1 :
世界@名無史さん:
永楽帝の命で鄭和さん達が巨大なジャンク船で、航海したと言われる
南海大遠征
ジャンク船の中に畑を作っていたとかって聞いたのですが
これ本当?
2 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 03:28
鄭和の艦隊の船って一隻8,000tあったって話しだけど
これ本当?
ヴァスコ・ダ・ガマの船団は一隻120tって聞いたし
そもそも8,000tって第二次大戦の重巡洋艦と同じくらいあるよ・・・??
3 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 03:41
800tならあり得そうとも思われ。
4 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 03:57
辞書によりゃ全長150mで12の帆を持つとな。
なお河川用のジャンクや日本の安宅船で40mとかそんなぐらいみたい。
5 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:00
江戸時代の和船は最大で約200tと聞いたような。
でもたしか鎖国下では、基本的には遠洋航海可能な大型船は禁止されてたんだっけ?
朱印船時代はもっと大きかったのかな?
って日本史だな・・・
6 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:11
ほんとだよ〜。
上海で船体後部の一部が発見されたからね。
それまでは学者の間でも「大袈裟に書いただけ」というのが定説だった。
やっぱ中国はすごいや、昔は。
7 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:12
8 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:12
ホントなのは8000t?
それとも畑?
でも今の中国のいうこともかなり信用できない部分もあるけど(笑
やべっ、上海じゃなくて南京か・・・
スマン
10 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:20
8000t というのは大げさで、500t 程度のようですね。
それでも十分にでかいんですけど。
ヨーロッパの大航海時代の船とちがって、基本的に
沿岸を航海するので少々バランスが悪くても大丈夫
だったのかな?
11 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:23
大航海時代の遠洋航海用の船よりも、
地中海を航海するイタリア都市国家の船のほうが大きいみたいだけど・・・
ただしBy塩野
12 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:23
13 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:33
野菜はあった、ってなんかの本で読んだんだが・・・。失念しちゃったよ。
14 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:40
>11
ヴェネツィアンガレアスのこと?
15 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:51
16 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 04:56
>>15 それは、全長150mという超巨大船だった場合ね。
50m程度という説が有力なので、それにのっとると
300〜500tとかいう感じになる。
17 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 09:53
このスレとても興味もてる内容だ。
船を馬鹿でかく作ったり畑を作ったりしたってことは、
逆を言えば、当時の人が「海の広さは限界がない」って考えていたことをそのまま反映してる感じがする。
インドやアラビアまでは中国人でも理解できる文明があったけど、
さすがにアフリカまで来ると(アラビア商人が横行してるとはいえ)辺鄙すぎて冒険心があぼ〜んしたんだろうね。
いつまで経っても南蛮人の国に着かないから。
18 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 13:11
なんでそんな船作れる技術があったのに、
倭冦ごときに手こずっていたのだろうか?
>>18 18は、60年代に「数個師団も送ればベトナムなんぞ一ひねりだ」と豪語していたアメリカ陸軍幕僚だ。
>>18 18は、60年代に「数個師団も送ればベトナムなんぞ一ひねりだ」と豪語していたアメリカ陸軍幕僚だ。
21 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 13:20
倭寇はおそらく世界最強の海賊だと思うが・・・
しかもでかい船が作れればいいというものではあるまい
22 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 13:30
松浦公萌え。
23 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 13:47
>>21 大航海時代の海賊とは違うのでは?
沿岸の防備の手薄な村を襲って、官軍が来る前に引き上げる
ゲリラ的なかっぱらいの方が正しいイメージだと思う
24 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 13:50
>>17 > いつまで経っても南蛮人の国に着かないから。
この南蛮人の国って、具体的には何処を指してるの?
ひょっとしてポルトガルやスペインのことですかね。でも、鄭和が
南海遠征を繰り返してた頃は、ヨーロッパ未だ中世でしょ。航海の
目的地とは考えにくいんだけどなあ。潜在的な脅威だったティムー
ル朝を牽制するための同盟者を求めてなんて理由も、チョット無理
あるよねえ…‥。
25 :
名無しさんの主張:2001/07/01(日) 14:07
ベトナムに数個師団送ればひとひねり。
そういう考えだから、ゲリラ戦でやられたんだよ。
倭寇もゲリラ戦
しかも、ほとんどが中国人なのだから始末に負えない。
26 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 14:12
後期倭寇は、ね。戦国時代になっても、
日本人も松浦や大前、有馬、宗、(宗像もかな)あたりは時に海賊となって
暴れまわってた。
27 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 14:14
伴野朗だったか誰だったかの「永楽帝」って本では、長期航海中に船員に続出
した病気にどうも野菜が効くらしいので、大豆を発芽させてモヤシを作ったっ
てことになってた。もちろん、これは小説だけど。
28 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 14:16
>>6 >やっぱ中国はすごいや、昔は。
昔は。の部分に笑いました。
29 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 14:21
>>18 鄭和の航海事業は、永楽帝や鄭和の死後、金がかかるということと、そ
れ以上に、それが宦官の業績であったために文官官僚の受けが悪かった
ので廃止され、これにともない、造船技術も破棄されました。倭冦が本
格的に暴れた明中期〜後期には、もう明に大艦隊などありません。
30 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 14:57
元の時代に巨船が造られていたらしいね。
明は後ろ向きなのかしらん?
