春秋戦國時代を語ろうスレッド

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1世界@名無史さん
三国志もいいけど春秋戦国もね。
覇者、賢相、名将、諸子百家などを熱く語り合いましょう。
2パシャパシャ:2000/12/30(土) 19:23
このころの儒教は面白いあげ
3世界@名無史さん:2000/12/30(土) 19:55
儒教の前身は葬式屋だったと聞きます。
その名残をうけ儒教では葬式を盛大に行なうのです。
例)台湾
4パシャパシャ:2000/12/30(土) 20:55
台湾の葬式は凄いよね金払って泣いて悲しんでくれる人を雇ったりするんだよね、その上ストリッパーを雇うのにはホンとビックリしました
5世界@名無史さん:2000/12/30(土) 21:05
>4
ストリッパー??
6パシャパシャ:2000/12/30(土) 23:03
>5
確か不思議発見で昔やっていました、だしに乗ってストリッパーが練り歩くですよ

話を元に戻すと
この頃はまだ儒教が権力構造に入れられる前なんでかなり幅広いですよね
法家の先祖みたいな荀子も儒教なんですよね権力構造に入れられるとみんなだめになるんですかね?
7世界@名無史さん:2000/12/31(日) 17:16
>1
春秋、戦国って範囲広すぎねーか?・・・
とりあえず、俺孫ピン好きだぜ、「ホウケンこの樹下に死せん」萌え〜
カナ部分は漢字にならなかっらスマソ
8世界@名無史さん:2000/12/31(日) 19:19
>>7
囲魏救趙の孫臏ですね。竈を減らしていく策など面白いですよね。
龐涓曰「遂成豎子之名」
何かスカッとする話でわたしも好き。
9名無しさん:2001/01/01(月) 15:19
今さらながら宮城谷昌光の「晏子」にハマってる。
10名無しさん@ご利用は計画的に:2001/01/02(火) 14:46
戦国4君の話がすき。
特に、信陵君、春申君が。
11長安:2001/01/03(水) 02:23
孫臏より孫武の方が俺は好きだな
引き際も心得ていたようだし(政界、戦場両方で)

日本では三国志ファンが凄い多いけど
俺は春秋時代が一番好き
12世界@名無史さん:2001/01/03(水) 04:23
>>9
宮城谷「晏子」は晏弱の頃の方が面白いって所が弱点ですよね。
ちなみに俺は当時、「晏弱は岡田監督のようだ」と思いながら読んでました。
関係ないですが。
13世界@名無史さん:2001/01/03(水) 12:22
age
14世界@名無史さん:2001/01/03(水) 22:47
孫武のタッグパートナーだった伍員も好きだ。
嘗ての敵国に亡命し故国を下して仇の死体に鞭を打つ復讐心の激しさ。
死に様も激しいし。春秋のダークヒーローだ。
15世界@名無史さん:2001/01/07(日) 14:27
三国志落とすために上げる。2
16世界@名無史さん:2001/01/07(日) 17:26
高校の時古文の教師が、授業中三国志を読んでいた友人に
「三国志は中学生が読むものだ。読むなら史記を読め」
と言っていた。
179:2001/01/07(日) 21:08
>>12
確かに晏弱の方が面白かったですよね。
でも、晏嬰のほうも好きですよ。喪でヤラれました(笑

しかしながら晏嬰は異常なほど出なさ過ぎだったように思います。
3巻から4巻の中盤まで、殆ど出番無かったじゃないですか…
18日本@名無史さん:2001/01/08(月) 14:15
縦横家のチョウギとソシンって、架空の人物だっていうのは本当?
19世界@名無史さん:2001/01/11(木) 19:59
史記で一番面白いのは刺客列伝
20世界@名無史さん:2001/01/12(金) 03:13
21世界@名無史さん:2001/01/12(金) 08:15
この時代の人は、なかなか漢字が難しくて書きにくいのだが、士会は覚えやすい。
無策な司令官のおかげで大敗した軍を立て直し、自分の司令下にある軍をほぼ
無傷のまま帰国させた。
たぶん田中芳樹はこのエピソードを元にヤン・ウェンリーを描いたのだろう。
22世界@名無史さん:2001/01/12(金) 08:39
武井ってのがちょっと前までは青木(これ)スレよりもでかかった。
23世界@名無史さん:2001/01/13(土) 04:47
age
24世界@名無史さん:2001/01/13(土) 11:51
愛国詩人「屈原」がいいです。春秋戦国の著名人で現代社会に一番影響
与えているのでは(5月の節句は彼の命日です)
25世界@名無史さん:2001/01/13(土) 14:42
>24
「ちまき」って入水自殺した屈原の遺体が魚に食べられない
ように農民が川に流したのが始まりなんだね。
26世界@名無史さん:2001/01/14(日) 00:57
あげ
27王翦:2001/01/14(日) 02:34
 やっぱ、王翦ですね。
 厄介な上司の下で働くのは、いつの時代もたいへんです。(涙)
28別々の時代:2001/01/14(日) 02:55
>1 X春秋戦国  ○春秋・戦国
29世界@名無史さん:2001/01/14(日) 04:30
>>28
中点「・」はあまりに新しく、春秋戦国ははるかに古い。
恥ずかしいつっこみはよせ。なんかこう、もぞもぞする。
30世界@名無史さん:2001/01/14(日) 04:51
孟賞君が「チビ」って云われて大虐殺って事実だと思う?
31世界@名無史さん:2001/01/17(水) 19:54
士会は宮城谷が見出した人物で、戦国でさえあまり有名ではなかったような。

「魔術師」の名に値するのは、孫武か楽毅でしょう。辺境の小国に一人ふら
りと現れ、全軍をあずけられるや大国を圧倒して滅亡の淵においこむ。魔術
師だ!占領政策は将軍の仕事じゃないからそこはしかたがない。
32世界@名無史さん:2001/01/17(水) 19:56
平勢=吉本論争教えて
33世界@名無史さん:2001/01/18(木) 04:27
あげ
34あやめ:2001/01/18(木) 12:46
>31
士會は春秋時代の活躍より漢の高祖の先祖ということで後世では知られていました。
唐の林寶が編纂した系譜書の集大成「元和姓纂」の「劉」の項に「帝堯陶唐の後、封
を劉に受く、裔孫劉累は夏后孔甲に事ふ、夏に在りては御龍氏と為り、商に在りては
豕韋氏と為り、周に在りては唐杜氏と為る、杜伯の子の隰叔は晋に奔り士氏と為る、
孫の士會は秦に適き後に晋に帰る、其の(秦に)處る者は劉氏と為る、…士會の後は周
末に魏に家し、又た豊・沛に徙る、豊公に至りてズイ(フォントなし、瑞の玉偏を火偏
に替える)を生む、字は執嘉、漢の高祖を生む」とあります。
しかしこの所伝をそのまま史実と信ずべき根拠は薄弱です。「史記」にも「漢書」に
も高祖の出自については父の本名すら記載していません。「姓纂」の載せている父の
名の由来は、漢が火徳の瑞により天下を治めたという五行思想に基づいて作為された
ものでしょう。
なお高祖の劉氏は祁姓ですが別系統に姫姓の劉氏も存在します。周の成王が王季の子
孫を劉邑に封じ劉氏を称することとなり、周室の大夫として春秋にもしばしば顕れて
おり、漢の皇室よりも由緒ある家系でした。
35ruin:2001/01/18(木) 13:09
宮城谷あげ〜
36luin:2001/01/19(金) 04:59
昌光あげ〜
37世界@名無史さん:2001/01/20(土) 05:36
宮城谷の「晏子」は晏弱の方がおもしろく、「楽毅」は中山時代の方が
おもしろい。微妙にずれているような。
38世界@名無史さん:2001/01/20(土) 06:57
>>37
オレは晏嬰の方が好きだ(面白い)けどねぇ。
霊公を前にして自分の信念を曲げなかった諫言の数々や、晋の叔向との会談
晏嬰が死んだときの霊公の行動など…
晏弱の話は読んでいて、爽やかになれるけど、晏嬰の話は魂を揺さぶられた。
39ふっ:2001/01/20(土) 07:54
>> 32

平勢=吉本論争、興味あるねぇ。

立命館の吉本さんは、もうダメみたいね。

平勢戦の前の藤田戦でも分が悪かったし。

なんでも離婚の危機があるとか>吉本氏
40世界@名無史さん:2001/01/20(土) 13:40
>>30
あの逸話はどうも素直には受け入れがたいなあ。
秦から逃げてくる最中に1県を滅ぼすだけのゆとりと
人員があったとはおもえないよ。
それに当時は趙は武霊王の絶頂期だし、国際問題に
なるような出来事が起こったなら、なんらかの
アクションを起こしてしかるべきなのに、
その記述は趙にも斉にもみられないしね。

