を閣僚に送り込んだ。
今年の選挙でも左派連合に劣ったものの支持は高く、
野党連合の中心的存在である。また94年には持ち会社のマスメディアを使った派手な選挙キャンペーンで有名。
227 :
世界@名無史さん :02/02/05 04:38
Silvio Berlusconi/1936年9月29日- 歌手、掃除機販売業を経て 1960年 建設請負会社社長 1962年 カンティエーリ・リウニーティ・ミラネージ建設会社設立、社長 1963年 エディルノルド建設会社設立、社長 1976年 イル・ジョルナーレ紙に資本参加(1979年に買収) 1978年 地方民放TV局「テレミラノ」を開局 1978年 フィニンヴェスト社設立、会長 1983年 「ソッリーズィ・エ・カンツォーネ」誌オーナー 1986年 サッカーチーム「ACミラン」会長 1988年 百貨店「スタンダ」会長 1994年1月 「フォルツァ・イタリア」創設、総裁 1994年3月 下院初当選(フォルツァ・イタリア) 1994年4月 戦後第53代首相(〜同年12月) 1995年1月 下院外交委員会 1996年4月 下院再選(フォルツァ・イタリア)下院外交委員会 1997年2月 憲法改正両院合同委員会 1999年7月 下院憲法問題委員会 2001年5月 下院三選(フォルツァ・イタリア) 2001年6月 戦後第59代首相(〜現在) ですね
ちなみにイル・ジョルナーレ紙だが、 1982年に店舗運営とマーケティング部門の役員として入社したハワード・シュルツ(現会長兼チーフ・グローバル・ストラテジスト=最高国際戦略責任者)が、 イタリアのバールで飲んだエスプレッソの味に感動し、会社にエスプレッソ・カフェの展開を提案。 しかし、コーヒー豆の販売店にこだわった創業者陣に受け入れられず、1984年にシュルツはスターバックスを退社して、 エスプレッソカフェの店「イル・ジョルナーレ」を開始したが。これとは違います。 この店で成功したシュルツは、1987年に3800万ドル(当時のレートで約42億円)でスターバックスを買収し、 現在のようなスターバックス・コーヒーの店舗展開をはじめたのです。 現在、シアトル市内だけで200店舗以上、北米に3400店舗以上、世界では4000店舗以上あります。 関係無いのでsage
229 :
世界@名無史さん :02/02/05 05:30
コーヒーはド・トールだよ〜ん
セガ・フレッドの方が美味い
231 :
フンガーリア :02/02/05 13:09
200 :シーマ・ロシータ :02/02/04 20:28 >198 >ついでですが、ハンガリーの「矢十字党」が出てくる映画には「ハンナ・セレシュ」 >があります。これも敵役だが、良心的ファシストも出てきてちょっと救われる。 >(腕章の付け方が反対だが) シーマ殿、さらに詳しい情報をキボンヌ。どこの国の、いつ製作された作品なの でしょうか?DVDで発売されておりますでしょうか? 修正主義運動の闘士ドゥーチェ、チアノ伯マンセー!
232 :
maro' :02/02/05 14:56
>>209 >イタリア戦線に限って言えば45年の最後まで戦ったのはRSIの将兵達ですよ
確かにその通りだと思います。ただ、RSI軍を過小評価するのは
単に知らないだけだが、戦史的に過大評価に陥るのもマズイのでは
ないでしょうか。この辺が歴史的な判断の難しいところですね。
まあ、そもそもその存在が知られていないのが一番厄介な所ですか。
>>1 でこのスレを立てた時にRSI軍=南ベトナム政府軍としましたが
この辺がやはりイタリア戦線でのRSI軍の“立ち位置”として妥当なのでは、
とも思います。ただ使えない軍隊の代表のように語られる南ベにも
精鋭の空挺部隊やヴェトコン・キラーのサトコンやCIDGのような
特異な部隊が存在したように、RSIにも一部の士気旺盛な部隊が現に
存在していたとも言えるのではないでしょうか。>23 marzoさん
そういう意味では、ヴォルゲーゼ中佐の私兵集団とも言えるデチマ・マス
師団などは、特異点中の特異点であったと思いますよ。
>>209 にあったアルプス戦線での独軍装備のフォルゴーレ空挺兵士
写真もアップしました。>Folgore-5
http://www.photohighway.co.jp/AlbumPage.asp?key=628749&un=97071&id=36&m=2&s=0
233 :
世界@名無史さん :02/02/05 16:40
>211 >1944 1月 サロ共和国、チミノ元外相らファシスト幹部 >ムッソリーニに処刑される。 チミ、これはチミノじゃなくてチャーノだろ!?
234 :
世界@名無史さん :02/02/05 18:51
>233 座布団一枚!
235 :
シーマ・ロシータ :02/02/06 00:53
>231 手元に現物が無いので、うろ覚えで書きますが、ハンガリー生まれのユダヤ人女性「ハンナ・セレシュ」が、 パレスチナでコマンドー訓練を受けてハンガリーに潜入するが「矢十字党」に逮捕され、処刑されるまでを 描いた映画。ちなみに集英社文庫「アンナ戦場に消えた命」は彼女の生涯を描いたドキュメンタリーです。 1990年頃のアメリカ映画です。
236 :
世界@名無史さん :02/02/06 01:31
なるほどですね。ちなみにフォスコ・マライーニは1912年11月15日、 フィレンツェに生まれのようだ。 父のアントニオ・マライーニは、スイスのティチーノ州ルガーノの旧家出身の彫刻家であり、 母のヨイ・クロッスはイギリス人の父とポーランド人の母の間に生まれた作家。 マライーニは幼少期と青年期をフィレンツェで過ごし、その間、両親とともにイタリア国内はもとより イギリス、スイス、フランス、ドイツへ頻繁に旅行している。 母親の、南アフリカやインドをはじめとする世界の多くの国々への親しみや、 若くして芽生えた東洋への強い関心は、息子であるフォスコにも少なからず影響を与えた。 彼もまた、こうした地域の伝統文化や歴史に大きな興味を抱くのである。 22歳でリヴォルノの海軍士官学校の英語教師となり、 船上で授業をするために戦艦アメリゴ・ヴィスプッチ号に乗って、 中東方面に向かった。 こうして、エジプトやレバノン、シリア、トルコを訪れる機会に恵まれた。 この最初の接触は、ある意味で彼の関心事の有用性を実地検証する好機となったそうだ。
237 :
世界@名無史さん :02/02/06 01:33
マライーニの写真とドキュメンタリー映画制作へのアプローチは、 1930年代にさかのぼる。 彼の初期の作品は、未来派の詩のテーマに類似する特色をもっている。 1936年、フェッラーニア国際コンクールで優勝し、同年、最初の短編映画を制作する。 1935年、トパツィア・アリアータと結婚する。 彼女は、シチリアの旧家の出身で、二人の間には、ダーチャ(1936年)、ユキ(1939年)、トニ(1941年)の三人の娘が生まれる。 1937年、著名な東洋研究家であるジュゼッペ・トゥッチの一行に加わって、 チベット遠征に出かける。 この経験によって、フォスコ・マライーニは、民族学と東洋文化の研究に専念することを決意する。 イタリアに戻ると、同じ年、フィレンツェ大学理学部を卒業する。 そして、日本政府の機関であった国際学友会の外国人学生のための奨学金によって、民族学の研究に邁進する機会を得た。 1939年、家族とともに札幌に移り、アイヌ民族の文化的特色や、伝統的宗教、意識形態の調査と研究を展開した。 こうした分野における研究の成果は、1942年東京において『“Gli Iku-bashui degli Ainu” アイヌのイクパスイ』というタイトルの専門書に発表される。 同年、チベット民族のルポルタージュ写真集を日本語で出版した。 1942年から1943年にかけて、札幌をあとにして、京都大学でイタリア語講師の任に就く。 9月8日以降、サロ共和国への同調を拒否したマライーニは、家族や30名ほどの日本在住のイタリア人とともに名古屋の強制収容所に抑留され、そこに1945年8月15日まで過ごす。 戦後1年間は、アメリカ進駐軍の通訳として東京に滞在する。 このあたりだろうね。
映画で云うとサロ共和国いうとやはりバゾリーニですかね?
