エチオピアの歴史

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん
日本も古いがこの国もまた、ものすごく昔からある国だ。
第二次世界大戦で一時イタリアに占領されたことがあるが、それを除けばずっと存続している。
数十年前に廃絶されたが、この国にも王室があった。
日本の皇室は今、たぶん世界で一番古い王家だと思う(異論もあるかと思うが)
しかしエチオピア王家があった数十年前までは、日本は2番目で、エチオピア王家が世界で一番古い王家だったかもしれない。
ギリシャ神話に登場する国王ケフェスは、星座にもなっている。
最後の国王ハイレ・セラシエも、ケフェスの正統な子孫だったのだろうか。
自分の無知もあるかもしれない。この国の歴史について知っている人、なにか語ってくれ。

2名無しチェケラッチョ♪:2001/05/09(水) 00:24
ハイレって、日本人の花嫁募集したとか。
3世界@名無史さん:2001/05/09(水) 00:45
エチオピア戦争 軍板からの転載
「イタリアの国家的汚辱はアナトリア人の血でしか浄化できない」(1935年 ムッソリーニ)

峻険な地形と最強の「戦士」達によって守られたエチオピアは1000年以上
に渡ってアフリカで唯一侵略を許したことの無い特別な国家と見られていた。
約半世紀前「ヨーロッパの火力を持ってすれば、エチオピアなど恐るるに足
らず」と確信したイタリア軍はエチオピアのメネリクによって18000名中、エリ
トリアに撤退できたのは僅か5000名という屈辱的な大敗を喫していたのである。

「アドワの復讐を!!」
1935年再度エチオピアに侵攻したムッソリーニの新生ローマ軍団の兵士は
口々にそう叫んだ。
エチオピアに投入された軍は、植民地戦争用としては過剰とすら言える
総兵力20万、火砲700門、戦車150輌、航空機150機を数え、アジスアベバ
攻略を目指すエリトリア軍とイタリア領安定化を目的としたソマリランド方面
(ごく一部である意味有名なルドルフォ・グラツィアーニ将軍指揮)の2方向
から侵攻した。

10月3日エリトリアから侵攻したディ・ボーノ将軍はイ陸軍始まって以来の快
進撃を続けていた。エチオピアのセラシュ皇帝がイタリアの侵攻意図を図る
ため国境から1日以上の距離に全軍撤退を命じていたのである。
栄光あるイ軍の勝利は早くも訪れた。セラシュ皇帝の義弟であるラス・アグサ
を買収し1発も発砲することなくアジクラットを占領したのである。
しかし、国連(国際連盟)の制裁決議に焦るムッソリーニは消極的なディ・ボーノ
を更迭しバドリオ元帥を投入するが、イタリア軍の進撃は思うように進まず、
アジスアベバから驚異的な機動力を発揮したラム・イムルの軍に包囲され、
デンベグイナ峠を守る黒シャツ党員は殆どの火砲と戦車を失って潰走、マカ
レの補給基地まで押し戻され、イタリア軍総崩れの様相を呈していた。

侵攻開始から10日も経たずして、侵略者は左翼の補給基地を脅かされ、
右翼は総崩れ、指揮官であるバドリオは全滅の恐怖に襲われていた。
が、エチオピア軍はそれ以上攻撃しなかった。いや、出来なかったと言うべき
か、イ空軍の爆撃がエチオピア軍の前身を阻み、かろうじてバドリオは退却
することが出来たのである。

4世界@名無史さん:2001/05/09(水) 00:46
ケフェウス座のモデルって実在の人だったのか。
じゃ、妃のカシオペアや王女アンドロメダもいたの?
5世界@名無史さん:2001/05/09(水) 00:46
エチオピアは侵略者を撃退したが、勝利の喜びはすぐに嘆きに変わった。
激怒したムッソリーニは、予告無く恐怖の黒い雨をエチオピア軍に降らせたの
である。ガスマスクも毒ガスに対する知識も持ち合わせていないエチオピア兵
士はたちまち恐慌に陥り、自身に何が起こったのかも分からないまま倒れ伏し
ていった。
セラシュ皇帝は国連に抗議を行ったが、ムッソリーニは「毒ガス使用の事実
は無い」と嘯き、何ら実効的手段の取れない国連を前に、国際正義の無力を
噛みしめる事しかできなかった。
ムッソリーニは、後「殺傷力の無いガスだけ使った」と相変わらず国連を翻弄
し、以降、毒ガスは全戦闘期間を通じて使われたのである。