逃亡中の孟嘗君を捕らえようとしたものが趙にいて、
それで一行と小競り合いになった話が、おひれが
ついて広まったというのが現実的な線じゃないかな。
41世界@名無史さん:2001/01/20(土) 19:42
>>30
オレも40サソの意見に賛成。
ちなみに、「平原君に挨拶に行った」と言うようなくだりがあったと思うが、
武霊王存命中は、平原君はまだただの公子でわざわざ孟嘗君が挨拶に
言ったとも思えないしなぁ。まぁ、想像すれば平原君は
孟嘗君に憧れていたらしいから、招いたって事も…想像できないか。
4221:2001/01/25(木) 19:07
>>31さん
私は宮城谷氏の「沙中の回廊」を朝日新聞の連載で読んで初めて知りました。
(と言う人は多いと思う。)
これを読みながら「アムリッツァ会戦」の源を見たような気がしました。
ただいま「楽毅」を読破中。
歴史ではなく小説の話で申し訳ない>all
43名無しさん@ご利用は計画的に:2001/01/27(土) 11:04
サヨうざいあげ
44日本@名無史さん:2001/01/27(土) 14:45
春秋って面白いけど、三国志に比べるとマイナーな感じがあるね。
なんでだろ。
45ツィミスケス:2001/01/27(土) 17:25
>44
主人公を決めようとしても決められないからじゃあ?
個人の話は書きやすいけど、春秋で一まとめにするのは至難の業だろう。
それで内容も濃かったら凄い人だなそれは。(もしくはすげー長いか)

三国志はだいたい候補はしぼれるもんな。
ビッグネーム多しとはいえ主人公候補って10人程度じゃねぇ?
46世界@名無史さん:2001/01/27(土) 18:58
夏姫は春秋戦国時代を通して一番の美人であり、淫乱だ。
47世界@名無史さん:2001/01/27(土) 19:00
春秋戦国で一番の名君は晋の文公でいい?
48世界@名無史さん:2001/01/28(日) 03:56
ベタだけど斉の桓公は?
49ツィミスケス:2001/01/28(日) 04:14
斉は、管仲の死後は内紛が起こって
桓公が死んだときには葬儀すら行ってもらえなかったそうだぞ。

晩年が酷すぎるから「名君」はちょっときついんじゃねぇ?

楚の悼王はどうよ?
呉起の主君。
50世界@名無史さん:2001/01/28(日) 04:22
なんといっても、春秋一覇だからね。
やはり「名君」には違いないでしょう。斉桓は。
単に器量がデカイだけ?と感じはするけどね。
個人的には、秦の穆公。春秋五覇に数えてくれー。
51ツィミスケス:2001/01/28(日) 05:45
春秋の五覇って、資料によって色々違うんだってな。
ややこしくてしょうがねぇ(笑)
52世界@名無史さん:2001/01/28(日) 08:06
斉・桓公
晋・文公
秦・穆王
楚・荘王
は、ほぼ確定っぽいけど、最後の一人がねェ…
宋・襄公、越・句践、呉・夫差
…この辺りがもめてるみたいですね・・・
53世界@名無史さん:2001/01/28(日) 20:31
桓公が死んだあとすぐに内乱が起こったのでダメ。
管仲がいないと目立たない君主だったと思うのよ。
5453:2001/01/28(日) 20:35
って49と同じじゃん…
55日本@名無史さん:2001/01/30(火) 17:00
自分は宮城谷昌光の小説にはまり春秋時代に興味を持ちましたが、
当時の詳細な勢力分布図を知るには何を見れば良いのでしょう
どなたか教えて下さい。
56世界@名無史さん:2001/01/30(火) 17:10
>>55
ない。
春秋について、何百年かを一枚でまとめた地図しかないのはさみしい。
七雄がでているおおかたの戦国時代の地図は、戦国も末期のもので、こ
れもさみしい。

しかしそれをいうと同縮尺同基準で編年した歴史地図自体が乏しくて、
全般的にさみしい。誰か作ってくれ。
5753:2001/01/30(火) 20:38
春秋ってかなりの数の邑があったんじゃないの?
小さな邑だと記録自体がほとんど残っていないだろうから
復元も難しそう
58世界@名無史さん:2001/01/30(火) 20:39
あっ名前が残っていた。
鬱だ…
59日本@名無史さん:2001/01/30(火) 21:51
周室の最期について教えて下さい。

最後の王はどうなったの?

それに、戦国後期東周が分裂していたと聞いたんだけど
王は二人いたの?
60世界@名無史さん:2001/01/31(水) 01:15
>>59
周の最後の王は自然死のはずです。
史記 周本紀には特に殺したなどとは書いていません。
61世界@名無史さん:2001/02/08(木) 10:27
宮城谷小説でよくでてくる『竹書紀年』ってどんな資料なんでしょう?
手軽に読めるものはあるんでしょうか
だれか教えて
62あやめ:2001/02/08(木) 12:11
「竹書紀年」には古本と今本とがありますが重要なのは古本の方です。
いずれにしても現代日本語に訳したものはありません。漢文が読める人
なら王國維の「古本竹書紀年輯校」の范祥雍による「訂補」が最高です
が、1962年の上海人民出版社刊なので入手は困難でしょう。
最近では先秦の年代復元に精力的に取り組んでいる平勢隆郎東大教授が、
一般向けに出されている本には必ず「竹書紀年」についての簡単な解説
があります。「史記2200年の虚実」(講談社刊)「中国古代の予言書」
(講談社現代新書)などですが、これらもオリジナルな「竹書」の内容が
参照できないと平勢先生の独自説に煙にまかれるだけで、十分な理解に
至るのは難しいかもしれません。
63世界@名無史さん:2001/02/08(木) 14:07
>>62
61です。丁寧に教えていただき有難うございました。
で、結局の所『竹書紀年』は史書として書かれたものなんでしょうか
何なんでしょうか?
64あやめ:2001/02/08(木) 18:09
史書と言って差し支えないでしょうが体裁は年代記です。五帝から夏・
商・周を経て、西周の滅亡時点からは晋の文侯からの晋の歴代の事跡が
中心となり、晋は烈公までで魏の事跡に移り武侯から恵成王を経て今王
の治世の途中までで終わっています。
「古本竹書紀年」は一旦亡失してしまったのを朱右曾・王國維・范祥雍
らの手で、「太平御覧」などの古書に引用されていたものを拾い集め、
考証整理してある程度の復元がなされたものです。従って情報量は必ず
しも多くありませんが「史記」などと大幅に異なる所伝が含まれており、
特に戦国時代の真相を知るためにには極めて重要な資料です。
平勢さんはこの本は魏が夏以来の王権の正統的な継承を主張するために
編纂したもので、予言書としての性格を持つものだと主張しています。
65世界@名無史さん:2001/02/08(木) 18:14
樂毅はどうだ?
66伯昏無人:2001/02/08(木) 19:25
>>64
あやめさま。
>「古本竹書紀年」は一旦亡失してしまったのを朱右曾・王國維・范祥雍
  らの手で、「太平御覧」などの古書に引用されていたものを拾い集め、
  考証整理してある程度の復元がなされたもの
とありますが、今本竹書紀年はどのようにして成立したのでしょうか?
今本より古本を重要とする理由も詳しく教えていただければさいわいです。
67あやめ:2001/02/09(金) 12:01
オリジナルの「竹書紀年」は魏の領域であった河南省の汲縣の古墓から、
晋の咸寧五年に580年ぶりに発掘されたものです。それが13巻に整理され
伝世していたのですが唐代あたりから次第に散逸し、朱子などもこの書を
探求したがダメだったと嘆いています。ところが元明代に突然2巻本が出
現しました。これが「今本竹書紀年」と呼ばれているものです。しかしこ
れが怪しいものであると考証したのが清の朱右曾です。更に王國維は「今
本竹書紀年疏證」で内容の精細な検証を行い、「史記」その他の後代の書
から色々な記事を拾い集めて編纂した偽書と結論が出ました。しかしその
出典は多岐に亘っており偽書とは言えかなりの労作だと思います。
そういうわけですので古代の史実を研究するに当たって引用できるのは古
本の方だけです。
68あやめ:2001/02/09(金) 12:14
書き落としましたが「古本竹書紀年」復元研究書として最新のものは、
方詩銘・王修齢の「古本竹書紀年輯證」(上海古籍出版社刊)が20年前
に出ています。これには王國維の「今本竹書紀年疏證」も付録されて
います。
69伯昏無人:2001/02/09(金) 12:47
>>67
あやめさま。

大変ごていねいに解説くださりありがとうございました。
なるほど『今本竹書紀年』が偽書にも関わらず、
なお価値を有するものだということがよく分かりました。
古本の重要性は古代史を実証するうえでの史料としての貴重さにあるのですね。

ところで、竹書紀年がいわゆる汲冢書のひとつだということは
私も存じておりましたが、

>晋の咸寧五年に580年ぶりに発掘されたもの

この咸寧五年説はいくつかの傍証により
おそらく太康元年以降の発掘であるとの推定がなされていたように記憶しますが、
最近の研究でさらに覆えったのでしょうか?
それともうひとつ、

