世界史上の幕府(みたいな政権)

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1世界@名無史さん
正当王朝の下で実質政権を握って安定していた軍事政権(最低二代)って、
日本の幕府形態以外にほかにもいっぱいあるのでしょうか?
2世界@名無史さん:2001/02/22(木) 22:00
ブワイフ朝。

書き逃げだ!
3世界@名無史さん:2001/02/22(木) 22:02
詳しくは知らないのだけれど、イスラムのカリフとスルタンの関係が、
割と近いのではないかな。
詳細については、中東史というか、イスラム史に詳しい人からどうぞ。
それと、変換ミスだろうけど「正当王朝」ではなく「正統王朝」だろう
な、普通の表現では。
4ラジオネーム名無しさん:2001/02/22(木) 22:10
元寇の前の時代の高麗も武臣政権って書いてあったよ。
江華島に首都機能があったって。
5:2001/02/22(木) 22:25
どもども早速レスありがとうございます。
>>3
正統ですね。失礼しました。
皆さんの仰るとおり、イスラムのカリフとスルタン、その前の大将軍(ブワイフ朝)は近そうですね。
僕の浅はかな高校世界史の知識でもここまでは記憶があります。
そのほかにも幕府政治(みたいなの)は結構合理的だと思うのでありそうですよね。
詳しい人教えてください。
よろしくお願いいたします。
6世界@名無史さん:2001/02/22(木) 22:34
ハザール王国も、権威者の王と、実権・兵権を持つ権力者は
別になっていたそうだ。
7名無しさん@1周年:2001/02/23(金) 00:51
高麗に武臣政権ってのがなかったっけ。
13世紀の前半だったかな。

>>3
イスラムっていってもアッバース朝末期の話。
ブワイフ朝の大アミールと次の大セルジューク朝のスルタンは、
バグダードのカリフからその称号を与えられて、
バグダート周辺を含むイラク地方をカリフにかわって実効支配した。
しかし、大セルジューク朝崩壊以降は各地の支配者たちも
次々に(アッバース朝カリフの承認を得て)スルタンを名乗るようになっている。
カリフ自身も大セルジューク朝が滅びるとモンゴルに滅ぼされるまで
自らバグダート周辺を支配していたようだ。
アッバース朝滅亡後はその遺族がエジプトに逃れて、
マムルーク朝の庇護のもと名目的なカリフとしてマムルーク朝君主の上に置かれ
16世紀にオスマン朝がマムルーク朝に滅ぼされるまで残った。
これも幕府的政権と言えるかも。
8世界@名無史さん:2001/02/23(金) 09:33
西ローマ滅亡後中世のほとんどの政権はそうでしょう。教皇=皇帝、諸侯の二重構造。
9世界@名無史さん:2001/02/23(金) 10:04
>>8
「教皇=皇帝」は、ちょっと違うんじゃないか。
10世界@名無史さん:2001/02/23(金) 12:25
>7
>オスマン朝がマルムーク朝に滅ぼされるまで残った。
逆でしょ。
11あやめ:2001/02/23(金) 13:19
グルカ朝ネパールはイギリスとの抗争に敗れてから国内の権力闘争の結
果、1846A.D.ジャン-バハドゥールが実権を把握するに至り、以後は彼
のラナ家が宰相として事実上の統治権を行使しており、英印当局からは
名義上の王は国王殿下、宰相は大王殿下の称号を承認されていました。
1950A.D.になって民主化運動が激化し国民会議は国王を擁し革命を起こ
し、ラナ家を打倒し名目的な王政復古=コイララ政権が成立しました。
12名無しさん@1周年:2001/02/23(金) 13:30
ブータンって国王とラマ教大僧正が江戸時代の将軍−天皇のような関係
だって聞いたことがあるけど。
13世界@名無史さん:2001/02/23(金) 13:32
あ、そういや、インドのムガール朝も末期には皇帝は名のみで、
英国東インド会社に実権を握られてた。
14あやめ:2001/02/23(金) 13:46
雲南の大理国では1082A.D.に楊義貞の簒奪を高升太が覆し段氏が復辟し
ましたが、実権は高氏の手中に帰し一旦は升太が登位し「大中國」を建
てました。しかし各地の領主が服従せず次の高太明は1096A.D.に段氏に
譲位し「後理國」として再興しました。ただ実質上は高氏が統治の実権
を掌握しており、その封地では「中國公」と号し殆ど独立状態であった
上、大理国の相として全国を支配しており鎌倉幕府と似た地位に在りま
した。
15あやめ:2001/02/23(金) 13:58
マラータでも国王よりも宰相のペーシュワーたちの方が知られていて、
国王の存在感はきわめて希薄です。
16世界@名無史さん:2001/02/23(金) 14:46
>>15
あやめさん、たまにはヨーロッパ史の方にも来てくださいね。
17あやめ:2001/02/23(金) 15:15
ヨーロッパだったらフランクの宮宰でしょうね、軍事政権といえるかどうか別として。
18:2001/02/23(金) 15:56
17世紀のオスマン朝大宰相、キョプリュリュ家ってのもありかな。
17・18世紀のオスマン朝では大宰相が宮廷から独立して
実質的な政権を担っていたのだけど、
1656年から1683年までの27年間に
キョプリュリュ・メフメット・パシャ、
その息子のファーズル・アフメット・パシャ、
メフメットの娘婿カラ・ムスタファ・パシャ…
とキョプリュリュ家が3代続けて大宰相を務めた。

