1 :
世界@名無史さん:
「ペテロが初代ローマ教会司祭」ということがローマカトリックが権威を持つ
理由となっているそうですが、本当にペテロはローマまで足を伸ばしたの
でしょうか?
お集まりの碩学のみなさん、どうかお教えください。
>>1 とにかく基本的な間違いが多すぎます。ここで聞くよりキリスト教
史の本でも一冊読んだ方が良いでしょう。
3 :
世界@名無史さん :2001/06/09(土) 13:10
ペテロがローマで布教したのが事実かどうかは何とも言えないが、ペテロがローマ
に滞在したとされる時期に、ネロ帝のキリスト教弾圧は起こっています。
4 :
世界@名無史さん:2001/06/09(土) 15:50
>>3の方が書かれたように、結論から言えば、現状では不明です。
ただ、ユダヤ戦争(対ローマ抗争)より前の時期にイェルサレムを出ていたのは確かなこと、とされていたと思いました。
(ちょっと調べてみます)
>>1 「本当にペテロはローマまで足を伸ばしたかどうか?」
ざっくりと3,4冊の本で調べてみました。
やはり今の聖書学では、伝承とみなすべき、とする見解が大勢でした。
「ペテロがローマまで足を伸ばしたこと」など、現行の新約正典に含まれていない種々のペテロ伝承は、外典の『ペテロ行伝』に集成されているそうです。
ただし、ローマでの逆磔他、2、3の伝承は、同時期の幾つかの古代文献にも見られるそうです。
こうしたことから、『ペテロ行伝』は、信徒間、民間に流布していた伝承が集成、編集されたタイプの文書だろう、と考えられています。
文書化は、二世紀後半の小アジア地方、ないしはローマとみなされていて、どちらかと言うと小アジア説が有力であるようです。
二世紀後半というと、正典外文書の中では初期の部類ではありますが、初期の後半であって最初期ではない。また、原始キリスト教時代には、「行伝」の他に、『ペテロ福音書』『ペテロと十二使徒の行伝』などがあります。一説によれば、他にもペテロに関する文書で既に喪われたもの(古代文書での引用、言及などで知られるもの)があった、とも言われます。
これらの理由、他で、現存する『ペテロ行伝』の記述には史実性が乏しいと考えられています。
ただ、現存する「行伝」は、およそ全体の2/3程度の分量らしい。
もし、将来、残り1/3を含んだ古代文書が発見されたら、こうした推定も修正が加えられるかもしれません。(感触としては、推定修正の可能性は決して高くない、と思いますが)
素人の些末な疑問に対しレスをつけていただき、ありがとうございます。
お礼を申し上げるのが遅くなってしまいごめんなさい>皆様
>2
ええと、後の五大教会の中で特にローマが力を持ったのは、キリストに「天国の門の
鍵を授ける」とまで言われたペテロが直接伝導に来たしたところだから、というような話を
聞いたもので・・・
また、自分でも少し調べてみたのですが、現在サン・ピエトロ大聖堂が建っているのは
ペテロが処刑された闘技場の跡地だという伝説があることぐらいしか分からず、
これ以上のことを知るには玄人の方々に直接聞いてみたほうが早いかな、と思いまして・・・
>3
詳しく解説していただき、痛み入ります。
聖書にはいろんなバージョンがある、ということはぼんやり知っていたのですが、
ペテロの伝記一つをとってもバリエーション豊かなのですね。
ペテロのローマ入り伝説の文書化は、ローマ教会が自身の権威付けのために行ったものなのかなあ、
と思っていましたので、
>どちらかと言うと小アジア説が有力であるようです。
というのは(個人的には)意外でした。
>4
ギリシャあたりまでは行っていたらしいですね。
ローマまで行ったかどうかはさておき、飛行機なんて便利なものが無かった時代に
「伝導」の使命感に駆られ長い旅に出たペテロは偉いなあ、と思います。
7 :
世界@名無史さん:2001/06/14(木) 12:09
「ローマ教会」というのは言葉のアヤ、悪く言うとでっちあげでしょう。
ペテロやパウロの時代の信者の集団を「教会」と呼ぶのが相応しいものかどうか。
イエスは「教会」のような存在を否定していたと思いましたけど。
>>7 >イエスは「教会」のような存在を否定していたと思いました
え?どこで??
教会はもともと「信徒が聖職者に指導される集団」のことだったはずですけど?
「イエスは『教会』のような存在を否定していた」とはどのような意味ででしょうか?
9 :
世界@名無史さん:2001/06/14(木) 12:52
>>6 >後の五大教会の中で特にローマが力を持ったのは、キリストに「天国の門の
>鍵を授ける」とまで言われたペテロが直接伝導に来たしたところだから
世界史的には、コンスタンティノープル主教座とローマ主教座との首位争いで言われたことです。
エルサレム主教座は、ユダヤ戦争(対ローマ戦争)以降、他所に移り衰滅傾向にありました。
アンティオキア主教座は、えーっといつだったか忘れましたけど、アンティオキア自体が天災と壊滅しました。
アレクサンドリア主教座はゲルマン民族の侵入以降、ローマ、コンスタンティノープル、との連絡が疎になっていきました。
こうした歴史の上で長い年月をかけてローマ×コンスタンティノープルの主教座争いがおこなわれたのですが。
>>5の調査を踏まえると、「信徒の間(民間)に流布していた伝承をローマ主教座が利用した」と考えるのが歴史学的と思います。
「でっちあげ(
>>7)」はやや言い過ぎかと。
ちなみに、20世紀中、いつだったか、バチカンは、サンピエトロの礎石にあった墓室を開いたことがあります。
何者かの男性遺体、一体が発見されたそうです。
科学分析などはせず再埋葬したとのことですが。
まー、そーゆーこともありました。
10 :
凸(`ー゚)fuck!:2001/06/15(金) 09:47
パオロがローマ逝ったんじゃなかったの?
11 :
世界@名無史さん:2001/06/15(金) 14:39
>>10 パウロについてはペテロについてより、少し詳しい推定が成り立ちます。
新約の「ローマ人への手紙」は聖書学の研究に拠れば、パウロの真筆と考えられています。
執筆は第三回異邦人伝道旅行中のコリント滞在中。(55年秋〜56年春にかけて)
おそらく、ローマ教会を訪れる前に、自身の神学について告げておく必要が「ローマ人への手紙」を書かせたのだろう、と考えられています。
「ローマ人への手紙」を書いた後のパウロの事跡は新約の「使徒行伝」に観られます。
が、こちらの史実性については、信憑性が低いとされています。
ある程度史実も反映しているでしょうが、潤色がある可能性が高い。
特に記者について、伝承に言われるようなパウロの旅行に同伴した者の筆録としてはおかしな点が多々ある。
という訳で、パウロの方は、コリントからローマに向った蓋然性は大きいものの、その後の事跡については、「使徒行伝」の記事が、伝承として参考になるだけで。
ローマでのパウロの事跡は、伝承と考えるべき、とされています。
12 :
アマノウヅメ:2001/06/16(土) 13:09
公平な本ではなく、カトリックの出版社が出している本で調べました。
どの本も、ネロの時代の67年6月29日にペテロとパウロが
ローマで殉教したことは譲らないのですが、
「両聖人のローマ在住時代のことは、残念ながら、解らない」
とありますから、よほど自信が無いのでしょう。
14 :
世界@名無史さん:
ペテロが、使途NO.1であったというのは、確実あのだろうか?