>13巻に整理され伝世していたのですが唐代あたりから次第に散逸し

13巻に整理されたのはいつごろからなのでしょうか?
隋書經籍志・古史には12巻とあり、杜預の左氏後序の疏にも12篇とあるようなのですが。
一方で両唐志には「紀年十四巻」とありますし、
13巻に整理され伝世されていたとおっしゃる時期がよく分かりません。
あわせてご知見をお聞かせねがえればさいわいです。
70日本@名無史さん:2001/02/09(金) 13:00
余談ですが、日本でも同様に、偽書だけど役に立つ古典があります。
「先代旧事本紀」は、聖徳太子選と称され、中世には、日本書紀・古事記と並ぶ、
三大古典とされていましたが、江戸時代になって日本でも考証学が発展し、
この書は平安時代初期に作られた偽書であることが明らかにされました。

本居宣長は、「先代旧事本紀」は偽書だけど、勝手に創作したものではなく、基本的には個々の記述は
文献の裏付けに依るもので、中でも「国造本紀」は伝世しないものであり、価値があると述べ、
その評価は現在も変わっていません。
「今本竹書紀年」とは、似た位置づけではないでしょうか。
71世界@名無史さん:2001/02/09(金) 13:56
61です。勉強になりました。
とりあえず平勢隆郎の本から当たってみようと思います。
多謝です。
72伯昏無人:2001/02/09(金) 14:56
>>68
探してみると『古本竹書紀年輯證』の電子テキストがありました。
公開されているものは(おそらく)某研究院からの盗用なので、
ここにリンクするのは憚られますが・・・。
ともかく王國維「今本竹書紀年疏證」も読めましたし、
巻末(?)に挙げられている引用書目には色んな意味で舌を巻きました。
(そのぐらいでなければ書物の復元など不可能なのかもしれませんが・・・)

それはそれとして、王國維ってホント大した学者ですね。
王國維の研究もそろそろ出揃っていても良いような気がしますが、
その辺りの成果はどうなんでしょうか?
73日本@名無史さん:2001/02/10(土) 02:04
私も宮城谷の小説から入った口(ってゆうかまだそこにいる)
子産、晏子、楽毅、奇貨居くべし、重耳なんかを読みあさった。結構どういう世界かっていう
イメージだけはわかった気がする
これからもっと専門的に調べたいな。どんな本が良いですか。教えてください
ちなみに私は衛の国(7雄に入ってないが結構最後まで生き延びた国)に興味があります
74伯昏無人:2001/02/10(土) 12:27
>>73
先秦史に関する研究書や論文はいくらか出ていますが、
いきなりそこに進むのは少々大変かと思います。
まずは春秋戦国時代に関するもっとも基本的な文献資料である『春秋左氏伝』、
『戦国策』、『史記』等の訳本をお読みになり、理解を深められるのがよろしいかと。
それぞれの訳本は岩波文庫、筑摩書房、平凡社、明治書院などから出ておりますので、
オンライン書店やお近くの古書店、図書館などでお探しください。
75伯昏無人:2001/02/10(土) 13:07
72のフォローというか、訂正です。『古本竹書紀年輯證』はオリジナルの
中央研究院で一般公開されてるものでした。
http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/
関心のあるかたは、左の資料庫>一番下の人文資料庫師生版>選自【諸子>古本竹書紀年輯證
へとクリックして行ってください。
76伯昏無人:2001/02/10(土) 13:22
連続書き込み、申し訳ありません。

>>68であやめさまが

>「古本竹書紀年」復元研究書として最新のものは、方詩銘・王修齢の「古本竹書紀年輯證」(上海古籍出版社刊)が20年前
に出ています

と加筆されておりますが、むろん以下のものは復元研究書ではありませんが、

 李民(等編)『古本竹書紀年訳注』中州古籍出版社,1990.11

が一応最も新しいまとまった古本竹書紀年研究ではないかと思われます。
77あやめ:2001/02/10(土) 19:09
伯昏無人さんはかなり詳しい方のようですから釈迦に説法かもしれませ
んが、一応のことは書いておきましょう。
現存の古籍で「古本竹書紀年」に関する最も早い言及は、杜預の「春秋
經傳集解後序」で彼の「左傳注疏」に附刻されています。杜預は晋の総
司令官として呉を平定した人として有名ですが、また「春秋左氏傳」の
注疏を著したことでも重要な学者でもあります。
「後序」には凡そ次のようなことが書かれています。
大康元年(280A.D.)三月に呉が平定されたばかりのこと、余は襄陽に帰
り軍事から解放され以前からの意向に専念し、「春秋釋例」と「經傳集
解」を完成した。終わったばかりの時に偶々汲縣の古墓から大量の古書
が発見され、竹簡で編まれ科斗文字(漆の墨で書かれるため頭でっかち
のおたまじゃくし風の書体)で書かれていた。墓を発いた者が気にしな
かったため往々にしてばらばらになっていた。科斗文字は廃ってから久
しいので推定しても全部は判明しなかった。最初は(朝廷の)秘府に蔵わ
れており余は後になって見ることができた。記録されているのは凡そ75
巻で多くは雑駁零細で信じられない内容で読解できないものであった。
「周易」と「紀年」は最も判りよいものであった。……「紀年」は夏・
殷・周から起こり皆な三代の王事で諸国の別はなされていない。ただ晋
は特記され……夏正の建寅の月を歳首としている。晋が滅びると魏のこ
とだけ記し魏の哀王二十年に至っており恐らく魏国の史記であろう。…
…哀王は「史記」では襄王の子で惠王の孫とされており、惠王は36年で
卒し襄王が立って16年で卒したことになっている。「古書紀年」では惠
王は三十六年に改元し一年から始まり十六年までで、「惠成王が卒した」
と称していて惠王のことである。どうも「史記」は間違えて惠成王の世
を分割し次の王の年にしてしまったもののようだ。哀王は二十三年に卒
しており故に(「紀年」成立時点では)特に諡で呼ばず「今王」と言った
のだ。……
杜預が大康元年と言っているのは呉が平定された年を指しているので、
それから「經傳集解」の完成まで何年か経過したと考えてよいでしょう。
78あやめ:2001/02/10(土) 19:13
次いで「古本竹書紀年」の発現に言及しているのは「春秋經傳集解後序」
に対する唐の孔穎達の「正義」に引用されている王隠の「晉書」の「束
皙傳」で、大康元年に安釐王の墓が盗掘されたとしています。
また「正義」は秘府に蔵された竹書は十二巻であったこと、詔によって
荀勗と和キョウ(山偏に喬)に隷書で転写させたことを述べています。十
二巻に整理されたのはこの際であったのでしょう。荀勗の「穆天子傳序」
という書物には発掘を太康二年としているそうです。
なお「正義」は唐の貞観十六年に完成したものです。
また貞観二十年ころまでに撰述された「晉書」の「武帝紀」には咸寧五
年(279A.D.)冬十月に汲郡の不準という者が魏の襄王の墓を掘って、竹簡
小篆の古書十余万言を得たが秘府に蔵した旨の記載があります。
また「晉書」の「束皙傳」には次のような記述があります。
太康二年(281A.D.)に汲郡の不準という者が魏の襄王の墓を盗掘した。安
釐王の塚とも言われている。竹書数十車を得た。その中の「紀年」十三
篇は夏から周の幽王が犬戎に滅ぼされるまでは史実の順に書かれ、三家
(韓魏趙)が晉を分けてからは魏の事を述べ安釐王の二十年に至る。……
次の言及は唐の高宗の顕慶元年に進上された「隋書」の「經籍志」で、
「『紀年』十二巻、汲冢の書、並びに『竹書同異』一巻」とあり、当時
既に「竹書」の文字が安定していなかったことを示しています。発現に
ついては大康元年としています。
「舊唐書」の「經籍志」と「新唐書」の「藝文志」ともに十四巻として
います。
発現の年次については特に定見を持ってはいませんが、雷學淇の「竹書
紀年考證」には発掘は咸寧五年で秘府に収蔵されたのが太康元年であろ
う、太康二年というのは或いは整理に着手した時点かもしれないと説い
ており、いずれにしても大きな差異でもないので一応これに従ったまで
です。
また巻数については本文が十二巻で「同異」が一巻、外に宋の王應麟の
「玉海」によると荀勗の「叙録」一巻があったらしく、この辺から数え
方にヴァリエーションが生じたのではないかと考えます。
79伯昏無人:2001/02/10(土) 21:00
あやめさま。
いつもいつもありがとうございます。釈迦に説法とはあまりにおそれ多い。
私は大学で東洋史をかじり始めたばかりの後学もいいところで、
まだ右も左も分かっておりません。どうか今後とも興味深いお話やご知見の
一端をぜひぜひ披瀝くださいませ。