>10
あ、その通り。
てにをは逆とは…恥ずかしい間違いだな。
19三国志ファン:2001/02/24(土) 17:28
後漢の末期の曹魏とかそのまた末期の司馬晋とかはどんなものよ。
詳しい人教えてよ。
20世界@名無史さん:2001/02/24(土) 17:37
>>19
三国志・戦国板へ逝け。
21世界@名無史さん:2001/02/24(土) 20:08
教皇=天皇
神聖ローマ皇帝=征夷大将軍
その他の国王&諸侯=大名&旗本
22T・S:2001/02/24(土) 21:05
 大昔、ちらっと見たTVに、ポーランドのフラシュタとか言うのに「武士階級」
などと当てて読んでいたが・・・・・・。

 
23世界@名無史さん:2001/02/24(土) 23:33
>19
秦が周王朝を滅ぼさなかったら、
あるいは曹魏が漢王朝を滅ぼさなかったら、
天皇制みたいになってたりして。
24世界@名無史さん:2001/02/24(土) 23:35
春秋時代の周王も天皇みたいなものかもしれないな。
25世界@名無史さん:2001/02/25(日) 10:30
・政治的正当性を担保する「権威」(往々にして宗教的権威多し)
・実力を持つ「権力」
との二重構造をもっているなら、
すべて幕府的政権といえるでしょう。

中国は易姓革命思想があるから漢代以降は成立しにくいし、
スルタン=カリフ制以降のイスラム世界も無理。
教皇権の失墜した以後の西ヨーロッパも難しいから、
それ以外のところにあるか?
26世界@名無史さん:2001/02/26(月) 00:36
カザール帝国のカカンとベク。
27世界@名無史さん:2001/02/26(月) 00:47
>>26
もう少し詳しく解説ください。
28世界@名無史さん:2001/02/26(月) 03:41
カカンが天皇でベクが将軍みたいなもんだってんだろ。
29世界@名無史さん:2001/02/26(月) 09:27
>>28
もう少し詳しく説明してください。
30名無しさん@1周年:2001/02/26(月) 11:22
31日本@名無史さん:2001/02/26(月) 12:09
>>19
>あるいは曹魏が漢王朝を滅ぼさなかったら、
北方『三国志』
32単なる思いつき:2001/02/26(月) 13:59
ビザンチンとかエジプトとか、王朝の歴史が長いから、
調べたら「天皇・将軍」みたいな時期ってありそうだな。
詳しい方おられませんか?
33世界@名無史さん:2001/02/26(月) 14:12
>32
ビザンティン帝国の場合、何世代も続けて「影の実力者」の家系
という例はあまりありませんね。なぜかというと、この国では、
実力のある人はクーデターを起こして帝位につくか、逆に排除さ
れてしまうかのどちらかになるので。
34世界@名無史さん:2001/02/26(月) 14:37
ものすごく拡大解釈をすれば、ローマの場合、元老院≒天皇、皇帝≒幕府 と言えないこともない。
初代のアウグストゥスは元老院から「征夷大将軍」に任命されたようなものだ。
35世界@名無史さん:2001/02/27(火) 00:14
ヴァルダナ帝国皇帝とタイタニア無地藩王の関係(藁
36世界@名無史さん:2001/02/27(火) 16:14
>>35
誰も知らんぞ、そんなどマイナーな国
37世界@名無史さん:2001/03/01(木) 19:42
>>4 >>7
高麗武臣政権
高麗の支配は両班(ヤンパン)といわれる文武の官僚によってなされましたが、
文臣が腐敗し、武臣の不満が高まります。
そして、1170年にクーデターがおこり、武臣が一時的に政権をにぎります。
文臣は日本の公家に、武臣は日本の武家に似ているといえます。
1192年には、永続的な武臣政権である崔氏政権が誕生しましたが、
日本の武家政権である鎌倉幕府の成立と同年であることが注目されています。
1218年になって蒙古軍が高麗に姿を見せるようになり、
1231年には第1次の侵入があり、30年間に6回の侵入を受け、国土は荒廃します。
高麗朝は江華島へ遷都して抗戦しましたが、主戦派の崔氏武臣政権が倒され、
1259年になって蒙古の要求を受け入れ服属することになります。
皇太子は人質として元都におくられ、江華島の城塞は破壊されます。
38世界@名無史さん:2001/03/02(金) 02:51
スルタン=カリフ制はオスマン帝国の君主(スルタン)が
俗権の行使者であるスルタンであると同時に
宗教上の権威であるカリフである、とする制度。
その起源は16世紀初頭にマムルーク朝がオスマン帝国に滅ぼされた際、
カイロにいたアッバース朝末裔の「カリフ」が
オスマン帝国のスルタンにカリフ権を「禅譲」したことにあるとされる。
ただ、実際には19世紀に君主権の再興をはかるスルタンが
帝国内外のイスラム教徒への影響力を高めるために
「創作」した伝説であったらしい。

