1 :
香菜 :
2001/02/03(土) 22:35 ずっと疑問に思ってました。 イタリアにあるならわかるけど。 神聖ローマ帝国の人は変だと思わなかったのかな?
2 :
食いだおれさん :2001/02/03(土) 22:41
「帝国」だからドイツじゃなくていいの
3 :
世界@名無史さん :2001/02/03(土) 22:51
イタリア半島の一部やローマも領域に入ってたこともあるし。
4 :
名無しさん@1周年 :2001/02/03(土) 23:10
古代的な普遍帝国の理念を受け継いでいたから。 ハプスブルク朝が定着してからはドイツとも呼ばれるようになったらしい。
5 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 00:28
ローマ帝国の歴史を大まかにつかまめば、分からないことはないです。 皇帝は王位より上位の位置にあり、西ローマ帝国の滅亡により、西欧では蛮族(と見なされていた)王が東ローマ皇帝の(形式的ではあるにしろ)承認の元に統治を許されていた。ユスティニアヌスのヴァンダル、東ゴートの征服は、この承認を失ったときに起きる象徴的な出来事だろう。 また、ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教のキリスト教の主導権争いから、東ローマの皇帝に対抗する皇帝が求められて誕生したのが、カール1世を起源とする”蛮族のローマ帝国”である。 その後、カールの後継者は歴史から消滅したが、ローマ皇帝位の形式は失われず、オットー1世以降の神聖ローマ帝国につながっている。 そもそも、ローマ帝国自体がもはやローマではなく、コンスタンティノープルを忠臣とするギリシア人の国家になっているというのも、見逃せない事実。ギリシアのローマと違って、フランク以降のローマ帝国は勝手に自称してるだけという意味合いが濃いですが・・・。
6 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 00:32
このテーマ既出じゃなかった?
激しくがいしゅつの定番だね。 まあ、いいんじゃないの。
千葉にあるのに東京ディズニーランド みたいなもんか。 ローマ=偉大なる帝国 のイメージに寄りかかろうとしてるのでしょう。 定番スレsage
9 :
NASAしさん :2001/02/04(日) 05:15
ドイツにあるのに神聖ローマ帝国とはこれいかに? 奈良県じゃなくても日本を大和の国というがごとし。
10 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 08:23
ドイツがいつからドイツと呼ばれるようになったのかという 新たな疑問が生まれたじゃないか。どうしてくれるんだ。
11 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 08:49
この時代のヨーロッパの色分け地図は二枚重ねにするべきだ。 そう、建前的な「王国・帝国」の地図と、「辺境領・伯領」といった具合に。
12 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 09:06
13 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 09:22
>>10 昔読んだ国名の語源の本が信頼出来るなら語源は「人」とか言う意味だったと思う。
それがいつから使われ、いつから普及したかは忘れた。
14 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 09:33
「どいちらんと」と呼んでるのでは? 「どいつ」は「ドイツ国(人)の」という意味だったような。
15 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 10:02
ドイツという国名になったのは1815年のウィーン会議で 旧神聖ローマのあった場所に乱立した諸侯を纏める連邦国家 としてドイツ連邦が生まれました。 言葉自身はかなり古くから存在しています。 ドイツとはDULAND「我々の国」という意味です。
16 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 11:33
古代ローマ帝国の後継を自負する歴代皇帝が “ローマ”本拠地イタリアへの領土的野心を優先させる余り ドイツ本土の統治をなおざりにした事が王権の弱体化、諸侯の力の増大を招き 後世の国家統一を遅らせる遠因となった。 その時形成された地方分権色は現在のドイツ連邦共和国にまで連綿と引き継がれている。
17 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 12:22
ドイッチラントってのは 「ドイツ語(民衆語)を話す人の国」って意味だって読んだ覚えが。 書いてあったのはたしか、阿部謹也の本だったかな。
18 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 12:29
>>15 DULANDって、「おまえの国」という気がしますが、つっこみ希望?。
言語としてのどいっちゅがあって、どいっちゅの土地がどいっちゅ
らんど。どいっちゅむしゅめかーいーのぅハァハァ。が正解です。
19 :
世界@名無史さん :2001/02/04(日) 12:32
>>17 「物語ドイツの歴史」だっけ?
物語といいつつ内容が物語的でない困ったシリーズ。
20 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 01:07
Deutshって古代チュートン語のTeutch(すまん。つづりうろ覚え)の <おらが村>とか<おれっちが部族>ってのが語源じゃなかったかな? 識者のレス希望
21 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 02:05
チュートン騎士団のハナシはご法度ってことで。 20の疑問はちょいと気になった。
22 :
Deutshの語源 :2001/02/05(月) 03:42
ゲルマン人(Germanen)の起源については古来定説がなく、あるいは東方人、あるいは森に住む者、隣人などと解 釈しているが、別に根拠はない。おそらく一種族の名であったものが、民族全般の名にまで包含範囲の拡大を行っ たのではなかろうかとも推測されている。もっとも信頼してよい説は Theodor Birt (Marburg) の説で、ローマ人は ドイツ人の先祖を germani Galli (純粋ガリヤ人)と名付け、シーザーの治下に屈服したガリヤ人と区別していたとい う。すなわち純粋な形の形容詞 germani から Germanen ができたという説である。 これに反して起源の明瞭なのは deutsch である。その意味するところは volksm??ig, volkst?mlich, v?lkisch なのである。八世紀末の文書に見られる theodisca lingua がドイツ語という句の最古の物だと Kluge が言っている が、当時はまだドイツ民族は自己を theodiscus と呼んだのではなく、それぞれの種族が Sachsen, Friesen, Franken などと各自に呼んでいたのである。しかしこの theodiscus から由来した ahd.diot, mhd.diet が『民族』の意 味となり、『わしが國さ』というなつかしい調子を含んだ deutsch という語となったのである。この語から派生して低 地ドイツ語では d?tsch と言い、英語では dutch となってゲルマン民族の一部なるオランダ人を指している。近世ドイ ツ語でも十八世紀までは teutsch と綴っていた。ドイツ國という名称も新しくできたもので? A十五世紀においては Teutschland という複合語もあるにはあるが、das teutsch(e) Land とも称していた。十七世紀以来現在の形が一 般に用いられるにいたったのである。 こういう事情から人名においてもはやくから diot に関係ある名がえらばれ、Dietmar, Dietbald, Dietrich などができ て、いずれも國光、邦夫、民雄などのたぐいであり、さらにこれをギリシャ風にして Theobald, Theoderich などとした 人もある。deuten (解釈する)は deutsch をもって、したがって自国語をもって、一般にわかりやすく、述べるとい うところからきたのであって、古くは学者がラテン語を日用語に用い、庶民にはわかり難かった事もあわせ考えられ る。bedeuten, bedeutend, Bedeutung, andeuten, deuteln などはこれから派生したものであるが、なかでも deutlich (明瞭な)は deuten の原意から派生したものであって、 Rede deutscher! (Schiller, R?uber, IV.5) は Rede deutlicher! の意味であることも、先に述べた説明から異論はないであろう。
23 :
Deutschの語源 :2001/02/05(月) 03:44
20
>>21 いや、ネット論文のコピペですけど、こえが頭の隅にあったもので。
リンク先が見つからないのです
24 :
10 :2001/02/05(月) 08:47
>>22 すごく詳しいじゃないか。つまりありがとう。
ドイツがドイツじゃなければ、神聖ローマでも変じゃないもんな。
またひとつおりこうになっちゃったよ。
25 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 08:55
「ドイツ連邦共和国」の「連邦」って今でも意味があるのでしょうか? それと、バイエルンにはまだ王制が残っているのでしょうか?