31 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 15:01
モンゴルは商業を重んじ、海洋貿易に積極的。
対する明の国是は農本主義。
それが造船技術の差となったという話を聞いたような・・・
。
32 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 15:10
鄭和の遠征は例外で、基本的には鎖国だからね、明帝国は。
33 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 15:44
永楽帝が突然変異というわけか・・。
34 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 15:48
記憶によれば、永楽帝は帝位につく前、
一軍を率いて北方のモンゴルと対峙していた期間があったと思う。
その分モンゴル的要素を受けていたと思われる。
35 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 16:12
燕王として旧大都の燕京に駐留してた。
36 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 16:56
>>24 ポルトガルはともかくスペインはまだ成立してないぞ。
ま、どっちにしろ
>>17がいう南蛮が何を意味してるか不明だが。
37 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 18:20
アフリカ人と中国人のファーストコンタクトはどんな感じだったの?
38 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 18:27
>>37 確かその地方のアフリカの王様かなんかに
キリンを送られてたね。
チィリンとかいう現地の発音が中国の伝説上の動物、麒麟の発音に聞こえたから
キリンって名前になったとか聞いたけど。
39 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 19:35
>>36 もし目指してたとしたら、イスラムの領域だったんだろうね。
まあ、大秦国の知識は景教徒あたりが持ち込んでいただろうから、そっち方面に
国があることくらいは知っててもおかしくないけど。
40 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 20:06
そもそもこの巨船ってどういう型の船だったんでしょうか?
やっぱりジャンク型かな?
41 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 21:27
>>39 中国の南部の港湾都市には
唐の時代からイスラム商人が来てるって。
鄭和はイスラム教徒のインド洋航路を逆走しただけ。
42 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 23:38
…‥つうか、鄭和自身がムスリムなんだけどねえ。
43 :
世界@名無史さん:2001/07/01(日) 23:50
そういえばそうだった。
元のときにモンゴル人に着いてきて
雲南に住みついたムスリムの家系だったね。
明の時代の中国はアジア・中東全域について
おおまかでも知識を持っていたのでは。
44 :
自転車小僧:2001/07/02(月) 00:06
鄭和の大航海自体が永楽帝が即位した際、内戦で行方不明に
なっていた先帝の親族を探し出すことを目的としたもので、
西はザンジバル、東はニューギニア近辺まで行ったらしい。
当然、永楽帝が死ねば、皇位継承の問題もなくなるため、大
航海を続ける意味もなくなったということのようだ。
45 :
世界@名無史さん:2001/07/02(月) 00:18
執念深いな〜(藁
46 :
世界@名無史さん:2001/07/02(月) 00:36
>>44 10年近く前に読んだ小説ではそれも目的の一つてことに
なってたけど、実際のところはどうだったんでしょうね。
作者も題名も忘れてしまったけど、日本の南朝の残党が出
てきたり、鄭和自身が御忍びでメッカ巡礼を果たしたりと、
作者が好き勝手に書いてるなという印象が強かった(笑)。
47 :
自転車小僧:2001/07/02(月) 00:41
>46
永楽帝の皇位継承に伴う大遠征と言うのは、ある程度
根拠のあるものです。
明代には一族を各地方に封じ王を名乗らせていました
が、永楽帝の時に各地の王がどんどん廃されて中央集
権化が進んでいます。
明代の政治闘争はかなり血なまぐさいものであった事
は当時の資料を読むと分かります。
>45
日本も平安時代末期に行方不明になった親王探しのため
に、大正時代ラオスに密使を送った記録がありますよ。
48 :
世界@名無史さん:2001/07/02(月) 00:52
49 :
世界@名無史さん:2001/07/02(月) 01:02
>>44 >永楽帝が死ねば、皇位継承の問題もなくなるため、
永楽帝の子孫であるその後の歴代皇帝にとっても
「嫡流」の建文帝とその子孫が生きてでてきたらまずいでしょ。
たしか、建文帝が皇帝として名誉回復されたのは明末になってからでは。
>>46 それの作者は、伴野朗。
彼の書いた小説は、朱元章の話では
大陸に流れてきた北条氏の末裔の剣士が出てくるし、
玄奘三蔵の話ではお忍びで旅に出たムハンマドと
玄奘が北インドで邂逅してすれ違うし、
そういうネタが多い。
>>48 高岳親王は羅越国で死んだことになってるけど…ラオスなのかな。
戦時中は親王が死んだのはマレー半島ということにして、
シンガポールあたりに神社を建てたんだよね。
50 :
世界@名無史さん:
建文帝捜索説は講談的すぎる。
仮に、建文帝が生きていても国外に亡命してそのまま中華に戻らないなら、それは
それでたいして問題ないし、中華に舞い戻ったらその時こそ捕らえるなり殺すなり
すればいいのだ。どこにいるのかも、そもそも生きているのかいないのかもわから
ない者を探すために大艦隊を派遣するなど、あまりにも効率が悪く、金の無駄遣い
だろう。
鄭和艦隊の派遣は、諸国の朝貢を促し、それによって永楽帝の権威を上げ、帝位継
承を正当化するのが第一の目的と考えるべきだろう。