新たに2個師団の補充と重爆撃機を与えられたバドリオは侵攻を再開、大き
な戦果を挙げつつ前進したが、28日、側面予備を攻撃に投入するという僅か
な失策をを見逃さなかったラス・セイオームの軍によって軍団を分断され、
またも潰滅の危機に瀕する事になる。
このピンチを救ったのが脇役と見られていたソマリランドのグラツィアーニ将軍
であった。彼の軍団は要塞化され精鋭兵士によって守られていたエチオピア軍
の戦線を、機動兵力によって突破、逆にエチオピアの反撃は航空優勢で封じ
込め、1月に入って、ついにソマリランド戦線のエチオピア軍主力を包囲した。
エ軍兵士は懸命の脱出を試みたが、機動力に於いて遙かに勝るイタリア軍か
ら逃るる事はかなわず、次々と各個撃破されていくのであった。

2月、バドリオ元帥の大規模な攻勢開始、エチオピア軍に於いて最大の兵力を
誇る、軍務大臣ラス・ムルゲータ率いる軍を機動部隊によって包囲する。
しかし、この包囲に対し栄光あるエチオピア兵士は果敢にも正面突撃を敢行、
バドリオは包囲したほぼ全軍を取り逃がすという失態を演じた。
しかし直後にイタリアに寝返ったアゼブ・ガラ兵士によってムルゲリータの二人
の息子が討たれ、その息子を探しに出たムルゲリータ自身も空襲によって命
を落としてしまう。
この結果、一部の部隊を除き、兵士というより「戦士」の集団であったエチオピ
ア人部隊は、指揮官を失った事によりほぼ全軍が機能停止してしまうのである。

防衛戦を維持できなくなったエチオピア軍は退却に退却を重ねる、勝利に驕る
イタリア軍は急速に追撃したが、イタリア軍の意図を察したラス・イムルによって
エチオピア伝統の待ち伏せ戦術にかかってしまのである。
藪や窪みから飛び出したエチオピア兵に対し恐怖に駆られたイタリア兵は同士
討ちの失態まで演じる事になる。
しかし、この凄惨な白兵戦を最後に制したのは、信じられないことにイタリアの方
であった。
この絶望的な状況に於いて、ついに本気になったマカロニ兵は銃剣突撃でエチ
オピア兵を撃退したのである!!
しかしそこはイタリア兵、退却するエチオピア兵を追撃する余力はない。代わって
エチオピア兵に殺戮の雨を降らせたのは、またもこの戦争に於いて度々決定的
な役割演じてきた空軍であった。
6世界@名無史さん:2001/05/09(水) 00:46
弱い者にはとことん強いイタリア軍の伝統に従い(しかしイタリアより弱い軍はな
かなか存在しないが)、有力な対空兵器や空軍を持たないエチオピア軍相手に
その実力を遺憾なく発揮したのである。
退却は潰走に変わった、爆弾と毒ガスによって、セラクラクラ平原は実に数千の
エチオピア兵士の死体で埋め尽くされ、4万の軍でアジスアベバを発したラス・イムル
の軍は1000人以下に激減、こうしてエチオピア軍右翼は事実上消滅したのである。

その4 マイ・チューの戦いから王朝の黄昏

首都アジスアベバへ向かうイタリア軍に対し、エチオピア軍最後にして最強の部
隊は皇帝自ら率い、マイ・チュー宮殿に布陣していた。
かねてより近代国の軍隊に驚異を感じていた皇帝が、ヨーロッパから軍事顧問団
を招き、選抜したエリートに当時のフランスに倣った最高の装備をそろえさせ、
最高の訓練と士気を誇った親衛隊である。
親衛隊は3月31日マイチューを出発、エチオピア閣僚軍によるエリトリア人師団へ
の攻撃に続き、全戦線に猛攻を加える。
強力な野砲と火砲に支援された親衛隊はイタリア軍前線を大混乱に陥れ、エリ
トリア人師団とイタリア山岳歩兵師団を分断することに成功。エリトリア人師団は
崩壊寸前となる。
しかし、気まぐれな勝利の女神はここでセラシュ皇帝を完全に見放し、イタリアに
微笑むことになる。天候は急速に回復するとともに、イタリア空軍が空から戦場
を支配したのである。
とどめを刺すべく集結していたエチオピア兵を毒ガス、爆弾、機銃掃射が襲いか
かった。僅か2時間後、鉄の暴風が去った後残されたのは、総崩れとなって
全面撤退を開始したセラシュ皇帝の軍であった。
この戦争に於いて最大の激戦と言われるマイ・チューの戦いはこうして終わった。
エチオピア最強を誇る親衛隊の潰滅、そして皇帝自身の完敗という結果で。