26 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 10:35
>25 ドイツ連邦政府は立憲君主制を禁じております。これに対して バイエルン政府は反発してドイツ連邦基本法を議会で圧倒的多 数で否決したままにしており、唯一LAND内に旧国王が住ん でいる状態です。 ドイツ連邦議会の方針によっては連邦脱退もありうる事を示唆 しております。ちなみにバイエルン・プファルツ王国が復活し て連邦を脱退するとドイツ領土の1/5、ドイツ経済の1/3 、ドイツ国内流通食塩の70%が連邦から失われます。
27 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 11:06
EU権限拡大・ドイツ解体賛成!!
28 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 15:51
オーストリアとドイツの合併を希望。 ザクセン、ハノーヴァー、シュレスヴィヒ、ホルシュタイン・・・・・・・・他にどんな領邦があったかな。
29 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 15:57
解体賛成!!! 独逸の中華思想を封じ込めよ!!!
30 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 18:12
>>25 大ありのこんこんちきです。BRDにおけるFederationとは、
Bund(連邦)を構成する諸独立国たるLand(州)による連邦であります。
全国議会たるBundestagをLand利害により制約するのが、
各Landの代表者よりなる第二院・Bundesratなのです。
31 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 22:43
>28
1871年の帝国建国以降存在した国は以下の通り
プロイセン王国、バイエルン自治王国、ヴュルテンベルク王国、ザクセン王国
バーデン大公国、ヘッセン・ダルムシュタット大公国、ブランシュヴァイク大
公国、メッケレンブルク大公国、オルデンブルク大公国、ザクセン・ワイマー
ル大公国、ザクセン・アルテンブルク公国、ザクセン・マイニンゲン公国、
ザクセン・コブルク公国、ルイス侯国、シュヴァルツブルク侯国、リッペ侯国
、シャウムブルク侯国、ハンブルク市、ブレーメン市、リューベック市、
アンハルト公国です。
下記サイトが私が知る限り唯一の旧ドイツ連邦関係のサイトです。
http://www.asahi-net.or.jp/~bf5k-isn/
32 :
世界@名無史さん :2001/02/05(月) 22:46
26です。 一箇所書き間違いしました。バイエルンはLANDではありません。 FREISTADT(自由国)です。
33 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 01:36
>>ジーモンさん 我輩は貴殿のカキコにつねづね敬服しているものですが、最近、いささか 単調ですぞ!! 愚民どもは氏の奮起をうながします
34 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 01:40
ドイツって政教分離があたりまえの現代において、今でも教会税10パーセント、 所得税からさっぴいてるんでしょ?(だったかな) 国家が教会にかわって、領邦住民から徴収してる。 凄いよね
35 :
名無しさん :2001/02/06(火) 02:36
西ローマ帝国(395−476)→神聖ローマ帝国(962−1806) 東ローマ帝国(395−1453)→ロシア帝国(1547−1917)
36 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 09:20
>34 政教分離に関しまして、いろいろな意見がありますが、フランス 革命で生まれたこの考えは教会が政治に口を挟むべきではないと いう意味です。そういう意味ではドイツは政教分離を行っていま す。
37 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 11:22
>>35 >西ローマ帝国(395−476)→神聖ローマ帝国(962−1806)
まだこういう誤解をしている輩がいる。
38 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 12:31
>>38 私も→で直結するのは問題と思いますが、折角なんですからその理由を書いてはいかがですか?
フランク王国(800-忘れた)をはさむべきだろうな。
40 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 12:47
神聖ローマ帝国というのは東フランク王国を中心とする ドイツ系諸侯の連合国家に過ぎず、西ローマとは何の関係も無い。 「神聖」と「ローマ」が付くのは、皇帝が教皇から直接お墨付きを もらったという宗教的・政治的権威を周囲に示威するためのもの。 多くの周辺国(特に異教時代のスカンディナヴィアや東欧)では その国家名が嘲笑の対象になったといわれる。
>>40 いや、その「教皇から加冠された」ってことが一番重要なんじゃ?
それに、オットー一世の加冠のきっかけは北イタリアの制圧じゃ
なかったかな。全く関係がないとも言えん。
42 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 14:34
>41 1.古代ローマとはつながりがない=首長は古代ローマ市民ではない 2.帝国の版図はドイツとその周辺に限られ、西欧世界を包括してはいない (ポーランド王国・モラヴィア王国・ボヘミア王国などの キリスト教諸国家が西欧ローマ教会制において神聖ローマ帝国と 「対等」の地位で独立) こんなんでいかがでしょう?
