1 :
世界@名無史さん:
もし戦っていたらどちらがわが勝っていたと思う?
そんなもんわかるわけありません。
3 :
世界@名無史さん:2000/11/02(木) 02:30
某所より抜粋
「チムールは…武器、兵糧をはこぶために騎兵一人について、
それぞれ10人ずつの輸卒をつけさせた。
穀物数千荷は軍用車ではこばれたが、これは道すがら種子をまいて
帰路の兵糧に供するためであった。
なお、さらに7年間をささえるに足る乾草飼料を用意し、
そのほか各人が乳牛二頭、乳羊10頭ずつをたずさえて、
途中の食糧の欠乏にそなえることにした。」
(中央公論社、『世界の歴史9』)
ティムールは明のどこまで攻めるつもりだったんだろう?
西域征服?それとも中国全土の制覇?
でもこのときティムールは70歳くらいだったんだよね。
4 :
世界@名無史さん:2000/11/02(木) 02:40
年代記には「カタイに遠征」と書いてあるんだって。
それを根拠にカタイは中国ではなくてモンゴル高原のこと、
と解して北元崩壊で混乱するモンゴル勢力を統合しに向ったのだ、
というモンゴル史の本を読んだことある。
まあ、モンゴル高原の先は中国なのだが・・・
5 :
名無しさん@1周年:2000/11/02(木) 02:51
チムール帝国と明ってどっちが広いの?
軍隊はチムールの方が強そうだな。
でも経済力が続かないだろう、チムール側は・・・
6 :
カタイ:2000/11/02(木) 11:32
>>4 カタイ=契丹
キャセイ航空というのもあります。ここでのキャセイは中国の別称です。
7 :
ZZZ:2000/11/02(木) 12:42
>4
そう、モンゴルと北京って近いからね。
つうか永楽帝もよくこんな北によった首都にしたよね。
もうちょっと南で北京は前線基地にした方がよかったんでは?
8 :
世界@名無史さん:2000/11/02(木) 17:23
>7
でも永楽帝は自分自身でモンゴルに親征したよね。
あと靖難の変のあとで建文帝派の人間を処刑しまくったので、
南京の人間の反感をかったらしいから、
それが理由じゃないかな。
9 :
世界@名無史さん:2000/11/02(木) 18:05
>そう、モンゴルと北京って近いからね。
>つうか永楽帝もよくこんな北によった首都にしたよね。
>でも永楽帝は自分自身でモンゴルに親征したよね。
かつてはシナを支配しただけで全人類の君主「天子」を自称できたが、モンゴル帝国による世界制覇の後は、中華思想における観念上の枠組みの上でもシナを制圧するだけでは、「天下」の主とは名乗り得なくなったため。
永楽帝にとって、潜称という引け目なく「天子」を称しうるためには、モンゴル高原の制圧は不可欠だった。
足利義満が朝貢して日本国王の冊封を受けたことは、モンゴル帝国の最盛期のセチェン・ハーン(フビライ)を越えたという自己満足を永楽帝にもたらした。
北京は、シナでは北端にあたるが、シナ+モンゴルと考えれば、中央に位置する。かつて存在し(元朝)、永楽が目指すありうべき世界帝国の都としてはこの位置が適当。
10 :
世界@名無史さん:2000/11/02(木) 18:55
あと単純に燕王時代の本拠地だからっつうのもあったんでないの?
ところで、鄭和艦隊の遠征は西方世界の威力偵察の意味も
あったという話があるが…
11 :
4:2000/11/03(金) 03:10
う〜ん、モンゴル研究者よりの見方をすれば、と一応全面的賛成には留保するけど
ティムールと永楽帝はともにモンゴル帝国の後継者を目指して
モンゴル高原と華北の覇権を争うところ、未遂に終わった・・・ということかな。
結局「北元」を継いだのはオイラートのエセンだったわけだけど。
12 :
void:2000/11/03(金) 15:29
>10
でしょうね。>7のかたもおっしゃってますが、敵地の南京はイヤだ!で。
>11のかたがおっしゃるように、本拠地兼前線基地として北京を選んだ、と。
うーん、なんてわかりやすい説明だ。
13 :
世界@名無史さん:2000/11/03(金) 20:09
>12
それはいいんだけど結局どっちが勝つかって本題に結論がつかないですね。(笑)
14 :
名無しさん@1周年:2000/11/06(月) 03:00
話は変わるけど1401年に足利義満が使者を送った相手って
永楽帝?建文帝?