239 :
世界@名無史さん :02/02/06 01:42
1975年11月2日、ローマ郊外のオスティア で謎の死を遂げた、 戦後ヨーロッパ屈指の芸術家、ピエル・パオロ・パゾリーニ(享年53歳)ね。 パゾリーニの活動および才能は「映画監督」の枠に納まるものではない。 本国イタリアでは彼はまず詩人であり、批評家としての評価の方が高い。 その他欧米でもその詩作、および20世紀後半屈指の傑作とされる『生命ある若者』の評価は、近年ますます高まっている みたいだよ
240 :
世界@名無史さん :02/02/06 03:47
ここは良スレですね。パゾリーニの話題が出たのでちょっと。 第二次大戦後20年ほど、イタリアでは、モラヴィアはじめ、文学者は金儲けのためにも 映画の脚本に頻繁に携わっていた。 パゾリーニも同様で、何本かの脚本を執筆したが、 完成した映画に対する不満が募ってゆき、 遂に『アッカットーネ』で自らメガホンを取る。 時にピエル・パオロ38歳。最初は誰もが文学者の手すさびと思った。 製作には当初フェリーニが当たる予定であったが、 パイロット・フィルムを見て「"これは映画ではない"と言って」降板、 マウロ・ボロニーニの骨折りでアルフレード・ビーニが引き継ぎ、61年4月から3ヵ月でクランク・アップするが、 上映許可がおりるまで二月を要し、プレミア上映ではネオ・ファシストの妨害に合う。 批評面でも、同年5月に出版された詩集『現代の宗教』が受けた歓迎とは好対照に、一部の激賞と多数の批判を浴びる。 また、60年6月の自動車窃盗容疑の告発に始まって、些細な事件の濡れ衣をかけられ幾度も法廷に引きずりだされ、 その度にホモ・セクシャルの、危険思想の持ち主と、公衆の面前で罵倒された。 作品の猥褻性からコソ泥の疑いに至るまで、すべての訴訟に――唯一の例外を除き――勝ちはしたものの、 ピエル・パオロ・パゾリーニは相変わらず、イタリア国内では眉をひそめられる存在であった。
241 :
世界@名無史さん :02/02/06 03:50
しかし独自の映画世界は徐々に評価され始め、オムニバス『ロゴパグ』の一篇『リコッタ』はプロデューサーのビーニの依頼で製作された。 その時、見物人の悪ガキのひとりの巻き毛と底抜けの明るさに魅了される。 ニネット・ダボリとの運命の出会いである。 ピエル・パオロは詩作を続けていたが、「現実を、現実そのものを以って表現できる」「自分のただひとつの偶像(アイドル)」、 映画というメディアに関心は大きく傾いていた。 当時彼はアッシジの宗教団体の会議などに頻繁に参加し、聖職者と繋がりをもっていた。 こうして生まれた作品が『マタイによる福音書』という、大胆ともいえる原題を持った映画、『奇跡の丘』である。 幸い『リコッタ』にはカトリックからの非難はなかった。彼は聖書を「詩の映画」としてつくろうとした。 当初キリスト役の候補には『バービ・ヤール』で知られるロシアの詩人、 エフトゥシェーンコやアレン・ギンズバーグの名が挙がっていたという。 64年はパゾリーニにとってひとつのメルクマールとなったのではないか。 前年、ムッソリーニがつくった新興都市EURに最後の引っ越し ――彼は死ぬまでここで、母スザンナと暮らしていた――を終え、 意欲作『碧い眼のアリー』『薔薇の形の詩集』を矢継ぎ早に発表した彼は、 やがて自分の文筆活動が、映画に比べて評価されていない、と嘆く始末である。 「私はキリストを神の子とは信じない。私が----意識しているかぎりでは----信者ではないからだ。 しかしキリストを聖なる存在だとは思う。言い換えれば、彼によって人間性は高められ、 厳しく、理想的になり、人間性という言葉が普通に言われる意味を越えていったのだ。」 と語るピエル・パオロの 「ニキータ・フルシチョフとヨハネXII世とJ.F.ケネディによる、世界平和の始まりの同意の作品」、 『奇跡の丘』は、ヴェネツィア映画祭で国際カトリック映画協会グランプリを受賞、 極右を除き、ピエル・パオロ・パゾリーニは"世間"から偉大な芸術家、映画監督として、 尊敬すべき国民的、世界的な文化人として認められたのである。
242 :
世界@名無史さん :02/02/06 03:52
いまパゾリーニを非難するのは、キリスト教否定を前提としたイタリア共産党である。トリアッティ既に亡く、 "雪融け"のなか新たな道を見出だせずにいる党をピエル・パオロは「左翼保守主義者」と面罵し、痛烈な批判を浴びせる。 66年からは『ヌゥオーヴィ・アルゴメンティ(Nuovi Argomenti)』誌に、モラヴィアらと共に中心的執筆者として、 「マルクシズムの文化領域における"危機"」をめぐり、文学、政治、時事問題に持論を旺盛に展開する。 時は60年代、世界的に"政治の季節"の真っ只中だった。しかしピエル・パオロの眼に映るのはプチ・ブル化してしまった "生命ない"イタリア人、そして工業化した会社組織とテレビによって、単なる道具におとしめられた言葉の山だ。 彼は毎年クリスマスを第三世界で過ごすようになっていた。 ソ連支配からの解放を夢見る東欧の国々やブラック・パワーが吹き出し始めるニューヨークを旅し、新たな革命への望みを抱きつつ、 「イデオローグではなく語り手として」、イタリアの国民的喜劇役者トトとニネットの共演によってつくった 『大きな鳥と小さな鳥』は、続く『アポロンの地獄』と並んで、本国では興行面で最大の失敗となった。 66年3月、パゾリーニは食事中に突然吐血する。胃潰瘍であった。一ヵ月間入院を余儀なくされ、 その間のプラトーン再読をきっかけに、新たな創作力が爆発する。『カルデロン』、『ピュラーデス』、 『寓意』、『豚小屋』、『バッカスの祭』(映画『豚小屋』の前半)、『馬鹿げたスタイル』の六戯曲を同時に並行執筆、 翌年、自ら「自伝的」と評した『アポロンの地獄』を、新・帝国主義に侵食され始めた「スキャンダラスな関係」の土地、 モロッコで撮影、68年の『テオレマ』で「キリストがもし戻ってきたら、当時のように、現代でも、スキャンダルとなるだろう」との思いをぶつけ、 「私は単に仮定を示せるだけで、結論を提示はできない」と断言、そして『豚小屋』『王女メディア』と、悲劇の時代が完成する。 しかしこの頃、さらに死ぬ直前までピエル・パオロが最も強く映画化を望んでいたのは、古代ローマを「何も変わっていない」現代に再現し、 教会支配と社会のヒエラルヒーを真っ向から否定、真の人間性と聖性の復活を訴える『聖パオロ』であった。
243 :
世界@名無史さん :02/02/06 03:55
ここでいうバービヤールは旧ソ連版のビヤホールみたいなものだけど・・・、 68年、学生運動がイタリアでも頂点を迎える。 そんななかローマのジゥーリア通りで学生たちが警官隊と衝突、警官が死亡した。 ピエル・パオロは『エスプレッソ』誌が6月16日に出した特集号(我々はきみたちを憎む、親愛なる学生たちよ)に論文 『PCIを若者に!』を発表、学生たちをプチ・ブルとして糾弾し、 貧しさゆえになすすべもなく警官となった若者たちの死を悼んだ。 この論文でも、またアメリカの『アヴァン・ガード』誌に寄稿されながら未発表となった詩『ワニ(Coccodrillo)』 にも、彼が事あるごとに警告してきた新たな暴力の時代への恐れと否定が痛ましく語られている。 それでも学生運動を全面否定することなく、精力的に討論会に出席、熱弁を揮っていた。 その言葉は果たして学生たちに届いたのか? ここにフランクフルト学派の学者・知識人たちとパゾリーニに共通の、良心の正しさと知性の限界を見ることができるのではないか?
244 :
世界@名無史さん :02/02/06 03:59
>>243 私はフランクフルト学派第一世代、とりわけその指導者マックス・ホルクハイマーの思想を主な研究対象に据えながら、
彼らの唱えるヨーロッパ近代批判の論理について検討を重ねてきました。
フランクフルト学派の試みは、ヨーロッパ近現代のさまざまな哲学・科学思想を批判的に摂取しながら、
それをきわめて大胆に読み替えてゆくなかで自らの思想を形成していったという点で、
それ自体がヨーロッパ近代の仮借なき自己批判の試みとなっており、真剣に検討するに値するものと思われるからである。
もちろん、このように特定の思想家や学派をテクストに即して研究しようとする場合、
それをもう少し広い思想史的な文脈のなかで捉え返す必要が出てくるであろうし
フランクフルト学派の場合であれば、ニーチェ、フロイトからハイデガーらにいたる世紀転換期のドイツ思想との関係をとくに視野に入れることが不可欠だろうし、
さらにいえばドイツ・ロマン派やドイツ観念論哲学にまで遡って考えることも必要になるだろう。
いずれにせよ、近現代ドイツ思想の読み直しがの第二の研究課題となるが、そのへんはどうか?
