ティムールについて教えてください

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1世界@名無史さん
チンギス・ハンの子孫を自称したそうで。
また古傷のせいで右足が不自由だったとか。
いったいどんな人物だったのでしょうか??
2シャールフ:2001/03/28(水) 00:59
チンギス・ハーンの子孫とはいってません。
先祖が同じとは言いふらしましたが・・・
でも、結婚して婿養子になりました。(エッヘン

負けても負けてもへこたれません、最後に勝つ!
偉大な父です(でも僕のこと嫌ってました)
3ウルグ・ベク:2001/03/28(水) 02:04
チャガタイ・ハーン家の末裔とされる人物を保護しました。

お祖父ちゃんがもう少し長生きしてたら、世界の歴史と
僕の人生も変わってたろうに。
4世界@名無史さん:2001/03/28(水) 21:15
オスマントルコを破りました。
5シャールフ:2001/03/28(水) 22:01
>4
その時私と父は将棋(インド将棋)を指してました。
それでも楽勝でした。

>3
我が息子よ、折角皇帝になったのに、自分の息子(ワシの孫)に
殺されるとは情けない。
アラーを軽んじ、学芸、天文なぞにウツツをぬかすからじゃぞ。
6ウルグ・ベク:2001/03/30(金) 17:59
>>5
何を仰ります、敬愛する父上。
私が道楽で…‥否、アラーへの信仰を遍く広める為に建てたレギスタンの
メドレッセや、万物の理を明らかにする為に建てた天文台は、今も観光資
源としてサマルカンドに貢献しておりますぞ。
7シャールフ:2001/04/01(日) 22:55
息子よ、そなたの道楽のおかげで確かに我が帝国の文化の高さを後世に
伝える事が出来たのう
それにしても我が一族はムガール朝を含めて、文化的に多大な貢献をし
たのに、東方の島国の民の知名度は低いのう。
やはり、我が父がオスマントルコなぞかまわず東進して明を成敗してお
れば知名度は今より上がったかのう?
8Cavabien:2001/04/02(月) 21:41
どうやらご本人はいらっしゃらないようですね・・。
顔出しNGとかなんでしょうか。
シャー・ルフはティムール死後の混乱によって割拠状態に陥った領土を
再び統一した英傑、またウルグ・ベクはシャー・ルフの後を継ぎ、統治
能力には難があったものの多くの建造物を残してティムール朝の文化を
後世に伝えました。(当の本人達の目の前でアレですが敬称略)

時間があればティムールについてまとめて書きたいのですが、年度開始の
処理で大忙しなので、書くとしてもかなり後になると思います。
もっとも、素人の駄文を待たなくてもとりあえずティムール本人とその
征服事業については
講談社現代新書『中央アジアの歴史』
河出書房新社『世界の歴史 西域』
の二冊を読めばよく解ると思いますので、そちらを探してみる方が
良いかもです。
9バヤズィト:2001/04/03(火) 03:53
く……ティ、ティムールのせいでコンスタンチノープルの
陥落を見ることができなかったではないか!!

あやつなぞこっちに来ず、明王朝とでも戦っておればよかったのじゃ!!

責任取れゴルァ
10 世界@名無史さん :2001/04/03(火) 03:55
頭でけー
11世界@名無史さん:2001/04/03(火) 13:49
「わが墓には災いが封じ込められている。わが墓穴を暴くものに戦争が起きる」

うろおぼえでシェイクスピアとごっちゃになりましたが、たしかソヴィエト科学アカデミー
がチムールの墓を暴いたのが、1941年6月20日だか21日。

6月22日独ソ戦勃発。
12世界@名無史さん :2001/04/03(火) 15:25
>11
世界不思議発見か何かでその映像見たが、あれはヒドイ。
棺にハンマー落として叩き割ってた。
そりゃバチがあたるわって思いました。
13ウルグ・ベク:2001/04/10(火) 04:31
>>7
ガージー上がりのオスマンどもなぞ鎧袖一触だったようですが、
忘恩の徒トクタミシュめの討伐に思いのほか手間取ったことが、
後々ひびいたように思われまするが。
14シャールフ:2001/04/11(水) 01:10
>>13
トクタミシュは逃げ足だけは速かったからな(藁
せっかくキプチャック汗(当時はすでに白羊汗国)のハンにしてやたのに
しかしヤツに決定的打撃を与えたテレク川の一戦は我が父の数ある勝利の
内でもことのほか見事なものだったのう。
これぞ機動戦って感じ。

