837 :
女鉄砲隊:
「伊達文書」には、三春御前率いる女鉄砲隊が、政宗の父輝宗
を誘拐した二本松義継の一行を一斉射撃で皆殺しにした
と言う記述が残っている。
さらに「当代記」に登場している池田せん女は、
二百人に及ぶ女鉄砲隊を従えていたと言う。
838 :
鉄砲は女性用:2006/05/27(土) 19:01:22 0
弓矢は男性用品、鉄砲は女性用と区別が在ったせいとも考えられる。現在の人には理解しにくいだろうが、女性軽視の中国の儒教が輸入される迄の日本は、男女同権どころか女性優位で、戦国時代も女武者や女武将が多かったのである。
秀吉の時代でも女城主は珍しくなく
「桃山城普請割当表」や「朝鮮征伐名護屋御陣着例表」等にも女大名の名は散見している。
839 :
侍女をもって鉄砲隊を編成:2006/05/27(土) 19:02:29 0
鉄砲が日本に輸入されると「これはよい、これならば女ごの身に誂えむきじゃ」と、それに着目したのが、九州筑前立花城主戸次鑑連(べっきあきつら・入道後は立花道雪)の一人娘げんであった。
女城主として年下の婿を迎え立花宗茂と名のらせたが、げんは九州が輸入火薬の入手が容易だったから、侍女をもって鉄砲隊を編成した。
しかし一発ずつ装薬を作っていてはまだるっこしいと、高良山合戦から、細竹の寸を詰めて輪切りにし、藤蔓で繋いで襷とした。
現在の雷管と弾頭のようなものを竹に前もって作っておき、ガンベルトを肩に掛けさせたのである。
840 :
立花早撃ち女ご:2006/05/27(土) 19:03:17 0
清正でさえ怖れをなしたのは「緒戦(はな)は立花早撃ち女ご」と当時、この女武者の早撃ち隊は九州で有名だったからである。
これから女の勢揃いを「花はたちばな」と呼び、今は茶摘み唄に転化されている。ポルトガル語で硝煙のことはチャーと言うから♪♪♪「花はたちばな〜茶の香り」の歌は「緒戦は、げん女の銃撃で戦場は硝煙が立ちこめ手を焼いた」との意味にもとれる。
が、このため弓矢に比べ鉄砲はどうしても次第に軽んじられた傾きがないでもない。
841 :
立花げん女:2006/05/27(土) 19:04:47 0
女鉄砲隊をもって九州を席巻し「旧柳川藩志」にも「関ヶ原役にて西軍破れ立花宗茂は柳川の正北方一里半の鉢院に鍋島勢を防ぐも敗退す。
この時立花げん女、紫おどしの鎧をつけ、侍女二百の女軍をもつて宗茂を庇う。
為に鍋島勢進めず。援軍として加藤清正きたる。清正もげん女の軍勢に辟易し瀬高よりは別路をとって白鳥へゆく」と出ている。