そのための基礎作業として、フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』やポール・ド・マン『美学イデオロギー』の翻訳を行なえる力があれば・・・。
フィヒテやハイデガーに典型的にみてとれるように、〈美的なもの〉と〈倫理的-政治的なもの〉との絡み合いという主題は、
ヨーロッパ近現代思想を考えるうえで大きな問題の一つダと思う。
これ自体きわめてアドルノ的な問いだともいえるだろうが、こうした観点を一つの手がかりとしながら、
ヨーロッパ近現代思想について読み直しを進めてゆきたいと考えているがどうか ?
245 :
世界@名無史さん :02/02/06 04:01
フロムは『自由からの逃走』で権威主義的性格によってドイツにおけるファシズムを説明し、 アドルノも『権威主義的パーソナリティ』でファシズムや反ユダヤ主義の実証研究のための尺度を提示した。 フランクフルト学派の第二世代であるハーバーマスは、 批判理論を継承して、コミュニケーション的行為の理論を提出した。 コミュニケーション的行為とは目的合理的行為とは異なる、行為者同士の相互理解を目指す行為だと思うよ。 彼の理論はヨーロッパの社会運動にも大きな影響を与えているんじゃないの?
246 :
世界@名無史さん :02/02/06 04:05
>>245 いや、それは批判論のはなしだけど
ワイマール末期以降、ヘーゲル的色彩の濃いマルクス主義と、経験的な社会研究との統合による独自の学際的唯物論の立場から、
資本主義体制の諸問題とそこでの抑圧的な文化に異議申し立てをしてきた、
いわゆる「フランクフルト学派」に属する人々が自分たちの理論的立場に付与した名称だと考えるがどうか。
T・アドルノ,M・ホルクハイマーは、人類の歴史を労働を通して自然に対する人間の支配力を強化していく合理化の過程と捉えた。
彼らの「道具主義的」な合理性に対し、ハーバーマスは人と人との間の言語的了解に基づく相互間での行為の調整という側面を見逃していたと指摘し、
これをハーバーマスは、「コミュニケーション的合理性」と名付け、成果試行的な目的合理的行為のモデルとは異なる了解志向的な
「行為のコミュニケーション・モデル」に基づく批判理論の再構築を目指すことになった。
ハーバーマスの批判理論が目指すものは、自然や人間(社会)に対する技術的処理能力の拡大という意味で合理化された社会の実現ではなく、
支配も強制関係もない人と人との間のコミュニケーションを通して確立される「合意」が社会規範の原理として効力をもち得るような社会の実現、
という意味で合理化された社会なんだと考えるけどさ(笑)
彼によれば、現代社会のもっとも深刻な病理現象は、一方の合理性による他方のそれの抑圧、
つまりもともと相互間での話し合いを通して解決されるべき問題領域が金銭や権力という、
道具的理性を体現する媒体による解決に委ねられていることにある、という。
(ごめん。教科書の丸写しで(^^:;))
こうした問題意識から、彼はあるべき合理的な社会の規範構図の根拠づけに向かう。
しかも、われわれが日常行っているコミュニケーションの内的構造の指向性というやり方をとって試みるところに、
「批判の科学的精神」、「科学の批判的精神」との統合による実践的な社会理論の確立を目指すハーバーマスの批判理論の魅力がある
・・・ってところだなあ
激しくスレ違いだが、まぁいいか
248 :
世界@名無史さん :02/02/06 04:28
サロの話にもどすけど・・・ 『ソドムの市』いう1975年の遺作。 フランスのサド候爵の小説『ソドムの120日』の翻案で、原題は「サロ、あるいはソドムの120日」。 サロは前述だけどイタリア北部の町で、解任・逮捕されたベニート・ムッソリーニがナチス・ドイツに救出され、 イタリア北部・中部を占領したドイツの助けで設立された傀儡政権「イタリア社会共和国」(サロ共和国)の政府 1943年9月から1945年4月まで存在した。いわゆるレジスタンス(抵抗)とは、この政権とドイツ占領軍に対するもの・・・、 というのが前提というところから話を始めようじゃないの
249 :
世界@名無史さん :02/02/06 04:34
>>248 レジスタンスの話ですかぁ(藁)?
なにをもってするかでフランスのマキや共産党ゲリラとは一緒にしたくないけど
消費的な権力の寛容さが近年私たちを生きさせている(強制的で醜い)
性的関係の隠喩のみならず、『ソドムの市』の中にある(そして、その巨大な量の中にある)全ての性は、
それに支配される者たちに対する権力関係の隠喩だろ。
言い換えれば、マルクスが人間の商品化と呼んだもの、つまり(搾取を通じた)身体の物への還元についての(ことによると、夢のような)
表現であるって学校で習わなかった?
250get
251 :
フンガーリア :02/02/06 09:53
>235 :シーマ・ロシータ様 さっそくありがとうございました。 ドゥーチェ!我々は1927年の友好条約を忘れてはおりませんぞ! 「ワルシャワ=ブダペスト=ベオグラード=ローマ」水平枢軸ですな!
252 :
世界@名無史さん :02/02/06 12:13
アップダウンの激しいスレだなあ・・・
253 :
maro' :02/02/06 13:06
いやいや、水平枢軸も大事な事象ですぞ。最近はヨーロッパ各国の枢軸側の
歴史的な見直しも進んでいるようですね。
http://www.axiseuropa.com/ もはや、Ro-Ber-To(ローマ・ベルリン・東京)だけではなくその辺りも
包括的に考えないと二次戦の欧州は語れない時代に差しかかってきている
のでしょうか。
たとえば各国のSS義勇兵に関する書籍がそれぞれの自国から母国語でここ
数年出版されています。しかも各国ともほぼ同じ判型で。このところ
フィンランド義勇の素晴らしい本も何冊か出版されて国内に入って来てますし。
これなども最近のムーブメントかと思われます。
254 :
左翼だけどガス室はなかったと思う男 :02/02/06 13:54
255 :
左翼だけどガス室はなかったと思う男 :02/02/06 13:59
ただし南京大虐殺に関しては、意見を保留するけどね。 根本的にサロ共和国の行政機構下においてガス室はありえなかったけれど、 あのドイツ領事の見た南京の死体の山は、おのずと意味が違うと思う
256 :
左翼だけどガス室はなかったと思う男 :02/02/06 14:02
ウヨサヨ論争になると決まって出てくるこの議題。 右翼の皆さんは 東京裁判で少なくても10万人以上は虐殺されたと決定した南京大虐殺 河野談話で強制連行が確定された慰安婦問題等 とっくに決着の付いた事項を取りざたして結局何をしたいのでしょうか? 本を売りたいだけなのでしょうか? それとも実世界で何も影響力が無いことに逆切れしての活字、ネットでの単なる発狂なのでしょうか? ネタじゃなくてマジで教えて下さい。
キチガイ去れ!
258 :
世界@名無史さん :02/02/06 14:28
同意、激しくスレ違い!>254-256 新手の荒しか?