ところで、もっとも早くに言及されているものが

>杜預が大康元年と言っているのは呉が平定された年を指しているので、
>それから「經傳集解」の完成まで何年か経過したと考えてよいでしょう

・・・ということは、「終わったばかりの時に偶々汲縣の古墓から大量の古書
が発見され・・・」とあることからも考えて、呉平定の年、すなわち太康元年
より遡るのは難しいですよね。
加えて咸寧五年とするのは「貞観二十年ころまでに撰述された「晉書」の
「武帝紀」」に限られ、他の資料は同じ唐代であっても太康元年あるいは
太康二年の説に依拠しておりますし、さらに現行『晋書』武帝紀は太宗の
親筆であると伝えられる篇のひとつですよね。
やはり咸寧五年説は史料価値の優先性からいっても根拠として弱いのでは
ないかと、あやめさまの通説を拝読してあらためて感じました。
(雷學淇説は史料の矛盾を都合よく解決するために出された折衷案と見なして
 よろしいですよね?傾聴すべき意見のようには思えないのですが・・・。)
とまれ最小数ヶ月の差にとどまるようなことですから、あまりこだわる必要もない
と言われれば、たしかにその通りだと思います。

竹書紀年の巻数についても『晋書』束皙傳に”十三篇”とするのに、他の資料は
”十二巻”とあったり、どうも唐代の『晋書』の編纂方針といいますか、『晋書』
そのものに若干信頼性に欠ける部分があるようにも感じられます。
(すでに先哲の見解としてありそうですが・・・)

>また巻数については本文が十二巻で「同異」が一巻、外に宋の王應麟の
>「玉海」によると荀勗の「叙録」一巻があったらしく、この辺から数え
>方にヴァリエーションが生じたのではないかと考えます。

なるほど、本篇以外のものまで巻数に入れてしまったがために、
書誌によって巻数に揺れが生じたのですね、よく分かりました。
ということは『竹書紀年』は十三篇として世に伝わったと一概に
言えないわけですね。

80世界@名無史さん:2001/02/10(土) 21:29
>>79
興味深く拝見しておりますが、30行を超えると、とても読みにくくなる
のですが。
余計なことですが、1レスは30行まででお願いできませんでしょうか。
81伯昏無人:2001/02/10(土) 21:47
>>80
申し訳ありません。2chの存在を教えていただいたのが最近のことなものですから、
こちらの流儀などにはてんで疎くて・・・。
ご指摘ありがとうございました。今後長くなる場合は30行以内を目安にレスを分割
させていただきたいと思います。ご指摘ありがとうございました。
82あやめ:2001/02/11(日) 18:56
大康元年発現とする史料を一つ見落としていました。「晉書」の「衛恒傳」に「恒は
草隷書を善くし『四體書勢』を著した。曰く:……秦になって篆書を用いるようにな
り、先典を焚焼し古文は絶えてしまった。漢の武帝の時に魯の恭王が孔子の旧宅を取
り壊したが、『尚書』『春秋』『論語』『孝經』が出てきた。当時の人は古文の存在
を知らなかったので科斗書と呼んだ。漢代には秘府に蔵されていて希にしか見ること
ができなかった。魏初に古文を伝習していたのは邯鄲淳であったが、恒の祖父の敬侯
(衛覬)は淳の『尚書』を写し後に淳に示したが淳も見分けられなかった。……大康元
年に汲縣の人が魏の襄王の冢を盗掘し策書十余万言を得た。敬侯が書いたものをこれ
と比較してみると俤を伝えていた。……」とあります。
ところで「晉書」の「束皙傳」には「墓を発いた者は宝物を取るため竹簡を焼いて灯
りにした。当局が収集したときには焦げ爛れた簡札が多く、文字は既に残欠しきちん
と順序付けられなくなっていた。武帝はその書を秘書に交付し順番を比較して綴り直
し現行の書体で写し改めさせた。皙は著作佐郎に任官しており竹書を見ることができ
たので、疑問な箇所は解釈し考証を付けた。」とあります。これと孔穎達の「正義」
を参照すると荀勗と和キョウの第1次整理と束皙の第2次整理があったもののようで
す。「晉書」の「和キョウ傳」によると荀勗は秘書監で和キョウは中書令であって、
従来の例では秘書監と中書令は1台の車に同乗して登朝しなければいけないのに、和
キョウは荀勗を馬鹿にしていて車中でもスペースを分捕っていたので、秘書監と中書
令は別の車を使うという慣例が出来てしまったそうです。ところが宋の裴イン(馬偏に
因、『三國志』の注で有名な裴松之の子)の「史記」の「集解」には、「魏世家」の
「襄王が卒し哀王が立った」という部分に「荀勗曰く:和キョウ云う……」として荀
勗の著書から和キョウの説が引用されています。自分に意地悪した人物の説でも採用
するというのは勗のフェアな性格を顕すものです。そしてこの勗の著書は恐らく「玉
海」のいう「叙録」かと思われます。
83世界@名無史さん:2001/02/11(日) 23:03
荒らしを呼ぶ可能性もあるけど、中には心配している人もいるようなので、
健在誇示あげ!
84伯昏無人:2001/02/11(日) 23:41
>>82 あやめさま。
興味深いお話をありがとうございました。

>自分に意地悪した人物の説でも採用するというのは勗のフェアな性格を顕すものです。というところに関心をひかれ・・・

『晋書』の荀勗伝と和キョウ伝をざっと目を通してみましたが、
皇太子の廢立をめぐって二人に確執があったようですね。
そのことで世間に支持されて名を挙げ皇帝の寵を得たのは和キョウの方だったから、
荀爽の曾孫でもある名士中の名士ともいえる荀勗を賎しんだのではないでしょうか。
(最終的に帝の信頼を勝ち得たのは才徳あわせ持つ荀勗のようですが・・・)

ところで「意地悪した人物の説でも採用する」という箇所ですが、
『史記』集解の該当部分を確認したところ、
荀勗が引用しているのは
 集解荀勗曰:「和キョウ云『紀年起自黄帝,終於魏之今王』。
の二重カッコのところまでですよね。『竹書紀年』が誰から始まって誰に終わるということは和キョウの説を引くまでもなく、それを目睹することが可能な者にとっては自明のことであり、むしろ荀勗がこの説を引いたのは彼の言説の不十分さを指摘したかったのではないかと思いますがいかがでしょうか?この和キョウの説を引いたあとに、
 今王者,魏惠成王子。案太史公書惠成王但言惠王…中略…,然則今王者魏襄王也。
とずらずらと荀勗の考証が続くわけですよね。
どうも荀勗が和キョウの説を重んじて引用したというよりも、
ただ「魏之今王」とするような彼のある種いい加減な言説を暗に批判(仕返し?)した、というのはうがった見方でしょうか?

話はまた飛びますが荀勗といえば、宮中の蔵書目録に初めて四部分類を導入した人ですよね。それに引き換え和キョウには著書があったのかどうかも定かでない・・・。
とまれさらに勉強する機会を与えてくださったあやめさまには大変感謝しております。
85伯昏無人:2001/02/11(日) 23:50
>>84
読みづらい文面になって大変もうしわけありません・・・。
(送信する前にちゃんと推敲すべきでした)
私の誤読・誤解などがあればぜひご批正くださいませ。
86あやめ:2001/02/12(月) 15:25
>伯昏無人さん
>いい加減な言説を暗に批判(仕返し?)したというのはうがった見方でしょうか?
なるほど何かそんな気もしますよね、どうしてこんな部分だけ引用したのかな?って
疑問はちらっと頭を掠めてたことも事実です。支那の文人はかなりハイテクな手段を
弄しますから、大いに有り得たことかもね。
>宮中の蔵書目録に初めて四部分類を導入した人
そうなんですね。荀勗はそれまでの七録系の外に新分類を創始した点で、目録学上画
期的な業績を有する人物として記憶に値します。そして唐の「隋書-經籍志」と「開元
四部録」に至って四部分類法は確立されたわけで、今日までその影響が及んでいると
言ってよいでしょう。ただ汲冢の書は一括して丁部に収められてしまったようですが。
>和キョウには著書があったのかどうかも定かでない
「晉書」に欠けている「經籍(または藝文)志」を輯補するものとしては、清の丁國鈞
・文廷式・秦榮光・呉士鑑・黄逢元の著述があり「二十五史補編」に収められていま
す。一応ざっとですが和キョウの撰書が著録されていないかチェックしてみましたが、
遂に一つも見当たりませんでした。彼の経歴からして有って然るべきものかと思いま
すが、所詮は荀勗と比較できる才能のない人だったのでしょう。
72>王國維の研究もそろそろ出揃っていても良いような気がしますが
ということなのでgoogleで「王國維」をサーチしてみましたが、圧倒的に多いのは彼
の文学方面の業績についてのもので「人間詞話」に対する関心が特に際立っています。
史学については「東方学報(京都)」第61冊「王國維の學風を論ず―經史子集の革命的
轉換―」という12年も前の論文くらいしかヒットしませんでした。この筆者の井波陵
一という方は律子さんのお身内なんでしょうか?

