ドイツ騎士団

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1世界@名無史さん
ドイツ騎士団
ドイツ騎士団領
何なの
いったい
教えてよ
2世界@名無史さん:2001/05/16(水) 20:58
北方十字軍によって植民された土地です。
3世界@名無史さん:2001/05/16(水) 23:15
十字軍が北へ向かう意味はいったいなにさ?
4世界@名無史さん:2001/05/17(木) 00:00
巡礼者保護
5たしか:2001/05/17(木) 00:04
聖地追い出されて食いっぱぐれてた騎士団が
バルト海のほうに異教徒征伐に狩り出されて
そのまま居着いちゃったの。
6Cavabien:2001/05/17(木) 00:10
たしか講談社選書メチエの『北の十字軍』に記述があったような。
手元に無いのが残念ですが・・・。
7世界@名無史さん:2001/05/17(木) 14:35
白ロシア域で
モンゴルの征西軍と衝突したんじゃなかったっけ?
8世界@名無史さん:2001/05/17(木) 15:03
>>7
現在のベラルーシにモンゴルの軍隊は侵入してません。
また当時ベラルーシなどというものは存在していません。ポーランドの一地方です。

ドイツ騎士団について詳しいスレが以前にあったが、どこへ行ったかな?
9世界@名無史さん:2001/05/17(木) 17:29
そんなスレ無いよー
10世界@名無史さん:2001/05/17(木) 18:36
>>9
駄スレ乱立のあおりを受けて、倉庫の方へ行っちゃったんだろう。
11世界@名無史さん:2001/05/17(木) 19:16
ドイツ騎士団領は、ドイツ騎士たちが支配してたの?
ドイツ騎士ってホントに戦えるの?
12世界@名無史さん:2001/05/17(木) 19:18
ドイツ騎士団長って強いの?
偉いだけなの?
13世界@名無史さん:2001/05/17(木) 19:20
強さばかりが騎士団の長たる資格にあらず
14ドイツ騎士@名無史さん:2001/05/17(木) 19:30
なんだー
弱いのかー
15世界@名無史さん:2001/05/17(木) 22:53
こいつらがいなければ、「ポーランド回廊」とかカリーニングラードのドイツ系住民とかややこしい問題が無くなったのに。
16世界@名無史さん:2001/05/18(金) 09:57
>>5
居着くのに何かすごい詐欺をやったらしいよ。
17αジョーカーω:2001/05/18(金) 13:10
>15
現在、カリーニングラードにドイツ系住民は殆どいません。
1945年までのケー二ヒスべルクなど東プロイセンの
住民はドイツ人でした。
また、ドイツ騎士団が無くとも、ドイツ人は東進したでしょう。
オーデル・ナイセ川以東は勿論、エルベ川以東も元々はスラヴ人居住地で、
そこにも東方植民で”ゲルマン化”しましたから。
18世界@名無史さん:2001/05/18(金) 14:02
>>17
ゲルマン化というよりドイツ化というのが正しいのでは?
ゲルマン民族は何もドイツだけには限らないから。
19名無し組:2001/05/18(金) 15:15
当時ドイツは存在しなかったでしょ。
ゲルマン化でよい。
20世界@名無史さん:2001/05/18(金) 15:36
当時まだドイツという国家が存在していなかったのは確かにそうだけど、
それならドイツ騎士団って名前はおかしいってことにならない?
21世界@名無史さん:2001/05/18(金) 16:17
東フランク→神聖ローマの流れでは、「ドイツ化」でいいのでは?
>>18の「ドイツ化」という言葉は「ドイツ人」と同じで現代からみた
便宜的な民族呼称で、当時かの人々がどのように呼ばれていたかは
とくに厳密に考える必要はないんじゃないかな?
でないと>>20のの言うように現代通俗的に使われる「ドイツ騎士団」も
厳密に否定しなくてはならなくなる。
また、ゲルマン民族の文化・言語等は地方によって
それぞれ大きく異なる為、「ドイツ化」の方がより限定的で
わかりやすい。
22ドイツ騎士@名無史さん:2001/05/18(金) 18:47
ドイツ騎士団領って国の名前みたいなもんなの?
ドイツ騎士って戦わないの?
23>22:2001/05/18(金) 21:50
ドイツ騎士団の英語名は Teutonic Knights だね。
その頃は今のような近代国家制度はなかった。
イングランドは王領、サヴォイは公領、ローマは教皇領、
東プロイセンは騎士団領というわけだ。
24きっと間違いだらけなので訂正してね:2001/05/19(土) 02:33
ドイツ騎士団は宗教騎士団の一つです。(ってあたりまえか(^^;)

