Louis-Charles@` dit Louis XVII..
別スレでルイ17世の謎は解決などと書いてしまったけど、 最近の事情がわかったのでまとめておくのだ。
まず、おさらいである。 ルイ17世の謎:ルイ17世(Louis-Charles Bourbon) 1785年3月27日、出生。父ルイ16世、母マリーアントワネット。 1789年6月4日、兄Louis-Joseph病死。王位継承者となる。 1792年8月13日、王家一族とともにタンプル塔に幽閉される。7歳。 1793年1月21日、ルイ16世処刑。 1793年7月3日、母から引き離され、独房に移される。 1793年10月16日、マリーアントワネット処刑 1794年1月30日 ルイ17世の独房を”封印”。 1795年6月8日 独房の少年が病死。 1795年6月9日 検死。医師Pelletan、心臓を盗む。 少年の死去直後から、死亡した少年は実はすり返られた別人であり、ルイ17世は脱出したのだという噂が流れた。 一番の根拠は、検死報告による死んだ少年の特徴・体格がルイ17世とは明らかに異なるというものである。また、王政復古後に掘り起こされた遺骨は15,6歳の少年のものである鑑定され(ルイ17世は10歳)、噂に拍車をかけた。当時ルイ17世を奪還しようという試みが実際にあったこと、革命政府内にも彼の脱出を画策したものがあったこと、タンプル塔での不可解な幽閉、看守・医師などの証言から、脱出説はそれなりの根拠があるものとされてきた。 19世紀には、われこそはルイ17世なりという怪しげな人物が何人も出現する。その中でも、1833年パリに現れたプロシアの時計屋Karl Wilhelm Naundorffは、一部の王族や歴史家もルイ17世であると認めるほどの成功を博した。彼はイギリス、ついでオランダに追放され、1845年Delftで死亡した。彼の一族は現在でも王位継承権を主張している。 単純明快に言うと、「ルイ17世の謎」は次の2つの疑問に要約できる。 1)ルイ17世は1795年6月8日タンプル等で死んだのか 2)Naundorffはルイ17世なのか これらを「最終的に」解明したのが1993年から2000年に渡りおこなわれたDNA鑑定である。
1993年、ベルギーLouvain大学人間遺伝子センターのCassiman教授とフランNantes大学のPascal教授はNaundorffとマリーアントワネットのDNA鑑定に着手した。鑑定は細胞内ミトコンドリアのDNAを比較するもので、細胞核のDNAに比べ数が多いので標本が古くても鑑定が可能だ。その反面、このDNAは母から子にしか遺伝しないという制約がある。 Naundorff側の標本は、1950年に採取されたNaundroffの遺骨である。対するマリーアントワネット側の標本は、マリーアントワネットと二人の姉妹(Maria-JosephaとJohanna-Gabriela)の毛髪である。これらの毛髪はオーストリアの修道院に保管されていた、アントワネットの母マリア・テレジアのメダイヨンの中から発見された。検定のため、ハプスブルグ家の子孫Anne de RoumanieとAndre de Bourbon-Palmeの毛髪も用いられた。 結果は1998年6月2日European Journal of Human Geneticsに公表された。NaundroffとマリーアントワネットのDNAは何ら相関を示さなかった。 これで疑問2)は解明された。 予想どうりNaundroffは偽者だったのである。
Naundorff偽者確定で勢いを得たのが「死亡派」歴史家Delormeである。彼はスペイン・ブルボン家Alphonsoを王位継承者と主張する「正統王統派」Bauffremont公と接触し、1795年6月8日タンプル塔で死んだ少年が確かにルイ17世であったことを証明しようとした。Beauffremont公は1795年6月8日タンプルで死んだ少年の「心臓」を所有していたのである。この「心臓」のDNA鑑定を、先のDNA鑑定をおこなったベルギーLouvain大学Cassiman教授とドイツMunster大学Brinkmann教授に依頼したのである。 1975年以来サン・ドニ聖堂に保管されていた「心臓」は1999年12月15日、クリスタルの容器から取り出され、4つのサンプルが採取された。サンプルは2つのプラスチック容器に封印され、Louvain大学とMunster大学に送付された。 結果は2000年4月19日に大々的に公表された。両大学の鑑定結果は完全に一致していた。「心臓」とマリーアントワネットのDNAには明白な相関が認められたのである。週刊誌はのきなみ特集記事を組み、通信社が世界にニュースを配信した。 疑問1)も解決された。ルイ17世は確かにタンプル塔で死んでいたのである。