43 :
41 :2001/02/06(火) 15:46
ミラノ勅令とニケーア公会議でキリスト教がローマ帝国の国教となる →ローマ帝国とキリスト教が結びつく。ていうか癒着する。 カール大帝の加冠以前に、ローマ皇帝の即位に教皇の承認というか 祝福が必要とされていたかどうか、俺は浅学にして知らん。たぶん ありえなかったと思うけど。フランク王と教皇は互いの利害関係のみで 結びついたのだと理解している。ただ、官僚にほぼ唯一の識字層であった 坊主が多かったことや、なにより「ヨーロッパ」という地域が キリスト教圏であったことから、教皇の承認には臣民をしてある人物を ローマ皇帝たると納得させるだけの権威はあったのだろう。かくして カールはローマ皇帝となった。ならば、その後継者が同じく教皇から 加冠されたのなら、やはりローマ皇帝を名乗ってもいいんじゃないか? まあ、カールの加冠による「ローマ帝国」以後は古代ローマ帝国と 全く変質していると言えるのかもしれないけど。本来教皇が皇帝を つくりだすなんて全くなかった事例だからな・・・。 領土や構成員、ヒエラルキーの問題についてはおっしゃるとおりだけどさ。
44 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 16:31
>>43 そうすると「ローマ帝国」の名が「形式的」なものにすぎず、
>>35 の「→」については
実質的にはそうならないという事には、納得されたようですね。
45 :
43 :2001/02/06(火) 16:42
>>44 ん、ということは、あなたはカール大帝の西ローマ帝国が
抜けていたことではなく、そもそも古代のローマ帝国と
神聖ローマ帝国が→でつながること自体が疑問だ、という
意見だったのか。勘違いしていた。失敬失敬。
まあ、そう思っとられるならそうなんじゃない? 俺は
イギリス近世が専門だから、古代中世についてはあんまり
えらそうなことは言えんし、言わないよ。
46 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 17:28
-----西ローマ帝国----・・・・-----神聖ローマ帝国 ファーストエンペラー・カエサル 古代ローマ帝国--- -----東ローマ帝国(ビザンツ帝国)-----ロシア帝国---ラストエンペラー・ロマノフ二世
47 :
世界@名無史さん :2001/02/06(火) 18:02
ローマ時代から続く権威のある存在が教会だけだったんでしょうね。ローマ皇帝の子孫なんてのは居なかっただろうし、玉璽とか三種の神器みたいな便利なものもなかっただろうし。
48 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 00:30
がいしゅつ????
49 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 05:14
選帝候制度があったしね。うーん。 やはりルターがあんなことしなければ、これほどの分裂はなかったのでしょうか? 統一ドイツなったあとも、バイエルンあたりの政治情勢をみるたび、 21世紀はドイツの南北分裂(笑)を確信します
50 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 07:47
選帝侯制度は後からでしょう?
51 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 10:22
52 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 11:15
なにせバイエルン政府はドイツ連邦議会がハイダー非難決議した 翌日には外務大臣をミュンヘンに呼び寄せて 「我がバイエルンの友好国エステライヒを非難するとはどういう 事ですか?」 と追求してたからな…
53 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 13:18
54 :
名無しさん :2001/02/07(水) 13:22
>>40 フランス王が皇帝選挙に立候補することがあってもか?
55 :
40ではないが :2001/02/07(水) 14:13
>>54 だってヨーロッパの王族は親戚同士じゃん?
56 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 14:28
>54 それってよくあったことなの?
57 :
ネブラスカ :2001/02/07(水) 14:48
>>56 1519年の神聖ローマ帝国皇帝選挙
フランソワ1世(フランス国王)VSカール5世(スペイン国王)
とか。皇帝位をめぐってじゃないけど、
ファルツ戦争ってのもあったな。選帝侯領継承戦争。
58 :
名無しさん :2001/02/07(水) 15:19
>>47 神聖ローマの帝冠は、もとは西ローマの帝冠じゃないの?
59 :
54じゃないが :2001/02/07(水) 21:46
60 :
世界@名無史さん :2001/02/07(水) 21:47
>>58 帝冠と言うと、本当に冠の事を言ってますか?
カールの冠は違ったと思ったが。
61 :
名無しさん@_@ :2001/02/08(木) 04:18
ドイツは経済空間からして分裂しています。 そもそもドイツ人単一民族国家などというものは実態のない仮象であり、そして逆説的ながら 仮象だからこそドイツ人たちは歴史上ドイツ民族の国家を追求してきたのです。
62 :
世界@名無史さん :2001/02/08(木) 11:21
>>61 だから近隣国家にとってドイツの民族意識はただの迷惑。
ドイツ「民族」などというものは単に観念的なものであって実体がない。
現在のドイツ人(あるいはドイツ系)は「ドイツ国民あるいは
ドイツ語を母語とする人々」といった曖昧なものでしか表現されない。
定義などない。そもそも現在のドイツは国民国家ではない。
そもそも古代ゲルマーニア人=現在のドイツ人ではない。
これは古代ゲルマーニアに住んでいたゲルマン系・西スラヴ系・
ケルト系・ラテン系の血筋が中心。
そこへ中世になってさらに多くの西スラヴ系、そしてバルト系の
人々がドイツ語圏に加わり、現在のドイツ「人」を形成していった。
現在でも彼らの中には自分達の家系の出自を知っている者が大勢いる。
近年はトルコ系・ユダヤ系・アラビア系・アフリカ系・アジア系なども
加わり、彼らもドイツ語教育さらに現地の人々との通婚によって
ドイツ人化している。
よって、ドイツが危険になるのは「ドイツ民族」などというありもしない
ものを持ち出すとき。
2CHで言えばジーモン氏やジョーカー氏のような輩。
ジーモン氏などは自分の先祖がバルト系(プルテニア人=
古プロイセン人)であることを知らないだけだったりして。
63 :
世界@名無史さん :2001/02/08(木) 16:24
ま、ドイツに限らずどこも民族なんてそんなもんなんじゃないの?
64 :
世界@名無史さん :2001/02/08(木) 16:38
>>63 >ドイツに限らずどこも
すでに国民国家でないのに(つーか、典型的なドイツ民族国家で
あったことさえ一度もないのに)、今だにかの国が国民国家だと
勘違いしている輩が(日本人などの)外人に多いのは、ドイツの場合
典型的であり、この現象はかなり独特。
65 :
おい識者(こう呼ばれると嬉しいでしょ?) :2001/02/10(土) 07:10
もちっとかいとけ。2,3日頑張って見ろ。
66 :
世界@名無史さん :2001/02/10(土) 09:59
現在のドイツを構成しているのは 西スラヴプロイセン族、西ゲルマンザクセン族、西ゲルマン アングル族、ケルトボイイバイオバリ族に取り残された中小 部族という所だろう。
なんか族々してきたな! 風邪かな? この調子で、ドイツ関係のスレ、おまえの知識でぶいぶいいわせてやろうぜ!! 2chの愚民どもは、全員おまえのカキコ待ってるぜ!!
