マンコの反乱

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>>71
んじゃ、まずこの本が書かれた経緯から。

この本の著者は、ティトゥ・クシ・ユパンギ。
彼の父はインカの反乱を指揮したマンコ・インカ。

マンコ・インカはフランシスコ・ピサロによって捕縛されたアタワルパの異母弟。
マンコはアタワルパ捕縛の翌年、フランシスコ・ピサロに擁立されクスコにて皇帝に即位。
(1533年12月 マンコ・インカの皇帝即位)

ピサロによって皇帝に即位したマンコ・インカだったが、
その三年後、彼はクスコを脱出してスペイン人に対し大規模な反乱を起こした。
(1536年5月6日 マンコ軍によるクスコ包囲)

この反乱から、およそ十年後、
マンコ・インカはクスコを回復できないまま
亡命先にてスペイン人に暗殺された。
(1544年中葉 ディエゴ・メンデスによるマンコ暗殺)

帝国は、マンコのおさなごサイリ・トゥパクが受け継いだが、
その十数年後、成人したしたサイリ・トゥパクはスペイン人に投降。
(1557年10月7日 サイリ・トゥパク、ビルカバンバを脱出)

 ちなみに、サイリ・トゥパクの成人後の名前は、
 マンコ・カパック・パチャクティ・ユパンギ。

 ビルカバンバとは、
 クスコを回復できなかったマンコ・インカが新首都とした地。

サイリ・トゥパク投降後、その異母兄にして
この本の著者ティトゥ・クシ・ユパンギが皇帝の座に即位。
(1560年 ティトゥ・クシ・ユパンギ、皇帝に即位)

しかし、もはや情勢は如何ともしがたいことを悟ったティトゥ・クシは、
おなじく平和的解決をのぞんでいたペルー総督ロペ・ガルシア・デ・カストロと交渉をすすめ
ついにアコバンバの地にて和平協定に調印した。
(1566年8月24日 ティトゥ・クシ・ユパンギ、アコバンバ協定に調印)

 同年10月、ロペ・ガルシア・デ・カストロこの和平協定を承認、
 1569年1月、スペイン王室、批准。

アコバンバ協定によって
以後いっさいスペイン人に対し攻撃を加えないことを約束したティトゥ・クシは、
さらに1567年7月9日、スペイン国王に対し忠誠を誓い、
翌年八月にはワランカリャの地でキリスト教に改宗した。

このような状況のもと、
ロペ・ガルシア・デ・カストロがスペインに帰国することとなった。

ティトゥ・クシは、帰国するカストロに対し、
自分こそがインカ帝国の正当なる継承者であることを
スペイン国王に報告してもらうよう依頼。

その報告の手助けになればと1570年2月6日、
彼はスペイン人の進入から今にいたるまでのあらましについて、
口述で報告書を作成した。その報告書が>>71の「インカの反乱」

#そのような性質のためもあって、この報告書は皇位継承権など、
#いくつかの点で事実が歪曲された部分もあります。