4月5日:カロム、14日:デジー、25日:フィシェ、5月5日、ついにバドリオは首都
アジスアベバに入城した。
これに先だって、ジブチから外国へ脱出していたセラシュ皇帝は、6月30日ジェノバ
の国連総会に現れ、エチオピア救済を訴えた。
しかしこのセラシュ皇帝の最後の努力も実る事はなく、ムッソリーニのエチオピア
征服は黙認されることとなった。国連や世界正義はヒトラーやムッソリーニの増長
を止める術のない無力な存在であることを露呈したのである。
そしてこの時が、世界で最も長続きした王朝の消滅、そして最後のアフリカ人自由
国家が消滅した瞬間であった。  ■終了
7エチオピアの絵らしいのですが:2001/05/09(水) 04:27
なんだか、わかる人います?
http://piza.2ch.net/test/read.cgi?bbs=gallery&key=983228024
8世界@名無史さん:2001/05/09(水) 08:11
>>3,>>5-7
おお。凄い。
イタリアのエチオピア侵攻の詳細をはじめて読んだよ。
バドリオ、ここで活躍(笑)したのか。
9Cipher:2001/05/09(水) 09:30
戦後、皇帝は復位したんじゃなかったっけ?
その後、共産革命が起こって皇帝は死ぬまで囚われの身だったと
記憶しているが・・・。
ちなみにエチオピア軍は朝鮮戦争にも国連軍として参加しているが
評価は高かった。
10世界@名無史さん:2001/05/12(土) 07:57
ハイレは革命の翌年に亡命先のイギリス(国名はあやふや)で
死亡。

エチオピア王家は伝説ではソロモン王の子孫ということになっている。
自称三千年続いている王家だった。スペインみたいに王政復古しないのかね?
11世界@名無史さん:2001/05/12(土) 08:38
>>10
おいおい。エチオピア周辺は今ホットな状況
(特にソマリアがらみ)で王政復古のめなんかないよ。
板違いだけど。下参照。↓
http://www.lycos.co.jp/htmlads/roadmap.html
12世界@名無史さん:2001/05/12(土) 11:34
ラスタファリズム燃え〜
13名無しさん@1周年:2001/05/12(土) 12:21
エチオピアとエリトリアって仲が悪いねえ。

ハイレ・セラシエは確か自伝(ただの伝記だったかも)を書いてると思う。
14Cipher:2001/05/15(火) 10:58
>10 情報ありがとお。共産主義者に囚われたのはイタリアに追い出された皇帝の子孫か。
15世界@名無史さん:2001/05/15(火) 11:59
>>10
コラコラ、ハイレセラシエは逮捕されてから亡命なんか
してないぞ。監禁されたまま、アジスアベバで死亡。
殺害説もある。
パーレビと混同してないか?

>>14
子孫でなくて本人。
16世界@名無史さん:2001/05/15(火) 13:54
>>2

前テレビで黒田侯爵家との縁談が持ち上がった時の話をやってたぞ。
黒田侯爵は黒田宮兵衛とか長政とかの子孫。
1710:2001/05/16(水) 00:03
>>15
スマソ。イギリスに亡命したのはイタリアに追い出された直後の
大戦中のことだったな。
18名無しチェケラッチョ♪:2001/05/16(水) 00:10
>>16
公募でしたけ?
19世界@名無史さん:2001/05/16(水) 03:02
>>18

どうだったっけか。よく覚えてないけど・・・
20αジョーカーω:2001/05/20(日) 00:44
私はアラハム語が解かるよ。
21のーやん:2001/05/20(日) 01:00
>18・19
確かに公募です。2・3年前に新聞でその特集記事を読んだことがあります。
22>20:2001/05/21(月) 01:47
アラハム語ォ?  ワラ
23世界@名無史さん:2001/05/22(火) 00:07
大正末期、関東大震災の時、エチオピアは真っ先に
日本に救援物資を送ってくれたって以前何かの本で
読んだような気がするんですけど。