68 :
世界@名無史さん :2001/02/11(日) 02:20
おまえ、さびしいのか?
69 :
世界@名無史さん :2001/02/11(日) 02:24
クスクスクス。知識を馬鹿にされて怒ってる怒ってる
70 :
世界@名無史さん :2001/02/11(日) 03:02
なんか書け。
71 :
世界@名無史さん :2001/02/11(日) 03:16
ドイツ民族と言うよりドイツ文化圏て言った方が良いのか? じゃあ今のネオナチは只の白人優位主義てことか。
72 :
世界@名無史さん :2001/02/11(日) 10:11
>71 ドイツ語圏というのが正しい。文化に関しては東西南北全く違います。 正確に言えば、ウィーン会議の亡霊じゃないか? ネオナチですが、ドイツ人から聞いた所、職が見つからないのを外国人 が原因と言ってるだけ…日本風に言えば、一流企業に就職出来る頭脳は ないが、3K職場では働きたくない。3Kには外国人の低賃金労働者が たくさんいる。遊びたいけど遊ぶ金はない。これは外国人が俺の仕事を 奪っているからだ…という利己主義です。
73 :
世界@名無史さん :2001/02/11(日) 10:34
ルクセンブルクやリヒテンシュタインをドイツ連邦に併合しましょう。 そうすれば(今現在の)ヨーロッパの犯罪が3割減少する。
74 :
世界@名無史さん :2001/02/11(日) 11:01
>73 ルクセンブルクはワシの物じゃーとオランダ・フランスが しゃしゃり出てきちゃいます。 真面目な話し、EUを円滑運営するにはルクセンブルクが絶対 必要だから、併合はヤバイ。
75 :
世界@名無史さん :2001/02/12(月) 02:03
なぜか、どうしても思い出せないのだが、 神聖ローマ帝国の形骸化を痛烈に皮肉った人がいたよね。 「一体、この国のどこが神聖で、どこがローマで、どこが帝国なのか?」 ってやつ。これって、誰の言葉だっけ?
ヴォルテール
「神聖でもなければローマ的でもなく、ましてや帝国とは名乗れない」だっけ? うろおぼえでスマソ。
78 :
名無しさん :2001/02/12(月) 04:49
>>73 1815年のドイツ連邦の領域を回復すべき。
>>77 そんな感じ。そもそも翻訳の過程で雰囲気が変わる。
原文が欲しいな〜。
このセリフはよくパロディで使われる。
80 :
nanasisan :2001/03/07(水) 00:11
아게
81 :
非公開@個人情報保護のため :2001/03/07(水) 04:41
>>49 内部分裂は、西フランク王国時代から常につきまとっていた問題です。
そしてこれが現れたのは、ローマ法王の権勢凋落の方が問題なのではないでしょうか?
ルターというかカトリック対新教の構図から現れる重大な事件は、
これも起こるべくして起こったと言えますでしょうが、
30年戦争のような気がします。
>>90 それはノルマンディー(笑)
82 :
世界@名無史さん :2001/03/10(土) 15:32
ドイツ人のフリードリヒ1世・バルバロッサと、 ギリシャ人のマヌエル1世・コムネノスは、 同時代に「ローマ」と称するそれぞれの国に君臨し、 本当のローマのあるイタリア半島を自分の領土に しようと争いましたとさ。
83 :
SEA :2001/03/10(土) 15:35
私の友人は「新生ローマ帝国」と書いて、テストでバツをくらっていました。気持ちはわかるけど…
84 :
世界@名無史さん :2001/04/21(土) 16:22
優良スレと思いますのでage
85 :
世界@名無史さん :2001/04/22(日) 00:29
der Deutsche Kaiser と Kaiser von Deutschland って、どう違うんですか? ヴィルヘルム1世はKaiser von Deutschlandになりたかったけど、 ビスマルクがダメと言ったんでder Deutsche Kaiserになった というのを聞いたことがあるんですが。 1848年の時に用意されていたのはKaiser von Deutschlandだったらしいです。
86 :
金通精 :2001/04/22(日) 08:14
神聖ローマ皇帝も 「カイザー」って言われていたのでしょうか?
87 :
世界@名無史さん :2001/04/22(日) 08:34
>85 直訳すると ドイツ皇帝とドイッチェラントの皇帝。 ニアンス的には前者が一つの国家の皇帝というイメージがあるが、 後者は連邦の代表者というイメージがあるね。現実は後者なのだ が…
88 :
85 :2001/04/22(日) 22:18
87さん、ありがとうございます。 これって、どっちが格が上とかそういうのはないんでしょうか?
89 :
名無しさん@1周年 :2001/04/22(日) 22:31
ドイツ参謀本部は実質プロイセン参謀本部だったと どこかのスレで読んだことがありますが、本当なのでしょうか?