話は全く違いますけどハンドルネームは「列子」から取られたように想いますが、ど
んな思い入れが篭められてるのかしら?
87あやめ:2001/02/12(月) 17:11
ところで大抵の本には汲冢の盗掘犯人を「不準」という名の人物として
います。これは「晉書」の記載に由来するものですが「不準」というの
も変ななまえですよね。先ず「不」が姓なのか名の一部なのかという問
題があります。姓氏事典を引くと「不」という姓の人物として「不準」
と後秦の姚興の臣で「不蒙世」という人物がいるそうで、出典としては
「通志」の「氏族略」を挙げています。「通志」は引っ張り出しにくい
とこに入りこんじゃってるのでチェックはネグりますが、「不蒙」とい
う二字姓がありますので多分誤解でしょう。つまり「不」という珍しい
姓のサンプルは不準さんしか存在しないということになり、なんだかこ
の説は心許ない気がしてきます。
そこでこの人物は姓は持ってなかったか伝わらなかったかということで、
「不準」は2字の名だという理解が浮上してきます。古代の庶民が全て
姓を持っていたかどうか、漢代には禁止されていた二字の名が実際はい
つから不問にされるようになったか、色々な疑問は棚揚げにしときます。
「不」を名の一部とする例は少なくありません。申不害とか直不疑とか
常見の命名ですが、このような否定字を使用する場合は下の文字が悪い
意味であるのが普通です。例えば霍去病だとか長孫無忌だとかいったよ
うにわざわざ不吉な字を使って、これを否定することによりおめでたい
意味を強調するわけです。では「準」はどうかというと否定されなけれ
ばならない意味は格別ないようです。「平」とか「均」とか「法」とか
「直」とか、字書に出ているのは頗る結構な意味ばかりです。
88あやめ:2001/02/12(月) 17:12
ということでこの際「不準」は姓名と無関係だと敢えていっちゃいます。
「準」は「準備」の準です。元来「隼」と同源の「狙いを定める」とい
うニュアンスを負った字のようです。つまり「不準」とは「はからずも」
という意味で「晉書」の記述に用いられたもので、固有名詞ではないの
ではないかと考えます。氏名不詳の汲冢の盗掘者はこんな文化財が出て
くるとは全く予想もせず、専ら通俗的お宝狙いが目的で犯行に及んだも
のでしょう。そのような事情が「不準掘魏襄王冢、得竹簡……」という
表現になったのではないか?
こんな下らないテーマで妄説を発表したのはあやめが最初でしょうね。
今後この説に追従する研究者は必ずあやめの著作権を尊重するように(爆)
まあ語法的にはちょっと問題があるかなと自覚はしてますけどね。
89伯昏無人:2001/02/12(月) 20:45
あやめさま。
和キョウの著書や王國維研究についてのフォロー、ありがとうございます。
私の恩師のひとりが「王國維は研究に値する立派な学者です」
と授業でおっしゃってたことがあったので気になっておりましたが、
意外とまとまった研究はまだ出てないんですね。
中国・台湾に目を向ければもっといろいろ出てきそうな気もしますが・・・。
かれの伝記を書いた人がいても良さそうですよね。
日本の中国学とも少なからず縁のある方ですし。

井波陵一先生といえば、
『紅樓夢』に関する研究がいくつかあったように思いますが、
たしかに律子先生と関係が深そうですね。
でも私は身内の方かどうかまでは存じませんの、
でどなたかフォローしていただける方がいらっしゃれば・・・。

えっとハンドルネームの「伯昏無人」は『莊子』コ充符から取りました。
あやめさんのあげてくださった『列子』のほかにも『莊子』の外篇や雑篇など
あちこちに出てくる人のようですね。
いえ、特に思い入れはないんですよ。名無史さんというのもさびしかったので、
非実在人物の宝庫の『莊子』をぱらぱらっとめくったら、
鄭の子産・申徒嘉の師匠の伯昏無人という者がおりまして、
春秋時代を扱うこのスレッドに丁度いいかと思って名を借りました。
実在人物ではないとはいえ、今にして思えば子産や列子の師なんて
不遜もいいところですね。醜男の哀駘它にでもしとけばよかったかな。
(かれはかれですごくもてる男なわけですが・・・笑)
良ければ何か適当なお名前をつけていただけるとうれしいのですが(あつかましい?)。
90伯昏無人:2001/02/12(月) 20:49
>>88 あやめさま。
>この際「不準」は姓名と無関係だと敢えていっちゃいます。

あ!!と思いました・・・該当の『晋書』束皙伝は、

 初め、太康二年、汲郡の人、準らずも魏の襄王の墓,或いは安釐王の冢と言える,
 を盜發し、竹書數十車を得たり。

と読めるわけですね。たしかに他の『晋書』の項をいくつか参照しても、

 武帝太康元年,汲郡盜發六國時魏襄王冢,亦得玉律.
 汲郡盜發六國時魏襄王冢,得古周時玉律及鍾、磬,與新律聲韵闇同.
 (以上『晋書』律暦上)
 太康元年,汲縣人盜發魏襄王冢,得策書十餘萬言.(『晋書』衛恒伝)

汲郡で盗掘された、あるいは汲郡の人が〜を盗掘したというのみで、
盗掘犯の名前は出てきてませんよね。たしかに名前だと断定できる根拠も
ないような気がしてきました。
ただしその場合、あやめさまが語法を気になさっているように
「不準」は「竹書」の前にあった方が良いように思いますが・・・。

ところで、『北史』許善心伝には以下のようなくだりがあります。

 梁室交喪、墳籍銷盡。冢壁皆殘、不準無所盜。帷嚢同毀、陳農何以求。

漢の成帝のときに天下に逸書を求めた陳農と対句になるところですから、
この文章ではあきらかに「不準」は人名として取られてますよね。

つい少し前、最後まで自分の名を名乗らなかった窃盗犯か何かがニュースなどで
取り上げられていたように思いますが、もしかすると「不準」はその家族が連座
を免れるために告げた偽名、あるいは名乗らないので勝手に適当な名前をつけて
しまったものかもしれません。これこそ臆説ですけど、当らずしも遠からずかなぁ
と思わなくもありません。根拠が見つかればいいんですけど。
91伯昏無人:2001/02/12(月) 20:55
あ、また省略されてしまいました。すみません・・・。
92世界@名無史さん:2001/02/13(火) 13:27
>>39
>平勢=吉本論争、興味あるねぇ。
>立命館の吉本さんは、もうダメみたいね。

平勢さんの方が完全に無視されている気がするぞ。
もはや、人外な領域に突入しつつある。
平勢紀年・・・(ふう

93押しえて君:2001/02/13(火) 15:47
平勢説って、結局のところ、正しいの?間違ってるの?
94世界@名無史さん:2001/02/13(火) 18:57
正しさ以前の問題なんだよ。
95あやめ:2001/02/13(火) 18:57
>伯昏無人さん
「北史」までは目が届きませんでした、恐れ入りました

「竹書」の発現に言及している「晉書」の記載もう一つ気が付きました。「王接傳」
に「秘書丞の衛恒は汲冢の書を考正していたが完成せずに害に遭ってしまった。佐著
作郎の束皙はこれを継いで完成したが多くの事実について異説を考証した。そのとき
東莱太守であった陳留の王庭堅もこれを批判して考証するところがあった。皙も反論
したが庭堅はやがて亡くなった。散騎侍郎の潘滔は王接に『あなたは才学理議とも両
氏の紛論を解決できるはずだ、論じてみられてはどうか』と言ったので接は両者の説
の得失を詳論した」とあります。「束皙傳」の直ぐ後にあったのにうっかりしてまし
た。当時の学者たちにとって「竹書」の出現はエキサイティングな出来事だったんで
すね。
衛恒は惠帝の元康元年に父の衛カン(權の木偏を玉偏に代える)とともに楚王イ(玉偏
に韋)に殺されています。衛カンは魏が蜀を滅ぼしたとき監軍として成都に在り、遠
征した将軍のケ艾と鍾會の確執に乗じ両方殺してしまった人です。また書道の方でも
有名です。
96あやめ:2001/02/13(火) 19:49
>94
「正しさ以前の問題」って言いえてますね。何かアイデアがアイデアを呼んで止まん
なくなっちゃってるつーか。
例えば衛が大分あとまで存続してるのは確かに誰しも最初は不思議に思います。そこ
で平勢さんは例の「立年称元法」説を考え出してウリにしてるわけですが、衛は何も
サンマリノがイタリアで孤立してるみたいに、ぐるっと秦の領土に囲まれて栄光ある
独立を維持してたわけではないようです。衛は諸国が王を称している中で号を貶して
「君」としており魏の保護国同然でした。楊寛の「戦国史」(上海人民出版社刊)は魏
の安釐王二十五年に衛は事実上滅亡し、魏の附庸国になってしまったと説いておりま
すが、この方がよほど説得力があります。秦の国内に多くの封君が存在していたこと
は顕著な事実で、それは秦の統一状態にとって少しも否定的な様相とは言えないもの
で、少しも理解不能な現象ではないと思われます。平勢さんのように立年法の適用で
無理に滅亡年次を繰り上げる必要はないと考えています。
97世界@名無史さん:2001/02/13(火) 20:07
>>93
説の一部は事実であり、正しい。が、彼独自の仮説によるところも大きいので
検証や批判が必要・・・なのだが、あまりにも面倒で複雑な平勢ワールドを構築
しちゃってるので、大抵の研究者の手に余る・・・というのが現状じゃない?
先秦史・秦漢史あたりを研究してるひとは無視したくても、紀年などという
根本的な問題を扱っているために避けては通れない。頭を痛めながら、彼の
著書や論文を読んでることだろう。
98あぼーん:あぼーん
あぼーん
99あぼーん:あぼーん
あぼーん
100あぼーん:あぼーん
あぼーん
101あぼーん:あぼーん
あぼーん
102世界@名無史さん:2001/02/13(火) 21:14
>>98-101
負け犬め
103世界@名無史さん:2001/02/13(火) 21:36
「荒らし」ってなに?