第2次大戦後、敗戦国日本に最初に公式訪問したのが
エチオピアの王室だったってことも書いてあったような。

要するに、日本はその後経済大国と呼ばれるようにな
ったわけですが、苦しい時にエチオピアが手を差し伸
べてくれたということを日本人は忘れてはいけないっ
てことが書いてあったような気がします。(私の記憶
があいまいだが)

それ読んだ時ちょっとショックでした。エチオピアと
いえばマラソンのアベベくらいしか知らなかったから。
それと昔はアビシニア王国ってよ呼ばれていたとか。
24世界@名無史さん:2001/05/22(火) 02:49
わしはアムハラ語がわかるよン
日常会話程度ね。
25名無しチェケラッチョ♪:2001/05/22(火) 10:50
18です。
>>21
詳細情報教えて君。
26世界@名無史さん:2001/05/22(火) 18:47
>15
日本の皇室同様に神聖視されてたから、皇帝の「復活」を怖れて
大統領執務室の机の下に遺骸を埋めていた、ということを聞いて
たけど、ソースはなんだったけな〜?
27世界@名無史さん:2001/05/22(火) 19:32
>>26
わしは92年頃のNews WeekかBBC Focus on Africaでみた気がする。
内戦が終わって骨が出てきたと。。
28おや:2001/05/22(火) 23:49
>>24
鈴木くんかい?
29世界@名無史さん:2001/05/23(水) 01:41
>>28
ちゃいます。
そういうあなたは佐藤さん?
30トキオ:2001/07/24(火) 17:13
>>23
そのエチオピアの義侠心に感動した高知県の和菓子屋さんが、
「エチオピア饅頭」を発売、いまでも売られている。
ただの黒糖のまんじゅうなんだけどね。
広末涼子の大好物だとか。
31世界@名無史さん:2001/07/26(木) 03:42
日吉のラスタは賛否両論だ。
32梵阿弥:2001/08/17(金) 13:58
>5 ムッソリニの言葉の「アナトリア」はおかしい。アナトリアは小アジアの事。
たぶんアビシニア(地域名)と言ったのだろう。イタリアとしては国家の名前を使いたくなかったのだろう。
5−7はコマンドマガジン日本版の丸写し。誤植?迄忠実。
ハイレ セラシエ は三位一体という意味だそうだが、エチオピア教会は単性論なので不思議だ。普遍宗(カトリック)のイタリアとの妥協の現れだろうか?。 
33世界@名無史さん:2001/08/18(土) 10:21
エチオピア人って人種的にはニグロイドだけど
言語はセム系なんだよね!?
34世界@名無史さん:2001/08/18(土) 19:48
今、エチオピア人と同居してるけど、アマハリック語って言ってるよ。
日本じゃアラハム語なんだろうか?
エチオピアで「おしん」を見たと感動してたぞ。
35高知出身・世界@名無史さん :2001/08/19(日) 17:55
>30
エチオピア饅頭、わたしも大好き!あれはウマーです!高知空港でも売ってる。
売ってるのは近森大正堂 高知県香美郡野市町西野1993−3
        0887−56−0350(全国発送可)
「エチオピア饅頭のしおり」によると、
 高知県香美郡野市町あたりは黒糖の産地で、これを使った黒糖饅頭を大正時代に店主が作り始めた。
 その10数年後、エチオピアはイタリアの侵略をうけたが、勇敢に迎え撃ち、苦戦のうちに撃退したとのニュース映画を見た店主が感動し、店の饅頭の名を「エチオピア饅頭」に改名。
 平成8年には駐日エチオピア大使アーメット・マハディー氏とザイナバ夫人が店を訪問。日本ではじめてエチオピア国より公認を受けた菓子となった・・。
36世界@名無史さん:2001/08/19(日) 18:01
日本語ではアムハラ語。
あの文字の書き順がよく分からない…。
37世界@名無史さん:2001/08/19(日) 18:16
>>32
カトリック宗はキリストに神性と人性との二つを認める両性論。
単性論と言うのはキリストの神性のみを認める考えであって、
エチオピア教会は三位一体の単性論派だから、別におかしくない。
38梵阿弥:2001/08/20(月) 12:43
>>37
神学ってのはややこしくて。