90 :
世界@名無史さん :2001/04/22(日) 22:32
ドイチュラントがドイッチェラントですか。いろいろな読み方があるんですね(藁
91 :
世界@名無史さん :2001/04/23(月) 00:53
ヒトラーはアーリア人民族主義を掲げ、 民族浄化をしていたと聞きますが、アーリア人と ゲルマン民族との関係はどのようになっているの でしょうか。それとアーリア人とは何かということも お聞きします。 「族」と「人」との用語としての使い分けをどのうよう にしているのかということをお聞きします。
92 :
世界@名無史さん :2001/04/25(水) 22:44
スイスや中部イタリアもこの国が支配していた時期があったんですね・・・・・・。 スペインとオーストリアを甥と叔父で分け合ったのは何故なのでしょうか? ネーデルラント継承戦争だなんて起こさなければ少しは歴史が違ったでしょうに。
93 :
世界@名無史さん :2001/04/25(水) 22:49
>>91 2chの「民俗学・神話学」板に「アーリア民族とは」ってスレが
あるよ。
「族」と「人」はナチはいい加減に使ってます。
語族と民族をごっちゃにしたり、民族と人種をごっちゃにしたり
頭が悪いのか意図的なのか、ともかくゴチャゴチャに使ってるのが
ナチです。
ナチだけじゃないけどね。
94 :
91 :2001/04/26(木) 23:37
>93 ありがとうございます。 学術的には「族」と「人」の使い分けはどうなっているのでしょうか。 知ってる方、いらっしゃいましたら教えてください。
95 :
=93 :2001/04/27(金) 05:03
>>94 えーと、使い分けと言っても多岐に渡るので
面倒なお話なんですけど。できるだけ整理してみましょう。
学術的にといっても歴史学の場合、日常語彙の慣用が先にあり
それが用語化されてゆく例が多いです。ですので用法は多岐に
渡ります。
また日本語の翻訳に際しての混乱とか、翻訳時期に応じた翻訳語の
推移って場合もあります。
「族」が現す概念には、「民族」「部族」「氏族」「支族」「語族」
などがあります。他にも「親族」「宗族」など。まだあると思いますが。
総じて、「族」が関る語は民族間系の概念が多いと言えるでしょう。
民族学でいう「氏族〔シゾク〕」と日本史でいう「氏族〔ウジゾク〕」
は別概念なんて例もあります。
氏族〔ウジゾク〕は民族概念ではないので例外的ですね。
「人」についてはこれは日常語彙での用法が多いのでそれだけ意味の
幅も多くなります。
一番の用法は国籍を示す用法ですね。
アメリカ人と言えば人種・民族に関らずアメリカ国籍の人です。
しかし、ユダヤ人と言えば、本来これは民族を意味します。
イスラエル国籍の人はイスラエル人ですね。
ナチがユダヤ人種って概念をアピールしましたが、この概念は
否認されています。
ユダヤは民族集団ではあっても人種集団とはみなされません。
このように「人」「族」といっても、用語的に学問的用法が
定まっているわけではありません。
◎◎族、☆☆人の「◎◎」「☆☆」の方の性質に即して判断
してゆくしかありません。
96 :
世界@名無史さん :2001/04/27(金) 09:24
>95 ドイツ語で「JUDE(ユダヤ)」とは決して人種を指す言葉 ではありません。この言葉には二つの意味があり、ユダヤ教徒 を指す場合と、拝金主義者を指す場合があります。
97 :
世界@名無史さん :2001/04/27(金) 09:47
>>96 コメントに特に異論はないですが。
コメントを寄せていただいた意図がよくわかりません。
もし何か意図があるのでしたら、はっきりおっしゃってください。
95ではナチがユダヤ系に関して人種と民族を混同する
ようなデマゴギーを流したことを示唆しているだけですが。
ギリシャにあるのに東ローマ帝国?
99 :
世界@名無史さん :2001/04/27(金) 11:31
>>98 そだよん。
古代ギリシアの田舎、マケドニアからアレクサンダーが出て来て
ギリシアを配下にして、ペルシアの方に責めてって死んじゃって。
ギリシア諸都市ラッキーと思ったら今度はイタリアから来たローマに
制圧されて。
それからいろいろあるんだけど、帝国の首都がローマからコンスタン
ティノポリス(今のイスタンブール)に移るわけ。
遷都の前からローマ帝国はごちゃごちゃ内戦が続いてたんだけど。
東の正帝と西の副帝が東西を分担して統治しようなんて路線も出たんだ。
そんなわけで、ギリシアのあたりは東ローマ帝国の担当だったんだよん。
100 :
世界@名無史さん :2001/04/27(金) 18:37
つーか、そもそもローマの正式な公用語ってラテン語じゃなくギリシア語じゃ…? (しかも日常語は西半がラテン語圏で東半がギリシア語圏じゃ…?) それと「ドイツにあるのになぜローマ?」という以前に、 そもそも神聖ローマ帝国の正式名称は 「“ドイツ人の”神聖ローマ帝国」っていうんじゃなかったっけ。
101 :
世界@名無史さん :2001/04/27(金) 19:17
102 :
有吾堂 :2001/04/27(金) 19:43
>>1 まあ当時から
「いったい何が神聖で、何がローマで、何が帝国なんだ?(藁」
とかいわれていたそうです。(国内外とも)
変だとは思っていたようですね。
103 :
世界@名無史さん :2001/04/28(土) 16:08
>>100 神聖帝国、ローマ帝国、神聖ローマ、その他さまざまな国名が無秩序に使われていて、
最終的に「ドイツ人の神聖ローマ帝国」に定まったのはかなり後のようです。
(あ、これ自己レスね)
104 :
世界@名無史さん :2001/04/28(土) 17:57
>>100 スレ違いですが、学生時代読んだ本を引っ張り出して来てちょっと
だけ調べてみました。
(こっちは
>>100 さんの自己レスではありません)
文庫クセジュの『蛮族の侵入』。これ日本語版が1975年って古い本
ですけど。次のようにありました。
「東方と西方の文化的分離が決定的に表面化するのは、五世紀のこと
である。蛮族の侵入はすでに四世紀にはじまっていた分離を促進した
のである。
ギリシア語はますます〔東方で:補記〕公用語としてラテン語に代わ
る傾向にあり〔後略〕」(p89)
他に二、三の本を調べてみました。
決定的なことは言えませんが、ローマ帝国でのギリシア語は、弁論術
や修辞学の規範とみなされていたようです。誤解を恐れずに言えば、
雅語・学術語といった感じでしょうか。
当初は政治的公用語ではなかったようです。ただし帝国がキリスト教
を公認して以降、ギリシア語の権威はそれ以前より格段にあがっていっ
たようですね。
ゲルマン族の侵入と前後して、ローマの方では、「貴族の主導による」
「ラテン的文学の〔異教的な〕復興」があった、との記述もみかけました。
以上、ご報告まで。
105 :
世界@名無史さん :2001/04/28(土) 21:44
ローマ帝國の公用語はラテン語です。 ギリシャ語圏だった東帝國でもギリシャ語が公用語になるのはユスティニアヌスよりも後です。
106 :
世界@名無史さん :2001/04/29(日) 04:28