長文や意味を持たない文字列やアスキーアートなどをコピー&ペー
ストして、掲示板の使い勝手を悪くさせてしまう行為一般の総称で
す。
特定の個人を示す情報、度の過ぎた差別発言、むやみに不必要なス
レッドを上げること、執拗な煽りや叩きなども荒らしとみなされる
場合があります。平たく言えば、他人に迷惑が掛かる書きこみはア
ウトってことです。。。

荒らし行為に遭遇した場合は、諌めたり挑発したりなど、むやみに
対抗しないようにお願いします。特に荒らしを煽るのは逆効果です。
荒らしに反応したらあなたも荒らしかも。。。


★ ワンポイント
度がすぎる荒らし行為は追いこみを掛けるなど、強硬な態度で臨む
こともあります。以上、http://www.2ch.net/guide/faq.html#C5より
104あぼーん:あぼーん
あぼーん
105世界@名無史さん:2001/02/18(日) 00:24
ちょっと素晴らしいスレッドなのであげましょう
106世界@名無史さん:2001/02/22(木) 03:43
ほう。
あやめは殷周革命の年代については
平勢に代表される竹書紀年にもとづく引き下げ説より
白川静を評価するのか。
すこし感動した。
107世界@名無史さん:2001/03/29(木) 19:04
あげちゃうよん
108日本@名無史さん:2001/03/29(木) 19:20
平勢なんてアホじゃん。
109世界@名無史さん:2001/03/29(木) 21:38
あやめさんて何者?
ものすごい見識ですね。どこかの院生かな。
学問できていいですね。羨ましい。
僕もこの時代に興味は持っているものの小説に域を出ない者です。
ところでこの時代、北はてき、南は蛮、東は夷、西は戎と大雑把に異民族を呼んでますが一体どんな民族だったのでしょう。
他のスレで質問箱があったので質問したけど誰も触れやしない。
結構大きな勢力みたいですね。
ちなみに僕は「刑書を鋳る」をした先見性と勇気ある子産が好きです。
110あやめ:2001/03/29(木) 23:33
いえいえ、わたしは単なる歴史オタクです。院生どころか大学も出ていません。
小太りで黒ぶちめがねを掛けているので、外見もオタクですよ。春秋戦国時代
は一番好きですけれど。民族という概念は、近代以降の発生概念なので、前近代
では使わないほうが無難な用語かもしれません。テキ(獣偏に火)などの存在は
よくわかっていないというのが現状でしょう。
111院生:2001/03/30(金) 00:38
>>109

古代の異民族については、分からないことが多いです。
現代の少数民族のルーツ探しでは、名称だけでも宋代
どまりです。ですから、それ以前については史書の少
ない、しかもバイアスがかかった記述しかないので、
実状は分かりかねるのです。

民族概念はたしかにあやめさんの言うとおりでしょう。
ただ当時の民族概念を明らかにすることは、きちんと
した研究の対象になります。
112名無しさん:2001/03/30(金) 01:34
あやめさんて小太りめがねなのか……。
ショック。
113名無し:2001/03/30(金) 04:12
>>112
どこかのスレで、30才過ぎと
あやめ自ら告白してたよ。
あ、ごめん。とどめ刺しちゃった?
114世界@名無史さん:2001/03/30(金) 08:24
崔杼が好きだ。この人はマイナーだろうか。
115世界@名無史さん:2001/03/30(金) 09:39
>>113
どーせ2ちゃんなんだし年齢を気にする法が珍しい。
さすがに小学生相手にしたときには引いたけどね。
116世界@名無史さん:2001/03/30(金) 10:21
>>114
横恋慕主君殺し
117あやめ:2001/03/30(金) 10:58
110は偽あやめです、最近になって急に偽者が出没するようになりました。
もっとも「小太りで黒ぶちめがねを掛けているので、外見もオタクです
よ」の部分を除くと間違ったことは書いてませんけどね。めがねはお仕事
と外出のとき使用しますけど黒縁なんてダサいのじゃないわよ。
近いうちにHPをアップロードの予定で、写真も1枚だけ付けます。
118あやめ:2001/03/30(金) 11:56
あと「春秋戦国時代は一番好き」ってわけでもありません、あの辺は宮城
谷さんにオマカセしときましょう。面白い時代と思ってるのは唐の憲宗の
治世で、天子・廷臣・宦官・藩鎮いりみだれて権謀術策のダイナミズム。ス
パイありテロあり剣侠あり説士あり、無いのはお色気だけかな?福森都さん
あたりもうちょっとお勉強して小説にしたらとか思ってます、あの人せっか
く進奏院を舞台にした作品かいてるのに材料を活かしてないわ。
春秋戦国と無関係だったわね、御免。
119名無し:2001/03/31(土) 02:22
最近、あやめの文章にどことなく
驕りが感じられる。前はほんとに
謙虚だったのに!
120:2001/03/31(土) 02:42
>>110
95点てなとこかな。
句読点の使い方がもちょっと。
よく研究してるねえ。
121名無しのオプ:2001/03/31(土) 02:50
>>119
110ではなく、118のあやめこそ
偽者かもしれん。たしかに118は、
どことなくあやめっぽくない「イヤラシサ」
を感じるのだが!?
122世界@名無史さん:2001/03/31(土) 10:40
院生さんわかりやすい回答ありがとうございます。
先秦時代は中華の威光に従わない部族の記録など殆んどしなかったようですね。
どこぞの何々を討った程度。目のいろはだの色風習など爵位を授けられていない部族は人間じゃないから知る必要も無かったのか。
新石器の彩陶など西方との強いつながりが見られると聞きました。漢人西来説もあるようですね。
民族の移動交流は砂漠化が進んでいない当時の方が盛んだったかも知れませんね。
記録に残るには中華の王に認められるかどうか。呉越という巨大な部族も突然出現しますね。
それにしてもどうして呉越の製鉄だけが鋳鉄でなく鍛鉄なんだろう。呉王夫差の剣は見事ですね。
日本が刀剣が鍛鉄なのはその影響があるのかなぁ
周辺民族の研究がもっと進めばいいですね。
偽あやめさんまででるのかぁ。すごいね。
高校しか出てないというのが本当だったら嬉しかったのに。
僕は専門学校どまりのアホだから。
学歴低くても見識は広がるといういい見本だと思ったんだけど,残念。

123あやめ:2001/03/31(土) 11:47
ほんとに高校しか出てませんよ、父と学部の選択で喧嘩してフテ腐って
某お役所に就職しちゃったの。大学出なかったため語学の方がまるっき
りダメです、自慢になることじゃないけどね。この話は去年ファンクラ
ブのスレに書いたことあるけど、無くなっちゃったから結構いいかげん
な情報が飛び交うようになっちゃったみたい。
110はホントのニセ者(変な表現)です、118はいやらしくても(どのへん
が?)本物のあやめです。
124世界@名無史さん:2001/03/31(土) 13:55
122です。高校しかというのはほんとなんですね。勇気でます。
でももともとは優秀な方のようですね。その辺が俺と違う。
しかし、ファンクラブとは・・
ネットの世界は恐ろしい。
125世界@名無史さん:2001/03/31(土) 13:58


    彡川川川三三三ミ〜
    川|川/  \|〜 プゥ〜ン
   ‖|‖ ◎---◎|〜        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  川川‖    3  ヽ〜       おれのプライバシーを
  川川   ∴)д(∴)〜        暴くのはやめろ!
  川川      〜 /〜 カタカタカタ  \___________
  川川‖    〜 /‖  _____
  川川川川___/‖  |   | ̄ ̄\ \
   /   サヨ童 \__|  |    | ̄ ̄|
   /  \___ 貞     |  |    |__|
  | \      |つ    |__|__/ /
  /     ̄ ̄  | ̄ ̄ ̄ ̄|  〔 ̄ ̄〕
 |  ヒキコモリ   
126世界@名無史さん:2001/03/31(土) 15:27
人方(殷代)→東夷・九夷(西周期)→淮夷(春秋期)
127世界@名無史さん:2001/03/31(土) 20:01
何を根拠に継続しているとみるのでしょう。
考古学的に文化の連続を確認できるのですか。
128:2001/03/31(土) 20:24
・・・「あやめ不安クラブ」てなスレッド立てよかな
良かれ悪しかれ,情報への偉大なポインタ、生けるgooお姉さま、
あやめ殿が自分のHP作って2chから去ることへの不安を語るスレッド。