エルベ東方居住していた非キリスト教徒の異民族をキリスト教化する目的で創設されました。
ポーランドやチェコなど、10世紀中にキリスト教化されていた民族は難を免れることができましたが
現在のプロイセンに居住していた民族系統不明のプロイセン人などは大虐殺を伴うキリスト教化により
絶滅(ドイツ人に同化)させられました。(当時のスラブ、バルト、北欧世界はまだまだ非キリスト教世界で
スウェーデンではオーディーンの像なんかを奉ってました)

騎士団領内にはドイツ人やスラブ系、バルト系の諸侯が多数居り、宗教騎士団と言っても教会国家ともいうべき
形態を持っておりました。そして非世襲の総長が首長として騎士団領を統治していました。
騎士団の軍事力は一時は猛威を振るいましたが、領内諸侯の行動(信仰の問題や世俗的な争い)に
制限をつけようとする騎士団総長に反発が集まり、諸侯たちはポーランド王(ヤゲロー朝)に忠誠を
誓うものが増えました。

結果、ポーランドとドイツ騎士団の対立が深まり、ついに1410年(でしたっけ?)神聖ローマ帝国諸侯
ベーメン、ハンガリーと手を結んだドイツ騎士団とポーランド・リトアニア連合軍との間に
有名なタンネンベルクの戦いが起こりました。結果はドイツ騎士団の大敗北に終わり
ドイツ史上の大きな屈辱となりました。

その後のドイツ騎士団の勢力は縮小の一途を辿り16世紀には東プロイセンだけを領有するだけに
なってしまいました。しかし、このドイツ騎士団領はひょんなことから世俗国家にはや代わりします。
ロートリンゲンか何処かの諸侯が神聖ローマ皇帝の後押しで騎士団総長に就任しますが、騎士団を
解散しプロイセン公国を創設します。そしてホーエンツォルレン家が大公を世襲するようになりました。
このプロイセン公国が、後に同じホーエンツォルレンの家名を持つブランデンブルグ選帝侯と合体して
後のプロイセン王国となるのです。
252:2001/05/19(土) 07:26
あ、1行レスしたら、後からちゃんとしたレスが。

>>24さんが綺麗に書いてくれています。
>>6さんが挙げている「北の十字軍」がうまくまとまった本なので、
もうちょっと突っ込んで知りたい方は読んでみてください。
26世界@名無史さん:2001/05/19(土) 08:35
>>23
Teutonic Orderでは?
27吾輩は名無しである:2001/05/19(土) 09:00
オーディーンは古代ゲルマン民族の最高神ですか。
28世界@名無史さん:2001/05/19(土) 09:02
ドイツ語では"Der Deutsche Orden"という。
29世界@名無史さん:2001/05/19(土) 09:21
ドイツ騎士団領は既に歴史上の存在に過ぎないけれども、
実は、ドイツ騎士団の組織は現在まで存続しているというのは
本当ですか?何でも、ビスマルクもヒトラーも解散させようと
したけど結局潰すことができず、今でも生き残っているとか…
30名無したちの午後:2001/05/19(土) 11:01
>29
国防軍の事かね
31世界@名無史さん:2001/05/19(土) 11:52
このサイトによれば↓
http://www.web-site.co.uk/knights_templar/templar3_11-2.html
ドイツ騎士団は20世紀まで存在しているが、中世の時代とは全く異なった組織となっている。
ドイツ騎士団は、第1次世界大戦の終了とともに、その最後の領有地を手放した。
1927年、ローマ法王はドイツ騎士団は純粋な修道会である旨宣告し、第2次
世界大戦中には第3帝国がその廃止を試みた。
今現在、ドイツ騎士団は87名の修道士、294名の修道女、12名の名誉騎士、
を擁しており、総長はウィーンにいる。