ということで「スルタン=カリフ制」を日本で比すなら
明治維新の王政復古と国家神道の普及にあたるかな。
39世界@名無史さん:2001/03/02(金) 20:40
アッバース朝のカリフってイル汗国に滅ぼされちゃったんじゃないの?
その後いつカリフが再興されたんだろう?
407:2001/03/02(金) 20:51
>>39
アッバース朝カリフが倒されたとき、カリフの一族がエジプトに亡命して、
ちょうどその頃成立したマムルーク朝のバイバルス政権に保護されたんです。
バイバルスは黒海北岸出身のトルコ系マムルークで
「成り上がり者」だったので、アラブ・イスラーム世界での自分の権威を確保するために
この亡命カリフ一族を傀儡のカリフに仕立てて
名目上自分の上に置き、スルタンはカリフによって任命されるという形式を取りました。
この仕組みはバイバルス家の断絶後もずっと続き、
マムルーク朝が最終的に滅びるまで残ったわけです。

>>38
それずーっと前にどっかのスレで私が書いたやつじゃないかな。
そしてそれはスルタンとカリフの二重権威・権力の話ではなくて
オスマン帝国の「スルタン=カリフ制」の説明ですが。
41世界@名無史さん:2001/03/03(土) 12:47
>>7
ほう。それはわかりやすいまとめだ。とても勉強になりました、ありがとう。
42あやめ:2001/03/05(月) 11:22
>19,23
国家内の国家に政府外の政府が成立という事態という意味で幕府かも。
曹操は漢の建安十八年に冀州の10郡をもって魏公に封じられました。王に
せよ公にせよ諸侯の封地は1郡が原則ですので極めて異例です。その上に
また更にいわゆる九錫の殊礼を加えられました。人臣として最高の地位に
登ったことを表徴する待遇と言えます。同年に魏國に尚書・侍中・六卿を置
きましたが、これは天子の朝廷の外に曹操の私的政府を創設したことを意
味します。「三国志」には「魏國初建」という文句がよく出てきますが、
これはこの時点での「建国」を指しており漢を奪った創朝のことではあり
ません。二十一年には公から王に進爵し翌年には世子の曹丕を太子と称し
ました。本来ならば太子は天子の継嗣でなければ用いられないものです。
二十四年には更に魏王の夫人のベン(亠の下に卜)氏を王后と称することに
しました。翌年に魏王操が薨ずると王后令を以て太子を策して王位に即け、
大赦を布告し漢の朝廷でも延康と改元しました。延康元年十月には漢帝は
璽綬を奉じて魏に禅譲を告げ、魏王はこれを受けて帝位に即きました。
以後は禅譲の美名で簒奪を企てる者は司馬昭・桓玄・劉裕から王世充輩に至
るまで、この数郡の封・國公->國王・位在諸侯王之上・太子王后之称・加九錫
・擬似朝廷といった一連のプロトコルを履むことになりました。特に重要
なのは配下の有力者を擬似朝廷の官僚に任命し、簒奪後のスムーズな権力
移転を準備することです。アメリカの州知事が大統領になったときどこそ
こマフィアみたいなスタッフを従え、ホワイトハウスに乗り込んでくるの
と些か似通った趣があります。
ただ曹操はわしは周の文王になれればいいと鷹揚に構え、焦らずに息子の
政権奪取の下ごしらえで満足していましたが、後世の王朝開創者は堪え性
がなく形式的にセレモニーをこなすと直ぐ簒奪に移っています。朱全忠な
どは禅譲工作を部下にせっついて「魏晉このかた先ず大國に封じ九錫を加
えて受禅という手順がございまして」と言われ腹を立て、唐帝からの九錫
申し出を蹴ってしまう始末でした。
ということで幕府政治の可能性はあったのですが実現を見ませんでした。
43あやめ:2001/03/05(月) 11:37
日本でも蘇我一族が実権を握っていた時期に群臣が朝廷に出仕せず、蘇
我氏の宮殿にばかり伺候していたとか、蘇我氏では王子だとか陵だとか
本来なら大王(=天皇)しか用いられない称号を、勝手に称していたとかい
うことが伝えられています。これらは大陸情報に敏感であった蘇我一族
が支那風の禅譲簒奪を企図していた兆候ではないか、というのがあやめ
的妄説日本古代史です。
4419:2001/03/05(月) 22:15
>あやめさん
ありがとうございます。
興味深い考察です。たいへん勉強になりました。
45世界@名無史さん:2001/03/05(月) 22:22
>35←田中厨房?
オデモも続き読みたい。
オデモ田中だし厨房 糞だ詩嚢
46世界@名無史さん:2001/03/06(火) 13:31
>>45
やっ〜と分かってくれる厨房仲間が出てきてくれた。(泣)
厨房作家田中のしり切れトンボ愛読者ホッタラカシの典型だもんなあ。
>タイタニア
47世界@名無史さん:2001/03/06(火) 14:13
高麗の崔氏武人政権とかは?
48世界@名無史さん:2001/03/06(火) 19:52
間があきすぎて徳間書店の担当者にも忘れられてるんとちゃう?
>タイタニア
49世界@名無史さん:2001/03/06(火) 22:57
>>47
37で既出。
50アムバ・オモー:2001/03/07(水) 02:06
グシハン王朝。