259 :
左翼だけどガス室はなかったと思う男 :02/02/06 14:36
何でも荒し扱いするな。ボケ!! じゃサロ共和国のガス設備あげてみろよ
260 :
世界@名無史さん :02/02/06 15:14
サロキョウワコクニ ガスシツガアッタナンテ カンゼンニ デンパダケド、ココノスレニ ナンキンモンダイヲ カキコ ハドウカナ? ニホンシ イタヘ オイデクダサイ。>259
262 :
世界@名無史さん :02/02/07 17:20
左翼系の方々の出現で新たな展開を期待するが、パルチザン側の 視点に立ったサロ共和国の話を聞きたいもんです。
263 :
maro' :02/02/07 18:30
264 :
僕は「正翼」デス…ハアハア :02/02/07 22:00
朝日新聞は「バドリオを誉めていた」ダブスタの極み! 昭和18年7月27日付「朝日新聞」日刊より 「エチオピア戦の猛将 伊軍の至宝バドリオ元帥」 バドリオ元帥は1871年ピエモンテのグラツアノに生れ、本年とって73歳の老齢である。 トリノの士官学校卒業後、23歳の青年士官として1896年第一次エチオピア戦に出征、 かのアドワの会戦に参加して抜群の武勲を樹て少佐に進級した。 第一次世界大戦勃発当初には第2軍の参謀次長、ついで中佐に進み、第4歩兵師団の参謀 長となり、幾多の勲功を樹て45歳にして早くも少将に昇進、クネオ旅団長となったが、 後第2軍参謀長、第27軍団長を歴任、戦争完遂に尽力オーストリア・ハンガリーの崩壊 をみるや、イタリア代表の一人として休戦条約締結の衝に当たった。 1919年伊軍参謀長に任命されその後ブラジル大使として活躍したこともあるが、1925 年には再び参謀長の要職につき1926年元帥に昇進、1928年にはサボチーノ侯爵を授 けられ、同年から1933年までリビア総督として盛名を馳せ、1935年11月東アフリ カ高等弁務官に就任、エチオピア戦争終了後は初代のエチオピア副王を勤めあげ、願いによ り辞職するに当たってはイタリア国王により特にアジスアベバ公の称号を許され、その後 1940年の初頭まで三度参謀総長の重職にあった。実にバドリオ元帥は伊軍の至宝であり 国王の信頼厚き人物であった かのエチオピア戦争は1935年10月3日戦端が開かれ、デ・ボーノ将軍の指揮下に作 戦が進められたが戦局の進展思はしからず、同10月バドリオ元帥がエチオピアに前線に 派遣され、一箇月の後デ・ボーノ将軍に代わって全軍の指揮をとることになった、当時の 当時のエチオピアの第一線部隊は悪路に悩まされ、気候の激変を克服せねばならず、伊軍 としてはまづ陣地強化のため時間を必要とし、しばしば作戦の渋滞をみた この間バドリオ元帥は一時避難の対象となったけれども、元帥の断固たる決意は変らず12 月に入って再び進撃を開始して戦局はとみに好転、翌5月には威風堂々として夢床にも忘れ ぬ首都アジスアベバに入り往年の雪辱を遂げたのであった *バドリオは毒ガス「イペリット」を使いまくり、1936年5月3日にはムッソリーニか らこんな命令も受けている。弱い奴にはとことん強いイタリア軍マンセー!! 5007号−アジスアベバ占領後、閣下が以下の命令を出されよ。 第1、町なかや周辺において武器を手に発見された者は、すべて略式で射殺せよ。 第2、残忍な蛮人でうぬぼれ者で略奪の道義的責任者であるところの、いわゆるエチオピア 青年は、すべて略式で銃殺刑にせよ。 第3、暴力、略奪、放火に参加した者は、すべて略式で銃殺刑にせよ。 第4、24時間経過後も火器や弾薬を手渡さぬ者は、すべて略式で銃殺刑にせよ。 以上の命令が、いつものように、遂行されることを一言確認せよ。
265 :
Axis Collaborator :02/02/07 22:55
朗報なのでここにも張ろう!でも、国家社会主義者には関係ないか? >【ローマ5日共同】 >第二次大戦後、国外追放されたイタリア旧王家サボイ家の >子継承者の帰国を禁じた憲法条項を改正する上院採決が5日行われ、 >総議席の3分の2を超える賛成235,反対19,棄権15の圧倒的多数で改正を支持した。 >憲法改正には上、下両院で各2回の採決が必要。改正承認は早くとも7月以降の見通しだが、 >半世紀ぶり旧王家の帰国に向けての重要な道筋が開けた。 >サボイ家は17世紀に栄えた北イタリア・トリノの名家。 >1861年のイタリア統一後の王国を支配したが、ムソリーニのファシズム台頭を許したとして1946年、 >王制廃止が国民投票で決定。共和国の下で誕生した憲法は、 >王制復活を阻止するためサボイ家の男子入国を禁止している。 >追放された最後の国王ウンベルト二世(1983年死去)の息子ビットリオ・エマヌエレ氏(64)は >スイス在住で、帰国を望んでいる。
266 :
世界@名無史さん :02/02/08 01:54
『ソドムの市』 イタリア現代文学の最も著名な一人であるカルヴィーノ(1923〜1985)はパゾリーニの一歳下の同世代だが、 文学や政治に関してしばしば論戦を張った。 だが、フリウリ方言による「現実的」な詩を書くことから始めたパゾリーニが、 晩年イタリアやイギリスの「国民文学」やギリシャ悲劇やアラビアの昔話を映画で幻想的に撮ることになる一方、 カルヴィーノは各地方の方言による民話を集めて『イタリア民話集』(岩波文庫)を編集したのち、ある意味で幻想的な小説を書いていくことになるわけで、 なにやら興味深い。 以下のカルヴィーノの批評は、かなり批判的ではあるが、逆説的にパゾリーニの魅力を示しているようにも思われる。
267 :
世界@名無史さん :02/02/08 01:57
[...]パゾリーニのフィルム『ソドムの市』の主要な欠点は、 設定があまり明解ではないということだ。 嫌悪を催させる映像を提示する勇気は、作品に意味を与えるのに十分ではない。 これらの映像がどのような効果を提示するかを定める決断も必要なのだ。 私の印象は、パゾリーニはフィルムに可能な3つか4つの設定の間で決めかねたままになり、 ある意味をもちえたはずの一つの設定に思い切って立ち向かわなかったということだ。必要以上にサドの文学に忠実であり、 この文学的な忠実さを正当化するためにサドの精神からあまりに遠く離れたフィルムになったのは、このためである。 最初に言わなければならないことは、サドの小説をナチ=ファシスト共和国の時代と場所に舞台設定するというアイディアは、 私にはあらゆる視点で最悪に思えるということだ。 この恐ろしい過去は、それを生きた多くの人々の記憶の中にあり、サドの恐ろしさのような絶えず本当らしさの外にある象徴的で幻想的な恐ろしさ (パゾリーニによって正しく幻想的な観点で表現された)の道具立てとしては使えない。 [...]作品が説話的に大きく運動し始める点は、生け贄たちの呆然とした群れの中に、各々は秘密の恋人を隠し、 それが生き延びる助けになっていることが見つかるときだ。 命を救われることを望んで、互いに密告し合う少年少女たちである。これは権力が広める頽廃の印だ。 だが、見つかったものは、生の本能の最小の蓄えでもあり、人間の優しさや温かさの中に現れる、抑圧が押えつけることのできないものなのだ。 このモチーフ(これはサドの中には形跡がないように思える)は、映画的に効果がある。だが、握り拳の腕を上げたまま殺される裸の若者という、 壮大な修辞家に思える映像とともに、あまりにも早く閉じられてしまう。 確かにパゾリーニは、楽天的、「人間的」、激励的にフィルムを読ませるために、 いくつかの開かれた門を残しておきたかったのだ(ラストシーンも、ピアニストの死もそうだろう)。 だが、この理想的なヴィジョンと、フィルムが実際に見せるものとの間には、つりあいがない。 このフィルムの本質は、周辺部に流刑にされている慰めになる挿話にではなく、嫌悪感を催し頽廃を招く一つの世界についての彼の表現にあるのだ。もしフィルムが真実を見せなければならないのなら、他でもなくそこに、それを探さなければならない。 サドが「ソドムの120日」から貧困や貧窮を除くよう気にかけていることを、思い出させてもらおう。 まさにこのために、16人の生け贄は全員貴族の家の少年少女たちに決められているからだ。しかし、多くの人々は金を介した頽廃に固執する。 これこそが、パゾリーニがほったらかしにしている点なのだ。 だが、4人の邪悪な男たちとその廷臣との間に定められる関係を信じられる現実的なものにする唯一の方法は、 彼らが主要な道具として金を持っていることを証明することであった。 このようにしてのみ、パゾリーニは彼のドラマ、つまり成功した映画人となったときから彼の人生の中で金が占めるようになった部分の、 基本的な主題を語ることに辿り着いたであろうに。 これは、システムとしての頽廃の劇だ。サドの作品の本質だが、サドが残酷な意気軒昂によって表現したのに対して、 パゾリーニにおいてはそれは絶望である。この絶望の中に、すべてのものを汚す頽廃へのこの嫌悪の中に、このフィルムの真実がある。 だが、内的な明解さの欠如のために、パゾリーニは迂回した一連の戦略を強いられ、歴史的に定義しようとすればするほど抽象的で一般的になる 「権力」を標的として見せかけ、彼自身を除いた全世界を、腐敗させ腐敗するままにする罪で糾弾することになったのだ。 さしあたり、彼は作品に一つの尺度と一つの路線を見つけさせるために糾弾していることを確認すれば、十分だろう。そうしてのみ、 サドの意味は見つかるだろう。 それは、私たちの良識を賭けることによって良く見ることができ、そのとき、私たちの中にある闇の世界に目を向けるという、反対作業を成し遂げることが大切になるだろう。 サドによる「道徳的」な効果は、「告発」が他の者たちではなく私たちを指さしている場合のみ、引き出すことができる。 「行動の場所」は、私たちの意識でしかありえないのだ。