…ということだが、イギリスのサイトなのでジョークだったりして(^^;
32日本@名無史さん:2001/05/19(土) 12:00
マルタ騎士団領は今でもあるよな。
33ナポレオン:2001/05/19(土) 12:55
原プロイセン人て、スラヴ系じゃなかったっけ。系統不明だっけ?
かなりウローボエ。
34世界@名無史さん:2001/05/19(土) 13:04
確かにドイツ国防軍のマークはあの十字架だね〜
マルタ騎士団はボランティア組織らしい・・本部ローマ。
35マルタ@名無史さん:2001/05/19(土) 13:47
マルタ共和国が自国沖合いの小島を騎士団領として割譲したんだったな。
36世界@名無史さん:2001/05/20(日) 01:34
>>35
知ってるかも?だけど、マルタ騎士団は聖ヨハネ騎士団のこと。
アラブのサラディンにパレスチナを追い出されてロードス島に。
で、スレイマン大帝にロードス島を追い払われて、マルタ島に。
さらに、マルタ島からはナポレオンに追い払われた。
37世界@名無史さん:2001/05/20(日) 02:28
>>33
バルト系だったと思う。リトアニア人やラトビア人と同じ。
スラブ語派とバルト語派はかなり共通点があるそうな。
で、同系か否かで論争が続いてるとか。
38実習生さん:2001/05/20(日) 07:13
チュートンナイト
39世界@名無史さん:2001/05/20(日) 10:19
バルト海沿岸地域に駐屯していた騎士団であることから、
チュートン騎士団とも呼ばれる。
おっと、スレ違いか。
40世界@名無史さん:2001/05/20(日) 14:50
あの〜
>>24 氏と >>31 氏と矛盾があるような。
世界史の教科書的知識ではホーエンツォルレン家はドイツ騎士団領の後継者なんですよね。
なんか途中で「ドイツ騎士団長はカトリックから新教に改宗した」みたいな話を聞いた記憶があるんです。
でも>>31 では未だカトリック下にあるようなことを書いてある。
団長の改宗>領土相続 と 団自体の宗教は違うんですか〜?
その辺のところ詳しい方・・・
41αジョーカーω:2001/05/20(日) 15:28
原(プロト)プルッセン人はバルト民族でした。
ただ、同じバルト語でも、
リトアニア語やラトビア語とは大分異なったようです。
42世界@名無史さん:2001/05/20(日) 16:57
ウエブスター地理事典の東プロシャを引いてみた。

inhabited Old Purussians,
conquered by Teutonic Knights 1226,
after (Second) Pease of Thorn 1466,
retained by Teutonic Knights as vassal of Poland;
included in duchy of Prussia secularised by Albert of Brandenburg 1525
43世界@名無史さん:2001/05/21(月) 10:04
>>33 >>37 >>41
西バルト語ね。これは完全に消滅した。
スラブ語も西(ポーランド語・チェコ語・東ドイツのソルブ語・ポーランド北部の
カシュープ語など)と東(ロシア語・ベラルーシ語・ウクライナ語など)で
大分違うが、スラブ語の東西分化は紀元前数世紀なのにたいして、
最近の言語学者は、バルト語の東(リトアニア語・ラトビア語)西(プルシ語など)分化は
それより少し前ではないかと言っている。
44世界@名無史さん:2001/05/23(水) 03:06
>>40
1525年にドイツ騎士修道会総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは
ルター派に改宗、プロイセンは世俗公国となり自分もプロイセン公となりました。
このときプロイセンのドイツ騎士修道会は解体したわけです。

でも騎士修道会はドイツ本国その他にも寄進による多くの所領があり、こちらは
そのまま残存して現在に至ってます。当然カトリックのまま。

なおホーエンツォレルン家は元々南西ドイツの出で15世紀からブランデンブルグを
統治してます。
1510年に一族の一人、アルブレヒトが騎士修道会総長に選ばれたのですが先に述べた
ように1525年にルター派に改宗、続いてブランデンブルグやその他一族もみな改宗
し、1615年プロイセン公が断絶するとブランデンブルグのホーエンツォレルン家が
プロイセン公も兼ねるようになりました。

つまり総長は改宗して騎士修道会やめちゃってプロイセンも騎士修道会のものでは
無くなっちゃったけどプロイセン以外のとこでは依然として騎士修道会は存続し
つづけたわけです、カトリックのまま。
45世界@名無史さん:2001/05/23(水) 03:22
日本史にたとえると(こんなことは起こっていないが)
天台座主になった藤原某が還俗して比叡山の所領を自家のものにして
しまったが、天台宗は三井寺その他で続いたよいうようなものですか。
46世界@名無史さん:2001/05/25(金) 05:12
昔、ポーランド映画にドイツ騎士団との戦いを描いた映画があった。
邦題は「鉄十字軍」。
大きな鉄十字が描かれたマントのドイツ騎士団は悪役だったが、
しかし、それなりに誇り高い敵という描き方だった。
私のカキコへ世界史板の諸兄のレスが結構ありましたので、少し蔵書を調べた上で24のカキコの
訂正をしたいと思います。(受験勉強の時の知識と去年読んだ、うろ覚えの本の内容をもとにカキコ
したので、「罵倒嘲りを受けるかも」と内心ヒヤヒヤしておりました。(^^;)

まず、ドイツ騎士団には前進的組織がありまして、1190年にアッコンに「聖母マリアドイツ病院
兄弟団」が設立されたようです。1191年教皇クレメンス3世によって正式にその存在を認知
されましたが、間もなくアイユーブ朝のサラディンによりアッコンは陥落し、ドイツ人騎士たち
は帰国を余儀なくされ、「聖母マリアドイツ病院兄弟団」もそれに伴い宗教騎士団に衣替えし
教皇インノケンティウス三世により「ドイツ騎士団」として1198年に承認された後、ハンガリー王に
より辺境の地トランシルバニアをあたえられました。(1211年)