>95 ありがとうございます。 では、例えば、「ゲルマン人」と、「ゴート 族 」または 「アングロサクソン 人 」との語法上の関係はどのようなのでしょう。 「ゴート 族 」と「アングロサクソン 人 」はともに「ゲルマン人」 から派生したものだと理解しております。
107 :
=95 :2001/04/29(日) 09:37
>>106 あぁ、なるほど。少しご質問の意図がわかって来たと思います。
少し長くなるのが恐縮ですが。
実は「人」にしろ「族」にしろ、基本的には、翻訳語のもんだいです。
例えば、ゲンルマン人、ゲルマン族、ともに、Germansの訳語であること
が多いはずです。
Germanic tribes、でしたら、ゲルマン諸族とでも訳されるでしょう。
翻訳者が内容・文脈を考慮して、適宜「人」「族」を使い分けているはず
です。
勢い、人によって多少用法の差も出るでしょう。センスのない翻訳もなく
もないです。
読者の方も文脈を読みながら、用法を判断してゆく必要があるわけですね。
で、多少わたしの意見も入りますが、事例の場合の「族」と「人」ですね。
「ゲルマン人」は、これは民族概念でしかあり得ません。それも抽象度の
高い概念です。具体的実態を強調するには、「ゲルマン系諸族」とでも
言うしかないでしょう。
「ゴート族」は、部族連合または部族団を意味します。「ゲルマン人」と
比べると歴史上の実態に近い概念です。「東ゴート族」ですとさらに実態
に近くなります。
一番具体的な「部族」は、一人の首長に主導される集団です。
「東ゴート族」の実態は、複数の氏族(同系部族の集団)の連合だった
ようです。
で、「ゴート族」と「アングロサクソン人」ですね。
アングロサクソンは、古代末期〜中世初期、アングル族、サクソン族、
ジュート族など、ゲルマン系諸民族の内でも、系統の異なる部族団の
連合体でした。
わたしの憶測が入りますが、「アングロサクソン・族」との表現は学
問的に正しくない(異系統の諸族の集団だから)、ので「アングロ
サクソン・人」が使われるのではないかなぁ(?)。
ちょっと自信がないですが。
一方「サクソン」に関しては「サクソン族」って表現と「サクソン人」
って表現両方みます。一書の内で使い分けられていることもあります。
このケース、わたしの観ている範囲では、「サクソン・族」の方が部族
の具体について言及する際に使われる傾向があると思います。
「サクソン・人」の方は人種的特徴に言及したり、より抽象的にサクソ
ン族に特徴的な気質などについて言及する場合に、使われる傾向がある
ように思います。
あくまでわたしが観ている範囲での歴史書では、ってことですが。
現在「アングロサクソン」と言えば、もちろん部族連合ではありま
せん(笑)。
長い歴史をかけて混交し一体化した、民族を意味します。
民族の概念がわかりづらいのは、ゲルマン>ゴート>東ゴートのように、
階層関係があるからなんですね。
民族を評価するには、言語、習俗、など複数の基準が複合して用いられ
ます。
ですので細かい基準を適用していけばいくほど実態に近い概念になり、
民族分類のうえでは下位集団になってゆきます。その辺がわかりづら
いですね。
「『ゴート族』と『アングロサクソン人』はともに『ゲルマン人』から
派生したもの」これ、普通に通じる表現で、構わないと思います。
が、細かく考えますと、文字どおりにとるわけにはいかない面もあります。
「〔古代ローマ人に蛮族とみなされた〕ゲルマン系諸族の内、アングロ族、
サクソン族、他からアングロサクソンが派生した」とかになるでしょうか。
アングロ族、サクソン族、それぞれに、ゲルマン族から派生したわけでも
分岐したわけでもない、って点を強調するならば、うえのような表現にな
るかと思います。
108 :
106 :2001/04/29(日) 23:54
>107 ありがとうございます。 つまり、ケースバイケースで使い分けていると言うことですね。 別件の質問なんですが、ドイツが「ドイツ」と呼ばれた経緯は わかるのですが、イタリアとフランスはいつ頃から「イタリア」 「フランス」と呼ばれるようになったのでしょう。 地域の名前としてではなく、国の名前として呼ばれ始めたのは いつ頃なのでしょう。 イタリアについてはおぼろげに理解しておりますので、 とくにフランスについて教えてください。
109 :
=107 :2001/05/01(火) 10:01
フランスのことは、わたし分かりかねます。
未読ですが中公新書の『物語 フランス史』とかあの辺を
読まれればなにか書かれているかもしれません。
差し出口になるので恐縮ですが。
もし、イタリア・フランス関係詳しくお知りになりたいの
でしたら、世界史板に別スレを建てられた方がよいのでは
ないでしょうか。
ゲルマン人のお話は、神聖ローマ帝国前史として、間接的
関わりがあると思うのですが。
少し
>>1 の話題から離れてきている気がしますので。
110 :
106 :2001/05/02(水) 00:10
>107 ありがとうございます。 了解しました。質問版に書き込んでみます。
111 :
世界@名無史さん :2001/05/02(水) 10:52
>>109 フランクは「槍」という意味から。
「槍」を使う部族=フランク族。
これはケルトとゲルマンの混合部族(支配階級は主にゲルマン系)。
フランク族の国=フランス
フランス語でドイツはアルマーニュ。
これはゲルマン人の一部族アルマンニー族から。
アルマンニーはフランクに敗れ、臣従・同化した。
112 :
世界@名無史さん :2001/05/03(木) 07:59
プロイセンとブランデンブルクが合併した時、新しい国名はなぜプロイセンになったのでしょうか? ブランデンブルク選帝侯の方が由緒がある気がするのですが・・・・・・・・・。
113 :
世界@名無史さん :2001/05/03(木) 08:11
>>112 王国になりたかったからじゃなかったかな。
あいまいな記憶だから誰か補完してえ。
114 :
:2001/05/03(木) 11:17
南ドイツにホーエンツォレルン公国という小国があったようだが、 プロイセンのホーエンツォレルン家となんか関係があるのか? 誰か教えてくれ。
バイエルン語か何かで「ゲミュートリック カイト」てどういう意味でしょうか?
116 :
ナポレオン・ボナパルト :2001/05/04(金) 16:54
フランク=槍を使う人というのはつまり、 タキトゥスの『ゲルマニア』に出てくるフラメアのことですか?
117 :
85 :2001/05/04(金) 19:24
>>114 プロイセンのホーエンツォレルン家の出身地がそこ、です。たぶん。
ホーエンツォレルン=ヘヒンゲンと
ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンの
2つがあったような。
ジグマリンゲンが傍系だったかな。
スペイン王家継承の時出てくるよね。
あいまいでゴメン。
118 :
カウニッツ :2001/05/05(土) 01:32
ちょっと、拝見させてもらいました。皆さん、実りあるレスしてますね!
