ティムールvs永楽帝

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1世界@名無史さん
アンカラの戦いでオスマン帝国に勝利し、
中央アジアに一大勢力を築き上げたティムール
一方、靖難の変で中華にその名を轟かせた永楽帝
ティムールが遠征の途上で死んじゃったから実現しなかったけど、
実際に戦ったら、どっちが勝ったんでしょう?
2世界@名無史さん:2001/08/06(月) 15:59
陸戦ならチムール。海戦なら永楽帝
3世界@名無史さん:2001/08/06(月) 16:49
チムールの圧勝。海戦になる可能性無いから。
4世界@名無史さん:2001/08/06(月) 18:10
ティムールでしょ
5世界@名無史さん:2001/08/06(月) 18:27
たぶんティムールかな。
でもそうすると、最終的には「克Rの戦い」再び
ってことになるのか?
6世界@名無史さん:2001/08/06(月) 18:46
モンゴル高原に逃れた元朝の残党(北元)が、ティムールと呼応して、
北方から明に攻め込む予定だったらしい。
大モンゴル再建のために。
7世界@名無史さん:2001/08/06(月) 19:42
≫2
明って海戦強かったの、
明が服属しろって日本に言ってきても、
元と同じようにその使者斬り捨てたけど、
何も出来なかったんじゃないの?
ティムールが海戦の経験が無いからかな。
8世界@名無史さん:2001/08/06(月) 20:15
鄭和の大後悔しらんのかいな。

当時の明の造船技術はなかなか凄いよ。
9世界@名無史さん:2001/08/06(月) 20:23
>8
航海技術と海戦力は違うでしょ。
10トキオ:2001/08/06(月) 20:24
鄭和ってムスリム教徒じゃなかったっけ。
もし海戦になっていたら、ティムールも、
旧イル・ハン系のイスラム諸国の応援を取り付けるのでは?
11世界@名無史さん:2001/08/06(月) 20:35
航海技術ならアラブ諸国のほうが凄かったんじゃないの?
喜望峰から東南アジアにまで根を張っていたみたいだから。
12世界@名無史さん:2001/08/06(月) 21:06
ティムールの予定していた明への侵入ルートってどこらへんだったんだろうね。
13世界@名無史さん:2001/08/06(月) 22:07
てか、ニコポリに勝って調子に乗ってるバヤジット1世を
倒したぐらいで調子に乗ってるティムールに永楽帝が倒せるはず無い。
14松田:2001/08/06(月) 22:15
>1
 アンカラの戦いって、オスマンvsティムールだっけ?うろおぼえ。
>>10
 回教徒にして宦官だね。確か。
>>11
 海の地理は確かにアラブ人の方が上だったが、鄭和の大艦隊を造る技術はさすがになかったと思うよ。造船技術と航海の知識は別。
15世界@名無史さん:2001/08/06(月) 22:54
>>6
息のかかった大ハーンをモンゴルに送り込む前に
ティムール没なので、挟撃は無いはず。

高原出自のボルジギン系を抱えていたってことは、
「明侵攻→高原慰撫」を考えてたのかしら。
それとも「高原経由の明経略」?
16 :2001/08/06(月) 23:31
>>11
拠点を幾つも持ってたからそんなに難しくなかったんじゃないかな?
17世界@名無史さん:2001/08/06(月) 23:48
 鄭和は南海諸国に平和的に朝貢をうながしに行っただけ。
だから、海軍が活躍したわけではない。海戦で強いなんてどこからの情報?
鄭和の遠征をまちがえてるんじゃ・・・
18世界@名無史さん:2001/08/07(火) 00:16
>17
明の海軍が強いかは知らんが、
海軍を持っているかもわからんティムールよりも
鄭和があれだけの航海を行えるだけの造船&航海技術がある明の方が
もし海戦になれば勝つのは明白。
19世界@名無史さん:2001/08/07(火) 00:20
永楽帝のころはまだ全盛だから国力は強かったかもしれないけど、

明末には倭寇に悩まされて衰退。
あれって海軍がよわかったってわけでもないのか・・・。
ティムールは一代かぎりだがオスマントルコにも勝ったことがあるくらいだから
ヨーロッパ人にも一目おかれたくらいだし、陸戦だったら勝ってたんでは。
20世界@名無史さん:2001/08/07(火) 00:33
基地と泊地あっての海軍ですよ。
強大な海軍を擁するには、
それなりにツボをおさえた陸軍の使い方をせねばなりません。
21世界@名無史さん:2001/08/07(火) 01:06
このテーマのスレが立つ・ティムール関係のスレで話題になるのは何度目だろう…。

内陸アジアから東アジアに向ったティムールが明と海戦を交えるには
まず陸上から明勢力を叩き出してからでは。
もし叩き出すことに成功したならば、
明はのちの鄭成功のような海上勢力になって
ティムールに対抗するでしょう。

>>15
ティムール朝年代記は中国遠征未遂のことを「カタイの地への遠征」と言っているそうです。
カタイというのは旧元領の中国・モンゴル高原をひっくるめた地域名と考えられるから、
モンゴル高原制圧が当初の目的だったろうという話がありますよ。
かつてのモンゴル帝国の拡大を見ても、
遊牧帝国はまず草原の遊牧勢力を傘下に納めてから農耕地帯に進出するのが常道だから、
(契丹族→金、トルコマン→ホラズム、キプチャク族→ロシア)
まずモンゴル高原の遊牧民の統合に取り掛かったでしょう。

>>19
アンカラの戦いのころのオスマン帝国は国内の統合が取れていなかった。
常備軍はまだ完全に確立していなかったし、
傘下のトルコ系遊牧民やバルカン諸侯は心服していなかった。
まとまった遊牧軍事力であるティムールに敗れたのは必然の結果です。
実際、アンカラの戦いではトルコ系遊牧民に離反されています。
22世界@名無史さん
うーん、中原の地までは占領できなかったと思うなあ<ティムール