ここで、神聖ローマ帝国の成立した10世紀半ばまで、話を戻します。

ザクセン朝東フランク王国第2代国王にして初代神聖ローマ帝国皇帝となったオットー1世は
父ハインリヒ1世の異民族に対する戦いを引き継ぎ、非キリスト教徒の王国だったデンマークを
打ち破り、彼らをキリスト教徒に改宗させることに成功しました。
(当時のザクセンはフランク王国の北東端であり、常にデーン人やエルベ川とオーデル川の間に
居住していたバルト・スラブ系のヴェンデ人、時にはベーメン人、ハンガリー人等の圧迫を受けていた)

続いてオットー1世はヴェンデ人を討ち、彼らを服属させることに成功しましたが、キリスト教化は
十分成功を収めるには至りませんでした。しかし、皇帝の威光が衰えると、ヴェンデ人の蜂起が
相次ぎ、設置された司教区の教会群も破壊され、聖職者は虐殺されました。これ以降も、帝国や
諸侯、教会は、硬軟取り混ぜたキリスト教化を試みましたが、ヴェンデ人は容易に屈せず、抗争は
約150年にも及びました。
その後12世紀半ば、イスラム教徒によりエデッサ伯爵領が滅ぼされ(1146年)、衝撃をうけた教皇
エウゲニウス3世は第2回十字軍遠征を計画し、優れた弁舌と数々の奇跡を起こした事で教皇以上に
尊敬を集めた人物、クレルヴォー修道院のベルナールを諸国に派遣して、国王、諸侯、騎士たちに
十字軍参加を促しました。
ベルナールは神聖ローマ帝国議会にも1146、1147年と二回にわたって出席し、熱弁をふるって十字軍
への参加を促しました。大多数の諸侯は熱狂的に応じましたが、ザクセンのハインリヒ獅子公を筆頭に
帝国北部の諸侯はヴェンデ人との抗争のため、参加には同意しませんでした。そこでベルナールは
彼らをエルサレムへではなく、ヴェンデ人への十字軍として参加するよう説得を試みました。
これは北部諸侯の利害に合致し、十字軍という大義名分も彼らを満足させませした。

1147年、第2次十字軍は開始され、エルサレム方面、ムワッヒド朝支配下のイベリア南部方面とチュニス、
トリポリ方面、そしてヴェンデ人居住地への四方面に進軍を開始しました。
ヴェンデ十字軍はドイツ北部とエルベ中流域の聖俗諸侯によって担われ、途中からはデンマークも参加
しました。彼らはヴェンデ人の頑強な抵抗に直面し、キリスト教に改宗させる目的は達成されません
でしたが、ザクセンは徐々に彼らに対する支配を強め改宗を強要し、やがてヴェンデ人はドイツ人と
の間で同化が進み、民族として滅亡しました。
同じ頃デンマーク王ヴァルデマール1世はヴェンデ人の一種族、リューゲン族の住むリューゲン島を
激戦の末征服、彼らをキリスト教化しました。

このようにしてヴィスワ川以西の地域はキリスト教世界となりましたが、その東のバルト東部世界は
未だ異教徒の住む世界でした。教皇は当然この異教徒達をもキリスト教徒に改宗させることを望み
ましたが、ドイツ人やデンマーク人も同じ熱意を持っていたのです。それは、純粋な宗教的動機
というよりも、十字軍に名を借りた異民族の征服を目指す欲得ずくの願望といえるものでした。
そしてその主力を担ったのが宗教騎士団だったのです。