ちょうど靖難の変の最中なんだよね・・・
15 :
>14:2000/11/07(火) 18:35
永楽帝の即位年(=永楽元年)が1403年だから、建文帝じゃないかな。
たしか永楽帝は君側の奸を除く(靖難)という名目で挙兵している手前、
建文帝が死亡する(行方不明になる)まで帝位に就けなかったんだし。
16 :
戦争ゲームおたく:2000/11/07(火) 19:02
>1
戦術的には場所や時期などの要素も有るけど
チムールのほうが騎兵戦力で勝ってるのかな。
補給も充実してたそうだし。
しかし、支那を征服するのは
支那の国力が低下してないと
人口、経済力の差と補給線の長さがでて無理でショ。
17 :
void:2000/11/07(火) 20:02
でしょうね。モンゴルでさえ数十年ほどかかってるわけですから。
で、1回勝負ならどうかな?五分五分ってところかな。
18 :
世界@名無史さん:2000/11/13(月) 12:42
チムールが東方を目指さなかったら当然西方の拡張へとなって
オスマントルコを潰していた.....このほうが世界史的には面白そう。
19 :
>18:2000/11/13(月) 19:08
潰してる。
20 :
ゲームセンター名無し:2000/11/13(月) 23:07
んだんだ それでビザンツ帝国の余命が幾ばくかのびたわけだし。
21 :
日本@名無史さん:2000/11/14(火) 00:42
オスマンは永楽帝と結ぶだろ。
バヤジットだっけ?憤死したの。
22 :
こいつもすごいぞ:2000/11/15(水) 00:45
“電光”バヤズィット 1354〜1403
1389 在陣中父の死を知るや否や、共に戦っていた弟達を皆殺しにしてベイとなる。
1396 ニコポリス十字軍を破りバルカン半島支配を確立、スルタンとなる。
1402 アンカラでティムールを迎え撃ち敗北、捕虜となる。
1403 屈辱に耐え切れず、憤死。
同時代にティムールがいなけりゃ偉大なスルタンとして名を残せただろうにね。
23 :
世界@名無史さん:2000/11/15(水) 15:29
ニコポリスの功績は充分偉大と評せるだろう。
オスマン朝はバヤジット一代で一挙に拡大しているし、
崩壊した帝国ものち二代で建て直り、曾孫メフメト2世を迎えている。
急速に拡大しすぎたオスマン朝はここで一息付いて後退することで
かえって安定した支配を確立できたのだ、という見方もできるんじゃないかな。
>22
スルタンを最初に名乗ったのはバヤジット1世ってことですか?
初めて聞いた話なので、出典教えて下さい〜。
やっぱりエジプトのカリフに認めてもらったのかな。
24 :
22:2000/11/18(土) 23:31
25 :
23:2000/11/19(日) 01:06
>24
ありがとうございます。
詳しい本…あるのかなぁ…
簡単に手に入る日本語の概説書で、
スルタンの称号がいつからかなんて話は見た事ないもので。
26 :
あやめ:2000/11/19(日) 12:19
オスマン朝君主は当初は他のガーズィ国家同様ベイを称していました。
ただムラト1世はイズニク所在のニリュフェル-イマレット碑文中でス
ルタンの称号で呼ばれているそうです。実質的にはバヤズィト1世がニ
コポリスでハンガリア王ジギスムント率いる十字軍を破った1396A.D.以
後、「スルタン-イ-イクリミ-ルーム」と号してからのようです。ただし
その後もベイ号も併用していたそうです。なおムラトもバヤズィトもモ
ンゴル風のハーン号をも称しています。また史書などではイラン風にパ
ディシャーの呼称も用いられています。以上の情報は三橋富治男著「オス
マン-トルコ史論」(吉川弘文館刊)から得ました。
27 :
あやめ:2000/11/19(日) 12:32
鈴木董著「オスマン帝国」(講談社現代新書)にはスルタン号はニコポリス
におけるクリスト教徒に対する勝利により、カイロのアッバース朝カリフ
から許されたものとオスマン史書は伝えていると記述しています。
28 :
22:2000/11/20(月) 01:54
>あやめ
サンキュっす。
でもハーン号を名乗る根拠なんてあるんすかね…
29 :
23:
あやめさんありがとうございます。
そっか、鈴木董さんが紹介してたか…<カリフ云々
オスマン史書って15世紀前半のメフメト2世時代以降に書かれたのしか残ってないんで、
メフメト以前のものは多少は眉唾なんですけどね。
>また史書などではイラン風にパディシャーの呼称も用いられています。
現代トルコではオスマン帝国スルタンのことは一括して「パディシャー」と呼ぶようです。
>でもハーン号を名乗る根拠なんてあるんすかね…
まあ、オスマン家はもともとトルコ系遊牧民族の氏族長だったらしいから。
シャーとハーンを併用して名乗る例もあったはず(スレイマン・シャー・ハーンとか)。