268 :
世界@名無史さん :02/02/08 01:59
『サロ共和国』のそれぞれの物語は、一つの異常によって明らかになる運命の「出現」によって始まる。 しかし、他の異常を生み出さないような異常はない。こうして、異常の連鎖が生まれる。こうした連鎖が論理的で緻密で本質的であればあるほど、 『サロ共和国』の物語はますます美しく(つまり、生き生きとした、興奮させるものに)なる。 異常の連鎖は、ずっと伸び続け、正常に帰る。 『サロ共和国』の各物語の終わりは、日常生活の幸せなけだるさの中に入ることによる運命の「消滅」にある。 だから、フィルムの中で私に着想を与えたものは、現実をずらすことに専念する〈運命〉を作品の中に熱心に見ることだ。 シュールレアリスムや魔術(これの並外れた本質的な痕跡は、私のフィルムの中にあるが)の方へではなく、 「夢」や「幻」として調べられたときのみ意味あるものとして現れる、生を暴露する不条理の方へ、である。 したがって私は、みすぼらしい顔と埃に満ちた現実的なフィルムをつくった。 だが、同時に、登場人物たちは「奪われ」〔かどわかされ、うっとりとし〕、自身に起こる出来事を対象として不本意な認識の不安〔渇望〕を強いられる、幻想的なフィルムをつくったのだ。
269 :
世界@名無史さん :02/02/08 02:11
>249 ま、神学論争(意味わからんで使っている人いるけど(笑))だけど 結局、イタリア・ファシズムの話しようとすると、ドイツファシズムの話になっちゃうよ。 マンデルの論文は、トロツキーのファシズム論を集大成したパスファインダー社発行の英語版論文集『ドイツ・ファシズムに対する闘争』の前書きとして 1969年一月に書かれたものである。 この中で、まずマンデルは、ファシズムを独占資本主義の体制とは無関係に超歴史的なものとして、 たとえば、経済に対する政治の優位性の問題として、あるいは人間性の中に存在する攻撃性の問題として、 とらえようとするさまざまなブルジョア派のファシズム論を批判している。 なかでも興味深いのは、現在、ヨーロッパにおいてフランソワ・フュレととともに「歴史修正主義」の先頭に立ち、 「共産主義の犯罪」を叫ぶことによってファシズムの歴史的犯罪を免罪しようとしているエルンスト・ノルテのファシズム論の非歴史的性格を、 1969年段階でマンデルがすでに厳しく批判していることであろう。 さらに、マンデルはトロツキーのファシズム論の本質を6点にまとめ、 それらの諸点に照らしながら、労働運動内の2大潮流であった社会民主党と共産党(スターリニズム)のファシズム論の誤りを明確にしている。 以上の論点を明らかにした上でマンデルはさらに、第2次大戦後に明らかになったファシズムに関するさまざまな歴史的な客観資料を駆使して、 そうした自らの論点を実証している。ロツキーのファシズム論の紹介という枠を超えて、第2次世界大戦後に生き活動したマンデルの観点からするファシズム論とも言える力作である。 その意味では、この論文は、ト
270 :
サロの思想的根源 :02/02/08 02:12
失礼 その意味では、この論文は、トロツキーのファシズム論の紹介という枠を超えて、第2次世界大戦後に生き活動したマンデルの観点からするファシズム論とも言える力作である。 この論文は、マンデル自身も認めているように、第2次世界大戦中から始まった戦後資本主義の高度成長期の最終局面に当たる1969年に書かれたものである。 したがって、論文後半の読者に対するマンデルのメッセージ=批判の力点は主として、議会制民主主義体制のもとでなされる弾圧の強化やそのもとで不断になされるより 「強い国家」を求めようとするブルジョア支配層の傾向に対して安易に「ファシズム」というレッテルを貼ろうとする傾向に向けられている。 たしかに、これはマンデルが指摘しているように、ファシズムを弾圧の強化一般、反動化一般と同一視させることによって、本当のファシズムの重大な脅威を人々の間で過小評価することにつながる。 そして、とりわけ1920年代から30年代初めにかけてドイツ共産党と第3インターナショナルの指導部が犯したこのような過ちは、今日に至るもいまだ克服されていず、 今日の日本においてもこうした安易なファシズム規定がいぜんとして横行しているのであり(日本ファシズム論!)、われわれがトロツキーのファシズム論からこの点についてなお深く学ぶ必要がある。
271 :
世界@名無史さん :02/02/08 02:19
だが、マンデルがこの論文を書いていてからすでに30年以上が経過し、時代は大きく変わった。
まさしくマンデルが次のように述べている時代が今日、到来したのである。
「世界資本主義経済に激動が生じる場合――必ずしも1929年〜1933年規模の世界恐慌である必要はない……――、西ヨーロッパのすべての国に存在する
こうした種子が突然開花して新たにファシズムが流行するようになるかもしれない」
世界資本主義経済は、長期の不況局面に突入し、そこから脱出するいかなる決定的な兆候もいまだ見えていない。工業諸国では大量失業の時代が続いている。
そうした中で、ヨーロッパの主要資本主義国(フランス、ベルギー、ドイツ、イタリアなど)で、
ネオファシスト勢力が再び台頭している。もちろん、1929年から1933年のようにファシストによる権力獲得という脅威が当面、直接に問題になっているのではない。
だが、これらのネオ・ファシストが今や国会でいくつかの議席を獲得するか、一部の地方自治体で与党になるまでに成長してきているのであり、労働者運動にとって、
今日、ネオファシスト勢力といかに闘うべきかが実践的課題にのぼっている。
その意味で、マンデルが本論文を執筆した当時に比べて、今日、トロツキーのファシズム論がよりいっそう真剣に取り上げられる必要があると言わねばならない。
http://motlc.wiesenthal.com/pages/t052/t05293.html
272 :
maro' :02/02/08 18:09
>>264 この新聞記事が事実ならば、バドリオに対する評価は1ケ月を待たずに
日本国内でも180度変わっていたはず。それにしてもこの時期に
わざわざこんな記事を書く朝日のタイミングって…(w
273 :
世界@名無史さん :02/02/09 11:07
ヨーロッパ各国のネオ・ファシストは現在でも横のつながりはあるのだろうか?
274 :
世界@名無史さん :02/02/09 12:35
あるよ。80年代から。 P2スキャンダルのときに、カソリック教会と金融機関をとおして、東はグダニスクから 西はエルサルバドルの殺人部隊まで
275 :
Marce Fasciste :02/02/09 18:07
あなたはどれが好き? 1 Passo Romano 2 Giovinezza 3 Ala Fascista 4 Inno dei Giovani Fascisti 5 Marcia Reale 6 La Ritirata(Marcia della Marina Itariana) 7 Marcia Bgt.S.Marco 8 Aviazione Legionaria 9 Marcia delle Legioni(Roma Rivendica L'Impero) 10 Vincere! Vincere! Vincere! 11 Inno Ufficiare dei Giovani Univercitari Fascisiti 12 Guidonia 13 L'Italia ha Vinto 14 Marcia di Fascisiti 15 Quel Mazzaolindi Fiori 16 Facetta Nera 17 Sul Ponte di Lassamo 18 Maricia Navare 19 Il Canto Voluntari 20 Marcia di Caraviniere 21 Caro Papa 22 Marcia delle Legione 23 Divina Patria 24 Legionari dell Africa Orientare 25 Il Canto degli Arditi もっとあるが、今日はここまでチャオ・カメラーティ!
276 :
maro' :02/02/10 20:50
>>275 2はお約束だけど、あとは10と25かな。25の“Il Canto degli Arditi
”は
RSI時代に歌詞を変えてBrigata Neraの部隊歌になっていてそちらのバージョンが
好きです。後、上のリストには何故“Battaglione M”が無いのでしょうか?