もちろん Naundorff側は納得などしない。 納得するなら電波とは言えないのである。
1998年の鑑定に対しては、鑑定に使われたNaundorffの遺骨の真贋を問題にしている。問題の遺骨は1950年、砒素の検査をおこなうためにDelft市にあるNaundorffの墓を掘り起こして採取したものである(当時Naundorff毒殺説がはやっていた)。以来、行方不明になっていたが1993年突然現れ、DNA鑑定に使われたのである。Naundorff側はNaundorffの遺骨の再収拾、タンプルで死去した少年の遺骸の再発掘とマリーアントワネットの遺骸の再発掘を主張しているが関係各当局から完全に無視されている。
2000年の鑑定に対しては特に「心臓」の真贋を問題にしているようだ。
●鑑定に使われた「心臓」の由来があまりに荒唐無稽であり、1795年Pelletan医師が盗み出した心臓かどうか疑わしい。
●1894年に撮影されている「心臓」と鑑定に使われた「心臓」の形状・保存方法が異なり、すり返られた可能性がある。
●1789年6月病死したルイ17世の兄Louis-Josephの心臓がサンドニ聖堂に保存されていたが、現在行方不明であり、これが鑑定に使われた可能性がある。
●米NASAチーム、1995年の鑑定にも関わったナント大のチームが無料鑑定を申し出たにも関わらず、「正統王統派」は5万フランをだして別チームに鑑定をおこなわせている。
現在、Naundorff側の立場は苦しい。牙城「ルイ17世協会」のホームページ
http://www.louis-XVII.com も力がなく、「好きなだけわめけ、真実は一つだ」などと捨て台詞めいた文章が掲載されている。Naundorff側の主張はことごとく打ち破られ、もう後がないように見える。
しかし、こと2000年鑑定に関しては、鑑定材料を最初から確保し鑑定そのものを主導した「正統王統派」にも怪しげな匂いがぷんぷん漂ってくるのである。
確かに、2000年鑑定に使われた「心臓」の由来は思わずニコニコしてしまうほど「怪し」い。
以下がDNA鑑定に使われた「心臓」の公式な経歴である。 1795年6月9日、医師Philippe-Jean Pelletan医師はタンプル塔に呼び出される。前日死んだ「タンプル塔の少年」の検死のためであった。彼は少年の心臓を盗む。同僚が目を離したスキに、心臓を切り取りハンカチにつつみポケットにいれたのだ。自宅に帰ったPelletanは心臓をesprit-du-vin(酒精と訳すのだろうか?要はアルコール)で浸したクリスタルの容器にいれ、棚に飾っておいた。 10年ほどたって気づいてみるとアルコールは蒸発してしまい、心臓はひからびてミイラ化していた。Pelletanは心臓を机の引き出しに放り入れる。1810年ころ、心臓は消えていた。盗まれていたのである。 盗んだのはPelletanの弟子Tillosであった。Tillosは数年後病死したが、心臓をPelletanに返却するよう遺言する。未亡人が心臓を返却する。Pelletanはクリスタルの容器を作らせ、心臓を封入する。 1815年、王政復古。Pelletanはルイ18世に心臓を返そうとするが、会ってもくれない。第二王政復古時代にはMarie-Thereseに渡そうとするが拒否される。 しょうがないので1828年、Pelletanはパリ大司教Hyacinthe-Louis Quelenに仲介を頼み、Quelenに心臓を預ける。大司教はMarie-Thereseに心臓を渡そうとするがやはり拒否される。Quelenは司教館の倉庫に心臓を保管する。1829年Pelletan医師は死去。意思は息子Philippe-Gabriel Pelletanに引き継がれる。 