グシハンは十七世紀前半に活躍したオイラト・モンゴル人。
熱心なダライラマの信者で、1637-42年にかけて全チベットを征服し、この地で自らの王朝を開く。

グシハンは兄の横死を受け自身の所属するホショト部、そしてオイラト全体の指揮権を掌握したが、嫡子オチルト成人までのつなぎという位置づけだったので、彼のチベット征服は、ダライラマの所属する宗派への支援だけではなく、自身と子孫のために新天地を開拓するという意図もあったと思われる。


彼のチベット征服を契機として、ダライラマが所属するゲルク派内におけるダライラマの地位の優越、チベット内に存在する諸宗派に対するゲルク派の優越が確立された。ダライラマは宗派を超えたチベット最高の権威となり、チベットのみならず、オイラト、ハルハや金(後の大清)などのチベット仏教圏諸国にも及び、宗教的、道徳的権威の源泉と見なされるようになった。チベットにおける宗教界の再編の影響は、オイラト・ハルハ・金(後の大清)などチベット仏教を信仰する民族の諸国にも及び、たとえば十七世紀末のハルハの支配権を巡ってオイラトのガルダンと大清の康煕帝が抗争した際には、それぞれ自身がいかに「ダライラマの教え」に則り、相手がそれに背いているかを宣伝して自己正当化を図っている。


グシハンは自身の政権を、世界の権威・ダライラマに奉仕するチベットの君主と位置づけ(清朝の皇帝は、世界の諸君主の支配者にして仏教への奉仕者「転輪聖王」として位置づけられた)、征服地・チベットで最も肥沃で人口稠密なウィ・ツァン地方(日本における位置づけは江戸から大阪にいたる太平洋沿岸地方に匹敵)をダライラマに寄進し、ダライラマ領が成立している。

グシハン存命時はチベットの俗権はグシハンが掌握していたが、グシハンの直轄領または属領(以前からのあるいは新たにとりたてた領主に所領を安堵し、貢納させる)は子どもたちに分配され、さらに彼らの間で分割相続されていったので、グシハンを継いだ第二代オチルハン以降のチベットハンたちは、チベットのごく一部しか掌握していない名目上の「君主」にしかすぎなくなり、ダライラマがチベット全度を覆う権威を保有する唯一の人物となった。

ダライラマ五世(1616-1683)が健在の間は上記体制はこゆるぎもしなかったが、1705年以降、彼の後継者に何人を据えるかについてグシハン一族の間で内紛が生じ、一方が相手を打倒するために外部勢力(ジュンガル)を導入するなどの大混乱となった。