277 :
世界@名無史さん :02/02/10 21:09
鯖落ちは韓国とは関係ありません。
285 :ハングル板住人 :02/02/08 23:29 ID:mf7X1AoU
ちょっと古いデータだが、これ見たら
>>278 と鯖落ちは関係ないことが分かる。
http://green.jbbs.net/computer/bbs/read.cgi?BBS=20&KEY=1013130757 --------
337 名前: まいどの名無しさん 投稿日: 2002/02/08(金) 14:01
今のところ、ex 以外は大丈夫。
全掲示板一覧(2ちゃんねる (2ch) のサーバたち)
http://news.kakiko.com/mentai/2ch.html 2chの動作報告はここで。−13−
http://teri.2ch.net/test/read.cgi/accuse/1013129653/ 今までの飛んでいた時間と生存鯖のまとめ・・・
2/7 12:00前後〜 ニュー速?(ex?news?choco?)が飛んでいた模様
2/7 16:30頃〜17:50頃 kaba,mentai,tv,piza,saki,ex
2/7 19:45頃〜20:20頃 kaba,mentai,tv,piza,saki,ex
2/8 06:20頃〜08:00頃 kaba,mentai,tv,piza,saki,ex
2/8 08:30頃〜09:15頃 kaba,mentai,tv,piza,saki
2/8 09:40頃〜10:10頃 kaba,mentai,tv,piza,saki,tmp、life
2/8 12:00頃〜12:45頃 kaba,mentai,tv,piza,saki,life
2/8 13:00頃〜13:15頃 kaba,mentai,tv,piza,saki,life
2/8 13:40頃〜??:??頃 exのみ飛んでいる模様・・・
またこんなコピペがありますが、ネタです。
278 :
正義の枢軸 :02/02/14 02:21
旅客船「ルシタニア号」を無警告で撃沈され、WW1にアメリカは参戦したが、 ドイツ十八番の無制限潜水艦作戦をWW2ではアメリカがまねして日本船舶を 「無差別攻撃」おかげでヒトラーの後継者デーニッツを裁く理由が見いだせず、 無罪放免にせざるを得なくなった。(藁
279 :
正義の枢軸 :02/02/14 12:02
【ナチス制覇6周年に際してヒトラー総統の議会演説】 1939年1月30日、ベルリン・クロール・オペラ劇場で開会された国会における、ヒトラー総統 演説の後半の主要な部分を紹介する。(掘真琴・訳「我が新秩序」より) 国民社会主義ドイツは万一国際的勢力が、如何なる動機からであろうと、ファシスト・イタリアを 圧服することに成功するならば、次にどんな運命が自国の前途に待っているかということを、よく知 っている。我々ははっきりとそのことを悟り、ひるまずそれに直面する覚悟を持っている。1805 年及び1806年のプロシャの運命は、二度とドイツの歴史に繰り返されないであろう。1805年 のプロシャ王の顧問たちの如き弱虫どもの意見は、今日のドイツにおいては問題とされない であろう。国民社会主義国家はその危険を悟り、それを阻止するためにはあらゆる手段をとる決意を もっている。 私はまた、我々の国防力ばかりでなく、イタリアの軍備もまた極めて苛烈な軍事的要 請に堪えることを知悉している。例えば1848年のドイツ同盟の軍隊の標準を以て現在のドイツ軍 隊を判断することが不可能であると同様に、イタリア国家が未だ統一されなかった当時の標準を以て 現在のファシスト・イタリアを評価することは絶対に不可能である。ただ、ヒステリック な、悪意に満ちた、度し難い新聞紙のみが、僅か数年前にエチオピアにおけるイタリア軍の戦闘の蓋 然的結果を評したその予言について手ひどい恥をかいたことを、今日忘れているだけである。そして このことは、今日スペイン戦争におけるフランコ国民軍の判断においても少しも異なるところがない。 国民社会主義ドイツとファシスト・イタリアとは、あらゆるものに対抗して平和を擁護し、無責任 な分子が軽率にしかける闘争を断固として圧服するに足る力をもっている。 (*枢軸の理念いまだ衰えず!)
280 :
正義の枢軸 :02/02/14 14:43
「亜細亜人の亜細亜」こそ第二次世界大戦の大義であった! ムッソリーニ統帥はインパール作戦発動に際し、1944年4月9日付で「印度は印度人に」 と題する論説を発表した。(以下要旨)「今度の戦争に決定的影響を与え且世界史上に予想も 出来ない程の重大発展を誘致するかも知れぬ一大事件が出現した 日本軍およびチャンドラ・ ボース氏揮下のインド国民軍がインド東部国境を越えたこと、これである、国境の反枢軸勢軍 が撃滅されるとき、東條首相のいわゆる『インド人によるインド』の主張は必ずインド国民運 動を蜂起させ、インドが英国の桎梏から脱却する日を早めるであろう、印度独立運動は一八五 七年の反乱以来不断の犠牲を出しながら進捗しまた独立運動の各派はその綱領において必ずし も一致していないが、印度を印度人の手に取り戻し、英国人を放逐すべきだとの点においては 一致している、印度人迫害を事とする外国軍に対する攻撃は今や日本軍の力を以て開始された。 共和国イタリア人は絶大の共感を禁じ得ない」 (1944年4月9日付・朝日新聞より)とのエールを送っている。
281 :
世界@名無史さん :02/02/14 19:11
チャンドラ・ボースか。東銀座の『ナイルレストラン』のムルギ ランチカレーをまた食いたくなったな。
282 :
世界@名無史さん :02/02/16 21:21
ナイルレストラン前オーナーのナイル氏は、インド独立運動で日本で活動しながらも ボースとは意見が合わず袂を分けたのでは?スレ違いだが。
283 :
世界@名無史さん :02/02/19 10:20
ムルギーカレーと言えば渋谷でしょう
284 :
世界@名無史さん :02/02/22 01:33
渋谷のムルギーと言えば梅本某の「ハッピータイガー」
285 :
世界@名無史さん :02/02/25 21:06
定期age
286 :
あるぺんいえーがあー :02/03/01 01:19
2000イタリア製作の『パルチザン』と言う映画のビデオが発売されましたがどなたか見てらっしゃらないでしょうか
287 :
世界@名無史さん :02/03/01 03:07
288 :
Visconti :02/03/03 16:16
Rmano Vulpitta氏かく語れり 「神武天皇の実在について、あるいは建国の伝説や神話について歴史的根拠を求めるのは無駄な議論だと思います。 すべての民族と国には建国に関する伝説があります。イタリアにもローマ神話があり、子供たちはローマには七人の 国王がいたことを教わります。当然、これは歴史的根拠が薄い。しかし、神話は一つの思想、建国の精神を伝えるも のです。 現在の建国記念の日のあり方は非常に問題です。建国記念の日は神武天皇の精神に帰り、そこから日本のくらしと はどういうものかを考え直す祝日であるべきです。ところが、それが空洞化している。当然、建国記念の日の式典を 神武天皇抜きで行うなど意味がありません。神武天皇の物語にこそ建国の精神があるのです。日本は戦後、日本の独 立の象徴として建国記念の日を再導入したのですが、形にだけ止まって内容を曖昧にしている。この曖昧さが戦後日 本の失敗ではないでしょうか。…」 「祖国と青年」2月号「保田與重郎と『敗戦の克服』」より *ダンテと同時代人、北畠親房に萌え〜〜「大日本は神国也」
289 :
世界@名無史さん :02/03/04 21:55
ヴルピッタ氏はこの前の憂国忌の講演で三島自決以降の日本の 政治・社会は長いトンネル状態に入ってしまっていると言ってたな。 イタリアではベルルスコーニと共に中道右派が盛り返してきてると いうのに。
290 :
世界@名無史さん :02/03/08 02:26
age
291 :
正義の枢軸 :02/03/09 12:05
「日独伊防共協定議定書」 大日本帝国政府 伊太利国政府及独逸国政府は 共産「インターナショナル」が絶えず東西両洋に於ける文明世界を危殆に陥れ其の平和秩序を 撹乱し且つ破壊しつつあるに鑑み平和及秩序を念とする一切の国家における密接なる協力のみ か右危殆を相殺し且つ除去し得ることを確信し「ファシスト」政治の創始以来不撓の決意を以 て右危険と闘い共産「インターナショナル」を其の領土より駆逐したる伊太利は共産「インタ ーナショナル」に対し同様の防衛の意見を有する日本国及独逸国と共に右共同の敵と当たるこ とに決したるに鑑み1936年11月25日「ベルリン」に於いて日本国及独逸国に締結せら れたる協定第二条の規定に従い左の如く協定せり *1930年代、共産主義の脅威を真に理解し、世界平和を志向したのは「日独伊枢軸国」であった。 「正義の枢軸国」は今、再び世界平和に貢献せねばならない。 アフガニスタンで殉職された独逸国防軍将兵のご冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。
292 :
世界@名無史さん :02/03/11 12:28
>291 >*1930年代、共産主義の脅威を真に理解し、世界平和を志向したのは「日独伊枢軸国」であった。 本当にそうだったら世界大戦は再発しなかったって。 民族志向の全体主義国家が階級志向の全体主義国家による革命輸出を憎むのはいいが、 国際秩序をかきみだしてしまったがゆえ、 英米仏をも敵に回したおかげで自滅してしまった訳だ。
293 :
世界@名無史さん :02/03/11 19:01
>292 とは言うものの、一次戦後すぐのイタリアでの赤色労働争議の 幹部に流れていた資金の出所は、フランスやイギリスの資本家 からという説もある。あの時期の戦勝国イタリアでの類を見ない 赤色化を見るとそれもアリかと思わせられる。それを考えると 独・伊の反動のようなファシズム化は誰の所為? 国際秩序というが、アングロサクソンの利益誘導のための秩序 では意味がない。 あっ、これは今のアフガンでも同じか。失礼!