(長文疲れました。続きは気が向いたときにカキコします…(^^;)
49世界@名無史さん:2001/06/26(火) 20:58
続き読みたい・・・
50世界@名無史さん:2001/06/27(水) 11:08
これは関係ありますか?
http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfahy603
51世界@名無史さん:2001/06/29(金) 04:30
>50
無いでしょ。
52世界@名無史さん:2001/06/29(金) 10:29
ドイツ産業連盟の会長とか、サッカーのリッティーとか、ドイツ人に「〜スキー」と
いう苗字が多いのはドイツ人が主にゲルマン人とスラブ人の混成民族だから。
同様に隣のポーランドもスラブ人とゲルマン人の混成民族で、
はっきりとしたドイツ系でなくともドイツ起源の苗字の人々も多い。
近代のロマン主義が、ドイツ人をゲルマン人、ポーランド人をスラブ人と
強制的に分けてしまい、その後の歴史の悲劇を招いた。
53世界@名無史さん:2001/07/01(日) 03:55
特にオーデル川流域はまじってるね。
54世界@名無史さん:2001/07/02(月) 18:21
ドイツ騎士団の北のほうにたしか「刀剣騎士団」なんてのがあったと思うけど
「刀剣騎士団」って何。またその国はどうなったの。
55世界@名無史さん:2001/07/04(水) 03:24
刀剣騎士団はドイツ騎士団と合体。
56世界@名無史さん:2001/07/04(水) 10:57
>>53
中世の西スラブ系はエルベ川流域やリューゲン島にまで達し、キリスト教に
改宗して(させられて)一部はドイツ人国家(神聖ローマ帝国)の住民になり、
また、近世までドイツ系はずっとポーランドからルーシにかけて移住していって、
スラブ系国家(特に分割前の近世ポーランド)の住民になってしまった家系も多いから、
混じり方の度合いはオーデル川流域だけが高いわけじゃなくて、
北ドイツや西スラブ地域全体がすべて混血度が高いそうです。
57世界@名無史さん:2001/07/04(水) 17:02
age
58世界@名無史さん:2001/07/09(月) 04:47
海岸沿いじゃなくて、ベラルーシあたりでもドイツ系は多いの?
59世界@名無史さん:2001/07/09(月) 10:09
>>58
ベラルーシは、昔のポーランド時代に農民階級だった人々、しかも
教育がなくてポーランド貴族階級の共通語であったポーランド語を
話すことの出来なかった人々が後にロシア圏に組み込まれた。
ベラルーシ語は昔からの農民階級の言葉でロシア語に近い東スラブ系の
言語。ドイツ系の移住も少なかった。
60世界@名無史さん:2001/07/09(月) 12:38
ゲルマン騎士団って重装甲しすぎで重過ぎて、
うごけなかったのよーん!!
61世界@名無史さん:2001/07/09(月) 13:12
>>60
ドイツ騎士団がポーランド騎兵軍に勝てなかったのはそのため?
62世界@名無史さん:2001/07/09(月) 15:28
>61
そういうこと。
63世界@名無史さん:2001/07/14(土) 09:48
>>61
ポーランド騎兵って軽装なの?
64世界@名無史さん:2001/07/16(月) 16:38
>>63
ドイツ騎士団を破った時(グルンヴァルドの戦い)のポーランド・リトアニア連合軍は、
重装備の騎兵(裕福な貴族)と軽装の騎兵及び歩兵(小貴族とくによく訓練された
軍人)と傭兵(タタール人などの、より軽装の騎兵)と農民兵(歩兵)で構成。
この中で主力は最初の二つだが、とくにタタールの乗馬術を学んだ軽装騎兵の
戦闘力はすさまじかった。屈強なポーランド貴族が連合すると
誰も止められないとまで言われた。
後の、両者の利点を生かしたフッサールは、欧州最強の騎兵群であった。
ポーランドの問題は、身勝手(当時は「ポーランドの黄金の自由」などと呼ばれた)な
貴族たちが多く、国家が求心力をなかなか持ち得なかったことで、それが後の時代の
ドイツ騎士団とプロイセンにつけいる隙を与えてしまった。
65世界@名無史さん:2001/07/16(月) 16:44
戦車に馬で突っ込んだのもそのイメージの強さゆえなんすかね?(;´Д`)
66世界@名無史さん:2001/07/16(月) 17:04
>>65
戦闘のたびに毎回やっていたと信じていたらそれはほぼ伝説。
だが、実際は2回だけ大掛かりな騎兵突撃があったらしい。
一度はワルシャワ近郊でドイツ軍撃退に成功。しかし対戦車砲を
抱えた師団だったので騎兵の突撃だけではない。
もう一回は北のほうの師団がドイツ軍の包囲から脱出するために
桶狭間ばりの奇襲突撃をして失敗。多くのの兵を失った。
67世界@名無史さん:2001/07/16(月) 17:25
2回確認されていて、1回成功してるってのは
人間の可能性を見せてくれている気がする(笑)
突撃した当人たちにとっては笑い事じゃないだろうけど
68世界@名無史さん:2001/07/17(火) 14:08
>>67
ポーランド軍戦車旅団は燃料確保の為か殆どルーマニア方面へ行ってしまって、
騎兵に戦車の支援がなかったのが悲しい。
6963:2001/07/19(木) 01:16
>>64
ありがとうございます。
フッサールってのはどんな騎兵なんですか?
70世界@名無史さん:2001/07/19(木) 04:55
ギコ・フッサールの名の由来でもあるのかな?
71世界@名無史さん:2001/07/19(木) 13:22
>>69
ポーランド式のフサールって緋縅にプレートメールをはったような鎧に
天使のような大型の金色の羽を背中につけて、金色の兜の頂点に大きな鳥の羽を
つけたスタイルを博物館で見たことがあるが、中世の重装騎兵ほど重装備でないし、
軽装騎兵よりはしっかりした鎧だったし、ポーランドのだって書いてあったので
あれがそうなんじゃないかな?
ソビエスキ王がトルコに包囲されたウィーンを救ったころの時代だよね。
72世界@名無史さん:2001/07/23(月) 14:53
>>71
見たこと無いが、かなりカッコイイんでないかい?
73世界@名無史さん:2001/08/04(土) 05:35
>>71
どこの博物館ですか?
74世界@名無史さん:2001/08/09(木) 04:28
なんでハンガリーから撤退したの?
75世界@名無史さん:2001/08/09(木) 10:32
>>74
王権に楯突いて土地の自治権を拡大しようとして追い払われた。
そこにたまたま異教徒征伐に苦労していたポーランドのマゾフシェ公コンラートが
援軍を探してて、そこへリクルート。
ところが奴らは、公が彼らに土地を譲ったというようなニセ文書をでっち上げて
教皇からまんまと土地の所有権(もともと教会ではそこはポーランド王国の
土地という事になっていた)のお墨付きを取ってしまい、その後何百年も
かの地に居座ることとなった。
これが1970年に旧西ドイツのブラント首相が両国国境線の最終確定に
同意するまでのドイツとポーランドの間の長い長い闘争の端緒となった。
76世界@名無史さん:2001/08/09(木) 10:34
>>71
その通り。
ワルシャワの戦史博物館にはあるかな?
77世界@名無史さん:2001/08/12(日) 01:59
>>75
酷い詐欺野郎どもだ。
78世界@名無史さん:2001/08/12(日) 04:50
>>75
それはポーランド民族主義史観の受け売りに過ぎるのでは?