清の康煕帝は、危機に陥った朝貢国を助けるという立場から、ジュンガルを駆逐し、嫡系の絶えたグシハン一族のなかから後継のハンを選出させて従前の体制を再建するという立場をとったが、雍正帝は一転してグシハン王朝のチベット支配を除去するという立場をとり、傍系皇族が内紛を起こしたのを口実にグシハン一族の本拠地・青海に侵攻して制圧、チベットをダライラマ領・ホショー領(グシハン一族をジャサクに任命して分封)、土司領(旧来の領主に各級「土司」職の称号を与えて分封)に三分して再編、グシハン王朝によるチベット支配体制は終焉を迎える。


り、
に揺るぎはなかったが、彼の死後、sその死後、

1693年にダライラマ六世として養育されたツァンヤンギャムツォがダライラマの権威と位置づけに関する記述は

石濱裕美子『チベット仏教世界の歴史的研究』東方書店(2000.03)

を参考にした(正確には、上記文献の土台となった諸論文)。
51コピペですけど:2001/03/08(木) 21:03
{6}ブワイフ朝(932〜1055)

(1)イラン系、シーア派の王朝。
(2)カスピ海南西の地に興る。
(3)首都:イスファハン
(4)バグダードを占領(946)。
→王はエミール・アルウマラー (大総督)と称し、実権を掌握。
(5)イスラム世界初の武家政治 ◎政治権力を握り、カリフの 擁廃立を意のままに。
 →以後のアッバース朝カリフは宗教的権威のみ残る。
52コピペですけど:2001/03/08(木) 21:04
{9}セルジューク・トルコ(1038〜1157)
(1)トルコ系、スンナ派の王朝。
(2)中央アジアのシルダリア川流域に興る。
(3)第1代:トゥグリル・ベク(位1037〜1063)
 (a)ブワイフ朝を滅ぼし、中央アジアから西アジアの大部分を支配。
 (b)アッバース朝のカリフに請われてバグダードに入城。
 →カリフからスルタンの称号を受け、武家政治を続ける。
53コピペですけど:2001/03/08(木) 21:05
54世界@名無史さん:2001/03/08(木) 23:52
みなさん、情報力スゴいですね…。
情報、感謝ハムニダ。
55世界@名無史さん:2001/03/09(金) 00:20
56あやめ:2001/03/21(水) 19:17
このスレッドテーマはなかなか好いと思うんだけど最近は種切れで下がり
きっちゃってました。でもこのまま廃らしてしまうのは惜しいわ。
そこでスレの趣旨をやや拡張して「世界史上の二重権力」としたらどうか
しら。つまり幕府みたいな下克上的なものに限定せず院政みたいな上から
(もしくは陰から)、名目政府を操縦するといったものはけっこう歴史上に
例があるんじゃないかしら。院政みたいなものは越南の陳朝にもあったし
戦後日本のGHQとか琉球政府に対する高等弁務官とか、清朝の駐蔵大臣
とか色々ありますよね。如何でしょう?
57世界@名無史さん:2001/03/21(水) 22:21
うんこ
581です:2001/03/21(水) 23:20
>あやめさん
ありがとうございます。
みなさん宜しくお願いします。
59考える名無しさん:2001/03/22(木) 00:04
その手の権力形態では日本の鎌倉時代は妙な記録を達成してるね。
天皇から将軍に権力が移行したどころか、
将軍も形骸化して実権は執権に移って、
将軍は皇室から借りて来たりしてる。
NHK大河ドラマ<北条時宗>の描写では、
時宗の父、北条時頼は出家しても実権を握り続け、
その時期の執権はお飾りになっていたそうだから、
何と実質的権力者の上に三層のお飾りがあるという四重権力状態。
これほどワケワカラン権力状態は世界史にも例を見ないと思う。