アムハラ人は紀元前にイエメン辺りから移ってきたセム系で、
縮れた髪やめくれた唇といったネグロイドの特徴がほとんどない。
肌が黒くなったのは強い日差しへの適応といわれてます。
39世界@名無史さん:01/09/03 02:36 ID:o7Kr6Pyo
エチオピア皇室と日本の華族が婚約していたんだがね。
黒田子爵令嬢だっけか
40世界@名無史さん:01/09/03 09:39 ID:OD07GBhU
ハイレ・セラシエ帝はリジヤスとかいう正統な皇位継承者を
蹴落として即位した簒奪者であって、それ以前の皇室との繋がりも
あやしいとか聞いたけど、ほんと?
41梵阿弥:01/09/03 11:33 ID:PgBKzc4E
1855年ゴジャム辺りの侯カッサが諸侯を倒し皇帝の軍も破りエチオピア
教会の下で皇帝に即位、テオドロス2世。80年ほど皇帝とは名ばかりで親王
皇帝とか言われていたらしい。アムハラ人貴族はみな同属とか言って血脈の
点は切り抜けたらしい。首都ゴンダル。
42   :01/09/03 18:48 ID:1nSXVm5k
43世界@名無史さん :01/09/03 21:49 ID:9sGZsAh2
>>11さんは、特にソマリア・エリトリア絡みで
政局不安定だから帝政復古はありえないって書いてるけど、
逆に政局が不安定だからこそ帝政復古が行われる可能性はないのかな?
たしかハイレ=セラシュ帝の孫か曾孫かが、
力をつけてきてるんじゃなかったっけ?
44世界@名無史さん:01/09/04 21:06 ID:vMlrUWbs
>>41詳しく教えてください。
45梵阿弥:01/09/05 13:33 ID:nVC4MZmc
1865年ショア地方の王だった父をテオドロス2世に殺され監禁されていたメネリクが脱出し
ショアに戻る。
1867年中央集権化進め戦い続けるテオドロス帝だが、ブリテンに援助増額頼むも返事が
つれないと怒り、ブリテン領事らをマグダラ砦に監禁。救援のブリテン、インド連合軍
3万2千がエリトリア地方のズラに上陸。ティグレ侯カッサら反皇帝勢力と共に進軍。
1868年攻囲されたマグダラ砦でテオドロス帝自殺。領事ら連れてブリテン、インド軍は
撤収するがティグレ侯カッサに武器を分け与えた。
ゴジャムの実力者ゴバゼが皇帝を名乗る。タクラ・ギヨルギス2世だが自称皇帝とされる。
4644:01/09/05 14:51 ID:nR1JEP2k
>>45

ありがとうございます。
結局、エチオピアの万世一系というのは学術的に見て
正しいのでしょうか?疑わしいのでしょうか?
王室の系譜や在位年数なんかが記されたサイトや本ってありませんか?
4744:01/09/05 15:22 ID:nR1JEP2k
あと、ハイレ以前の王って黒人じゃないの?
48梵阿弥:01/09/06 16:55 ID:goLWIiwc
1868年メネリクはショア王を名乗り自称皇帝タクラ・ギヨルギス2世の王子となり互いの地位
 を承認するがティグレ候カッサは反発し内乱となる。ブリテン譲りの兵器を生かし健闘。
69年スエズ運河開通し紅海沿岸の戦略価値急浮上。
70年イタリアがローマ占領しイタリア統一が一段落。
71年ギヨルギス帝廃位。イタリアがローマ遷都。プロイセン王ヴィルヘルムがドイツ皇帝に
 即位し統一。
72年カッサが皇帝に即位しヨハネス4世。メネリクは権威を認めるが事実上独立。内乱続く。
>>47
前のほうに皆さんでいろいろ書いてありますよ。ともあれこの時期は簒奪者ばかりですな。 
49世界@名無史さん:01/09/27 22:58
あげ
50世界@名無史さん:01/10/02 21:01
51世界@名無史さん:01/11/01 01:35
サルベージ
52世界@名無史さん:01/11/01 01:51
子孫は残ってるの?
53世界@名無史さん
天皇と結婚してればなぁ〜