>>127話の腰おってごめん
129名無し:2001/04/01(日) 00:47
あやめさん、去らないで!
130世界@名無史さん:2001/04/01(日) 03:26
確かに、126さんその流れの詳しい説明お願いします。
あやめさん去るの?
131あやめ:2001/04/01(日) 07:32
さりません!
132世界@名無史さん:2001/04/01(日) 22:02
孫武の兵法書と孫ピンの兵法書(どこかの陵墓から出てきたんですよね)どう違います。
133元祖アヤメ:2001/04/02(月) 02:27
私の方が、あやめや偽アヤメより、よっぽどホンモノよ!
何せ「元祖」なんだから。
134神祖あやめ:2001/04/02(月) 02:41
実は私のほうがエライのよん。
135李密:2001/04/02(月) 02:52
>132さん

えっと、どう違うと言うからには「書いた人が違う」なんて
答えが欲しいわけではないですよね(汗)

内容的には孫武の兵法書は
攻撃よりも迎撃を主体とした思想であるように読めました。
テーマとするなら「自国の保全・余裕を持っての強国化」でしょうか。
敵国の制圧などにはほとんど触れていないあたりが
それを表していると思います。
城攻めについてもやむを得ない時しかやろうとはしてません。
ちなみに、曹操が手を加えた魏武注孫子では
「情勢が有利なら攻めろ」と、攻撃重視傾向にあります。

孫ピン兵法では、何よりも勝つことを主眼においているように読めました。
孫子にはなかった、陣形について詳しく述べた項目もあり、
「戦争に勝つ」ということをテーマにしているようです。
無論、無理をすることを説いているわけでもないですが、
何より損害を嫌った孫武に比べて、城攻めを積極的に行っている
孫ピンの兵法は全体的に攻撃的に感じられました。

攻城兵器の発達など、周囲の状況の変化もあるのでしょうが、
少なくとも(私の読解力が破滅的でも)
同じようなことを書いてるということはないです。

もっとも、銀雀山漢墓から出土した孫子兵法と孫ピン兵法は
欠落してる部分も多いので(大意は取れるくらい)
完璧な形で読めるのは魏武注孫子だけなんですが……。
136世界@名無史さん:2001/04/02(月) 03:07
>>133 >>134
ツマラン。いっそのこと、あやめを一個の称号として、世界史板の強者に授ける
というのはどうか。李密あやめとか。・・・いやかも。
137あやめ:2001/04/02(月) 11:31
>136
いやです!
そう言えば女流将棋に「倉敷藤花」ってタイトルがあるわね、林葉直子
さんや清水市代さんとかがゲットしてます。名人・王将・棋聖とかなら判
るけど何で藤の花が?
138宋襄の仁:2001/04/02(月) 11:43
>>50-52
五覇 / ごは
1 孟子:斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王
2 荀子:斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践
『名数辞典』http://www.genki-town.co.jp/rural/meisu/number/005.html より
139世界@名無史さん:2001/04/02(月) 11:52
五覇についてはその他にも呉王夫差を数えるバージョンもあったはず。
だから実際は8人いるんだな。
140世界@名無史さん:2001/04/02(月) 11:52
>>135
攻城兵器の発達で思想が変わったという点、
クラウゼビッツの論が機関銃の登場で一時崩壊したのに近く思われ。
141李密:2001/04/02(月) 17:08
ぐぬ、春秋戦國という面白いスレッドをこのまま下げさせるわけには……
あげ……と、ついでに。

>122
>それにしてもどうして呉越の製鉄だけが鋳鉄でなく鍛鉄なんだろう。
>呉王夫差の剣は見事ですね。
>日本が刀剣が鍛鉄なのはその影響があるのかなぁ

日本のお米の起源の1つは江南種である話を聞いたような。
何か関係あるんですかね。
142世界@名無史さん:2001/04/02(月) 19:14
呉越が滅ぼされてその一族が日本に流れ着いて豪族になった。
そんなことも考えられるかな。
殷が滅ぼされて殷の王族である箕子の族が朝鮮に国を立てたという伝説もあるし。
日本の秦氏の事もあるし。ちょっと妄想ですか?
143世界@名無史さん:2001/04/02(月) 20:21
鄭の昭公を殺した人物の名を教えて
144世界@名無史さん:2001/04/02(月) 20:30
そろそろ「本家あやめ」も出てくる頃だな
145高渠弥:2001/04/02(月) 20:45
>>143
誰もが知っている検索エンジンで、誰もが思いつくであろう
「鄭」「昭公」「殺害」による検索を行ったところ、

公子忽<曼伯>→鄭・昭公-こうし こつ<まんぱく>→てい・しょうこう-
http://www.google.com/search?q=cache:www.ne.jp/asahi/keiroku/homepege/jinnbuturoku-sita.htm+%93A%81%40%8F%BA%8C%F6%81%40%8EE%8AQ&hl=ja
鄭・荘公の公子、後に鄭の昭公となる。
 公子時代、周王に人質交換要員として送られ、後に陳との講和の為、氏を妻に迎える。戦争も上手く、BC718、対衛、燕戦。BC707、周王との戦い等で活躍。又、BC706、北戎に攻められる斉へ援軍として赴き大戦果を上げる等の手柄がある。人間的にも、この時、斉の文姜<ブンキョウ>との縁談持ち上がるが、礼に反するという理由で断る等、中々のものである。
 BC701年、荘公の後を継ぎ、即位するが、卿の祭足の後押しで、公子突(?詞?)が、即位しそうになると、衛に亡命する。その後、?詞?が祭足、暗殺に失敗し、亡命を図ると再び国に呼び戻されるが卿の高渠弥により弑される。
146145:2001/04/02(月) 20:48
147世界@名無史さん:2001/04/02(月) 20:48
>>142
>呉越が滅ぼされてその一族が日本に流れ着いて豪族になった。

それは推古天皇の時に帰化したという松野連(まつののむらじ)ですね。
呉王夫差の子孫と称していた。

>殷が滅ぼされて殷の王族である箕子の族が朝鮮に国を立てたという伝説もあるし。

たしかに箕子朝鮮の件は伝説なんだけど、遼寧省客刺心左翼自治旗(漢代の右北平郡の域内)
の発掘で西周期の「箕侯」の存在は確認されているね。燕の属国で弱小な存在だったようだが。
ちなみに麻田連(あさだのむらじ)っていうのは朝鮮王箕準の子孫と称していましたね。

>日本の秦氏の事もあるし。ちょっと妄想ですか?

それは仮に事実だったとしても春秋戦国とは時代がちがうのでわ。
148世界@名無史さん:2001/04/02(月) 21:37
春秋戦国もいいけど五胡十六国スレッドがないのは淋しいね。
149世界@名無史さん:2001/04/02(月) 21:45
>>145
鄭の昭公は女の為に身を滅ぼしたって詩があるんだけど
どう言う事か分る?
150名無しさん:2001/04/03(火) 02:43
あやめは氏にました。
151かきつばた:2001/04/03(火) 03:29
>150
あやめは死にません。何度でも何度でもよみがえるのデス。
すでに豊富な人材が名乗りを挙げています。

 ・控えのあやめたち
   偽アヤメ
   元祖アヤメ
   神祖あやめ
   本家あやめ
 

いずれ
 あやめか
  かきつばた

dも、アタシのほうが、あやめよりも、よっぽど本物のあやめなのよ。
152名無しさん:2001/04/03(火) 04:02
>>151
オオイニワラタ。
153世界@名無史さん:2001/04/03(火) 18:10
age
154世界@名無史さん:2001/04/03(火) 21:11
あやめたん、あやめたん…ハァハァ
155名無しさん:2001/04/04(水) 01:06
あやめ来ないな。
156世界@名無史さん:2001/04/04(水) 08:49
李密さんどうもありがとう。
147さん例えで出したので怒らないで。
でもなぜ呉越の製鉄方法が違うのか・・
鋳鉄の鉄板みたいな刀剣より鋼の刀剣の方が絶対有利。
作るのに手間暇かかるけどね。
呉越独特なのかそれとも別ルートでその技術が伝わったのか。いったいどこから?
李密さん知りません?