形骸化した権力でも壊さずにとりあえず形式的に残しておく、
という日本的権力移行のパターンって、
日本の権力闘争が他国に較べて相対的にぬるかった証なんだろうな。
60世界@名無史さん:2001/03/22(木) 21:00
幕府的権力であった、イスラムのブワイフ朝は歴史学上、「王朝」ですよね?
では、ほとんど、同じ性格の日本の幕府は、「王朝」と認められているんでしょうか?
まあ、日本では、現皇室との関係上認められないでしょうが、外国ではどうなってるのでしょう。
さらに進んで、鎌倉の北条得宗家も外国では「王朝」なのかな?
61世界@名無史さん:2001/03/23(金) 15:16
法皇、上皇、天皇ってのも多重権力構造?
62世界@名無史さん:2001/03/24(土) 02:02
>>61
もうほとんど日本史スレになっちゃうけど
鎌倉時代は
1、源氏将軍、北条執権を中心とする武家勢力
2、天皇を中心とする公家勢力
3、寺社勢力
の3つの勢力が微妙なバランスの上に均衡を保っていた。
そしてその上に治天の君としての上皇(何人かの上皇のうちの只ひとり)が
立っていたって説を何かで読んだ覚えがあります。
かなりうろ覚えだけど。
63あやめ:2001/03/24(土) 08:39
黒田俊雄さんの「権門体制論」ですね
64名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 18:21
二代というなら、ぎりぎりでファッショイタリアはどうでしょう?
初代ムッソリーニ
二代バドリオ
と見ればこじ付けがましいが、、復興公社も戦後かなりの
期間残存したし、王制の下での武断政府って言うならイタリアも
入れて良いような悪いような、、、
65はーるんあるらしーど:2001/04/08(日) 19:38
ティムール帝国。オゴタイ汗の末裔を名目上の君主にたててた。(ソユルガトミッシュとかいったかな?)
この時代、チンギス汗の子孫しか君主になれなかったとか。
この地域は元々チャガタイ汗の子孫が支配してたけど、下手にチャガタイ系を
君主にしたら後々権力を奪取される恐れがあるのでこの地域で馴染みの無い
オゴタイの子孫を君主にしたとか。
66実習生さん:2001/04/08(日) 19:46
一番すごいのは室町後期の三好家じゃないのか?
67世界@名無史さん:2001/04/08(日) 20:31
日本では皇室の血が入っていない者は権力者として認められなかった
というのが大きいんじゃないでしょうか。
どの将軍家も一応、皇室の血を引いた平氏か源氏の子孫ということになってますよね。
68世界@名無史さん:2001/04/09(月) 23:11
イタリア半島は複雑だから、アリかも?
69世界@名無史さん :2001/04/09(月) 23:20
高麗の武人催氏政権も例に入るかな
70世界@名無史さん:2001/04/10(火) 05:12
>>69
南海もがいしゅつ
71世界@名無史さん:2001/04/10(火) 15:05
>>あやめさん
 二重権力っていうのは国家内国家でいいのかしらん?
それとも東シベリア共和国みたいな武断分裂国家もありですか?
あるいはオーストリー治下のチェコとか、、、
 とりあえずは近代ではウクライナ社会主義共和国は如何?
ウクライナがソ連と協調しなかった国連会議ってあるのですか?
72はーるんあるらしーど:2001/04/10(火) 18:04
>60 歴史学的には知らないけど、幕末期欧米列強は徳川将軍を国王として
扱ってた。(尊称は「陛下」としていた)足利将軍は義満以降は明朝から「国王」
と認められていた。それにしても現在の外国でのこれらの政権の扱いはどうなって
いるのでしょうか。
73世界@名無史さん:2001/04/10(火) 19:35
>歴史学的には知らないけど、幕末期欧米列強は徳川将軍を国王として
>扱ってた。(尊称は「陛下」としていた)

確か皇帝陛下じゃなかったですか?

>足利将軍は義満以降は明朝から「国王」と認められていた。

これは義満以降は続かなかったのでは?
74あやめ:2001/04/10(火) 20:28
>71
重層的権力って色んな態様がありうると思います、皆様の薀蓄でその実相
の多彩さを具体的に披露してくだされば、このスレッドも多岐に展開して
ゆくのじゃないかしら。
75世界@名無史さん:2001/04/10(火) 20:38
ヴァルダナ帝国における皇帝とタイタニア無地藩王の関係
76世界@名無史さん:2001/04/10(火) 21:34
ヴェトナムの黎(レ)朝(1428-1790)の後期もそうと言えるのでは?

黎朝を簒奪した莫(マック)氏を滅ぼし、黎朝の復活に活躍した
鄭(チン)氏が北部を阮(グエン)氏が南部をそれぞれ支配し、
表面は黎朝を立てつつも200年近くに渡って抗争を続けた。
77はーるんあるらしーど:2001/04/12(木) 12:24
>73
>確か皇帝陛下じゃなかったですか?

そうですか。「皇帝」陛下でしたか。そのへん、うろ覚えなもので。

>これは義満以降は続かなかったのでは?

たしか義満以降も続いたはず。でなければ勘合貿易ができなかっただろうから。
細川氏や大内氏も足利国王家の看板で勘合貿易をしてたと思うのですが。
78名無し:2001/04/13(金) 08:11
>>59
鎌倉末期になると得宗権力を押しのけて内管領が実質的
権力をもってしまい、5重権力くらいになってるんだよね。
もうデッドロック状態なんで滅びて当然だったかも。

7973:2001/04/13(金) 08:44
調べてみたら、義満の死後に一時中断した後、義教の時に再開しているんですね。<勘合貿易
ということは、義満以降も明から足利将軍を国王に封じる使いが来ていたという事なのかな。