294 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー@司牡丹 :02/03/11 20:31
しかしね、アングロサクソンの利益誘導のためだの、はたまた ユダヤの謀略だのと言っていられないんじゃないの? 特にイスラーム過激派に対しては、シリアも大弾圧をしているよ、 20年近く前の「ハマ事件」とかね。
295 :
世界@名無史さん :02/03/15 00:36
ムッソリーニはユダヤには寛容だったようだ。
296 :
正義の枢軸 :02/03/16 13:54
「読売新聞社」選定「世紀の若人」より 地軸もゆるがす 興亜の進軍 誓いは黒がね 若人われら 今こそ躍進 歴史にはえて 世界どよもす 世紀の鐘だ *「地軸もゆるがす」枢軸われら!
297 :
通りすがりのミリ吉 :02/03/22 16:37
298 :
正義の枢軸 :02/03/22 21:11
1938年3月16日、伊下院におけるムッソリーニ首相の声名。 「合邦はオーストリア全国民の熱望であり、歴史的必然であった。今回の独墺合邦で、独伊両国は 直接境を接するに至ったが、ドイツ国軍のブレンネル峠への進出はイタリア政府を聊かも刺戟しな かった。独伊の国境線は十分に確保されていると断言し得る。民主主義国家は独伊両国の緊密なる 連帯に水を差さんと試みたが、ベルリン・ローマ枢軸は、これら列国の希望に反し、いよいよその 連帯を強化し、如何なる事態に直面しても独伊の提携は絶対に破られることはない。今こそは独伊 両国民は互いに手を携えて共同の信念に向かって邁進すべき秋である。」 1937年11月29日、日独伊防共協定の直後、イタリアは満州国を承認し、次いで翌38年2 月20日ドイツも承認を声明した。 これに脅威を感じた米英資本家と国際共産主義者は「悪の連合」を結んだのである。
299 :
正義の枢軸 :02/03/25 21:29
「日独防共協定」 大日本帝国及、 独逸国政府は 共産「インターナショナル」(所謂「コミンテルン」)の目的が其の執り得る有らゆる手段による 現存国家の破壊及び暴圧にあることを認め 共産「インターナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及び 社会の福祉を危殆ならしむるのみならず世界平和全般を脅すものなるを確信し共産主義的破壊に対 する防衛のため協力せんことを欲し左の通り協定せり 第一条 締約国は共産「インターナショナル」の活動に付き相互に通報し必要なる防衛措置に付き協議し 且つ緊密なる協力により右の措置を達成することを約す 第二条 締約国は共産「インターナショナル」の破壊活動に依りて国内の安寧を脅ささるる第三国に対し 本協定の趣旨による防衛措置を執り又は本協定参加せんことを共同に勧誘すべし 第三条 本協定は日本語及び独逸語の本文を以て正文とす本協定は署名の日より実施せらるべし且つ五年 間効力を有す締約国は右期間満了前適当の時期に於て爾後に於ける両国協力の態様に付き了解を 遂ぐべし *世界の秩序維持は「戦後体制」という迷妄からの脱却以外に途はない!! 諸君!「悪の連合」がいまだに続ける「枢軸三国人差別」の鎖を断ち切れ!!
300 :
世界@名無史さん :02/03/25 21:30
「三国人」差別ハンターイ!!!
301 :
アキーラ・トリコローリ :02/04/08 20:56
枢軸国の正義を伝える「良スレ」を絶やすな!!
反ファシズム史観はうんざりだけど、ファシストマンせーもキショイね。
303 :
正義の枢軸(The Axis of Right) :02/04/11 22:46
「ローマ人の平和」再び!!
304 :
世界@名無史さん :02/04/13 12:41
「ねえ君、共産主義者をアドリア海に入れたらどうなるか。」 「・・・・」 「溺れるよ」
305 :
古人いわく :02/04/14 15:16
美徳は暴力に対して武器をとり たちまち勝たん いにしえのローマ人勇武 いまなお我等の血の中にあり (ペトラルカ) ローマ人は鉄で戦い続けたため、黄金に不足することはなかった。 ローマ人の鉄に恐れをなした人々は、ローマ軍の陣営まで黄金を捧げて来たからである。 (マキャベッリ)
306 :
祝・総統生誕113周年 :02/04/20 09:41
Duce の誕生日っていつよ?
307 :
パウンド・大川・ローゼンベルグ :02/04/26 22:35
我等は、新スレを樹立せり。 「正義の枢軸」を信ずるモナ達は来たれ!!
308 :
シーマ・ロシータ :02/04/27 20:17
もしもし、このスレ終わってないかい?
309 :
ムッソリーニ曰く :02/05/05 22:22
私として考えるのは、国民の誇りと名誉とは国民が人類の文明に種々寄与する事にあったというのでなければならぬと思う。 人生はファシストに取りては、連続せる絶えざる戦いである。 その戦いを我等は大いなる勇気と必要な大胆さをもって甘受するのである。 汝はファシスト哲学の核心に触れたいであろう。 最近あるフィンランドの哲学者が一つの文章でファシズムの意義を闡明せよと私に迫った。 それだから、私は、 「ファシストは安楽な生活には反対である」 とドイツ語で簡単に書いて彼に与えた。 もしファシズムが信条でなかったとしたら、どうして、その信者に勇気と禁欲主義とを鼓吹 することができようか。 宗教の高さにまで昂揚された信条となりてこそ、今は悲しいかな故人となったフェデリコ・ フロリオが教えを感激のうちに味解し得るのだ。 ベニート・ムッソリーニ著「全体への闘争」より 諸君!戦いはこれからだ!!21世紀の運命を決する者に君はなりたくないのか?
310 :
世界@名無史さん :02/05/05 22:42
Duce age
311 :
ムッソリーニ曰く :02/05/06 21:33
ファシストの歴史的理論としては、人は、家族の一員、社会の一員、国家の一員として、 それぞれの一家、社会、あるいは国家に貢献しており、古往今来、歴史が示したように、 結局、世界の発展に寄与しつつあるものである「霊的過程」によってのみ、人たりうる ものなることを主張するのである。 だから、古来の記録、言語、風俗や社会的生活の全てのルールを大いに貴ぶのである。 歴史を離れては、人というものは実在しないものだ。 *おまえら「ファシストの歴史的理論」に大賛成!!!だろ?
312 :
Duce の言葉 (^-^) :02/05/12 00:07
.。ooO(~ペ/)/ひゃ 戦争のみが、人のすべての精力をその最高の極限にまで緊張させるものである。 そして戦争に進んで勇敢に闘う国に崇高のマークを付与するものである。 国際主義とか連盟組織とか言うものは、すでに歴史が立証したとおり、各国民の 心が情操や理想や実際的思慮などにより深刻に動かされたならば、いつでも瓦解 する運命を免れない。w(゜o゜)w オォー ファシズムはそんなものとは、一向に相容れないのである。.。ooO(~ペ/)/ひゃ ファシズムはこの非平和主義者の態度を個人の生活にまで導き入れているのであ る。それはすべての危険を甘受する戦闘的精神を尊ぶのである。 (;°°)ワーッ!
313 :
アホヤネン :02/05/12 00:33
>306 知らぬのか? われらがDuce ベニート・アミルケーヤ・アンドレア・ムッソリーニは、 1883年7月29日(獅子座)日曜日午後2時に御誕生された。 所はプレダッピオ州ヴァラノ・ディ・コスタ村である。 父の名は、アレキサンドロ・ガスペヤ・ムッソリーニ(1854〜1910)で社会主義者の鍛冶屋。 母の名は、ローザ・マルトーニ・ムッソリーニ(1858〜1905)で小学校教員であった。
314 :
世界@名無史さん :02/05/15 23:21
Duce age
315 :
世界@名無史さん :02/05/28 20:23
age again!
316 :
ディーノ・グランディ :02/05/29 21:12
おいらも仲間に入れてくれ
社会主義とは何ぞや? 社会主義は要するに、現在組織され居るが如き人道に反する制度に反する公然の猛烈な 精神的反抗とも称すべきものである。 世界に光輝を添えるの知識と最高道徳とである。 社会主義は理性が信仰に代わったものである。 偏見に反旗を翻す自由思想である。冷たき法律的契約に代わるべき自由の愛である。 人をして真に清楚な生活を送らせる自由の契約である。 社会主義は地球上を君として治める真の正義である。 社会主義は美、正、真の大いなる目的に対し、凱歌を奏して前進する人類発展の大戦車 に先駆するところの観念、思想、及び行為の崇高な調和である。 これを否定するものは馬鹿であり、これを理解せざるものは不幸である。 (アレッサンドロ・ムッソリーニ) *ルーク・スカイヲ―カーは一日にしてならず。
ヲーカーを越えて逝こうよ…
319 :
世界@名無史さん :02/06/08 00:51
アナキンか?花金か?小時間問い詰めたい!