あやめさんもうここに書き込まないほうがいいのでは。
なんだかなぁ。偽者は出てくるし。
あやめさんがもともと優秀でお父さんと揉めて大学行かなかったのは解りました。
おそらくお父さんも優秀な方なのでしょう。
環境がいいからそんなに見識を広めることが出来たのですか。
田舎の図書館ではいい本は無いし、注文しようにも高いし。
知りたいという欲求はあるけどなかなか・・
どのように研究なされてるのですか。
文庫で『春秋左氏伝』、 『戦国策』、『史記』などは読めると思いますが。
王国威の論文なんて大学いかなければお目にかかれるものではないと思うのですが。
ごっつい図書館にでも通っていらっしゃるのですか。高校出なのに不思議です。
今から大学には行くきないのですか。
作家か何か目指していらっしゃる気がするのですが。


157名無しのオプ:2001/04/04(水) 09:23
>>56

人間、知りたいという欲求があれば、
いつでもどこでも学ぶことが出来る。
             スコット・ユーリー
158世界@名無史さん:2001/04/04(水) 10:35
鍛鉄も稲作も挑戦半島から伝わりました。
全ての文化は挑戦半島が発祥の地です。
159世界@名無史さん:2001/04/04(水) 19:50
嘘ばっか。
160世界@名無史さん:2001/04/06(金) 10:58
信陵君は実際どんな人物だったろう。漢の劉邦も大ファンだったみたい。
軍事は上手かったし、人望もあった。
でも、魏軍を手に入れるため晋ピ将軍を殺したり、秦の謀略もあったかもしれんが2度も国王に干されてる。
あれだけ実績あってなんで?彼自身にも何か問題あったのか。
161李密:2001/04/09(月) 05:39
>156
>呉越独特なのかそれとも別ルートでその技術が伝わったのか。いったいどこから?
李密さん知りません?

うーむ。製鉄技術で最古を争うのがオリエントのヒッタイトと
ダマスカス鋼のインドですよね。
まあ、ヒッタイトは地域的にも離れすぎですし、呉越は
中央アジアの遊牧民のルートからも外れているのでまず除外。
(遊牧民のルートにある秦が遅くまで青銅を主体に戦っていたという話を聞いたような。)

インドから、というのは可能性はなくはないですが。
でもどこかから伝わったと考えるより、呉越独特と考えた方が
無理がないと思いますがいかがでしょう。

ちなみに資料は最後の手段としては、
中国の博物館や研究院系のサイトをあたってみることでしょう。
台湾研究院(だったかな?)なんかは結構行ってる人が多いみたいです。
とりあえず数人の知り合いの強者は通ってるそうです。
もちろん、漢文を白文で読むなんてのはかなり怪しい読解になってしまいますが……
162世界@名無史さん:2001/04/12(木) 02:54
趙の李牧と楚の項燕は戦国末期における抗秦の名将として有名です。
この2人については如何ですか?
163世界@名無史さん:2001/04/14(土) 23:14
156です。いろいろありがとうございます。
中国の南方の文明は青銅器も独自に製作したという話を聞きました。
北方にデザインも輸出したともトウテツ紋は長江流域が発祥だと聞きました。
鉄を産出する場所も多いし、楚も鉄を大生産していたとか。
古くから金属加工においては南が先進だったのかな。

164世界@名無史さん:2001/04/14(土) 23:23
楚の項燕は項羽の祖先ですよね。李牧はよく知りません。
誰か詳しい解説を。魏公子無忌についてもお願い。
165世界@名無史さん:2001/05/31(木) 23:37
上げても良い?
166世界@名無史さん:2001/06/01(金) 00:36
>>160
それだけ実績があったから干された。
実績と人気のある公子など王にとっては、
煙たい存在。王位奪われたらタマランから。

漢高祖が尊敬したというのは、地位を捨てて、
趙を救った行動とその後、恨みを忘れて魏を
守った行動が侠と考えられた為。

ていうか、誰も聞いてねえか。
167世界@名無史さん:2001/06/07(木) 01:47
いや聞いてるよ。少なくとも漏れは。
168世界@名無史さん:2001/06/07(木) 16:09
俺も聞いてる(゚д゚)ウマー
169田中洸人:2001/06/08(金) 07:32
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/3422/mat11.htm
夏は冬よりも太陽から遠いことがわかります。
170世界@名無史さん:2001/06/09(土) 03:24
あのころの音楽に疑問があります。正しい音楽と間違った音楽の違いです。
どう違うんでしょう。淫と悪く言われても、その音楽のファンの人がハァハァ
しながら聴いていたわけじゃないでしょう。そのへんどうなんでしょう。
171世界@名無史さん:2001/06/09(土) 03:46
単に、恋愛をテーマにした素朴な歌だったというぐらいで、儒者からは
淫よばわりさ。
172世界@名無史さん:2001/06/09(土) 04:23
>>171
そういうことは無いと思いますよ。詩経の中にも恋愛の
詩はありますから。
>>170
古式に乗っ取らず、律音を用いない音楽が淫(よこしまな)
音楽とされたのではないでしょうか。
クラッシック好きがロック好きを否定するのとよく似た
感じだと思われます。

もちろん、そういった音楽を真っ先に否定したのは孔子
ですが(ワラ)
173世界@名無史さん:2001/06/20(水) 23:50
論語に出てくる、孔子が嫌った音楽って「鄭声」とか「衛声」とかのこと?
なんだか、ジャズとかパンクみたいなものだって説をみたような気がするが。
174賈自記:2001/06/21(木) 18:20
>>173
鄭も衛も文明の先進地、文化も退廃していて、相対的に退廃した音楽であったらしい。
晋の平公がそれを好んで叔向とかに諫められたという話もあるが、平公は「もっと悲しい曲を」とか言ったらしいから、感情が全面に出されていたのではないでしょうか?

>>162
項燕らを輩出した項氏は素性が不明。項氏に限らず、楚の貴族は屈氏以外が全く不明。

>>160、164
信陵君は魏王の異母弟で、なまじ出来が良かっただけに敬遠されたというのが定説。
信陵君自身も似たような境遇の孟嘗君の生涯を知っているから、魏で干されてからは世捨て人同然になってしまったらしい。

>>149
鄭の昭公は太子だった頃、斉の僖公の娘との縁談を2度にわたり蹴り、同情的だった宰相の祭仲(祭足)に「後ろ盾を得られるのに」と諫められている。それではないだろうか?
>>145にあるように、縁談を蹴られた斉の僖公の娘とは、少なくとも一人は後に魯で騒動を起こした文姜であるという説が有力だが真偽は不明。

>>138-139
元々何人もいた実力者を、五行説の影響で強引に5人に絞り込んだだけであるので、色々な人がそれぞれの考え方で評価をしており、幾つかの説が出てくる。
それらには決まって、鄭の荘公(昭公の父)が含まれていないのも不思議。
「覇者」というが、当事者がそれを意識していたかどうかも不明。
175賈自記:2001/06/21(木) 20:10
>>166
先に記述してありましたね、スマソ。
劉邦は個人的に尊敬していたようで、大梁に廟を守らせたと史記に記載されています。
楽毅については子孫に触れているのに、信陵君については子孫のことを書いてないから、孟嘗君と同じで子孫は絶えたのでしょうか?
信陵君の食客に張耳がいたらしく、その張耳も劉邦は尊敬していたようです。
始皇帝暗殺未遂事件もあり、時代が時代であったというのもあるでしょうが、一番は劉邦の嗜好でしょう。
176世界@名無史さん:2001/07/11(水) 05:25
呉越が滅ぼされてその一族が日本に流れ着いて豪族になった。
そんなことも考えられるかな。
殷が滅ぼされて殷の王族である箕子の族が朝鮮に国を立てたという伝説もあるし。
日本の秦氏の事もあるし。ちょっと妄想ですか?
177世界@名無史さん:2001/07/12(木) 01:26
「筥(ホントはくさかんむりに呂)」は楚に滅ぼされた後、
ずっと楚の版図にあったんですか?
178世界@名無史さん:2001/07/29(日) 22:55
>>176
呉王夫差の子孫→松野連(まつののむらじ)
朝鮮王箕準(箕子の子孫)の子孫→麻田連(あさだのむらじ)
なんてのがあるね。
証明するのは無理だろうけど、妄想とも思わない。
179世界@名無史さん:2001/08/18(土) 03:35
保存sage
180世界@名無史さん:2001/08/23(木) 06:11
あれ? なんでさがる? そんなに人気ないかね?
181世界@名無史さん:2001/08/23(木) 16:46
魏文侯
「俺は古楽を聴くと眠くなるが、鄭・衛の楽を聴くと全然あきない。どうしよう」

どうしようって相談されても、どうしようもないよなあ。
自分は聴きもしない古楽を子供におしつけた君主がたくさんとみた。
182世界@名無史さん:01/08/31 13:13 ID:RRaGGEEg
素人質問ですみません。
夫差と勾践が争っていた頃の人物像について。
伍封という名の人物は存在していたでしょうか?伍子胥の身内かなぁ、
と想像はできるのですが、いくつか資料をあたってみても見当たらな
いもので・・・
それからもう一人。王孫惟という名の人物は存在したでしょうか?
183世界@名無史さん:01/08/31 15:56 ID:0XWW8c/E
>>182
少なくとも伍子胥とはそれほど関係ないと思うが。。。?
184梵阿弥
紀とか杞とかの國はどうなったのですか。紀氏は朝鮮との関わりが深かったそうですが。