80もも:2001/04/13(金) 10:24
日本の場合の天皇は、その他の諸外国の皇帝や王のような「俗世権力」
という感じではなく、丁度ローマ教皇のような「宗教権力」的な存在
に近いと思う。平安以降。
そういう理解だと、中世ヨーロッパのローマ教皇と神聖ローマ皇帝とか、
上でも出ている、イスラムのカリフとサルタンの関係に近いかも。

しかし、権力が下位に移行していくのは古今東西を問わず、必然的に
発生することだと思うよ。実際、世襲権力構造において名目上の最上位者が
実権を持ちつづけた例の方が少ないと思う。
天皇→摂政→将軍→内管領(老中)
将軍→執権
天皇→蔵人頭
将軍→側用人
自民党総裁→自民党幹事長

実権者は権力が安定すると実務を家臣に任せ、酒色や遊興、風流に耽る
傾向にあり、政を一任された家臣が事実上の実権者になる。
その 家臣=事実上の実権者 構造が安定すると、事実上の実権者は、
再び実務を更なる家臣に任せ、政を省みなくなると、更に下位に権力移行
していく。
歴史の必然と言うべきか。
81世界@名無史さん:2001/04/20(金) 20:47
なるほど、局長→課長→課長補佐、ってかんじですね。

それで幕府みたいな政権、二重権力って言えば、やはり、
東欧の旧ソビエトの衛星国はどうでしょう?
ブレジネフの悪名高い、制限主権論に絡め取られて、各国政府は独自の
政策を打ち出せなかった、おまけに経済的にもCEVに牛耳られて、、、
悲惨な国家群でしたね。
82鼻無し象はウナギという名だ!:2001/06/03(日) 07:47
あげーん
83世界@名無史さん:2001/06/03(日) 21:22
アカデミックアゲ
84世界@名無史さん:2001/06/03(日) 21:45
中国や朝鮮をみると、役人は搾取ばかり。日本の殿様のほうがある程度領地をゆたかにしようとしていますが、日本のほうが、地方自治がすすんでいるようですが、外国で良い(?)封建制地方自治のあったくにはどこですか?
85日本@名無史さん:2001/06/04(月) 01:41
オーストリア=ハンガリー二重帝國って皇帝が二人いたってこと?
それとも一人の皇帝がもう一方の皇帝を兼ねていたってこと?
これはなにが『二重』帝國なんですか
86世界@名無史さん:2001/06/04(月) 05:52
高麗の武人政権の場合武官という国軍軍人が政権を取ったわけで現代のクーデターによる軍人政権みたいのに近いとおもいますが。鎌倉政権の場合基盤になっている東国武士団は中央の朝廷、公家、貴族等と無関係ではないものの東国の開発地主のようなものから発生して私的武装集団として発展していった点で異質に想いますが。ほぼ同じ頃武人政権が発生しながら後の展開が違ったことの理由は高麗における元の影響の他、そうした「武人」の異質性もあるのではないかと思ううのですがどうでしょう。(その点、平氏政権の方が高麗と比較できそうですね。)
87>84:2001/06/04(月) 06:24
“良い”と言うのがどういう意味でいっているのははっきりしませんが、Feudalismとしての封建制があったのは西欧と日本と言われています。そういう意味では中国や朝鮮は封建制ではありませんでした。
日本語で封建制というのは1)江戸時代の武士、知識人たちが中国古典の“封建制”を地方分権ぐらいに解釈し、徳川日本こそ儒教的な理想国に近いと誇った;2)西欧のFeudalismの訳語として“封建制”という言葉を使った;3)マルクス主義者などにより前近代社会という程度に(特に農奴制と関連付けらえ)使われた;の大きく3通りがあり(1は現在一般的ではないが)混乱を招いています。中国や南北朝鮮の学者が自国の前近代を封建制というときは無論3。彼らには日本の昔のマルクス主義者の影響が入っています。
88世界@名無史さん:2001/06/04(月) 06:29
>>81官僚の関係は度外視し政治家だけに絞っても、最近でも森>野中>青木。日本人社会は実験が下へ下へ移譲されやすいみたい。
89世界@名無史さん:2001/06/04(月) 07:53
企業で見ると会社の規模が大きくて、歴史が古くなるほど
ボトムアップ型の官僚機構のようになる傾向がある。
小規模伝統企業だと、世襲の独裁者が権力をふるうし、(暴君の場合が多い)
大規模新興企業でも、創業者が独裁者に成りがち。(名君の場合もあり)