320 :
世界@名無史さん :02/06/08 20:13
320age
321 :
世界@名無史さん :02/06/11 23:24
ムッソリーニは小学校教師と聞いたが本当か?
322 :
Suzy Q :02/06/28 22:32
ホントです。 やがて、母の「お前には見込みがある」との言葉で、私はフォルノリムポポリの師範学校に 入った。この学校は非常に特色があった。当時ローマの古典主義からその霊感を汲み取った詩 で名声を馳せていた偉大な作家であるギオス・カルジュッチーの弟の経営指導する学校であっ た。六ヵ年間ここで長い学校生活を送らねばならなかった。 この教師の卵時代に、自分の興味をひいたのは、教育制度の改革であり、それにも増して、 関心を持ち始めたのは、現在まで続いている人間の集団―群集心理の研究であった。 私は気まぐれな生徒であったが、どうにかこうにか、学校のお目こぼしに預かる事ができた。 先生達は皆理解があって寛大な態度をとってくれた。 かくて遂に免許状をもらい、教師になることができた。 *ちなみに、毛沢東は師範学校に数学0点で入学したが、教師たちは彼の作文能力を賞賛した。 また哲学者ヴィトゲンシュタインは、小学校教師として生徒を殴って死なせてクビになった。 「青年よ!宅間守を目指せ!!」
323 :
世界@名無史さん :02/07/06 16:31
>322 小学校に殴り込みかよ。(藁
,.-'" ̄ "''‐- 、 _,,. -─/ \ / / ヽ、 / / ,i ヽ, / ,l / / .| /l ヽ l l .| l | / | ,/ | , | | .!ヘ 、 | l | //i.l.|ム--レ/_ |l _|L--、 | l/ ./ | L V |l _,,.-.、 ` "_.、-、 | | / / ト./ 'l | "i、,j ,) (_,,j ) .l | レ/ |::| `| | " '" '" |. | / l /::::l. | |: (二) _ 、 "゛゛ |. | . / /レ'| /::::::::ヽ┤ |:: |. | / ./ /:::::::`::::::::::::::::::|. |::: l | | /| |:::::::i:::::::::::::::::::::::|. ll:::: -── ノl | V | |:::::::|:::::::::::::::::::::::::|. ||::il`'┐._ " _.-''゛ |. | .| |::::/|:::::::|:::::::::::::::::| |'|:ト|!┴-ニ'─--┬‐''" l.| ヽ |/ ヽ|:::l|;:::::::::::::::::|.| |l___  ̄─、ト 、__ i.| ヾ. |:/:::::::::;~‖___  ̄''‐-.__ ~`''-ニヽ ル-|:::::|/ __゛''‐- 、 '~‐ 、 .|、 |::;ノ'/ ~'''-、. `ヽ、 ~''‐-"ヾヽ、 統帥ムッソリーニこそ20世紀に王道政治を実現した「聖君子」であった。 (エズラ・パウンド)
サピオ最新号読んだ奴いるか〜〜〜〜〜〜〜〜〜あっ?????
326 :
ローマ進軍 :02/07/14 00:25
>325 読んだYO。「だから極右が台頭する」ってやつでしょ。 でも当時は、むしろイタリア人が豊かさを求めて移民に出て行っていた時代。 それに、ムッソリーニの台頭は、統一からまだ六十年余りしか経っていな かったイタリアで、国民の統合原理としての求心力を失いはじめていた サヴォイア王家の威信を高めるという側面もあった。イタリア独自の事情が 大きく作用していると思う。
勢力なくしたムッソリーニがドイツのお情けで細々と運営してた 傀儡国家ってイメージしかないな
アンチ・リベラリズムとしてのファシズムの効用が求められている時代が始まったのである。 「ファシスト国家は国を組織するが、個人に十分に、その肱を動かす余地を与えるのである。 ただ、無益にして有害なる自由をのみ禁ぜんとするものである。 須要にして欠くべからざる自由は保存するに躊躇せぬものである。 こういうことを正当に決定するのは、個人ではなく国家でなければならぬ。」 ムッソリーニ「全体への闘争」より
329 :
イタリア人民へ :02/07/21 14:10
「ロレート広場の惨事ほど、冷酷きわまる出来事はイタリアの歴史にない。食人種の部族さえ、 死者に対して残虐な暴行を働かない。リンチを加えたあの者たちは、将来を代表するどころか、 原始人へ回帰した者であると指摘すべきである。しかも、原始人のほうが、文明人より道徳的 に健全であったかもしれない。」 ベニト・ムッソリーニ 1920年6月
330 :
正義の平和 :02/07/21 14:11
330ゲット〜〜タリ〜〜〜〜。 タリー タリー タリー (\_/) タリー ( ´Д) タリー タリー / つ (\_/) (\_/)ノ⌒ヽ、 (_(__つ⊂(´Д`⊂⌒`つ(´Д` )_人__) ))
331 :
イタリア人民へ :02/07/21 14:30
神風よ吹け!「正義の枢軸」いまだ滅びず!!!! 「遠くて近い日本について話したい。旭日の帝國が決して負けるなく勝利まで戦い抜くことは、 確信というよりも疑い得ない事実である。・・・日本の意思と魂を示すのは、死を覚悟した特攻隊 の存在である。数十名規模ではなく、数万人もの若者たちが『一機以て敵艦一隻』を合言葉にし、 それを実行する。・・・共和国イタリア人たる我々にとって、世界の感心感嘆を得ている天皇の陸 海空の兵士たちが、誠実で我々に理解を示す仲間として共にあることは誇りである。」 (ベニト・ムッソリーニ 1944年12月16日ミラノ、リリコ劇場における演説より)
332 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守 :02/07/21 14:59
ムッソリー二はヒトラーと違い本心から日本好きでした。 しかも同盟するず〜と前から。
333 :
世界@名無史さん :02/07/21 15:19
こういう演説ってどこからもってくるの? 「ムッソリーニ演説集」とかうってるの?
>329、331 ロマノ・ヴルピッタ著「ムッソリーニ 一イタリア人の物語」中公叢書からです。 (331の続き) それについて、ムッソリーニはエチオピア戦争の際、イギリスとの戦争に至った場合に備え、 イタリアでも英艦隊を標的とした決死の特攻隊(引用者注:ラ・ディスペラータと呼ばれた) が結成されたこと、名簿の筆頭に志願したのが当時の空軍司令官バルボであることを始めて 明かした。「さて、もしいずれか、このような特攻隊を作る時が来たならば、もし、我々の 血脈に古代ローマの戦士の血が未だ流れていることを証明すべき時が来たならば、国民に対 する自分の呼びかけは無駄になるだろうか?」と問いかけたとき、「否!」と答える聴衆の 叫びが会場に響きわたった。ムッソリーニと群衆との対話が復活したのであった。 「正義の枢軸」の信念を取り戻せ!!! >179 …マリネッティの最後の詩の一つは日高大使に捧げられた。「飛行詩人」というフランス語の詩で、 日本の戦闘機の兵士の勇敢さを賞賛したものだった。… ‖‖‖‖ ==== ‖‖‖/ /\ ‖‖/‖ ) | ‖/‖‖レ | /‖‖‖ __/ ==== ‖‖‖/ ‖‖/‖ ‖/‖‖ /‖‖‖ ヴィーヴァ・ジアッポーネ!!!
335 :
世界@名無史さん :
02/07/21 17:39 今だ!335ゲットー!!!!!!!!  ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ズザーーーーッ ∩) (´´ (´⌒(´ ∧∧ノ つ ズザーーーーーッ(´⌒(´ ⊂(゚Д゚⊂ ノ ∧∧≡≡)ズザーーッ(´⌒;;;≡≡ ∧∧(゚Д゚⊂⌒`つ∧∧≡(´⌒;;;≡≡≡ ∩) ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡⊂(゚Д゚⊂⌒∧∧≡≡)(´⌒;;;≡≡ ∧∧ノ つ ズザーーーーッ∧∧(´⌒(´ ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡(´´ (´⌒(´ ⊂(゚Д゚⊂ ノ ∧∧≡≡)⊂(゚Д゚⊂⌒`つズザーーッ(´⌒;;;≡≡ ∧∧(゚Д゚⊂⌒`つ∧∧≡(´⌒;;;≡≡≡ ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡(´⌒;;;≡≡≡  ̄(´⌒(⌒;;∩) (´´ ∧∧(´⌒)ズザーーーーッ ∧∧ノ つ ⊂(゚Д゚⊂⌒`つズザーーーーーッ(´⌒(´ ⊂(゚Д゚⊂ ノ ∧∧≡≡)ズザーーッ(´⌒;;;≡≡ ∧∧(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡ ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡  ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;