しかし、時間的にいって我が父が明に関心をもったのは、その後のインド
遠征前あたりであろう、この時期にモグリスタンハーン国に遠征の為の
拠点作りや食料の備蓄を命じておるからな。
だから、デリーより帰還した後に対明遠征のつもりだったのだろう。
されど、わが兄のせいでペルシャに反乱がおこりやむを得ず7年戦役
となたのではないこのう。
15異邦人さん:2001/04/16(月) 07:43
>>14
なるほど、1397年に来朝した明の使者に帰国を許さなかったのは、
対明遠征をにらんでの事だったのですね。
16ウルグ・ベク:2001/04/18(水) 02:40
支那側の記録によると、洪武帝の時代(1387年)に早くも使者を
派遣しておられたようなのですが、モグール・ウルス攻略を睨んだ外
交的布石は当然としても、後の対明遠征が意識上にあったかという
点については、父上はどう思われまするか。
17世界@名無史さん:2001/04/18(水) 18:42
a
18シャールフ:2001/04/18(水) 22:23
>息子よ、我が父の夢とは何ぞや。
それは、エケ・モンゴルウルスの再興ぞ。
で、あるならば、対明討伐は当然ぞ。
されど、若いころあれだけ無茶をした我が父も、
マワル・アル・ナハルのアミールとなってからは
常に勝てる状況のもとでしか戦をしなくなったのだ。
その為に、商人を優遇し、各地の情報収集に心がけたではないか。
又、父のとってかけがえのないもの、マワル・アル・ナハルの
安全が何よりも優先した、故に宿敵モグリスタン・ハーン国の
服従、ペルシャの征服、キプチャック草原の友好的安定が何より
も重要な仕事だったのだ。
それら諸問題を解決した時、始めて我らモンゴルの宿敵、異教徒
明に対するジハードを決意なさったのではないかの。
ワシはそう考えているのだがのう。
19NASAしさん:2001/04/19(木) 14:24
ティムール一家、血縁の説明ください。
20おサル:2001/04/19(木) 16:59
確かムガール王朝開祖のバーブル帝がティムールの6代目じゃなかった?
間違っていたら正確なこと教えて。
21Cavabien:2001/04/19(木) 20:13
シャー・ルフはティムールの四男。ティムール王朝の三代目です。
(ちなみに二代目は三男ミーラーン・シャーの長男ハリール・スルターン)
ウルグ・ベク(ベグ)はシャー・ルフの長男。ティムール王朝の四代目です。
バーブルはティムールの三男ミーラーン・シャーの子孫で、数えて六代目に
あたりますね。
22世界@名無史さん:2001/04/20(金) 09:37
>>21
ティムールの兄弟っていないの?
あと長子、次男の名前もきぼんぬ。
23ハーラ:2001/04/20(金) 09:47
モンゴルって、死者の生前の意見は重視されない文化だった。
だから、遺言で後継者を決めても必ず後継争いが起きる。
後継者争いを起こさない唯一の方法は、生前に後継者を決めて、
先帝が生きている間に後継者が完全に権力掌握を行なうしかなかった。
でも、モンゴルでは毒殺などによる暗殺がかなり横行していて、
突然死するハーンが多かったので、モンゴル帝国はその成立から
崩壊まで絶えず後継争いで混乱していた。
ティムール帝国もその文化を受け継いでいるようです。
24シャールフ:2001/04/21(土) 00:53
>>22
ワシも父の兄弟は知らんのじゃ、スマソ

我が一族こ系譜をチョト書いとくと。
チンギス・ハーンに仕えた八十八の功臣の1人バルラス族の族長
カラチャルが我が一族の祖といわれとおる
カラチャルはチャガタイ・ハンの付属武将としてサマルカンド
南方のキシュ(ケッシュ)を与えられ、ここが我が一族の根拠地となった。
その後、4世を数え祖父タラガイ、祖母テキナの間に父ティムール(鉄の意味)
が生まれた、時に1336年4月8日(11日の説有)
その頃はすでに我が家も落ちぶれて従者は2・3人しかおらなんだとか。

続きはまた何時かな。

我が兄の件だが、長兄はジャハーン・ギール、次兄はオマル・シャイフ
じゃな、特に長兄ジャハーン・ギールは我が父が最も愛した息子であった
そうな、されど惜しむらくは若くして死んでしまったのだな。
それに引き換えワシは兄弟の中で最も父から嫌われておったぞ。
若い頃の遊興と、長じてからは余りにもイスラムに傾注しすぎるとの事
でな。
251:2001/04/22(日) 14:54
皆様、情報ありがとうごございます
26世界@名無史さん:2001/05/29(火) 21:43
8にあげられたもの以外の日本語資料ってないですか?
27Cavabien:2001/05/29(火) 21:53
別スレからのコピペで恐縮ですが。

北海道大学図書刊行会『ティームール朝成立史の研究』加藤和秀

基本的に論文を一まとめにしたといった感じで、読みやすさには
少し欠けますが今ひとつマイナーなティムールとその王朝の事績を
知るには欠かせないかと。
28ウルグ・ベク:2001/06/22(金) 04:12
私や祖父の遺体が眠っていたグル・エミール廟が、ソ連の学術調査隊に
暴かれたのは1941年6月21日でありました。

「ティムールの墓に手を触れる無かれ。触れなば戦が捲き起こらん」
という警告を無視したばかりに、彼らは翌日から数年の長き戦に苦しん
だのでした。

……な〜んちってね。(^^)
29世界@名無史さん:2001/06/22(金) 04:48
 >>28
ではあの二千万人を超える死者は
実はティムールのせいなんですね(藁
30世界@名無史さん
>>29
いやいや、警告を無視した学術調査隊のせいだろう。