ただ、これって日本人社会に限ったこと?おしえて、海外在住者。
90時事問題:2001/06/04(月) 09:31
50ねんごろまでのネパールはラマ?ロマ?とかいう一族が
徳川家みたいな存在で51年に王政復古したけど、そのごも王家は
そのロマ?一族から嫁とってた
91日本@名無史さん:2001/06/04(月) 14:24
>>90
ラナ家ですね
92世界@名無史さん:2001/06/04(月) 16:54
15世紀のモスクワ大公国とキプチャク・ハン国の関係
93世界@名無史さん:2001/06/04(月) 21:32
>>92
具体的にはどのように?
94世界@名無史さん:2001/06/04(月) 22:40
モスクワ公国はキプチャック汗国から大公に任命され、
キプチャック汗国の傘の元で、キプチャック汗国の援助をえて
ノヴゴロドやリャザン、トヴェーリなどのルーシー諸国を支配し、
後には併合しています。
1480にキプチャック汗国から独立しましたが。
95世界@名無史さん:2001/06/04(月) 22:55
でも大公が皇帝になるって変だよね。
9693:2001/06/04(月) 23:38
>>94
ああ、そういう意味ですか。
幕府は幕府でも鎌倉幕府みたいに辺境地方半独立政権って感じかな?
でも、15世紀にはもうだいぶキプチャク・ハン離れしてたと思いますよ。
最初の独立的な大公ドミトリー・ドンスコイはたしか14世紀末の人だし。

>>95
キリスト教徒としてはイヴァン3世がビザンツの皇女を娶って、
草原の支配者としてはイヴァン4世がキプチャク・ハン国の後裔の
カザン、アストラハン両ハン国を併合してるし、
セミョン・ブラドヴィッチというキプチャク・ハンの子孫の貴族を
一時的にツァーリに推戴したあと自分がそれを継ぐという手続きをして、
それをタテに皇帝になったってことみたい。
9794:2001/06/05(火) 09:18
>>96
おおむね同意しますが、16世紀後半になっても
キプチャク汗国の後継国の1つである
クリム汗国はイワン雷帝に貢納を要求していますので
形式的な服属関係はずっと続いていたと思いますよ。
9893:2001/06/05(火) 15:13
結局ハンのヤルルグ(勅許)によって大公が任命されていた時代まで
モスクワ大公国を幕府的な地方分権政権って言えるのかな?
私はそれがいつまで続いたのかよく知らないんですが…。

>>97
クリミア・ハン国(クリム汗国)が貢納の要求を解除させられたのは
ピョートル大帝の時代、1700年のイスタンブル条約によってです。
その論法でいくと1700年までモスクワ=ロシアを
「帝国」として認められなくなると思いますけど。
99世界@名無史さん:2001/06/07(木) 16:36
>>85
「オーストロ=ハンガリー二重君主国」。
オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねた。
100曹操まおとく:2001/06/07(木) 17:06
皆のもの、余をお忘れか?欧州に目をむけるのもよろしいが、3世紀の
東アジアにも余のような人物がいることを忘れているようではまだまだ
修行が足りんな!
余は、漢の丞相にして、大魏の初代皇帝(即位はしなかったけど・・)
曹操まおとくなり!!!
101世界@名無史さん:2001/06/07(木) 17:55
>まおとく
最初の方で外出
102田中洸人:2001/06/08(金) 07:31
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/3422/mat11.htm
夏は冬よりも太陽から遠いことがわかります。
103世界@名無史さん:2001/06/13(水) 08:17
あげあげーん
104>まおとく :2001/06/14(木) 22:34
105世界@名無史さん:2001/07/12(木) 00:28
スルタン=カリフ制はオスマン帝国の君主(スルタン)が
俗権の行使者であるスルタンであると同時に
宗教上の権威であるカリフである、とする制度。
その起源は16世紀初頭にマムルーク朝がオスマン帝国に滅ぼされた際、
カイロにいたアッバース朝末裔の「カリフ」が
オスマン帝国のスルタンにカリフ権を「禅譲」したことにあるとされる。
ただ、実際には19世紀に君主権の再興をはかるスルタンが
帝国内外のイスラム教徒への影響力を高めるために
「創作」した伝説であったらしい。
10640
>>105
>>38のコピペかな?
それはイスラム史上の「幕府みたいな政権」である
スルタンとカリフの二重権威・権力の話ではなくて、
オスマン帝国の「スルタン=カリフ制」の説明。

補足するならマムルーク朝征服以前のメフメト2世の時代に
すでにカリフの称号である「信徒たちの長」を名乗っているそうです。
中央アジアのブハラ・アミールもそう名乗っていたらしいから、
トルコ族の君主には聖権と俗権の長は同一であるという観念があり、
それが禅譲伝説で理由づけられたのが「スルタン=カリフ制」だと思われ。

「幕府みたいな政権」の話題じゃないのでsage