1830年7月、7月革命。7月29日パリは炎上し、司教館は暴徒の略奪を受ける。Pelletanの友人で印刷工のLescroartが心臓を守ろうとするが、暴徒ともみ合いになり、容器が割れて心臓は行方不明となる。8月5日、パリは平静を取り戻し、Pelletanの息子とLescroartは、司教館略奪の残骸が集められていた空き地を捜索、砂に埋もれていた心臓と容器の破片を奇跡的に発見。(「アルコールの匂いがしたのでそれとわかった」らしい。)Pelletanは割れた容器と同様の容器を作らせ、心臓と古い容器の破片をともに封入する。 1879年、Pelletanは心臓を友人の建築家Prosper Deschampsに贈る。同年Pelletanが死去、経緯は定かではないが、Pelletanの遺言により心臓はEdouard Dumontなる人物にわたる。1895年、Dumontは心臓をUrbain de Mailleに渡す。Urbainはブルボン家マドリッド公Carlosの代理人であり、ようやく心臓がブルボン家の手に戻ったのである。 第二次世界大戦。心臓はまず秘密裏にベニスに運ばれ、最終的にウィーン近郊Frohsdorf城の礼拝堂に落ち着く。1975年、Carlosの孫娘Massimo姉妹は心臓をBeauffremont公に引き渡し、彼は心臓をサンドニ聖堂のフランス王納骨堂に保管した。 この、ひからびてミイラ化し、石のように硬い心臓から外科用ドリルでサンプルが採取され、そこに含まれていたミトコンドリアのDNAがマリーアントワネットのものと相関を示したのである。
明確な形で根拠を挙げることはできないが、これは立派な「電波系」おとぎばなしである。このような話が実は真実だった例を る は知らない。 第一この話の構造は電波Naundorff-Anastasia-Hauser-Yoshitsuneのヨタ話と驚くほど似ているではないか。 正統性の象徴が抹殺される寸前に何者かの助けを借りて危機を脱し、放浪の旅にでる。波乱万丈の冒険大活劇の末、彼は再発見され、正統性が維持されるのだ。 もしこの話の最後にDNA鑑定という科学的な装いがなければ、桐生操ですらまともに取り上げないに違いない。「事実は小説よりも奇なり」というが、それにも程度があろう。 Naundorffは偽者だろうし(というか、Naundorff派以外でそう信じてる奴がいたのか?)ルイ17世はタンプル塔で確かに死んだのだろう。「正統王統派」が心臓を取り替えたとは思わないが、2000年鑑定をそのまま受け入れることは難しいように思える。理系人間として、これまでDNA鑑定とかは信じがちであったが、このヨタ話を信じるくらいならDNA鑑定を疑うほうが理にかなってるように思える。ちなみに、1998年鑑定は学術雑誌に詳細が公表されたが、2000年鑑定は鑑定の性格もあり、詳細は公表されないらしい(未確認)。 Naundorff派はそう簡単に諦めないだろうし、「正統王統派」がなにかボロを出すかもしれない。いずれにしろ、論争は続くであろう。怪しげな話マニアにとっては喜ばしい限りである。
10 :
る :2000/10/29(日) 21:03
PS 司教館が略奪にあい、心臓が一時行方不明になった時期を 1831年7月とする資料もあるようだ。でもそうすると、7月革命は 関係なくなってしまう。いろいろな報道が何を 根拠にしているかわからないので、検証のしようがない。 幾多の資料を矛盾のないように読み解くと −恐ろしいことだがー 行方不明になったのは1930年7月29日、砂の中から再発見されたのが 1931年8月5日ということになってしまう。
11 :
世界@名無史さん :2000/10/29(日) 23:34
長文ご苦労様です。 パチパチ
12 :
世界@名無史さん :2000/10/29(日) 23:53
>怪しげな話マニアにとっては喜ばしい限りである。 いやもう本当に。 まだまだ「衝撃の新事実」が出てきそうな雰囲気があるのが嬉しいねえ。
13 :
マニエ :2000/11/01(水) 02:30
ご苦労さんage
14 :
世界@名無史さん :2000/11/01(水) 15:28
あげ
15 :
ありそう :
2000/11/01(水) 21:15 桐生操著「王家の心臓」白水社 2400円