ドイツ・ポーランド間の国境問題は、ドイツ騎士修道会(騎士団)に由来
するものだけではなく、12-13世紀のドイツ人(後のドイツ人もしくはゲ
ルマン人と言うべきか?)による東方殖民に関係するものもある。
その東方殖民は決して武力による征服というものではなく、むしろスラヴ
人の経済的利害に合致するものだった。
東方殖民により後のポーランドになる地域は、多大な利益を得ている。

また、ドイツ騎士修道会と当時のポーランド王国との対立を、即ドイツ人
対ポーランド人とみるのはあまりにも単純な見方。
例えばタンネンベルクの戦いにおける騎士修道会側の敗北の遠因には、
ポーランドとリトアニアが連合したことによりリトアニアがキリスト教化
し、騎士修道会の存在理由が損なわれたことにある。
加えてドイツ帝国(神聖ローマ帝国)などからの騎士の来援も、宗教的
情熱の冷却化により期待できなくなっていた。さらに修道会領内のドイツ
系住民とも深刻な対立を抱え(理由は時代遅れになった教会支配、こちら
も13年間にわたる反乱になった)、正に内憂外患状態だった。
こうしたことが戦いの敗北につながっている。
要するに時代の変化に押し流されたわけで、どちらが正義・悪という問題
ではない。
後世のゲルマン・スラヴ至上主義者達により、この戦いの実相は大きく歪め
られることになるわけだけど。

1960年代頃から、それまでのナショナリズムやイデオロギーのバイアスが
かかった固定的な見方に対する見直しが東西ヨーロッパの研究者達により進め
られており、それらの成果は日本にも紹介されてきているようです。
そうしたものを参照されると結構面白いのでは?
79世界@名無史さん:2001/08/13(月) 13:55
>>78
>その東方殖民は決して武力による征服というものではなく、むしろスラヴ
>人の経済的利害に合致するものだった。
>東方殖民により後のポーランドになる地域は、多大な利益を得ている

カジミェシュ大王の時代には、ドイツ人は各都市で自治権を求めて暴動を
起こしている。そこで考えた大王はユダヤ人を大量に招きいれ、彼らに
様々な優遇政策を与えた。ドイツ系の住民は、カジミェシュ法典を認めず、
ドイツ法典を基礎にして生活したため、財産権や商権などで他の住民と
多くの問題を起こしていた。ユダヤ人はカジミェシュ法典を遵守した。
問題は、大王が亡くなった後、徐々に宮廷の権力が衰え、各地の大貴族が
自分勝手に権勢を振るうようになってから。
また、ジグムント・アウグスト王は宮廷付きの司祭を殺しているが、この
ドイツ人司祭は、ポーランド宮廷及びグニェズノに大司教座をもつポーランド教会を
混乱させ弱体化させるためにドイツ系教会から送られてきた、今で言うスパイだった。