私も優良スレだと思います。
>>92 さん、ネーデルラント継承戦争は、両ハプスブルク間の争いではありません。
ルイ14世が一枚噛んだ戦争です。
119 :
世界@名無史さん :2001/05/08(火) 16:47
>>116 Franciとframeaは語源が同じ、インド・ヨーロッパ語族のpor-(ものをぶつけたり
投げつけたりする事・モノを表す接頭辞)がpr-に訛り、さらに
ゲルマン風にfr-となまって、古代ゲルマン語では広く「槍」の接頭辞として
使われた。
120 :
世界@名無史さん :2001/06/26(火) 20:53
>112 「王」の方が格が上だからじゃないでしょうか? 神聖ローマ帝国内の「王国」といったらボヘミアしかないですし。 マイセン辺境伯夫人アデラに関しての情報って何かありませんか?
121 :
ルドルフ大帝 :2001/06/27(水) 02:00
962年オットー大帝の戴冠と同時にこの国家いや封建的諸侯の連合体が 崩壊し始めたの自明のことであります。だいいちこの連合体の基本的性格 がイタリア政策といわれる遠征の連続であり、そのイタリアにいるローマ 教皇との確執がその後のドイツの後進性に拍車をかけたといわざるをえな い。第一、その首長たる皇帝は諸侯による選挙で選ばれ、かく封建諸侯は その領邦において一国の王的存在であった。この帝国あるいは皇帝は2重 の足枷によって英仏のような中央集権的なヘゲモニーを得ることはついぞ なかった。しかしこのような政体が1000年近くも続いたのは大変魅力的で われわれ、歴史家を感動させる。
122 :
世界@名無史さん :2001/06/29(金) 04:26
選挙がなければ、もう少しは違った展開になったかも。
123 :
世界@名無史さん :2001/06/29(金) 09:04
なんで神聖ローマ帝国は、日本の戦国時代の大名みたいに 統一する奴がでてこなかったの? 信長・秀吉・家康みたいな奴はおらんかったのか?
124 :
カール大帝 :2001/06/29(金) 10:01
>114 余である。 新スレまでの間ちと邪魔させてもらうぞ。 南ドイツ、シュヴァーベン地方のホーヘンツォレルンは かの家系揺籃の地じゃ。 家系が分かれたのは13世紀。 ツォレルン伯フリードリヒ3世は ニュルンベルク城伯でもあった。 彼はハプスブルク家の姻戚でもあり ルドルフ王選出の時の言い伝えで有名じゃな。 彼にはフリードリヒとコンラートという二人の息子があり その子孫がツォレルンとニュルンベルク、 それぞれの地域を本拠とすることで家系は大きく分かれたのじゃ。 ニュルンベルクのツォレルンはバイロイトやクランバッハ、 そしてブランデンブルクと領地を拡大したのに対して シュヴァーベンのツォレルン家はあまり奮わなかった。 だがハプスブルク家の皇帝に仕えるなどそこそこは知られた 家系でもあった。 後にヘッチンゲン系とジグマリンゲン系に分かれ、帝国侯に昇格。 ヘッチンゲン系は断絶するがジグマリンゲン系は残り スペイン王位候補者に擬せられたりするわけじゃ。
125 :
ドイツにん :2001/06/30(土) 00:40
>>123 いや、いたことは居たのです。例えば軍人王と呼ばれたプロイセンのヴィルヘルム1世
その息子のフリードリヒ2世(大王)など。しかし彼らの偉業は北部ドイツの周辺に
限られており、それを阻止したのが南部のオーストリアハプスブルク家とヴァイエルン
のヴィッテルスバッハ家だったのです。そして時代は下り19世紀後半、この事業を
なしとげたのはプロイセン王国の鉄血宰相ビスマルク氏であったのですが、その後ワイ
マールを経て登場したのがヒトラー。変な言い方ですがドイツは分裂していたおかげで
その地域の特色が色濃くでて、我々日本人はついつい憧れてしまいます。
126 :
世界@名無史さん :2001/06/30(土) 00:48
イタリア政策ってどういう定義づけなんだろう? なんだかドイツ人が進んでイタリアを屈服させようとした 印象を受ける言葉なんだけど、実際はどうなの? 教皇やイタリア諸都市・諸侯がやかましかったようだけど
127 :
ドイツにん :2001/07/01(日) 12:12
>>126 当時のイタリアもミラノやフィレンツェ、ヴェネツィアと公国、共和国などに分裂
しており、フィレンツェを例にあげるとメディチ家をはじめとする商人が権力を握
り、これらが皇帝派(ギベリン)、教皇派(グェルフ)と党派にわかれ対立してた
のです。前者は神聖ローマ皇帝にローマ遠征を要請し、自分たちの利害遂行に役立
った、一方皇帝はそのお礼としてローマでの加冠をいただく。まあそういったとこ
ろがイタリア政策の真意ではないかとおもわれます。
128 :
126 :2001/07/01(日) 19:07
>>127 どうもありがとう
ドイツ的にはイタリア政策って
いまいち明確な狙いが見えてこないんだよね
ローマ帝国でイタリア経営の名目はあったにしても
諸勢力が荒れてるなかにわざわざ遠征繰り返すほど
うまみのある政策だったんだろうか
金印勅書のあたりまでイタリアを維持しようとして
伊都市諸侯の利害関係に翻弄され
ドイツをまとめられないのは誰から見ても滑稽だし
何か事情があるんじゃなかろうかと
129 :
ドイツにん :2001/07/01(日) 23:46
>>128 もうひとつ加えると、皇帝はイタリア政策だけではなく、ドイツ国内においても
いつも遠征というか旅をしなければならなかった。中世ドイツにおいては、いま
でいう首都というものが存在しなかった。だから皇帝は国内の諸侯をおさえるた
めにも国内の領邦を旅しなければならなかったのです。
130 :
ドイツにん :2001/07/01(日) 23:49
>>125 訂正:軍人王ヴィルヘルム1世とついうる覚えで書いてしまいましたが
正しくはフリードリヒヴィルヘルム1世の誤りでした。
131 :
世界@名無史さん :2001/07/04(水) 17:14
ddoitu
132 :
ドイツにん :2001/07/08(日) 16:30