>要するに時代の変化に押し流されたわけで、どちらが正義・悪という問題
>ではない

しかしグルンヴァルドの勝利の後でも、ポーランド王国は寛容政策を採り、
ドイツ騎士団を臣従させるだけで、解体に着手することは無かった。
後のフリードリッヒ二世は、生涯この時代のことが頭から離れず、自分の王家の
存続は、ポーランドを究極まで弱体化させることでしか保証できないと考え、
対露・対スウェーデン交渉にいそしんだ。彼の遺言には、虫が葉を食いちぎって
行くように、あそこの街ここの村と、ポーランドを次々に侵食すべしという
主旨のことが書かれている。後のナチスまで続くドイツの対ポーランド政策は
この辺りで決定付けられていたのは明らかである。

>1960年代頃から、それまでのナショナリズムやイデオロギーのバイアスが
>かかった固定的な見方に対する見直しが東西ヨーロッパの研究者達により進め
>られており、それらの成果は日本にも紹介されてきているようです。

これらにも多分に現代の政治的要素が含まれていることをお忘れなく。
単なるリベラリズムや客観主義への模索とは言えない。
80世界@名無史さん:2001/08/13(月) 15:50
>>78
>東方殖民により後のポーランドになる地域は、多大な利益を得ている

例えばイギリスが自分の植民地政策を正当化するのに使う論法に良く似ているなあ…
81世界@名無史さん:2001/08/13(月) 19:38
>>79
極端なポーランド民族主義的主張だけど、君の情報源は何かな?
大学でもそんな風に教えられているの?

これ煽りじゃなく真剣な質問。
個人的に興味があるので、お暇な時にでもご教示くださいな。
82世界@名無史さん:2001/08/13(月) 21:13
>>79
どうも正面から応える形になっていないね。

都市における自治権獲得の暴動は、全ヨーロッパ的にみられたこと。
何も当時のポーランドに限った話ではない。
また、ドイツ騎士団のその後のエピソードも、タンネンベルクの戦いの
当事者に正邪の基準があてはまらないことの反論になっていない。

中世後期の世界を民族抗争と捉える見方はナンセンス、その事を伝えた
かったのだが。
ある国の歴史を学ぶ場合、一国史の観点からのみ知ろうとするのはバラ
ンスを欠くと思う。

>これらにも多分に現代の政治的要素が含まれていることをお忘れなく。
 単なるリベラリズムや客観主義への模索とは言えない。
具体的な例を紹介されたし。


>>80
12-13世紀の東方殖民は「ドイツ」という国が組織的に行ったものでは
ない。そもそも「ドイツ」国が存在していないから。
加えてドイツ人が入植した土地が、そのままドイツ領邦君主の領土に
なったわけでもない。
したがって、後の世の大英帝国の植民地支配と比較するのは無理がある。
入植地のドイツ人は、土地によってスラヴ化したり逆に周辺のスラヴ人を
ゲルマン化したりしたが、これも当時の人々が経済的利益を考慮した選択
の結果であり、「野蛮なスラヴ人の教化」とか「残虐なゲルマン人による
征服」など後の民族主義者達が使った言葉で括るのはおかしい。
また、生活の手段に西欧のやり方を導入しても、東欧の文化までが西欧化
したわけでもない。
83世界@名無史さん:2001/08/14(火) 00:59
東プロイセンて面白い形してますね。真ん中のへこんだ部分は何なんですか?
84世界@名無史さん:2001/08/14(火) 01:08
>>83
フリッシュ湖とクル湖のことですか?
85世界@名無史さん:2001/08/14(火) 01:19
>>84
いえ、タンネンベルクの敗北後、“エルムランド”と言われ地域が
ポーランド王国領に編入され、東プロイセンが不自然な形になっていませんか?
私は高校世界史用の地図を見ているだけなのですが...
86世界@名無史さん:2001/08/14(火) 01:49
>>85
ホントだ。
平凡社のカラー世界史百科でも「エルムラント」となってますね。
1466年の第2回トルン和約でポーランド王国領となったようです。
8779:2001/08/14(火) 10:39
>>82
>入植地のドイツ人は、土地によってスラヴ化したり逆に周辺のスラヴ人を
>ゲルマン化したりしたが、これも当時の人々が経済的利益を考慮した選択
>の結果であり、「野蛮なスラヴ人の教化」とか「残虐なゲルマン人による
>征服」など後の民族主義者達が使った言葉で括るのはおかしい。

あなたのその一文を引き出したかったのですよ。
とかく日本人であの地域に興味を持つ人は、一部研究者を除いては、
ドイツ民族史観に染まっているようだったので(2ちゃんねらーには特に多い)、
少し古典的なポーランド民族史観の立場で問題を相対化することが、
引用のような見解を引き出すのにもっとも有効だと思ったわけです。