●ザクセン朝(リウドルフィンガー) オットー大帝→オットー2世→オットー3世→ハインリヒ2世 ●ザリエル朝 コンラート2世→ハインリヒ3世→ハインリヒ4世→ハインリヒ5世 ●ズップリンゲンブルク家 ロタール3世 ●ホーエンシュタウヘン朝 コンラート3世→フリードリヒ1世(赤髭)→ハインリヒ6世→フィリップ →オットー4世(ヴェルフェン家)→フリードリヒ2世→コンラート4世 (対立王)→ハインリヒラスペ →ヴィレム・フォン・ホーラント ●大空位時代 アルフォンソ(アラゴン王) リチャード (コンウォール伯) 今日は大空位時代までということで
133 :
ドイツにん :2001/07/08(日) 16:47
実はオットー大帝の戴冠(962)までにカール大帝の帝冠は脈々と受か継がれていた。 カール大帝(戴冠年800)→ルートヴィヒ1世(敬虔帝)(813)→ロタール1世(840) →ルイ2世(855)→シャルル2世(禿頭王)(875)→カール3世(肥満王)(881) →グィド(スポレート公)(891)→ランベルト(スポレート公)(892)→アルヌルフ (東フランク王)(896)→ルイ3世(プロヴァンス王)(901)→ベレンガーリョ1世 (フリウーリ公)(915)→924〜962迄は空位→オットー1世(ドイツ王)(962)
134 :
ドイツにん :2001/07/10(火) 23:03
>>131 のつづき
ルドルフ1世(ハプスブルク家)→アドルフ・フォン・ナッサウ(ナッサウ家)→アルプレヒト1世(ハプスブルク家)→ハインリヒ7世(ルクセンブルク家)
→ルートヴィヒ4世(ヴィッテルスバッハ家)★対立王 フリードリヒ(3世)美王→カール4世(ルクセンブルク家)→ヴェンツェル(ルクセンブルク家)
→ルプレヒト(プファルツ宮中伯)→ジギスムント(ルクセンブルク家)→アルプレヒト2世(ハプスブルク家)→フリードリヒ3世(ハプスブルク家)
→マクシミリアン1世(ハプスブルク家)→カール5世(ハプスブルク家)
あと、ハプスブルク家ばかりつづくからここで止め。
135 :
世界@名無史さん :2001/07/13(金) 20:52
age
136 :
世界@名無史さん :2001/07/29(日) 02:47
ヨーロッパの国家ってやっぱりローマの末裔なんだよね。 イギリスすらも。
イギリス←イングランド王国は辿ってもヘプターキーどまりじゃないか? ローマ支配とはわずかながら断絶があるような…。 もちろん、文化的な連続性は否定しませんけど。
138 :
世界@名無史さん :2001/07/30(月) 00:33
>>128 ドイツ領内の諸公が強力だったから、
弱体化しているイタリアへ攻め込んだという事かも。
違うかな?
139 :
世界@名無史さん :2001/07/30(月) 00:40
>>138 おれ流解釈では、当時のヨーロッパにおいてイタリアおよびローマは、
戦国期日本における畿内・京都、
中国における中原みたいなもので、
ここに権力を打ち立てた者が全ヨーロッパに号令をかけることができる、
みたいな意識があったのだろうと。
140 :
世界@名無史さん :2001/07/30(月) 07:48
141 :
世界@名無史さん :2001/07/31(火) 11:48
112さんへ ブランデンブルグは「帝国内」の領邦ですが、プロイセンは「帝国外」です。ホーエンツォレルン家としては、 いわゆる「制外の家門」を志向していたということではないでしょうか。もちろん、王号の問題や東方政策の問題も絡んでいますが……。 プランタジネット家でも、イギリス王としてはブリテン島南部の最高領主でしたが、アンジュー伯領やメーヌ伯領といったフランス王国内の知行地では、 当然ながらフランス王権の制約をうけたわけですから。この場合は、ヘンリー2世はフランスの所領の方にシンパシーを感じていたみたいですけど。
142 :
128 :2001/07/31(火) 22:59
>>129 ,138
教科書レベルでフツーに書かれときながら
非常に不可解な行動なんだよね
或いは
>>139 が言うように
奇妙な意識が支配していた中世ならではの現象なのか・・・
イタリア戦争でのフランスの思惑が
結構キーポイントになる気がするよ
143 :
世界@名無史さん :2001/08/04(土) 14:55
>>128 日本に理解してる研究者がいないとおもわれ。
144 :
ドイツにん :2001/08/12(日) 01:33
>>139 そのとおりだと思います。とにかくローマには宗教的権威の首位にたつローマ教皇
ならびに教皇庁が存在してましたから、歴代の皇帝がここに対するヘゲモニーを
確立することすなわち帝国の統一と考えたのでしょう。しかしながら現実は周知の
とおり、帝国内では皇帝権を脅かす諸侯の存在によってそのとおりにはならなかった
と理解しておけばよいのではないかと思われます。
145 :
ドイツにん :2001/08/12(日) 01:48
ところが日本の中世社会とヨーロッパ殊にドイツの中世社会の大きな違 いはその封建制のなりたちにあると思われます。日本では血縁性を基本 に封建的主従関係が成り立ったのに対しヨーロッパでは地縁的関係を 中心に成り立ったのであります。また日本では「二君にまみえず」の 格言のとおり、一人の臣下が複数の主君と封建的関係を結ぶことはまず あり得なかったのに対し、ヨーロッパではそれは周知の事実として存在 していました。例をあげると現在のロレーヌ地方の多くの諸侯はドイツ 皇帝だけでなくフランス王とも主従関係が存在しました。当然その場合 においては主君(=国王あるいは皇帝)よりも臣下(=諸侯)の方が有利 になってきます。そういった事によってドイツでは日本と異なった歴史 を歩まざるをえなくなったのでしょう。
146 :
世界@名無史さん :2001/08/12(日) 02:40
>>139 >>144 それは、東ローマ帝国にも言える事ですね。
一時的ではあるが、ユスティニアヌス1世がローマを奪還
した事によって、何とか「ローマ帝国」の体面を保つ事が
できた。
まあ、ヨーロッパ世界では、皇帝=ローマ皇帝 であって、
それ以外は考えられないという事です。
時代が下がると、そういう意識も薄れてきましたが。
「ロシア皇帝は、『ギリシャの』帝位を継承する事で、皇帝を
名乗っている」
という事は、大黒屋光太夫が述べている事。
そしてローマとは関係なしに「フランス皇帝」が誕生
したり、イギリス国王がインド皇帝を兼任して、「大英帝国」
ができたりしてね。
147 :
世界@名無史さん :
2001/08/16(木) 01:29 あげ