ただ複雑なのは近代に入り、民族主義が台頭してくると、中世史とはまったく
違った構造になるところですね。
ここはドイツ騎士団のスレですから、例のニセ文書等々、一部の不正行為だけを
不正とすべきでしょう。
88コピペ:2001/08/14(火) 10:49
>>82
ドイツ侵略史観は、社会主義時代のバイアスを取り払いながら、
ドイツとポーランドの友好関係の維持のため、よりドイツ側の
事情にも配慮した形で歩み寄ってきただけで、消えたわけではない。
むしろ東欧史に関してドイツ史観が主流の世界に新しい視点を
与えるものとして見直されてきている。
現実の歴史では、ドイツは毎度侵略を企図し、ポーランドなど東欧諸国は毎度それを許している。
それらに対しては双方に様々な事情があったが、ポーランド側は自国の
歴史の反省材料とし、これからも再興する可能性のあるドイツ側の危険な思想に
対応できるようにするために歴史の再検証を始めている側面もある。
89世界@名無史さん:2001/08/14(火) 17:06
>>87
いや>>82はドイツ贔屓でドイツ側の悪業を糊塗するために
わざと一見ニュートラルな事を言ってるだけのような気がするな。
ドイツ人を擁護しすぎじゃない?
90世界@名無史さん:2001/08/15(水) 21:18
>>87
それはあなたの考えすぎだと思う。
ドイツ騎士団至上主義の流れではなかったこのスレに、いきなりポーランド至上主義
を持ち込んだあなたのほうに違和感をもった。
ヨーロッパに限らずある国の歴史を知ろうとする場合、一国のみの観点からみること
が不可能なのは明らか。
日本で当該地域を扱う書物も、第二次世界大戦の結果に伴う諸問題も含めて中立的な
記述をしている。
バルト三国の概説書については、読んだ範囲では対象国に思い入れが過ぎるような気
がしたが、本の性格上やむを得ないとも思う。

2chについては、掲示板の性格上そう目くじらを立てる必要はないのでは?
○○国対象スレなどで、少々身びいきが過ぎるのも大目に見てやりましょうや。


>>88
コピペにコメントするのも変だが、東欧と西欧の関係の伝統的な解釈を見直し、より
深化したヨーロッパ像を構築しようとする流れと捉えるべきでは。
全体主義や極端な民族主義の再来をいかに防ぐべきかについては、世界各国共通の
課題のはず。もちろん日本も例外ではない。


>>89
議論の流れをよく読むように。
曲解なさりたいのならどうぞご自由に。
91世界@名無史さん:2001/08/16(木) 23:16
あ、・・・やっぱり、ドイツ・ポーランド教科書問題に発展してたか・・・
92世界@名無史さん:2001/08/16(木) 23:46


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93世界@名無史さん:2001/08/17(金) 15:23
歴史的な経緯を正しく知ろうとしても、
ドイツ・ポーランド間の歴史認識の問題になってしまうので
なかなか冷静な視点でながめた歴史観というのはできにくい。
94世界@名無史さん:2001/08/17(金) 15:27
やはりポーランドに対するドイツ騎士団の抗争には
「やむにやまれぬ事情」があったとは思えないな。
かれらドイツ語族の東方への拡張政策には、もともとから
確信犯的な野望があったとしか思えない。
難しいよね。

ぼくも>>94氏の意見と、大体同じだが、それでもさらなる自己検察というか
ドイツ人の立場から見た、と
ポーランド人の目から見たの
両方の意見を正解とし、保留しなければと思ってる
96世界@名無史さん:2001/08/18(土) 07:34
ばかやろう>>95

おれは、小学校の道徳の先生か(藁)
97世界@名無史さん:2001/08/18(土) 07:38
ヘルマン・フォン・ザルツァが打ち立てた路線を
後継者が結構うまくやったから、ああも強力に
なれたんじゃないかな。
ヘルマンの発想が良かったのか。
98ベンゼン中尉:2001/08/18(土) 08:44
神聖ローマ帝国と聞いて、神聖な国なのだなあと思う俺がいた。
99世界@名無史さん:2001/08/20(月) 21:20
ほんとうに「神聖」って形容が不思議な国だ。
100世界@名無史さん:2001/08/21(火) 01:27
騎士修道会て言ったほうがいいね
101世界@名無史さん:2001/08/26 06:15
ヘルマン・フォン・ザルツァ 萌え〜〜(w
「北の十字軍」での描かれ方は確かにカッコイイ。
フリードリヒ2世とのコンビネーションってどうだったの??
なにか他に参考文献があったら教えて下さい。
102世界@名無史さん:01/08/27 00:21 ID:qU01Xw8Y
>>101     その本ってどこから出版されてるんですか?
103ななし:01/08/27 00:49 ID:4mnC72NI
山内進『北の十字軍』講談社選書メチエ、1997年。
104世界@名無史さん:01/09/07 01:08
 
105世界@名無史さん
あと、がいしゅつかも知れないが、阿部謹也著「ドイツ中世後期の世界」未来社、1974年
も挙げておこう。